脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

アマチュアに順応するには自由に生きすぎた

2017-08-30 | Weblog

フェイスブックでいくつかの思い出のジムをあげている。そしてその中でも思い出にのこっているのはジョージと出会ったKalakaua Boxing Clubである。もう何度も書いているのでわかっている人はわかっていると思うのだが、このジムはヒスパニック系の人間とスパーをしたけれど相手にならず、くやしくてくやしくてリングをずっと見ていたらジョージが強くなりたかったら明日また来いと話しかけてきた場所だ。ハワイと言えどアメリカ、そして当時のアメリカは本当に強かったと思う。当時はそこそこ実績ができたらメインランドに渡ってプロになると言うのも何人かいてその当時の代表格だったのがWBCの世界1位まで行った男で、その男は我々よりも頭3つぐらい出ているぐらいうまかった。私よりも1つ下の階級だった男もたいしたトレーニングしていないくせにやたら強かった。結局そいつは強盗でつかまったらしいが、当時強い人間はたくさんいたと思う。踏み込みのはやさがはんぱじゃないのでパンと入って来られて知らぬ間にパンチをたたきこまれる。こいつは手品師かと思ったが、そこには明らかに実力の違いがあった。たいした才能もない、たいした実力も実績もない私は本当にそこでくやしい思いをした。くやしくてくやしくてSon of a bitch的な言葉はおそらく誰よりも言ったであろう。でもその競技人生は楽しかったし本当に自由であった。よく人は俺は自由人だとか言うが、しかし自由と言うのは勝ちとらなくては価値がない。英語のlibertyとかfreeと言うのは、何々から自由とか何々に対しての自由という対象があっての自由だ。自由であろうとすることは様々な弊害があるし、時には拘束しようとする力がはたらくこともあるであろう、でもしかしそういうことに屈せず自信をつらぬいていけるからこそ、そこに本当の自由があると思う。そしてそういう自由を獲得するにはある程度の実力がなければ、ただの井の中の蛙、スポーツを一生懸命やって大学の学位をとると言うように、自分に今できることを一生懸命して、そしてその先の自分を見据えて地道な努力をすることも必要である。そしてその地道な努力があるからこそ自分で好きな生き方を選び取って行くことができるし、生きることができると思っている。若い人に言うが自由って今そこにあるものではなく、その先にあるものだ。そして本当に自分のやりたいことをやりたければ、その将来を見据えて地道な努力をしなければ本当に自分のやりたいことができない。言葉をかえれば今何がしたいのかというよりも今自分には何ができるのかと言うことを問うことがプライオリティであり、その何ができるのかと言う選択肢や実力を広げていくことで好きな生き方ができる、人生の自由度が広がると思う。

私は本当に拘束されることがいやである。群れる奴はアホだと思っているし、仲間と言う言葉はF○○k youだ。たぶんそれは朝鮮半島が長い間大国に支配され翻弄されたと言う歴史的なDNAがあるからだと思っている。

 


 

 


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俺は教育のことはわからんとか言って、堂々と意見するやつはアホだと思う

2017-08-27 | Weblog

読書をしない人間は言うことが薄っぺらい。どう薄っぺらいかと言うと言うことが主観的で、話をしたら結局そいつの考え方に賛同するかしないかだ。シンポジウムなどのディスカッションでも日本人は優しいからエビデンスやソースがはっきりしない主観的で感情的な意見でも、受け入れて話を進めるが、しかしはっきり言ってそういう考え方は建設的ではないと思う。よくPTAか何かの学校のミーティングでも俺は教育のことはわからんけどと言って主観的な意見を述べる人間がいるが、私が司会者ならば「わからんかったら質問と言うかたちにしてください。もし教育のことがわからないと言うならば本を読んで勉強して来てください」とはっきり言う。もちろん揚げ足をとろうとして「じゃあどんな本を読むんだ」と言えば、それなりの参考文献は上げるつもりであるが、私はこういうみんなで何かを決めるようなミーティングの場では、司会者はまわりの意見を聞いてそれを建設的に話ができるような雰囲気をつくる。そのためエビデンスのない主観的な意見を黙らせることも司会者の役目だと思っている。

本を読んでいない、専門の勉強をやったことがない人間は本当は自信がなくて、まともに行ったら自分の意見など通らないので、主観的な意見を言って目立とうとする。個性が大事だと言われている時代なので中学生ぐらいならば「そういう意見もあるそれは君の個性だ」とも言えるのだろうが、しかしいい年をした大人や高校生が、薄っぺらいただ目立つだけの意見を主張するのは浅はかすぎる。自分の言いたいことを本当に主張したければ本読むなり、勉強するなりしてエビデンスやソースをしっかりと持つことだ。本を読まない、エビデンスやソースを持たない人間は多様性にかけるので、女性やいろいろな職業の人が集まった社会人の群れを有機的にまとめていけるはずはない。体育会のルールのようなものを基準にしていること自体、私から見たらかなりずれていると思っているが、クラブと言うところが平等であると言うことを主張するのならば、たくさんのことを書物を通して学び、倫理やジェンダーそして人権について考え、しっかりとした基準や考え方を持たなくてはならないと思う。

うちのフロアがリニューアルされたが、その色をチーフトレーナーに決めてもらった。むらさきであるが、理由は女性もいるのでやさしい色にしたほうがいいということでそうしたらしい。この言葉を聞いて彼は全体をよく見ているとおもl。私の考え方がどうということだけではなく、こういう平等な考え方ができる人間の存在も大きい。

またうちのクラブにはUnsung heroesと言う競技者のグループがあるが、この彼ら彼女らも一生懸命頑張ってくれているし、何よりもまわりの手本になるのでありがたい存在だ。

 

 


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OH MY GEE!

2017-08-26 | Weblog

ジムでよくトレーニングしているプエルトリカンの競技者が試合にでていた。彼はリズミカルで相手をいなしながらカウンター気味のパンチをうって行く技巧派タイプ、当然その試合も彼がその相手をいなして勝利するだろうと思っていた。最初は彼がうまく相手をいなしながらポイントを重ねていった。がしかし2ラウンドから相手の圧力に押されて行って、3ラウンド目にフックかスマッシュかわからないが中途半端さえ見えるようなパンチをもろにもらってノックアウト、まさにそれはOH MY GEE!であった。そしてその時ここで競技するのだったらパワーをつけなくてはいけないと思った。いくらテクニックがあっても一発のパワーのあるパンチでそれはくつがえされる、それがここのボクシングなんだと感じた私はその時から筋トレの練習に取り組んだ。筋トレで力をつけて、その当時は自分よりも2つや3つぐらい大きいがあたってもたたきのめしてやるぐらいの気持ちでいたが、それぐらいの気持ちがなければこの競争社会では生きのこってはいけないと思ったことは確かであった。

おそらく日本人と向こうではボクシングに対する考え方が違う。向こうではボクシングは相手を叩きのめすが目的で、観客もそれを求めている。日本ではV何とかが問題になるが、しかし向こうでは日本のように減量して自分の階級を守ると言う消極的なことよりも、大きいものに向かって行く方が勇敢とされるので体を大きくして階級を上げていく方が賞賛される。メイウエザーなんて言うのもそういう倒すか倒されるかと言う激しい勝負の中だから存在感があるわけであって、基本的にはたおすかたおされるかのフロンティアスピリッツ的なボクシングであると思っている。

それゆえにアマチュアの試合であっても当時はすごく盛り上がった。ファイトも思い切りぶつかり合ったのだからダウンされた時は思わず「S○n of a bi○ch」と唇が動いたものだが、そこから巻き返して判定勝ちをおさめた時はすごい声援で、単純だがその時本当にボクシングをやってよかったと思った。日本人は試合が終わった時あいさつに行くが、あの神経がわからない。明日やられるかもしれないような相手に今日はありがとうございましたなどとわざわざ頭をさげに行くのだから考えられない。しかも勝った人間がありがとうございましたと行くのだから、これほどいやみと言うかあほらしいことはない。一生懸命やったらわかるが負けた時のくやしさは半端なものではない。そういう気持ちがわかるのだったらそっとしておくのが武士の情けだ。日本人は形式にこだわりすぎる。まさにこの相手のところに行ってあいさつに行くもの形式的な礼儀、アメリカはまさに競争の世界で動いているが、その競争世界で思いっきり人とぶつかっていくからこそ、本当に相手をいたわる気持ちや尊重できる気持ちが生まれてくると思う。

私の初戦は元州のチャンピオン、こいつのパンチがすごくいたくて、間違いなくこいつは私をたおしにきているなと感じたが向こうは日本とは少し違う。競争社会、人種の軋轢、そしてハングリーな人間が当時結構ボクシングを競技していたが、その次元はスポーツではない格闘技だ、私はそういう中で競技できたことは本当に貴重な体験だったと思っている。

 


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ジムのフロアが新しくなった。

2017-08-22 | Weblog

ジムは木曜日からフロアが新しくなってはじまる。この間4日間休みであるが、やはり私にとってジムは自分の居場所である、日ごろ忙しいなあ少し休みたいと思っていても4日間も休んだらなぜか寂しい。やはりいつものメンバーたちとジムで話をしたり、彼ら彼女らが一生懸命トレーニングをして、彼ら彼女らにかかわっていくことが、私の日常で私はこのことによって生かされているんだと思う。

最近アドラー心理学が話題になっているが、私はこの機会を個人から集団心理学への移行と考えている。もうどれぐらい前かは忘れたが、日本でカウンセリングと言う言葉が聞かれるようになり、多くのカウンセラーがにわかに出て来た。中にはたいして大学で勉強もしていないような人間がスクールカウンセラーとか言う肩書で学校に堂々とカウンセラー気取りで居座っていた例も少なくはないが、そういう人間がまず問題にするのは受容、アホのひとつおぼえのように親とのかかわりがどうとか言うのには聞きあきたと言うかうんざりするが、私自身は前からカウンセラーにかかっても成果が期待できないと思っていたことは確かだ。もともとカウンセリングと言うのはおおまかに言うと個人とのかかわりで、自分のことを相手に伝えようとしなければはじまらない。特に東洋人は西洋人に比べて他者とのかかわりを大事にし、その密接な相互関係の中で生きている依存型の性格だ。よく言えばその関係から気持ちがわかりあえる。はたして自己主張が習慣のような西洋人に比べて日本人が自分の気持ちを自分でうまくつたえたり表現したりすることができるかどうかは疑問、さらに人間そのものが人間を救おうとすること自体傲慢な話で、私は人間は人間によって、しかしそれは個人の関係のみならず集団と言う場を通して癒されていくと信じているが、人間は集団的生き物であって、どういう群れにつながるかと言うことが重要なことだ。そう言う意味では集団を問題にしているアドラー心理学は今の時代にあった実践的な心理学であると理解している。

私自身その群れがどういう群れであるかと言うことを問題にしている。しかしそれは運動部のようにあいさつしろとかただ従っていたらそれでいいと言う短絡的なものではない。そしてそれは立派な人たちが集まる集団でもなく、ただ普通に話をしたり、トレーニングすることで楽しさを感じる。そしてそのことの繰り返しが人間を信頼し、生きていくことに前向きになれるような集団であることを願っている。そしてそのため私はその群れが生き生きとトレーニングできる場として機能することが不可欠だ。あいさつやルールではなく、エチケットと思いやり、自らの弱さを認めて相手を思いやる気持ち、ジムでは誰がマイノリティなのかということをおぼえて運営して行けば自ずとその群れは有機的な群れとなると信じている。今の群れが人を本当に癒すことができるかという課題においてまだまだ不十分であるが、しかしスポーツクラブと言う集団はその指導者の資質と考え方次第では、そういう機能的な群れとなりうるだろうし、貢献できると思う。

 


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Es ist gut (これでよし)

2017-08-16 | Weblog
ハワイアントーナメントのファイナルが行われた。勝てると思って行ったが完敗。自慢じゃないがパンチはけたはずれに速かったが、攻撃がワンパターンなので先読みされてうつてもなく、余裕の判定負け。なんと相手は30歳をこえたおっさんであった。この前の山中氏の試合を見て、お互いサウスポーだったのだが相手の選手が彼の右側にずれて攻撃していることが気になった。たぶんこれって本能なのか戦略であるのかはわからないが、私がやられたのと同じやりかただ。私の場合はお互いオーソドックスだったのだが、相手は私の右ストレートを警戒していてサイドステップで少し左にずれて攻撃してくる。私は直線的な動きしかできないし、右が当たれば勝つと言う過信があったのでこれが少しサイドにずれられるだけで右しかうてない人間は攻撃を封じられる。1ラウンドが終ってコーナーに帰るとアレンが驚いた顔でもっと左をつけとか言っているが、しかししかしストレートだけに頼っている人間は、左ににうごかれたら、左が外側に開いたようにしかうてないので右ストレートが機能しない。所謂まっすぐをうつ時のバランスが保てない。私はもらったパンチがほとんど外側からくるのでクロスカウンターをうたれたと錯覚していたが、しかし相手は左サイドから右を封じ込めるようにうっていたからそう感じたのだと思う。そればかりやってきた人とボクシングのレベルは違うが、ストレートだけに頼っている人間は少し左にサイドステップで動かれるだけでかなりやりにくくなる。3ラウンドが終了してコーナーに戻ってきた時セコンドは唖然としていたが、こりゃあかん俺って才能ない、クンナッソ(終わった)と思って、これを最後にボクシングを引退した。

はっきり言ってボクシングの才能はなかったと思う。けれども自分は自分のすべてを出し尽くして競技できたゆえに自分の競技人生は本当に楽しかったし充実していたと思う。そして自分の小さな才能を引き出してくれたジョージには心から感謝している。彼がいなかったらBサイドレベルの人間がここまで活躍しなかっただろうし、これほど楽しい競技人生にはならなかっただろう。私の競技人生実績はたいしたことはなかったが、しかし誰よりも楽しかったと思う。




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LAだったらうたれてる

2017-08-14 | Weblog

ピーターによく言われた言葉がある。それは「お前はLAだったらうたれてる」である。私はもちろん不良でもなければアホなアスリートでもない、でもしかし当時はかなり目立っていたようで、いい言葉を使えばそれは個性が強かったからだと思っている。私から見たら日本のアスリートは個性がない。最近また格闘技関係者の不祥事が多いが、こういう人間のことをまわりはよく礼儀正しかったのにと言う。でもしかしそう言う人間の礼儀正しさと言うのはでかい声であいさつするとか先輩をたてるとかパフォーマンスのようなもので、基本的にこういう人間が考える社会と言うのは非常に狭く、おまけに好きなことだけしかやってこなかったので、感情やエネルギーをコントロールできない。暴力やレイプ、えげつないセクハラと言うのはこういう環境においておこりうる問題、こういう世界ではバカが個性になるようだが、はっきり言って勉強しないと自分で考える力が持てない、持てないからあいさつしろとか子供じみたルールが必要である。

格闘技はやんちゃですみたいな子供、そして親自体もそういう感じの人たちが多いと思う。時々うちのホームページを読まないで来られるそれらしい親子、改造車にのってど派手な格好、くわえたばこで来たり、中にはごみをすてていくのもいるのだがが、もちろん入会はお断りしているがはっきり言ってこういうずれた大人がホントまれに来る。しかしうちの子供はまじめでおとなしく、親も常識があって、きちんと教育のことも考えている。たぶん私のことをトレーナーさんと言うような感じで見てはいない、特別な感じで見てくれていると思うのだが、私は頼まれて英語を教えているが、私が感じるできる子のイメージは国語力の高い子だ。例えば長文を読解する時もその部分だけを理解するのか、全体を通して文章を理解しようとするのかでは理解の仕方が違う。国語力の高い子は全体を通して理解しようとするのだが、それは単純だがまずItは何を指すかと言うことから質問して、その質問を広げていくと結局は全体を通して理解しなければわからないので、国語力が高くないと答えられない。そういう子供たちに「君は本をよく読むか」と聞いたら必ず読みますと言う答えが返ってくるが、やはり受験や勉学は国語力が大事、そういう意味で読書をするというのは非常に重要なことだと思う。私はあいさつや礼儀とかうるさく言わない。その子があいさつできようができまいがまず親がどういう人かということを見る。うちのコミュニティがまともで、親が常識のある人で子供の将来を考えていたら、子供はきちんとその社会に適応していくだろうし、あいさつも運動系のおおげさなものでないにしても気持ちよく会釈ぐらいはできるだろう。アホな人間はその組織に順応させることが正しいことだと錯覚しているが、しかし肝心なのはその全体の世界を通してその彼、彼女がどうなっていくかと言うことだ。私が見る限り親が常識があって、学力の高い子は自分で考える力を持っているのでコモンセンスをよくわきまえている。それは決してでかい声をだしてはきはきとあいさつなどしなくても、こう言う時にはこういうことはしてはいけないということをよくわかっていると思う(所謂体育会の先輩の顔色を見るではない)。あいさつやそういう組織に順応してまじめになったとか言うのは、やんちゃな奴や問題児レベルである。私ははっきり言ってこういうレベルで自分のコミュニティを考えてはいない。まともな大人が集まり、そしてその大人の影響を受けて子供が育つコミュニティとしてとらえている。うちのクラブで一番大事にしているのは言葉である。乱暴な言葉は使わないと言うのはもちろんのこと、群れではある知性を重んじ、なるべく正しい日本語を話すようにしている。

 


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オリンピズムと組織

2017-08-09 | Weblog

あるスポーツ校の子供が自分の担任体育教師を紹介する時こう言っていた「先生はバレーボールで全国制覇した人です」この言葉を聞いてわかった。ああ日本のクラブの組織は権威づけからはじまるんだと。確かにスポーツをする人間は自己顕示欲が強いので人よりも上に立ちたいと思う気持ちが強く、クラブをまとめていくために自然とそう言う権威主義的なところが出てくるのだろう。しかし組織そのものが権威主義的であると、上部の人間には何も言えないし、その権力が上部のものに集中し非常にかたよったものとなるであろうし、もしそう言った組織のトップにずる賢くうすぎたない親玉が君臨したら、その組織は腐敗していく。

組織が権威主義的であると言うのはまわりが何も考えていないからだ。日本がアスリートの不祥事が多いのはただその競技さえしてたらいいと言うような考え方、あるいは組織の中で競技しているからだ。社会や世界の問題などに関心がない。そのほかのことは全く見ようとはしない。テレビに出てきてバカ話をうれしそうに話すアスリート、そういう人間が物事の善悪をしっかりととらえ正しい倫理的基準に従って生きているなんて思えない。おそらくそれしかできない人間はそういうところは他の人に比べて希薄ではないかと思っている。こういう人間たちが集まって組織を運営すると非常にいいかげんになる。日本のアスリートはいわゆる基礎練習を地道にやる。これはある意味いいことでもあるが、しかし「行け」と言ったらそれに愚直にしたがう、自分で考えることができないゆえに付和雷同にその監督が言ったことに従うことでもある。考えろとか言ってもまずその能力がなければだめだし、それは競技レベルだけではなくアマチュアスポーツが健全な精神に健全な肉体が宿ると言うのならばある程度考え方も洗練されなくてはいけないと思う。パフォーマンスのように大きな声であいさつさせて、自分たちのテリトリーでいかにも礼儀正しくさせることが、教育などと考えるのは浅はか、それはまさに権威主義のパフォーマンスだ。前にも言ったが子供にとって教育は義務であってそれは我々の勤労や納税と同じ、休みなんてほとんどない状態で朝から晩まで練習させていつ勉強などできるのかわからないが、こういう狭い世界で生きてまとも考え方が育つのか不思議である。

日本は本当に平和だ。私は毎回オリンピックが開催されるたびに思うことは日本は競技者が高年齢化していることである。テレビなどでも40にも近いおっさんやおばさんたちがそれに打ち込んでオリンピックに出ている姿をよく見るのだが、それは飽きたということを通りこしてみっともない。まあ人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、2回も3回もオリンピックに出てくる人間を見たらもういいだろう他の人間にゆずってやれよとさえ思う。日本は平和で好きなことができるのだから本当に幸せであるが、それは自分たちがたまたま日本人に生まれてきたからで、そういった余裕がない貧困にあえいでいる国さえも少なくはない。何が言いたいかと言うとオリンピックと言うのは世界各国からいろいろな国が集まってくるのだから、もう少し全体から個というものをとらえてまわりのことも考える必要はあるということだ。経済効果がどうとかいうのも大事であるが、しかしその多くの国が集まるからこそ自分たちを他者とのかかわりの中で考えるべきだと思っている。これは私の意見であるが競技者はただ好きなことだけをやっていたらいいというわけではない。今やコスモポリタンで人とのつながりを考えなくてはいけない時代で、自分たちよりもめぐまれない国や人身売買などのえげつないことが起こっている現実に目をむけて思いやりを示す必要がある。スポーツは国境をこえるというがまさにそういう競技者は代表であってそういう義務をおっていると思う。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムは、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿である。よく顧問は日本一になれとか世界を目指せと言うが、しかし教育がかけた記録さえのばせばいいという考え方は思いっきり間違っている。今自分が競技している国がどこにあるのさえもわからない人間、テレビに出てきても部室で話す程度のことしか話せないような人間がはたして本当に代表としてふさわしいのだろうか。最近ましになってきたと言うが、しかしまだまだアスリートの教育レベルがひくい。朝練とかトレーニングの拘束時間が長いのだから勉強できるはずはない。まずはきちんと勉強する時間を与えて知識を与えて「知る」と言うことを教える必要があるだろう。そしてもし可能ならば海外遠征の時にそこの国でおこっている現実をきちんと学習させたらいいだろう。私の考え方ではまともに物を考える人間の育成ができなければ、組織論と言う言葉など存在しない。

 

 


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Dulcius ex asperis.(苦難を通して甘美へ)

2017-08-07 | Weblog

「ビジネス優先も結構だが」

昨日親しい会員と障害者用スペースの駐車について話をしていた。駐車場スペースに平気で車をとめる人間は社会人失格だと思うが、しかしショッピングセンターにも問題がある。なぜ障害者専用でそれ以外は駐車禁止とせずに優先駐車場と言うあいまいな表現をするのか。障害者の人たちのために空けたスペースであるから基本的にはとめてはいけない場所である。さらに何千台も駐車できるところに障害者用のスペースは3台とか一桁である。ビジネスを優先にするのもいいが、しかしこれでは障害者の人やお年寄りの人などのことをまじめに考えていないと言われてもおかしくはないだろう。人はよく私がこう言うことを言うとよく見ているとか言うが、しかしそれは弱いものの立場になって物事を見ていないからだ。少しでもそういう人たちの立場になって物事をみたらそういう問題が見えてくる。それはおおげさではないちょっとした思いやりである。

Dulcius ex asperis.(苦難を通して甘美へ)」

自分の子供だけではないと思うが、過渡期の子供と言うのは時には自虐的で人と比較して自分はダメだ劣っていると感じるようである。でもそんな時安易に「そうではないお前はできるんだ」と私は言わない。それは自然なことであるからだ。おそらくそう感じると言うことは彼、彼女らが成長しようとしているからで、人間は自分はダメだと思うからこそそこから成長しようとする。生まれかわろうとしているからだ。成長し生まれかわるためにはエネルギーがいる。その自分はダメだとか自分にコンプレックスを感じるのは競争社会に中で生きる人間は当たり前のことだ。しかしそのコンプレックスを成長のためのエネルギーにできるのが若ゆえの特権だ。歴史の先人たちはその失敗やコンプレックスをばねにして偉業を成し遂げたと言っても過言ではない。だから私はそんな時、否定せずにがんばって努力できるような言葉をかけるようにしている。それらしい歴史書や偉人の話をしてやるのもいいだろう。おおげさかもしれないが人間が成長するには痛みが必要だ。その痛みが大きければ大きいほど人間は成長すると思う。

대한민국(大韓民国)」

대한민국は私にとってきりはなせない国である。うちの子供は小さい時、テーハミングの応援があまりにえげつないのでテーハミングはサッカーのフーリガンと思っていたようだ。最近森友学園の問題で忖度があったかなかったかということが話題になったが、パククネの裁判ってまさにその忖度があったかなかったかということで、私は彼女のやったことは大統領としての道筋からは外れた行為であったと思うが、しかし犯罪とまでいかないと考えている。確かに歴代最低の大統領だと言っても過言ではないが、大企業の問題は忖度があったという問題だし、演説などを問題の女性に見てもらってアドバイスしてもらうことがはたして糾弾されることなのかわからないが、彼ら彼女らのこう言った国民感情は非常にやっかいなものである。でも個人的には日本人とうまもあうし、話していて同じアジア人なのだと親しみをもつこともできる。しかし問題なのは民族と言うレベルで物事を考える時だ。これはあるアンケートで韓国人の若い人の70パーセント以上が自分の国に生まれたくないと答えたらしいが、しかし民族や国と言うレベルになると共同体意識が強いのでその答えが反映されず、強固になってしまう。よく彼ら彼女らはウリ(我々)と言う言葉をつかうがこのウリこそが民族意識の高さのあらわれだ。しかし彼ら彼女らが他の国特に日本に行ったらこの言葉をつかう機会がなくなる。よく日本にいる韓国人の中には話がわかるというか一方的ではない人が比較的多いが、たぶんこのウリと言う言葉をつかわないゆえに、考え方がかなり緩和されるのだと思っている。


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辛辣ですが

2017-08-02 | Weblog

me うちのクラブは軽い宣伝文句をつかってイベント的な宣伝はしない。いくら楽しそうにやっているように見えても、どういう人間がそこに集まっているかと言うことが問題だ。人集めや目立つことばかり考えていたら集まってくる人間の質もそれ以上のものではない。格闘技のクラブと言うのはただでさえもアウトローくさい奴が集まって来やすいのだから集まる人間の質と言うものをよく考えなくてはならないだろう。ど派手に髪をそめた目だちたがり屋やアウトローくさいやつが調子にのってはしゃぐ、そういう人間たちが中心になってあたかも自分たちは楽しくなかよくやっていますとばかりにアピールする。まあはっきり言ってきちんと物を考えている人ならわかるが、そういう集団はスポーツをとったら何も残らない集団だ。

うちのクラブに来る子供の親は比較的教育のことを考えているし、人をよく見ている。たぶんここに入会させるにあたってうちのホームページをよく見て入会させたと思うのだが、それゆえに私はこのクラブはこういう考え方で運営させているということをはっきりと主張している。私は中高生の過渡期においてただボクシングを教えていたらいいと言うことは考えてはいない。その子がどういう集団とかかわり、どういう影響を受けるかと言うことは非常に重要なことだ。それしかできない人間は教育をかるく見ている。本来ならばきちんと学習させて基礎学力を身に着けさせることが社会に出る上で大事なことなのだが、しかしそういう輩は自分が十分にできていないからそういう考え方が希薄である。それができないから精神論や武勇伝、時にはマンガのような感動話で威厳を保とうとするが、たちがわるいのはスポーツの世界がすべてだと思っていて、それさえさせれば社会的な常識が実につくという間違った考え方だ。お笑いにいじられているスポーツ選手を見たらわかるが、きちんと学習しないと自分の考え方がきちんと主張できない。競技している間はいいのだろうが、しかし競技人生が終わればそれとは違う世界とかかわっていかなくてはならない。たから机の上に座って学習することは大事である。

やんちゃですとか髪を染めた子供たちが集まるような子供がマジョリティをしめていること自体おかしいことだ。類は友を呼ぶと言うがそういう子供ばかりが集まると言うのは、その集団自体が教育上問題があるからで、責任者の資質に問題があると思っている。勉強しないで個性ばかり強調してきた人間はまず一般論を理解していないので、考えをひろげていくことができない。なぜそういう理解しかできないのかとさえ思ってしまうが、自分のフィールドでしか物事を解釈できない。そこにはまったく共同体意識やコモンセンスがかけているからそういうことが言えるのあろう。即ち一般論を理解していない。言ってることがめちゃくちゃ、そういう人間はただ目立つことを言ったら勝ちだと思っているのでたちがわるい。「俺は、俺は」と1人称で語り、いくら建設的で正しい意見を言っても自分の主張が通らないとそれにあわすどころか負けたと思い、むきになったり、話をすり替えたりして話を自分中心に持って行くのだから話にならない。ある程度人の話を理解したり、共通の考え方(たとえば何が正しいかなどと言うのは)を持つには学習して学力を身に着けることが大事なことだ。我々はそう言う基本的なことをしっかりと踏まえて子供とかかわっていくことが大事なことで、私は子供がこの群れとともに成長すること、そしてそのためにはそこにどういう人たちが集まっているかと言うことを問題にしている。

 

 

 


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Amat victoria curam.

2017-08-01 | Weblog

ウェルキンゲトリクスと言う歴史上の人物がいる。彼はカエサルと戦ってかれをくるしめた人物、ガリア戦争に備えてそれまで統率の執れていなかったガリア諸部族をまとめ上げて対ローマ統一部隊を組織し、ローマ軍に勝利した英雄である。しかし最終的にはローマ軍に包囲され、突破作戦を決行するも失敗し、部下達の保全を条件に投降。その後、ローマへと送られ、6年間投獄された後、処刑された。カエサルは基本的に敵に回った人間でも処刑することがなかったが、若くして統一組織のないガリアの諸部族をまとめあげてしばしばローマ軍を打ち破った彼に対してだけはそうはしなかったのだが、それだけ彼が優れていたということが言えると思う。私は時々子供と歴史上の人物の話をする。どの人物がどういう偉業をおさめたということはもちろんのことだが、しかし時には違う視点から子供にメッセージをおくるのだが、このウェルキンゲトリクスから学べることは、何か事を成し遂げようとするにはある程度の覚悟が必要だということである。人間目立てばねたみをかったり、ウェルキンゲトリクスのようにライバルに敵視され警戒されることもあるだろう。ねたみや警戒されればまわりからたたかれるし、たたきのめされることもあることはもちろんのことだ。けれども常日頃からそのことも想定しつつ事柄に備えていくことも大事なことで、ウェルキンゲトリクスが部下たちの命を助け、引き際が立派であったのも常日頃からそのことを想定し、覚悟を決めていたからではないかと思っている。

出る杭は打たれると言うがそれは当たり前のことだと思う。人よりも何か目立った行動をするというのはある程度の覚悟が必要であるし、その覚悟がなければまわりは認めることはない。私自身いろいろと大胆なことをやってきたが、そのすべてにおいて腹をくくっていた。たいていの人間は私のすることに驚いてやめとけと言う。しかし何をするにも後ろ盾なんて求めなかったし、つるむこともない、すべては自分の責任だし、留学したのも俺ならできると思ったからだ。よく試合で俺は絶対勝ちますとか言う奴。お前もし負けたらどうするんだ。ボクシングをやめてこの地からきえるのか。でもしかし勢いでそういうことを言う人間に限って同じことをくりかえす。私が威嚇するような恰好をするような人間をきらうのは、そう言う人間には自分の言葉に責任をとらない人間が多いからで、このことはやはり学校の勉強と関係している。はっきり言って教育と言う責任を負うことがないような人間がまともに責任など終えるはずもない。こういう人たちがでかい口をたたくことはただのパフォーマンスと思っているが、幼稚園の寸劇でもあるまいし、非常に聞き苦しい。

覚悟を決めたら冷静になれる。私は常に最悪のことも考えて行動しているが、その最悪のことが覚悟できたら意外にもすべてのことにたいして冷静になれるものだ。偉そうに言わせてもらうが、私は人の意見を聞くが、最終的には自分の判断を信じている。自分の判断が間違っていないというのは、その自分の行動や考え方に責任をとれるからだ。最悪の状況を想定し、それを受け入れることで判断力が高められかつ大胆に行動できるからだと思っているが、そう思えるのはすべてのことに対して自分で自分の責任をおっていると考えているからだ。ラテン語のことわざにAmat victoria curam.と言う言葉がある。これは勝利は努力するものを好むと訳されているが、直訳すれば準備するものを愛すということである。人間ある程度最悪の事態を考えて覚悟を決めたら、準備は決しておろそかにはならないだろう。

 


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