脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

えっ何?

2009-02-25 | Weblog
前にも日本のボクシングについておかしいと思うことを取り上げたが、今度は第二弾である。
「練習中でかい声で叫ぶ」

これは練習している時「ファイトー」とか「がんばれ」「気合をいれて」と意味もないことを大声で叫ぶのがいるが、カンセントレイトしている時に、逆にこういうことを叫ばれると、かえって邪魔であり、カンセントレイトできない。
むこうでは練習の時は静かなものであった。
後ろのほうで雑談しているものもあったが、叫ぶやつはいなく。
こと試合前になるとひとりびとりが、イメージを描き、カンセントレイトして練習しているのであるから、そんな時に「ファイトー」などと言ったら間違いなく、白い目で見られるし、場合によっては練習の妨害ともうけとられる。
こと体育系は声だしというのを強制させているところがあるが、呼吸法やリズムが重要なボクシングに於いては、かなり無意味であると思う。

「ボクシングしかとりえがないという」

スポ根マンガのうけうりの言葉であろうか?
スポ根マンガのフィルターを通せばそれなりにかっこいい言葉なのだろうが、自分にはよくわからない。
日本語にはそれなりの意味があるのであろうが、英語で「ボクシングしかとりえがない」というと「ボクシングしかできない」ということであるから、間違いなく馬鹿だと思われる。
ボクシングというのはやり方次第では、崇高なスポーツである。
こういうスポーツができているのであるから、逆に自分は能力があるんだと、自身をもつべきである。
自分は若い人がこういうことを言ってきた時「ボクシングしかできないって何をするんや」と言うと、たいてい返答をつまらせるが、若い人の将来を考えて上でもこういう言葉は死語にしたい。






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孤高のすすめ

2009-02-19 | Weblog
結局彼女が一体何者なのかはわからなかった。しかし自分も自分のすべてを語ったわけではない、そういう意味ではGet evenおあいこである。
社会派と呼ばれる熊井啓監督の映画で「サンダカン八番娼婦館」というのがある。
これは昭和初期異国の島で娼婦としてくらした、一人の女性の半生を描いた物語であるが、物語は、栗原小巻が演じる大学の教授であったか先生が、ある研究と運動のため、そこで働いていたという女性に、身分をかくして近づいていき、そこで老婆に気に入られ一緒に生活をし、そこで彼女から聞いた証言を回想していくことで映像は綴られる。
すっかりその老婆と仲良くなった彼女であったが、やがて彼女が帰らなくてはならない日が来る。
その前日の夜、栗原小巻は老婆に、自分がここに来た本当の目的、自分の身分、自分には家族があって、家族のために明日帰らなくてはならないことを告げる。
それは今まで、この老婆を半分だましたようなかたちでころがりこみ、それでも何も言わずに受け入れてくれたこの老婆に、懺悔と感謝の気持ちを涙ながらに述べるのであるが、その時老婆は栗原小巻にやさしく諭すように言った言葉が印象的であった。
「何もあやまることはない、今更お前さんに一体何者かと言うことを知りたくもない。ただ自分が何者かと言うことをいえる身分なら、もうとっくにそれを言っていたはずである。言いたくないから何も言わなかったんだろう、人にはそれぞれ事情というものがあるんだ」とそういうようなことを言っていたが、この言葉を劇的なすさまじい人生の中で生きた人間の言葉としてとらえた時、非常に印象深く自分の胸につきささったことを覚えている。
人間は誰でも人に言えないことや、誰も理解できない心の葛藤というのがある。
人それぞれ人によって重さは違うが、誰でもその重荷を負って生きているのである。
老婆のこの言葉はまさにそのことを含んでいる。
おそらく栗原小巻にしてみれば、逆に老婆のことを慮って、自分の素性を隠したのかもしれない、しかしそういったことも、次第に彼女の中で、罪悪感に変わっていった。だからこそ最後の日にあえて老婆に告白したのである。
しかし老婆は、それ以上彼女に何も聞くことをせず、黙ってうけとめる。
自分が激動の時代の中に身をおき苦労したからこそ、彼女の気持ちを十分理解できたのである。
人間の関係には距離と言うものがある。
40年以上生きてきて言えることは、ある程度苦労してきた人や、大人である人ほどこの距離感がしっかりしていることである。
これとは逆に未熟な人間はこの距離感がしっかりしていない、つきあいとかそういうことよりも、自分のことをわかってほしいということがまず頭にあるので、ろくな会話ができず、特定な人間しかよせつけようとはしない。
知恩が何も言わなかったのは、何かを言ってしまえば傷口のなめあいになるからだろう。
そういう悲惨な結果がいやで、彼女はあえて自分の本当の素性をあかさなかったような気がするのである。
自分は仲間意識で集まる集団に対して、かなり否定的である。
そういう集団は往々にして、自分のことをわかってほしいという甘えた気持ちが強く、お互いぶらさがりあうので、本当の意味での進歩はないと思っている。
人間はつきあっていく上でこの距離感と言うのが非常に大事だと思っている。
人間は誰でも自分をわかってほしいと言う気持ちは強い。
しかしそういうことを求めて仲間意識を求めるよりも、孤高に生きるほうがましだ、少なくともそれに流されることがなく、自分らしく生きれるのではないか。










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知恩とウルトラマン

2009-02-16 | Weblog
ウルトラの奇跡 The volume for ultra 8 brothers


知恩は、以外にも日本のことをよく知っていた。
特に興味深かったことは、自分たちが少年時代に見たウルトラマンのことをよくしっていて、彼女はセヴンかタロウは忘れたが、それが大好きであった。
あまりにも詳しいので「お前日本におったんやろ」というと「あなた変身できる」言ってはぐらかす。
自分が「何に」と言うと「ウルトラマン」。
ボールペンをかちかちさせながら、変身するポーズを見せて「できるわけないやろ」と漫才のような会話をよくしたが、こういうのりにちゃんとついていける彼女が、一体本当に何者なのか知りたかった。
話はウルトラマンの話になるが、この日本のウルトラマンの考えと言うか哲学は、極めて日本人の精神世界の高さを表しているような気がしている。
ある意味それはニーチェの徹底した貴族的な考え、あるいは超人思想にも通じるところもあるが、ニーチェの超人思想は、いささか個人にむけられたものであるが、ウルトラマンはその強さから人を愛するいつわりのない博愛主義でもあり、それはキリスト教や仏教にも通じるものがある。
彼らの貫く愛は犠牲的である。
倒れても、裏切られてもただ一方的に人間を守ろうとする姿は、キリスト教でパウロが言う、一方的に与える愛であり、その愛に人間が気づき、導かれることを彼らは願っている。
この考え方は、非常に高尚な思想の上になりたっている。
その高尚な思想を映像化して子供たちに伝えている。それがウルトラヒーローたちである。
今日取り上げた動画は「ウルトラの奇跡」というウルトラ8兄弟のエンディングの曲である。
歌詞がいいので是非聞いてほしい。




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とあるバーで

2009-02-13 | Weblog
その日トレーナーのジョージは上機嫌であった。
それはかねてから練習していたスマッシュ気味のフックが、結構実践で使えたからであった。
夜どういうわけかジョージに誘われて、俺とアレンそしてその友人である日系人と飲みに行った。
行った所は忘れもしない韓国バー、アレンの話ではここは日本人がくるとおそろしいぐらいボルそうである。
席につくと店のある女性が日本語で話しかけてきた。
上の名前は忘れたが「知恩」流暢な日本語が話せた。
なぜ日本語が話せるのかと言うと、聞くところによるとお母さんが日本に住んでいたらしく、日本語はお母さんから習ったそうである。
こんなことを言ってはなんだが、バーの女性にしては知的な顔立ちをしている。
一人だけ少し雰囲気が違うのでそれとなく聞いてみると、彼女は学生だそうで、学費を稼ぐためにおばさんの店である期間はこうして働いているそうである。
うそか本当かはわからないが、とある場所で自分のことを見ていたようで、その自分がここに入って来たことに大変驚いている様子であった。
言葉は日本語で交わしたので、2人だけの会話となった。
学校のこと、家族のこと、そして自分の祖国のこと、彼女はBusinessを専攻しているので、将来メインランドの企業に就職したいというようなことを言っていた。
彼女からこういう話を聞いた。
韓国に伝説ののボクサーがいた。
それは金徳九というボクサーである。
話はまるまる全部覚えてはいないが、聞くところによると、彼は貧しい家庭に育ったのだが、ある時ボクシングと出会い、その生活からぬけだそうとがんばる。
彼の試合は壮絶な打ち合いをすることで有名であったそうであるが、彼はそのことによって名声を手にし、世界戦の切符を手に入れたのである。
しかし日ごろのダメージとその世界戦の相手がまずかったのか、壮絶な打ち合いの末、彼は死んでしまったらしい。
その時婚約者のお腹の中には子供がいたそうである。
この試合をきっかけにボクシング協会では、15ラウンドの世界戦の試合を12ラウンドにかえたそうであるが、彼の伝説はアメリカの韓国人たちにひろく語り継がれているそうである。
その話を終えると、おもむろにミネラルウオーターを自分のコップに注ぎ、聞いてきた。「ボクシングおもしろい」。
自分は「うんおもしろいよ」と返したのであるが、その時かなりの沈黙が続いた。なぜ彼女がそこで、この話をし、自分に質問をぶつけたのか不思議であった。
恋人がボクサーなのか、はたまた家族や身内にそういう人がいるのか、不可解さが残る会話であった。
その後彼女とは連絡を取り合い、時々会っていたが、彼女がなぜあんなことを言ったのか聞き出せずにいた。
当時ここではアメリカンドリームという言葉が使われた。
裸一貫で努力してチャンスをつかみビッグになっていく、そういう話はもてはやされた。
映画ロッキーの名セリフで、トレーナーがロッキーに「Rocky, Do you believe america is land of oppurtunity」と言うのがあるが、まさにアメリカにはチャンスがころがっている。そういう夢を多くの人間が求めてここにやってくるのである。
しかしその夢半ばにしてたおれてしまった人間もいる。このボクサーのように。
今考えればそういう現実や生きる不安を、実際そこで移民として生きる知恩は、自分にぶつけたかったんじゃないのかと思っている。
この彼女との出会い以来、自分は夢とか目標ということを安易には語れない。
そんなことよりも、自分にとってはどう生きるかというほうが問題であり、その戦いが本当に自分にとっての幸せや平和をもたらすものでなければ、それがたとえボクシングであろうと無意味なものであると思っている。
帰る時ジョージは完全にへべれけになっていた。
自分はタクシーで帰ると言ったのだが、それでも送ると言うので車に乗ったが、それが間違いだった。
へべれけになったジョージは、それでも上機嫌に話しかけてきたのであるが、その話が自分のフックの話になった時、お前あのフック最高だったと、ハンドルを握っているのに左手をフックを打つようにまわしたのだ。
後は想像通りである。自分たちは激突寸前、この時彼の酔いはすっかりさめた。









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QUE SERA

2009-02-12 | Weblog
ここに結婚式の誓いの言葉がある。
「○○ Do you take this woman ○○ To be your wedded wife?
Will you love her, honor and keep her, in sickness and in health, and forsaking all other, be faithful to her as long as you both shall live」
外国の教会の結婚式で読まれるおそらく定型文である。
注意したいのは、ここに二つの未来を表す言葉が出てくるのであるが、一方では「Will you love her」と言っているのに対してもう一方では「You both shall live」と助動詞をを使い分けているところである。
これはどちらも未来をあらわした言葉であるが「Will」 と「Shall」では大きな違いがある。
「Will」が未来や意志をあらわす言葉に対して「Shall」は能動的な意味よりも、受動的な意味あいが強く、生きるというよりも、むしろ生きることを許されるという意味のほうが強いそうである。
だからここで「You both shall live」という時、自分たちで何かをしようという
意思で生きるのではなく、生きることをゆるされたあなたがたが、言葉を変えれば生かされているあなたがたというニュアンスをもって、聞く側には響くはずであるが、改めてこのことに注意してこの文を読んでみるとおもしろい。
欧米人が日本人に比べて楽天的でというのは、この一文に秘められていると思うのだが、日本人はシリアスすぎる。
たとえば英語の「Let it be」やフランス語の「Que sera」などは、あいまいなことばなので、日本語に訳すのに苦労する言葉であるが、これは自分たちにこういう感覚がないからである。
よく小さい頃から目標を持てなんていわれて、自分たちは生きてきているが、いきなり目的を持てなんていうことは言われても高尚すぎる。
おそらく欧米人は日本人のように、やたら若い人間に目標を持てとわ言わないだろう。
Hiでは、ミーティングなどでコーチに目標を持てと言うことを、言われたことがなかったが、少なくとも彼ら彼女らにとって、人生は何のために生きるかというよりも、どう生きるかと言うことのほうが問題であり、刹那主義のような響きさえあるが、やはりこのことは自分が生きることをゆるされている、生かされているということと関係してくるのではないだろうか。
生きるということは、生きる目的を持たなくてはならないということではない、与えられた時間の中で、自分が生かされている喜びを、精一杯感じて生きることが日常の活力となり、やがてそれが目標を描く力となるのだ。
その充実感をボクシングを通して得てくれたらうれしいことである。
言葉は足りないかもしれないが、自分たちが生きるということを考えるよりも、自分は生かされているんだということを、考えるほうが楽である。
確かに「生きる」ことはしんどい、しかし自分は生かされているんだと考えるとき人生の逆転が起こるかもしれない。



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バリアフリー

2009-02-05 | Weblog
5月から裁判員制度がはじまるが、今日の新聞記事によると、ここ高知県は手話通訳などの障害者をサポートするシステムが、十分でないらしい。
MOBは12月ごろから手話の会と言って、手話の勉強会をはじめているが、この勉強会は、ここの会員だけではなく、興味のある人は会員以外でも、無料で参加できる。
自分が会を発足させたのは、当たり前だが社会的パフォーマンスではない。
まず自分がボクシングクラブを設立した時に思ったことは、とにかくここをならずもの達の集団にしないということであった。
自分たちは社会人としてスポーツをしている。
このクラブが強豪とか強いと言われたいなんて思わない。ボクシングなんて個人スポーツであるから、強くなろうと思えばそれなりに努力すれば強くなれる。
ただそういうことではなく、ここにつながっているという誇りを、もつことができたらということを、自分は常日ごろから考えているのである。
これは自分の一つの感想であるが、格闘技の試合会場に行くと、あまり障害者の人たちのことを考えていないことに気づく。
特に車椅子に対する配慮もなく、手話などの通訳者もいないのであるが、こういう殴り合い、あるいは戦うスポーツをやってるからこそ、そういう配慮は必要ではないかと思う。
ボクシングをやろうとする人間にとって、指導者の影響は強い、人によってはその指導者はあこがれの対象であり、尊敬すべき人物である。
これは障害者の人たちだけに限ったことではないが、子供の虐待なんかもそうである。
そういう人たちを本当に配慮する動きを、自分たち指導者が示せば、多少なりともこういう問題について考え、とりあげてくれる人がふえるのではないだろうかと思っている。
「思いやり」というのは言葉ではない「行為」である。
少し前ヘブライ語で「言葉」はダーバールと言い、それは「行為」という意味もあると言ったが、まさにそうである。
よく格闘技の指導者は強いと言うことは「優しさ」見たいな事説くが、本当にそのクラブが人としての思いやりや優しさ、あるいは社会というものを意識するのであれば、もう少し格闘技会も、バリアフリーについて考えなければならないのではないだろうか。
おそらくその影響力は大きいとも思える。
自分のところで手話を始めたのは、ボクシングをはじめたい耳の不自由な人が通訳者を通して、ボクシングができるようにするためである。
いつかこの手話の会の中の誰かが、ボランティアでその通訳をやってくれることを望んでいる。





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エゴイスト

2009-02-03 | Weblog
この前練習生から、自分はボクサーオーラが出ていないと言われた。
彼は以前違うボクシングジムにいたそうであるが、そこでいたボクサーたちとは明らかに雰囲気も、言うことも違うそうである。
おそらく自分の場合は、日本よりもアメリカのボクシングの影響を強く受けているので、そこが根本的に違うと思うのであるが、この彼の言葉から察するように、ここではボクサーというと何か他のものとは違う何かを感じる。
ここ日本ではボクシングというスポーツは、特殊なような気がしてならない。
アメリカではボクシングもスポーツの一貫であるが、しかしここでは、言葉でどう説明していいのかわからないが、スポーツというよりも、理想や何かよくわからないが、男のかっこよさみたいなものが投影され、それをボクサーと呼ばれる人間たちが信心しているような、そういう気がしているのである。
時々、人に何かを教える時、持論を語る奴がいる。
これはどのスポーツにおいてもそうであるが、ことボクシングに関しては以外にそういう人間が多いのであるが、たいていの場合はそこにキーワードがある、たとえば自分の努力を語り、そして俺だけは違うなどと強調し、不撓不屈の精神を歌うのであるが、人が話を聞いてくれるのをいいことに、抽象的なことを勢いにまかせてべらべらしゃべる、偏見かもしれないがこういう奴に限って、たいしたことをやっているわけではない、いわゆるこういう輩がボクシングをやってきたと言うことをいいことに、自分の価値観を押し付けようとする弊害がある。
もともと話している内容は、自分では哲学みたいに思っているのだが、しかし自分のいわゆる安っぽい話で、ああだこうだの抽象論であるから、聞く側にとっては時間の無駄、ただの時間泥棒である。
自分は人を指導する時に気をつかっていることは、精神的なこと技術的なことも含めて相手は何を求めているかということを考えるということである。
だからまずそこで自分を出すよりも相手を知ろうと言う姿勢が求められる。
この点を目立ちたがりのボクサーはわかっていない。
エゴという言葉は、コイネーギリシャ語のエゴーという言葉から来ているが、これは英語で言えば「I」即ち「自分」と言うことである。
コイネーギリシャ語は、ドイツ語やフランス語よりも動詞や名詞に人称や現在、過去、未来と言った時制などが強く支配しているので、何かを語る時、英語のように「I」や「You」のような人称をあらわす代名詞をつけることはなく、あえてエゴーと言う時は、自分の言いたいことを強調したい時に、使う言葉であって、心理学用語のエゴというのはまさにこの「自分」を強調することから来ているのである。
これは時々、聞く話であるがボクシングの試合に出場する人間に、ボクシングはそんなにあまくはないと説教のように説く人間がいる。
自分がいかにすごいことをやってきたかと言うことを強調するために、減量がすごかったとか、そういう過酷さを話すのであるが、ひどい奴になるとボクシングの試合は殺し合いだなどと、非社会的なことを言うが、ここまで行くとモラハラとも言えるレベルである。
しかし大事なのは自分はどうであったかとか、自分はどうしたかということではない。
大事なのは自分よりも、相手がどうあるべきか、あるいはどういう言葉を求めているかということであって、そういう自分と言うものを押し出しすぎては、本当に相手に何が必要かと言うことが見えてこないのではないだろうか。
日本のスポーツ社会は縦社会である。
ある意味持論が人から批判されることなく、教える側がそれを語る時、恰も俺がつかんできた大事なことを、教えているんだと言うような錯覚さえも覚えるが、こういう人間は根本的に何か勘違いをしているのではないだろうか。






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In the biginning was the word

2009-02-02 | Weblog
心理学で有名な話であるが、昔フリードリッヒ大王かどうかは定かではないが、ある王様がこういう残酷な実験をしたそうである。
それは生まれて間もない赤ちゃんを50人ずつに2組に分けて、両方とも同じ条件で育てたのだが、しかしひとつだけ違うところは、一方に言葉をかけて育てたのだが、もう一方は何も言葉をかけないで育てたそうである。
数ヶ月すると言葉をかけられた赤ちゃんは、すくすくと元気に育ったのではあるが、しかし言葉をかけられなかった赤ちゃんは、死んでしまったそうである。
この話は本当かどうかはわからない。おそらく結果論から出てきた物語ではあると思うのであるが、この物語はわれわれに、いかに言葉というものが大切なものであるかということを教えている。
ヨハネ福音書にこういう言葉がある。「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった・・・言葉は命であった」であるが、バイブルに馴染みのない日本人にはこの言葉を聞いてもピンとはこないが、しかし西洋人であれば、この言葉がいかに重く響いてくるかわかる。
言葉は命であるというのは、宗教学的に言えば、この言葉によって生かされるということである。
あまり専門的なことを言っても、わからない人もいると思うので割愛するが、とどのつまり、言葉と言うのは命の源、力であり、人間を動かす原動力ともなりうる、そういう力が言葉には存在すると言うことを言っているのである。
日本人の政治家の演説が、欧米人の演説に比べて自分たちに響いてこないのは、日本人が人前で話すことに慣れていないとか、日本語的な問題ではない。
おそらく彼ら彼女らが言葉の力というものを、根本的に信じてはいないからではなかろうか。
しかし言葉は人を動かし生かすものである。少なくとも大統領の演説などに、力を感じるのはそうであるからだと思う。
だからこそ我々はその言葉と言うものを選び取り、十分に理解しなくてはならないのではないだろうか。
自分は以前コーチングした時、終わってノートに今日自分は一体どういうことを人に語ったかということを書いたことがある。
覚えていること自体めんどくさいのだが、とにかく帰って自分が言ったことを思い出し、書き綴ったのであるが、結構それを整理してみて、反省点を含めいろんなことに気づかされたことを覚えている。
今ここで何がどうであるということは言わないが、しかしこのことを実践することによって言葉の重みというものを理解できたことは確かなことである。
ヘブライ語で言葉はダーバールと言い、これは言葉という意味もあるが、行為を示す言葉であるそうだが、言葉というのは語るほうも、その重みを知っていなくてはならない、重みというのは言葉を知るということとともに、それがどう伝わるかという感情の問題でもある。
その言葉を知り、その言葉がどう伝わるかということを知るからこそ、その語られた人にとって命の言葉となりうるのである。
すなわち言語学的な問題でもあり、倫理や宗教学的な問題でもある。
難しいことを言うが、言葉を使って仕事をしている限り、我々は言葉のプロである。
だからもっともっと言葉に対する研鑽が必要である。
言葉を語る指導者であるならば、単なる共感や仲間意識だけでは、人を導き動かすことはできないと思っている。
山賊や夜盗の親玉ならまだしも、われわれは誇り高きスポーツを学んでいるのであるから、しっかりとその語られる言葉を研鑽し、指導力を発揮しなければならないと思っている。










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