脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

セヘ ポッ マニ パドゥセヨ   

2014-12-25 | Weblog

あさってからジムは冬休みにはいる。
今年一年もいろいろなことがあったが本当に楽しい一年であったと思う。
特に今年は語学を学んでいる人たちが続けて学んでくれていること、そして面白いと言ってくれていることは非常にうれしいことである。
事実最近は質問も多くなり、熱心にノートをとっているのだが、この前ある会員がこういうことを言っていた。それは中学生がどんな勉強をしているか気になって、たまたま知り合いの中学生と話す機会があったのでここで習ったことを話したらしい。
そうしたらすごく興味を持って聞いて来たらしく、彼はそこでその子供にいろいろと教えてあげたらしいが、そういうことができると言うことは自分がわかっているということなので少し自信がついたと言うようなことを言っていた。

私は実際に語学を教えていて思うことは語学を習う時に必要なことはまず大胆さ、そしてちょっとした感動である。おそらく学習が進まないのはちょっとした感動がないからだ、事実教えていてもそのちょっとした感動がない人間はやりにくい。
感動すれば好奇心が芽生える、その好奇心が学習意欲をもたらすのだと思う。
だから語学の授業では小さな感動を与えるように努力している。
なるほどへーっと言う小さな感動がやがて大きな発見をもたらす。そういうなるほどへーっと言うような小さな感動を与えることが非常に大事なことだと思っている。

外国語を習うと言うことは感動だらけだ、韓国語ひとつにしてもスポーツによって使う動詞が違うし、英語だって理解できたらその翻訳がいかに難しいことがわかるのだが、英語がある程度理解できたら映画を訳している戸田さんのすごさがわかる。

MOBでは特にやりなおしの英語を教えているのだが、英語を教えているのは何もボクシングと無関係なことではない、東京でオリンピックが開催されようと言う時代にこういうリテラシーがなければ通用しない、さらに言うならばこれからの時代はスポーツバカも通用しないだろう、ジムの親玉たちが俺たち勉強キライデースではそういう人間が集まってくる、ジムやクラブの運営上そういうリテラシーを持つことは非常に大事なことである。

私はボクシングしか教えることができない人間と言うのは薄っぺらいと思っている。薄っぺらいから仰々しい言葉をつかって自分を大きく見せようとする。
韓国ではインガソン(人間性)と言う言葉がある。
スポーツ選手などの有名な人間は同時にそれらなりの品格を持たなくてはいけないと言うことだが、韓国では有名になるとそのインガソンが要求されるのだ。
しかし人間性が要求されると言っても体育会が求める礼儀は別、あんなものはヒエラルキーをつくるためのものでただ先輩にでかい声であいさつできて敬語もどきの言葉を使うことが本当の礼儀ではないからだ。
私は人間性と言うのはリテラシーを持つことだと思う。
MOBはボクシングができるだけでは大きな顔はできない。
MOBはクラブが運動クラブの常識ではなく世の中のコモンセンスが通用する場として来年も運営していくつもりだ。
そして今年もそのコモンセンスを持った多くの人たちに助けられたことは確かである。
「セヘ ポッ マニ パドゥセヨ」どうか新年たくさん副をうけてください。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウリ ハナ テジアナヨ 我々は一つではない we are not alaways one

2014-12-23 | Weblog
うちのクラブはTシャツやジャージをつくったのだが、これが結構注文者が多い。
私自身は持っていないし制作にかかわっていないが、デザインがかっこいいということで購入する人土地が多い。
この前うちのグッズをつくれば結構買うのでタオルとかカバンをつくろうかという話になったが、その際にMOBの象徴的なマークをつくったらどうかという話にもなった。
チーフトレーナーは非常にバランスよくクラブを運営してくれている。それこそ彼がいなかったらこのクラブは運営できないというぐらい重要な立場でたぶんグッズなども彼がつくるからたくさんの人間が購入するのだと思っている。
でこの前MOBのマークの話になった時にこのマークはあかんというマークを出した。
例えばハーゲンクロイツなどの人種差別的なものをつかうこと、これは絶対にNGである。あと犯罪がらみゾディアックなどの連続殺人犯がのこしたマーク、さらに私の意見としては日本人だけのクラブではないので旭日旗や日の丸もNGにしてもらいたいと思っている。

上野樹里がでている映画でチルソ(チルソク)の夏という映画がある。
それほど内容のある映画ではないが、しかしこの映画は当時の日本と韓国の関係をよく表現していて、時にはその映画のセリフが心につきささる。
時代は今から40年ぐらい前韓国人が朝鮮人、チョンと言われひどく蔑視された時代、下関でスポーツ交流をはかる大会が毎年恒例としてもたれていた。
そしてその大会で出会った高校生がお互い恋心を描くのだが、しかしその思いもまわりの偏見によってむなしくけされていくという少しセンチメンタルな映画である。

実は私がここでは日の丸や旭日旗を極力使わないと言うのは、それは決して私が日本人を否定しているのではない。ただここは日本人のためだけのクラブではない、にわかに出てくる愛国心や集団性と言うものにたいして不安を感じているからである。
集団を形成していく上で大事なことはバランスである。
ここのスタンスはボクシングフィットネスとあるから健康維持やダイエットの人も本当の意味で公平にトレーニングできる権利がある。さらに外国語が対応可能なことからここは日本人だけのクラブではない。
もし日の丸を使えば外国人を排除することになる。何をおおげさなと言うかもしれないが、しかしここのように多様性を第一に考えているクラブはそういうことを考えなくてはならない、そういうことも含めてひとつということをやたら強調しない、日の丸を使えばそういう要素が強くあるのでなるべく使ってほしくないと言う思いはある。

日本人はなぜか一つにまとまることがいいことだと思っている。しかし私はこの考え方と言うか雰囲気についていけない。
これは私の意見であるがFacebookの使い方はアジア人と欧米人では使い方が違う。
特に日本人の場合はサークルや仲間などと写った写真をやたらのせてコメントしているが、私はそののりについていけない、ついていけないからFacebookに関しては積極的ではない。
何も集まることがわるいと言っているのではないが、しかし「何々ちゃんが何々しました」「わあすごいね」などとコメントを残すタイプではないし、人の私生活をのぞきみして楽しむようなタイプでもはない、私にとってそれは何か違和感があるが、日本人ほど協調性を重んじ、簡単にまとまる民族はないと思っている。

うちのクラブは比較的雰囲気はいいと思っている。
それはうちのトレーナーやスタッフの力が大きいが、さらにつけくわえて言えば私自身が群れることができない多様性を認めなければ自分のアイデンティティがもてないからだと思っている。
MOBはそういう一匹オオカミや一匹コアラなど人と合わすことができないあわせたくたくない人間が自由に生き生きとトレーニングできる場で、そういういろいろな考えや立場の人たちが気軽に集えて、何かを得ることができることを期待している。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミチゲ モゴ シップン ロールケーキ 

2014-12-21 | Weblog

もうすぐ2015年、思えば今年はいろいろなことがあって楽しかった。

「朝練なんていらない」
前から思っていることがある。それは朝練をさせているクラブがあるが、こういう悪しき制度は廃止すべきだと思う。
多分朝練なんて言うのはそれだけがうまいクラブの常套手段だと思うが、しかしこういう朝から晩まで休みなしでトレーニングさせることが学生の自由を奪っているのだ。
学生にとって大事なことはクラブをすることではなく勉強だ。MOBでははっきりとボクシングはできても勉強ができないとだめだと言っているが、社会というのはそのクラブだけが社会ではない、実際に広い世界に出ると国語力や理解力、そしてさらに英語など必要になってくる。そういう時に基礎的な学力がかけていることは非常に大きなディススアドヴァンテージである。

私の見解ではそれしかできないような奴は自慢話しかできない。くだらないプライドは持っているが人とまともに会話できないできないから自分本意の話をする。だから話が自慢話になるのだと思っているが、そういう奴らが刑務所仲間をたよるように集まって、そこで社会には何も役に立たないようなボクサーと言うことを武器にして集まるような奴らを仲間と言って、そこででかい顔をさせるようなクラブにはしないさせないというのがここの方針である。

どこかクラブは未だに女性をたたいたり、朝から晩まで中学生をトレーニングさせていると聞いているが、しかしあきらかにこれは人権侵害や傷害罪である。
こういうことを言うと強制はしていない、やるかやらないかはその子供の選択だと言うことを言う奴もいるだろうが、しかし未成年でしかも学校と言う小さな社会のそのまた小さな世界のクラブでそういう判断が子供にできるか考えてみたらいい。
たとえ子供が休みを返上してまでも一所懸命やりますと言ってもその力を勉強に使えとか、これ以上は全体のペースを考えたらできないと言うのが本当の教師だと思うのだが、しかし全国に行けとか頑張れ、努力しろなどとしきりに煽って未必の故意的にその権利を奪ってまでもトレーニングをさせているとしたならば、まさにそれは犯罪に等しいことであると思う。
異常なぐらいクラブに熱を入れている教師は一体子供をどこに導こうとしているのかわからない?
しかしこいつらはクラブの顧問以上にいち教師であってプライオリティは自分のクラスではないのか?

「ミチゲ モゴ シップン ロールケーキ」
韓国人の後輩と今年も大阪で会おうかと言う話になっている。
去年は夏だったか娘の希望で一緒にラーメンを食べに行ったが、今年はもう少しグレードをあげて何かいいものを食べに行こうかと思っている。
そういえば去年は娘が堂島ロールケーキと言うのを気に入って、私に大阪に行ったらおくってくれを頼んでいたが、その娘ももう中学二年生になる。
彼女は日本語韓国語英語を話すトライリンガルである。英語はもう少し勉強する必要はあるが、しかしそれでも十分話す。
TOEICなどは半ば受験のようなものでコツさえわかれば得点をのばせるが、しかし最近の韓国人の語学力というのは非常にのびていて、多くの人がバイリンガルである。
その彼女も小さい時からプチ留学に言っているらしく、そのせいか欧米人相手でもものおじすることなく堂々と話す。
前にスポーツの監督は海外に行くと何も言えない内弁慶だと言った。自分の子飼いには親でも言えないことを偉そうに言うがしかし海外に行くと自分が話せないのとその迫力におされて何も言えなくなるからみじめである。はっきり言ってこの中学2年生のほうが勇ましく頼りになることは確かである。
後輩が言うには彼女は私の影響が大きく、かなり毒舌になって来たらしい。
両親はどちらかと言うと保守的なのでこれでもかと容赦ない彼女の毒舌ぶりに多少の心配はしているが、私は彼女は将来有望だと思っている。
今年の年末彼女と大阪で会う。またひとまわり大きくなったと思うが、そしてまた再びあの食べたかったケーキを食べることができるであろう。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18 fucking terrorism

2014-12-18 | Weblog
昨日ニュースでテロリストがパキスタンの学校を襲撃したと発表していた。
イスラムのある考え方では女性は教育をうける必要がないということを公言しているのだが、おそらく政府の学校では男女ともに教育をほどこしているのでそのことに対する襲撃であったと思う。
この襲撃したテロはかなり保守的でラディカルであるが、宗教は往々にして女性の権利を束縛している。
なぜそうなるのかというと聖書などの経典が何千年前のものでその時代を反映しているからだ。
レビーストローズは古代社会における女性の役割は他の家族と女性を交換することで一族の安定をはかる物のような役割があったと述べているが、民主主義が確立していない古代では力をもたない女性と子供は弱いもので権利がない、一夫多妻制と言うのは逆に言えばその弱い女性が強い財力のある男性に頼ることで生きることができると言う当時では合理的なシステムであったように思えるが、そういう考え方から未だに抜け出すことができない時代錯誤の世界がバイブルや古代に書かれた経典の世界だが、女性が教育をうけてはいけないと言うのはまさにそういう時代錯誤な宗教の世界、コンサバティヴな考えから来ている。

日本人は宗教と言うと何かいい行いをするとか、心の中で持つものだとか言う人がいるが、しかしそんなのんびりしたものではない、こんな考え方は世界では通用しない。
西洋や中東世界ではそれは自分たちのルーツや根本を決定づけているものであり、所謂自分たちのアイデンティティである。そしてそのアイデンティティと言うのは自分の命の問題で、のちに自分が天国にいけるかどうかということがかかっている、かかっているから自爆テロのような行為ができるのだ。
昔アパルトヘイトと言う人種隔離政策と言うのがあったが、実はこれも宗教的なものから来ていると思っている。
reformed chuchが持っている独特の思想で予定説と言うのがある。これは人間は生まれながらに神によって救われているかいないかと言うことが決まっていると言うことだが、実は当時アパルトヘイトを支持していたのは社会的に影響のあるreformed chuchである。
おそらくその予定説に基づいて黒人と白人をわけたのだと思うのだが、私はこの人種隔離政策の背景には彼らの持つ思想や宗教が絶対的な背景として存在していると思う。
宗教と言うのは非常にやっかいである。なぜこのような宗教的な問題が解決しにくいのかと言うと、その根本である聖書や経典をかえることができないし、さらにタリバンのような新しい宗教にはその聖書や経典に並んで彼ら独自の経典があってそれが絶対的になっているからである。
おそらくそれは憲法をかえることよりもずっとむずかしいことだ、パキストンを襲撃したテロリストたちの背景にはそういう時代錯誤で差別的な構造が存在している。
私が宗教や哲学を勉強したのは、それがわかれば人は何を考えているかということがわかるからで、事実この考え方に基づく考察は何をする上でも役にたっている。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

O holy night 

2014-12-15 | Weblog

韓国人の中学生の女の子から英語の歌詞について聞かれた。
gleeのo holy nightを聞いて自分で訳したいと思って、それを訳を見ないで自分で訳したいらしいが、どうしても「long lay the world in sin and error pining til he appered and soul the felt its worth.」の部分がわからないそうだ。
特にlong lay the world in sin and error piningが何となく理解できるがよくわからないと言っていたが、私が訳すのは「世界が罪とぬぐいさることができない過ちの中に長く横たわっていた(続いていた)」。
piningのpinはpinでとめるという意味があるが、おそらくこれはイエスがはりつけになった時にとめられたことにちなんでだろう、piningと言うのはその罪と過ちがこの世界にとめられているかのようなそういうイメージだと思う。そういう意味をこめて我々がぬぐいされないと訳した。

実はこの歌は非常に思い出深い歌である。学生時代友達がクリスマスにクワイヤーで歌うことになって、教会に誘われた。食事をさせてくれるというので思いっきりそれを期待して行った。
そこで私は前列にすわらされたのだが、多分おぼえている限りでは5曲ぐらい歌ったと思う。
韓国語の歌が1曲であとは英語だ、最初はまあまあ練習しているななんて思って聞いていたが、しかし最後の歌を聞いたときに私は深く感動した。
ある芸術家は歌は祈るように歌えと言ったが、まさに彼女たちが歌っているのは歌ではなく祈りだ。その全身全霊を持って天にとどかせようとしている姿に感動したのだ。
その後の 食事はビュッフェスタイルで彼女が私のために気をつかっていろいろととりわけてくれたのだが、カルビの前に来たら多く入れろと目配せ、それをわかったかのようにたくさんカルビを盛り付けてくれたが。私は彼女と話すたびにいつも思う、本当に受け入れられていると。
教会によんでくれたのも自分が歌うのを見てほしいのもあったのだろうが、しかしクリスマスにひとりではさびしいと思ったからだ。
彼女いわく人間は誰でも罪がある。おそらくこの歌詞のlong lay the world in sin and error piningと言うのは人間が持つ現実であり、彼女が人を受け入れると言うのは、人はすべて罪びとで弱いものだと言う、自分の弱さを認めたところで人は平等なんだというところから来ていると思う。
宗教なんて弱い人間が持つものだと思うし、神がいるとかいないと言うことはどうでもいい、そんなことは私の知ったことではない。
しかしこういう時代だからこそ矛盾しているが、神がいることが必要だと願うことは大事なことかもしれない。

最後に、このo holy nightのさびの部分「fall on your knee, oh hear the angel voices oh night divine oh night when christ was born oh night divine oh night divine」のdivineはdivideと同じ語源で区別すると言うことだ。
divineは神聖なと言う意味だがその神聖さは区別されるものであって、他のものとは違う。
MOBでは毎年この時期にはどこかの団体をおぼえて日ごろ会員がおさめてくれている会費から寄付をしている。それは気負うほどの額ではないが、しかし彼女からハワイで教えてもらったクリスマスの意味を大事にするためにそうしている。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イーッと言ってすぐに来た

2014-12-03 | Weblog
スポーツトレーニングは音楽をかけてトレーニングすることは定番であるが、もちろんそれは20年以上も前も同じである。
HIのボクシング事情は体育館のような場所があってそこにリングが2つぐらいそしてサンドバックが10機ぐらいおいてあって、そこに学生などいろいろなチームあるいは個人が集まってトレーニングすると言った感じであった。
だからそこをつかう人も子供から学生、社会人と様々で(私が時々言っていたカリヒと言うところはギャングもいた)いろいろな人たちが集まってきてそれぞれの目的に応じてトレーニングをする、そのトレーニングのシステムはまさに人種の坩堝さながらである。
私とよく時間が被る人間でオギーと言う人間がいた。彼はプロボクサー志望のハワイアン、確か彼は中国系のトレーナーに教えてもらっていたと思う。
彼はゴールデングラブの代表になったのでもちろん実力もあったが、しかしすごいのはそれだけではなく彼がトレーニングでながす音楽だ、ノリがよくてボクシングの動きにマッチしていて、何よりもモティヴェーションが上がる。たぶんそういうセンスが抜群なのだろう、そういう選曲をしてくるのだが、そういう彼の選曲で我々は気持ちよくトレーニングで来ていたことは間違いない。

そのオギーが実際にプロデビューした。
私はよくスパーリングパートナーをつとめていたので彼からチケットをもらって見に行ったのだが、その場でなんと1ラウンドTKO、レフリーは勝負にならないので試合をとめたのだと思うが彼のデビューは白星しかもTKOで飾ることができた。
しかしいくつか試合を重ねてメインランドに渡った彼だが、その後はあまり芳しくなかったようで、チャンピオンの夢はあきらめて帰って来たそうである。
そして今はどうしているかと言うと、彼はその音楽の才能を生かしてHIのラジオ局でDJとして活躍しているそうである。
たぶん彼の敗因はそれはメインランドに行く前から見えはじめていたのだが、自分が苦手な相手とはスパーリングをしない常にいいイメージを追い求めすぎたことである。
それは彼がゴールデングラヴを制してこの小さな島では敵はいないと言うぐらい強くなったあたりからそうなってきたのだが、事実私が強くなってきたころには階級ちがうとスパーリングをしなくなったのだが、たぶんそのことが彼をよわくさせていたのだと思っている。
幸いなことに私は才能もなく、たいして強くもないのでそういう自由は認められず、とにかく相手にしてもらえるものならやるしかないとうことで結構もまれたのだが、たぶんボクシングでうまくなるためにはそういう荒々しいことは必要だと思っている。
中でもえげつなかったのは何とかタイガーとか言うたぶんよくわからないが世界何十位ぐらいに入るランカーである。
そいつがHIに来た時スパーリングをすることになったのだが、みんな結構おじけついて引き受けようとしない。その時ジョージが相手は左だけだ、お前ならいけると言った言葉を信じてじゃあと引き受けたのだがしかしそいつが結構えげつないやつだった。
スパーリングは私のほかにも2人いたが、その二人は仕方なくなんかいやそうな雰囲気であったと思う。
切り込み隊長は私、私は左だから大丈夫だ、それなら倒してやろうぐらいの気持ちで行ったがその考えはあまかった。
イッーと言ってくるとわかっているジャブをまともにくらい脳震盪状態に、普通イーッと言ったらうってくるのがわかる。しかしこいつのジャブはイッーて言ってからすぐにあたるのでよけようがない、おまけにそのジャブは5キロぐらいの石をぶつけられたようにいたく、1ラウンドが終わると私は千鳥足でコーナーに帰って行ったのをおぼえている。
ジョージが「Are you Ok?」と聞くが内心は「大丈夫なわけがねえだろ」と思っていた。
しかしあと1ラウンドここでギブアップしたら根性がないと思われるので続行、2ラウンド目はかげんしてくれたが、それでもなぐられる度に頭がくらくらしてようやく2ラウンドを終えたがはっきり言ってかなりハードなスパーリングであった。

ボクシングはハードなスポーツであったが、それなりに楽しかった。
私がきらいになりかけたのは日本のアマチュアにかかわってから、この世界は本当に小さくしょうむないヒエラルキーの世界である。

















  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アパ アイヤ  

2014-12-01 | Weblog

私が特に運動系でそれしかしない人間をあまりよく思っていないのは住んでいる世界が狭いからだ。
時々そういう人間で武勇伝でも語るように人をやっつけたという話を人前ではばからずに言う人間がいる。
ひとりの人間をあいつは問題があるから仲間はずれにしたとか、自分が敵とみなした人間をやっつけたであるとかはばからずそういう事を言うのだが、おそらくそういう小さな競争社会で生きて来た人間はその小さな群れからはみ出してしまうとそのような考え方しかできないからこういうことができるのだと思っている。
日本のそれしかできないような集団は歪な世界だ。
私などはバイレイシャルなのでこういう多様化できていない集団は決してあわないのだが、こういう特定な集団でひとり違うことをしたらいじめや仲間外れの対象となるのは常であろう。
どういう理由があってもひとりの人間をみんなで仲間はずれにしてはいけないのだが、しかし多様性を認めない社会ではこういうことがおこりやすいのだろう、おそらくいじめや仲間はずれと言うのはその裏で根回ししている奴が存在してこういうことが一つのうさばらしになっている可能性はあるだろう。

私にはひとつの大きな後悔がある。それは中学の時ひとつ下で韓国から引っ越してきた人間がいたのだが、その彼を助けてやれなかったことだ。
当時は今のような時代ではなく韓国人蔑視と言うのがあった時代。
映画にチルソの夏と言う映画があるが、これは韓国人と日本人の交際を描いた物語であるが、この映画は当時の状況をよく表している。
当時は韓国人と日本人が交際したりするなんて言うのは論外であった。
その時代に一人の転校生がやってきたのだが、そういう人間が当時日本に来ると言うことはいじめの対象になる。
まあ当時は今のようなえげつないいじめではなかったが、それでもあいつはへんな言葉をつかったとかおちょくられていて、私はよくその彼がいじめられている光景を見ていて時々彼は助けを求める目で私を見たのだが、しかし仲間と思われるのがいやでずっと助けなかった。そのことが私の後悔になっている。
私が弱い者いじめが嫌いであるとか人を仲間はずれにすると言うのが大嫌いだと言うのは正義を貫いているわけではない。それは自分の体験や弱さに基づいている。
多様性を認められない集団は必ず人を仲間はずれにしたり、人をいじめたりする。そして時には人を仲間外れにしたりいじめたりすることに正当な理由をつけているのだが、しかしそういう理由を持っていること自体結託している証拠だ。
職場や学校スポーツクラブと言う場は公共の場であるのだから、みんながひとりの人間を疎外したりすることがあってはならない、むしろ多様性を認めていたらそうはならない。
しかしへたにくだらない小さな競争社会で生きていると自分を誇示することばかり考えてそのことが認められない、認められないから仲間を集めて小さな村社会を形成し自分たちとは違ったものを疎外しようとするのだが、こういう世界は特別ではなく小さな村社会ではよくあることである。

人間は誰でもディスアドヴァンテージがある。だからしょうむないことで仲間はずれにされたり疎外されたりする。今は自分がいじめたり人を仲間はずれにしていても、しかし状況がかわれば自分も同じ、そういう現実を知ったほうがいい。
私はこういういじめと言う問題は外に目を向けなければ解決しない問題だと思っている。
多様性を認めること、そのためには広く海外を意識する必要があるのだが、これからは東京オリンピックが開催されるのだから世界でおこっているたくさんのことに目をむけること、そしてその対立や迫害をもっと伝えていく必要はあると思う。
日本語では十人十色と言うがそんなものは規模が小さすぎる70億人70億色である。
日本語ではユニークと言う言葉が変わった奴と言う意味にうけとられているが、しかし英語ではあなた特有のと言う言葉であってそれは個性を意味するもの、しかしこの特有と言うのが日本人にとって風変りなのであろう。
個性と言うのは自分の言いたいことや好きなことを言うことではない、まずその他者との多様性を認めることからはじめるのが個性であって、考え方が違うとかあいつは変わっているというのを徹底的にはじく世界にはそういうものは見えてこないと思う。

昔おやじが言っていたのだが、それは仲良くしましょうという言葉に対してだ。
学校や職場のあらゆるところで日本人はこの言葉を使うが、しかしおやじはそんなことは大事なことではない仲良くしてもらわなくても尊重してもらいたい、権利を認めてほしいと言うようなことを言っていたがまさにその通りだ。
日本人は仲がよければいいと思いがちだが、しかし大事なのは個人を尊重し権利を認めること、はっきり言って人間は性格がそれぞれ違うのだからすべての人間と仲良くできるはずはないし、嫌いな人間もでてくるだろう。人を嫌ったりすることは個人の自由だ、権利をみとめた上でその人を嫌えばいいのだが、しかし小さな世界で生きている奴は嫌い=権利を認めない、いわゆる多様性を認めることができないからそういう稚拙な行動に出るのだと思うが、それはまったく間違っている。

人を認めると言うのは自分をその多様性の中におかなくては見えてこない。
言葉と言うのは一つではないし、民族と言うのも一つではない。アジア人のバイレイシャルは顔が同じだから同じだと言う奴がいるが、しかしそういうことを言っていること自体多様性を認めていない証拠、それぞれにはそれぞれの文化がある、住んでいる人間の顔が同じだからすべて同じだと考えないほうがいいがすべて同化しようとするのが日本人のわるいところだと思う。
在日韓国人は少し特殊な存在だ。世界でもめずらしく6世7世なんていうのもいて言葉も日本語を話す国籍以外は日本人とほぼ同じ、私のほうが韓国人ぽいだろう。
この前この問題に対して「在日韓国朝鮮人はこのまま行けば100世なんて言うのも出てくる、だから日本に帰化する必要ある。」と言っていた評論家がいたが、しかし私はどちらかと言うとこの考え方には賛成できない。
確かにシステムとしては矛盾しているが、しかし日本人の性質、多様性を認めない、すべてを同化しようとする島国根性に対してかなりの不安があるからだ。フランスの哲学者であり人権活動家のS ベーユはこの人間の集団性と個人を飲み込んでいこうとする集団性の持つ同化にに対して警告を発しているが、まさに同じもので集まると言うのはそういう危険をはらんでいる。
評論家は簡単に帰化しろと言うが、しかしこの国で帰化することはアメリカでアメリカ人として生きることとかなり違う。
アパ アイヤはイタイイタイという意味だが多様性を認めないで同化を求めるのといたいめにあうだろう。
帰化と言うのは私から見たらひとつの同化としか思えないのだがおそらくそういうことを強制する前に国家が多民族国家としての多様性を認めることが優先ではないかと思う。








  




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする