壬生狼(ミブロ)は新撰組のことである。
何を隠そう自分は昔、新撰組の生き方が好きであった。
彼らは幕末の激動の中、おのれの「義」を求めて戦った浪士たちであるが、この彼らの「義」をつらぬく精神に自分は大きな影響を受けていた。
今の自分からは想像できないが、自分も彼らのように自分の「義」を求めてアメリカに渡った人間である。
自分がアメリカに渡った理由は、ただ強くなりたいだけではなかった、自分は何者であるのか、自分は何のために生きているのかという存在証明が欲しかったことは事実であり、その答えを出すには、今の環境じゃまわりが弱すぎる。だから今までの馴れ合いを断ち切って出て行くことが、自分にとって最善のことと考えアメリカへと渡ったのだ。
またその当時実存主義などの書物をあさったが、実存主義は自分にとってなげやりであった。特にキルケゴールは、その存在証明や生きていく価値を絶望という段階をへて神という存在を発見することに結びつけたが、しかし彼の言う「人間は絶望的であるから神を信じなさい」と言う言葉はあまりにも抵抗があった。
「義」という言葉を定義することは難しい。
英語では「Justice」「righteousness」と訳されるが、いずれもこれは「正しさ」とか「正義」とも訳される言葉で、「義」ということばをあえていうならば、「間違いのない生き方」「真理」というのだろうか、自分はそれをボクシングに求めていたことは事実であり、新撰組も自分もそうであるが、その時代の中で、ある意味実存主義のように、自分の人生のすべてをゆだねれる何かを求めて戦っていたと思う。
しかし今立ち止まって思うことは、そんな生き方はバカらしいし、つまらない。
何が正しいかとか、何が真理だとか言うこと自体を何かに求めても、所詮答えなど見つかることはないのだ。
土方にしろ本当はそんな「義」など見えてなかったのではないか、彼はたぶん見つからない「義」を求め、最後はむしろそれよりも自分の死に場所を求めていたのではないか、だから土方の最後の戦いは「義」を求めて戦ったよりも「surside」であると思っている。
自分はこのボクシングを単なる「意地」でやって欲しくはないと思っている。
ボクシングをやりはじめる理由は人それぞれある。
自分のように、社会的環境に恵まれず、自分の存在価値を見いだしたい人間もいれば、中には人を見返したい、いじめられているので仕返ししたいというのもいるだろう。
しかしどういうかたちにしろ「意地」でボクシングをやりつづけていても結果は見えている。
スポーツは楽しむものである。楽しいからこそがんばることができるし、それが生き甲斐となりうるのではないだろうか。
自分には「義」というものはわからない。
ボクシング道などとわけのわからんことを言うのもいるが、その道がどこにたどりつくかは誰も説明できない空虚なものなのだ。
MOBがストイックを嫌うのは、本当にこのスポーツを楽しんで欲しいからである。
自分は「義」を求めて生きてきたが、しかしそんなものわからなかった。
しかし一生懸命楽しく生きて、そしてたどりついた道が、自分にとっての義ではないだろうかと思っている。
何を隠そう自分は昔、新撰組の生き方が好きであった。
彼らは幕末の激動の中、おのれの「義」を求めて戦った浪士たちであるが、この彼らの「義」をつらぬく精神に自分は大きな影響を受けていた。
今の自分からは想像できないが、自分も彼らのように自分の「義」を求めてアメリカに渡った人間である。
自分がアメリカに渡った理由は、ただ強くなりたいだけではなかった、自分は何者であるのか、自分は何のために生きているのかという存在証明が欲しかったことは事実であり、その答えを出すには、今の環境じゃまわりが弱すぎる。だから今までの馴れ合いを断ち切って出て行くことが、自分にとって最善のことと考えアメリカへと渡ったのだ。
またその当時実存主義などの書物をあさったが、実存主義は自分にとってなげやりであった。特にキルケゴールは、その存在証明や生きていく価値を絶望という段階をへて神という存在を発見することに結びつけたが、しかし彼の言う「人間は絶望的であるから神を信じなさい」と言う言葉はあまりにも抵抗があった。
「義」という言葉を定義することは難しい。
英語では「Justice」「righteousness」と訳されるが、いずれもこれは「正しさ」とか「正義」とも訳される言葉で、「義」ということばをあえていうならば、「間違いのない生き方」「真理」というのだろうか、自分はそれをボクシングに求めていたことは事実であり、新撰組も自分もそうであるが、その時代の中で、ある意味実存主義のように、自分の人生のすべてをゆだねれる何かを求めて戦っていたと思う。
しかし今立ち止まって思うことは、そんな生き方はバカらしいし、つまらない。
何が正しいかとか、何が真理だとか言うこと自体を何かに求めても、所詮答えなど見つかることはないのだ。
土方にしろ本当はそんな「義」など見えてなかったのではないか、彼はたぶん見つからない「義」を求め、最後はむしろそれよりも自分の死に場所を求めていたのではないか、だから土方の最後の戦いは「義」を求めて戦ったよりも「surside」であると思っている。
自分はこのボクシングを単なる「意地」でやって欲しくはないと思っている。
ボクシングをやりはじめる理由は人それぞれある。
自分のように、社会的環境に恵まれず、自分の存在価値を見いだしたい人間もいれば、中には人を見返したい、いじめられているので仕返ししたいというのもいるだろう。
しかしどういうかたちにしろ「意地」でボクシングをやりつづけていても結果は見えている。
スポーツは楽しむものである。楽しいからこそがんばることができるし、それが生き甲斐となりうるのではないだろうか。
自分には「義」というものはわからない。
ボクシング道などとわけのわからんことを言うのもいるが、その道がどこにたどりつくかは誰も説明できない空虚なものなのだ。
MOBがストイックを嫌うのは、本当にこのスポーツを楽しんで欲しいからである。
自分は「義」を求めて生きてきたが、しかしそんなものわからなかった。
しかし一生懸命楽しく生きて、そしてたどりついた道が、自分にとっての義ではないだろうかと思っている。