脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

감사드립니다 感謝いたします

2020-08-30 | Weblog
うちには見学の人がよく来てくれるが、時々経験者が健康維持って言ってたけど結構レベル高い人いますねと言う。私は特に試合に出ることに力を入れていないし、うちの会員の人たちも何もそこまでと思っていると思う。でも正直言ってみなさんすごく上達していることは確かである。ボクシングもみんなが同じということもなく、自由な自分のスタイルでトレーニングしている、たぶん強くなりたかったらこれをしろという固定したトレーニングもあるのだろうが、しかしそういう言葉はうちのクラブの人たちには暖簾に腕押し、中には有名なボクサーの真似をしたりする人もいたりもするが、ここではダイエットから健康維持にいたって全員がボクシングを楽しんでいる。
うちでは強くなることよりも楽しくトレーニングしてもらいたいと言うのがモットーだ、人をたたきのめしたり、人を倒すと言うことに関して、そんなことを強調して教えないので、人を倒したり、傷つけたりする考え方はないが、しかしその分ダイエットの人も気軽に、そして平等にトレーニングできる、それがうちのクラブである。
そして何よりも私が感謝しているのは、そういう主旨を理解してくれて協力してくれる会員の人たちだ。自分がうまくなるのと同様にまわりがうまくなることにも喜びをおぼえてくれておしみなく協力してくれるベテランの人たちには本当に感謝してもしきれない、うちのジムは本当に彼、彼女らあってのジムだと思っている。



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群れとコミュニティの違い

2020-08-28 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。

うちのクラブの哲学のページからの抜粋。
「ボクシングと言うスポーツはわるい意味で敷居が高いです、ストイックであるとか暴力的でこわいとか、しかしMOBはボクシングそのものが与えているイメージを払拭し、集まってくる人間の質を改善し、ボクシングクラブに普通の一般のしかも文科系クラブタイプの人や女性や中年が気軽に集まって来れるような雰囲気づくりをしていますし、現にそういう人たちによって構成されている文科系ボクシングクラブと言っても過言ではありません。」

これは実際私が持っている格闘技のクラブのイメージ、そしてそのイメージからの脱却を目指すことで一般の人たちが平等にトレーニングしてもらえると考え方をまとめた一文である。
そしてこういう格闘技のクラブにおいて最も大事なことは「集まってくる人間の質を改善し」と記しているが、コミュニティを形成するにおいてこの点が一番大事なことだと思っている。格闘技はコンプレックスが強くて、しょうむない競争心を持った人間が集まりやすいスポーツだと私は考えている、そういう人間が集まるとなわばりを意識するようになる。公共のスポーツクラブなのに試合に出る人間が優遇されて、さも自分たちはここの中心だと錯覚させたり、元ボクサーか何か知らないがそういう人間たちが集まって来て先輩後輩のへんな人間関係を持ってきたり、そしてDQNが友達を連れてきてかたまるのは、自然とそうなるのだろうが、それは自分たちがその空間を支配したいと言うある種のなわばり意識から来るもので、犬が電柱に小便をかけて自分のなわばりを示す行為となんらかわらないと思っている。
一方ジムは公共の場であるときちんと理解している人たちは、しょうむない競争心や人間関係ををジムに持ってきたり、なわばりを確保するためにかたまることはない、私がへたれやオタク、文科系を歓迎するのは、ジムのコミュニティを考えた時に、目立つことや自分を大きく見せるために意味のないスポーツ自慢をする輩よりも、彼、彼女らのほうが、公共性を守り、平和的であると考えているからである。
さらに知的レベルもある程度考えなくてはならない要素だ。正直、やんちゃですとか勉強嫌いですと言うような輩が集まると、哲学であるとか倫理学であるとかそういう物差しが機能しないし、正しい判断ができない。よく言うことだが、校則をやぶる、机に座ってまともに人の話を聞いてこなかった人間がいくら個性がどうとかいっても、コミュニティを理解して客観的に何が正しいかなんて判断できないと思っているが、そういう人間たちが集まると恣意的で群れが暴力的になったり、なわばりを意識して支配的になってしまう傾向がある。
うちのコミュニティはみなさんが平和でかつ安全、平等にトレーニングするためのしっかりとした哲学がある、そういう中で何が平和的で平等かと言うことを考えて行動するには、ある程度知的レベルが必要だし、そういう人たちによってコミュニティが形成されると言うことは理想的であると思う。若い人間とおっさんがお互いカーッなってけんかのようなスパーリングをしたり、生意気そうな人間が入って来たら叩きのめしてわからせるとか、そういう暴力的な行為は徹底して排除、ここではカーッとなったり、いじめに近いようなスパーリングはしないさせない、ボクシングは血の気の多い人間が集まってくるから多少の乱暴は仕方がないとか、強くなるためにそれぐらいきついことをするのが当たり前だと言うどこからどう考えても一般社会ではおかしいだろと言うようなアホな常識は存在しない、暴力を見逃さない、暴力にたいしては新選組の局中御法度なみに徹底して厳しい態度をとるのがうちのクラブだ。




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歴史に学ぶ Vercingétorix(ウェルキンゲトリクス)編

2020-08-21 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。

感染防止徹底宣言ステッカーというのがある。それぞれがチェックシートにチェックをつけてその条件が満たされればうちの店は感染防止対策を徹底してやっていますよと言う目安になるようである。しかしこの感染防止徹底宣言ステッカーをはっているお水系の店から感染者が出たようである。
確かに店を稼働させないと生きてはいけないと言うのも確かだ、しかしだからかといってこの時期無理に店を稼働させると言うことに関しては私は賛成できない。おそらくこういう問題はステッカーをはっているとか貼っていないの問題ではないと思う。コロナウイルスはいつどこで誰がかかるかわからない、しかしにもかかわらずこういうステッカーを作成して自分のところは安全です、大丈夫だから来てくださいと言うことに関してはいささか無責任なような気がするが、うちは何々しているから大丈夫、来てくださいと言う人ははたして限界と言うものをよく理解して運営しているのだろうか。
私はジムに入る前に来る人の熱をはかったり、少々値段が高くてもアルコール消毒には70%から75%のものをつかっているし、Drなどの専門家のアドバイスなんかをもらってなるべく感染しないようにつとめているが、しかし同時にきちんと限界を決めてガイドライン化している。
うちのクラブのプライオリティは会員とトレーナーの命と安全、そしてその人たちの社会的立場を守ることである。だからこれ以上続けるのは危険だと判断した場合は会員やトレーナーの安全のためにも、この先ジムがどうなろうが休会しなくてはならない時もあると考えている。私が第一に考えているのはジムをオープンさせることではなく、会員とトレーナーの命と安全、そして社会的立場を守ることだ。この時期でもうちには見学によく来てくれるのだが、その時私は呼び込むようなことは言わない、むしろもし来てくれるのなら、人ごみの多いところに行ったり、自分を大丈夫だとたかをくくらないで、ひょっとしたら自分もと言う気持ちを持って日々の行動に気をつけてほしいと伝え、そのことを真摯に受け止め、つとめてくれる人に来てもらっている。

私の好きな歴史の人物にVercingétorix(ウェルキンゲトリクス)と言う人がいる。彼はガリア戦記によれば最もカエサルをくるしめたリーダーだと言われている人物で、フランスの最初の英雄と言われているそうである。彼らはガリアに進行してくるカエサルと戦ったわけであるが、最初は勝利したり、相手を追い詰めたりもしたのだが、しかし最後はガリアの都市アレシアに追い詰められ、ローマ軍に包囲され、そこで部下達の保全を条件に降伏、投降し、そして、その後、ウェルキンゲトリクスはカエサルの凱旋式が行われた時に処刑されたそうである。 私は彼の行動に感銘を受けたのだが、その時戦いにまけて、すべてのものをうばわれて、処刑されるかもしれないと言う心境はどうであったか、またとらえられた時に部下のために命をささげることができるのだからなぜ最後までたたかわなかったのか、そしてなぜ命乞いせずに部下の保身を条件にしたのかということを深く考えた。
おそらく彼は最悪のシナリオも考えて行動していたと思う、そして同時に限界と言うものがわかっていたのだ、だから彼は追い詰められた時に、最後まで戦わずその群れの兵士のために自らを投降させ命を救う道を選んだのだと思う。
群れを率いると言うことは、時にはその限界を知らなくてはならない、その群れをよく観察して冷静に判断して、そしてその限界を知って、彼のようにその群れの人間の命を顧み、生かすためには何かを犠牲にしなくてはならないこともあるのだ。コロナにたいして大した戦略もないのに無理にジムを運営していくのは無理がある、自分たちの無力さと限界を知って、みなさんの命と安全のために引くときはひく、そしてある程度の犠牲もいとわず行動していくことが今のこの群れを守っていくためにできることだと、そのことをVercingétorix(ウェルキンゲトリクス)の行動から学ぶことができる。




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Lord, tell us how to stop the covid 19

2020-08-17 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

私にとって不快なことがある、どう不快かと言うと某小売業者の人たちの行動である。アイドリングをして長時間車で寝る、くわえたばこ、ファッションなのか威嚇なのかわからないがずぼんをおろして歩くそういう姿をしょっちゅうみるからだ。特にアイドリングは自然環境保護法と言うのがあって禁止されているが、こういう事柄は会社のコンプライアンスの問題である。アイドリングやくわえたばこは普通、会社と言う媒体を通して、自分はここの社員である、あるいはつとめていると言う感覚があればやらないだろうし、こういうことをしたら会社にとって不利益になることは理解できる、しかしそういうことを考えられないと言うのはそういう感覚が乏しいからだ。当たり前だがそういう感覚は社会人であれば持っていなくてはならないと思う。
今後コロナウイルスが蔓延する事態において、うちのクラブで問題にしなくてはいけないことは集団をどうとらえるかと言うことだ。
マスクをしないで人ごみをうろうろしたり、行ってはいけないところに行って、かかるはずはないとたかをくくる、社会やコミュニティ感覚がかけた人間はまわりのことを考えて行動できないのであぶなっかしい、特にうちのクラブの人たちは自分がもっていて人にうつしてしまったらと、配慮して行動してくれているので、この事態においては社会やコミュニティ感覚を持たない無責任な人間は来てもらっては迷惑だ。きついことを言うが社会でそれなりにやってきた人は一生懸命努力してそして今その立場にいる、そしてまじめに一生懸命生きてきた人たちには社会的責任がある、それを軽率で、責任もない、何かおこれば責任などとれないただ迷惑をかけるだけの人間に迷惑をかけられたくないと言うのが本音だと思う。何度も言うが自分は大丈夫ではない、自分が持っていて、もしそれをうつしてしまったらどうしようと言う気持ち持って行動しなくてはならない。今この事態で考えていただきたいのは自分だけではなく、まわりに対する配慮と思いやり、その自分のちょっとした軽率な行動が人に迷惑をかけてしまうかも知れないと言うことを考えて行動していただきたいと言うことだ。うちのクラブは共同体である、みなさんここに来て人と会ってトレーニングするのを楽しみにしてくれている、刺激をうけたり、励まされたり、慰められたり健全に機能している、そしてそれぞれがお互いを気づかうことができる共同体である。そういう共同体を私はなるべく休会せずにこの場を乗り越えていきたいと思っている。今本当にみなさん協力してくれているということが雰囲気でわかる、これだけ手厳しいことを言っても真意をうけとってくださり協力的な気持ちを示してくれる会員の人たちには感謝している。そして100%大丈夫と言う保証はないけれども、それぞれが少しでも休会させてはいけないと言う気持ちを持ってもらえればありがたいことだし、そのみなさんの協力、気持ちと思いやりを持ってこの困難を乗り越えていきたいと思っている。


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勝つことが自信になるのではない、認められることが自信になるのだ

2020-08-17 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

今週から初級韓国語を教えることになったが、韓国語だけではなくうちのクラブでは毎週英会話のクラスを持っていて、そのレッスンは友人のボランティアによるものだ。うちのクラブで語学をボランティアで教えているのはひとつは英語などの語学はアドバンテージになるので、せっかくだから学んでもらおうと言う気持ちと、そしてコミュニティはそういう学術的な要素や雰囲気を持たないと程度のひくい人間が集まって来て半グレみたいな集団になってしまうからで、そうならないために語学をジムの学びとして会員の人たちに提供している。コミュニティは責任者が言葉や作法を知らないと群れの質も悪くなる。その責任者のまわりにどういう人間が集まっているかと言うことイコールその群れの質だと思っているが、責任者がアホだとまわりに集まってくるのは同等のレベルかそれ以下の人間、そういう人間が集まるとその群れが暴力的になったり、公共性よりもなわばりを意識して支配的になったりする、言わばサル山のサル状態だ。一般的にお勉強嫌いですと言うような人たちが集まる学校とそうでない学校では雰囲気が違う、いくらあいさつができて敬語もどきのことができても、根本的にきちんと学校で必要なことをやってきた人とそうでない人とでは差がある、体育会の掟など一般の大人、さらにインテリジェンスが高い人には通用しない。きつい言い方をするようだが、ジムは公共の場、その場所を一般化して人がきやすくするためにはある程度常識的なことが通用する場でなくてはならない、そういうことを踏まえて学術的なことを重要視するというのもジムの雰囲気をよくするための戦略である。

ボクシングなどの格闘技は自己顕示欲の強い人間が多い、所謂目立ちたがり屋である。かっとなって敵意むき出しでなぐりかかっていったり、自分よりも実力のない人間をいいところをみせようとボコボコにしたり、半グレみたいなやつらが集まると自然とそのような暴力的な行為が容認されていく、責任者はややこしいからなにも言わなかったり、ボクシングだからそういう血の気が多い人間が集まっているとごまかすけれども、私はボクシングと言う暴力をあつかうスポーツだからこそ、こういうことに関しては徹底して厳しく接することが必要だと思っているし、そうしている。

雰囲気は人がつくるものだ、私の管理の仕方は人をリスペクトしてよさをひきだす、そしてわるいところを出させないように気をつけることだ。しかしそれは決してほめてのばすとか体育会の掟のようなものを押し付けるような小中学生の低レベルなことではなくてレスペクトできるかどうか、そして相手がレスペクトされているかどうか感じるかということである。
うちのクラブではよく譲りあってくれているが、その譲り合いは余裕がないとできないことだ。そしてその根本は相手を認めることだと思う。
余裕のない人間は、世の中ではたいしたことがないからと、たかだかボクシングが人よりもできるぐらいで変な闘争心を向け、人と競う、そういう人間は仕事や学歴、人から認められていないと言う承認要求があって、それがねたみやコンプレックスになって人を支配したいとおもったり、攻撃的になるのだ。どれだけ減量したとか、ボクシングでどういうすごい経験をしたと、ベラベラと自慢げに話してマウントをとろうとするのはコンプレックスの裏返し、言葉をかえせば余裕がないからそういうくだらない話でマウントをとって有利に立とうとするのだ。でもしかし人はそこで受け入れられたり、レスペクトされていることを感じたら、そういうくだらない要求はなくなり、心に余裕ができる。人に何かを譲るのは確かに建て前的なものもあるが、日ごろから本当にリスペクトされていると感じるならば、人を信頼し、お互いをリスペクトすることができる、そして余裕が必ず出てくると信じている、相手のよさをよく見て理解してそれを徹底してリスペクトする、それが私の管理の仕方だ。

ハワイのトレーナーは競技者をボーイと呼ぶ、しかしボーイは日本の監督のように人をひよっこ扱いするのではなくて、対等にそして何よりも心から尊敬してそう呼んでくれるのだ。おそらくその感覚は家父長制のそれとは違うが、よく日本の監督があの子とよぶのはまさに上下関係、縦社会の中での話だ。
ファイナルで負けた時、ジョージに言われたことがある。それはピーターも言っていたが「お前はたいしたやつだ」である。この時私は勝っても負けてもこれが最後だと決めていた。そして負けてしまった私にボクシングなんて才能だ、勝てなかったのはそれが真実だ、でもお前はたいしたやつだ、I respect youと言う感じのことを言ったのだが、この時負けたけど不思議と認められたと思った、負けたけど本当にボクシングをやってよかったと思ったのは事実である。私は勝つためにボクシングを競技してきたが人間は勝つことが自信になるのではない、認められることが自信になるのだ。そのことをボクシングによって教えられたと思う。



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Go up to the river

2020-08-15 | Weblog

ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

80年代は名曲が多いと言われているが、このリバーも名曲のひとつらしい。でも聴いててこの歌詞は、昔俺のまわりにいた奴らのことをそのまま歌った歌じゃないかと不快になった歌だ。私は教育も受けているし、言葉もきちんと話せるのでまわりは非常に育ちがいいと勘違いしている。親父が外国人だと言っても企業の重役クラスで日本に来ているとか、大学関係でというようなすごくいいように勘違いしてくれているが、しかし今だから言えるがうちの家系はシリャンミン、北からにげてきた人たちで、故郷がない。当時は日本でも向こうでも差別される人たちだ。当時私のまわりの環境はよくなかったし、私には言えないことがたくさんあった。たぶんその言えないことをそういう仲間に聞いてもらって傷口をなめあうこともできるのだろうが、しかしそういう仲間を求めなかったし、そんなことはしなかった。この歌の歌詞でgo down to the riverと歌っているが、俺の人生はくだっちゃいかん、go up to the riverと言った感じだろうか、たぶんこのまわりにいるような奴らと同じ生き方をしたら自分もこいつらと同じようになる。そう考えてなるべくこいつらとは違う環境を求めてまじめに生きた。まともに教育を受けて、いい人たちとつきあって自分の環境をかえる道を選んだ。よくアホな格闘家は自分がどれだけすさんでいたかということを得意げに話し、そして自分はそこから格闘技で這い上がってきた見たいな話を針小棒大に語るが、しかしそういう発想は暴力の延長だ、ウジ虫がハエになった程度で根本的には何もかわらないだろう。
大事なことは自分の環境をかえること、なるべく多くの正しい人たちと出会ってそこで影響をうけることだ。特に教養のある人と会話したり、その人たちの言葉づかいや習慣を学んで、世の中の正しさや一般的にいい生活とはどういうものかということをよく学ぶことである。私は多くの不良少年たちの面倒を頼まれてみたことがあるが、彼ら彼女らと話してわかったことは、そういう子供たちに性根のくさった奴はそういないということだ。問題なのは彼ら彼女らの性根ではなく、環境や習慣の問題だ。環境がわるくて生活習慣がわるいからすさんでくる。そこをかえればかわれるのだが、しかし仲間がいるからそれができない。本当に更生させたかったら仲間からはなれて環境と生活習慣をかえること、そこからはなれて正しい人と話したり、広い社会でいろいろなことを経験することで、教育や教養が必要だということがわかるはずだ。顔はきれいが教養もない、品格にかける、言葉はわるいがそういうb〇tchと傷口をなめあって、お互いがかわいそうだ放っておけないと情で結婚する。でもそんな結婚生活は先が見えている。そうではなくてその人のことを本当に心から尊敬できるから結婚するのだ。お互いが尊敬できるからこそ、相手を大事にできるし、心から信頼し信頼できるからいろいろなことを乗り越えていける。そして子供が生まれたらその尊敬できる人の子供でもあるから、心からその子を愛せるのだと思う。学問を学んで教養をつんでいい環境に身をおくというのは、間違ったものの見方を正しく、いい方向にかえられて行くということだ。昔こんな自分は将来この先一体どこに行きつくのだろうかと思っていた。まわりを見たらまともではない、そんな中で自分はそいつらと同じ姿を想像していたかも知れない。でも自分はこの歌のように川を下るのはなく、流れに逆らって上がって行った。上がった世界は自分とは違った別世界であった。環境をかえるというのは見方を変えるということだ。そしてその見方をかえるためには広い世界に出て行って教養をつむことが最も重要だ。





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Apartment with past incidents

2020-08-11 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

最近事故物件と言う言葉を耳にする、事故物件サイトがあるのだが、そこには住所入りで事故物件が紹介されているようである。実は私もハワイの事故物件らしきアパートに住んだことがある。私はそんなことには懐疑的であるのだが、後から聞いたらそこはすごく有名な場所で、とにかく家賃が安い、共益費込めて100ドルと言う安さでアパートなのにホテルと言う名前、つくりもまさに古びたホテルを改造したような感じで怪しさ満点のアパートである。

これはある夜11時過ぎだったかのどが渇いたのでソーダを買いにセブンイレブンに行った帰りでの出来事である。セブンでソーダを買ってアパートに帰ると、なんとアパートの近くに同じ年頃の白い服を着た女性が立ったいた。えっと一瞬ぎょっとした私、気味が悪いので普段だったら素通りしていくのだがなぜかその時引き寄せられるようにその女性のところに行って話をしている。なんかここちいいような感じで話していたのだが、話も言葉をつかってと言うよりは頭の中で会話しているような感じ、おぼえているのは彼女が日系人でそこの大家の娘で日本に行ったことがあると言うことだ、たぶんかなり長い時間話したような気がする。そして別れ際に「じゃあまたね」というような感じでホント普通にわかれたと思う。
それから3日ぐらい経って、たまたま大家さんがいたので近づいて行ってあいさつした。少し気になったので「少し前に娘さんにあいましたよ」と言うと、えっと何か怪訝そうな顔で私を見る。「いやいや娘さんですよ、娘さん」しかし彼女はこう言った「たぶんそれは娘じゃないよ、私の娘はメインランドにいるからここにはいないよ」と、確かによくよく考えたら大家さんの年で二十歳そこそこの娘がいるなんて不自然だ、じゃああの女の子は一体何なんだと不思議に思った。
不思議に思ったので、ジウンに聞いた。彼女はなんかそういうスピリチャルな能力があって、韓国に무당ムダンと言う巫女みたいな人たちがいるが、なんかそれに近い感じ、引っ越した時もピーターと二人で来てくれた時に「ここはやめとけ」と頑なに私がここに住むことを拒み、引っ越しをすすめたのも彼女である。もう契約してしまったので後の祭りであるが、彼女が言うにはそのアパートの斜め上にセメタリーがあって、どうやら彼女はそこの住人、私はその前を通ったのかわからないが彼女に気に入られたそうである。でも彼女曰く私は気がすごく安定しているのでコントロールされないらしく、でもこのままだと連れていかれる可能性があるので首からかけるお守りをもらった。たぶん彼女はこんなことになるのではないかと予想していたのだと思うのだが、もし彼女がいなければ私はどうなっていたのだろうと思ってしまう。
そしてそのお守りをもらってから、なぜかその彼女は私の前に現れることはなかった。そのお守りは今もずっと大事にしているのだが、これは私が学生時代にした不思議な体験、Believe it or not, it depends on you.信じるか信じないかはあなた次第です。




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個性と言う前にルールをおぼえさせろ

2020-08-08 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

学生のころ読んだ本で「deschooling society」と言う本がある。deschoolingと言うのは造語であるが、とどのつまり学校教育は社会に順応できるように都合よく組まれたプログラムで人間の個性をつぶすものだ、子供たちののびのびとした主体的な学びも失われてしまう、その制度化された組織から解放されて教育そのものに立ち返れとかそういうような内容だと思う。

しかし私はこのような考え方に異をとなえる。あたかもそれは学校制度が人間を形成していく上で害になると言っているように聞こえるのだが、はたして学校制度そのものが子供の個性や才能をつぶしてしまうものなのだろうかと思う。確かにそういう一面はあるかもしれないが、しかしそれは制度の中で話し合って改革していったらいいことであって、制度そのものを否定することは人間の営みや社会を否定するに等しいとさえ思っている。日本はどちらかというと教育制度には否定的であると思う。それを物語っているのが学園もののテレビだ。たいていのストーリーは学校が悪で、それを改革するために破天荒な教師が活躍するのだが、学校=つまらない、自分たちをしばる場所と学校は悪と言う構造が出来上がっている。

そしてその学校を否定的にとらえて、自分らしさとか、個性を大事にしろとか、親や子供がいいたいことが言えるようになって、教師の権限など失われつつある、もはや子供が生徒様になってしまった。そしてその学校制度を否定して、個性個性と好きなことをやりだした結果、どうなったか、教師の権限は無視され、教室で暴れる子供の話は当たり前のように聞くし、雨が降っているとか、たいした理由でもないのに学校に行きたくないからと学校を休む子供、登校拒否のハードルがあきらかに低くなっているし、解決できないいじめや学級崩壊、教師の質をおとす結果を招いているのではないかと思う。確かに信じられないぐらいアホな教師もたくさんいるが、学校制度において教師の権限を認めなくては教育は無味乾燥なものとなる、生徒と教師の立場が逆転してしまったら学校そのものが機能しにくくなるであろう。

ドイツの民話にこういう物語がある。子供たちのグループが牛が解体されるのを見て面白そうだからと、ごっこ遊びをする、それぞれ役を決めて肉屋、解体する人、そして牛の役、そして実際に解体する役の子供はその牛である子供をあたかもごっこ遊びのように殺してしまうのだが、この物語の恐ろしいところは子供たちが何の疑いもなしにごっこ遊びだと信じて、純粋に牛の役である子供を殺してしまう子供の純粋性である。ルソーは子供をnoble savage(高貴な蛮族)と言っているが、純粋性と言うのは残酷性も併せ持っている、そういう思慮判別のつかない子供を好きなようにさせると言うのは間違っている、ある程度子供と言うのは制度化された中でルールややってはいけないことをしっかりと学ぶことは大事なことである。

うちのクラブの人たちは比較的進学校出身の人たちが多い、何が言いたいのかと言うと、今コロナウイルスが蔓延しているわけであるが、進学校出身者はルールをきちんと守って、何をやってはいけないかと言うことをよく理解して行動してくれる、さらにコロナも自分は大丈夫ではなく、相手に迷惑をかけてしまったらと言う感覚を持っているのだが、彼ら彼女らは集団でもきちんと物事の良しあしを理解出来る、そういう共同体感覚がしっかりしていると思っている。
そしておそらくそれは彼ら彼女らの行動はきちんと机の上で先生の話を聞いてきた、そして学校のルールを守ってきたこととは無関係ではないだろう。今この事態において100%大丈夫だとはいわないが、そういう学校と言う場を通して洗練されてきた人たちはこういう事態に正しいと思ったら行動してくれるので動かしやすいし、行動も信用できる。
私がコロナウイルスの脅威にさらされている今思うことは共同体の重要性である。正直髪の色が違うとか、動物の区別のような個性よりも集団性を身に着けることが、何が起こるかわかるかわからない不安な時代を生き抜いていく必要な条件だと思っているが、コロナが蔓延して自粛をしいられた子供たちが、我慢して大人と同じように行動できたのは学校教育のおかげであると考えてもいいと思う。



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私がドネイションを大事に考えている理由

2020-08-04 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

最近頻繁にボランティア団体からコロナウイルス関連の寄付金のお願いが来る。水の供給も十分にいきわたっていない、石鹸を買うお金がない、そういう発展途上国への寄付金のお願いであるが、うちのクラブからもいくらか気持ちをこめて送金したいと思っている。
私がこういう活動に関心を持って協力しているのは、まず学生の時の友人ジウンの影響が大きい。彼女のおばさんは当時ハワイでナイトクラブを経営していたわけだが、そこで働く女性たちは、夫のDVや望まれないかたちで生まれてきた子供を育てるために母国では差別があるので働けないから、生きるためにここに移住してきた。当時の韓国は女性差別がひどくて、父親がいないとか、のぞまれないかたちで生まれてきた場合は、女性だけでは子供を育てていくことができないので、泣く泣く当時裕福さの象徴であったアメリカに養子に出すと言うことが多かったようである。自分の子供をきらいでもないむしろかわいくて仕方がないのに、その子を養子に出さなくてはいけないと言うお母さんの気持ちは、言葉には表現できない、断腸の思いで子供を泣く泣く養子に出したであろうと思う。ジウンのおばさんのところで働く女性たちはまだ子供と一緒に移住してきたからよかったと言えばそうかも知れない、しかし彼女から韓国社会の闇を聞いて、自分のことも含めて深く考えさせられたことは確かであり、それ以来弱い立場の人間を守ると言うことはどういうことかということを考えたわけだが、ジムでは格闘技ではマイノリティである、女性を大事にする、そしてそのためには暴力を徹底排除することが彼女ら、そして子供が安心してトレーニングできるのだと信じているが、うちでは暴力的なことに関して徹底して厳しく接しているのはそのマイノリティが安心してトレーニングできることが全体の益となると考えているからだ。

そしてもうひとつは正しさや思いやりをグローバル基準で考えると言うことだ。日本のクラブはまさにその正しさの基準がクラブと言う小さな枠から出ていない、よくクラブ内のことで不祥事が起こった時に試合に出れなくなったら困るとか、みんなの努力はどうなるんだと言う大義名分でその不祥事をもみ消すのは、その自分たちの世界での正しさがすべてだと考えているからだ。
以下の引用は日本スポーツ協会のハラスメントに関するガイドラインからの抜粋である。
「日本スポーツ協会では、スポーツは、「人間が運動を自ら楽しみとして求め ることによって成立してきた人類共通の文化」であると考えています。それは、障がいの有無や年齢、男女の違いを超えて、ともに喜び、感動を共有し、絆を深めることを可能にします。さらに、子どもたちが成長していく過程で、他者への思いやり、共に協力し合う気持ち、誰にでも公平に接し、約束を守ることを尊ぶ心の成長も促します。 また、これからのスポーツには、公正で福祉豊かな地域社会、環境と共生した ライフスタイルが実現する社会、平和と友好に満ちた社会の形成に大きく寄与することが期待されています。」
今でもよくある光景だと思うが、競技者が監督に怒られている時直立不動で後ろに戸を組み話を聞いている光景、それは怒られる時だけではなく話を聞くだけでもそういう姿勢で聞いているのだが、私は不公平だと思っている。そういうものの伝え方しかできないと、相手を威圧させて従わせるだけでおわってしまう、おそらくずるい人間はただそのスポーツがしたいがゆえに言うことを聞いているだけにすぎないのだろうが、こういうものの伝え方をしているから運動部にどっぷりつかった人間は人の顔色を見て行動する、相手によって態度を変えると思っている。人を犬を呼ぶように呼ぶのも人権蹂躙だ、世論を気にしてハラスメントのガイドラインに従って作成するのも大事であろうが、しかしそれがあまり機能していない、私から見たらスポーツは未だ勝利主義で、不公平なヒエラルキーが存在する、私から見たら皮肉である。根本的には昭和のスポーツ根性にどっぷりつかっている化石のような頭の持ち主の頭の中身を改革するか、そいつらを一掃するかだ。

私はここに来ても必要がない場合はあいさつしろなんて言わない、あいさつはこちらからしてあげたらするようになる、むしろ人の顔色を見て行動するな、堂々と行動したらいいと言っているが、実際うちの会員の人たちもあいさつしてくれるし、リングがあいていたらこっちにおいでと気をつかってくれるのだが、うちでは威圧したり強制することはない。話はドネイションの話に戻るが、正しさと言うのは地球規模で考えなくては公平な正しさなんて見えてこないと思っている。
うちのクラブには性別も違うし、職業も違うし国籍も学歴もそして育ってきた環境も正確も違う様々な人たちがジムに来てトレーニングしている。その中で何が正しいのか、そして公平なのかと言うのはもっと広い視野でとらえて考えて行かなくてはそれは本当の正しさではない、不公平が生じると思っている。日本ではなく、世界を基準にして考えたら、人種や性格、そして性別のとらえかたがかわるだろう、今や日本の常識にこだわっていい時代ではない、私から見たら運動系のクラブは常識と言うよりもしきたりである。世界規模で正しさとか思いやり、そして協力と言うものをみていかなくてはならない時代だと思っている。そう考えたらまず指導者は共通語を理解すること、理解したらものの見方をかわるだろう。



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Show your consideration

2020-08-01 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。

コロナウイルスが再び拡散している。こういう状況でもみなさんジムに来てくれる。うちの会員の人たちは旅行に行くのをキャンセルしたり、普段は人の多いところには行かないように慎重に行動する人たちがほとんどであるが、しかしあえてそれでも来てくれているというのは、自分たちがきちんと管理してくれているからと言う安心感とその自分たちを信じて来てくれていると思っている。だから絶対にその信用を裏切ることはできない。私の責任はかなり重いものだと実感しているし、最悪の事態も十分に考えて腹をくくって、できるかぎりのことをするつもりである。
ジムに来る人たちの中には本当にここに来ることが楽しくて励みにしてくれている人もいる、それほどべたべた関係ではないが、みんなが集まって挨拶をかわしたり、冗談を言ったり、話をしたり、私自身もようやくここがみなさんの癒しの場になりつつあると実感しているが、それゆえにこの灯を何とかたやさず続けて行きたいと願い、みなさんの期待と信頼を裏切らないようにできるだけのことはやっていこうと思っている。
そしてどうしても人と人との距離が近くなってしまうスポーツクラブにおいて、必要なのはどういう人たちがそこに集まっているか、そしてその群れをある程度安全に機能させるのはひとりびとりの思いやりや配慮である。
今、私が排除するのは共同体感覚がない人間、アホな持論でかかるはずはないと軽く考えている人間、他人のことを顧みて行動できない人間だ。マスクをしないで人ごみの多いところをうろうろしたり、行ってはいけないところに行く、ほとんどの人間はコロナにかかるとその職場の業務がストップするので、まわりに多大な迷惑がかかるが、それはその人の責任が重ければ重いほど深刻である。ジムでトレーニングしていると言うことはその共同体の一部だ、にもかかわらず、自分がこういう行動をとって「もし」と考えることができない人間(こういう人間に限って何の力もない、責任をとる能力もないので迷惑をかけたらかけっぱなし)、そういう人間は今現実的にここに来てもらっては困る。今はひろめ市場や夜の街と具体的に場所をあげて行ったら2週間明けてくるか、そちらを優先させたかったらそっちを優先にしてくれと言う選択をしてもらっているが、今後、このコミュニティを守っていく上で必要であると判断した場合はきちんと判断できる人たちと話し合った上で規制していくつもりである。

今この状況にあたって「Hannibal erat ad portas」と言う言葉をあげるが、この言葉は直訳すると「ハンニバルは門のところにいた」と言う「ガリア戦記」からのラテン語の引用である。ハンニバルと言うのは、ローマを脅かしたカルタゴの武将の名前、その自分たちを脅かす武将がその門の前にいる、危険が迫っている気が抜けない状況だと言うことを表現した言葉である。コロナは今あちこちで感染のを拡大させている、そしてこのことは決して対岸の火事ではなく、いつ、誰が、そして自分がと言う危機感を持って慎重にそして自分の行動に責任を持って行動したいと思う。



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