女の子だから、10代で結婚させられる。
女の子だから、学校に行かせてもらえない。
女の子だから、生まれてさえこられないこともある。
女の子だから、泣きたいときに泣くことも、
笑いたいときに笑うことも、怒りたいときに怒ることもできない。
もしも、この文章が間違っているように感じたら、
この世界の間違いを、まずは知ってください。
Because I am a Girl(女の子だから)
その後に来る言葉は、私たちの力で変えられる未来です。
これは人身売買の被害にあっている子供を救うための団体の言葉である。うちのクラブではこういう団体をおぼえて寄付をしている。前にも書いたがそれは哲学とか理念とかではなくちょっとした同情心で自己満足のたぐいともとれるかもしれないが、しかしそこで痛みを少しでも感じるならばその同情は正しさへと向かっていくことを信じていると前回のブログで書いた。今やインターネットを通して世界のことがわかる時代だ。日本語だけでも相当の情報が入ってくるのだが、世界と言うのは小さくなってきている。そういう中で感じることは自分は日本と言う国で生きることができて幸せだと言うことである。一方で我々が想像もできないような現実に生きている子供が我々が考える以上に存在している。世界に行けとか世界を見ろと言うのであればまずそういう現実に気づくべきだ。クーベルタンが提唱したオリンピズムとはまさにそういう趣旨も含んでいるのだが、こういうことも自分の欲望をみたすような生活をしているだけでは決して見えてこないだろう。ショーペンハウワーと言う人は同情と言う言葉を他者の苦痛を共にすると考えたが、我々はその痛みを感じることが大事なことだ。同情されると言うと何か上から目線でいい感じはしないだろうが、しかし同情とは痛みを感じることで、人間は自分に無力さや同じようなみじめさやあわれさを他人の中に感じる時、痛みを感じるショーペンハウワーはまさにその痛みが同情だというのである。
偉そうに言うが私は社会的にも差別をうける側である。いろいろととんでもないことを経験してきた。それでも若い時は群れずに一人で強くなければ生きていけないと思ったものだ、だがしかし今思うことは同情されることは尊いことで、必要だと言うことだ。人間はまず自分の弱さをおぼえてこの痛みを分かち合うことができなければ、群れの存在自体が無意味である。その弱さをおぼえて共感しあって助け合うことができるからこそ人間の群れは成長し、ひとりびとりが生かされるのではないかと思う。人間は弱い弱いから支え合う、ショーペンハウワー的に言うならば同情されると言うことは痛みを共有していることだ、その痛みを共有し補い合うことで一歩ずつ前に進んでいくことができる。私はそういう共同体こそが社会的であると言えると思っている。
試合は殺し合いだとなんてことを言うようなアホが結構いる。でも誰も本気でそうは思っていない、当たり前だがそれはスポーツ、そういうことを言っている人間はただ虚勢を張っているだけだ。でも私は本当にこいつ叩きのめしてやると明らかにスポーツの領域とは違う感情をぶつけていっていたが、社会的な差別や疎外感を感じるとそういう気持ちがおこってくる。そういう気持ちを込めて私は学生の時ボクシングを思いっきり競技した。今から考えたら弱いなりに一生懸命頑張ったが、でも結局ああっ俺って才能ないと言うことがわかった。強くなろうとしてもなれなかった。ただわかったのは自分のちっぽけな存在だ。でもそのことに気づくことで一歩また前に出て歩んでいくことができたと思う。虚勢を張っている奴にはわからないが、人間はその弱さを認めることで見えてくるものがたくさんある。昔韓国人の女の子があなたは強いけど弱いって言っていた、でもひょっとしたら本当に自分の弱さを認めることで弱いけど強いに変えられるかもしれない。しかしその強さはまわりから同情され支えられていく上での強さだ。