脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ピーター3回転半

2023-06-29 | Weblog
私は学生の時ハワイ州でメダルを取ったのだがボクシングの才能はない。ただ腕っぷしが強くパンチのスピードが速かっただけ、たいした技術もないので技術を必要とする今のボクシングだと通用しないと思っている。しかし相手のことをよく見ていたことは確かである。友人のピーターと言う台湾人が試合をするのでセコンドについた。ピーターにとってこれが初戦、その初戦のトーナメントに向けてそれなりに一生懸命にトレーニングをした。しかしその初戦相手がわるかった。相手はノーランというギャングのグループに属している奴でのちに彼は強盗をおかすのだがゴールデングラブに出場している強者である。思わず思ったこりゃああかんわ、メインのセコンドについているアレンもたぶんダメだと思っているのか、ピーターにあぶなかったらタオルを投入するぞと確認している。びびりまくるピーター、冗談交じりに「you must break him」と言うと思い切りひきつって笑っている。そして運命のゴングが運命のゴングが鳴るやいなや玉砕覚悟で飛び出していったピーターであったが、開始わずか数秒で相手のパンチをもらいダウンをくらう、マジでビビったのもあって3回転ぐらいくるくるとまわったようだが、それが戦意喪失とみなされRSCとなり試合終了、なぜか終わってリングを降りてきた彼の姿は堂々としていたが、しかし彼にとって何もできなかった無駄な試合であった。試合が終わってお決まりのようにハンバーガーを食べに行く、少し遠かったらお持ち帰りで車の中でいつものメンバー3人でハンバーガーを食べながら帰るのだが、この日も確かワイパフあたりで試合をしたので車の中でハンバーガーをほおばった。そして海沿いの景色を通ってペチャクチャとアジア人がいろいろな言葉を交えて話す。彼は試合にこそ負けはしたもののしかし3人で食べたハンバーガーの味は格別でそのことは今でも彼の思い出となっているだろう。たぶん我々にとって勝ったとか負けたとかいうのはどうでもいいことだ。ただボクシングが面白くて好きだからこうして試合にでている。そしてそうであるから試合全体を楽しむことができるのだ。日本人はスポーツを修行だと思っている。運動部の坊主刈りなんて言うのはまさにそうだと思うが、もう少しスポーツの楽しみ方を欧米から学ぶ必要がある。それしかできないことをストイックに置き換えているが、もっともっと広い視野で余裕を持ってスポーツを競技することは必要であると思う。


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管理者に仲間はいらない

2023-06-23 | Weblog
仕事を責任をもってしている、家庭環境がいい人たちはコミュニティにとって大きなアドバンテージだ。なぜなら考え方がまともなので盛り上がり方が健全で、明るくまわりにもいい影響を与えるからだ。私は特に家庭がしっかりしている人と言うのは人間関係においても信頼できると信じている。一方所得ではなく、余裕がない人間はコミュニティにとって害になる。ちょっとぐらいだったらいいだろうとごまかすような人間、今はどうかわからないがブランド物や自分の髪型や髪の色にはお金をかけているのに給食費をはらわないような人たち、自分は損したくない、得をしたいという考えが見え見えで、こういう人たちは人に譲ったりすることができない、そういう余裕のない人間が集まってグループをつくると厄介である。宗教心理学の話であるが、人間は人の悪口を言うと共感を呼びやすく結束がかたくなり、そういう目的で集団をつくりやすいらしい。実際そういう心理をついて大きくしていった新興宗教があるが、人間は人の悪口や批判をすることで結束が固くなる。余裕がない人間はくだらないコンプレックスを持っていて、自分に自信がないので相手のことが気になり、相手を落としたり、下げたりすることで安心する、そういう人間たちが集まってクラブやトレーナーの批判をしたら雰囲気はわるくなる。
みなさんが平等に楽しくトレーニングできるためには排除すべきものは排除し、そういう人間を生み出さない雰囲気をつくることが大事なことだ。余裕のある人間はいい意味で人のことを見ていて観察している。年配の人はよくホームページを見てここだったら自分ができると思って来ましたと言ってくださるが、おそらくそれは私の教養のレベルや常識度を見てくださって「うんこれぐらいだったら合格だ」ということで来てくださったのだと思う(実際そう言っていた人もいるが)、ジムで話す言葉や話題、そして電話の応対などはジムの雰囲気をつくる上では重要なことで、よく言っているけれどもその管理者のレベルに応じて人は集まってくる。運動部の常識が黄金律だと思っているいたい人間がいるけれども、いろいろなタイプの社会人を相手にするのならば、ある程度の教養や日本語力は必須である。言葉がくずれると輩が集まってきてその群れの雰囲気もわるくなるというのが私の考え、管理者は自分の仲間になるかと言う基準ではなく、この人は管理者にふさわしい人かと言うことをよく見て観察してくれるような人たちがここに来てくれるために私がすべきこととおうべき責任があるだろう。そしてそういう人たちが集まることで群れは健全に機能し、明るく、楽しいクラブが形成されると信じている。


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ボクシング集団の言語ゲーム的理解

2023-06-15 | Weblog
ボクシングはドーパミンやアドレナリンを放出しやすいので、闘争本能が強くなるということを言ったが、それが間違った方向に行くと暴力的な行為につながるのだろう。競技者であるならば闘争本能はあって当たり前だ、だからそういうエネルギーを抑制することを教えることも必要だと思う。
私の監督はリングを降りたらジェントルマンであれと言っていた。この人は本当に知的な人で人生のお手本になる人だった。私はスポーツ指導者でこの人は教養があると感じた人は本当に少ない、いやこの人の他に出会ったことがないと思っているが、特に日本の指導者は古臭い教訓じみたことや根性論的なことは語れるが、何か国語を話すとか、英語でスラスラと本を読んだり、哲学的な話をしたり、いわゆる我々から見て知的好奇心を刺激するような人はいないと思うのだが、そういう人が建前で勉強しろとか文武両道と言っても勉強なんかしないし、まずそういうことが生きていく上で大事だなんて言う考え方が身につかないと思う。私の監督の話に戻るが、ある時私たちを集めて汚い言葉を使うことを半ば禁止した。いわゆる言葉狩りである。競技者は少し血の気が多く、失敗したらF〇ckとか当たり前にいうのだが、私もつられてそういう悪い言葉を使っていたと思うが、英語であれ韓国語であれany dirty wordsは使うのをやめようということであった。監督は冗談は言うがすごくきれいな英語をつかう。そういう言葉をまわりの人間はお手本と言うか、自然に影響されていったのだが、実際言葉がかわれば行動がかわる。ヴィトゲンシュタインは言葉を話すということが、一つの活動や生活形式の一部であることを、はっきりさせるためのゲームだと言ったが、動物の中で唯一言葉を持っている人間は言葉に恥じないような行動をするのがその本質であると思う。

参考文献「はじめての言語ゲーム」橋爪大三郎 講談社 

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ジムのヒエラルキーとレイシズムの関係

2023-06-09 | Weblog
私が違うよと思う人たちは、ジムは公共の場であるからみんなが公平に扱われ平等でなければいけないと公言したら。いやいや自分たちは何の問題もなく、ジムやクラブでは自由に平等にやらせてもらっていると即座に答える人たちだ。おそらくそういう人たちは競技者か、取り巻き見たいな連中だと思うが、でもよく考えてみてほしい、ジムは平等だと言われたら、まわりの状況を考えてはたしてそうだろうかとまず考えてみる必要がある。おそらくうちのクラブの人間はそういうことは安易には言わないだろう。そう言われて何も考えずに自分たちは自由にやらせてもらっているだから平等だなんて言う人間は、まわりをみないで自分たちだけが満足しているだけ、こういう連中は今度は自分が満足できないと不満分子になることは間違いない。こういう人たちは自分たちの満足度=ジムの評価で、おそらくこういう人たちがトレーニングを優遇されて、リングを牛耳っているのだろうと思う。ミットうちや実戦練習を十分にさせてもらって、自由にやらせてもらってます、ボクシングは楽しいですと言う一方で、ミットはたまにしか持ってもらえない、あまり教えてもらえない、実戦練習は試合に出る人間が優先でたまの機会にしかできない、ミットを持ってもらいたかったり、マスがしたかったら、競技者のいない時間に行くと言うことが求められるならば、例えそういう奴らの結束がかたく、そいつらだけが充実したトレーニングができてもそのコミュニティは平等ではないと言えるだろう。
アホが集まって自分たちだけが盛り上がって喜んでいるコミュニティの構図はレイシズムに似ている。ロビン・ディアンジェロによるとレイシズムは個人主義や実力主義と言うイディオロギー、メディアによって繰り返される非白人に対する狭い視点、学校や地域社会における人種的隔離、人種差別的なジョーク、警告、人種についてオープンに話すことのタブー化、白人同士の結束といったことがその社会的な力になってその中で起こる問題らしい。いわばレイシズムは「自分は差別しない」「俺は平等にあつかっている」と言う個人化された問題ではなくて構造主義的な理解をすることが必要なのだろうということであるが、まさにスポーツのコミュニティで起こる差別も同じである。競技者優先は競技者するものがボクシングを本当に競技していると信じられ、彼ら彼女らは大事なトレーニングをしているのだと扱われる、ジムでの関係をあらわす力が働いているという点ではレイシズムを生み出す構造と同じである。
私はジムで起こりうる差別について考えるようにしている。性別や年齢はもちろんのこと目的、そういったことも含めてどういう場合に不平等が生じるかと言うことを考えてみなさんが平等にトレーニングできるように考えている。そして最も大事なことはジムでは力の関係をつくってはいけないと言うことである。
差別問題はともすれば被害妄想的になる、権利を主張するための道具になったり、俺は何々だと言えば権利がまかり通るようなそういうめちゃくちゃなことにもなりかねないのでそうならないように「愛」であるとか「ゆるし」であるとか宗教的な考え方も大事であると思う。


参考文献
「ホワイトフラジリティ」 ロビン・ディアンジェロ


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MOBにおけるコミュニティとは

2023-06-07 | Weblog
よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはどういう人たちがどういう目的を持って集まるかと言うことだ。私が言うところの理想的なコミュニティはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方群れる集団は価値観がせまい、教養のレベルがひくい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。
私が違和感を感じるのは時々友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言う人間。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かがないように迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きている、わるい意味での弱者の生き方そのものである。群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝するとか刺激で集まるのもいいが、そういうでかいことを言って目立つ集団は中身がない。そういう集団に限って世の中では認められないからまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の知的レベルがひくいとそういう人間たちが集まる。私はそういう人間たちをグレーゾーンで生きる人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからだ。髪をど派手に染めて改造車にのっている奴はダメだと言ってみんながみんなそうじゃないなんて言わない、当たり前の基準と感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。群れるのは一つのイデオロギーに向かっていないからだ。それはサルの群れと同じで、きついいいかたであるがそのコミュニティが思考でき、ある種の基準をしっかりと持っことは大事なことで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかし俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから主張する哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは正しく機能すると信じている。
 

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