脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Encouragement

2024-02-25 | Weblog
時々いじめやスポーツのことで相談を受ける。これはその中にひとりの人の話であるが、そこそこ上手だったけど記録がのびなくなって、そのことをコーチにつつかれて人間関係に悩んで学校に行けなくなったという事でお母さんと相談に来た。私がまず彼に教えたことはスポーツは遊び、たかだかスポーツだという事である。おそらくこういう人はずっとそれをやることが人生のすべてだと思い、親もそういう環境に子供を置くことがいいと考えて歩んできたから、逆にそういう人間にはたかだかスポーツぐらいに考えてやらないと逃げ道がなくなる。続けることを選択して、あきらめるなとか、見返してやれと言う発想ではしんどくなるだけである。私は昔から家父長制の運動部の体質を批判しているが、監督がお父さん、家父長制のシステムでは成長に限界があるだろう。アドラー心理学で勇気づけと言う言葉がある。これは「ほめる」とか「しかる」という上から目線の行為ではなく、フラットな関係においてお互いを認め合い、リスペクトすることだと理解できる。私が競技した土地では競技者をBoyと呼ぶが、その関係は日本のような家父長制のお父さんと子供ではなく、フラットな親子関係、絆を意味するが、たいした実績ではない私が、ジョージやアレンにレスペクトされたことで自分に自信が持てるようになったことは確かなことで、それが今の私である。犬のように「おい」と呼ばれて「はい」とそこにはせ参じるのは人権侵害、なぜこういうことがおかしいと気づかないのか不思議だ。くだらない精神論を聞かされて強くなったような刺激をうけたり、師従関係で上から目線で犬のようにほめられるよりも一人の人間としてリスペクトされる方が心が育つ。競技が上手とかそうでないとか、どちらが上か下かで優位性が決まるコミュニティはレベルがひくい、こういうところで本当に子供の心が育つかどうか疑問である。あくまでスポーツは遊び、そのスポーツができる出来ないで優劣を決める集団はフラットな人間関係が築けない。
MOBのみなさんは人のいいところを見てくれて、お互いをリスペクトできている。そういう人間関係がジムの雰囲気をよくしてくれているし、競技が上か下かだけで見ていないので楽しくできるし、子供や若い人たちにはいい刺激になり、影響を受けることで将来の選択肢が広がることは確かである。

References  "What life could mean to you " Excerpt a quote from thesis of  Adler 

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おすすめの電子書籍

2024-02-20 | Weblog
最近おもしろいなと思った本がある。それは平山美希 さんの「「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術」これは電子書籍になるのだが、是非中高生あるいは大学生に読んでほしい一冊だ。彼女は日本の大学に在学中にシモーヌ・ヴェイユに興味を持ち、さらに深く学ぶためにパリのソルボンヌ大学に編入して本格的に哲学研究をはじめ、哲学を教えるようになったのだが、本書はその留学時代に経験したことがベースとなっている。フランスの高校生は卒業するために高校卒業資格を認定する「バカロレア」という試験を受けなければならないのだが、科目には哲学があって 彼彼女らは哲学の授業のなかで、試験を解くためのメソッドを習うそうだが、本書ではそのメソッドを「① 問いを立てる② 言葉を定義する③ 物事を疑う④ 考えを深める⑤ 答えを出す」とわかりやすく解説しているので、哲学がよく分からない人でも理解できると思うが、特に疑うことは大事である。日本人はこういう哲学的思考ができないので、疑うと言うとただ否定的な受け方しかできないが、しかし物事を肯定的に考えるためには疑うことも必要なことである。カエサルなどの格言を見てみると否定から肯定にはいることが多いが、それはこういう一流のリーダーはまず物事をうたがうことからはじめるのだろう。私の例をとって説明すると、よく来た人にジムはアットホームでいいところですねと言われる。でもアットホームはいいことなのか、さらにいごこちがいいのは誰に?と考えてしまう。アットホームはむしろ特定の人たちが強く結びついているだけではないのかと疑うのだが、群れは平等でなければならないので、そこに少数派が存在していないかということを考える。そうなるともっとまわりの人の話を聞いてみようとなるのだが、その時またさらにまわりのことが見え始めて考え方をあらためさせられることがある。一部の人間たちを大事にしてとりまきにしてわいわいとやっているとあたかもジムは活気があって、まわりに喜ばれていると錯覚してしまうが、ジムは公共の場であって昨日入会した人も会員である。私は決してべたべたした人間関係がアットホームで雰囲気がいいと考えていないが、ここに来た人が権利を持ってどうどうと楽しくトレーニングしてくれることを望んでいる。そのためには全体に目を通して、ひとりびとりをリスペクトすることが大事だと考えている。それが私がジムを健全に保ち、雰囲気をよくしていくための答えである。
メソッドを持つことは大事だ、英語でも仮定法はこれとこの問題をおさえていたらだいたいとけるという理解のメソッドがあれば全体を理解できる。




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アーレントとMOB

2024-02-09 | Weblog
ハンナアーレントの「権力」は、「人びとが共に集合し、協力して活動するとき生まれ」共同する人間が多数であればあるほど「権力」は 大きなものとなり、「活動」を 通じた集団の共同行為によって形成・維持されるものである。この考え方はマックスウエーバーが「権力と支配」の中で語るような、他者の抵抗に反してでもおのれの意志を貫徹する可能性としての「権力」とは大きく異なっている点が特徴的である。権力と言うと力による何かによって抑制する力を思い浮かべるが、しかし私なりに解釈すると権力とはその群れが無秩序や暴力的な支配にならないように正しい秩序へと結び付けていく何かであり、それはハーレントのいう活動(言葉による人間関係の構築、異なった考え方の意見が言葉を通じて知られることで、共通理解と認識が生まれ、共通世界が実現させることを理想とする)を通して実現されると理解している。アーレントは「全体主義の起源」の中で共通世界が画一化されて全体主義になると他者の立場になって考えることが希薄になると言っているが、全体主義は権力が集中することだと理解しているが、運動クラブで起こる暴力やいじめなどの不祥事は監督の考え方ひとつで全体の方針や目的が決まる全体主義がひきおこす問題であろう。MOBの権力はそのひとりびとりのコモンセンスやエチケットによって決定づけられるもので、それはひとりびとりが安全でかつ、平等そして自由にトレーニングできる権利をうばうものにたいして抑止力となるものである。そしてさらにアーレントが言うように権力が活動によって生み出されるものならば、その群れは流動的であり、たえずそこでは意見交換がなされなくてはならない。話は少しずれるかもしれないが、私がよく群れに知的レベルの高い人たちが一定数存在することでその秩序が自然と保たれると言うのは、常にコミュニティの秩序が流動的な活動を通して守られ、導かれると考えているからだ。

参考文献
「暴力について―共和国の危機」 ハンナアーレント みすず書房
「ハンナアーレント革命について入門講座」 仲正昌樹 作品社



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