脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Will と Be going to

2010-01-29 | Weblog
「Will」と「Be going to」という言葉がある。
これは日本語で言うと、単に何々するだろうという、これからおこる未来に対して使われる言葉であるが、しかし英語では少しニュアンスが違うそうだ。
私自身そこまで感覚的に英語をとらえているわけではないので、以前はWillとGoing toの違いを、単に形式的か形式的でないかと言うように間違ったとらえ方をしていただけだが、しかしこの二つの言葉は、単にこれからおこることを伝えるのではなく、この二つははっきりとした意図があって使われるそうである。
まず「Be going to」というのは、過去にある決まっていたことに対して、それを受けてこれからそうするという行為を表すときに使う表現だそうで、しかし一方「Will」というのは、予定とか決まったこととはは関係なく、これからおこる行動に対して使われる助動詞である。
たとえばパーティの案内があって、これからパーティーに行くんだという時はIm going to attend the party.というように「Be going to」を使い、いきなり今日パーティがあるんだけど来ないかと誘われて出席する時には、それが過去に決まっていたことではないのでI will attend the party.というように「Will」がつかわるらしい。
だいぶ昔ジムにこういう落書きがあった「I gonna win」である。
Gonnaはアメリカ英語でBe going toの略であるが、この落書きがジムのロッカー屋のかべのところに書かれてあった。
今考えればこのGonnaという言葉からも分かるように、もうおれは勝つことになっているんだと言う、自信のような意気込みがここに感じられるのであるが、しかしこれから何かを伝えようとする言葉にたいして、それが過去に決まっていたかいなかったかなんていうことを、いちいち気にはしてられないというのが日本人の本音ではないだろうか。
時々欧米人は日本人を何を考えているのかわからないというが、日本人の考えていることがよくわからないよいうのは、こういった言葉の使い方、考え方に何か関係しているのではないだろうか。
友人でどこか忘れたが欧米に出張である商品を買いに行ったそうである。
彼は英語があまり話せないので通訳をつけて行ったそうであるが、彼がこういうことをいっていた。
「欧米人はわかりやすい。普通言葉が分からなかったら相手が何を考えているかわからなくて不安になるけど、こと彼らに関しては何とかそれを必死で伝えようとするので、英語がわからなかっても、何となく表情や表現の仕方で、だいたいこういうことを望んでいるのかということがわかる」と。
これは自分だけの考えかもしれないが、欧米人はある事柄を必死で伝えようとする傾向がある。
日本人だと何か伝えようとして、相手がわからないようだったら、あっもうこれ以上言っても伝わらないと見切りをつけてくるのだが、しかし欧米人はそれでも身振り手振りで必死で伝えようとする。
時にはそれがおしつけじゃないのかと思うことさえあるが、それでも何かある事柄を伝えようとしていくのが彼ら彼女らのコミュニケーション文化かもしれない。
現に英語と言う言葉がそういう性質の言葉である。
日本人は何かを伝える時、このことを言えば相手はどううけとるかということを考え、常に相手の側に立つ、しかし英語は単に自分を表現する言葉であり、この言葉を使ってどう伝えるかであるが、こういう言葉の文化の違いが日本語と英語にはある。
こういう点で考えれば、彼ら彼女らが自分の家族に「I love you」だとか「I respect you」などと日本人なら少し赤面してしまうような表現を、家族に使うことも納得できるが、すごいおやじになると、自分の子どもや妻にたいして、お前は世界で一番最高だなんて言う事をいうが理解できる。
このことに関して新渡戸が子どもや妻というのは、日本人からしたら、自分の体の一部同然だから、ここまでしてほめるということは、いささかこっけいだというようなことを言っていたが、たぶん新渡戸がこう考えるのは、彼が欧米人の文化に深くかかわってきてからだろう。
あの欧米人が自分の家族をほめる言葉はわれわれから見たら、かなり大きな違いがある。
最近欧米人のそういう姿を見習って、われわれも家族に「I love you」みたいなことを言おうなどというようなことを言い出してきたが、しかしこういう日本語が持つスタンスからして、そこで安易に欧米人が語るような言葉をつかって相手をほめることが、はたして本当に相手を尊重していることになるのだろうか。
日本語と英語はあきらかに性質が違う。
言葉と言うのは自分たちの持つアイデンティティーであり、文化と言うものはまさに言葉がつくっていくものであるから、何となくいいからと感覚的に付和雷同に欧米文化に習うようなことは疑問である。



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当てるマス

2010-01-27 | Weblog
マスボクシングと言う言葉があるが、この言葉は和製英語ではないかと思っている。
マスボクシングは、基本的に当てないということを原則とした実戦型の練習であるが、私の経験上そういう練習を向こうではしたことがない。
ある人の話によるとどこの国かジムかは忘れたが、日本のようなマスボクシングをしているところがあるそうだが、しかし欧米人にこういう器用さを求めるのは、いささか無理があるではないかと思っている。
日本人は器用である。それはひと言では説明できないが、ミットの持ち方やマスボクシングなどに現れている。
このマスボクシングであるが、オリーヴのマスボクシングは、当てるマスボクシングである。以前東京のジムで少し経験のある人が、このあてるマスを見て「マスって当てないんじゃないですか」と驚いていたが、しかし、当てるとは言っても暗黙のルールがあるので、今のところけがはないが、その理由はオリーヴでは本気ではうちあわないからである。
時々本気になりそうになるが、そういう時は周りがとめるか、熱くなるなという指示がはいるので、そういたい目にあったり、こわい思いをするということはない。
オリーヴではスパーリングが増すになるのだが、この当てるマスの利点は二つある。
まずスパーリングパートナーのヴァリエーションである。
日本のように競技人口が少ないと同じぐらいの階級にこだわってスパーリングをしていては、パートナーに限界がある。
しかし当てるが軽くあてるマスを徹底させれば、パートナーが増えいろいろなタイプと実戦練習ができ、さらにあてる度合いを軽くすれば、こういう練習をしょっちゅう行うことも可能であろう。
このマスだとスパーリングのようにかたくならないので、ある程度力をぬいてパンチをうつという技術も身についていることも確かなことである。
おそらく私が影響をうけた米国では、こういうスタイルのスパーリングが行われているのだが、米国がこういうかたちのマスボクシングを行うのにはわけがある。
それは彼ら彼女らが、非常に練習でけがをすることをおそれていることに関係している。
だから米国と言うか学生時代私がいたクラブでは、思い切ってうちこむというスパーリングはほとんどしなかった。
私自身日本のボクシングのくせがあったので、スパーリングの時、思い切り打ち込んでいくのだが、これは相当いやがられた。
ある時「ああ彼らは練習でけがをすることをいやがっているのだ」ということがわかると、積極的に力をぬいてスパーリングをしたのだが、意外と肩の力がぬけて、シャドウやミットうちなどにもいい意味で影響した。
おもいきりうつとかうたないというのはどちらがいいとはいえないが、しかしどちらのやり方にもそれぞれいいところがあり、そのジムに来ている人たちの雰囲気を見て、どうするかということを考えることも大事なことであり、オリーヴは社会人が多く、お互いけがをさせないようにということが暗黙のうちに分かっていると思うので、思い切ってあてるマスをさせてる。
ここでのマスの基本は相手にけがをさせないということである。
なぐりあうスポーツに相手にけがをさせないというのは、いささか妙な言い方であるが、しかしそのことは安全性の問題だけではなく、肩の力をぬき、いろいろなヴァリエーションで実戦練習ができるので、全体的にプラスだと思っている。





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Learn a lesson from the past

2010-01-25 | Weblog
この前ある会員の人と話をしていた。
この方は大学時代にボクシングを経験していてかなり実績のある人である。
話はボクシングの話になったのだが、どうやらWOWWOWのボクシング中継の浜田剛とジョー小泉のやりとりがおもしろいらしい。
どうおもしろいかというと、ジョー小泉はボクシングをしたことがないのに理論がしっかりしているというか、彼はアメリカのボクシングの影響を受けているのでかなりアメリカ的であるらしい。
そのジョー小泉の理屈を聞いて、浜田が論理的にはそうでも、実際はというような感じで、舌戦を戦わす姿が何ともいえないが、おもしろいそうである。
以前アメリカ人のコーチが医学か何かのドクターを持っていて、経験はまったくないのだが、彼なりにボクシングを研究し、その論理がおもしろいのか、周りの学生たちは彼に教えを乞うたということを話したと思うが、私自身はボクシングなどのスポーツはたとえ経験がなかっても、きちんと研究すれば教えることは可能であり、あの人はボクシングの経験がないと言うのはいささか傲慢な話であると思っている。
欧米のボクシングはかなり理論的である。
たぶん日本人からしたらむこうのトレーナーやコーチであわない人が、たくさんいると思うのだが、しかしこの合うとか合わないと言うのは、あながち文化の問題だけではないような気がしている。
日本人の技術の伝達は垂直である。
今はもうだいぶましになってきているが、われわれの時代はとにかく上から言われたことに従うと言う時代で、先輩や監督の意見に口をはさもうならば、屁理屈を言うなということを言われたのだが、今でもスポーツ競技においては、まだ多少理屈を言ったり、言い訳をしないということが、美徳であるというように考えれている嫌いがあるように思う。
それとは少し話がずれるかもしれないが、私は競技者にもう少し、理屈のキャパを広げてもらいたいと思っている。
理屈のキャパとは何かというと、それは物事を深くとらえることで、これはイマジネーション能力を広げることと深くかかわっている。
イマジネーション能力を広げると言うのは、物事の論理を受け入れていくキャパを広がること深くかかわってくるのだが、おそらくこういった能力は写真を見たり、人の意見を聞いているだけでは、広がることはないであろう。
日本人はこのことが足りない、戦いや戦術において、イマジネーション能力をひろげると言うことは、大事なことであるが、ひと言で言ってスポーツをやる人間は、往々にしてこのイマジネーション能力をひろげる訓練ができていないように思える。
時々本屋に置いているボクシングの本を見て思うのだが、日本のボクシングの手引書は、かなり内容が薄いと言える。
挿絵や写真ばかりで見やすいのだが、しかし欧米のように屁理屈とも言えるような理論を何ページにわたって書かれているというものはなく、どれを買ってもそう大差ないので、おもしろくないのだが、こういう挿絵や写真しか受け入れられないのはまさに、その理屈のキャパがせまいからだと思っている。
もっと本を読めというのは、いささか傲慢な意見かもしれないが、しかし自分がどういうようにどういうかたちで、どういう風に競技していくかということは、教えられる側の問題でもあり、特に学生の間は、愚直にならないためにも、こういう屁理屈とも言える手引きや、それだけではなく、戦記や古典などの本を読みイマジネーション能力を広げることが大事で、こういうキャパをつくることが、いわゆる先細りのスポーツ馬鹿を生み出さないことだと思っている。
私はよくここで学生に戦記などの古典をすすめるが、こういう戦記を読むことによって即実戦にはつながらないが、しかしのちのちそれが、物事を考える上でのイマジネーション能力をひろげるためには役に立つからである。
ガリア戦記などという戦記は基本中の基本であろう。
読んでいるだけで、そのスペクタクルな戦いが頭の中に広がって来る、実に壮大な書物であり、こういう書物を読むことによって、頭の中のイマジネーション能力が高められ、考え方や、頭が柔軟になっていくのではないだろうか。
これは個人的な意見であるが、アマチュアスポーツと言うのは、勝てとか優勝しろというようににんじんをぶら下げられてやるものではない、日本でよくクラブをやってやめた後、もう何々と言うスポーツはやりたくないという人が多いが、これはやはり個人とスポーツのかかわり方が深く関係していているからではないだろうか。
人間は体力だけではなく、知力を使うことは非常に大事なことである。
古典などの難解な書物を読み、イマジネーション能力を広げ、理屈のキャパをつくっていくことは、自分がこの競技を通してどうありたいかということ、そして技術を理解する上でも大事なことである。












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Open the kimono オープン ザ キモノ

2010-01-21 | Weblog
アメリカの業界の言葉で「Open the kimono」と言葉があるらしい。
これは「本音で話そう」という意味で、ビジネスの場でなかなか本音を話さない日本人に対して皮肉った言葉である。
日本でもよく本音で話そうとか腹を割って話そうということを言う。
しかしたいてい本音で話そうというのは、お前の話は聞いているよというひとつのポーズのようなものであり、こういうことを言う人間に限って本音で話すことはなく、ただ相手の関心を引こうとしているだけである。
本音で話すということは一体どういうことであろうか?
以前何とも言えないうさんくさい営業マンが入ってきて、そういうたぐいのことを言って私から信用を買おうとしたことがある。
その時本音を言えば即座に「お前の態度がうさんくさい」と思ったのだが、そういう本音は言っていいのだろうか。
本音を語るというのは難しいことである。
なぜなら時にはその本音が相手を否定してしまうからである。
アメリカ人のように行きつく先が、ビジネスやマネーであるならばそれは一向に構わないのだろうが、しかしビジネスの場においても、人間関係を重要視する日本社会ではいささかタブーなことかもしれない。
私自信、周りから見れば、歯に衣着せぬもの言いで、物事をはっきりと」いうタイプである。
時々行っている専門学校では、それがおもしろく好評を買っているが、これでも時々しか来ない私が、ダイレクトに言い過ぎると、他の先生に差支えがあるので、かなりジョークを交えて言っているのであるが、日本社会のように常に人間関係を意識した社会では本音を語るというのは大変難しいものである。
以前韓国人の友人がこういうことを言っていた。
服の好みの問題だが、韓国人が原色を好むのに対して、日本人は灰色のようなあいまいな色を好むらしく、これは日本人の性格をあらわしているそうである。
よく日本人は周りからあいまいだと言われているが、はたしてそれはいけないことなのだろうか。
少なくとも日本人があいまいだということは、アメリカ人のように戦略的や戦術的なことではない。
これはある学者が言っていたことであるが、日本人があいまいなのはその生まれ育ったというか生きていく生活環境にあるらしい。
西洋などの大陸は民族も多く自然環境も激しく、生きていくために競争や対立がうまれ争いごとがおきるのだという。
しかしそれに比べて日本人は単一民族で自然も豊富な環境の中で生きている、だから争うことよりも周りと共存して生きる傾向があるらしい。
おそらく日本人が本音を言わない、あいまいだと言われるのは、争いごとを好まないからであろう。
以前韓国に言った時、軍隊があちこちを警備していた。
それはあまりにもものものしく、日本にはない光景だったので、何があったのかと聞いてみたところ、どうやらデモがあって、何かあってはいけないのでこうして警備しているらしい。
しかしさらに軍隊まで借り出すのだからどういうデモがあるのか、興味本位に聞いてきたところ、たいへん驚いてしまった。
聞いたところによるとそれはバンカー銀行員のデモだそうで、お金を預かっている機関がこれほど激しいでもをするのだから驚きである。
おそらく韓国政府ではすべてのデモに対して、こういう戒厳令をもって対処しているのであろうが、しかしこういうことは日本ではありえない。
この時、私はつくづく日本は平和だということを実感させられた。
外国へ行けば日本がどれだけ、平和で安全化ということがよくわかる。
私は半分大陸の血をひいているのでどうともいえないが、こういう点は他の外国にはない、誇れることである。
この前本屋で「憲法9条は世界遺産だ」というみょうなタイトルの本があったが、売れているらしいが、この本のタイトルが日本人の平和ぼけと、争いごとを好まない性格を現しているのかもしれない。

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閑話休題

2010-01-19 | Weblog
メイドインジャパンは外国ではかなり信用がある。特に車はアメリカ製に比べてかなり性能もよく、ハワイではおそらく半分以上は日本製の車が走っている。その日本製自動車が、日米間で大きな政治問題に発展した時のこと。アメリカ自動車のメーカーの従業員が、日本製の車をたたきつぶすという事件があった。
そしてその日本製の車を販売しているディラーのショウウインドウに「BUY AMELICAN」と書かれてあったそうだ。
これは実話で一種のアメリカンジョークのようなものだが、なぜこれがジョークなのかおわかりいただけるだろうか。
実は「BUY AMELICAN」であるが、つづりが違う。
普通アメリカだとAmericaと綴るのだが、この落書きはあえてAmelicaと「R」を「L」にかえて書いているんだが、これは日本人が「R」の発音ができないというアイロニー(皮肉)である。
英語で日本人にとって苦手な発音があるが、それが「R」と「V」の発音である。
特に日本人は「R」と「L」を区別できないと言われているが、よくあるのが「Rice(米)」の「R」が発音できないので、「Lice(しらみ)」と聞こえるそうだが、あのエリッククラプトンの「R」も発音できないので、日本人だとエリッククラップトン(クラップは「くそ」の意味)と発音してしまい、失笑を買うそうである。
私も東洋人なので、発音が違うので、むこうにいた時はいろいろあった。
これはマクドナルドに行った時のことである。(ちなみにマクドナルドはアメリカのファストフード店であるが、日本のようにマクドナルドとカタカナ読みしても通用しない。私も正確には発音できないが、カタカナで書くとマクダナーズと言う。)
その時ヴァニラシェイクを注文しようとしたのだが、ヴァニラは英語で書くと「Vanila」で「V」の発音が先にくる。
しかし日本人と言うか東洋人は「V」の発音ができないらしい。
私はそのヴァニラシェイクがほしいので、ヴァニラシェイクを注文したが通用しなかったことがあった。
聞き取れていないんだとわかっていたので、それでも何度もヴァニラ、ヴァニラと言ったのだが、しかしその発音は一向に通用せず、店員は自分が誰かを探していると思い、誰かさがしているのか、誰々はいないというようなことを言われて、結局そこではヴァニラシェイクは買えず、何ともいえないはずかしい思いをした。
おそらくアメリカやイギリスに言った人はこの微妙な「V」と「B」そして「R」と「L」の発音に困ったことがあると思う。
ライスをしらみと間違えられたり、これらは会話ができれば、たとえ発音が違っても話の内容や流れでわかるが、しかしマクドナルドのファストフード店で注文したり、英語を話せず単語だけでそれらを伝えようとする日本人は、意味を理解されなかったり、勘違いをされることもある。
私はこれらの苦労した体験からこういう単語を、正確にではないが意味でもを伝える、一つのことを発見した。
それは英語を2音で発音すると言うことであるが、日本人が英語を話す時はいたってカタカナ読みである。
たとえばヴァニラなら日本人は「ヴァ」「ニ」「ラ」とローマ字読みにして区切って発音しようとする傾向があるが、こういう発音では、ある言葉は聞き取れても、ある言葉は聞き取れない、アメリカ人は日常的に、日本人のように一語一語はっきりと言葉を区切って言葉を発することにはなれていないからである。
ローマ字というのを英語教育を受ける前に習うが、これは英語や他の言葉の法則性をしる上ではさわりになるが、しかしこと発音となると話は別で、意外とこのローマ字感覚と言うのがくせものであるのだ。
以前英語の教師にこの話をしたら確かにとうなづいていたが、日本人はまず英語を覚える前にローマ字を覚えるから、どうしてもカタカナ読みのくせがついてしまう。
しかしもともと英語と言うのは感覚でおぼえるから、そういうローマ字のような法則はない、おそらくアクセントが区切りの目安にして発音しているのであろうが、ややこしい発音は、このアクセントを区切りにして、たとえばヴァニラでもアクセントに注意して、「ヴァ」「ニ」「ラ」ではなく「ヴァ」「ニラ」と2音で発音すれば、でたらめでも相手は聞き取ってくれるのである。
しかしこの法則には学問的根拠はない、学問的にとらえればそれは、いささかでたらめな話、あくまで個人の体験である。
だから絶対こうだというわけではないが、もののためしに使ってみれば案外いけるかもしれない。



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コルプスクリスティアムと陪審員制度

2010-01-14 | Weblog
今年から陪審員制度が核都道府県に於いて実施されている。
最近法律関係の人や法学部出身の人にいろいろ話をうかがう機会がしばしばあるのだが、この件に関して、私自身もこの一般人が人を裁くということに対しての見解は、それなりにもっている。
以前ブログで西洋人と日本人は罪のとらえ方が違うと言うことを言った。
西洋人が神というひとつの裁きの基準があるのに対して、日本人は罪を勘定や心の流れでとらえる傾向があるというようなことを、小説などを参考にしてして書いたと思うが、日本人は西洋人のように、裁く基準を持たないので、裁く時に感情が支配する傾向があるというようなことを言ったと思う。
この件に関して以前ある有名な僧侶が、陪審員制度についてインタヴューで「陪審員制度は感情がが支配し、裁くことが対象になるから危険だ、スケープゴートを生み出しかねない」ということを指摘していたが、しかし過激であるが、この感情があるからこそ、杓子定規な前例の基準と言う、わくをこえて「えっどうしてそうなるの」というような不可解な判決を裁くことができるのではないだろうか。
そういう点では、陪審員はその裁判の起爆剤になるのではないかと思っている。
西洋人の考え方の根底にあるのは、コルプスクリスティアヌム的な発想である。
コルプスクリスティアヌムという言葉は、初めて聞いた人も多い思うが、簡単に言えば「一神教」「ギリシャ哲学」「ローマ法」という考え方を持っているということで、このことは西洋人の考え方の根底にある。
日本人は明治維新以来、これらのヨーロッパ社会を受け入れたが、しかし実際そのローマ法と言う形をうけいれただけで、肝心のギリシャ哲学や一神教と言うものを受け入れてこなかった。
そこに制度は同じだが、西洋と日本人の根本的な隔たりがあるということを指摘している学者もいるが、その一神教やギリシャ哲学を受け入れてこなかった我々が、何を基準に悪や罪たいして裁くことができるであろうか。
むしろもともとわれわれが持っている、悪や罪にたいする率直な感情をそこで主張することも、ある意味日本人的な裁き方であり、悪に対する懲らしめになるのではないだろうか。
よくこの陪審員裁判において、われわれは専門家ではないからという消極的な意見もあるが、しかしむしろ自分たちが専門家であるよりも、そういう声を届ける必要があるように思える。





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セルフイメージ

2010-01-12 | Weblog
これはとあるゴルフ場、場面はタイガーウッズが、そのトーナメントで勝敗を決するプレーオフを戦っているシーンをである。
同スコアでまわっていたライヴァルが、グリーン上で5メートルほどのパットを打とうとしている、はずせばタイガーウッズの勝ち、この時タイガーウッズは何を考えていただろうか?
この問に対してある学者は「外せ」と思ったと答えた。
はずせば優勝である。そういう時誰もが「外せ」と思うだろう。しかしその学者はウッズだから「外せ」と思うのだそうだ。
こう考えるのには十分な根拠がある。
彼は幼少の頃から父親から英才教育をうけてきたわけであるが、この父親というのは元グリーンベレイ出身である。
グリーンベレイというのは、教育プログラムに、ルータイスという人の教育プログラムを使っているそうだが、ルータイスが考え出した教育プログラムは、ひと言で言えば訓練によって「いかに高い自己イメージを維持するか」という思考技術である。徹底してセルフイメージを高く持ち、その自分の行動にそぐわない自分に不快を感じる自分を構築する。
言い換えれば「Have to」から「Want to」に変えていくことで、ウッズの場合ここで「外れろ」と願うのは「外してくれないと自分は勝てない」と考えることだから、自分の自己評価が下がってしまう。だからこの場合相手が自分意ふさわしいのであれば、そんなパットはいとも簡単に入れてしまうと考え、むしろそういう相手と戦い打ち勝つからこそ、その自己イメージを高く保つことができるのである。
少し前からセルフイメージを高くするというようなことが言われだしてきたが、このウッズの例からもわかるように、セルフイメージはただ単に自分を評価するだけでは芽生えてこない、ある意味相手を尊重し、その関わりの中で自分をとらえなければ本当の意味で見えてこないものなのかもしれない。
アメリカではよくスポーツの場において、相手を尊敬するということが言われる。
私のチームのコーチ陣の多くが元軍人であったのだが、よく相手を尊敬しろと言っていたことを思い出す。
日本でもそうだがボクシングでも何十戦もやってきた人間は、基本的に相手を尊重することができると思うが、若い時に健全な意味においてスポーツをするということは有意義なことである。
悪く言えばルータイスの教育プログラムは、企業や団体などでつかわれているのだが、洗脳プログラムである。
しかし私は基本的に、この教育プログラムは、スポーツの持っている素晴らしい性質を利用したもので、基本的にスポーツと言うのは、根本的に人間形成していく上では有益に働くものだと信じている。
最近思うのは試合を多くした人は、このことがしっかりとできる人が多いと思うが、うわべだけではなく、そういう気持ちをしっかりと持ったセルフイメージを高く持った人間を育てたいと思う。

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枝葉末節?

2010-01-07 | Weblog
「子どもにスポーツをさせるな」という本がある。
これはスポーツライターで自らも野球の経験がある人によって書かれた本であるが、たいへん興味深く何かスポーツの指導をしている人にはお勧めの書である。
私自身も子どもにスポーツをさせることは、反対であるひとりである。
そしてなぜそうさせたくないかというのは、価値観の違いであり、日本の体育会のようなところでスポーツをさせると、何か決まった価値観を植えつけられそうな気がするからである。
半分わらい話であるが、このボクシングと言う競技にたずさわって不思議に思うことがある。それはこの競技の理念と言うか、考え方の先は必ずマンガに行き着くというところである。
減量にしてもそうだ、誰が体重をおとせば有利だと決めたのだろうか?
おそらくアマチュアの競技性を考えれば、むしろ体重をおとしすぎるということはかえってマイナスになると思っている。
おそらく医師や栄養士の見解を交えて、どれぐらいおとすことがベストなのかと言うことを考えれば、体重にもよるが、競技に参加するものであれば2キロか3キロぐらい、それ以上はかえってマイナスになるのではないだろうか?
しかし日本では10キロや15キロの減量はざらにいる。
むこうではそこまでするのなら筋肉をBuilt upして(体をつくって)上の階級に出場すればいいと考えるのだが、日本ではそうはいかない。
とにかく体重をしぼって軽い階級に出ようとするのだが、へたをすれば練習よりも減量のほうがハードで、ここまでくれば「本末転倒」である。
むこうで試合前、体重をかなりおとして減量を楽にしようとしたことがあった。
当時日本から持ってきた減量儀を着こんで練習していたのだが、途中あまりのあつさにへとへとになって練習が思うようにいかなくなったことがある。
そこでジョージがひと言「そんなもの着てるからいけない、脱いで練習しろ」と言ったのだが、このあついのに、雨合羽みたいなものを着て練習していた自分がこっけいに見えたそうである。
Hiの人間はそれほど減量をしない。ここに来て驚いたことは、試合前でも減量着を着てる人間が一人もいなかったことで、彼らいわくここでは体重をおとして出るよりも、体重をあげて大きなものに、打ち勝っていくことが勇敢なことらしく、それはアメリカのボクシング社会に一貫していわれることだと思うのだが、ヘビー級のボクサーが社会で尊敬されたり、何階級制覇なんていうのもそういう考え方が彼らの根本にあるのだと思っている。
しかし私はここで向こうのボクシングが一番だとは思ってはいない。
むしろむこうに比べて日本のほうがいい部分もいっぱいある。
特にむこうでは練習生どうしが教えあうなんていうことはなかったし、むしろ日本人だからこういう助け合いができ、そういう中でお互いが成長できるコミュニティー形成できるという点では、西洋などにはみられない素晴らしい点である。
しかしこの減量や精神論に関しては、合理的かといえば合理的ではない。
むしろボクシング一番重要な減量期間を、効率性を無視して精神論でやりとげようとするところは私にとって不思議なことなのである。
おそらくこういう非合理的な考え方の中には、あしたのジョーの影響が多いにあると思っている。特に力石の減量シーンなんていうのはかなり強いインパクトがあると思うのだが、おそらくあの減量の姿にボクサーの己とと戦う強さを見た人も少なくはない、あれこそが減量なんだと多くの人が刷り込まれたのだろう。
苦しい減量にたちむかっていく彼の姿を美学としてとらえる人も多いであろう。
私自身あしたのジョーは好きなマンガではないが、最近いろいろと意見を聞いて、それなりの評価はしている。
まさに昭和のあの時代を盛り上げ、あれだけ多く若者を励ましたのであるから、ある程度有益なマンガであったことは間違いないであろう。
しかしスポーツとマンガは別である。スポーツのこれだけマンガの影響が見られるのもめずらしいが、減量は医学や栄養学の問題でもあるのだから、そろそろここらでそういう意見や見解も交えて、効率を第一に考えてほしいと願っている。





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Mement mori

2010-01-05 | Weblog
アップルコンピューターの共同設立者であるスティーヴンジョヴズは、ある大学の演説でたいへん興味深いことを言っていた。
彼が17歳の時にあることわざというか引用句を読んだそうだが、そこにはこう書かれてあったそうだ「If you live each day as if it was last, someday youll most certanity be right(もしあなたが毎日を終わりの日として過ごしていたならば、いつしかそれは本当になる)」。
笑ってしまった。なんとも言えない屁理屈である。「アキレスは走るカメに追いつくことはできない」という、古代ギリシャのソフィスト的な言い回しのように聞こえるが、しかしこの日以来、彼は毎日をどう生きるかと言うことを考えさせられ、毎朝鏡にむかって、もしその日が最後の日ならば、自分はどう生きるか、何ができるかと言うことを自分に問うたそうである。
死というものは人間にとって忌むべきものである。
しかし時に死を考えるというのは、ある意味人間を、何かあるものそれが真実か真実でないかはわからないが、そこに向かわせるきっかけとなるのだが、彼の場合はこの死というものを考えることによって、見事に成功者の道へとたどりつくことができたのである。
彼はそのしめくくりの言葉でこう言っている。「Remember that Ill be dead soon, is important too Iv ever encountred to help me make the big choice in life(死はすぐ近いということを忘れないと言うことは、人生の最も大きな決断をする時に自分を助けてくれる重要なToolとなりました。)」
まさに成功者と言うのは、常にぎりぎりの決断をせまられることによって生まれてくるものだと感じさせられる名言である。
おそらくこの緊張感と日々の決断力が今の彼を生み出したのだが、その彼の力を生み出す原因となったのが死である。
少し前からポジティヴシンキングという言葉が取沙汰されているが、しかしこれとは逆に、彼のように自分自身でぎりぎりの決断を促されるような状況を考えてみるのも大事なことだということも、彼の言葉からうかがい知ることができるであろう。
今日のブログのタイトルはMement moriである。
これはラテン語で「死を覚えよ」昔中世の修道院であいさつとして使われていた言葉であるが、これはいずれ人間は死ぬんだからという半ば否定的な言葉ではなく、むしろその死を覚えて今日の日を精一杯生きろと言う肯定的な言葉であり、その積み重ねによって人間は生かされるのだという問いかけでもある。
こういうことを言えば、人生なんてただ一度きりだから「生きるか死ぬか」とか「一か八か」なんていう漫画的な発想にもつながりかねないが、しかしこの人間の究極的な問である死というものを、真摯に受けとめることが大事なことであり、またそこから生きる力と言うものが与えられることも確かである。
 

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ほめるだけでは?

2010-01-04 | Weblog
今日からオリーヴの2010年の歩みがはじまった。
私自身は英会話の仕事が31日まであったので、実際正月の3日間が休みであったのだが、この3日間は久しぶりの充電期間であった。
この休み期間に買ってきて読もうとした本が何冊かある。
「境界性パーソナリティ障害」「まんが現代史」「子どもにスポーツをさせるな」「はじめての宗教論」「日本人なら必ず誤訳する英文」「悪いのは私じゃない症候群」「うつで困ったときに開く本」であるが、これだけ買って読もうとしたのだが、しかしDSにはまってしまい、実際この半分しか読めていない。
私は結構本を読むのだが、その中でも「悪いのは私じゃない症候群」「うつになったら開く本」の著者である香山リカさんは、私が好きな作家のひとりである。
特に私がお勧めしたいのは「自分をあいするということ」という本である。
この本は一般的にほめるのが、へたな日本人に是非読んでみたらいいという本であるが、人間と言うのは9割の人がほめられて育つらしく、厳しく接したり、強い態度で指導することではその人の成長は望めず、人は効果的にほめられることで自分の才能を発揮できるそうである。 
しかしいざほめようとしても、その言葉やタイミングが分からない。
この本ではそういうほめ言葉やタイミングを教えているのだが、それは単にほめ言葉だけではなく、その相手や状況、目的に合わせたほめ言葉を教えている。
香山さんが言うようにほめるということは、人に何かを教える仕事をする人間にとって大事なことである。
しかしほめるということは非常に難しいことである。
なぜならほめるということは「持ち上げる」ということではなく、特に一生懸命やっているアスリートたちには「持ち上げる」ということは通用しない、ほめるということは、まさにこちらの真剣さがともなう行為であるからだ。
最近世間でも教育においても「ほめる」ということが取沙汰されている。
多くの人が「人はほめなくてはだめだ」と口にするようになった。
しかしこれは安易に受け入れざるべきことではないと思っている。
香山さんはその著書「悪いのは私じゃない症候群」の中で、最近の日本人は責任と言うものを持てなくなっているということを、免責性という言葉で表現しているが、私自身このほめるということが取り沙汰されてきたのは、この免責性ということに非常に関連しているように思えるからだ。
免責という言葉自体、あまり使われる言葉ではないが、免責というのは負うべき責任を負わずに許すこと。即ち人に対して責任を問わないと言うことであり、おもにこの言葉は、破産宣告をしたものに対して使われる法的な言葉である。
しかし最近こういった言葉が、実際使われるわけではないのだが、こういう行為が目立ってきたらしい。それが香山さんいわく、自分のやったことあるいは向き合わなくてはならない責任を、他人になすりつけるということであるが、少し話題になったモンスターペアレンツに見られるように、それらの行為がが学校や職場そして医療の現場に現れてきているというのである。
おそらくこのほめろというのも「しかる」ということにむきあうことのできない、その免責性から出てくる言葉かもしれない。
私自信アメリカからもろにスポーツの影響を受けているので、昔の日本のように人をけなしたりののしったりするは、反対であるが、がしかし今のこの現状を見て「ほめろ」と言われても、それを安易に受け入れることはできないのも事実である。
これは友人の教師が自分に打ち明けたことであるが、そのクラスにたいへん暴れる子どもがいて、授業中も騒ぐので授業にならないらしく、たいへん悩んでいる様子であった。
暴れる子どもなんていうのは今ではもう当たり前だが、それでも10年前はそういう兆候が見られるような時代で、彼はその子どもにたいへん手をやいて、藁をもすがるつもりでカウンセラーに相談したらしい。
しかしそのカウンセラーは、何と言ったかと言うと「とにかく愛情が欠如しているので、その子が何をしてもいいから受け入れろ」であったのだが、この要求と言うかアドヴァイスは現実離れしていて、受け入れがたいことであった。
実は彼が自分にそういう話を打ち明けたのは、自分が一度そういう子どもに関わりまともに学校にいかせたことがあったからで、その話を聞いて思いあまって相談してきたのだ。
で自分はその件に関して何をしたかというと特に何もしてはいない。
ただ彼に授業に出ろ、それが君の責任だということを言って、そのことを約束させただけで、それらのことは、私たちが子どもの頃に、親や学校の先生に言われ続けてきたことである。
私はこのことによって学校の信用を得たのであるが、笑い話であるが一説によればむこうでかなり心理学をやってきたと思われていたらしく、私がそこで何か話をする度に、岡崎さんはかなり専門の勉強をやっておられたのでなどと、警戒されたのだが、しかしそういう専門書を読む知識はあっても、心理学と言うかカウンセリングに関しては、ずぶの素人で、私自身子どもにかかわったのは、カウンセラーとしてではなく、近所のおやじとして関ったわけであって、言ったことも親や先生から言われてきた受け売りの言葉である。
小学生などの子どもというのは、もともと責任感というのを持っているらしい。
親が離婚などした時に子どもが傷つくのは、実は相手を攻めているのではなくて、悪いのは自分ではないかと言う、根拠のない責任感から来るのだそうだが、子どもと言うのは絶対これをやるなということを言えば、特別な例外を除いては、それに従おうとする、即ちそれを守ることが自分の責任だということを教えれば、守ろうとする、そういう性質をもともと人間はもっているのではないかと思っている。
しかしこの免責によって、生活のバランスは崩れ始めてきている。
あなたには責任がないと言う言葉を連発し、ただほめるだけの社会であるならばそれは当然のことである。
これは少し過激な意見であるが、イスラム圏で今でも石打の計や鞭打ちや死刑があるのは、まさにこういうひとりびとりが、自分のやったことに対するその責任を担うという意味である。
さらにハンムラビ法典は「目には目を歯には歯を」という同体報復法で、相手に対する責任を問うているが、これらはひとりびとりに責任を負わし、そして国の秩序を守ろうとする現われであるが、昔はこういう責任を他人に負わすのではなく、自らが負うことによって、悪いことは悪いことだ、だめなことはだめなことだと教えてきたのではないだろうか。
われわれの育った昭和は体罰があって先生が厳しかったが、少なくとも教室で立ち歩いて授業を妨害するような子どもはいなかった。
ある程度そこには生徒が授業を受ける責任があったから、そういう最低限の秩序は守られてきたのではないかと思っている。
おそらく最近そういう本を書いた心理学者は、ほめろということをしきりに促し、いいことだと思っているが、しかし生徒や患者など人と向き合うことができなくなった現場では実際、そのほめろという言葉自体が独り歩きしているように思えて仕方がない(その点香山さんは実にバランスがいいのだが)。
確かに低学年の人間に「よくやった」とほめてやるのは大事なことかもしれない、しかしこの時期から、ある程度責任と言うのを負わすことも、一つの教育であり、もし彼女の言うように責任感の欠如が問題であるならば、同時に悪いことをしたらどうしかれば相手に響くかと言うことも、問題にしなくてはならないだろう。
暴れる子どもは環境や親の問題だけではない、特別でもない限り、最終的に向き合わなくてはならないことがある。それが自分に対する責任ではないだろうか。
そのことをしっかりふまえて取り組んでいくのと、悪いのは君じゃないと受け流していくのは大きな違いがある。
もともとAC(アダルトチルドレン)なんていうのも、最終的には自分と向き合い、生きていくための責任というものを、負わしていくとこが目的であるそうだが、私は生きていく上でこの責任というものを、持つか持たないかということで人生の意味が大きく違ってくるのだと思っている。

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