脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

精神的文化圏が違う

2016-05-30 | Weblog

ある黒人選手がうちのジムに来た。結構強い選手でスパーリングの相手を探している。お前やってみないかと言われ「いいよ」と二つ返事でOKした。スパーリングは私を含めて3人であったが、スパーリングはかなり手加減してくれると言うことでやってくれた。まずトップバッターであった私は手加減どころか返り討ちにしてやるぐらいのいきおいでいったが、しかしそいつはイーッといってうってくるのだが、そのジャブがはやくていたい。どういたいかというと30センチぐらいの間合いで直径30センチぐらいの石を直接ぶつけられているような感じ、あまりの重さに脳震盪をおこして1ラウンドがおわって千鳥足でコーナーにかえっていったが、はっきりいってしゃれにならないような状況であった。それでも何とか根性で2ラウンドのスパーをしたが、結局まともにスパーをしたのは私だけ、のこりの奴らは私よりも階級が重いのにからっきしダメだった、一人はパンチをもらってすぐにコーナーに戻ってきて、顔をひきつらせてなにか言っている。どうひきつらせていたかというのはわかりやすい例で言うとよく物まねで森進一の真似をする時のあの顔、たぶんもうあかんということであろう、その顔に思わずそんな顔するなよとはははっと笑ってしまったが、そしてさらにひとりはそれを見てダメだと判断して棄権、もう少しぐらい根性見せてみろよと思ったが合理主義とはこんなものだ。

ハーバードの人生が変わる東洋哲学と言う本がある。この本の訳者は私のワイフの出身大学の人がやくしているのだが、東洋哲学を英語に訳すのは難しいと思う、なぜなら「気」とか「魂」のような概念的な言葉をひとことでは伝わらないし「義」や「仁」とと言う言葉なんかも英語には訳しにくい。原書を全体的にどう訳したのかと言うのは興味があるところであるが、この本の中で西洋哲学は封建主義が解体した後に自己実現に目標を置いた。即ち今までの自分たちのアイデンティティが宗教や君主などのどこにつながっているかということであったが、その制度が解体してそこから解放されて今度は自分は何者なのかどういう存在なのかと言うことを自分で考え自分の未来を自己実現できる。おそらくこれは実存主義のことを言っているのだと思うのだが、実存主義はおおげさに言えば世界とか人とのかかわりを無視して自己の考察に目を向けることで自己実現する哲学であるが、その考え方は特に実存主義に代表されるゼーレンキルケゴールなどの思想に見られると思う。しかしこれはごく狭い自己を基盤に未来を築いてしまうおそれがある。しかしそれに対して、東洋哲学はいかなる人間もたえず変化する存在でひとりびとりは様々な感情に対して変化する、東洋哲学は自然や人とのかかわりの中に自分を見出す哲学であると言っているのだが、この考え方は西洋と東洋の違いを表す意味では的を射ている。

私は根性論は好きではないがよく我々の世代は根性見せろと言う言葉を使う。今こんなことを言ったらなんて言うことを言うんだと言われるだろうが、しかし東洋人の言う「根性見せて見せてみい」と言うのはただの要求ではなく人と人とのつながりがある。どういうつながりかと言うのはいささか抽象的であるが、これはケースバイケースであるが、しかし少なくとも先輩などがそう言う時俺が見ていてやるぞ俺たちはつながっているんだというような人間関係をつなげるニュアンスのようなものがそこには存在すると思う。我々東洋人は人と人とのつながりを大事にする民族である。だから試合の時に誰かが応援してくれると力がわいてくるし、それに応えようとする。言葉を言いかえれば我々はそういう中で気を感じ受け取ることができるそういうスピリチュアルな民族である。犬がケンカをした時飼い主が見ていてくれた方が勝つとらしいが、東洋人にとって応援と言うのは一つの戦術である。まわりのみんなが自分のことを応援してくれてその気を感じ受け取り強くなっていく、そういう精神構造が東洋人の中には存在すると思う。応援団というのは品がないので好きではないが、しかしこういう存在は東洋文化であるから存在する理にかなった存在である。

何年か前に日韓共催のワールドカップがあったが、この時韓国がえげつない応援をしたということが問題になった。しかし多少やりすぎのように見えてもあれは我々の精神的文化で、東洋人は気を伝えて応援するのがが文化だと言えばいいだろう。まあ少々乱暴な言い方であるが東京オリンピックでも一致団結して応援したらいい、大韓民国ぐらい相手が恐怖を感じるぐらいに叫び倒せと思う。所詮西洋はフーリガンとか言って個人的に暴れる程度だ、たぶんこういう一致団結して人の応援をするなんていうことはできない。しかし我々はそういう精神的文化がある。そのアドバンテージを利用して右から左からとこれもひとつの戦術であると思う。

 

 


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Rident stolidi verba latina バカはラテン語を笑う

2016-05-27 | Weblog

ラテン語はローマ帝国で使われていた言葉で当時で言えば共通語そしてその世界での学問はすべてラテン語で書かれる、今で言う英語のようなものである。話は私の知り合いの話になるが後輩からある女性に日本人の男性を紹介してほしいと頼まれた。彼女はソウル大学を出ている英語と日本語が話せる才女である。そして何よりも気に入ったのが彼女は非常に我慢のできるタイプで、きちんと人の話を理解しようとする。たぶんそれはしつけと学習がそのような人格をつくってきたのだと思うのだが、世の中の裏技が賢いことだと勘違いしているDQNとは全く質が違う。何回か話して彼女は私のことをかなり信用するようになったのだが、私はアドバイスとしてもし国際結婚するのだったらバイリンガル以上がいいと言うこと伝えた。なぜなら一つの言葉しか理解できない、単一民族はもしお互いが壁にぶつかった時にそれを理解しようとする経験や考え方のキャパがせまいので限界がある。しかし言語を2つ以上話す人は考え方や発想がひとつだけではないので理解できるキャパがある。もし国際結婚するのだったらせめて英語が話せるバイリンガルで、家で話す時は英語と言うような家庭のほうがうまくいくのではないかと考えるからだ。

単一民族で一つの言語しか話せないと言う人間にとって人種の壁と言うのは高い、なぜならその壁をこえて理解しようとする能力がとぼしいからで、能力と言うのは言葉や考え方のことであるが、一つの言葉しか話せない、同じところから出たことがないとそういう能力にとぼしいとも言えるであろう。

私は人種差別と言うのは一番みにくくおそろしいと思っている。もうかなり昔の話であるが、とある外国での話、私の知り合いが母親が日本人だと言うことでつけられたあだ名がイルチェ、イルチェと言うのは日本製と言う意味と日帝と言う意味があるのだが、何かことあるたびに彼は日本人だからとか言われて差別をうけた。彼はその怒りをぶつけてまわりから一目置かれる存在にはなったが、しかしイルチェ(日本製)は所詮イルチェ(日帝)心から信用できる友達などできるはずはなく孤独であるということは何もかわりない。たぶんこういう話は格闘技をやっている奴が好きそうな話だ、逆境を自らの力で乗り越えて最後は強引にサクセスストーリーにしていく、しかし大事なのはこういう人間はまわりが救ってやらなくてはいけないということだ。私は基本的に人は人によって癒されると思っているが、いちいち人種差別などの差別を怒りのエネルギーに変えて憎しみ合うと言うことほどアホなことはない。戦争や内乱なんてまさにそうだが、そういうことは根本的に否定されなくてはならない。しかしマンガしか見ないような格闘技おたくは本当に何が正しいのかと言うことをまともに考えることができない、所謂かっこいいとか目立つとかの刺激でしか動かない、事実未だにやられたらやりかえせ的な発想を持っているような人間がいるが、しかし本当に大事なことは誰かがその人間の友達になると言うことで、そのための正しさや勇気を教えることだ、そしてその正しさや勇気を教えるのが教育であると思っている。現にオーストラリアのある学校ではいじめをするのもそれを黙って見ているのも同じいじめだと言うことを子供に浸透させることでいじめをなくしたらしいが、おそらくこの背景には宗教教育があると考えているのだが、自分の力ではなく、そういう力を我々は信じて何かをかえていくことが最善だと考えている。人に差別されたりいじめられたりしたことをサクセスストーリをつくりあげてごまかしてはいけない、人種差別やいじめというのはあってはいけないことで、言語道断である。それをサクセスストーリのようなはなしをつくりあげて個人化することは問題がある。こういう発想は非常に程度がひくい。しかしそういう発想しかできないのが言葉がわからない、外に出ていったことがない、勉強嫌いのそれしかできない人間たちだ。英語と言うのは共通語だ英語圏の考え方や発想を学ぶことは非常に大事なことで、特に人権や女性問題と言うのはその発想を持っているのと持っていないのとでは大きく差が出る。英語話せません、つかう機会がないからというのもいいだろうが、しかしこれからのスポーツ団体は積極的に英語を取得して行くことが求められると思う。

 

 


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How effective altruism is changing ideas about living ethically

2016-05-24 | Weblog

「あなたが世界のためにできるたったひとつのこと」ピーターシンガーがある。これeffective altruism日本語で言うところの効果的な他利主義のすすめと言ってもいいと思うのだが効果的な他利主義と言うのは確かなエビデンスに基づいて世界を向上させようと言う考え方で端的に言えば最大に有効的な寄付をすることで自分の生活も満たされていくと言う考え方である。たぶん程度のひくいボクサーとかに言っても理解できないと思うのだが、しかしグローバルになった今大きく世界を見渡すと様々な悲惨な現状が見えてくる、そしてこういう現実に目をあてて考え助け合うことが求められる時代になってきているが、まさにスポーツと言うのもこういうことに関心がなければダメだと思っている。

私は英語が理解できるので英文などで記事を読むが、特に新聞などを読むと日本の新聞と海外の新聞の世界観との違いを感じる。何が違うかと言う日本は単一民族で日本語しか話せない人が多いということに比べて、アメリカは多くの民族が存在するのでいろいろなそのことを考慮して書く必要がある。PC(political collect)なんて言うのもまさにそういうことを意識してのことだ。特にマイノリティに対してよく理解して書いている記事など見られるが、そこではマイノリティが発言し大きな力を持つと言う言論の自由の意味が存在しているが、やはりそれはアメリカがメルトポットと言われる由縁であると思う。私が地方新聞をとらない英字新聞をとっているのは地方新聞は「これって日本人だけ、しかも地方の人間だけのための新聞じゃねえか」と思うからで、広がりが見えない世界がせまい、時にはその小さな世界観からこれって問題発言じゃないのかと思うことさえあるからだ。

今グローバル的に言ってスポーツもマイノリティーよわい立場の人間に目を向けると言うことは非常に大切なことである。ボクシングと言う弱肉強食で男性中心の世界で誰がマイノリティでよわい立場になるのかということを考えて群れを運営して行くことは非常に大事なことだ。私は試合に出て活躍しそうな奴よりも、むしろそういう存在に気を配り配慮することを心がけているがまだまだ格闘技と言うのは目立ちたがり屋が多く、語学に疎い人間が多いので女性差別や弱者へのいたわりというものが非常に希薄である。英語を話すとわかるが英語はそういう配慮が言葉にでている。例えばMsと言うのも昔はMissとMrsであったが女性だけ区別するのはおかしいということでそうなったが、その他にもbusiness manがbusiness person chair manがchair personなど英語を話すと言うのは同時にこういった配慮をする必要も出てくる。

私か見たらまだまだ体育会の集団は人権をよく理解してないし、女性差別が存在する。日本だけのことならいいのだろうが、世界と言うフィルターを通して考えたら、未だに武力が支配し弱者が泣いている世界があるそういう視点に立ってみる必要もあるのだろうが、何が正しいのかなにが間違っているのかと言うことを日本語だけさらに自分たちの世界でしか考えられない、英語がだめ勉強嫌いではそういうことは見えてこないと思う。私は日本のアスリートはあまり好きではないテレビに出て来たらうれしいのかうけねらいのコメントをしたり、自分の自慢話しかしない、あの時間を少しでも使って日本や世界の現状を問題意識を持って伝えることができたら、多少はそれに影響される人間もでてくるのだろうが、自分の競技の記録や目立つことそして異性のことしか考えられないような平和ボケしたアスリートは平和ボケの象徴とも言えるであろう。


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Abeunt studia in mores 熱心に学ぶ姿勢は習慣として定着する

2016-05-22 | Weblog

最近よく小学生ぐらいの子供を持つ親からのアポイントメントがある。子供に自信をつけさせたいのでここがいいと思って来たとのことである。確かに子供にスポーツをさせることはいいことであると思うのだが、しかし自信をつけさせたり、そこで成長させると言うことはある程度その群れに目的と考え方が必要である。ただ試合に出したり、しんどいことをさせるだけではサルに芸を仕込むのと同じである。厳しくしたりそこだけのルールをしこめばある程度従順にはなるだろうが、しかしそれは本当の意味での成長とは言えないだろう。成長とは自分自らが生まれ変わると言うか変革していく力である。そしてその力はもともと人間には備え持っているものであり、そういう部分に刺激を与えることで引き出すことは可能である。啓蒙と言う言葉がある。英語ではenlightenmentラテン語のillustratio光をあてると言う言葉が語源で、もともとは無知な民衆に学問の光をあてて大事なことを気づかせると言うことで、アウグスティヌスは真実の光をあてると言ったニュアンスで使っていたと思う。しかし日本語では少し語弊のある言葉なので啓発と言う言葉を使ったほうが適切かもしれないが、人間の群れと言うのはお互いが啓発される群れでなくてはならないと思う。アドラーは人間は自らをかえていく力があると言っているが、私は彼の言う選択の心理学と言うことも含めて、人間と言うのは社会的集団であるので、大事なことはどういう群れにつながっていくかと言うことで自分の未来をよりよい方向に選択できると思うのだが、その群れはお互いが啓発できる群れでなければならない。

アドラー心理学では家族地域そして職場などでの自分はその一員なんだと言う共同体感覚を養うことが大事だと考えているが、しかしこの共同体感覚と言うのは啓発と言う言葉にもあるように無知で無学な親玉を中心としてとというようないわゆる仲間程度のレベルではないと言うことは理解できると思う。アドラー心理学において共同体感覚をそなえた人の特徴は「仲間が興味を持っていることに興味を持っている」「自分は所属グループの一員だと言う感覚を持っている」「積極的に共同体の役に立とうとする」「かかわる人たちとお互いに尊敬、信頼し合っている」「すすんで協力しようとする」ということであるが、たぶんうちの群れがそれに近いと思っている人も少なくはないと思うのだが、こういう群れをかたちづくっていくのはやはりお互いが啓発できる力があるからで、やはりそういうレベルで関わることができる人間が多い、トレーナーたちのああそういうことかと気づかせるような教え方もまさに啓発的で、こういうベースがあるから雰囲気も良く、環境もいいのだと思っているが、ここに子供が長くいればいろいろな刺激をうけていい意味で成長する。

私が責任者は知性をみがけというのはまさにこのことと関わっているからだ。無知で無教養だとそのまわりに集まってくるような人間もたかだか知れているし、くだらない体育会のルールなんかで抑えようとしても中身がなければ意味がない、アウトローくさい奴やちょっと足りないような人間がまわりに集まるのはその責任者が無知であるからだ、そういう群れは何かがズレている。責任者がその群れをどうかたちづくっていくかというのはその責任者が持っている哲学である。哲学と言っても自分の言いたいことを言わせてもらえるからと言うことではない、多くのことがらを比較してそして結論的に出てきた哲学であり、さらにその哲学は進歩していくものである。

 

 


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うちのクラブはこういうクラブです 3

2016-05-21 | Weblog

うちのクラブは30代後半から40代の人が多く在籍している。そしてトレーナーも含めてその世代の人たちが核となっている。そしてそれらの人たちは元ボクサーとかではなく一般の社会人である。暴力的な発言や殺伐とした雰囲気はなく、それしかできないなんて言う人間もいない、みなさん社会的信用もあるので女性や子供も安心してトレーニングできる場である。

うちのクラブにおいてのプライオリティはどういう人たちが集まっているか、そしてそのためには何をすべきかということである。日記にも掲載しているがうちのクラブは動画などの視聴覚でアピールしない、文章でうちのクラブはこういうところだと伝えている。それは視聴覚などの刺激で来る人よりもきちんと文章を読んでくれて理解してくれる人たちのほうが安心できるからで、実際ブログや日記などをチェックして来てくれた人たちは社会人としても落ち着いた人たちであるからだ。何かパフォーマンスのようなことをやって宣伝をすればそれはそれで人は集まってくる、しかしかっこいいからとか目立つからと言う目的で集まってくるような人間はうちのクラブのコンセプトには合わない、クラブによってはそれしかできないような人間がこれみよがしに自分たちのパフォーマンスをどうだと見せつけたりしてアドバンテージをとろうとするが、しかしここではたかだかボクシングができるぐらいで誰もレスペクトなどしない、格闘技ややんちゃ自慢しかできないような奴を決して持ち上げるようなクラブではない。はっきり言って社会人で健康維持やダイエットをしようというような人たちが、競技人口が少ないボクシング実績などをプライオリティにしてクラブを選ばないだろう、むしろ責任者の教育レベルやクラブ雰囲気が問題であると思う。よく教養と言うことを口にするが、我々のようにいろいろな人と話をする機会のある人間は教養を持つことはは非常に大事なことである。相手が何を言っているのかとかどういう考え方を持って何に合わせていくのかと言うのは、人それぞれのバックグラウンドが違うので、ある程度教育レベルを合わせなくてはお互いが理解できないことである。ちょっと足りない責任者が精神論やスポーツ論を語るが何かズレている、どうズレているかというのはそいつのまわりの人間を見たらよくわかることであるが、このおっさん言っていることがバカだからこんなこと言っても理解できないだろうなんて思われないようにしっかりと学ぶ、学んでその考え方を群れに浸透させていくことで自ずとその群れはよくなっていく、うちのクラブにはしょうむない体育会のルールなど存在しないが、雰囲気がよく女性や子供が安心してトレーニングできるのはある程度のレベルでの言葉が理解でき、ある程度の教育レベルに合わせることができるからで、うちのクラブのプライオリティはまさにここにある。

この前女性会員が私がボクシングの話を全然しないので、ボクシングの経験がないのかと思っていたと言っていた。しかし自慢ではないがアメリカで組織的にボクシングを競技してきたので何をすべきかということはよくわかっている。あえて言わないだけでここにはここのやり方があって、私の習って来たボクシングが自分たちが目指すことではないと思っている、だからあえてそういうことを言わないようにしている。うちのクラブは私のクラブではない。このクラブの歴史をつくっていくのはトレーナーや会員たちであって、その彼ら彼女らが楽しく平等にトレーニングしたり、試合に出場できるように最大の配慮をはらうのが私の役割であると思っている。


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After a long time has passed.

2016-05-19 | Weblog

試合の1か月前特別コーチだと言ってある男が指導に来た。大学でもコーチの経験があるらしく、おもパワーをつけるためのトレーニングを教えてくれるとのことであった。しかしこいつが食わせ物でどうやら東洋人が嫌いなようだ、うちのチームはハワイアンから東洋人が多いのだが、こいつにしごかれるしごかれる。アメリカと言うのはそういうしごきは基本的にないのだが、しかし当時のアメフトは多少はそういうことがあったらしく、口答えしようものなら「えー今なんて言った腕立て伏せだ」みたいな軍隊さながらのやりかたで、私たちは1週間こいつにみっちり鍛えられた。ある時「俺が走れと言ったら走れ」と言って延々と100メーターぐらいのダッシュを連続でさせられた。それがあまりにも続くので脱落していく、たぶん脱落させてお前らはこんなもんだと言いたいのだろう。やりかたがあまりにも意図的であったので「againもう一度だ」と言った時に思わず「f○ck you」と言ってしまった。その時まわりからはっはっはと言う笑いが、さらにその笑いは大きくなって100メーターダッシュどころではなくなった。それで調子がくるったのか100メーターダッシュはなくなったが、しかしその後もしごきのようなトレーニングは続き、1週間後こいつが帰る時にはみんなでこいつをリンチにしてやろうかと思ったぐらい彼は嫌われて帰って行った。

それから10年ジムに私のワイフと行くとそのコーチが、最初は知らんふりをしていたが、しかし目が合った瞬間しらじらしくもおーっと。「俺のことをおぼえておるか」と言ったら「おぼえている」とまあ「f○ck you」なんて言った東洋人をわすれることはないと思うが、聞く話によると彼は今はここのジムでボクシングを教えてるらしく、その時彼が教えているジョンとか言う競技者を紹介してもらったのだが、彼がジョンに接する態度は以前のような高圧的な態度でもなく非常にいい関係を持っていたので、人間って時が過ぎればかわるものだなあと実感させられた。

人間はかわると思う。時が立てばかわることもあるし、自らをかえて行かなくてはいけない時もある。いずれにせよ人間と言うのはかわることができるし、かえることができる、だからこそ人間がまた再び出会うことに意味があるのだと思う。

掲載した詩の内容は主人公が思い出がつまった街を時がたってまた再びおとずれる。そしてまた再びそこで出会えるかと言うことを期待した詩であるが、最近私はこういう詩を英語や韓国語そして日本語で比べてみる。比べてみたら訳す時に文化の違いがでているので非常に興味深い。보고싶어서 더보고싶어져서は日本語では会いたくてもっと会いたくなってである。しかし英語ではI miss you I am missing you.と보고싶어서 더보고싶어져서の「더(もっと)」にあたる言葉がないのだが、ここで言うもっとは頻度ではなく気持ちの問題である。その主人公のたかぶった、やるせない何とも言えない気持ちを伝えようとしているのが「더」であってこの概念は精神文化圏が違う西洋は東洋にくらべてとぼしいと思う。

 


마주보며 나누던 얘기들
우리둘만 알았던 얘기들
지울수없나봐 버릴순없나봐
잊지못하나봐
오랜만에 둘러본 거리들
이길을 지날때면 좋아했던 기억이
자꾸 떠올라서 발길을 멈춘다
한참 지나서 나 지금여기 왔어
그때가 그리워서 모른체 살아도 생각나더라

그런 너라서 자꾸눈에 밟혀서
함께 보낸 시간들
추억들도 별처럼 쏟아지는데
넌 어떠니
행복해만 보이는 사람들
나만 혼자 외로이 남은 것만같아서
아닌 척해봐도 니생각이난다
한참 지나서 나 지금여기 왔어
그때가 그리워서 모른체 살아도 생각나더라
그런 너라서 자꾸눈에 밟혀서
함께 보낸 시간들
추억들도 별처럼 쏟아지는데
눈물이나
여기서널 기다리면 볼수있을까
그땐말해줄수있을까 이런내 마음을
보고싶어서 더보고싶어져서
그런 나라서 난 너밖에 몰라서
너없이살다보니 모든게 후회로 가득하더라
니가없어서 허전한게 더 많아서
오늘도 발걸음은 이자리가 그리워 가지못하고
불러본다





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Nix Kids Boxing

2016-05-17 | Weblog

Parents and coaches should discourage kids from boxing because the sport rewards deliberate hits to their opponents' heads, says the American Academy of Pediatrics.

In an updated policy statement, the AAP focuses on the serious risk of face and brain injuries,   pointing out that children's brains are more vulnerable to concussion and recovery takes longer.

While the statement says there's no evidence that head guards reduce the incidence of concussions, some who have been involved with Miami's youth boxing programs say head guards do help. 

これはあるニュースの記事だけど、私はよく医大生にこのAAPが出している論文を読んだらいいとすすめている。この記事子供に競技目的でボクシングをさせている人間は読めるのだろうか?もし読めないとしたらおかしいだろ。なぜなら英語でそれを反対する論文や記事はたくさん存在するからで、しかもそれはすべて医学的根拠に基づいている。そういう事実を理解もしないで子供に競技目的でさせることは無知もはなはだしい、ボクシング廃止論でも問題にしているのが「deliberate hits to their opponents head」すなわちボクシングは意図的に相手にダメージを与えるスポーツで、そこが他のスポーツに比べて問題がある、そしてそういうスポーツに子供を巻き込むことは医学的にも倫理的にも大きな問題があると言うのがAAPの見解である。

これからのスポーツはethics cordと言うのが問題になってくる。ethics cordと言うのは倫理的基準の線引きと言ったところだ、こういうことを言うと私にはわからないとか難しいことを言うなと言う人間もいるかもしれないが、しかしある程度学問的な基準に立ってコミュニティをとらえていくことは必要なことである。うちのクラブは会員にお客様的な扱いをすることはないが、しかしコミュニティの質をよく考えて、年齢、性別そして目的が違ってもみんなが平等にトレーニングできるように配慮しているが、そのことはブログを読んでくれたらわかることで、それはある程度学問的な基準やものさしがあるからだ。何を持ってそのコミュニティが平等で健全かと言えるのはその責任者の考え方が大きく反映するだろう。責任者はいろいろなことをよく理解し学ばなくてはならない。学ぶと言うのは学習いわゆる勉強だ、世の中の裏技的なことが賢いことだと勘違いしている人間がいるが、しかしそういう知恵ではなくきちんと学問を通して考察された考え方を責任者が持つことは子供から大人が存在する群れにおいては必要なことである。子供のボクシングにしてもそうだ、医学的には完全に灰色である(完全に灰色と言うのもおかしいが)。それを練習では軽くあてているとか希望者だけとかいうのは中学生の不良のいいわけのように聞こえてみっともない、希望者だけとか言うが子供にそういう判断ができるはずがない、できないからそれをクラブ側が適切な判断をしなくてはならない。そしてもしそれをあえてさせるのであればきちんとその危険性を親に説明し、コントラクトにサインさせるぐらいのことは必要であると思うが、そういったことはやはり学問的な考察と判断が必要である。それができない奴は軽くあててる、希望者以外にはさせないとかいかにその灰色をごまかして白に見えるようにするかで、そういうことが彼ら彼女らのかしこいことであるとしたら非常にうさんくさいことでその群れは不健全と言えるだろう。東京オリンピックも開催されようとしているこの時代、せめて共通語である英語ぐらいは多少理解しある程度の学問的理解ができる能力が必要とされると思う。

はっきり言ってボクシングの実績とかそう言ったことよりも責任者は教養が必要だ、あのおっさん同じこと2回言ってたぞとか、それしかできないと哀れな目で見られないように、本を読んだり言葉をおぼえて教養をつむことは大事なことである。


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“Boys, be ambitious!”

2016-05-15 | Weblog

前回のブログで日本はこれだけ人口がいるのにあそこまでトレーニングしなければ勝てないのは効率がわるい、それは英語音痴の監督やコーチによるものだと言うことを書いた。根性論と言うのもそうだ戦略や戦術がないからとにかくトレーニング日本流で言うと練習させる、根性論はそれに付随して出てくる考え方である。ただ根性論と言ってもニンジンをぶらさげて監督とかにやらされているだけじゃないかとさえ思う。特に日本のクラブの連帯行動と言うかみんなが同じことをやらないとダメだと言う考え方にはついていけない。例えばトレーニングがしんどいからと休んでもいいと思う。休んだらなんで休むんだと多少非難の目で見られるが、しかし逆に言えば相手が休むとライバルがひとりへる、そう考えたらラッキーなことなのだが、練習は休むなではなくさぼるなと言われているので休むと罪悪感を感じる、そういう環境下でやっていて本当に楽しくできるはずはない。日本の競技場は独特の雰囲気がする。社会主義の国に来たのではないかと言うぐらいの違和感をおぼえるが、競技者そのものがスポーツにおいて自由に楽しむと言うことを知らないからだと思っている。アメリカは本当に自由だ、競技者主体で競技と言うものが行われる。日本では必ず何人か気をつかわなくてはいけない奴がいて、そういう奴が堂々とおいそことか注意しているが、こういう言い方は人権がわかっていない、むこうでは競技者をIT扱いしたら白い目で見られる。そういうことを平気で言う奴がいるから始末におけない、おそらくここでは競技者に礼儀を求めることよりもこういう奴がいる限り監督やコーチにそれを求めたほうがいいだろう。

私が競技したところでは競技者のことを監督やコーチがBOYと呼ぶ。BOYと言っても日本のようにただひよっこ扱いするのではなく、尊敬と愛情の気持ちを持って呼ぶ愛称のようなものだ。事実私もトレーニングではBOYと呼ばれていたが、今でも「OK BOY COME ON BOY」と言っていたジョージの声は鮮明におぼえている。このジョージだが実は彼は偉大なトレーナーだ。前に私がすごく速いパンチをうてると言ったが、これはジョージの特訓のおかげである。悔しい思いをしてジョージにボクシングをならった私だがまずジョージが私にさせたことはただフラダンスのように腰をずっとふりつづける運動だ。私は最初こんなことやって意味があるのかと思っていて、実際彼に聞いたのだが、帰ってきた答えはお前は手でパンチをうっている、今鍛えている部分をつかったらもっともっと速くなるということであった。ほんとかよと口答えしながらもそのトレーニングを続けたが、そして実際やりつづけることでお腹の部分でパンチをうつことができた、これぞまさしく体幹でうつということであるが、実際そううつことでかなり速いパンチがうてた。彼は私のスパーを見てここを鍛えればもっとよくなることを理解していた。そしてたぶん彼が近づいて来たのは偶然ではなく、意図的であった。この東洋から来たケグジェンイのBOYを俺が育ててやろうとそう思ったのだろうと思う。

センチな意見であるが、もし再び生まれてくるようなことがあっても自分はまたジョージと一緒にボクシングのチームを組みたいと思う。あいつだけはぶちのめしてやろうと悔しさでその場に立ち尽していた私に声をかけてきてくれたことからはじまり、そして肝心な試合でまけてしまったことでおわった私の競技人生。しかし私のボクシング人生は本当に豊かであったと思う。


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うちのクラブの雰囲気はハワイだ

2016-05-13 | Weblog

손연재 (ソンヨンジェ)は延世大学校(大学)に在学している新体操の競技者である。話によると彼女は母国語、英語、日本語、ロシア語を話すマルチリンガルだそうだ。最近私はコレアンの女性を取り上げているがこれにはわけがある。今経済が不安定だと言われているが、同時に女性の活躍も目立ってきたことも確かである。儒教の国で女性の大統領誕生は奇跡的だと言えるし、その時期大統領候補の中に上がっているのも女性である。私は女性がタレントみたいな感じではなく、正当な理由で進出する国は国が豊かになると信じているが、コレアはまさにそうなりつつある。現在の大統領はあまり期待できないが大統領のスポークスマンだった나경원(ナギョンホン)は十分に期待できる。ソンヨンジェは清楚な知的美人であるが、しかし経歴や語学の能力を考えても彼女は単なるアイドル的存在ではないということが言える。単なる感のようなものだが、こういう認められるべくして認められる女性の進出はコレアの巻き返しを彷彿させるようなものだと思っているからだ。しかし私が信用できないのは女の武器を使ったり、ホステスのように男を立ててふるまうような女性である、自分は弱いんですなんて都合よくそういう素振りをみせるが、しかしそういう人間い限って男を利用しようとしているだけ、たいした能力もないのに男を頼りに生きようとする女は信用できない。だが本当に実力のある女性には頑張ってほしいと思っている。

ソンヨンジェが4か国語を話すと言ったが、最近ではスポーツ選手の語学習得には力を入れている。語学取得がどれだけ大事かと言うとそれはよその国で競技したらわかる。国際会議なんて言うのもすべて英語、とにかく言葉がわからないと話にならない、英語がわからないとすべて蚊帳の外である。あと5年後には東京オリンピックが始まろうといているのに日本の語学のレベルはまだまだひくい。なぜそういうことを言うかと言うと日本人のトレーニングは効率がわるい、なぜあれだけ練習をしないと勝てないのかと言うことであるが、私はこのことは日本人の語学音痴とかかわっていると思うからだ。よくテレビ番組などで自分たちは猛特訓をしたとかすごいトレーニングのエピソードを語っているが、戦争に行くわけでもないのになぜそこまでしなくてはいけないのか理解に苦しむ。海外で競技したものにはわかると思うが日本とは雰囲気が全く違う、欧米は日本がスポーツを修業と考えているのに対してあくまで遊びとしてとらえているのでいかめしい雰囲気もなく、またそれしかできないような奴がいばると言う雰囲気もなく楽しそうにやっているのだが、そういう遊びの雰囲気がリラックスや活発性モティヴェーションさらに限界点をこえていくのではないかと考えている。うちのマスにしてもそうだ、うちのマスはかなり加減してやるのいうのが半ばルールのようなものになっているので、おっさんでも気軽にできる。すなわち遊び感覚でできるということだが、その遊び感覚が限界点をこえていくので、普通に筋トレや地道な運動をするよりは体力がつくのだが、やはりそれはトレーニングに来るのが楽しいからで、その楽しさが彼らをを夢中にさせ限界点をこえて競技させるのだろう。私は米国で競技してきたのでどうしたら楽しく競技させることができるか、そしてそのためにはどういう雰囲気をつくればいいかと言うことを知っている。それがここのやり方でそれは米国のボクシングクラブをみならったものだ。日本の競技会場は暗い、どの会場にもいかめしいいばったじいさんやおやじがいて、リラックスできないメンタル面での環境は世界のワーストに入るのではないだろうか。日本人ってどれだけトレーニングをしてるのとさえ思うぐらいトレーニングをする。しかし一億五千万以上人口がいる国があそこまで必死でトレーニングしなくては勝てないと言うのはまさに効率がわるい、たぶんそれは英語が理解できない情報を集めることができない、心の鎖国状態をつくりあげている監督やトレーナーの限界ではないかと思う。

 

 She is song Yeonjae 


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Ethics cord

2016-05-09 | Weblog

「Ethics cord」

体育会によくあるあいさつを強制させること、あれはきちんとした目的ががあるのか?私から見たら服従の手段としか見えないのだが、そこまで言うのだったらお前らきちんと敬語を使えるのかさらに正しい日本語が使えるのかと言いたくなる。うちのクラブでは暴力を排除さらに人間関係に優劣をつくるようなことはしないように配慮している。まず暴力であるがうちのクラブではマスの時にカーッときて敵意むき出しでなぐりかかって行くのは暴力、こういう傾向がある人はマスボクシングをさせることはないし、それがあまりにも暴力的であれば退会してもらう。さらに優劣をつくらないと言うのはボクサーとか元ボクサーを優遇したり、ボクシングができるからと言ったことだけで優先的に見ない。むしろひとりで浮きそうな人に配慮するうちの群れは弱いものに対してどう配慮できるかと言うことがethical standerdである。さらに私は外でボクシングの話はしないなんていうのも一つの礼儀のようなものであると思っている。格闘技は暴力をあつかうスポーツなのだから、食事などで家族連れや気の弱い人が横にいたら威圧されて話しにくくなるだろう、何のとりえもないような奴はこれ見よがしに自分はすごいと言うことを示すためにでかい声でそういう話を得意がってするのだろうが、体育会の言うあいさつとかそういうパフォーマンスよりもむしろethics cordと言うものを考えなくてはならない。知性のない集団の礼儀なんて言うのはかたちだけのものだ、小学生の道徳のようなものをかかげて人間教育などと言うのは笑止である。私が思うに責任者の教養のレベルと言うのは非常に重要なことであり、教養のレベルや尺度が違うと話ができない。よくここに来た人が安心したと言うがそれはそういう基準がずれていない、話をしても同じ基準で物事を考えることができる安心感であり、英字新聞を見て安心したと言った人はまさにそうである。

「My favorit singer」

今年の夏백지영を聞きに行く予定であったが難しくなった。私が聞きたいと思って楽しみにしていたのだが、外国から来客があるのでいけないだろう。백지영は決して美人ではない、しかし愛嬌があってジョンの深い瞳は歌声とは別の彼女のアトラクティブポイントである。コレアンの女性は話す時は淡々と話す。一見無愛想に見えるが、しかし仲良くなって話すと非常に表情豊かでよく笑うしよく泣く、よく笑いよく泣く백지영は私の中での典型的なコレアンの女性である。私はコミュニティの中にいた時は非常にいやな思いもしたことがあったが、しかし彼ら彼女らの喜怒哀楽やジョンふれることで癒されたことも確かである。私はしんどい時最近CDで백지영の歌を聞いている。ファンとか言うよりも聞くと心にジーンと来る。ああ自分はこういう部分もあるのだと言うことを実感できる、その時何か自分は自分であるような気がするからである。ある程度の年齢になるといろいろと過去を振り返ることがある、表記したハングルは私がよく聞く사랑 하나면 돼のさびで人物が백지영である。

사랑 하나면 돼 난 그거면 돼 다른 건 아무 것도 필요 없어
네 품에서만 행복해서 난 웃으며 살 수 있었나 봐
내 사라진 미소 짙어진 눈물 네 손길을 더 바라니까
돌아와 제발 오늘이 지나면

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