脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

그 여자

2016-12-26 | Weblog

https://www.youtube.com/watch?v=BxVAk5Cgp2k

今年はこの人のコンサートを聞きにソウルに行く予定であった。後輩にチャンスがあればチケットを取るように言っていたが、しかし今活動を休業しているようだ。朝鮮の女性は喜怒哀楽が激しい、よく泣くしよく笑う、そして歴史的な意味においてつらい思いをしてきた人が多いのも事実だ。学生の時ある韓国人のおばさんに同情された。私は何とも思ってないが、そのおばさんが私の手をとって私の目を見た時にすごく悲しい目をしていて、この人すごく苦労してきたんだなあと言うことが伝わってきて、なんだかすごく悲しい気持ちになった。彼女らが喜怒哀楽が激しいのはそういったつらいことや悲しいことを受け流すためかも知れない。日本語で生活をし、英字新聞を見て、韓国語の歌を聞いてその詩に感動する私はすごくあいまいな人間だ、日本人であることを否定も肯定もしないし、韓国人であることもまた否定も肯定もしない、そういう存在である。うちのクラブは基本的に曖昧でもいい、意志が弱い、へたれだ、運動ができないそういう人でも、試合に出る気なんかなくても、ボクシングに興味がなくてもちゃんとここには居場所がある。


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素晴らしい日本人の宗教観

2016-12-25 | Weblog

「神ってる」と言う言葉が流行した。今日うちの子が誘われて教会に行ってたらしいが、そこでそれに対して神と言う言葉を軽々しくつかうなと言っていたらしい。でももともと神と言う言葉は常用漢字だ「神ががかった」とか「神々しい」と日常でも使う言葉だから、自分たちの神を中心に考えて漢字の使い方になんくせをつけることは筋違いだ。さらに神と言う言葉はキリスト教で言うところの唯一神ではなく、中国語のむしろ自然を背景にした神である。韓国語ではキリスト教の神を神とは言わずハナニムと言っているが、これはハナがひとつでニムは様すなわちひとつ様と言うことで、それは唯一神を表す言葉で英語で言うところの「The God」あるいはファーストレターを大文字で書くGodと同じ意味だ。私は宗教を否定するわけではないが、しかしもともと自分たちが持っている文化が存在するのに、神はひとつで、十戒で乱用するなと書かれてあるのに神ってるなどと乱用するのはおかしいなどというのは宗教的な傲慢で、そこまで言うのなら韓国のように自分たちの概念を表現した言葉をつくればいいと思っている。日本の場合は宗教は文化と密接にかかわっている。正月には神社に行ったり、受験合格のために寺や神社にお参りに行くのは、ある意味習慣的なもので、日本の文化と言ってもさしつかえないだろう。だからその文化的な価値観を外国人や特定の集団からとやかく言われる筋合いはない。日本人には日本人の宗教観があるし、そのすべてを認め合う混沌とした宗教観があるからあらそいごとがおこらないのだ。私は日本人ほど平和で争いごとを好まない民族はないと思っている。一神教はそれなりに素晴らしいところがあるが、しかし絶対を主張したら必ず争い事がおこる。もうそのことについては言及する必要なないと思うが、日本人が争いごとを好まないのは彼ら彼女らが持っている宗教観に深く根付いている。何でもありだからまわりと対立することなく共存できたのだと思う。私は哲学や宗教学をかなり勉強したが、日本人の宗教観は素晴らしいと思う。


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私が「試合に出るか」と聞くわけ

2016-12-23 | Weblog

西洋人は目をやられるよりも鼻をやられるほうがいやがる。おそらく狩猟民族は獲物をさがすために嗅覚が必要だから、その嗅覚をつぶされることを本能的におそれているからだと思っている。名前は忘れたがよく試合に出てくる白人の選手がいた。彼はジムでも一生懸命トレーニングはしていたのだが、いかんせんうたれ弱い、鼻に一発強いパンチをうけたら戦意喪失してしまい、そこから立て続けにパンチをもらってTKOで負けてしまうというパターンが多かった。私は彼がすごく悔しがっている姿を何度も見たが、しかし勝ったのを見たことがなかった。これだけ負けたら普通はやめるが、しかしそれでも試合に出てくる彼を不思議に思っていた。向こうのトレーナーは絶対に競技者を否定することはしない。お前なんかやっても無駄だとか、反省とか言ってダメ出しをするようなことはまずない。よく日本人は反省会なんて言うのをするが、はっきり言って無意味だと思う。たいていの場合ネガティブなことばかり聞かされてダメ出しでおわってしまうからだ。向こうでは終わってから反省会と言ってごちゃごちゃとネガティブなことを言い合うことはしなかった。そんなことをするよりもよりも試合前にビデオを見たりミーティングをしたりして自分がどう戦うかなどを分析する。はっきり言ってそつちのほうが合理的だ。コーチや監督も試合前の分析よりも後になって言うほうが楽だし威厳を保てるから自然と権威主義の中ではそうなるのだと思っている。監督にしてみればその競技者のために反省会をするのだろうが、しかし負けた人間の中にはそっとしておいてほしいという人もいるはずだ、なぜそういう気持ちを大切にしないか不思議である。日本のスポーツのしきたりはデリカシーにかけるし、人権蹂躙じゃないのかとさえ疑ってしまうようなことや発言さえも多々ある。その白人が試合に出場し続けることができるのはトレーナーが彼を否定しないからだ。おそらくお前はだめだとかやめてしまえと言われていたら彼は出場できなかったであろう。私自身も競技してきてただの一度たりとも否定的なことを言われたり、否定されることはなかった。私のような性格は日本だったらあいつはだめだとさじをなげられるだろう。たぶん日本だったらここまで続けることはなかったであろうし、ここまで実績をのこすことはなかったであろう。時々ジョージと言い争いになることもあった。ジョージが言ったことをまったく聞かずにリングに上がることもしばしばだ。それでも勝って帰ってくるとお前は天才だとほめてくれる。そしてもし負けたとしても俺の言うことを聞かんからじゃなんてことは言わないだろう。私に比べたら日本の競技者は超従順だ、気持ちをしっかり持てとか気持ちで負けるなとか軽々しく言うが、しかしその前にその競技者をいかなることがあっても肯定し続けてあげなくてはならない、それが時には競技者の自信につながるのだが、まさにそれが私が支えられ競技していくことができた理由であり、私のコーチ論であり、オリーブの理論である。

私は女でも容赦なくウーロンとかルナチクス、ヒッポリト星人などとえげつないあだ名をつけるが、しかしただの一度たりとも会員を否定するようなことを言ったことはないと言えるし、それはみんなが認めていることだと思う。うちのクラブはへたれ運動音痴大歓迎だが、そういう人たちはみなそれぞれ弱さをかかえている。運動音痴であったり、メンタルが弱い傷つきやすいとか様々であるが、私が時々試合に出るかと聞くのはもちろん本気だが、それは俺は君をダメだと思っていない、そこまでできると信じているよと言う敬意でもある。もちろん試合に出るためには努力しなくてはいけないが「これぐらいのことをしなければ試合にでれんぞ」と言われるのと「期待しているから頑張れ」と言われるのではモチベーションが違うし、そういう努力は後につながると思っているがまさにそういう人たちがトレーナーになってくれたり、サポートしてくれるのがうちのクラブだ。うちのクラブのすごくいいところは決してネガティブなことは言わないことだ。我々の世代の体育会出身者は人前でどなられたり、ののしられたり、ネガティブな発言をされているのでおなじようなことを少なからずする人もいるが、しかしうちはそういうネガティブなことを言われたり態度に出されるということがないので、そういう雰囲気はない。うちではボクシングを何十年やってきた人で例え実績があったとしても、その人にそういうネガティブなにおいを感じたらトレーナーを頼むことはまずない。 


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クリスマスシーズンのソウルで

2016-12-20 | Weblog

クリスマスシーズンのソウルは寒い、それは耳がちぎれるんじゃないかと言うぐらいの寒さだ。韓国はキリスト教徒が多いのでクリスマスは休日、街のイルミネーションはかなりにぎやかである。クリスマスに久しぶりに会ったチング、韓国系アメリカ人で3か国語を流暢に話す。最初空港で会った時にはなんて話そうかなんて思っていたが、空港で私の姿を見つけてすぐに駆けよってきて「やあ久しぶり。元気にしてた」と、その後なぜかテハンノでプッチンゲを食べに行って彼女とはたくさんのことを話したが、それは昨日会ったかのように話すことができた。たぶん友達ってそんなもんだと思う。久しぶりに会って何を話していいのかなんてあれこれと思うことはない、友達は何年たっても何十年たっても普通に話せるから友達だ。そういえば昔、彼女とはたくさんのことを議論した。日韓の関係を話し合った時はこれで関係がおわるんじゃねえかと思うぐらいの激しい議論であった。そして時には傷つくこともあったし傷つけることもあったが、しかしそれでもそれは若さゆえに受け入れることができたし、何よりもそういう経験が若い時には必要であり、そういう経験を通してできた友達とはいつまでたってもかわらぬ関係でいれるのだろう。社会学者のジンメルは「若者の言うことは間違っているが主張することはただしい」と言っているが、若い時はたくさんのことをあれこれと議論することは大事なことだ。議論することだけが正しい生き方ではないが、しかしそういうモラトリアムには思い切り自分の存在を表現していくことも大事なことで、そういうことを主張し受け入れあっていくのは若いからこそできることであり、それはある意味若さゆえの特権であってもいいと思う。ラインやフェイスブックの返事が来るとか来ないとかそんなことはたいしたことではないだろう。私の意見ではそんなものをすぐかえすとかかえさないとかで悩んでいるようでは本当の友達とは言えない。本当の友達とは何年会わなかってもまた昨日会ったように話すことができる存在、そういう存在を私はチングと呼んでいる。

私がそのチングの影響を受けている。クリスマスには虐げられている子供や女性をおぼえてクラブの名前で募金しているのは、そのチングからたくさんのことを学んだからだ。まだまだ世の中には多くの子供や女性たちが幸せとは言えない状況の中にある。自分一人では何もすることはできないが、しかしせめてこのクリスマスにはMTオリーブフィットネスボクシングクラブを通してそう言う人たちのことをおぼえたいと思う。

With best wishs for merry christmas!

즐거운 크리스마스를 보내세요.

 

 


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イエスは笑った

2016-12-16 | Weblog

 クリスマスはイエスの生まれた日だが、学生の時「イエスは笑ったか」と言うことを発表したことがある。なぜこういうことが問題になるかというと中世の修道院では笑いというのは低俗ととらえられていて、人間が笑うことは低俗だとみなされていた。
なぜ笑うことは低俗かと言うと、その理由が聖書にイエスが笑ったという記述がないからで、当時笑いというものはあまり肯定的にはとらえられてはいなかったからだ。
ショーンコネリー主演の「バラの名前」という映画がある。
これは修道院で禁書を読んだ修道士が殺されていくわけだが、私はその禁書というのが、イエスが笑ったという記述がある写本で、それを見つけてしまっては修道院の規律だけではなく、彼らの持つドグマさえもくずれかねないので、それを見た人間を殺害したと推測している。この映画は原作そのものが難しいので、そういう推測ができるのは宗教学や哲学を勉強した人でないとわからないと思うが、当時神であるイエスが笑ったか笑わないかということは、非常に大きな問題であったのだ。
で私はどういう結論を出したかというと、笑ったである。確かに原典を見ても笑ったと言う記述はないが、しかし彼の行動からは笑いの雰囲気というものが十分に伝わってくる。
特に彼の演説はユーモアに満ちていて、おそらく当時は彼の話を聞いて笑ったものもたくさんいたであろう、こういうユーモアは仏頂面では語ることはできない、自らも笑うからこそこういうアイロニーは生きてくるのであって、私はその観点から彼は笑ったと結論づけたのである。

笑いは人間を救う、イエスの時代、当時の為政者に押さえつけられ、迫害さえもあった群衆が唯一立ち向かうことができたのは、この笑いを通して語られたアイロニーで、イエスの演説というのはまさにその為政者に対するハチのひとさしで、多くの民衆はこの演説によって救われただろう。しかし笑いといってもDQN軍団のように程度のひくい笑いではなく、知的好奇心を刺激する笑いである。よく大阪の人間は「笑わしたら勝ちだ」みたいなことを言うが、しかしこれは一理ある、しかしそれはめちゃくちゃなことを言って笑わすということではなく、物事の本質をみきわめたアイロニーのようなもので、聞く相手に一本取られたと思わせる笑いのことである。
知性をくすぐる笑いは、人間にとっていい刺激となる、笑いに知性など必要あるのかと思うかもしれないが、しかし知性をともなった笑いは、最大の力になると信じている。

これは我々の間で有名な話、前にも書いたが施設で育った女性には親からつけられた名前がなかったらしい、彼女はそのことにかなりのコンプレックスを持っていて、非常に寂しい思いをしたそうである。
彼女が働いて大学に行った時、ある男性と知り合った、彼はおとなしいが誠実で真面目、彼女は生活の安定を求めていたので、彼のことが気に入り、二人は恋におちた。
そしてある時彼女は、たぶんこの人なら自分の気持ちを理解してくれると思ったのだろうか、思い切って自分のことをうちあけた。
自分が施設で育ってみよりがないこと、そして自分のコンプレックスである親からつけられた名前がわからないということ、不安にかられながらも自分の思いをぶちまけたのだ。
しかし彼はその話を聞いてこう言った「大丈夫、神様にも名前はないんだよ」
十戒の掟に神の名をみだりにとなえるなという掟がある。聖書では神に名前をつけることはタブーとされていたので、GODと呼ばれる神は厳密には名前が無いのだが、彼が神に名前がないと言ったのはまさにそのこと、彼は彼女のその深刻な問題を受け止めジョークで返したのだ、そしてその答えに彼女は笑った、そして笑って自分のいやな過去と決別したのである。
その後二人はゴールインしたとかしないとか、笑いというのは力である、人間にとって笑いというのは不可欠なもので、幸せな生活というのは、どれだけ我々は笑いのある生活ができるかということだ。

 


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Fall on your knee

2016-12-15 | Weblog

https://www.youtube.com/watch?v=EDUg88d9Hbw O Holy Night

この歌は非常に思い出深い歌である。学生時代友達がクリスマスにクワイヤーで歌うことになって教会に誘われた。食事をさせてくれるというので思いっきりそれを期待して行った。そこで私は前列にすわらされたのだが、多分おぼえている限りでは5曲ぐらい歌ったと思う。韓国語の歌が1曲であとは英語だ、最初はまあまあ練習しているななんて思って聞いていたが、しかし最後の歌を聞いたときに私は深く感動した。ある芸術家は歌は祈るように歌えと言ったが、まさに彼女たちが歌っているのは歌ではなく祈りだ。その全身全霊を持って天にとどかせようとしている姿に感動したのだ。
その後の 食事はビュッフェスタイルで彼女が私のために気をつかっていろいろととりわけてくれたのだが、カルビの前に来たら多く入れろと目配せ、それをわかったかのようにたくさんカルビを盛り付けてくれたが、私は彼女と話すたびにいつも思う、本当に受け入れられていると。
教会によんでくれたのも自分が歌うのを見てほしいのもあったのだろうが、しかしクリスマスにひとりではさびしいと思ったからだ。
彼女いわく人間は誰でも罪がある。おそらくこの歌詞のlong lay the world in sin and error piningと言うのは人間が持つ現実であり、彼女が人を受け入れると言うのは、人はすべて罪びとで弱いものだと言う、自分の弱さを認めたところで人は平等なんだというところから来ていると思う。
宗教や哲学をたくさん学んできたが、しかし宗教的な対立ほどえげつないものはないとおもっているし、神がいるとかいないと言うことはどうでもいい、そんなことは私の知ったことではない。しかしこういう時代だからこそ矛盾しているが神がいることが必要だと願うことは大事なことかもしれない。

このo holy nightのさびの部分「fall on your knee, oh hear the angel voices oh night divine oh night when christ was born oh night divine oh night divine」のdivineはdivideと同じ語源で区別すると言うことだ。
divineは神聖なと言う意味だがその神聖さは区別されるものであって、他のものとは違う。もっとこの日を大事にしなくてはならないと言うことだ。MOBでは毎年この時期にはどこかの団体をおぼえて日ごろ会員がおさめてくれている会費から寄付をしている。それは気負うほどの額ではないが、しかしチョルチン(親友)からハワイで教えてもらったクリスマスの意味を大事にするためにそうしている。

같은 하늘 다른 곳에 있어도 부디 나를 잊지 말아요




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コミュニタリアンであること

2016-12-13 | Weblog

基本的には私は共同体の価値を重んずるコミュニタリアンだ。クラブにおいても弱者が同じように満たされなくては共同体としての価値はないと考えている。弱者と言うのは言葉はわるいが、私の言う弱者とはボクシングにおいてどういう人がマイノリティかということである。ボクシングのような格闘技は男性社会でそれができる人間が中心の社会である。だから女性や健康維持などのおっさんやサラリーマンたちはそういう人たちに気をつかって、最低でもそういう人たちに対する尊敬と言うか認めることなくしては、そのジムではうまくやっていくことができないのではないかと思うのだが、しかしもしそうだとしたらそれは公平だとは言えないだろう。はっきり言って弱い存在をカバーできないコミュニティはコミュニティとして失格だ。俺何とかチャンピオン、ボクシングできますと言うような武勇伝を持って自分の力を誇示して集まるような集団はサルの軍団に等しいと思う。人間の群れに必要なのは弱者をおぼえてカバーし、そういう人たちも平等にたのしくトレーニングできるということ。平等と言う言葉は難しいが、しかしそういう人たちをおぼえてカバーできることがその平等に近いことだと信じている。

私は考え方がはっきりしているので時々いろいろな団体からお誘いがある。だいぶ昔はある団体にひつこく力をかしてほしいみたいに言われ、じゃあ力をかしたら力をかえしてくれるのか?力って俺にスパイでもしろと言うのかというようなことを言ってはぐらかしたが、はっきり言って私は政治や宗教団体の力にはなれない。ただ私が思うことはうちのクラブの人たちがここに来たら元気になってかえってくれること、そしてここに来ることが仕事や生きることの活力となってくれたらと思う。私の学問は宗教や政治のためにあるのではない、うちのクラブのみなさんがここで楽しく平等にトレーニングしてもらうため、ただそれだけである。


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私がだめだと思った監督たち

2016-12-12 | Weblog

元巨人の桑田が体罰はダメだということをしきりに言っている。そしてそのことをスポーツ界の指導者たちにうったえかけている。前にスポーツ番組でその桑田と何人かのスポーツの監督が意見を交わし合っていた。そこには有名な女の監督が二人いたのだが、体罰に関して二人とも体罰は時には必要だということを言っていた。でも話を聞いていて笑えるのはこの人たちは物事を一般化できていないといないと言うことだ。意見を言う時も私はとか私たちはみたいな一人称的な発言が多く、この人たちは物事を客観視できていない本当に教養がないと思った。スポーツと言うのはこの人たちみたいにそれしかしてこなかったという人たちだけのものではない、スポーツを競技していても社会とのかかわりがあるのだから、体罰などの問題を語る時は物事を一般化する必要がある。でもこの人たちは相手を成長させるために殴ったとか殴られたでもそれは自分のためだみたいな発言をしていたが、本当にダメだと思った。この人たちはスポーツ以外に何をやってきたのだろうか?監督だったら共通語の英語が話せるのか?ほかに何かきちんと勉強したことがあるのだろうか?こういう物事を一般化できないような人間を恰も我々の代表のように発言させることは大きな問題だ。体罰と言うのは人権の問題だ、そいつらは本気かどうか知らないが、しかし一般的にはたかだかスポーツごときでできないと言って頭や顔を殴られたり、罰を与えるというのは根本的に間違っている。それは人権侵害だ。佐藤優と言う作家が「性と国家」の中で、自分は性悪説だから暴力を徹底的に制御するシステムをつくらないといけないと言っていたが、戦争をしかけるのも武力で都合よく相手をおさえるためだ、人間はもともと性悪だから暴力を都合よく利用し相手を自分の意のままにしようとする。体罰は愛のムチだと言う大義とベトナム戦争はベトナムの人たちを解放するためだ、イラク戦争はイラクの人たちをフセインの独裁から自由にするためだという大義と考え方の構造は同じだ、リテラシーがないとこういう構造を見ようとしない、だから発言が一人称的であるのだ。学校や社会では暴力はゆるされない、そういう一般的な考え方を無視して愛のある体罰は必要だなんて言うのは言語道断、私は勉強してないアスリートが大嫌いなのはこういう身勝手な考え方しかできないからだ。

桑田は体罰に関して論文を書いたらしいが、桑田の問題点はその体罰を野球と言うスポーツだけの枠でとらえようとしたこと、だからこういう人たちのつけいる隙があったのだと思う。彼の意見は素晴らしいが、しかしそういう問題を語るためには倫理学や社会学の観点から考察する必要があったかも知れない。


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Happy Christmas. If genocide is over.

2016-12-08 | Weblog

前にクリスマスが好きではないと言った理由はクリスマスが大虐殺があった日だからだ。聖書の記述によるとこの日ユダヤの新しい王が生まれると言う予言を聞いて、それをねたんだヘロデ王がそこで生まれた嬰児たちを大虐殺した日である。しかしこの日は西洋では人に何かを与える日として定着している。クリスマスにはCMなどでも多くの商品が宣伝され我々の購買欲をそそるが、本来はプレゼントももらうということよりも与えるということが趣旨で、それは人間の罪のために救い主として到来したというイエスの誕生と深く関わっている。うちのクラブもクリスマスには毎年子供をおぼえて何かしている。何かといってもそれは宗教的な意味もないし、口できれいごとを言うだけではなく、ただ何か役に立てればとMTオリーブと言う名前で子供に関連した団体に寄付をしている。クリスマスは子供にプレゼントを与える日だ、そしてプレゼントを与えるのは子供の笑顔が見たいからだ。子供が幸せだということなくしてはこの世界に平和などあり得ない。クリスマスは嬰児の大虐殺があったわけだが、今現在も多くの子供たちが虐待されたり、不幸な環境におかれている。クリスマスの大虐殺と言うのはまさに今起こっている問題の象徴であり、イエスの誕生と言うのはまさにひとりびとりの良心や思いやりを喚起させるための出来事である。メリークリスマスとクリスマスをお祝いするのもいいが、しかしこの日ひとりでも多くの人が少しでもそのことをおぼえるだけでも大きな力になるだろう。

 


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語学とコミュニケーション能力

2016-12-05 | Weblog

15歳で日本代表に選ばれた選手がいる。今アルゼンチンに遠征に参加しているらしいが、彼は私の子供と同じ年、ちょうどその様子をテレビで見ていたので、子供にこれから自分をはかる基準は自分が外国に行ってそこでやっていける能力があるかと言うことだということを言った。例えば今からアメリカに行ってそこでその社会に入って、言葉をおぼえて学校を卒業できるかどうかということを自分に問うてみる。おそらく今の自分では何もできないということに気づくだろうが、しかし自分が今外国で通用するかと言うことを考えたら、今の自分には何が足りないかそして何が必要かと言うことが見えてくる。語学力やコミュニケーション能力、彼のようにサッカーに自信があればそれはそれでよいだろうが、自分が外の世界に出て行った時に何が足らないか、あるいは何が必要なのかと言うことを考えて自分づくりをしていくことはこれからのグローバル社会に対応していくためには非常に大事なことだと思う。実はこの語学力とコミュニケーション能力が日本人には一番足りないと思っているが、特にスポーツしかできないとか、とりえがないという人間はそう言えると思う。日本のスポーツは昔に比べてましになってきたようだが、しかしまだまだ語学に疎い人間が大半だし、コミュニケーション能力だってひくいほうだ。日本流の人に合わせてうまいことやっていくのとコミュニケーション能力と言うのは全く違う。人に合わせてうまくやっていくというのはある程度の関係性の中で発揮されるものだ。それは縦社会のヒエラルキーをしっかりと意識することと関係しているが、しかしコミュニケーションと言うのは自分自身の価値を伝えること、さらに主張して自分を認めてもらうことである。日本人は同じと言うことでかたまって安心するが、しかし外国は相手の違いを認めることから始まり、そしてそれを受け入れることでまとまっていく。それは時にはひどい対立になって大きな争いとなることもあるが、しかしそれらは彼ら彼女らが自分たちのアイデンティティを主張し合っているからだ。運動系のような上意下達の世界では人と合わせることはうまくやって行けるのだろうが、しかし自分を主張するということは難しい。運動部はヒエラルキーの中で生きているので人に合わせてやっていくことは上手にできるのだろうが、しかし上意下達の世界では本当の自分の意見が言えない、事実日本人のアスリートは外国人になめられるのだが、それは語学ができないコミュニケーション能力がひくいからである。自分を表現するためにはまず語学力が大事だ、そして自分の考えやアイデンティティを伝えるにはしっかりとした考察力がなければいけないのだが、その考察力を養うためには読書をしたり教養的なことを身に着けることである。人に何かを伝えるというのは勢いでは伝たわらない。結婚式のスピーチでもそれはよくわかることだが、ある程度論理を構築して適切な言葉を選んで話すことが求められるから難しいことで、そういう訓練を日本人はあまり受けていないように思える。これからは語学そしてコミュニケーション能力が重視される。だから留学経験やボランティア活動などの経験を履歴書にのせるのは大きなアドバンテージになるだろう。

 

 

 

 


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