脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

負け惜しみで生きるな

2017-07-28 | Weblog

ここでは高校生を含む髪を染めた子供の入会は固くお断りしている。ひとつはうちのカラーにそぐわないこと、そしてもうひとつは私が非常に不快であるからだ。集団においてはコモンセンスを持つことは非常に大事だ。oxfordの辞書に「the ability to think about things in a practical way and make sensible decisions」と書いてある。これぐらいの英語は訳す必要もないので訳さないが、コモンセンスとは基本的には相手の迷惑になったり害にならないということ、そしてそれは不快にさせないということも含んでいると思う。即ち自分がどうかということではなく相手がどういう気持ちになるかどう受け取るかということだ。校則なんて意味がないと子供は言うが、しかし社会と言うのは学校よりもたくさんのルールがある。校則なんて必要ないといちゃもんをつければそれなりの屁理屈もこねることができるが、しかし校則は子供が守らなくてはならないルール、それを守ると言うことはそれなりに意味があると思う。校則もまともに守れないような奴が社会のルールなんて守れるはずがない。アウトローくさい奴が社会にルールを勝手に自分で解釈したり、どっちともとれるような灰色の立場を好むというのはそういうアビリティがひくいからだ。

最近小学生でもど派手に髪を染めたり、奇抜な髪型をしているらしいが、はっきり言ってこれは教える側から見たら非常に不愉だ。自分勝手な親は校則を無視したりすることも個性だとか、犯罪者のような屁理屈をこねるが、校則を破るような子供がしかも堂々と授業に出てきて、おまけに騒いだり、人の話を聞かなかったりと言うのはある意味教師にとっては屈辱であると思う。親は何を考えているのかはわからないが、こういう輩は底辺の考え方はできてもまともな立場は理解できない。そういう時期から目立つとかかっこいいとか中身のない個性を表現するのは、小さいころからマナー違反を教えているのと同じ、DQNはなぜアホだと思われるのにああいう恰好をするのかわからないが、せめて子供には常識的な髪型やかっこうをさせるのが人として正しい教育ではないかと思う。

格闘技の集団は逆らって生きることがかっこいいというようなことを常にほのめかしているように見える。ど派手な格好、挑発的な髪型や態度、もっと知的な面を強調しろよと思うのだが、私から見たら中身がない人間はそういうアウトローくさいうさんくさいことをひっしでかっこよくしようとしているように見える。

 

 


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Compulsory Education

2017-07-25 | Weblog

体力がありあまっている中高生が入会する時、親を通して言うことがある。それはトレーニングをやりすぎるなと言うことである。一つは成長期に体を酷使することはのちに体を故障させる原因となる。特にボクシングはなぐりあいだから、支障が生じやすいスポーツである。そう言うことを組してある程度自重してトレーニングさせている。へとへとになるまで練習させたり、ボクシングで言えばあきらかに敵意むき出しでなぐりかかって行くようなスパーリングを容認したり、けしかけたりするのは大問題だ。子供の将来を考えて故障させないトレーニングは特に教育機関いおいては優先事項だと思ってるが、はっきり言って運動クラブの練習時間を制限させた方が健全、本能の赴くままやりたいようにさせるというのは好ましくない。最近よく格闘技系の人間の暴力的な犯罪が表ざたになっているが、私の意見ではこういう自分のやりたいことだけを一生懸命やる人間はどこか行動が稚拙で自制がきかないと思っている。どこかで自分を自生してそのあまったエネルギーを他にやらなくてはいけない勉強にあてるほうが健全で、そのエネルギーを制御する訓練にもなると思っている。うちのクラブは見学の時にかならず親同伴で来てもらっているが、その時髪を染めたら退会、そして勉強しろと親の前ではっきり言っている(言う必要のない子供のほうが多いが)。

親に養われている子供の義務は勉強することだ。これは国民の三大義務のひとつでもある。中学生にやりたいことを見つけろと言うのは無責任だ。この前子供がなぜ勉強しなくてはならないのかと言ってきたのでこう言った。「国民の三大義務は何だ」現役だから「教育、労働、納税」とすっと出て来たが、そして「その中で君ができることは何だ」と聞くと「教育」と答える。義務教育は英語ではcompulsory educationと言うけど、君たちにはやらなくてはいけない責任がある。compulsory educationと言うのは強制的なと言う意味も含んでいるが、教育は受けなくてはならない義務、即ち責任である。その逃げられない責任をいやいややるのか自発的にやるのか、逃げられない、やらなくてはいけない責任なのだからその壁に対峙して、一生懸命取り組む方が賢い選択だと思うがどう思うか」と言ったのだが、教育は責任だ。その責任があることを自覚させることは親の役割で自分のしたいことをさがせと言う前に責任ありきだと思っている。勉強なんかスポーツの基礎トレと同じように面白いはずはない。はっきり言って中学や高校ぐらいの勉強はスポーツで言えば基本練習の段階だ。スポーツもそうだがその基本練習を積んで行ってある程度フィールドで結果が出せるようになるから面白くなるわけであって、それは勉強も同じことである。外国語が読めたり、ある程度知識が身につけば学ぶことが本当に楽しくなってくる。私の趣味は本を読むこと、趣味と言うのはおもしろいからするのだが、私にとって本を読むことはおもしろいことで、休みの日は暇さえあれば本を読んでいるのだが、旅行に行く時も本を持って行くし、私のカバンには常に5冊以上は本が入っている。これは私の意見であるが、教養をつむことで自分の世界を広げることができる。世界を広げることで人間のつきあう幅を広げることができるし、人間の幅をつくる。おそらくそうなれたら本当の意味で人に影響を与えることができる人間になるのだと思う。私は思う教育は子供の責任だ。それは我々が働き、納税しているのと同じことそれは義務である。その義務を義務だと教えるのが大人であると思う。

 

 

 

 


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私がhoyoungである理由

2017-07-24 | Weblog

これはうちのじいさんの話。じいさんは非常に学のある人でアジア最古の大学でその大学が大学になる前からそこで勉学をつんでいたらしく、大学で教鞭をとっていたそうだ。でもしかし当時は言っていいことといけないことがある。その言ってはいけないことを言ってしまい身の危険を感じて、今だから言えるが秘密裏にここにうつって来たそうである。てなことで当然ここでは保証はない。そこでじいさんは家族や親せきを集めてこう言った「俺はお前らのような学のない人間ではない。俺は学がある人間だ。したがってこの俺の生活をお前らがみろ」と一同唖然としたらしいが、そこは一族の長が言うことだ仕方なくじいさんの面倒をみんなで見たそうだ。とにかくプライドがすごく高い。聞いた話では風呂屋でお金を販売機の下におとしたらしく、ひろわなかったのでなぜひろわなかったのかと聞いたら「自動販売機の前で大の男が土下座なんかつける」かと言ったそうだが、マンガのような話である。しかしひとつだけ尊敬できるところがある。それは絶対にぶれない考え方を持っていて、自分の信条をしっかりと持っていたことである。いろいろとわけがあって生涯3回ほどしか顔を見たことがないが、私のことを知っていて問題行動を起こすが、利発な子供であった私を弁護士にしたかったようで、私の将来を考えてくれていたのだからやはり孫はかわいかったようだ。

考え方がぶれないというのは意固地になったり、言わせてもらえるからえらそうなことを言うと言うことでもなく、引くとか引かんとか低次元のことでもない。そういう奴に限ってちょっと反論されたらしゅんとなって何も言えなくなるのだが、非常になさけない話である。ぶれないというのはそれはしっかりとした自分の信条に基づくものだと思っているが、本当に必要な時にそれが何千何万の前であってもその自分の信条に基づいて主張できるかと言うことだと思う。うちのじいさんはそれをやっちゃった。やっちゃったから輝かしい実績や仕事をうしないここに来た。はっきり言ってこんなことは評価できることでもないし、えらいとも思わないがしかしそれでもぶれずに生きてきたことは尊敬すべきことかもしれない。

実は私もこのじいさんと同じような人間かも知れない。私がKim Hoyoungをなのるのはわけがある。それは日本名には「孝」と言う字があってこの漢字自体が私にとって抵抗があるからだ。たぶんこの漢字は儒教からとったものだが、親孝行の孝から来たものだ。しかし残念ながら私は親孝行ではなかった。だから孝の入った名前をなのるのはすごく抵抗がある。だから私はKim Hoyoungを名のっている。

 

 

 

 

 


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그 여잔 웁니다 クーベルタンの言うスポーツマンシップとは何か?

2017-07-24 | Weblog

日本人は非常に親切で助け合いがわかる民族である。最近ではボランティアなどの社会活動などに関心を持ってきた人たちが増えてきたが、しかしそれでも先進国ではその意識は高いとは言えないと思う。韓国はスペックと言う就職するためには大事な条件があるのだがそれはまずtoeicの点数、留学経験そしてボランティア経験があるかないかである。韓国ではボランティア活動がスペックにくわえられるのだから、社会自体が関心を持っているとっても過言ではない。私の知り合いの学生も必ず何かボランティア活動をやっていて、それは半ば強制的なのでいい加減にやる人間も多いが、しかし大事なことはそれを経験することだ。日本人は本当に親切でそういう意識が高い けれども経験が足りないと言うのが私の見解であるが、もし国がそういうことを奨励したら日本はボランティア大国になるだろう。

しかし私は日本のアスリートは好きではない。特に公共の電波を使ってお笑いにいじられている姿を見ると結局この人たちは楽しかったらいい、競技も何でも自分の快楽の追及なのだと理解してしまうのだが、私が日本のアスリートが嫌いな理由は世界を目指せとか実際にその国に行って競技したことがあるのに、あまりそういう現実を伝えたり問題意識を持っている人間が少ないからだ。特にボクサーはやんちゃ話をするけれども社会情勢や国際問題などについて語ることはできない。自分の自慢話や偉いと思わせるようなあさい話はできるが、しかしハングリースポーツとも言えるボクシングから何を学んできたのだろうか、人の勝手だと言えばそれまでだが、しかし個人的には尊敬はできない。モハメッドアリは反戦を主張して兵役を拒否したゆえにチャンピオンをはくだつされたが、彼が英雄であるのは彼がヘビー級のチャンピオンだったからということだけではなく、こういうはっきりした世の中で通用するグローバルな主義主張をしっかりと持っていたからだと思う。

人間は泣いても叫んでもひとりでどうすることもできないことがある。そういう闇にのまれてみじめとも言える涙を流せばいかに人間は無力でよわいか、そして助け合い支え合っていかなくてはいけない存在であると言うことがわかるはずだ。いろいろな国に行ったら本当に日本は裕福で民主主義の国だと言うことがわかるだろう。強くなるとか言ってたわいもないことをすごい話のように語り自慢し合うようなアホな世界も小中学生の間ならば多少は必要かもしれないが、しかしいい年をして格闘技の話しかできない目立つことしか考えていないような人間は、クーベルタンの言うスポーツマンシップを理解していないであろう。はっきり言うがこういうコミュニティを管理する側の人間は人の痛みを理解し共有しなければならないと思う。そしてその痛みは競技者云々と言ったものではなくて、グローバルな見方でその痛みを理解し共有しなくてはならないだろう。スポーツを競技することはそのフィールドにおいてたくさんの人に出会うことができるのだから、自分の経験値を広げていくということでもある。そしてその世界が広がれば広がるほど多くのことを学ぶことができる。根本的にスポーツしかできない人間はその学び方がわからないと思っている。

必要だから言っているがうちのクラブの名前で発展途上国などで子供、特に少女が教育をうけれるようにとサポートしている団体寄付をしているが、うちのクラブの名前でやっているのは一人でも多くの人がこういう現実を知ってほしいからで、クラブの名前で寄付しているということはあなたもその一人ですよと言うことである。

 


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新撰組土方の詩

2017-07-17 | Weblog

私の経験上程度がひくいと思う人間は「何かあった時に助けてくれるのが友達だ」「学校でかしこいのと社会でかしこいのは違う」「みんながみんなそうではない」と言う。しかしこういう言葉に何かうさんくささとバカさを感じてしまう。社会でかしこいのとかなんて言うのは今時こんなことを言うのがいるかと思うぐらいだが、まず友達と言うのは何かあっても迷惑かけないようにするのが友達だ。根本的に何も持っていない、そのくせ負け惜しみが強く見栄はりで目立ちたがり屋の人間はかたまって、なぐさめあい自分たちを誇示したり正当化しようとする。私の経験では人をかばうことが美徳とされるのが程度のひくい集団で、きちんとした人が集まる集団は人をかばうことよりもむしろ人を正すことができる。少なくともこんなことはしてはいけないという行動に対してはダメだという感情は持っている。何でもかんでも人をかばったり、ダメな行動を正当化するのは仲間意識であって、程度のひくい人間はそういう関係を持って友達と呼ぶ。ここをはっきりさせておかないとアウトローが集まる集団になると思っている。私の考え方を聞いてなんじゃと思う人と頼もしいと思う人とまっぷたつに分かれると思うのだが、そのほうがわかりやすくていい。はっきり言って自分勝手なアウトローはうちのクラブには必要ないし、そんな気持ちなんてわかろうとも思わない。むしろ今は真面目に生きている人たちのほうがそんをする時代だ、そういうコツコツとまじめに生きてきた人たちを大事にしたいというのが私の考えだ。

「鉾とりて月見るごとに思ふかなあすはかばねの上に照かと」は新撰組の土方の辞世の句である。これは鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと・・・との心情を詠んだもので、彼の繊細さがこの詩にあらわれている。彼は鬼の福長と恐れられた男であるが、恋文などもいくつか残しており、実は彼は繊細な男ではなかったのではないかと思っている。土方が群れの秩序を正し守るために敵よりも見方を多く殺したことは有名な話だ。確かに今と昔の命の重さは違うが、しかしこれだけ繊細な詩を詠める人間がこれだけ人を殺しておいて傷つかないはずはないであろう。おそらく彼は最初から自分は生きていたらダメだと思っていたのではないか、自分で自分の死に場所を求めていたのではないかと思う。考え方や指針がぶれないというのは決して厚顔無恥や無神経であってはいけない。何かに傷つき感じなければ、人はついてこないし、その群れをうまくまとめていくことはできないであろう。私自身厚顔無恥でもないし無神経な男では決してない。発言したことや人に伝えたことは誰よりもよくわかっているつもりである。その上で嫌われたら嫌われたなりの責任をおって生きる。それができなきゃ偉そうに言えない。

 

 

 

 


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徹底してアウトローやんちゃですお断り。

2017-07-13 | Weblog

空港とかショッピングセンターの障害者の人のための駐車スペースに時々車を止めるクズを見る。アホそうな顔をした教養スペースのない、得体のしれない生物であるが、うちのクラブにこういう奴らが来たら絶対に入会は拒否。弱い立場の人たちに配慮できないような人間がうちのような女性や子どもが多く在籍しているクラブでまともにそのコモンセンスを守ってかかわっていけるとなど思えないからである。共同体の質と言うのは弱い立場の人たちやマイノリティをどうとらえていくかということと深く関わっていると思う。時にボクシングのような激しいスポーツは力が強いものが大きい顔をするスポーツだが、武勇伝を得意げに語ったりするのはまさにそういう関係がジムの優劣をあらわすからである。競技者が主体で、血気盛んで勢いのある奴がジムの中心になってそいつら中心でジムが動いていると言うのはあきらかに差別、そういう人間しか使えないと言うのは明らかに指導者がアホだからであり、ジムやクラブが公共の場で平等だと言うならば、もっと多様性のあるクラブとして運営させることが正しいクラブの在り方だと考えている。

そしてその上で大事なことは「何が共通の正しさ」であるかということである。うちのクラブはコミュニタリアンであると言っているのはまさにそこが大事だと考えるからだ。しかし共通の正しさと言うのはあいさつしろとか運動系の奴がよく言っている稚拙なルールではなく、自分の権利を無視されたり侵害されることなく、平等であるということで、それはジェンダーや民族など多様性を認め考えた上で、その群れが生き生きと活動できる共通の正しさで、それは基本的には人に対する気づかいや配慮、そして思いやりであると思っている。そしてそれを実現させていくには、その群れにどういう人が集まって来ているかと言うことが重要な課題だ。障害者用の駐車スペースに車をとめるクズは論外であるが、俺、俺、俺と物事を一般化できないそれしかできない体育会系の奴、威嚇するような恰好で武勇伝を語るアウトロー、おそらくこういう奴らがジムの中心になるのはそのジムに哲学がないからだ。うちのクラブはコミュニタリアンだと言っているが、そういう考え方を理解するためにはある程度教育が必要だ。少なくとも私が発信していることを理解するためにはある程度の知識が必要でそういう理解できる人が集まって来ることで群れが健全に保たれ、そういう考え方が生まれてくるのだと信じている。これは私の考え方だがボクシングを通して自信がついたり人間が成長するというのは大きな勘違いだ。人間と言うのは共同体によって成長させられるもので、その共同体を通して世の中全体に世界観が広げられていくというのが理想で、そのためその共同体にはどういう人たちが集まっているかと言うことである。

それしかできない外の世界を知らないような親玉の小学生のようなルールの中で一体何が成長できるのか。親玉もその場では威厳たっぷりにいかにも自信ありげに語っているが、しかし世界を広げて行くとわかるが、この人たちは海外では国内と同じように振舞えないし、インテリ層には何も言えない、小さい世界でしか生きてこなかった知識が乏しい人間と言うのは所詮そんなもの、こういう奴らは子供だましだがいかに自分のことを偉く大きく見せることに長けているからたちがわるい。よく目を凝らして、そういう奴らのまわりに利害関係抜きでどういう人間が集まって来るか見たらいいだろう。類は友を呼ぶと言うような同じような人間ばかり集まって来ているのなら、そういう人間が運営するコミュニティで本当に人として成長なんてできない。大事なのはその集団が知性を持っているかどうかということだ。

 

 


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ボクシングにおけるドーパミン効果の一考察

2017-07-07 | Weblog

今日は七夕韓国では七夕の次の日は、牽牛と織姫が別れをおしんで号泣することから大雨になると言われているが今年は事実その通りに、しかし九州の大豪雨はかなり心配、無事にかつ迅速に解決されることを願っている。

今日はドーパミンがもたらすスポーツの関連性から小学生の時からボクシングをさせることは好ましくないと言うことを述べたいが、ドーパミンは日常の行動の動機付けになっていて、特にスポーツなどのパフォーマンスが高くなるとドーパミンの量が多く分泌されるそうである。ドーパミンとは何かということをひとことで説明するのはむずかしいのだが、ドーパミンは脳内の快楽物質、適度に分泌させればいい刺激になるが、しかし麻薬や快楽殺人などもドーパミンの量が多く分泌していて、麻薬や快楽殺人がやめられないというのはドーパミンを増やす効果があるので行動そのものが動機となってあらわれるからである。しかしドーパミンはやる気が起こった時に分泌されるので、ドーパミンを分泌させることはわるいことではない、これが少ないと無気力になるらしいが、これが多くなると心のバランスがわるくなり、統合失調症をおこしたり、変なことや恥ずかしいことを平気で言ったりするらしいが、ここで注意すべきことは麻薬やギャンブル依存症はドーパミンと大きく関連しているということだ。

前から子供に殴り合いなどさせるなと言っているが、その理由の一つは子供の頭蓋骨が柔らかくダメージを受けやすいということ、さらにもうひとつの理由は依存性とドーパミンとアドレナリンのバランスである。
ボクシングや格闘技系のスポーツはなぐられるので、ドーパミンの分泌量が他のスポーツに比べて多いと言えるであろう。頭をなぐられたら気持ちいいとも言えるような快感を得ることができるのは、危険を察知して脳内にドーパミンが分泌するのだと思うが、よくボクシングは一度やったらやめられないというのはこれ、私がよくボクシングしかできないようなアウトローくさい人間が、出所仲間を頼って集まるようなジムは子供の教育上よくないと言ったが、そういう人間が集まると言うのもボクシングは依存性の高いスポーツだと言えることだと思う。
子供を取り囲んで「おら行けーっ」とか「ファイトー」と下品な言葉で煽って刺激を与える。そういう刺激を与えたり、単純にほめられるとドーパミン効果があらわれるので目は生き生きしてくるのだが、しかし激しい下品な言葉で煽ったり、おだてているのかほめているような環境で子供の頃からボクシングをさせるのは、まさに軽い麻薬を与えているようなものである。
少年期に頭をたたきあうということは、どう冷静に考えても子供にとって健全であると言うことはできない、こういう時期に頭をなぐって麻薬のような高いドーパミンの分泌を経験させたり、攻撃性ホルモンであるアドレナリンを出しまくるということが将来人格を形成していく上で健全であるとは思えない。
私は専門家ではないのでおおすじに従って言っているだけだが、しかしボクシングと言うスポーツは特殊なスポーツで医学的な安全性と言うものが説明されない限りは、子供には競技させてはならないと思う。

前におこったボストンテロ事件であるが、その主犯がアマチュアでオリンピックを目指していたそうである。彼は問題児でその事件と暴力にボクシングによるheadtraumaが関係しているのではないかと言う論文がでている。もちろん日本語のものではないが、読んでみたらいいと思う。
英語にはこういう論文や記事がたくさんある。
しかしたぶんそういうことを奨励している人間は読めないのでわからない。
読めないくせに詭弁で一応ごまかしてはいるけれども、こういう問題をしっかりととらえて問題にできなければ無責任、俺たち勉強キライデース、だからボクシングを一応一生懸命やって他人と差をつけようとしてまーすというような考え方は社会で通用しない。こういうアウトローくさい奴が指導していたり、ボクシングを競技していることには非常に問題を感じているが、まずボクサーで英語が理解できる人間がいないと言うことが問題、全体的に学力がひくいと思う。ボクシングと言うのはある程度医学の問題を扱うのだから学問的な考察ができなくてはコーチや監督としては失格だ。真面目に考えているならばしっかりと文献を読んで、ある程度専門的な知識を身に着ける必要がある。

 

 

 


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행복해요?1年前のブログ

2017-07-07 | Weblog

今から書くことはあくまで昔の若い時の私であると言うことを注意して読んでほしいのだが、このブログは脱あしたのジョーである。題名の通り私はあまりあしたのジョーと言うアニメは好きではない。どちらかといえばかなり否定的であるが、昔在日韓国人の女の子にジョーとかぶると言われたことがある。どうかぶるのかと言えばまず自由人であること、そして徹底して協調性がない、絶対に群れないと言うようなところらしい。私は本能的にどうかたまっていいのかわからない、仲良くしましょうなんていう言葉はF○ck youに等しいぐらいに思っていたが、仲間と言う言葉が大嫌いだし、数でいくやり方は本当に卑怯だと思っているが、たぶんそういうところがかぶるのだろう。その時その女の子に「そういうとこかっこいいんとちゃうの」と言われて思わず赤面してしまった。

ジョーは徹底して自由人である。社会を敵対し孤独であるそのジョーがボクシングと言うスポーツに魅了され、そして最後はあの名言である真っ白な灰になってキャンバスにちっていくのであるが、ボクシングと言うスポーツは我々自由人にとって非常に魅力のあるスポーツである。キャンバスで動いている時は何もかもをわすれることができたし、何よりもあの場所は平等であったと思う。事実私はアメリカではマイノリティが生き生きと競技しているのを見て救われたことも事実であるが、キャンバスは社会的にハンデをもった人間、孤独で人と強調できない不器用な人間が思いっきり自分を表現できる場だ。社会ではいろいろなハンデがあって平等とは言えない扱いを受けるだろうが、しかしそこでは自分のすべてをぶつけていける。そういう場で自分の存在価値を見出すジョーの気持ちはわからないわけでもない。

ハワイのキャンバスは自分のすべてをぶつけていける場であったと思う。マイノリティであろうがpovertyであろうが関係なくそこは平等である。何とか軍団とか権威主義のじじいがいばっているわけでもなく、べらべらと仲間意識を強調するかのようなおしゃべりなどなかったが、私はそこで生まれてはじめて拘束されない自由と言うものを感じて心から楽しかったことは確かである。徹底して協調性のない人間が外国に行くのだから、当然そこには軋轢がある。当時はこいつだけはと言うのが何人かいて一応顔見知りなので試合で会うとすれ違いざまに顔を合わせて「うんっ」いうようなしぐさを見せるが、しかし内面は絶対こいつだけはぶちのめしてやるなどと思っていたし、向こうも思っていただろう。はたから見たら一体何なんだとさえ思うだろうが、しかし本当にすごくおもしろかったし充実していた。今までの最高の思い出であったと思う。自分は本当に群れるのがいや、数で行く奴は本当に卑怯だと思うし、仲間なんて言う言葉はfuck youだ。でもたぶんそんな自分にとってそこがいごこちがよかったのはそこがひとりでいい場所だったからだと思う。


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