脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

高知のボクシングジムMTオリーヴボクシングクラブの日記 11月29日

2010-11-29 | Weblog
今日は休み明けでかなり忙しい1日でした。
今日も女性のマスが多数あり、大学のサークルのような雰囲気な中、みなさん真剣に練習していました。
最近またさらに女性が増えてきました。ダイエットの方が多いのですが、みなさん徐々に成果を上げて来ています。
ここでのダイエットのKEYワードは筋肉づくりです。筋肉と言っても体のかたちをつくるための筋肉づくりで、以前モムチャンダイエットの例にもあげましたが、特に30歳を過ぎるとわかりますが、確かにボクシングの練習は、ある程度脂肪を燃焼させる働きがあるので、効果がありますが、しかし本当にプロポーションをよく見せるためには、ある程度筋トレが不可欠です。
汗を流して脂肪をおとすだけのエクササイズでは不十分です。
正直ボクシングの練習時間を減らすと言うようなやり方で、体力年齢をあわせても意味がありません。
体づくりという意味で、どういう運動をどれだけやればいいかと言うことで、体力や年齢をあわせなくては、意味はなく効果的な運動ができないのです。
よくここではダイエットのみなさんが同じようなことをやっていますが、しかしこの同じことも目的や体力、年齢によって回数や体の負担のかけ方が違います。
筋肉量が上がって基礎代謝があがれば、ある程度負担をかけ、なるべく美しくなれるよう、効果的に、今のところ体に支障もなく、効果的にみなさん練習できていると思います。

何やら忘年会の動きがあります。えっこの前親睦会をやったばかりじゃないかと思うのですが、親睦会が楽しかったので是非やろうと言うことになり、計画しているらしいです。
たぶん今からだと実際金曜土曜の予約はかなり厳しいので、難しいと思いますが、とにかくもし決まれば早めに掲示します。

オリーヴは最近よくこういう声がでますが、しかしこれらは決して仲のいい軍団が集まってというようなことではなく、まわりの要請をうけて宴会部長がひきうけてくれていることですので、ご了承ください。
宴会部長は非常に公平で、信頼できる人です。

土曜日は試合のため練習はありませんのでご了承ください。

会員の方のご厚意でサーヴァーをかりることができました。
これでオリーヴだけの会員ページができます。
マスの様子や練習風景そして英語やフランス語関係はこのサーヴァーから見れますので、会員はパスワードをもらい自分のオリジナルの動画のページを持つこともできます。
たぶん今はかなり忙しいので、実際見れるのは年明けですが、なるべくはやく整えたいと思っています。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シティーホールにて

2010-11-29 | Weblog
今日役場に留学生の外国人登録をしに行ったのだが(と言っても自分ではないが)、そのかえり、少し近くにいた女性が、私のことを外国人と思ったのだろうか「あなた日本語がお上手ですね」と言われたのだが、これにはいささか笑ってしまった。
公共の施設に行って時々感じることであるが、じばしばこういう公共施設で話していて、職員だろうか、人を呼ぶ時に「あなた」と呼ぶ人がいる。
しかしこれは失礼だ、何度かこういう感じで呼ばれたことがあるのだが、正直不快である。
そもそも「あなた」という言葉を人にたやすくつかうだろうか?
韓国語にもタンシ(あなた)と言う言葉があるのだが、これはめったに人に対して使わない言葉であるが、それはダイレクトにあなたというと言葉の性質上ぞんざいだからで、これは日本語とて同じことではないだろうか。
余談だがこれを読んでいる人には、韓流ファンが多いので、向こうのことを引用させてもらうが、Kpopを聞くと時々クデという言葉がでてくる。このクデと言う言葉もあなたという意味である。
しかしこのクデという言葉は話言葉ではなく、書き言葉のあなたと言う意味で、こういう書き言葉の時に、クデという言葉を使うと言うことからも、あなたと言う言葉を直接語ることが憚るべきことであるということが理解できるのである。
あと時々聞くのが人の名前を聞く時に「何さんですか?」と聞く人間がいる。
本人はていねいに聞いているつもりでも、こういう聞き方は非常にぞんざいで、英語で言えば「Who are you?」「お前は何者だ」と言っているようで、これも非常にいただけない言葉で、人に名前を聞く時に使うべき言葉ではないことは確かである。

オリーヴでは言葉に気をつけると言っているが、こういう言葉だけでも不快に思うことはあるからで、特に初対面の人間には日本語と言うのは非常にデリケートな言葉であるから、気をつけて使わなければ、相手を不快にさせてしまうことがあるので注意している。
少し前EQという言葉が話題になった。このEQと言うのは簡単に言えば対人能力というのだろうか、この対人能力が高ければ高い程、社会でうまくやっていけるらしい。
言葉と言うのも対人能力をはかる一つの手段である。おそらく「あなた」と言ったり「何さんですか」と人に名前の聞き方もわからない人は、日本語の基礎学力が低いと言われても仕方がないことであろう。
こういうことを言っているのだが、私自身日本語に自信がない。それは外国人にはっきりとわかりにくいと言われたからで、何がわかりにくいのかわからないが、たぶん文法と言うものをきっちりと理解していないから、結果的にそうなると思っているのだが、そう言われてから辞書を持ち歩き、これはいいと思われる文、小説などを見るようにしている。

話は自分の話に戻るが、私はここにいても時々外国人に間違えられ、うちの留学生も言っていたのだが、私は一般的な日本人とはどことなく違うそうで、確かに顔から見てアジア人なのだが、しかしはたしてこの人はどこの国に属するのかわからないそうだ。
韓国に旅行に行った人は、経験があるのだと思うが、よく韓国では人に道を聞かれる。それは日本人とて同じことであるが、道を聞かれて「あっ俺こっちの人間に見えるのか」なんて言う人もいるが、しかしそれは違う、向こうの人間から見れば、日本人はわかる。なのになぜ道を聞くかと言うと、彼ら彼女らがあまりにきやすく人にものをたずねるからで、手当たりしだい道を聞いているからそうなるのである。
よくむこうに何ヶ月か住んでいると、まったく知らないおやじやおばさんからどなられることがあるのだが、所謂、人と人との距離が近く、若者が間違っているとはっきりだめだと言える、そういうことをはっきり言ってよい社会である。
しかし私は道を聞かれない、なぜ聞かれないのかと友達に聞くと何ものかわからないオーラがでているそうで、ある意味話しかけにくいそうである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学的思考が集団を左右する。

2010-11-26 | Weblog

以前言葉改革ということをあげたことがある。
すなわちこういうコミュニティの質を上げていくには、指導する人間がどういう言葉を使うかと言うことが大事で、指導する人間がそれなりに言葉を学び、選んで話さなかったら、そのコミュニティの質を上げていくことができない、すなわち社会人が安心して楽しく練習することができないと言うことだ。

これはここに入会した人によく言われることなので言うが、「ここに来ている人は、みんな大人で気持ちがいい」というようなことをよく言われる。
ある会社で人事を担当している人に、私にここを入会させるのあたって、何か人選でもしてるのかと聞かれたのだが、多くの人は社会的にも人間的にもレヴェルが高いと私は信じているのだが、こういう人たちがいるおかげで、ここの秩序が正しく守られていると理解している。
人間が集まる集団には知性は不可欠である。
これは私自身のポリシーであるが、指導者が知性を磨かなければその集団の質を上げることはできないと思っているのだが、質を上げると言うことは、そのコミュニティがいかに会員たちにとって益となり癒される場であるかと言うことであり、このことを求めるためには、公共性やコモンセンス、そして平等性と言うものを考えていくための知性が必要であるということである。
おそらく仲間意識で集まるような人間は、自分たちにとっての居心地しか考えていないので、公共性やコモンセンスについて語っても理解できない、理解できないから情や勢いであつまるのである。

昔ある体育会の人間にこう言ったことがある。
彼はあいさつとか礼儀にうるさい人間で、よくあいさつは基本だとか、礼儀がなっていないと言うことをよく言うので、「君たちの言う礼儀は普遍的なものではない、君たちのは狭いヒエラルキー、独自のルールであって、所謂公共的とは言い難い」ということを言ったのだが、その時さすがにそういうことを言われて、自分の礼儀が否定されたと理解したのだろう、なぐりかかってくるかの勢いで、語気を荒げて反論してきたのだが、しかしもともと語彙が少なく、言葉が乏しいので(あいさつは基本だと言う前に国語の基本をしっかりさせろと思うのだが)いろいろ私に論駁され、最終的には「あなたのは理屈だ、あなたの考えはおれは認めない」などと、俺は認めないと言うことが私の意見を正しいかそうでないかということを決定づける判断であったのだろうか、そう言いきって話は終わったのだが、だいたい物事をきちんと考える訓練ができていないとしょせんこんなものだ、いらいらしたのか、たぶん自分の許容範囲を超えていたのであろう。最終的には俺はこう、俺だという意見だ。
そう考えると集団をまとめていくには、いかに物事を深く考えることが必要かということが理解できるのだが、公共のクラブと言うと場は、いろいろな立場の人がいるので、公共性や、コモンセンス、そして会員全体の益をまず優先に考えなくてはならず、「俺はこう」ではいけない。
たぶんこういう奴について行っても、親分子分の関係や礼儀と言うオウンルールを強いられるだけ、中高生ならまだしも、大人がこういう考えについていくことはできないし、得るものはない。
そういうことにおちいらないためにも、きちんと物事を研鑽し何が正しいかということを深く理解しなくてはならないのだが、そのためにある種の哲学的思考で物事を考える能力が大事なのである。

しかしここで哲学と言う言葉を述べたが、時々持論を語ることが哲学だと勘違いしている奴がいるが、そうではない。
この男にしてもそうだ、日ごろから俺はそのスポーツについては自分の哲学をもっているということを語っていたが、しかしそういうことを言う割には、まず言葉を知らなさすぎで、たぶん普遍性とか公共性と言うことも、話の内容から理解できてはいなかったのであろう、だから最終的には俺はとなるのである。
私が言う哲学とは客観的にこのコミュニティーを観察し、そしてその公共性やコモンセンス、そして会員の益を求めるための哲学と言ってもいいが、それはある意味社会学にもつながることである。
実際ここで語学を教えたり、私自身もいろいろと学んでいるわけであるが、そういう公共性とかコモンセンスとかというものを本当にここに浸透させるには、所謂親分子分や先輩後輩の関係からなる集団ではなくて、ひとりびとりが個性を持って考えていくことができる人たちが必要であるからで、当然そういう理解をするには理知的でなくてはならないからだ。
えらそうなことを言うが、私はもし本当にここが会員にとって癒しの場となり、活力を得る場としたいならば、こういうことを深く考えていかなくてはならないと思っている。

ちなみに私は子供に体育会が言うような礼儀を語ることはない。
そもそも礼儀って何のだろうか、それを考えていくと儒教までさかのぼるのだが、私の見解では儒教と言うのは非常に関係の狭い社会を作り出す。やくざの任侠や親分子分の関係なんていうのもある意味儒教的である。
体育会社会がやくざと同じような縦社会であることに誰も疑問をもたないのだろうか、こういうヒエラルキーを礼儀正しいなどと考えること自体不思議である。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリーヴの子供たち

2010-11-24 | Weblog
前回いじめについて少し書いたが、ここ最近そういう子供やあるいは親の相談を受けることが多くなってきている。
ここでは特にいじめやひきこもりについて取り組みをしきているわけではないのだが、しかしそれでもホームページ見たんですけどというような感じで、相談に来たり、実際ここに入会してくるのだが、私自身そのことでいろいろと頭を悩ませている。
私自身特にいじめられていた経験はないし、ドロップアウトした経験もない、しかしひとりの親としてここに来て実際その子供が傷つき、ぼろぼろになった姿を見れば、同じ人間としてそして子供を持つ親としてこのままではいけないと思ってさえしまう。
世の中にアンテナを張ればわかることであるが、最近こういうアマチュアのスポーツクラブはこういう子供たちをケアしていく役割を担う必要があることに気づかされる。
学校もだめ、友達もつくることができないので、せめてスポーツでもはじめたらと、わらをもすがるつもりで、このボクシングクラブに入ってきたと思うのだが、そういう子供たちをケアしていく必要性を感じなくては、にぶいやつだと思われても仕方がない
であろう。

今やこういうアマチュアクラブの指導者は、いじめやひきこもりなどに向き合う姿勢を見せなくてはいけないと言うのが、私の考えだが、しかし向き合う姿勢と言っても、ただ単にボクシングやスポーツをやらせておけばいいというような問題でもないし、また「にげるな」とか「向かって行け」と言うような、昔にありがちな姿勢ではだめだ。
時々そういうことを全面的に出して指導するのがいるが、しかしこういうことを言うのは、根本的に今のいじめにたいしてまともにむきあっていないからで、自分たちがそれを取り巻く社会を意識しているならば、こういう発言は配慮に欠ける発言であることがわかるであろう。
もしそういう役割を担わなくてはならないと言う必要性があるならば(と言うか、必要性があるのだが)たくさんのことを学んで、門を開かなければならないというのが私の意見で、もしそういうことが理解できているならば、こういう発言はでてこないはずである。
オリーヴにいたっては、あいさつの義務もない、人間関係に傷ついて来ているのに、あいさつを義務化してしまうと躓きの原因になるというのが理由だ。
ただあいさつはこちらがにっこりと微笑んであいさつすれば、彼ら彼女らもそうするようになる。
ここではまず高学年が低学年にあいさつする光景がよく見られるが、それはよく偉そうな監督が言う「自分は選手をしつけているとか指導している」というようなレヴェルではなく、彼ら彼女らが、大人からそういう体験を得ているからである。
いい選手をそだてるのも大事であるが、しかしこういうことに無関心で、何も学んでいないと言うのは、どうだろうか?
あたりまえだが、新聞やニュースなどを見ていたら、そう言う問題がいかに深刻かと言うことが見えてくるだろう。しかし何も感じない関心がないと言うのは、見えていないわけであって、せめて新聞でもきちんと読めばそういう問題が見えてくるのだろうが、運動しかしたことがないのでそういうことに関心がないのだろうか、こういうスポーツクラブの指導者が、新聞や本を読むことは、半ば義務であると思っている。

ここオリーヴにはいろいろな子供たちが在籍している。中には深く傷ついた子供もいるのだが、そう言う子供に偉そうに自分の武勇伝や成功談を語って、にげずにたたかえなんていうことを促しても意味はない。むしろ追い詰めてしまうことさえもある。
ただ私ができることは、個を大切にするということ、自分たちが理解し、関係をつくっていくと言うことで、その関係をつくっていく時に必要なことをひとつひとつクリアしていくのである。
幸いなことにここには多くの信頼できる人たちがいるので、そういう人たちの中で関係を築いていくことは、彼ら彼女らにとって貴重な体験で、何かをつかんだり、変えたりできるおおきなきっかけとなっていることは確かである。
ある人は配慮しながら、そしてまたある人は素で、マスをやったり、ミットを持ってくれ、少ししんどそうにするとがんばれもう一ラウンドなどと激を飛ばしてくれる。私は注意深くそれを見ているのだが、みなさんただ単に同情だけでかかわってくれているのではなく、本当に彼ら彼女らの個性を大切にし、平等に向き合って接してくれているのがわかるのである。
私はこういう取り組みを特にしていないのだが、しかしそういう相談が多く、このクラブに子供たちを引き入れることができるのは、私自身に力があるのではない、このコミュニティーが信頼でき、安心できるコミュニティーであるからだ。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知のボクシングジムMTオリーヴボクシングクラブの日記 11月22日

2010-11-22 | Weblog
今日は休み前とあって かなり忙しかったです。女性が多く今日も女王様を何組かすることができました。
一般的に脂肪を燃焼させるには20分ぐらいの運動が必要だと言われていますが、これには個人差と運動の仕方が問題で、なわとびが効果的だと思っています。
これは目安ですが、基礎代謝が高い人は運動をしはじめると比較的体がすぐにあつくなり、汗をかきはじめますが、これは脂肪が燃焼してきたということです。
これと同じようになわとびをとぶと、すぐに体があつくなってくるので、その脂肪を燃焼させるウオーミングアップとしては最適だと思っています。
なわとびは最初かなりしんどいですが、こつをつかめば楽になり、ウオーミングアップ程度の練習で汗をかき始めるには言い運動になりますので、それまで多少しんどいけどペースをつかむためがんばってください。

ダイエットの効果がすぐにあらわれない人は、実際運動が十分にできていないからです。
これはどういうことを言うかというと簡単に言えば力の出し方がわからない、ということでこれは運動経験のない人に多いです。
オリーヴには運動経験がない人が多く在籍しているので見ていてよくわかるのですが、運動経験のまったくないという人は実際力を使うことができないので、練習をしていてもつかれることがないです。
本人はなまけているつもりはないのですが、しかしもともとそういう運動をしてきてない状態をを長く続けているので、力の出し方がわからないのです。
改善策としては筋トレを時間刻みでやってもらっています。時間刻みでやるとはやくやらなくてはいけないので、ペースがはやくなり力が入るようになります。
ここでは何人かの人が最近そういうかたちでレッスンしていますが、練習のかいあってかかなり汗をかきはじめ、ペースがつかめた人もいます。最初のうちはなかなか効果は出ませんが、徐々に練習してペースをつかめば効果が表れてくるでしょう。

ダイエットの相談はいつでもどうぞ。興味がある人はメールか電話でお願いします。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリーヴは一歩派

2010-11-22 | Weblog
オリーヴは社会人中心のクラブであるが、しかし高校生未満の子供も多く在籍している。
特に何か働きかけをしているわけではないのだが、意外とそう言う子供たちが大人に混ざって練習しているが、中には今は立ち直って見えないが、もといじめられっ子や不登校、そして現在いじめられている子供や、不登校の子供も在籍している。
私はいじめられた経験はないのだが、しかしその子供たちがここに来た時、傷つきぼろぼろになった顔を見ているので、正直いじめにたいしては怒りさえも覚えるものである。
私がなぜ運動部の体質を嫌っているかというのは、独特の価値観を持ち、集団性が強いからで、その集団性がいじめや疎外感を生み出すひとつの原因だと思っているからである。
「あいさつしろ」とか「練習しなかったら他のものに迷惑だ、相手に対して失礼だ」こういう言葉は、おそらくよく耳にする言葉であるが、当然この言葉は死にものぐるいで練習しろと言うことで、特にあいさつしろというのは、だれが決めたのか彼ら彼女らでは人生の基本になっている。
しかし私はここであいさつすることがいけないとか、練習するなといっているのではない、例えば彼ら彼女らの言うあいさつとは独特のルールであって、あいさつしたからと言って、あいさつしない人間をきつく裁く体質が問題で、それらは単に勢いでいっているのだろうが、しかしここでもし監督が練習しない人間やあいさつできない人間をダメだ、邪魔な奴とみなすとみんながそういう目で見てしまう、そこが集団の恐ろしいところで、たしかにあいさつするのはいいことであるが、しかし問題はこういうある人間の価値観や、狭い軍団の価値観で物事のよし悪しが判断されることが問題だと言っているのだ。

スポーツと言うのはフラットな関係を築くことができる唯一の交流の場である。
そこには何ら拘束されるものはなく、自由に競技をエンジョイすることができる。そういう権利を競技者は持っていることをまず第一に考えなくてはならない。
まだここではスポーツが十分に一般化できていないが、しかしスポーツはそういう命懸けでやるものだけのものでもないし、そういう人間に遠慮しながら競技すべきものでもないのだが、しかし強いかどうかわからないが、一部の人間が独特の雰囲気をもって幅をきかせている姿は、昔みんなが遊びたいのに、砂場を占領して牛耳るガキ大将の軍団のように思えて仕方がない。
これはよく言うことだが、前にある軍団が試合に勝ったのに、堂々とうちの選手の前で監督にすみませんとあやまっていたが、ああいうパフォーマンスができるのは、自分たちは特別だと考えるからで、もしこっちがその態度に何か言うと、お前らは真剣にやっていないとでもいうのだろうが、とにかくここでは命懸けで競技すると言うパフォーマンスを見せればいいのである。

今やスポーツは年齢や性別、そして目的を越えて様々な人が競技している時代だ、そういう中で競技者はこうだと決めつけて指導していくことには、かなり無理があると思っている。
ある人間が、なぜここオリーヴがいごこちがいいかということを言っていたが、彼が言うにはここは、多様性を認めるからで「個」という存在を認めてくれるからであると言っていたが、スポーツと言うのはもともと集団性をやしなうものではなく「個」を養う場ではないのか。
基本的にいろいろな考え方や目的の者がお互いを尊重し合うわけであって、そこで親分子分のヒエラルキーやグループや派閥ができるということ自体ちゃんちゃらおかしいことなのである。
個を養うと言っても何も難しいことではない、ここで考えているのは、先輩後輩のヒエラルキーは存在しない、仲間やグループの存在を認めない、個人の目的を尊重し、言葉に気をつけるということである。
特に言葉に気をつけると言うのは、持論を語らず、公共性を考え、勢いだけで発言しないと言うことであるが、ここにはいじめられたりしている子供がいるので「にげるな」とか「むかっていけ」と言う、スポーツクラブにありがちなこういう言葉はご法度で、へたをしたらその子をつぶしかねないのである。
確かに鍛えて強い精神を養うと言う考えもあるのだろうが、しかしボクシングをやって力をつけたら自信がつくというのは、根拠がなく曖昧なもので、私は相手を変えていく力よりも多様性を認める力のほうが、むしろここでは必要だと思っている。
へたれでも弱虫でもいいじゃないか。ただそれなりに楽しんで、まわりに左右されず、自分なりに一生懸命競技していたら何かが変わってくることは確かなことだ。
私はここを癒しの場としているのだが、スポーツのは元来人を癒す力があるとそう信じているからである。
オリーヴにはいじめられっ子たちに、なぜボクシングなんてはじめる気持ちになったのだと聞くと、よくかえってくるのがはじめの一歩を見てという答えである。
私自身はじめの一歩は何年か前に20巻ぐらい見たが、この漫画がいじめられっこの指示を受けるのは、おそらく主人公がそのままのかたちで強くなっていくからで、そういう姿に彼らは深い共感をおぼえるのだろう。
この漫画には強くなってみかえしてやるとか、しかえしするというような殺伐とした要素はない、おそらく彼らが求めているのは根本的に強くなってかわることよりも、むしろそういう自分たちの存在価値を求めてこのスポーツの門をたたいているわけで、彼らは、弱虫だが自分の存在意義を見つけてがんばって堂々と生きる一歩の姿に、自分たちの姿をオーバーラップさせているように思えるのだ。
私は思う、いじめられていても不登校で学校に存在意義がないように思えても、彼ら彼女らには存在意義はある、むしろ個性があるからいじめられるということもあるのだが、そういう子供たちがこのスポーツにかかわり癒されていくことを望んでいる。

ちなみに私はボクシングする人のタイプを「はじめの一歩派」と「明日のジョー派」にわけているが、ここは圧倒的にはじめの一歩派が多いことは確かだ。













  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オペラ」聞きますか?

2010-11-19 | Weblog
昨日の日記でパバロッティを紹介したが、彼は世界三大テノールと称されるほど、有名なオペラ歌手である。
私は彼の「誰も寝てはならぬ」を聞いて以来時々彼のオペラを聞いているが、まことに彼の声には圧倒されるものである。
以前子供の感受性に問題が出て来たというようなことを書いた。
安価な感動や物事を単純化させるようなバラエティ番組は子供に刺激を与えるが、本当の感動は与えられないと。
これも以前言ったことだが、感じると言う言葉は英語で2つある。一つはFeelそしてもう一つはSensitiveであるが、Feelが単に感情や体で感じると言うのに対してSensitiveというのは、感情だけではなく感性の問題で、こういう感性と言うのは、テレビ番組ばかりを見ているだけでは育たない。

さて話は芸術の話になるが、美術や音楽を鑑賞するのは、私はある意味このSensitiveな面を成長させるはたらきであると思っている。
音楽を聞くと涙が出るというのは、はたして感情だけの問題であろうか。確かに単純なテレビしかみていない奴は、最近のヒット曲ぐらいで涙するのだろうが、しかし少し抽象的かもしれないが、芸術的なオペラや音楽を聞いて涙すると言うことは、少し違うような気がするのだ。
私は何もヒット曲が悪いとは言ってはいないが、しかしこういったたぐいは、人間の好きか嫌いかと言う単純な感情的な判断によるものである。
しかし芸術は単に人間の好き嫌いによるものではなく、その価値基準判断は、まさに人間の感性によって委ねられているものであり、そういう部分を共感し、共鳴できると言うことは、ある意味高尚な出来事ではないかと思っている。

これも以前話したことだが昔学生の頃、HIの韓国人のGFが行っていた教会のクリスマス会に食事目当てで行ったことがある。
その会場で彼女らは何曲か歌ったのだが、その歌はこの日のために何カ月も前から一生懸命練習してきた歌であった。
はじめは「はやく終わらないかなあ」と言うような感じで聞いていたのだが、しかし歌が進むにつれて、私は何とも言えない気持ちになり、最後には悲しくもないのに涙が出ていた。
最後の歌はO holy nightと言う歌であったが、この歌は古くからクリスマスに歌われていた曲で、私はその歌を一生懸命歌う彼女たちに深い感銘を受けたことは確かなことであった。
よくわからないが、この時私の心に変化があったことは確かである。深い感動は心に変化をもたらす。
この日以来GFに時々ホヨンは少し変わった、成長したと言われたのだが、おそらくこの日の出来事は私の心をゆるがす大きな出来事で、このことによって私は多少なりとも成長させられたことは事実である。
感性を磨くと言うことは、感動することが最も最良な感性の磨き方だ、しかし感動と言っても単純なものではなく、自分の感性に深くうったえるものであり、のちにその体験は深ければ深いほど、自分の考えと言うか行動や信念にあらわれてくるのだ。

SensitiveはLongmanの辞書によれば、まず最初にこう書いてある。
understanding:people able to understand other peoples feelings and problems.



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Dont mind

2010-11-17 | Weblog
昨日SKYPEのメッセージボードにMay I call?という伝言が、さっそくSureとメッセージをおくったら、ある友人からのコールがあった。
「何?」と聞くと、実は私は今落ち込んでいて、悩んでいるその気持ちを共有してほしいというような、いかにも英語的な相談の持ちかけ方であるが、親しい友人であるので、Carry on(続けて)と話を聞いてあげた。
で話はどういうことかというと、彼女は化学か生物かは忘れたが、その教員になりたくて試験をうけたのだが、しかし教員試験に落ちたらしく、そのことでひどく落ち込んでいてどうしたらいいのかわからない様子で、私にMr Hoyoungなら落ち込んだ時にどう立ち直るんだと聞いてきたのだ。
さらに彼女は「こんなにだめだったら、もう次の試験は受けることができない」と弱気になるので。こう言った。
Teacherって試験に通ることなのか、むしろその試験をパスしてからが問題で、そこから本当に君の試練が試されるんじゃないのか?今確かに試験に落ちて君のプライドが気づ付けられたようだが、そんなことにこだわっていてはだめだ、ドイツ語で職業をベルーフというが、これは招命(導き)と言う言葉にも訳されるが、もしその仕事に君が何かの指名を感じているならばギブアップすべきではない、なぜなら君がその仕事に何か導きのようなものを感じているならば、試験におちるということはテンポラリーなことで、そこであきらめたら君がその召命に答えていないからである。もしその召命があるならば、人間と言うのは必ずあるべきところに存在するものだ。
彼女はキャソリックであるので、すべてのことには神が介入すると言う立場であるが、そういう宗教的なことを考えての励ましであったのだが、しかし私が思うに最近の人というかアジア人と言っていいのかわからないが、こういうことにもろい人が多いような気がする。
今回の件も私にしてみれば、たかだが試験である。
のちに少し落ち着いた時にたかだか試験ぐらいでくよくよすんなよと言ったのだが、ペーパーなんかに縛られてたまるかと言うのが、私の意見である。

以前からアメリカではスポーツ選手に対して、スポーツをテンポラリーにとらえるのではなく、人生と言う長いスパンでとらえたときにスポーツはどの位置にあって、どれぐらいのスパン競技できるかと言うことを考え人生の設計プランを立てていくと言うようなことが、スポーツ科学の分野でとりいれられてきたそうだが、それはスポーツだけではなく、教育にも必要なことではないだろうか、たぶん試験に落ちればだめととらえるのは、テンポラリーにしか自分の人生を見ていないからであり、もし自分が生きていくと言うことを考え、長い目で見れば、そういう結果にはならないと思っている。
私が日本のクラブに懸念があるのは、スポーツをおおげさに考えるところである。
一生懸命やるのはいいが、少し異常さえ感じる。おのずと連帯責任を強いられ、みんながみんなやらなくてはならないと感じているのだろう、練習をしないとだめだと言うレッテルをはられ、監督から努力しろというようなことを言われ、時にはあきれるほどの武勇伝を語って煽るのがいるが、こんなところにいて窮屈ではないのか、それでも彼ら彼女らが順応することに驚いている。
ついでに言わせてもらうが、よく選手を煽る時にある成功者の例を出したり、自分の武勇伝を語るが、一体そんなことを言って何になるのか、どうなるかというのは選手ひとりびとりの問題であって、それぞれ個性と言うものが存在する。
であるのに俺はこうだとか彼はこうだと言って煽るのは、いわゆるにんじんをぶらさげて走らせているようなもので、私に言わせれば集団において「俺はこうだ」などと自分を強調すること自体間違いであって、こういうやり方が個性のない単細胞な人間を育てるのである。

しかしむこうではそういう日本のようにテンポラリーにスポーツをするという雰囲気はなかった、むしろ彼ら彼女らは長い目でその競技を見ていたので、エンジョイしていたと思う。
確かに一部の人間は一生懸命やっていたが、しかしそうは言っても全体がそういう雰囲気ではなく、おそらく全体がよほどハングリーでない限り、スポーツは自由なもので、楽しむためのものだというのが、彼ら彼女らの考えで、おそらくこれは向こうの人間がスポーツを人生の中での選択の一つとしてとらえているからで、あまり根拠のない発言で無責任な言葉かもしれないが、もしわれわれがもっとこのスポーツをエンジョイできる環境をつくるならば、おそらく多くの人間がこのことによって救われるであろう。
たいていのスポーツの競技は英語でPlayという言葉が使われるが、基本的にはスポーツは遊びにつながっていて、肩の力を抜いて楽しんで競技できるのがスポーツであり、そのことによっていやされていくのではないだろうか。
人生は長い、スポーツをすればかえってそのことが見えてくることもある。その長い人生の中で自分は今だけを生きるのではなく、その先に向かって生きているのだと言うことをおぼえることも大事である。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NO 儒教

2010-11-15 | Weblog
苫米地という脳学者がいる。
以前ここの会員に私が彼と言っていることがよく似ていると言われて、読んでみたのだが、おそらく私の言っていることがにているのではなく、考え方はよく似ているが、彼のほうがより的確に、かつ具体的にわかりやすく、私の言いたいことを説明しているだけのことだ。
さてこの苫米地であるが、日本が封建的であるのは儒教によるものだと断言し、今の教育制度と言うか社会のシステムは封建的で、われわれが古来から持っている儒教の精神を捨てて、精神の自由化をはからなければならないととく。

私が読んだのは「脱洗脳教育論」と言う本であるが、おおむねここで取り上げられている儒教は、家を中心にした社会を守るためのもので、そこにははっきりした上下関係ができ、それは差別を生みだす封建的なシステムであるとしてとりあげられている。
特に儒教の仁と言う言葉であるが、これは儒教の中でも中心に置かれる言葉で、これは仁愛と言うように言いかえることができるのだが、この仁愛は他者との関係を築き上げる時に大事な心構えで、人とは人を愛することとしている学者もいるが、すなわちこの仁愛をもって他者との関係を築いていくのが儒教の教えである。

しかしこの仁と言う言葉がかなりくせものである。実は儒教で言う他者と言うのは、その性質から言って身内のことで、仁愛というのはおおまかに言って身内を大事にしろと言っているのだが、仁愛と言うのは非常に限られた範囲の行為であって、西洋人の言う隣人を愛せと言うような博愛主義のようなものでもない(これに関しては15世紀ぐらいにバチカンで?キリスト教徒以外は人間ではないということが宣言されたが、しかしこの博愛は今日においては人類愛のことである)。
さらに仁と言う言葉が限定的であると言うのは、やくざの世界をみればわかるが、彼らの仁義が通るのはその世界の中であって、それ以外は関係がない。
ここまで来るとなぜ儒教において孝が徳の高い行為かおわかりいただけるであろうが、ここに日本、中国、韓国の人たちが家を大事にする理由がある。

私はよく仲間をつくる人間はうさんくさいというようなことを言っているが、おそらく日本人と言うか東洋人にはそういうDNAが先天的に存在しているのだろうか、それにしてもここには軍団やグループが多く、そういう軍団がべたべたと集まって仲間意識で盛り上がるのだから始末におけない。
こういう集団は、よく自分たちは家族的だとか言うが、では家族になれなければどうなのか、この家族的と言うのは、むしろ自分たちは閉鎖的だと言うことを表しているにすぎず、この多様化された時代においては、こういう言葉を使うべきではない、むしろ差別的な言葉であるとさえ思っている。
グループ化や仲間と言うのは非常に警戒すべきことである。
私のところには時々そういう子供や親が相談に来るのだが、いじめなどは、人とは違うと言うことで疎外されたり、グループなどによるものである。
手前みそだが、うちのクラブがそう言う子供たちを受け入れやすいのは、特定な仲間やグループがないからである。
いじめられたり、居場所がないと感じる子供はそういう仲間に入ることができない、共通意識を持つことができないからではないだろうか。
おそらくそういう子供たちがここに来て、ある特定の人間たちがグループ化し、わきあいあいとあだ名やちゃんづけで呼び合って練習している姿を見れば「ああ自分の居場所はここにはないんだ」と感じてしまうのではないか、仲良くなるのは自由だが、しかしグループのような存在をあえて認めることはしない、それが私のやり方である。
しかしそうだからと言って、オリーヴの会員はそれでもさめているかと言うとそうではない。
むしろそういう価値観を持てば、立派な社会人が集まり、そういう人間がボランティア精神でいろいろと働いてくれるのであるが、それがここの誇れるところだと思っている。
ある人間は自分がひきこもりぎみだったが、忙しい中一生懸命働きながら練習する人たちを見て勇気づけられたと言うが、ここの社会人はそういう人たちの刺激になっていることは事実だ。
私はよくブログで仲間やグループ化はだめだというようなことを言っているが、この仲間やグループと言うものは、儒教との関係にも表れているように、人間の潜在的な問題であって、その潜在的な問題を理解しなければならないことであって、特に先輩後輩や師弟関係から生まれる封建的な仲間やグループというのは、弊害が多く、問題である。
私自身社会以外にいじめられたことはないが、しかし生まれながらに人との違いを感じて来た人間で、この日本社会で人が持つ疎外感はどこから来るのかということは、よくわかっているつもりである。
最後に私が求めていることは、ここの会員をやたら増やすことではない、オリーヴは結構会員が在籍しているが、しかしひとりびとりの権利を守ることであり、そのためグループや仲間の存在は認めない、基本的に私はその人個人を尊重したいと思っている。なぜなら、私はその人個人と契約しているからである。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペペロデイ

2010-11-12 | Weblog
昨日うちの英会話スタッフと話をしてた時に、今日はぺぺロデイは祝わないのかと聞かれた。
「ぺぺロデイってなんじゃ?」と聞くと、彼女いわく韓国では11月11日はぺぺロデイだそうで、韓流ファンの生徒さんに教えてもらったそうである。
私は11月11日と聞いて「ははあん」と思った。
ぺぺロというのは、細いスティック状の日本で言えばポッキーのようなお菓子で、11月11日の「1」がそのポッキーを表しているのでそれにちなんで11月11日を若い人たちかあるいは、企業戦略か何かでぺぺロデイと定めたのであろう。
韓国にはそのほか4月4日のブラックデイのように、そういう記念日が時々あるらしいが、いかにも若い人たちが考えそうなことである。
そういえばこのぺぺロというお菓子、ほとんど日本のポッキーと言うお菓子に似ているというか瓜二つである。
そう言えば以前ハンギョレという新聞がこのことについて、日本のコピー商品じゃないのかということを指摘され否定していたが、しかしまだ十分納得した答えがかえってきてはいない。
そう言えばむこうに行くと日本と同じような商品が見られる。
これはあきらかにコピー商品じゃないのかと言うのもしばしばみられるのだが、たまにそれがいつの間にか逆転してオリジナルになっているからひどい話である。
私は向こうに行った時に友人にこれは日本の商品からのパクリで盗用ではないのかと言うと、彼はかならずパクッテませんよというのだが、私の個人的な意見ではどこからどう見てもパクリであり、ひどいのになるとさらにそのパクリ商品に対して、著作権があるからコピーしてはいけませんという表示がしてあるのだが、驚きである。
(少したとえが違うかもしれないが、アレストバネス(グレジャムではない)的「悪貨は良貨を駆逐する」だ)
私は個人的に人のまねを無断でする人間と言うのは(うちのパクリ練習はラッキーには許可を得ている)信用できないが、東洋人はこのことに関して少し認識があまいような気がしている。
以前うちのまねをしているという集団をあげたが、一つぐらいの偶然の一致ならあり得るが、しかし二つも三つも同じようなことが重なれば、なぜ自分たちはそうしているのかと言う根拠がなければ、明らかにそれはパクリであるが、人間の当たり前の真理として堂々と無断で真似をされると言うのはあまりいい気持がしないものだ。
さらに学生達の話によるとこのぺぺロはペペロンとかパペロという偽の偽がでているそうで、とんでもない話である。
たぶんこういう問題はもしそれが真似をしているんじゃないのかということを指摘しても、へたをすれば俺は真似をしていない、どこどこにも同じのがあるじゃないかというように、この二つの商品をあげるのだろうが、しかしさっきも言ったように、どこどこもやっているという議論ではなく、なぜそういう商品を出すにいたったのかと言う根拠がなければ、明らかにそれはコピーではないだろうか。

話はペペロデイにもどるが、ペペロデイはヴァレンタインやホワイトデーに匹敵するぐらい大きなイヴェントだそうで、この日は友達どうしでペペロを交換し合い、そこにはお互いぺぺロのようにスリムになりなさいと言う意味が込められているそうであるが、うちでもこのペペロデイにちなんで、来年何かイヴェント的なことをやろうかと考えている。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする