脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

神道はすぐれた宗教だと思う

2017-09-27 | Weblog

5年ぐらい前ある大学の准教授からイスラムの研究をしているから何か参考文献があったら教えてほしいと言われた。その人はコミュニケーション学が専門で、共同体感覚が優れていると考えられるイスラムのウンマ共同体をについて調べているらしく、なかなか手ごろな文献が見つからなくて私に尋ねた次第である。イスラム教と言うのは慈悲や博愛と言うものを大事にし、優れた共同体感覚を持っているとは思う。がしかしそうであっても東洋人である私は彼ら彼女らの考え方を全面的に安心して受け入れることができない。

まずこの宗教が誕生したのは砂漠である。生きていくためにはそれなりの領土が確保されなくてはならないし、まわりには外敵が存在する。そういう外敵が存在する中、自分たちの生存権を確保し、子孫を繁栄させていかなくてはならないのだから、おのずと戦闘が必然的であり、その共同体を守るために戦闘集団にならなくてはこの厳しい世界では生き残っていけないのである。ユダヤ教と言うもの砂漠で誕生したイスラム教徒同じく一神教の宗教であるが、出エジプトから王国が滅亡するはまさに戦いの歴史であった。特にJudgementと言う書簡はそのイスラエルのjudgeたちがいかにして敵である他宗教をけちらしたかということが描かれているが、イスラエルが王国にまで発展したのは彼らがエジプトを脱出して以来、イスラエルにとっては試練の時であったが、しかしそれは同時にその群れの秩序を守り、精神を鍛えそして共同体感覚を養うための訓練の期間でもあった。そしてその結果彼らはみごとな戦闘集団となりのちにダビデやソロモンが代表するような強い王国をつくりあげたのである。女性の地位がひくく、一夫多妻制なのは男は戦わなくてはいけない貴重な存在で、一夫多妻制はその戦闘で夫をなくした女性を守るためである。神道や仏教に見られる宗教はどちらかというと調和を大事にする宗教だ、その調和を保つためならば神道のように他の文化や神々を受け入れることも可能である。一方一神教は他の神々を認めることができずその相いれないものを認めることができない。ゆえに機会によっては戦闘集団ともなりうるのだと思うのだが、そこが曖昧であってもすべてのものを受け入れ飲み込んでいく東洋人の宗教観とはかなり隔たりがある。

今国家主義と言う言葉をよく耳にするが国家主義とは英語ではnation stateである。この言葉はnationと言う言葉が意味するように同じ文化や言葉を持った同じ民族の集合体と意味合いが強いのだが、国家主義と言う言葉はいささかナチス的な響きがあるが、それは宗教的であるとも言える。日本人の持つ宗教観はその宗教が人を支配することがない、いたって自由で寛容な宗教観である。国家神道にしても成立するところにまでいたっていないし、私が持つ東洋と西洋の宗教観の違いは、いい意味でもわるい意味でもそれに支配されるかされないかということであり、その違いは砂漠で生まれた宗教のように生きるか死ぬかの二者択一の選択でもない、自然がもたらす恵ゆえにいろいろな生きる選択が与えられる恵によるものだと思うのだが、それゆえに調和を大事にするのだと思う。


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私がトランプの演説を評価する理由

2017-09-27 | Weblog

トランプがキムジョウンにちびロケットマンとつけたあだ名、思わず笑ってしまった。うまいこと言うなあと思ったが、向こうではアスリートなどがこういう言葉を使って相手を揶揄する。私も個性が強かったので揶揄されたのだが、しかしその分人にもあだ名をつけてやった。すごく仲が悪い韓国人の男がいて、その彼が虫の研究をしていて、その彼につけたあだ名がファーブル、本来ならばこういうあだ名は光栄であるが、しかし明らかに人をおちょくってつけたあだ名なので、「よう、ファーブル」と言ったら「何だと」と一色触発状態に、同胞の女性がまあまあと間に入ったのでけんかにはならなかったが、彼とは帰国するまでずっといがみあった関係であった。

あと太ったベジタリアンの女性がいた。ベジタリアンであることは自由であるが、しかし結構太っていて、野菜しか食べていないのになぜそこまで太っているのか気になって「本当に野菜しか食べないのか」と聞いたことがある。そう聞くと突然顔が曇って何か機嫌をわるくしたのか「なぜそういう趣旨の質問をするのか」と詰め寄って来た。しかし私もその時どうかえしていいのかわからず思わず「でかいから」と言ってしまった。その後彼女は一言も口をきいてくれなかったが本当に私は毒舌であったと思う。

話はトランプの国連演説の話になるが、今回の彼の演説は私的には評価している。どう評価しているのかというと、演説の一部を抜粋するとNo one has shown more contempt for other nations and for the wellbeing of their own people than the depraved regime in North Korea. It is responsible for the starvation deaths of millions of North Koreans, and for the imprisonment, torture, killing, and oppression of countless more.

We were all witness to the regime's deadly abuse when an innocent American college student, Otto Warmbier, was returned to America only to die a few days later. We saw it in the assassination of the dictator's brother using banned nerve agents in an international airport. We know it kidnapped a sweet 13-year-old Japanese girl from a beach in her own country to enslave her as a language tutor for North Korea's spies.
彼は今までとは違い今現在北朝鮮でおこっている人権を無視したおぞましい出来事、そしてその国家がアメリカ人の青年を殺し、日本人の少女を拉致したことを国連と言う場で強く主張した。即ち国益と言うことを第一に考えつつ、守られなくてはならない人権について語ったわけだが、そういう人権を無視されてひどい仕打ちにあっている民族や国民は北朝鮮だけではなく、身近な国にも存在する。だから事実国連と言う場でそういう問題をあからさまにしたことは評価に値するだろうし、彼の演説は民主主義的であると思う。「かぞくのくに」と言う映画がある。この映画は帰還事業で北朝鮮にわたった人たちとその家族のことを問題にしている映画である。地上の楽園と言う名目で夢や希望をもって北朝鮮に渡った日本人や韓国朝鮮人の人たち、むしろこの映画では在日朝鮮人をその犠牲者としてとらえているが、事実楽園とはなばかりで、その帰還事業として渡った在日朝鮮韓国人そして日本人が人権を蹂躙され迫害されている。本来ならば日本や韓国がその苦しみの中にある同胞たちのために北朝鮮でおこっている出来事、そして人権問題について言及しなければならないことである。本来ならばもう少しグローバルに問題を取り上げてその人権や迫害問題についてふれる必要もあるのだろうが、語ることは日本のことばかり、これでは演説もガラガラになって当たり前だと思ったが、その置き去りにされている問題をあえて国連でアメリカ大統領であるトランプはとりあげ糾弾した。そこを私は評価している。
 
私のもうひとつの本籍はあちらにある。南北が分断した時にじいさんは南にいたので韓国人になったが、しかしもし本籍地で決まっていたら、私は生まれていなかったということになる。
 
 
 
 

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Long Long Time Ago

2017-09-23 | Weblog

Long long time ago, when I was college student. たいした大会ではないが優勝したことがある。ハワイと言えどアメリカ、来た当初は実力差があって何度もこりゃあかんわと思ったと同時に当時はボクシング大国だったので、本当に東洋人はここではちっぽけな存在だと言うことを実感した。とにかくあたらん、相手のフットワークについていくことができないから通用せん。そのフットワークがへたな私はいつの間にか間合いに入って来てたたみかけてうたれたのが、そのあまりの速さにこいつは手品師かと思ったぐらいだ。日本ではスパーなどがおわった後にいろいろとアドバイスし合うがしかし向こうではそんなことはなずしない。なぜなら自分が一生懸命おぼえた技術をいとも簡単に人に教えることなどバカげた話、おそらくそれは競争の原理が働いているからだと思う。

でもその競技の盛り上がりが違うのもアメリカである。かっこよく書かせてもらうが、その今までたいしたことがなかった競技者が優勝するのだからまわりの反応もすごかって、勝者ブルーコーナーとコールされた時はわーっと歓声があがり、まわりにいた人たちはその東洋から来た学生に惜しみなく拍手をするのだが、まさにその時私はヒーローであった。リングをおりていった時に右手を思いっきりつきあげたことを今でもおぼえているが、この経験が自分は外国でも対等にやれるという自信を生み出したことは確かである。私がヘタレ大歓迎、特に運動音痴やヘタレと思っている人たちを応援したいのは、もちろんそういう自信は単なるきっかけにすぎないが、しかしそれでもそういう体験が自分自身の生活の変化や生き方をかえることができる貴重なものだと信じているからだ。


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그 여잔 웁니다

2017-09-14 | Weblog

今シンガポールに住んでいる人がいる。お父さんは日本人お母さんが韓国人だが、彼女はそれぞれの国を行き来してシンガポールに住んでいるのだが、こう言うことを言っていた。それは日本にいるときは日本人のふりをして生きて、そして韓国にいるときは韓国人のふりをして生きる。シンガポールではおもに英語を使って生きているが、お互いの文化を意識しないその中立的な立場がここちいいと。一般的にこういう思考はアイデンティティクライシスぽいが、おそらく彼女がお互い非難しあっている今の日本や韓国にいたら大きなストレスを感じるであろう。だからこそ彼女のように文化や日本語、韓国語、そして英語などの言葉をを使い分けて生きる生き方も、自分がしんどくなければ、これも一つの彼、彼女のアイデンティティであるからそれはそれでいいと思う。

日本人は平和ボケと言われているが、その平和ゆえに独特の価値観があると思っているが、その平和な状態と言うのは自分たちのここちよさのことだと思う。だからそのここちよさかが崩されることには不快感を持つ。グローバルと言うのはお互いややこしいけれどもそれぞれの文化を認め合うことが求められるのだが、日本人はややこしい文化や考え方をみとめるキャパがないし、お互いをぶつけあって解決しようともしない。アメリカ人やヨーロッパ人が受け入れられるのは彼ら彼女らとつきあっていたらここちよく、彼らが自分たちを豊かにしてくれるからだ。一方アジア人特に発展途上国はそこまで受け入れてもらえない。そう言う国を受け入れると自分たちの幸福度が下がるからだ。平和ボケであっても平和であることはいいことであり正しいことだ。しかしもう少し外の世界に目をむけて痛みを感じそれを多少なりとも共有することも大事なことだと思う。

学生の時、すごく仲がよかった韓国人の女の子がいた。この子のおばさんがバーの経営をしていたのだが、そのバーは夫の暴力や望まれない子供を産んでしまったため本国では生活できずここに流れついたと言うようなシングルマザーが働いていた。韓国では当時女性の地位がすごくひくかったのでそういう女性が子供を産んでも育てていくことができず、彼女たちのように外国に行くか、断腸の思いでアメリカに養子に出さなくてはならなかったようだ。実際私はコーチのアレンに連れていかれそこで雑用と言うか手伝いをしていた彼女と出会ったのだが、最初は前に座っていた小柄でかわいいこに話しかけようとしたら、いきなり彼女が遮って話しかけてくる。どこから来たと言われて日本だと言うと日本語が話せるといきなり日本語を話し出した。大学でビジネスを専攻している彼女とはそこで意気投合したのだが、のちに彼女がその小柄な子のことについて言っていたのは、彼女は来たばかりでわけありだということ。おそらくそれは中絶か何かで向こうではいることができずにここに来たのではないかと推測する。私の意見だが、私はこういう現実を見ているので金が欲しいからと安易に体を売ったり、キャバクラで働くのはfuck You!だ。だからそういうたぐいの店には一切いかないようにしている。私の仕事に関する哲学は人を幸せにしてなんぼのものだと思っているが、しかしそれは飲み屋のように戯れるだけではない。多少なりともその人の痛みを知ることが必要だと思っている。現代人は多くのストレスをかかえている。人に言えない悩みや問題を抱えている人もいるだろうし、そういう人たちがここに来たら楽しくトレーニングできて元気になって帰って行くようなコミュニティを目指しているが、そのためには広く人を理解するキャパが必要である。うちのクラブは毎年おもにクリスマスに各団体に総額5万円未満と少額ではあるが寄付させてもらっている。特に弱い立場の女性や子どもにだが、震災の時は赤ちゃんが困っていると思い。おむつを2回にわけて持って行った。そしておもに女性の自立や子供のためになるような団体を選んで寄付させてもらっているが、こうして公言するのもそのことをクラブに来る人たちが少しでもおぼえてほしいからだ。私はこういうスポーツクラブと言うコミュニティがもしスポーツはグローバルだと言うならば率先して小さくてもいいからその痛みを共有しなくてはならないと思っているし、いろいろなことを学ばなくてはいけないと思う。それができなければその群れが本当に人を生かし元気にさせるような群れにはならないと思っている。

 


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This is our virtue.

2017-09-06 | Weblog

日本のスポーツの世界はダメだけど、社会自体は非常に高度だと思っている。まず話し合いで解決できると言うのは日本ぐらいだ。日本人は共通してこう言うことをしてはいけない、こんなことをしたら迷惑がかかるとか、和を尊ぶ考え方があるので、お互いが話し合って納得のいくように話し合いができる。しかし一方、欧米は人種の坩堝でそれぞれ文化や考え方が違うので、ひとつにまとまること自体が不可能なことだ。それゆえにお互いの文化や考え方を受け入れなくてはならない、そういうバックボーンがあるから争い事がたえないので、話し合ってこういうことにしましょうという契約と言う概念が存在するのだが、考え方や文化が違うからそれをまとめていくために必要な契約は欧米の基本的な概念で、一方日本人は人を信用してかわす約束のほうを重要視するが、その日本人にとって契約と言う概念は希薄であると思う。

もともと移民が言うのも何だが、日本のような国が移民政策を受け入れるとまず道徳がこわれはじめる。移民の犯罪は格差や貧困からおこるものであるが、しかし日本の場合は特殊で、道徳そのものが侵害されると社会の秩序がみだれ、さらに犯罪が欧米化され治安がわるくなると思う。日本は島国ではあるがその島国であるからこそ培われてきた。和を尊び他人に迷惑をかけないと言う道徳心はある意味日本人の美徳であり、それを無理にグローバルとか言う言葉で強引に他の文化を融合させていくような考え方は、日本人そのもののアイデンティティクライシスになりかねないであろう。

和辻哲郎の哲学に「間柄的存在」と言うのがある。これは日本人の人間観をあらわしたものであり、個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しない。人間はその間柄的関係によって自己の個性を発揮しなくてはならないが、しかし時としてそれをおさえ否定しなければならないこともある。その自己の肯定と否定が真の人間性をつくりあげると言う考え方だ。はたして欧米社会がこのような考え方を受け入れて行けるかどうかは疑問であるが、私はこの和辻の考え方こそが日本人の和と尊ぶ精神をあらわした考え方で、共同体のとらえ方であると思う。

うちのクラブは雰囲気がいいと言われるが、しかしそれは決してノリがいいと言うことではなく、うちのクラブの相互関係がまさにその「間柄的存在」かかわりがあるからだ。うちには中年の会員が多いが、それらの人たちはもちろん社会経験もあって、それなりに責任をもった仕事をしている人たちも少なくはない。そういう社会生活や立場、教育などのバックボーンがあるから、自然と譲り合いや思いやりの精神がでてくるのだと思っているが、まじめな中年の人たちが多いとこういうアドバンテージがある。

日本語の「おかげさまで」と言う言葉はまさにこの「間柄的存在」をあらわした言葉であるが、この言葉は英語にはない。

 

 


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じいさんにみぞおちを思い切りつかれた

2017-09-04 | Weblog

最近よくKareta Kidの話をするが、この映画は私の好きな映画だ。内容はすごく単純で派手さはないが、相手をやっつけても徹底的にやらないむしろ救いの手を差し伸べて仲直りしようとする徹底した平和主義をつらぬく姿はまさに日本人の持つ武道の精神を描いている。私がこの映画が好きなもう一つの理由は、何か自分の体験と少しかぶるからである。キャストも派手さがなく平凡である。事実私にボクシングを教えてくれたのは日系人だ。ダニエルはこの空手の師匠であるミヤギに空手を教えてもらうことを通して豊かに成長していく。しかしミヤギは彼はたたけとかつけとか言った具体的な教え方で空手を教えるのではなく、自然を通して教える。まさにそれは自然と調和することで空手の原理を教えていくのだが、それは空手にとどまらず人間の生き方そのものにもバランスが必要だと言うことを教えるのだが、たぶんそのことが彼が空手を教える理由だと思う。

話はジョージの話になるが、私も彼からボクシングだけではなく多くのことを学んだと思う。今思い出すのは合気道か何かの達人とか言う知り合いのじいさんを連れてきて、今から力の有効的な使い方を教えるみたいな感じで、そのじいさんから指導をうけたことだ。そのじいさんは日本語が流暢で、はじめて会った時「君は日本人か」と聞いてくるので「おやじは韓国人だ」と言うと「そういう顔をしている」と言う。どこが違うのかと思ったが、そのじいさんにのちに言われたことなのだが、私には従順さが足りないというか言うことを聞かないそうであるが日本から来たと言う青年ならばもう少し従順だと思ったのだろう。そしてそのじいさんはパンチをうつにはどこをつかったらすばやくうてるかということを1週間かけて教えてくれた。最初「力が入りすぎだ」といきなりみぞおちにつきを思いっきり入れてきた。さらに肩を力が入りすぎだと思いっきりついてくる「なにすんのじゃくそじじい」と言いそうになったそこは我慢。しかし最後まで彼の指導をうけてパンチをうつ時に力の抜き方がわかって、その時からパンチのはやさが格段とはやくなったことは確かである。私は日系人を通して思ったことは、それは彼ら彼女らはすごくよく考えて生きていると言うことだ。おそらく移民であった彼らは苦労したに違いない、しかし彼らはその地で踏ん張って知恵を使って、調和を大事にして生きてきた。だからこそハワイでは日系人は信用があって地位が高いのだが、私はその姿を私はこの競技を学ぶことで垣間見ることができたが、本当に勉強になったし楽しかった思い出であったと思う。

はっきり言って、もし再び生まれても私は日本では絶対にボクシングなんかしない。もし仮にやったらオリンピックや世界チャンピオンになれるとしても、絶対にやらない。なぜならここでやっておもしろいと思わないからだ。私は思うのだが、スポーツと言うのは目標よりも過程が大事だ、しかしその過程と言うのは一生懸命努力して苦しいことに耐えると言うような修業のようなものではなく、どれだけそれが楽しいかと言うことで、楽しいから限界点をこえてトレーニングができる。日本人はそういう雰囲気をつくるのが下手と言うか権威主義ではそういう雰囲気はつくれないと思う。向こうの競技者が減量を日本ほどしないのは、医学的な問題もそうだが、スポーツは修業じゃないと言う感覚があるからだと思う。私の感覚ではもし再び生まれて来たらまたもう一度再チャレンジすると言うような感覚はない。ボクシングは楽しかったから、もし再び生まれても、もう一度やりたいと言う感覚である。でもここではなく私がかつて競技した場所でもう一度。

 

 

 


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