脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

「Drastic」「 Dogma 」「Double standerd」

2024-01-29 | Weblog
うちのクラブに来ている人たちのほとんどと言うかほぼ全員が健康維持やダイエットである。中にはボクシングに興味ない人も在籍しているが、それでも堂々と権利を主張してトレーニングできるのがMOBである。わたし自身この群れを形成するうえでこころがけていることを3つのDにあてはめている。それぞれ「Drastic」「 Dogma 」「Double standerd」であるがこれらのことはクラブを運営する上で基本的な指針としている事柄である。
まず「Drastic」は思い切って何でもする。時には後ろを振り返らない決断も必要であるということだ。おそらく多くの日本人はこのことが苦手であると思う。私のことを日本人的でないと言う人がいるが、おそらく私はそういうことだと思っている。うちのクラブは暴力的な人の入会をお断りしているが、女性も多数在籍しているのだから、格闘技でおこりがちな暴力に関しては厳しく管理し、クラブを運営するにあたってこりゃあだめだと思うような人間は退会してもらうようにしている。しかしそれは個人の感情ではなくまわりにとってこの人間やグループがいたら雰囲気をこわすとかクラブであまり目立たない存在がいやな思いをしたりトレーニングがやりにくいと言うような明らかにバランスをかくような自己中心的な人間、エラそうではあるがこれもここにきておとなしくトレーニングしている人たちの権利を守るためであり、そういう人たちも含めて誰でもいかなる目的であっても楽しく平等にトレーニングしてもらうためである。格闘技は目立ちたがり屋やいかにもやんちゃですというような人間が多いので、人にうらまれようが怒りをかおうが、群れを健全に平等に運営するために正しい選択をする、時にはドラスティックであることは大事なことだ。
「Dogma」は宗教用語で教理と言うこと。簡単に言えばどういう哲学を持って運営していることかということである。そのことについては何度も説明しているので詳しく書かないがMOBでは特に共同体がどうあるべきかということを考えて、互いにいい影響を与えあうことができる共同体を目指している。

さらに「Double standerd」は多面的に物事を見るということ。2つ以上の視点を持つということ。これはある意味語学ができなければ難しいことだ。例えば子供にボクシングを競技としてさせることは正しいことかということは日本と欧米では全く立場が違う欧米ではボクシング廃止論を皮きりに子供にボクシングを競技させるなと言う論文が発表され、こういう見解ひとつにしても英語が読めなければ理解できない「double standerd」に立つということは英語が読めなくてはできないことである。私は語学音痴であると保守的になると保守的であることはスポーツ集団にとってはかなりディスアドバンテージでなのだが、問題を起こすようなクラブは保守的で封建的、家父長制的な集団だと思っている。MOBは社会人がおもに集まるコミュニティである。一部の特定の人間だけが目立つのではなく、みなさんが平等に楽しくトレーニングできるように配慮する必要がある。3つのDとはそのための政策である。


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when everyone is in the wrong, when everyone is in the right

2024-01-23 | Weblog
フランスの劇作家ピエール、ド、ラ、ショーセはこういう言葉を残している。
「when everyone is in the wrong, when everyone is in the right(全員が間違っている時には、全員が正しいことになる」 おそらくこの時代はフランスも封建的であったので、そのシステムに向けられた言葉であると思うが、ジムのコミュニティも同じで親玉中心の封建的社会になると正しく機能しない。社会学の用語に「Gesellschft」と「Gemeinschft」という言葉がある。日本語でも「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」という言葉で知られているが、ゲゼルシャフトは都市型の共同体のことで、ゲマインシャフトは農村型の共同体、オリーヴはどちらかと言うとひとりびとりが独立した人が多いので、ゲゼルシャフト型の共同体にあたると考えている。ここの会員はひとりびとりが独立していて大人の付き合いができるから人間関係が楽だ。MOBの会員はみんな責任を持って仕事をしているので、ボクシングは趣味として割り切っている人が多く、仲間意識であつまる集団ではないので非常に来やすいと言うことは初めて来た人からよく聞く。私がさけたいと思っているのが、ディスアドヴァンテージ的ゲマインドシャフト的集団である。ひとりびとりが独立していないとそういう傾向におちいりやすいく、一見仲がよく明るくまとまって見えるが、しかしひとりびとりは孤独で、社会不適合型とも言える。そう言う人間が集まると他人を干渉しあったり、人間関係の優劣をつけようとする、いわゆる家父長制的な傾向が強いクラブである。私は群れに知的レベルの高い人が一定数存在したら、アホなしきたりやシステム親玉の存在がなくても、正しい秩序が自然と保たれると信じているが、スポーツクラブはいろいろな人が集まる場であるから、ひとりびとりの考え方や意見が反映される場であることが理想であると思う。

参考文献「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念」テンニエス  岩波文庫 

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ゾーン

2024-01-17 | Weblog
ゾーンと言う言葉がある。これはスポーツにおいて最も集中した状態の時のことをあらわす言葉だ。ゾーンは一言で言うとリラックスしているけどすごく集中した状態のことを言う。私の見解ではゾーンに入った人間は表情でわかる。それは厳しい顔やそれらしい顔をするのではなく、そういう状態をあらわす表情がある。実は私が最後に対戦してまけた相手がそのゾーン状態だったんじゃないかと思っている。アマチュアだから100%そういう状態かと言うとそれはわからないが、試合前に彼の顔を見た時になんかぼーっとしたような顔をしていて、例えるならば鉄棒をつかもうとするとき遠くを見つめるようなあれと言うか、K1かなんかの格闘技で優勝した人間もそういうぼーっとしたような顔をしていたが、おそらくゾーン状態に入るために一番必要なのはリラックスすることで日本人はこのリラックスをするのが非常にへたな民族であると思う。私が向こうで競技して感じたことは日本人が修業としてスポーツをするのに対してアメリカ人は娯楽として楽しんでスポーツをすることである。子供が競技するにも基本とか基礎とか言って同じことを淡々とさせるのではなく、実戦形式からはじめてそこでスポーツの楽しさを知り、そのスポーツが自分にあっているかあっていないかという適応性を見るのが向こうのやりかたで欧米の子供はスポーツを3つ4つとかけもっているのが現状である。しかし日本は基本とか基礎とか言ってたとえそれが子供であってもつまらないことを従順にさせるのだが、そうやり方をしているからいつまでたってもスポーツ=修業のわくから出ることはない。欧米の子供が楽しいから続けるのに対して日本人は意地とか人に負けたくないとかそういう目の前の小さいこだわりで続けているようにさえ思えるのだが、こういう気持ちでスポーツをとらえ、常に変なプレッシャーを背負おうとするから肝心な時にリラックスできないのだ。私は米国でボクシングできたが、おそらく日本だと同じような結果をのこすことはできなかったと思う。今振り返ればあの時は本当に楽しかった。楽しく競技できたからこそ、自分なりに結果をのこせたのだ。私にとってもはやボクシングは遊びであった、遊びであったからこそそれなりにできたのだと思っている。あいつには負けたくないとか、強くなりたいなんて言うことだけでは限界が見えてくる。まさに先細りである。スポーツは元来は楽しむものなのだから、思いっきり楽しんだらいい、そしてそういうかかわりを持って競技するからこそ、リラックスすることが可能となるのだと信じている。

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英語を理解することのアドヴァンテージ

2024-01-11 | Weblog
前にある大学生がオットセイを英語だと思ったのか、外国人に「オットセイ」と言うと外国人はえっそれ何というので、発音が違うのかと「オットーセイ」とか「ウオットセイ」と何度も発音を変えて伝えようとしていたが、通じるはずはない、オットセイは「sea lion」あるいは「sea otto」でオットセイは和製英語のようなもの、彼はなんで通じないのですかと不思議がっていたが、和製英語を英語だと思っている弊害がここにある。もはや英語は日本では共通語で、大都会に行くとわかるが、ホテルなどのサーヴィス業は外国人を採用しているところがほとんどで、私などは得体が知れないので大都会に行くとほぼ英語で話しかけられるのだが、コンビニなども何か探し物をするぐらいなら英語をわかる人を出せと言って聞いたほうが賢明だとも思っている。
英語を話すことは、2つのアドヴァンテージがある。
まず難しいことを簡単に伝えれる能力が身に付いたこと、英語は日本語のようにだらだらと長い文章で会話しないので、完結に言いたいことだけをまとめて話さなくてはならないので、簡潔に何かを伝える能力が身につく。たぶんバイリンガルの人間は長々と無駄なことを話すことはない、なぜなら英語そのものが簡潔であることを求めるからだ、おそらく無駄な話や同じことを長々話す人間はは語学音痴、日本語しか話せないと思っているが、実際もしスピーチを頼まれてする時にそれを英語に直してみたらいい。おそらく表現しきれない言葉や、無駄な言葉が多いことに気づくだろうが、結婚式などで10分と言っても、それ以上話す人間、自分では雄弁だと思っているが、それはまったくの無駄話、聞く人によっては非常に不愉快である。こういう人に足らないのは場の空気を読めないというのと、自分の言葉を完結にまとめることができないことだ、相手が10分ぐらいといったら10分でまとめるのがエチケットのようなもの、それを長々と話すのは準備不足と指摘されても仕方がないだろう。
そして客観的に物事を見れるようになったということ、特に英語で論文やエッセイ(レポート)などを書くとその能力が養われる。英語の論文はintroduction 、mainbody、conclusionとおもに3部で構成されるのだが、注意すべきことは、同じ言葉を使わない、I Youなどの人称名詞を使わないというのが基本的な論文の書き方である。特にIや Youを使わないのは客観的に物事を見なければいけないということで、「雨が私をそこにいけなくした」なんていう原因ありきの表現なども日本語にはない独特の表現でである。さらに聖書を読むことをすすめるが、目的は欧米の人間の考え方を知るためだが、特にepistle(書簡)その論文の3部構成からなりたっていて、読むことで論文を書くコツが理解できると思っている。




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Words are more powerful than weapons.

2024-01-04 | Weblog
これは私の持論であるが、文章がまともに書けない、日本語がきちんと話せない人間は組織やコミュニティの管理がきちんとできないと思う。単純に言って責任者で文章ひとつまともに書けない人間を誰が信用できるだろうか。言葉と言うのはその人間のひとつの格みたいなものだ、文章能力がひくいと言うのは日本語をきちんと理解していないからである。言葉が乏しいと我々のようにいろいろな人たちが集まるコミュニティではコミュニケーションがきちんととれない。当たり前だが一般のジムにはインテリ層の人も来る、うちのように外国人だって来るのに、英語どころか日本語もきちんと話せないようでは一般の社会人から信用はされないだろう。
日本語力が乏しければ、コミュニティや組織をまとめるには限界があると言うのが私の意見。管理者の言葉がとぼしければ、集まってくる人間もそれなりである。そういう人間は自分勝手、目立ちたがり屋、俺は試合に出るから優先させろと自分ファースト、情やよくわからない人間関係で集まってくる集団のかっこうや雰囲気は半ぐれそのもの、そういう人間たちが集まるとその群れは暴力的になり、不平等が生じると思っている。格闘技はそういう人間をひきつけやすいので私は絶対にそう言う人間たちが集まるような集団にはしたくない。うちのクラブのマスボクシングを見てくれたらわかると思う。誰一人としてカーッとなってなぐりかかっていくものや、ケガをさせるような勢いで思い切りなぐりかかっていったりしない。ベテランになるほど自分ファーストではない。サンドバッグの順番などゆずるような光景を目にするし、試合にも何度か出てかなりのベテランなのに人が多くなってきたら自ら隅っこに行ってトレーニングしてくれる人もいるが、ジムは非常に平和的である。
うちのクラブは言葉による管理ができていると思う。私自身見てくれたらわかるが、威圧感なんかまったく出ていないし、怖い人を演じているわけでもない。所謂一般の人、ボクサーオーラゼロ、そんなあほくさいオーラはbullshitである。そんな私がジムを管理しているわけだが、うちのジムは秩序がきちんと守られているし、弱い立場の人間にたいしての理解と配慮がある。うちの会員のほとんどがホームページの「オリーブの哲学のNullus est instar domus(わが家にまさる所なし)」を読んでくれているが、私が思うのは共同体をしっかりと目的を持って形成したかったら、言葉を学んで、その言葉を発信していくことは大事なことだ。責任者は文章をしっかりと書く、書き続ける。そしてその文章を通してある程度影響を与えることも必要だと思う。



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