脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

壬生狼  

2008-05-31 | Weblog
壬生狼(ミブロ)は新撰組のことである。
何を隠そう自分は昔、新撰組の生き方が好きであった。
彼らは幕末の激動の中、おのれの「義」を求めて戦った浪士たちであるが、この彼らの「義」をつらぬく精神に自分は大きな影響を受けていた。
今の自分からは想像できないが、自分も彼らのように自分の「義」を求めてアメリカに渡った人間である。
自分がアメリカに渡った理由は、ただ強くなりたいだけではなかった、自分は何者であるのか、自分は何のために生きているのかという存在証明が欲しかったことは事実であり、その答えを出すには、今の環境じゃまわりが弱すぎる。だから今までの馴れ合いを断ち切って出て行くことが、自分にとって最善のことと考えアメリカへと渡ったのだ。
またその当時実存主義などの書物をあさったが、実存主義は自分にとってなげやりであった。特にキルケゴールは、その存在証明や生きていく価値を絶望という段階をへて神という存在を発見することに結びつけたが、しかし彼の言う「人間は絶望的であるから神を信じなさい」と言う言葉はあまりにも抵抗があった。
「義」という言葉を定義することは難しい。
英語では「Justice」「righteousness」と訳されるが、いずれもこれは「正しさ」とか「正義」とも訳される言葉で、「義」ということばをあえていうならば、「間違いのない生き方」「真理」というのだろうか、自分はそれをボクシングに求めていたことは事実であり、新撰組も自分もそうであるが、その時代の中で、ある意味実存主義のように、自分の人生のすべてをゆだねれる何かを求めて戦っていたと思う。
しかし今立ち止まって思うことは、そんな生き方はバカらしいし、つまらない。
何が正しいかとか、何が真理だとか言うこと自体を何かに求めても、所詮答えなど見つかることはないのだ。
土方にしろ本当はそんな「義」など見えてなかったのではないか、彼はたぶん見つからない「義」を求め、最後はむしろそれよりも自分の死に場所を求めていたのではないか、だから土方の最後の戦いは「義」を求めて戦ったよりも「surside」であると思っている。
自分はこのボクシングを単なる「意地」でやって欲しくはないと思っている。
ボクシングをやりはじめる理由は人それぞれある。
自分のように、社会的環境に恵まれず、自分の存在価値を見いだしたい人間もいれば、中には人を見返したい、いじめられているので仕返ししたいというのもいるだろう。
しかしどういうかたちにしろ「意地」でボクシングをやりつづけていても結果は見えている。
スポーツは楽しむものである。楽しいからこそがんばることができるし、それが生き甲斐となりうるのではないだろうか。
自分には「義」というものはわからない。
ボクシング道などとわけのわからんことを言うのもいるが、その道がどこにたどりつくかは誰も説明できない空虚なものなのだ。
MOBがストイックを嫌うのは、本当にこのスポーツを楽しんで欲しいからである。
自分は「義」を求めて生きてきたが、しかしそんなものわからなかった。
しかし一生懸命楽しく生きて、そしてたどりついた道が、自分にとっての義ではないだろうかと思っている。

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日系人とでんでん太鼓 

2008-05-30 | Weblog
20年前の話しである。
試合を控えた自分の前に一人の老人が現れた。
彼は「俺はお前をずっと見ているが、お前にボクシングで大切なこと(基本)を教えてやろう」と言うようなことを言うではないか。
最初、試合前だし、じいさんがかなり胡散臭かったので「必要ないよ」と、けんもほろろに断ったが「お前は他の奴とスピードが桁外れに違う」と言う、彼のほめ言葉にいい気になって「それじゃあ教えて見ろ、何だ」ということになった。
すると老人はおもむろにでんでん太鼓を取り出し、それを自分の目の前で回して見せた(これはカラテキッドでも同じ事をやっていたが、この出来事はその映画が放映される前である)。
そしてこう言う「パンチというのはこの太鼓のように自然にうつんだ。自然にうつパンチが一番はやく、強い、どうだやって見ろ」と。
この時、彼は自分に日本語で説明していたのであるが、この「自然」という言葉がパンチをうつ時に、自分に伝えたかった一番大切なニュアンスではなかったのだろうかと思っている。
その時自分はこのでんでん太鼓を見て、自分は腕や肩の力だけではなく、腰の力も抜いて全体をリラックスした状態でパンチをうたなくてはいけないということを学んだことは確かである。
あの何とも言えない、みょうなでんでん太鼓の動きが、自分に自然にというニュアンスを教え、パンチの基本のヒントをあたえたのだ。
この話しはまるでカラテキッドのような話しであるが、ハワイでは日系人がこのようにパンチの基本を教える時、でんでん太鼓を用いて教えることもあるらしい。
これはカラテにも通じることであるが、ハワイではこの教え方が日系人の間に伝統的にひろがっている。
東洋人は西洋人に比べて論理的ではないと言われる。
しかし東洋人はこの自然の動きから何かを学ぶことができる。
でんでん太鼓ひとつにしてもそうである。
西洋人は「なぜ」「どうして」ということがなければ物事を理解しないし、できない。
しかし東洋人は、その自然な動きを見て感じる心がある。東洋人は物事を感じて何かをつかみとろうとする。それが東洋人の偉大なところであると自分は思っている。
5、6年前、祭りの駄菓子屋か何かの屋台ででんでん太鼓を見つけた。
なつかしさのあまりそれを手に取りずっと見続けていたが、その時いろんなことを思い出したが、このでんでん太鼓は自分にパンチをうつヒントをくれた一番思い出深い代物である。

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ダイエットも真剣だよ

2008-05-29 | Weblog
最近女性の入会者が増え、女性の比率が男性をうわまわってきた様子だ。
入会者の多くは、友だちとか友だちの友だちでたぶん会員の人が「ここはいいよ」と宣伝してくれたのだろう、そのことにたいへん感謝している。
自分としては来てくれた女性には、極力敬意を払うようにしている。
自分にとって敬意を払うというのは、ジェンダーを理解すると言うことで、以前に男と女はかっこいいと感じる基準が違うとブログで書いたが、男性特有の考え方をおしつけたり、練習法をおしつけたりしないということだ。
最近では男性も多くなってきたが、女性がやっきになってダイエットするのもそうだ、彼女たちがあれだけだいえっとにお金をかけ、努力するのは、ダイエットをしてきれいな身体をつくりかっこよくなりたいからであって、こういうことからしてもジェンダーの違いが見えてくる。
だから自分はダイエット目的を決して軽んじてはいけないと思う。
なぜなら男がボクシングをして、強くなってかっこよくなりたいという気持ち同様、女性もやせてかっこよくなりたいという気持ちがあるからだ。
ダイエット目的というとどちらかというと、真剣さにかけるような気がするが、しかし彼女らにとっては真剣なのである。





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3人の仲間たち

2008-05-27 | Weblog
ボクシングクラブを経営して、3人の人たちと親しくさせてもらっている。
それは同盟ジムの3人、JOHNNYをはじめ勘助さんデビルであるが、それぞれからいい刺激を与えられていることは確かである。
もうすぐその勘助さんの試合があるという。
勘助さんは、自分とだいたい同じぐらいの年齢で、中年になってからボクシングをはじめた、いわゆる自分たちで言えばおやじクラブにあたる人である。
自分がボクシングをしていたのは、学生の頃なのであまりよくわからないが、仕事をしながら練習をし、しかも試合にでることは並大抵のことではない。
好きでやっているからできることだが、しかし年齢や立場のことを考えると、ボクシングが好きであることと、強い気持ちがなければできないことだと思う。
自分のラテン語の好きな言葉に「Amat Victoria curam(勝利は苦労する者を愛する)」という言葉がある。
まさにこの言葉は戦う中年戦士のためのことばである。
肝心な試合の日は聞いていないが、是非がんばって勝利してほしいと願っている。




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思い出と忘れ物

2008-05-26 | Weblog
自分はアメリカに大きなものをおいてきている。
ボクシングの「やりのこし」「悔い」である。
今になってはどうでもいいことであるが、しかし帰国して帰ってきた時は、何か大きな忘れ物をしたようで、限界を感じて引退したので、無理だとはわかっていたが復帰して、再びトーナメントにはでれないのだろうかということを願っていた。
だからむこうへ行くことがあっても、決してジムには立ち寄ることはなかった。
それだけ自分にとってまけたショックは大きかったのだ。
しかしそれから10年、そうしたい気持ちが起こり、自分はジムに再びジムにおとずれた。
何も変わっていない昔のままであった「確かあのコーナーで悔しさのあまり唇をかんで悔しがっているところを、ジョージが「強くなりたいか」と声をかけてくれた場所だ」なんて思い出しながらずっとながめていた。
すると何人かの人間が自分のところに近寄ってきた。
「OKAZAKI YOUだろ」!信じられないことだが、それは当時一緒にボクシングをしていた連中だった。彼らは引退してここでボクシングを教えている。
その後、彼らから当時自分も含め、強かった人間が今何をしているかということを聞いた。
本当に懐かしかった。心がいやされた出来事であった。
引退した後は、決してここを訪れることはないと思っていた。
しかし10年の歳月が、自分の心を変えここへと運んでくれたのだ。
思い出はすぐには思い出にはならない、だから思い出である。
自分のように、最後の試合でまけて大きなやりのこしをしてしまったが、しかし時がそのことを解決し、大きな思い出へとかえてくれたのだ。
若い人に「試合に出てみないか」というとよくこういう答えがかえってくる。
「試合にでてみたいと思うが負けるのがいやだ」、中には負けたら一生懸命やったことが無駄になってしまい、ショックだからというものもいるが、でもしかし勝ってもまけても、それはそれ自分のように、本当に一生懸命がんばったならば、必ずそれは大きな思い出として、自分の心の中に残り満たすことができる。
確かにまければその時は大きなショックかも知れない、しかしそれは10年後20年後に大きな思い出となることであって、10年後20年後、自分の生き方を振り返った時、何もなかった無駄な人生を生きるよりも、たとえまけても、こういう思い出をつくるほうが、はるかに自分を誇れると思う。
だから一生懸命がんばるのではないだろうか。
本当に自分はやったと思うから言わせてもらうが、勝ったとか負けたとかせこいことを気にするよりも、とにかくやってみることである。
自分はよくトロフィーやメダルのたぐいを、大事に家においてかざっている人がいるがよくわからない。
悪いとは言わないが自分はあんなものなくしてしまった。
自分にとって大きなことは勝つとか負けるではない、あのでかい大国にひとりで立ち向かっていったことが、何よりも自分にとっての大きなほこりであり、大きな思い出であるのだから、あえてそんなものにこだわる必要がない。






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積極型無神論と消極型無神論

2008-05-23 | Weblog
カンサンジュンの政治学入門という本の中で、アメリカのデモクラシーとフランスのデモクラシーについて、お互いは異なると書いてあった。
彼の主張によれば、フランスは政教分離を徹底して行い改革したが、アメリカはそれが完全なかたちでは行えず、キリスト教原理主義につながりの深い、ブッシュ政権のようなかたちに現れているという。
少し前CNNでアメリカで、創造論による博物館ができたと報道された。
創造論とは神がこの世界をつくったという前提で、聖書にかかれてある想像の出来事を信じることであるが、この創造の過程を展示物や資料をつかって順序立てて説明することを目的とした博物館が建てられたという。
日本では進化論が主流をしめているので、こんなものをたてることは反教育的のように思える。
しかしアメリカでは、この世界を神が創造したと考えている人が半分以上いるので、こういう博物館ができてもさほど不思議なことではない。
多くの人がここに訪れているという。
アメリカを知る上で最も重要なキーは「キリスト教」である。
自分は留学する人間には必ず教会に行くことをすすめているが、アメリカではたとえ無神論者であっても、キリスト教は彼ら彼女らの生活の中に深く関わっていて、留学すると必ずそういう布教活動をしていて「お前は神を信じるか」と聞いてくるのがいる。
「余計なお世話じゃ」と思うのだが、彼ら彼女らにとって実はこのことを信じるか信じないかが大きな事で、こっちが信じないという理由を述べるまでは、徹底して聞いてくるのである。
おおげさであるがアメリカでは、このキリスト教を無視しては生きていくことはできない。
かならずなんらかのかたちでかかわっていることが多く、特に思想や哲学などを勉強する人には無視することはできない、大きな思想のひとつでもある。
私が「教会に行け」とすすめるのはここに行けば、ある程度彼ら彼女らの考え方が見えてくるからであり、教会を選べばインテリジェンス的なものも十分学ぶことができる場でもあるからである。
中にはひつこく信じろと言う人間もいるが、自分はこういう立場でこうだから来ているんだということをはっきり言うと、日本のように村八分にされることはない、やばいと思えばにげればいい、とにかく自分の立場を主張できる機会がもてる場であることは間違いない。
10年ぐらい前宗教に関するあるデーターがだされた。
どういうデーターかというと、アメリカのインテリはどの宗教に属しているかという内容のデータ(ある雑誌社調べ)である。
その統計ははっきり覚えていないが、おもしろかったのが無神論者が一番多いということで、アメリカのインテリ層の多くは、神の存在など信じていなかったことだ。
しかしこの無神論ははっきりいって日本人の言う無神論とは違う。
基本的に日本人の多くは無神論であると言われているが、この無神論はただ信じるものがないからという半ば消去法的なものではない。
信じないからそこには理由があるのだ「だから私も無神論です」なんていうと「なぜ」という答えが返ってくることは間違いない。
なぜならアメリカの無神論者は神はいるんだという前提の中で、それらを疑い、考え、吟味した上での結果であるから当然そこには理由がないといけないのである。
こう考えると無神論には積極型無神論と消極型無神論がある。
恐らく日本人の多くは消極型無神論であろう。







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女性の自立

2008-05-22 | Weblog
最近女性のがんばりが目立つ。
試合に出場する影響もあってか、特に20代前半の女性が、活気づいてきたように思える。
自分はこのクラブを設立して、女性について考える機会を多く与えられたのだが、少し前「殴られる女達」という本をブログの中で紹介した。
たいていのDVは男性が女性を支配させるために、暴力をもちいると言うことが書かれてあったが、考えようによっては女性も肉体的に強くなければならない、そんな時代になったのではないだろうか。
「vulnerability」という言葉が心理学用語にある。
これはいじめや暴力を受ける側のもっているひとつの原因を意味する言葉で、あえて訳すならば「攻撃誘発性」と訳されている。
このことばが意味するように攻撃を受けるがわにも、何かその暴力を誘発する原因があり、DVも然りなのである。
実際にその本にもDVは突然起こるわけではない、巧みなかたちで徐々に起こり女性の尊厳を失わせ支配していくということが書かれてあったが、暴力をうけるすきがあってはだめだ、いつかは気づいてくれるだろうと思うよりも、今こそ女性も肉体的にも精神的にも、強くなって行かなくてはならないのだろうかと思っている。
私はここ高知の現状をよくわかっているわけではないが、いまだに「嫁をもらう」という言葉が当たり前のように、何のためらいもなくつかわれている様子から、まだまだ女性が自立するには時間がかかるところであると思っている。
少しおおげさかもしれないが、女性の自立はDVをreduceできるのではないだろうか。
そのため女性がもっと肉体的にも精神的にもボクシングでみがかれ強くなってほしいと思っている。
自分は女性に、そのような自立をうながすことができればいいと思っている。



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コモンセンスを磨く

2008-05-20 | Weblog
少し前「コモンセンス」と「礼儀正しい」ということは違うと言ったが、自分が思うには今の時代に必要なのは「コモンセンス」であると思う。
「礼儀」と言っても本当の意味での「礼儀」というのはたぶん「コモンセンスも含んでいるのであろう、がしかしそれがおもに養成されるべきところの、学校のクラブなどで求められる礼儀はあきらかに違うような気がしてならない。
元来のクラブで言う礼儀というのは、おもにその組織に順応させるためのものである。よくいうことを聞かない後輩が、先輩のリンチに会う事件があるが、そこでは先輩や師に対しての服従が求められ、一般的に気持ちのいいあいさつをし、気をつかい、服従するものが、礼儀正しい者とされる傾向があると自分は見ている。
しかし「コモンセンス」は自分で考えて行動し磨かれるものである。
「コモンセンス」は「共通認識」「共通感覚」のことであり、一般ではこれは「常識」と訳されるが、これは社会の一員となるための重要な感覚であり、その感覚がなければ常識はずれである。
自分ながらの解釈であるが、私は「コモンセンス」を、相手を不快にさせないこととして受け取っている。
失礼がないというが、相手に対していやな思いや、不愉快な思いをさせることが失礼のないことであって、この感覚を磨かなければ、きちんとした大人にはなれないと思う。
自分の職場には営業マンがしばしば訪れるのだが、時々大きい声で「こんにちは」とあいさつし「すいません何々と申します実は」と笑顔でさわやかに入ってくるのだが、なんか変な気分だ。
この手の営業マンは、大きい声であいさつすればそれでいいと勘違いしている。
最近仕事のことで、いろいろと考え事をしていた時に、この調子ではいってこられべらべらとはなしかけてこられたので「今人と話したくない気分なんだ」と言ったが、私から言わせれば、まさに彼はコモンセンスが欠けているのだ。
服従することを強制する体育会系の礼儀正しさは、いわゆる社会では通用しない、コモンセンスは磨かれるものである。
あいさつや返事は基本として大事なことだが、ただ大きい声で挨拶をし、パターン化されたことをインプットするだけでは不十分なことである。
人にこんなことをしたら不快な思いをするんじゃないかとか、こんなことをやったら失礼にあたるんじゃないかということを、パターン化して強制するのではなく、人間関係の中で磨かれ考えなくてはならないと思う。
さらにコモンセンスに長けている人は、もっと人のことを考え、行動し、動くことができる。ヤンキースの松井はこのコモンセンスに長けた人だと思う。
彼は地震やその他の災害の時に、かなり大きい金額の寄付をしているが、言動を見ていても、彼は野球ばかりやっているような野球バカではない、人のことを思いやり、人のことを考えることができる、しっかりした「コモンセンス」をもった人であることがわかる。
確かに松井は愛読書は「聖書」というぐらいまじめな性格であるが、しかし彼がメジャーリーグという大きなアメリカ社会の中でより一層コモンセンスがみがかれたと言ってもいいかもいれない。
これに対して最近相撲部屋で暴力事件というのがあったが、彼らにはコモンセンスなどない、ずっとそういう縦社会の中で服従を強いられてきたのであるから、こういうしつけと称して暴力事件が起こることは無理もないことである。







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名探偵コナン

2008-05-19 | Weblog
自分の好きな漫画がある。
それは「名探偵コナン」である。
「コナン」は探偵ものの漫画で、だいたい「金田一」と同じ時期に書かれたので、よく比較されるが、自分としては「コナン」のほうが、展開がスムーズなのでおもしろく、ほとんどの作品はレンタルでかりて観た。
自分がコナンが好きな理由は、合理的というか筋がとおっているからである。
よく事件を解決した後に、その動機が肉親のかたきであっても、悪いことは悪いと言い切るところなんかは、日本人の求める道徳をこえた、ダンテ的な裁きを彷彿させるのであるが、恐らく作者は漫画の内容や考え方などから、英文学や中世の文学の影響を大きくうけていると思われるが、内容もどちらかと言えば西洋的であり、怨恨などのもつれがなく、単純な面もあるが見ている人には気持ちがいい。
また必ず事件の最後には必ず、物的証拠というものがでてくる点も興味深い。
漫画なので、特に尊属殺人なんかは、物語の筋がとおっていたら、後は犯人が自ら自白すればそれで物語は完結するのだが、しかしそれでも証拠を最終的な決め手としてもってくるところなんかはかなり合理的である。
まあ漫画ごときでそこまで考えるかと思うが、少し前からはまっている。










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ドメスティックヴァイオレンスを歴史的に考える

2008-05-16 | Weblog
イルゴイエンヌの最近訳された本で「殴られる女達」という本がある。
まだ全部は読んではいないが、これは女性のドメスティックヴァイオレンスをあつかったもので、男の自分としてはたいへん考えさせられる本である。
この本はおもに、診察におとずれた患者の体験がつづられているが、それにしても驚いたのは、フランスという国は、意外とドメスティックヴァイオレンスが多いということだ。
自分などは親しい友人もいるせいか、フランスという国を自由な個人主義が徹底している先進国と見ていたのだが、少し見方が変わったところもある。
彼女はその著書の中で「攻撃」と「暴力」を分けている。
ここで詳しくはのべないが「攻撃」は感情的なものから来る一時的な行為で、「暴力」はある目的をもって行われる行為である。
ここで問題になっているのは「暴力」であるが、ドメスティックヴァイオレンスは、男が女を支配するための「暴力」であるというのだ。
交換のシステムを提唱した、レヴィーストロースと言うフランス人がいる。
彼の提唱した「交換のシステム」というのは、人間が生存していくための基本的なルールであり、物々交換という言葉からもわかるように、人間は互いにあるものを交換することで生存するというわけで、それは女性も例外ではなく、いにしえの世界ではこの女性を交換の材料「もの」と考え、差し出すことで、子孫を繁栄しテリトリーを守り広げてきたと言うのだ。
そう考えれば「暴力」という力が、特に女性に対してどのように働いていたかということが理解できる。
よく西部劇などで女性の髪を引っ張って、さらっていくシーンがあるがあれこそまさにそうである。
日本などでも、敵国と同盟を結ぶために、自分の娘を敵国に嫁がせるということがあったが、これもまさに当時女性がものであることを意味している。
少し前から、今までの歴史は政治史中心で、文化学的な立場で歴史をとらえるということが挙げられていたが、ここまでドメスティックヴァイオレンスが問題になり拡がっているのであるから、歴史を政治史から見るだけではなく、文化学的に見て教えることも大事なことではないだろうか。
特に彼が提唱する交換のシステムによって、世の中がなりたちその交換の材料として女性が扱われてきたことは事実である。
歴史というのはただ年代を覚えて、そこで何があったかと言うことをおぼえることではない、解釈学において「sizin liben」(生活の座)という言葉があるように、当時の文化の中に入っていき、彼ら彼女らはどう生きたかということを、考えることもひとつの歴史を問うあり方ではないだろうか。

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