脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

カノンがながれるジム

2019-11-26 | Weblog
またまたスポーツ指導者が暴力をふるったようである。残念なことにこういう記事は結構頻繁にでてくる。そしてそれに対して元アスリートたちががけしからんことだとコメントするが、私は彼ら彼女らにすごく違和感をおぼえる。本当にそう思っているなら元ジャイアンツの桑田やイチローみたいにもっと前から体罰はだめだと言っているはずだ、私もずいぶん前から言ってきたことだが、そういう行為を目の当たりにしたり聞いたりしたら、誰もがあかんと思うはず、何も言わない人間はその暴力を容認しているのと同じだ、今までは自分を強くしてくれるための愛ある体罰とか言って、多くのアスリートが容認してきたのに、時代がかわれば手のひらをかえしたようにそれはけしからんと異口同音に唱える、私はこういうずるい人間はわかるし、たまらなく嫌いだ。基本的な事柄として暴力や暴力的な行為は絶対にしてはならないこと、そして口で暴力をふるうなと言うのではなくて、むしろそのクラブが平和的な雰囲気を持たなければ意味がないと私は思っている。

話はハワイのヨーロッパ系の監督の話になるが、彼は私がお手本とする指導者である。彼は噂によるとケベックでフランス語を話すとか、大学で教えているので知的で、教養を重んじる人だった。そして彼の語る言葉は時にはラテン語をつかったり、哲学の言葉を用いたり、すごく含蓄の深い言葉であった。私がよく運動クラブなどの話は小学生の終わりの会のようなものだと言うのはそういうスポーツ指導者を彼と比べるからで、私がスポーツ指導者は知的教養を重んじなくてはいけないと言うのは彼の影響によるものだ。彼がよく言うのはボクシングは暴力をあつかうスポーツだからリングを降りたら、ジェントルマンであれ、そして教養を積めということであった。監督や指導者の言葉が知的であったり洗練されると自ずとその群れは平和的になってくる。ヒラリースワンクが主役を演じた、フリーダムライターズと映画があったが、荒れ果てた学校の生徒たちにドラマや文学を教えることでその学校を立て直していったと言う内容だ、知的教養を重んじると言うことは理性を重んじると言うことだ、理性を重んじたらその群れが暴力的でなくなるのは当たり前のことである。

ひとつの事柄を問題にしたら2つ3つの文献や言葉が頭に浮かんで適切な言葉でてくる。私はそういう幅ひろく物事を考える人が、こういう群れにおいて問題解決力に優れている人と理解しているが、こういう知的な人が群れの監督でその群れを管理している。彼は自分の考え方を人におしつけたりしないし、根性論なんて言ったこともない。運動クラブはpatriarchy(家父長制)で監督がお父さんで競技者が子供、その関係は認められるか認められないか、監督によってはきちんと対話もできないくせに、いばったり、威厳を保つのに躍起になっているのもいるが、うちの監督は対話できる、お互いを尊重しあえる関係をつくってくれる、そういう関係をつくってくれたからこそ安心してスポーツを競技出来たと思っている。いつも言っていることだが指導者が知的教養を重んじると言うことは群れを平和にするためにも大事なことだ、うちのクラブはそのことを重んじる、群れが平和的で安心して会員の人がここでトレーニングできるように。


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Carpe diem その日を摘め 

2019-11-19 | Weblog
うちと交流のあるクラブに外国から来た人がトレーニングに来ているらしい。身振り手振りでコミュニケーションをはかっているが、伝えようと言う気持ちがあれば伝わる、文化交流はお互いの刺激になる貴重な経験だと思う。
外国で勉強でもスポーツでもそうだが、何かを一生懸命すると言うことは人間が成長するためのこやしとなる。私自身もそのことは経験したことであるが、特にスポーツをして共に汗を流して、喜怒哀楽を共有することは友達をつくる上でもいい経験となりうるし、本当にそこでの生活はすごく新鮮で生きている実感があったと思う。ボクシングを通してできた友やかけがえのない監督やコーチたち、特にジョージは私と喜怒哀楽を共にしてくれた最善のコーチであったと言える。よくその様子などをブログでもあげているが、楽しかったことそして悔しかったことすべてをひっくるめてそれらのことは私にとっていい経験であった。そこそこ強かった白人とファイトして勝った時は東洋人もやれると思い、それが外国人とコミュニケーションをとる上での自信につながった。いいことばかりではなく、全力で行っても相手にならない人間にぶつかった時はくやしい思いをしたが、でもその悔しさがあったからこそボクシングが楽しくなった。本当にボクシングと言うスポーツは私を語る上ではかかせないものであり、私の人生のスパイスであり、そこで経験することは自分だけの世界、映画のような体験ができたことは確かなことである。

今日のタイトルはCarpe diemこれは私の監督が言っていたことでラテン語の詩人ホラティウスの詩の一文、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。前にクラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言ったが、失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。私自身そこまで頑張ったか精一杯やったかということはわからないし、たぶんそんなことは誰もがわからないことだ、でもこれだけは言えることがある。それは自分の競技人生を振り返るとそれはすごく楽しくてかけがえのないものであったということだ。そう考えたら自分は一生懸命そこで頑張って生きたと言えるのではないかと思っている。

久しぶりにハワイに訪れた時にアレンの家で当時の試合の動画を見た。そこには勝っておりてきた私がジウンに何か話しかけている姿が。動画にうつる私はすっごくいい顔だった、たぶんあんな顔はあの時にしかできないだろう。若いうちは思い切り自分のやりたいことを努力することは大事なことだ、私自身たいした実績ものこせなかったが、でもそこでの体験は貴重であり、生きる上でたくさんのことを教えてくれた、そういう体験を私はできたことに誇りを持っている。


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feminism is not synonymous with men hating.

2019-11-14 | Weblog
the more i have spoken about feminism, the more i have realized that fighting for womens right, has too often become synonymous with men haiting. it is that this has to stop. for record feminism by definition is "the belife that men and women should have equal rights and opportunitys.  
世界経済フォーラムのエマワトソンがフェミニズムの立場から男女平等を主張したスピーチの一部、フェミニズムと言えば人によっては男であることがあかん見たいなことを言う人間もいるけど、そういう意見は極端すぎて話にならないのだが、しかし世界を見渡すとまだまだ女性の権利が認められていない、国によってはひどいあつかいを受けている国がある。彼女の言うフェミニズムは権利と機会を平等にあたえることで、それは決して男性特有の性質を攻撃したものではないだろうが、フェミニズムと言ってもいろいろと考え方はあるが、私自身フェミニズムは第一義的には迫害をうけたり、不当なあつかいをうけている女性たちのためのものであってほしいと思う。

うちのクラブも男女平等をかかげているが、どちらかというと格闘技ではマイノリティーの女性が権利を持って平等にトレーニングできるようなクラブを目指していて、その女性たちが男社会での力による関係によってストレスをうけないような環境をつくろうとしていることは確かなことである。格闘技の世界と言うのは力関係が存在する原始的な世界である。うちでは女性や子供がこわがったり、不快に思うことはしない、させないようにしているが、うちではまずエチケットをしっかりと守ってほしい。エチケットと言うのは疲れても汗まみれでその辺で寝転がらない、裸でトレーニングしない、言葉を選ぶと言うことで、これらのことは我々が一般の社会で気をつかうべき事柄で、格闘技の世界は往々にしてこういったデリカシーにかけている世界のように思えるのだが、こういったことを考えたら、まだまだ格闘技の世界は男性が中心で女性が気軽にトレーニングできない世界だと言うことを考えさせられるのである。

手前味噌だがうちのクラブは秩序がしっかりしていて女性やおっさんがトレーニングしやすい場所だと思っている。なぜならうちでは体育会のような上下関係による秩序ではなくて社会人が持っている常識を重視しているからで、これはいつも言っていることだが、群れの秩序を正しくしたかったら、まずその群れでは誰が一番マイノリティーかと言うことを考えてその人たちを大事にすること、そうしたら秩序が保たれて明るく、誰でも楽しめる場となりうると信じている。たかだかボクシングごときができると言ってでかい態度をとらさない、仲間を集めてグループをつくってジムでアドバンテージをとらさない、女性や子供がこわがったり、違和感をおぼえるだろうと言うようなアウトロー的な人間には厳しく接するのがうちのクラブの方針である。いつもきついことを言うが、ここまで言うのだからもしそういう人間が来てまわりがこわがったり違和感を感じたらしかるべき態度をとる。一般の人たちが安心してトレーニングに来れるためにはこれからもこういうことには徹底して利していくつもりである。女性は男性と暴力に関しての感じ方が違う。こういう違いを持って格闘技の世界に足を踏み入れるのだから、そこをよく理解して過剰にならないように権利を認めて、思いやりを持って接することが大事だと思う。



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私は人集めをしているのではなく共同体をつくっているのだ

2019-11-11 | Weblog
うちのクラブには福ちゃん軍団と言うお笑いのユニットがある。私が勝手にまとめて入団させて福ちゃんを勝手にリーダーにしたユニットであるが、このユニットはトレーナーについでジムのムードメーカー、お笑いと言えど彼らの存在はジムでは大きく影響力がある。私が彼らを認めているのはみなさん思いやりがあるからだ。おふざけと言っても自己中心の自分が目立ちたいからと言うような中学生レベルのちゃちゃを入れるのではなく、子供や女性もジムで楽しんでもらえるように気をつかってくれるある種の気づかいのようなもの、福ちゃんが年間MVPをもらった時に「僕はここでは用務員ですから」と言ったことはある種の感動をおぼえたが(下っ端オーラ満載の福ちゃんとかつけといて言うのもなんだが)この彼らのジムを楽しい場にしようと言う気づかいがあるからこそ女性や子供が来やすい雰囲気にさせるのだと思う。そして何よりも彼らは家族を大切にするよきお父さんである。本当に家庭を大事にするからこそほのぼのとしたやさしい雰囲気が出るのだと思うが、本当にこのユニットには感謝している。

一方低俗なおふざけはうちのクラブでは受け入れられない。低俗なおふざけとは自分が目立ちたいから、余計なことを言ったりちゃちゃをいれたりするようなおふざけだが、知的レベルがひくくて自己中心的なおふざけは同レベルの仲間にはうけるのだろうが、うちのようにHigher intelligent な人が多く、健全なクラブでは失笑をかうし、場合によっては女性が違和感をおぼえるのでまわりに迷惑、私自身もそういう奴らには容赦なく思いきり冷たい視線をあびせるつもりだ。ヤンキー校出身のやつがそういうくだらんことを言い続けて失笑を買って来にくくなるということもあるが、きついことを言うとそういう人間たちの小さい世界でうけることが一般の世界でうけると思ったら大間違いで、ジムも学級と同じでこういう人間を目立たせたら、その群れの質がさがって、一般のまともな人たちは来にくくなる。私がブログでこういう問題を取り上げるのはそういう人間は来たらダメだよ、来ても受け入れないよと言う警告でもあり、格闘技の世界はこういう人間をひきよせやすいので警戒している。まじめに生きてきて楽しむつもりで、ジムに来ているのに、そういう低俗な人間が集まってでかい声でげらげら笑われたら不快きわまりないだろう。冗談でも知性や思いやりがなければ本能がむき出しになる。私はアウトローややんちゃですのサイドに立ってこのクラブを運営しているのではない、むしろこういう人間たちは入会お断り、一般の社会人がここで楽しくストレス発散してもらえるようにと運営しているのがMTオリーブフィットネスボクシングクラブである。

今日のブログのタイトルは「私は人集めをしているのではなく、共同体をつくっているのだ」と言うタイトルだが、健全な共同体をつくるためには正しさの基準をしっかりと持って排除すべきものは排除することも必要、そしてひとりびとりを認めて思いやりを持って接することが大事なことだ。


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라스트 카니발 Last carnival

2019-11-08 | Weblog
ハワイの米軍基地でカーニバルが開催された。ここにはジウンとピーターなどの東洋人のグループと一緒に行ったのだが、確かここは軍隊のことでジウンとすごい激論になった場所だ。ここでは夜野外リングでアーミー主催のボクシングマッチが行われていたのだが、花火がうちあがる中、アーミーVS一般の連合軍みたいな感じの試合でかなり盛り上がっていたことを思い出す。私のボクシング人生は楽しい思い出ばかりであった。キャプテンとか言っているわりにはたいした実績もなかったが、しかしそれなりに全力でぶつかっていって、本当に充実した競技人生であったと言える。才能もセンスもないたいしたことがない人間が本当に全力でぶつかっていったからこそ思えるのだが、その才能もセンスもない人間が一生懸命全力でいくからこそ、何か大きなものを得れるのだろう。
けれどもたとえ一生懸命やっても才能やセンスがなければ負けてしまう。でも負けても次こそはやってやると言う気持ちをおこさせてくれた偉大なトレーナーが私には存在した。そして本当にボクシングがおもしろくなってくるのはここからで、負け惜しみではないが負けたからこそもっともっと上手になりたいと言う強い意志が生れさらにまたトレーニングするようになるのだと思う。そしてボクシングの醍醐味はお互いが力をつくして戦ったことを心からリスペクトできることだ。その一生懸命やることが相手に対しての敬意であり、その敬意が友を生むのだ。ボクシングはへたをすればけがをするスポーツだ、だからこそそこで全力をつくし相手をリスペクトしないとだめだ。試合でもかならずジョージが思いきり行け、ぶちのめしてこい(英語ではもっとひどい表現であるが)と言っていたが、ボクシングにおけるリスペクトは競技者として相手に対して全力を尽くすことだとヨーロッパ系の監督も言っていたことである。かっこよく言えばスポーツのよさは人と仲良くなることではなくてリスペクトされることである。だからこそ魂を込めて思い切り全力で相手に向かっていくことが求められるのだと思う。

権威だけで威張るバカ、賞をとるとかそういうはかない自慢よりもボクシングは平等だ。才能もセンスもない人間であっても一生懸命競技していることが幸せで楽しいこと、そしてリスペクトされるべきことであることを伝え、ひとりびとりを認め尊重する。そのことを競技者には伝えていきたい。たとえ練習試合のような小さな試合であっても努力をおこたらずに、全力で挑めば本当に自分の人生の価値観が変わることもある、そういう体験をしてもらえたらなおさらうれしいことである。人にゆずったり、負けを認めることができない人生なんてしんどいことだ。よく自分の競技人生に悔いがないようにというようなことを言う人間がいるが、しかし私は思う、本当に一生懸命頑張って自分の限界が見えたら、自分を受け入れることができて生き方が楽になる。悔いがないとかそんなんじゃなくてその達成できない不完全な自分を受け入れて、新たな一歩を歩むことができると言うことである。

今日久しぶりにあげた動画はラストカーニバル、当時北朝鮮との緊張関係にあったので、そういうことにあまりふれてはいけない時代、ハワイと言う遠くと遠く離れた土地でひとりのアメリカ系韓国人と韓国人もどきがカーニバルで激論した。



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大事なのは正しさの基準だ

2019-11-05 | Weblog
インターナショナルってよく使う言葉だが、実はこの言葉はThe Internationalでプロレタリアートの団結と解放を目指し,運動の発展をはかるため結成された,労働者,社会主義者およびその団体の国際組織。バリバリの社会主義用語でもあるが、一般的には国際的であるという意味でつかわれている。じゃあインターナショナルな人ってどういう人なのか、私の一考察としてインターナショナルな人とは、民族や宗教が違うところで、自分がしてはいけないこと、そしてルールなどを感じて理解できる能力、そういう気づかいのできる人である。英語をボランティアで教えてくれている二人も外国暮らしが長くて、学会などでもいろいろな国に行くそうであるが、実際に彼らは日本人のコミュニティの中では何をしたらいやがるかとか、共同体の中でのルールをきちんと考えて行動しているのがわかる。日本人の言う常識ではなく、コモンセンスと言うのもまさにそういうことだと理解しているのだが、少し語弊があるが、こういうコモンセンスを感じて理解できることとインテリジェンスは無関係ではないと思うのだが、実際にそういう人は察知する能力が高いので集まると秩序もおのずとオーガナイズドされることも事実である。

話はDQNの話になるが、こういう類の人間をクラブに入会させたくないのは、まさにそういうセンスがないからである。ド派手なファッションに身を包み、改造車にのって、乱暴な言葉をつかい、集団でたむろする。普通こういうことをしたら人がこわがったり、不快感をおぼえたりすることぐらい誰にでもわかることであろうが、こういう輩たちが入会したらジム内でも裸でトレーニングしたり、汗を平気でまきちらしたり、乱暴なトレーニングをするのは目に見えているので、入会を断っている。こういう輩はかたまる傾向があるのだが、集団になればなるほどその間違った価値観や常識がその場でのルールになり、雰囲気がわるくなる。一般の人たちが安心してクラブを利用できるようにするためにはそういう輩をひきよせるようなクラブの雰囲気をつくらないように注意しているのだが、その場ではやさしそうで、子供や女性に気さくに話しても、くわえたばこをして、それをそのままぽいと捨てる一般的なコモンセンスや常識を理解できないような人間は、その群れの秩序をこわす、ここは中高生のクラブでもなければ、改造車やバイクの何とか会というような集団でもない、一般の社会人が集まる共同体だ。武勇伝を自慢げに話して、改造車にのって、威嚇するような人間にろくな人間はいないと言ってもみんながみんなそうじゃなくて、ここには正しさの基準がきちんと存在している。大事なのは目立つことではなく、子供や女性などの格闘技ではマイノリティーへのいたわりである、そういう人たちが入りやすく楽しくトレーニングできる雰囲気をつくるのが私の仕事である。


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むち打ちはないよ

2019-11-04 | Weblog
この前エジプトから来たモスに君の国ではまだむち打ちがあるのか?と聞いたらないと言っていた。英語で聞いたのだが、理解できた人間はなんて言うことを聞くんだと驚いていたが、しかし中東では宗教的な裁判が未だに健在している国がある。宗教指導者であるモンクが力を持って、裁判も聖書やハンムラビ法典みたいな経典が基準となるようなそういう時代錯誤のように見える裁判が存在しているようである。むち打ちと言うのは宗教的タブーにに基づいて行われるのだろうが、だいぶ前にアメリカ人の青年がそのタブーにふれてしまういむち打ちを50回もうけてしまうというニュースがあったが、そういう日本では考えられないようなほうが今も生きているだから宗教を勉強することは大事なことだと思っている。
しかしそういう中でエジプトなどは民主化と共にかなりオープンになってきたようで、イスラム国と言う国とは少し遠くなってきているようである。しかしこの自由はmercantilismの代償である。これと同じ言葉でamercantilismと言う一時違いの言葉があるが、ピラミッドのすぐ近くにKFCがあったり、宗教的なタブーがうしなわれつつあるのは文化が廃退してきているのかも知れない。

laissez faire(レッセフエール)は日本で言うところ自由放任主義、しかしこれはもともとmercantilismなどがもたらす植民地支配に対して用いられた言葉である。うちのクラブは基本的には自由放任主義であるが、しかし自由と言ってもやりたいことを勝手気ままにすると言うことではない。利己心の追及は他者の共感が得れる範囲であるとアダムスミスは言っているが、自由放任主義と言ってもそこにきちんとした秩序がなければ動物の群れと同じ、きちんとした秩序を持った人間がそこに集うことができるから自由放任主義であり得るのだ。私はこのクラブの全体的な雰囲気をだいたい偏差値60ぐらいの進学校のような学校の雰囲気でまとめようと考えている。前にスポーツチームでの日本人と外国人のキャプテンのとらえ方は違う。日本人は監督の言うことをよく聞いてまわりの意見も聞く調整型をキャプテンに選ぶが、しかし向こうでは監督の戦略や戦術を理解し、時にはそれに意見できる主張型の人間がキャプテンに選ばれると言ったが、こういう社会人が集まる群れを正しく運営するためには運動クラブのような縦社会で服従型のクラブではダメ、ある程度知的な考え方がその背景になかったらまともな社会人は集まらない。うちのクラブはうまくまとまっているまとまるというのは決して縦社会のようなものでもなく、力関係でもないひとりびとりがこのクラブの趣旨をある程度理解しそれに協力しようとする気持ちがあるからだ。MTオリーブはまさにそういう人たちひとりびとりによって形成されているクラブである。ここの会員の人たちは何の見返りもなしによく動いてくれる素晴らしい存在だ。金をもらわなければそれ以上はしないとかトレーナーの特権を利用して、エラそうにしたりというような特別な計らいがなければ何もしないというような程度のひくい人間ではない、純粋に教えることや奉仕してくれることを楽しんでくれているそういう人たちの協力で運営できているからクラブの雰囲気も良く中年や女性が多く在籍しているのだと思っている。
偏差値60ぐらいの学校と言うのは語弊があるが、うちのクラブはブログでもわかるように哲学が存在している。それは平等性と人権を守り、みんなが自由にトレーニングできる権利である。前にも言ったが自分たちは楽しく自由にやってますという自分たちとは一体誰のことか?そういうことも踏まえて物事を解釈して行かなくては本当の平等性と言うものを保つことができない。勢いで集まるような競技者中心のクラブでは本当に平等で楽しくやっているとは言えない、何が本当に平等なのか正しいのかということをよく考えて運営しなければ恣意的な目だちたがり屋の競技者中心の集団になってしまう。そういう意味で管理者が何を考えているかということとそのまわりに集まる人たちのレベルと言うのは重要であると考えている。
 

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