脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

倫理って何ですか

2022-05-28 | Weblog
私は常日頃からジムにはどういう人たちが集まってくるかと言うことを問題にしてるが、それはそのコミュニティに集まる人たちの感覚や価値観がコミュニティのモラルや倫理を決定するからである。倫理や道徳と言う概念は説明するには少し時間がかかるし、抽象的であるともいえる。なぜならその倫理やモラルは国や習慣あるいは人によって違うからである。私は倫理やモラルはセンス(感覚)の問題だと理解している。そのコミュニティの倫理やモラルはそこに存在する人が持っているセンスによって決定されるもので、倫理やモラルはその複合体を通してあらわれるものだ。少しここで倫理と言う言葉に絞って説明させていただくと、論文などでは倫理をE-cordと表現されることもあるが、ここで言うcordは日本語で言うところの倫理規定みたいなもので、同様にcivil-cordが民法と訳されるように、論文などでは法律をあらわすこともある。ブリタニアディクショナリーは倫理をこう説明している。
”The term ethics may refer to the philosophical study of the concepts of moral right and wrong and moral good and bad, to any philosophical theory of what is morally right and wrong or morally good and bad, and to any system or code of moral rules, principles, or values.”「倫理という用語は、道徳的な善悪の概念の哲学的研究、何が道徳的に正しいか悪いか、良いか悪いかについての哲学的理論、道徳的規則、原則、価値観の体系や規範を指す」cited from Britannica Dictionary
倫理は集合体が生み出すひとつの規範や法である。何々するなと禁止のかたちで書かれたルールであるモーゼの十戒は、代表的なその集合体の持つ共通感覚であり、倫理や道徳はその集合体の感覚によって決定され絶対的なものとなりうるわけであるが、倫理はセンスの問題であり、その群れに正しい価値判断があり、共通の正しさを持っていればおのずとその正しさが基準となり、その群れの人間は正しい行動をとろうとするだろう。ジムやクラブにどういう人たちが在籍しているかコミュニティの質を問う上では重要なことだと言っているが、それは言わずとも倫理やモラルはセンスの問題であり、ジムの倫理やモラルはその集まる会員の人たちによって決まるからである。
うちの会員の人たちは一般的にこういう奴が半グレみたいなやつで、そういうやつはろくな人間じゃないと言うとみんながみんなそうではないと言うのではなく、みなさんだいたいこういう人間はダメだと言う基準をしっかりと持っているし、そういう意味ではみなさん倫理や道徳に関しては高いセンスを持っている人が多い、それゆえに安心してジムに来ていただくことができる。
一方いくらあいさつができて自分と利害関係にある目上のものに対して取り入るのがうまく服従の姿勢を示しても、日本語がでたらめ、道徳を語るときも漫画日本昔話程度のことしか話せない人間があいさつとか言っても組織やコミュニティは形骸化する。結局でたらめな人間が集まってくるであろう。

教員なんかもそうであるがコンプライアンスの問題を多少解決できるとしたら、採用する地点で倫理あるいは道徳的センスを持った人間を集めることだと思う。順守すべき何とかとか言ってももともとそういうセンスがなければ意味がない。入社試験に「倫理とは」「ジェンダーについて」「日本におけるハラスメント」などのレポートを提出させると、自ずとその書いた人の倫理的センスが理解できるし、研修などもそういう哲学的なことを講義して議論させるような場を持つことも必要ではないかと思っている。

参考文献
中村昇「ヴィトゲンシュタイン、最初の一歩」

 

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ヘルマンヘッセの言葉から

2022-05-22 | Weblog
はっきり言って負けは負けでも判定負けが一番悔しい。RSCとかKOならば多少は納得できるのだろうが、判定となるとあの時もっとああしておけばと後悔はある。そんな気持ちと裏腹に試合の応援にに来てくれたピーターとジウンは楽しそうである。でもその試合の後は迂回して海岸線をはしってかえってくれた。時はもう夕暮れ、80年代に流行った曲をかけながらハワイの海岸線沿いをはしる、海岸線からハワイの저녁하늘(夕暮れの空)を見ていると心がおちついて、自分が負けたことなどどうでもよくなってくる。
「Carpe diem」と言う私の好きな言葉がある。これは私の監督が言っていたことでラテン語の詩人ホラティウスの詩の一文、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。 私は時々クラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言う。失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。 問題は判定かと言うことではない、自分がそこで一生懸命、力を出せたか、そしてそのための準備をしたかということ、本当に満足できる競技人生はその積み重ねの結果ではないかと思う。勝ち負けだけにこだわっていたら成長などするはずはない。そのことをふとハワイの空を見上げて思った。ドイツの詩人ヘルマンヘッセはこういう言葉を残している
「鳥は卵から出ようともがく。卵は世界だ。生まれようとする者はひとつの世界を壊さなければならない。」
ドイツ語 "Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muss eine Welt zerstören."
英語 "The bird fights its way out of the egg. The egg is the world. Whoever will be born must destroy a world."
失敗や挫折とも思えることも実は後になって考えてみたらその自分の小さな世界をこわすひとつのきっかけである。失敗は成功とはいえないが、しかしそれらのことは人間特に若い人たちを成長させるこやしだと思う。
参考文献 ヘルマンヘッセ「詩集」



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スタンフォードの実験からコミュニティを問う

2022-05-17 | Weblog
だいぶ前に親しいプロフェッサーに自分の意見をはっきりと伝えるセンスがあると言われたことがある。そしてそれはただ言いたいことを言っているだけではなく本を読んでいるので考察ができているらしく、まあちょっとしたよいしょであるができればうちで哲学を教えてほしいものだと言われたのだが、私が少なからずともプロフェッサーが言うようにそういうセンスをもっているとしたら、他言語で本を読めるからだろう。他言語を理解すると言うのは何かを考察する上ではかかせないことだと思っている。事実私が自分の専門以外の学問をすぐに理解できるのは原書で読めるからだと思っているし、そうすることで本を読むセンスが養われるだろう。今で言う原書は、論文などは英語で書かれるのでそのほとんどが英語であるが、アドラーでもなんでもそうだが、やはり英語で論文を読めるか読めないかは物事を深く考察し理解する上で大きな差があると思う。前に語学に疎い集団は保守的であると言ったことがある。正直な話今のスポーツ指導者は英語を理解できないとだめだし、本を読むと言うことは必要条件である。英語を理解できないと新しい情報が入ってこない。そして何よりもスポーツにおける人権とかハラスメントなんて言うことを理解する上でのセンスなんて持てないだろう。事実暴力がおこると何が問題なのかと言うことをきちんと理解しようとしない。まずいことがおこった、次から気をつけたらいいぐらいの感覚で、さらにそれを徹底して占めあげてもその構造自体がかわらなければ何もかわらないだろう。私は運動クラブのヒエラルキーや社会自体が村社会だと理解しているが、たとえ暴力事件が起こって一時的にそのクラブが平和になっても、自分より上の先輩が責任者になってそいつが暴言や暴力をふるったら、誰も注意しないし、また同じことが繰り替えされるからである。
スタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な心理実験がある。前回アイヒマン裁判をあげて普通の人間がその社会に服従し行動することで犯罪者になる。ナチスの罪はその人間の思考を停止させたことで悪を無条件に受け入れたことだと言うようなことを言ったが、このアイヒマンの動機づけは心理学ではミルグラム実験(アイヒマン実験)と言って、スタンフォードのバリエーションとも考えられている。そのスタンフォードの実験とは、一般の人を集めてくじで囚人役と看守役を決定し、そして本当の刑務所のような環境で生活させると言う実験である。最初はみんなそのようにふるまうことにためらうが、しかし次第にその性格に関係なく、囚人は囚人らしく、看守は看守らしくその立場に応じた振る舞いや顔つきをするようになった。このことから人間は何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない。すなわち支配する社会が我々のあり方を決定するということである。そう考えたら自分の帰属している社会のルールがでたらめであるとでたらめに物事を解釈し、そのでたらめなことが正しいとされるのだが、クラブでおこる暴力と言うのはその責任者だけの問題ではなく、それを形作っている親や子供そして社会の問題でもあると言うことだ。
英語ダメ、本を読まない、勉強嫌い、そういう考察力にとぼしい人間が社会人の集まるコミュニティを正しくまともに管理できるはずはないと思っている。自由な意思を持った人間を管理するなんて言うことはおこがましく、かなりデリケートな問題である。平等で平和なコミュニティを目指すためには正しいものさしをもってそのコミュニティの正しい在り方を考察することが大事である。そして暴力事件などの問題がおこらないようにするためには、みずからが人間の愚かさを知り、その3歩先ぐらいのことを考える。そのため社会学や心理学、哲学を学んで考察する力を養うことも大事だと思う。



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なぜジムで武勇伝ややんちゃ話がいけないのか、アドラーにおける共同体感覚から語る

2022-05-12 | Weblog
私はアドラー心理学を参考にジムの共同体づくりをしているが、アドラーの言う共同体意識は重要である。共同体意識とは?正確に言えば共同体感覚であるが、まず共同体と言うのは平たく言えば自分の居場所となる場所、そして共同体感覚はその居場所に仲間に囲まれて生きているとしたら、仲間たち共同体のために貢献しようと思える感覚のことである。しかしここで言う貢献とは単に人のために何かをしろと言うことではなく意識的な問題である。それは自己への執着(self interest)を他人への関心(social interest)に切り替えていくことで得られるもので、そういう感覚が共同体の雰囲気をよくするものだと思っている。私はよく武勇伝ややんちゃ話を得意がってするのはみっともないし、うちのジムでは害になると言うのはれっきとした根協がある。武勇伝ややんちゃ話をする人間の何がいけないのか。それはまず聞いててみっともないし不快だからだ。俺は強い俺は偉いと自己主張して人よりも上の立場に立ちたいのだろうが、力や忍耐よりも知性や発想力が乗除価値の生産にとって重要なネオリベラリズムの時代に、何もないからと言って力を誇示することは非常に原始的でアホである。こういう承認欲求の強い人間は常に勝つか負けるか人よりも上か下かの縦の関係でみるので非常にやっかいである。他人はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか、そういうことばかり気にする承認欲求の強い人間は他人を見ているようでいて、実際は自分のことしか見ていないし、考えていない。わたしにしか関心がないのだ。自己中心的でこういう人間がジムに集まってくるとくだらない小競り合いや、サルと同等のヒエラルキーができる。武勇伝ややんちゃ話でマウントをとろうとするのはその典型的な例である。MOBはマイノリティを大事にする。格闘技で言うところのマイノリティは女性であるが、ここでは女性を優先的に考えてトレーニングすることが全体の平等だと考えているが、そういう感覚を理解できるにはやはりある程度のレベルが必要であり、バランスが大事である。だからこそそこにどういう人たちが集まってジムが運営されているかと言うことが求められる。私が哲学とか理念を主張するのは単に自分の考え方を聞いてもらおうとか、押し付けるのではなく、この考え方をベースにして共同体感覚を養い、ジムの雰囲気をよくしたいと思っているからだ。同じような教育レベルで同じような仕事の人間がマジョリティのクラブで自分たちはわきあいあいとやっている、みんな平等だというのと、われわれのように多様性があるクラブの人たちが言う平等とか楽しさは雰囲気が全く違う。雰囲気は大事だ。そしてその雰囲気をつくるのはそこにどういう哲学があって、どういう人たちがジムに在籍しているかということである。

参考文献
岩井 俊憲 「人生が大きく変わる アドラー心理学入門 」
岸見一郎「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
人から物を考えるセンスがあるとお褒めの言葉にあずかるので、それをさらに言わせてもらえば考えるセンスを養うためには原書を読む、今日あげた参考文献はアドラーの論文ではなくアドラーに考え方を説明している本である。原書は日本語のものは少ないが英語なら読めるので読む価値はあるので読んだらいいと思う。


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これ何度も読んで

2022-05-05 | Weblog
今日クラブあるあるで話をしていた。そこで話題になったのは体育館の入り口に脱いだ靴がそろっていなければわざわざ部員をよびつけて「お前ら靴がそろってないじゃないか」と怒鳴りつける顧問。そもそも体育館と言うのは誰が入ってくるのかわからないし、ましてやそこで大会が行われていたら多少靴が散乱するのは仕方がないこと、しかしそれを言うことを聞くからと自分の力を見せつけるためかわからないが、人をわざわざよびつけてでかい声で人前でののしる、はっきりって誰がやったかもわからないのにそういうことをするのは濡れ衣を着せること甚だしく不公平である。こういう一方的な権力を行使できるようなコミュニティはまともではない、第一靴がそろっていないのなら自分から片づけてやったらいいし、もしそれを言う必要があるのなら人前でどなりつけるのではなく、こっそりと注意すればいいことだ、私はこういう話しを聞いたり、行為を見たりするたびに彼ら彼女らがよくする権威を見せつけるためのパフォーマンスと思ってしまうが、スポーツのコミュニティには絶対的な権利をもつ権力者は必要がない、平等性を保つためには親玉がいて人を支配する構造をつくってはならないと言うのが私の考え方だ。
アンナハーレントの著作に"Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil"がある。これはナチスの親衛隊隊長のアイヒマンの裁判を傍聴したアンナハーレントの記録である。その中で彼女はこう語っている。「アイヒマンは悪人でも狂人でもない、彼の罪はまったく思考していないこと、思考を放棄しその組織の歯車になることでホロコーストに加担した。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だ」彼女はこの現象を悪の陳腐さ(あるいは凡庸さ)the banality of evilと名づけたが、悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る。悪とはシステムを無批判に受け入れることである。
まだまだスポーツの世界は暴力や支配的構造が見られるが、それは監督や顧問をどうにかしろといった問題ではなく、そこに集まるひとりびとりの問題でもある。そこにある権力的構造を容認すると言うことはその力による支配を受け入れると言うことだ。上級生が下級生よりも力を持ち、時には下級生はその上級生の理不尽な要求に我慢しなければならないと言うのはその権力構造の延長である。格闘技ではケガをしたりさせたりするのが当たり前、なぐられたのはお前を強くするためだとか本人が納得してたらいいと未だそういうことを言う奇特な人間が存在する。さらにそういう群集心理が歪むと自分もやられたから問題ない、よくあることだ、我慢しろ的なことを無神経にも言うが、はっきり言って世の中では暴力をふるえば犯罪だ、こういう狭い世界で生きると物事を一般化して考えることができない、常に自分たちの都合で解釈する、そういう人間が集まると暴力が容認され、理不尽なことがまかり通る。
クラブやジムで暴力や不公平がおこらないためにもひとりびとりが考えて行動する必要がある。正しいものさしをひとりびとりがもたなくてはならないと言うことだ。そして客観的に、広く深く物事を考える。その考える力を養うため勉強する必要がある。はっきり言って強豪と呼ばれる運動クラブは勉強させる暇がない程練習するので勉強がおろそかになりがちだが、こういう習慣になれてしまうとそのスポーツ以外は何も考えずに没頭することが正しいこととされ、その権威主義の歯車となってしまう。スポーツは誰もが競技する権利があって、人権を侵害されてまでするものではない。同じスポーツをする共同体なのだから、そこでは誰もが権利を軽んじられることなく平等に楽しんで競技したらいいだけのこと、そこで我々はスポーツをする権利があるのだ。暴力や不平等を生み出さないためにもひとりびとりが考える力を養い、自由に行動することが必要である。アイヒマン裁判は特別なことではなく、我々が陥りやすい人間の弱さ、愚かさの象徴である。人間は愚かで弱い、愚かで弱く脆いからこそ考える力を養い間違った虚像をもたない、自分だけの正義ではない、普遍的な正しさを求めて行動することは大事なことである。


参考文献
Hannah Arendt ,Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil.
「ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像」開高健



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