ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また暑くなってきましたので水分補給は十分におこなってください。
最近頻繁にボランティア団体からコロナウイルス関連の寄付金のお願いが来る。水の供給も十分にいきわたっていない、石鹸を買うお金がない、そういう発展途上国への寄付金のお願いであるが、うちのクラブからもいくらか気持ちをこめて送金したいと思っている。
私がこういう活動に関心を持って協力しているのは、まず学生の時の友人ジウンの影響が大きい。彼女のおばさんは当時ハワイでナイトクラブを経営していたわけだが、そこで働く女性たちは、夫のDVや望まれないかたちで生まれてきた子供を育てるために母国では差別があるので働けないから、生きるためにここに移住してきた。当時の韓国は女性差別がひどくて、父親がいないとか、のぞまれないかたちで生まれてきた場合は、女性だけでは子供を育てていくことができないので、泣く泣く当時裕福さの象徴であったアメリカに養子に出すと言うことが多かったようである。自分の子供をきらいでもないむしろかわいくて仕方がないのに、その子を養子に出さなくてはいけないと言うお母さんの気持ちは、言葉には表現できない、断腸の思いで子供を泣く泣く養子に出したであろうと思う。ジウンのおばさんのところで働く女性たちはまだ子供と一緒に移住してきたからよかったと言えばそうかも知れない、しかし彼女から韓国社会の闇を聞いて、自分のことも含めて深く考えさせられたことは確かであり、それ以来弱い立場の人間を守ると言うことはどういうことかということを考えたわけだが、ジムでは格闘技ではマイノリティである、女性を大事にする、そしてそのためには暴力を徹底排除することが彼女ら、そして子供が安心してトレーニングできるのだと信じているが、うちでは暴力的なことに関して徹底して厳しく接しているのはそのマイノリティが安心してトレーニングできることが全体の益となると考えているからだ。
そしてもうひとつは正しさや思いやりをグローバル基準で考えると言うことだ。日本のクラブはまさにその正しさの基準がクラブと言う小さな枠から出ていない、よくクラブ内のことで不祥事が起こった時に試合に出れなくなったら困るとか、みんなの努力はどうなるんだと言う大義名分でその不祥事をもみ消すのは、その自分たちの世界での正しさがすべてだと考えているからだ。
以下の引用は日本スポーツ協会のハラスメントに関するガイドラインからの抜粋である。
「日本スポーツ協会では、スポーツは、「人間が運動を自ら楽しみとして求め ることによって成立してきた人類共通の文化」であると考えています。それは、障がいの有無や年齢、男女の違いを超えて、ともに喜び、感動を共有し、絆を深めることを可能にします。さらに、子どもたちが成長していく過程で、他者への思いやり、共に協力し合う気持ち、誰にでも公平に接し、約束を守ることを尊ぶ心の成長も促します。 また、これからのスポーツには、公正で福祉豊かな地域社会、環境と共生した ライフスタイルが実現する社会、平和と友好に満ちた社会の形成に大きく寄与することが期待されています。」
今でもよくある光景だと思うが、競技者が監督に怒られている時直立不動で後ろに戸を組み話を聞いている光景、それは怒られる時だけではなく話を聞くだけでもそういう姿勢で聞いているのだが、私は不公平だと思っている。そういうものの伝え方しかできないと、相手を威圧させて従わせるだけでおわってしまう、おそらくずるい人間はただそのスポーツがしたいがゆえに言うことを聞いているだけにすぎないのだろうが、こういうものの伝え方をしているから運動部にどっぷりつかった人間は人の顔色を見て行動する、相手によって態度を変えると思っている。人を犬を呼ぶように呼ぶのも人権蹂躙だ、世論を気にしてハラスメントのガイドラインに従って作成するのも大事であろうが、しかしそれがあまり機能していない、私から見たらスポーツは未だ勝利主義で、不公平なヒエラルキーが存在する、私から見たら皮肉である。根本的には昭和のスポーツ根性にどっぷりつかっている化石のような頭の持ち主の頭の中身を改革するか、そいつらを一掃するかだ。
私はここに来ても必要がない場合はあいさつしろなんて言わない、あいさつはこちらからしてあげたらするようになる、むしろ人の顔色を見て行動するな、堂々と行動したらいいと言っているが、実際うちの会員の人たちもあいさつしてくれるし、リングがあいていたらこっちにおいでと気をつかってくれるのだが、うちでは威圧したり強制することはない。話はドネイションの話に戻るが、正しさと言うのは地球規模で考えなくては公平な正しさなんて見えてこないと思っている。
うちのクラブには性別も違うし、職業も違うし国籍も学歴もそして育ってきた環境も正確も違う様々な人たちがジムに来てトレーニングしている。その中で何が正しいのか、そして公平なのかと言うのはもっと広い視野でとらえて考えて行かなくてはそれは本当の正しさではない、不公平が生じると思っている。日本ではなく、世界を基準にして考えたら、人種や性格、そして性別のとらえかたがかわるだろう、今や日本の常識にこだわっていい時代ではない、私から見たら運動系のクラブは常識と言うよりもしきたりである。世界規模で正しさとか思いやり、そして協力と言うものをみていかなくてはならない時代だと思っている。そう考えたらまず指導者は共通語を理解すること、理解したらものの見方をかわるだろう。