脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

MOBというところ 2

2008-02-29 | Weblog
今日は女性と中年の人たちが多かった。
MOBは女性や中年の人たちが多く、楽しんでもらえるボクシングクラブである。
だから練習法においても、雰囲気づくりにおいてもいろいろと気配りをしなければいけないと思っている。
女性や中年がボクシングをはじめると言うことは、ある意味勇気のいることである。
ボクシングというのは、男性特有のストイックな世界と思われているので、女性が行っても居場所があるのだろうか、あるいはこんな年齢で受け入れてもらえるのだろうかと不安に思うことと思う。
しかしMOBはストイックでもなければ、強さを誇示したり、強く見せようと虚栄を張る必要もない、サラリーマンや小学生から大学生と言った、オーディナリーピープルの集まる場所である。
ボクサーとか格闘家はとかくそういう風に見せようと努力するが、MOBはむしろ人間とは弱いものだと言い切る。そしてその弱い人間が弱さを認め、練習する中で支え合い、励まし合い、楽しんで練習してもらう中で何かをつかんでくれたらとおもっている。
確かにMOBは名門のジムのような、ピリピリした雰囲気がないので、本当に強くなろうと思ったものには少し物足りないかも知れない。
しかしほとんどの人が楽しみながらボクシングをしているという点では、誰でも気軽に入ってこれる敷居の低さではベスト1であると思っている。
そして会員には来てくれたことを感謝している。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニーチェ「アンチクリスト」を読んで

2008-02-27 | Weblog
ニーチェの「アンチクリスト」という本がある。
少し前これが現代訳でだされたのだが、たいへんおもしろい書物であった。
本の中で執拗にもキリスト教を批判する内容は、あまりにも一方的ではあったが、彼の言う人間の弱さ脆さが、正義に向かおうとするときの偽善というものがよくわかる書物である。
しかしニーチェの言葉は力強く、魅力的で論理的ではあるが、一貫した内容ではなく、筋は通ってはいない。
彼自身も牧師の家庭で育ったそうであるが、彼の表現はある意味彼の言うキリスト教の犠牲者でもあり、彼の言動はそれが原因でキリスト教を攻撃するルサンチマンでもある。
ニーチェが主張するしないにかかわらず人間には、ルサンチマンと言われるものの存在がある。
ルサンチマンとは「弱さ故のコンプレックス」という言い方をしても差し支えないと思うのであるが、そのコンプレックスが、宗教や社会活動に向かうと、時には大きな偽善を生み出し、おさまりのつかないヒステリックな正義は、やがてスケープゴートを生み出すというくだらない構造の中で一部の人間だけが満足する。
たぶんニーチェはそういうことを先読みしていたのであろう、彼の書物には、そこからくる人間の偽善とおろかさが繰り返し語られているのである。
ニーチェのいうようにキリスト教的なな集団は、この人間性の弱さを過剰に擁護するように思える。
「たった一人の○○」であるとか「そのままの君でいい」とか、やたら耳障りがよい言葉を選び、個人の問題ばかりを強調し、苦しいことにぶつかった時、戦うことが必要なのに戦うことを教えることはしない、そして人間の甘えに対しても「そのままの君がいい」「あなたが大事だ」などと言い、ことあるごとに病気を持ちだし擁護する。
しかし大切なのはそういう擁護された中で生きるのではなく、それに立ち向かうことだと思う。
イエスが生きた時代は、群衆がしいたげられていた時代であった(あくまでこれは現代の歴史に基づくが)。
しかしイエスはその時代の中で「そのままの君でいい」というようなあまったるい言葉を投げかけたのではなく、群衆にどんな時代にあっても、彼ら彼女らの言う信仰を守りぬき、ひたすら戦うことを教えたのではないだろうか。
人生というのは確かにしんどい、生きていくということは、苦しいことをさけては通れない、悲観的ではあるがそれが生きるということかもしれない。
しかし魚や他の動物が、食物連鎖などの運命に逆らって生きれないことに対して、人間はその運命とも言えるものにむかって、戦うことができる。
これはある意味人間が自由であると言うことでもある。
我々現代人はニーチェのように、ルサンチマンがどうのこうのという暇な時間はない、誰にもニーチェの言うようなコンプレックスはある。
しかしそうであっても我々はそれと戦い、克服する自由と力を持っているのではないだろうか。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Logical boxing

2008-02-26 | Weblog
この前練習生に「岡崎さんはボクシングをロジカルに考えているので、理解しやすい」と言われた。
今までならった人は「ああうてとかこううて」ということは言うらしいが、しかしボクシング特有の感覚的な動きについては「周りを見て覚えろ」とか「何回も練習しろ」ということにとどまるらしい。
確かにボクシング特有の感覚的な動きをロジカルにとらえ、それを説明しろと言われても難しいことである。
しかし日本のアマチュアボクシングは、その感覚を伝えるには乏しいかもしれない。
たとえばボクシングの専門書にしてもそうだ、ワンツーやフックをうつ時の説明があり、それをどのようにうつかという表現(たとえばフックをうつ時の足はたばこの火をもみけすようになど)は書かれているが、しかし往々にしてその表現を越えてロジカルに説明しようとはせず、たいてい書かれていることは同じで、違うとこと言えば挿絵が違うか、それが多いかである。
また日本という国は「目で見て覚えろ」とか「人のまねをして覚えろ」という言葉があるように、そういう師弟関係の中で技が伝えられて行った歴史がある。
しかし欧米はこれをもっとロジカルにとらえている。
確かに技を伝えるというのは感覚的ではあるが、それをロジカルにとらえるのが西洋だ。
さらにUSAはロジカルに加え組織的である。
おそらく感覚を伝えて行く上での言葉の限界と抽象化をさけるためであろうか、感覚的な一致をその方法論において具体的に実現させようとしている。
少し理屈っぽいことを言ったが、ボクシングはロジカルな面も必要である。
その自分がもっている感覚的な動きを考え表現しなければ、それをどう教え、練習するかということが見えてこないのではないだろうか。
私は練習生にある目的を持って練習させる時、必要であるならば、何のための練習か必ず説明を加え、頭で理解させてから練習させている。
人間は考える生き物である。
だからもし考えて練習するならば、上達もはやいのではないかと思っている。
よくコーチは自分のことを棚上げして選手に「考えろ」という、しかし大切なのは「考えろ」ではなく「考えさせる」ことである。
まさにこの「考えさせる」ということは、我々指導者がロジカルにボクシングを考えることができるからではないだろうか。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Sibi imperare est imperarum maximum.

2008-02-25 | Weblog
sibi imperare est imperarum maximum「自分を支配することは、支配のうちで最大のものである」
これは自分が好きなラテン語のことわざである。
確かにボクシングではすべてのことにおいて自分を支配するということは、大事なことであり、このことができないものは競技者としては一流とは言えない。
映画グラディエイターという映画があった。
ローマ時代の話ではあるが、おおまかな内容は次期皇帝をめぐって、二人の男があらそう、皇帝は部下に信頼があつく、勇敢であった男を後継者としてむかえいれようとするのだが、しかしその息子かおいかが、彼をわなにおとしいれて彼を失脚させ彼の妻子を殺してしまう。
妻子を殺された男は、奴隷にまで身を落としていまうのだが、しかし当時コロッセウムで行われていた戦いに参加し、その戦いで皇帝を殺すチャンスをつかみ、みごとリベンジをはたすという映画である。
その映画のシーンの中で皇帝と奴隷である男が再会するシーンがある。
その時皇帝は奴隷がかつて自分が後継者争いをした男だと気づくのであるが、皇帝は彼にまだ復讐の気持ちがあるのかということを知るために、彼の名を聞き、彼を問いただす。
そしてあげくのはてには妻子のことをからかい、彼を怒らせ殺そうとするのであるが、しかし彼はそれでも自分を押さえ冷静さをよそおい、その場を切り抜けるのである。
ボクシングの試合で、大事なのはどれだけ自分が冷静でいられるかということである。
自分を制御することは難しいことであるかもしれない、しかしこの自分を制御し、支配することが勝負事において大事なことである。
ボクシングはコロッセウムのような殺し合いではない、しかし戦うスポーツである限り、あせり、葛藤、動揺という心のリズムが問題となる。
だからこの心のリズムを安定させる練習法というのもボクシングには必要であり、この心を支配することによって、我々は自分が思っている以上の力を出し切り、チャンスをものにする確立をあげていくことができるのではないだろうか。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめにリズムありき

2008-02-22 | Weblog
パンチをよけるときによくパンチを見ろと言う。
しかしパンチというのは、レイコンマ何秒の世界であるのだから、そんなもの見えるはずがない、だからもしよけるという意味でつかうならば、パンチのとんでくる感覚をつかめというのが正しいのではないだろうか。
そんなことどうでもいいだろうと思う人もいるが、しかしこの感覚をつかむということは非常に大事なことである。
パンチというのは見ようとしても見えるはずはない、レベルの高い試合になると1秒間に何発も、しかも正確にとんでくるのであるから、それを見てよけるというのは無理だ。
ほとんどの人はそういう世界を見ると、あの人達はどういう世界で試合をしているのだろうか、凡人の自分にはとてもあれだけのレベルに到達することは無理だと思うが、しかしさっきも言ったように、感覚をつかむということが大事なことで、高いレベルの試合はこういった感覚が優れているのだ。
じゃあ感覚をつかむというのはどういうことだろうか。
おおざっぱに言えば慣れるということだ、そして慣れるために何をするか、それは自分のリズムをつくってボクシングをするということ、そしてじつにこのことはボクシングに於いてたいへん重要なことであると思っている。
たいていのボクシングクラブでは、練習中に音楽を流しながら練習していると思うがこれは、リズムをつくるためである。
ボクシングというのはリズムが大事である。試合運びというのは自分のリズムをつくり、あいてのリズムをくずすと言っても過言ではないが、そのリズムがしっかりしていればたいていの試合は支配できる。
しかしここでいうリズムというのは単なる音楽的なものではない。
自分のいうリズムというのは、距離を考えた攻撃パターンであり、この攻撃パターンに持って行くために、距離を考え、前後の動きや、横に動きながらコンビネーションを練習をすること、そういう積み重ねが自分のリズムをつくり、試合に於いて有利な攻撃をしかけることができると思っている。
話は逆説的になるが、さっきパンチをよけるのは感覚だと言ったが、もしこのように自分のリズムをしっかりもっていれば、パンチなんてあたらない、あてることはできないのだ。
大事なのはその試合で自分のリズムをつくるということである。
もしあいてのリズムに合わせてしまえば、どんなに練習をつんでいても相手のうつパンチの感覚についていけずよけることはできない、しかし自分のリズムをつくり、あいてのリズムを崩すことができれば試合はほぼ勝ったも当然である。
最後にラテン系の人間はよくバランスとかリズムということばを口にする。
そしてスパーリングなどでも、そのバランスやリズムがくるいパンチがあたると日本人のように必死でうちかえすのではなく、彼ら彼女らはまずそれをたてなおおそうという傾向がある。
アメリカと日本はボクシングの歴史に於いて100年以上の差がある。
アメリカのボクシングは黒人とヒスパニックがリードしているが、日本はまだまだボクシングに於いて学ぶことが多い。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハワイでの試合

2008-02-21 | Weblog
HIでの初戦は元バンタム級の州のチャンピオンであった。
バンタム級の」減量はしんどいのでフェザー級にあげての出場であった。
試合の全体の内容はあまりはっきり覚えていないが、しかし自分が1R目にダウンをとられカウントをとられたことは覚えている。
結局判定まで試合はもつれこみ、ダウンはとられたもののポイント差では有効であった自分が判定を治めたが、正直言って負けたと思った。
ダウンをとられると言うことは、試合をはこんでいくうえでたいへんいたいマイナスポイントである。
当時アマチュアボクシングは、ダウンも1ポイントであるというようなことを言っていたが、それでも今のようにルールが徹底したわけでもなく、ダウンを大きなマイナスポイントと見る傾向があったことは確かである。
ましてやここはアウエイおまけに自分は真珠湾を攻撃した国の人間、これは絶対に自分の勝ちはないと思っていた。
しかし意外にもジャッジは3人とも自分を有効打で勝ちにしていたのだ。
試合場はkamakaze(アメリカ人は発音できないのでこういう)コールが響き、大きな歓声と拍手が鳴り響いていた。
確かにボクシングの試合に於いて、未熟な判定の結果納得できないような判定や、ホームタウンデジジョンくさいような判定もある。
しかし審判やジャッジが、ルールを熟知し、プライドと公平さをもってさばくのであれば、それはどんな試合であっても名勝負になるのではないだろうか。
まさにこの試合は名審判と名ジャッジたちがさばいた試合の結果であったことは間違いない。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

審判は難しい

2008-02-20 | Weblog
同盟ジムにはジム内ランキングというものが存在する。
選手のモチベーションが高まるので、この企画をパクろう思ったが、自分がアマチュアルールを熟知していないことと、審判などの経験がないのでこういったことは自分にはできないことだと判断しパクらなかった。
その点同盟の代表者はアマチュアルールを熟知し、審判の経験も豊富である。
私は彼を昔からよく知る人間であるが、彼ほど審判に適した人物はいないであろう。
昔から彼はどんな時も客観的な意見を持ち、自分の基準というのをもっていた。
時にはドライに見えるようなこともあったが、彼はその基準に従って発言し、行動していたことは確かなことであり、今彼はその性格を生かして審判をやっている。
もちろん審判という彼の基準は熟知したアマチュアボクシングの知識と経験から来るものであり、今もなお彼はボクシングを学び続けている。
意外にも我々はボクシングについて何も知らない、私などは審判イコール不公平と見なし、awayでは圧倒的にに攻めなければ勝てないなどという偏見を持っていたし、重量級で出場する選手の階級の体重がわからず、調べさせたことがあるが、スポーツに於いて大切なのは、偏見や自分の感じることでものごとを判断することではなく、きちんとルールを知り、アマチュアボクシングを知ると言うことではないだろうか。おおげさかもしれないがルールを知らず、偏見というものにとらわれれば、そこから自分のボクシングというものが崩れてくる。
だからある意味ルールを熟知し、経験のある将がいるならば心強い。
ルールというのは英語では「規則」という意味合いが強いが、動詞型では「支配する」ということである。
だからまさにルールを知ると言うことは、そのスポーツを支配するということであり、特に監督や指導者は、そのことをよく知っておかなくてはならないのだ(自分も大いに反省)。
今回のスパ体だが、「審判は厳しいよ、その点においてはそんじょそこらの地方大会よりは勉強になる」と言っている。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

to be or not to be, thats the question.

2008-02-18 | Weblog
サルトルの代表作で「存在と無」というのがある。
簡単に言えば、存在というのは「ある」ということで無と言うのは「ない」ということ、そしてこのあるということと、ないということを同時に考えられるのが人間であるとサルトルは言う。 
例えば花の存在ということを考えてみれば、花はあるかないかと言うことで終わってしまうが、しかし人間の場合、ある人が臆病だと考えれば、勇気がないと考え、勇敢であろうとする。これが人間のあり方であるとサルトルは言う。
このサルトルの考えは進歩イコール文明社会と結びつき、後に構造主義によって批判の対象となるが、しかし彼の言うことは、人間を進歩させる上では非常に大事なことである。
ボクシングを始めると言うことは、ある意味サルトル的である。
恐らく多くの人は、ボクシングという競技に対して何かを期待して入門したのではないかと思う。
私はよくなぜボクシングかなのかということを考えるが、やはり自分にないものを感じ、そして本当に何かをつかみたいと思ったから、ボクシングをはじめたのではないだろうか。
「存在と無」は「ある」か「ない」かということを知ることが、人間であるということを理解するためだけに書かれたものではない。
おそらく人間が何かに行き当たった時、その存在と無というのを知り、そしてそれを乗り越え何者であろうかとすることが大事であるということを、我々に教えてるのではないだろうか。
ボクシングはシビアなスポーツである。個人競技なのでやったことがすべて自分に返ってくるスポーツであり、時には自分は才能がないんじゃないか、やっても無駄じゃないかと思う事さえある。
しかしそんな時こそ自分の「無」を知り、その無を乗り越え、何者かであろうと努力することが大事なのである。
ボクシングは人間学であると同時に哲学でもある。そのやり方次第で自分を高めて行くことができる、そんなボクシングを目指して欲しい。
余談であるが私のかなり親しい友人はフランス人である。
彼とつきあってわかることは、フランス人というのは、非常に人間の価値を高めようとする民族であるかもしれないということである。
フランス人はプライドが高いと言われるが、たぶんそのプライドの高さというのは、ここから来ているのではないかと思う。
デカプリオの「ビーチ」という映画があった。
これはあるアジアの秘密の島に若い人たちが集まり、そこで共同生活をしていくという物語であるが、ある時一人の男がサメに食われかけて重傷を負ってしまう。
最初はみんなで看病しいたわっていたのだが、秘密の島で人に知れるとまずいので、病院に連れて行くことができず、やがて苦しみもだえる人間を周りは疎んじ、たまりかねてコミュニティーの外へ放り出してしまうのだ。
しかしこの人間が放り出された時「俺はけだものじゃない」と最後まで付き添った人間がいる。それがフランス人の男だったのだ。
この「ビーチ」という映画はつまらないと思った映画である。しかしある意味するどい人間観察によってとらえられた映画でもある。
はっきり言っておくが、私はフランスかぶれでもなければ、フランス語もはなせない、ましてやフランスにも行ったこともない、ただ親しい友人がいるというだけである。
しかし彼らの生き方から、時々そういう哲学が見え隠れする。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サル学と人間社会

2008-02-15 | Weblog
日本が世界をリードする学問としてサル学というのがある。
これは今西錦司という人が提唱した学問であるが、この今西氏が言った言葉でたいへんおもしろい言葉がある。
それはサルは「餌付け」をすると非常にだらしなくなると言う言葉である。
「餌付け」というのは人間がサルを観察するための一つの手段である。
ところがこの「餌付け」を人間がすることによって、サルたちは獲物を確保することをせず、サルどうしの関係をでたらめにさせるという。
朝起きれず昼間で寝ていたり、ノイローゼになるサルまででる始末だと言っているが、つまりこの「餌付け」によってサル社会にあったあるはっきりした「規律」というものが壊れてしまって、バラバラになっていくそういう状態が生まれる。
サル社会は人間社会に近づくと道徳的にだめになっていくというのが、彼の意見である。
よくもまあサルごときで、ここまでとおおげさに思うかも知れない。
私などは最初これを読んだ時、初めてサルの惑星(サルが人間を支配する映画)を見た時のような不快感を覚えたものだが、よくよく考えてみれば彼の言うことも一理あるかも知れない。(よくコンビニなどで明らかにそれらしきのが、他人の迷惑も顧みずわいわいがやがやとたむろし、ゴミをまき散らして帰るが、こういったのは輩は親のすねかじりが多い)。
しかしあくまでこれは彼がそのダーウィニズムという中で自然をとらえ、生態系というものを考えた上での意見である。
私は人間がサルから進化したなどと決して思っていない。
ましてやサルのような生き方が尊いとは信じがたいことである。
パスカルは「人間は考える葦である」と言った。これは人間が自然から見てどんなにもろく弱くても、人間はその自然について学び、知る知恵がある。その点ですべての自然より勝っているのだということであるが、我々はサルではない人間である。
我々の「規律」や「道徳」はサルのように自然に生じたものでもなければ、ただ生きるための法則のようなものでもない、人間には考える力がある。その考える力によって「規律」や「道徳」というものを定め守っていくそれが人間の社会である。
そしてその人間の社会をかたち造って行くのが「教育」の力である。
その教育によって人間の社会はよくもなり、わるくもなるのである。
少し前ある田舎の町長が町を改革するために教育費を削減したらしい、その町には学校にストーブがないそうであるが、しかし町には立派な娯楽施設が建てられ、カラオケ大会などの行事が盛んに行われる。
しかし小泉が米100俵の精神を掲げたが、まさに子どもに本当に学べるという環境を与えることが今の政治家の課題ではないだろうか。
話は飛ぶが学べる環境というのは、けっして施設や学校をどうすると言った組織的なことだけではない、そうなると結局スケープゴートさがしになるので無駄であるように思える。
まず「教育」は学校の教師や専門家だけがするものではないということを自覚し、ひとりひとりの大人が子どもに対して、自分の行動や言動が子どもにどういう影響を与えるかと言うこと、少なくともコモンセンスをもち、家庭でも社会でも責任を持って子どもに接しなければならないのではないだろうか。
こんなことを言えばお前はどれだけ立派なんだと言われるかも知れない、しかし今当たり前のことが通らず、コモンセンスがなりたたない世の中になってきているのは事実である。
人間はサルではない、しかし教育の仕方、受け方によって彼の言うような腐敗した社会にもなるのだと思う。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際交流

2008-02-14 | Weblog
昔フィリピン人だかタイ人かは忘れたが、食事に招かれたことがある。
そしてそこで卵がでてきたのだが、それが孵化しかかったにわとりの卵で、のこしては失礼であると無理をして食べたことがある。
食文化というが、その卵も彼ら彼女らの文化であり、その国の人はよく食べるという。
これは私の経験であるが、人と人とのつきあいに於いて、ある程度その人のことを知りたいと思ったら食事に誘い、そして文化が違う国同志であれば、自分の国の料理をだしもてなそうとする、この時重要なのがその料理をいかにおいしく食べるかであり、その料理をおいしく、食べれば気に入られることは間違いないと思う。
しかし時には、その国の習慣や文化によって、思いがけないものが出てくることもある。
私も孵化しかかった卵をだされた時は顔がひきつったが、それでも「あかんかったらはいたらええわい」と気合いをいれて食べたが、しかしその卵を食べた自分を歓迎してくれたことは事実である。
今国際社会ということが言われているが、私から言わせれば国際交流のキーワードは「気合い」である。
少し大げさかも知れないが他国との交流をはかり、相手と親密に交流すればするほど未知のものにであうことが多い。
そしてそれは以外にも食文化にあらわれ、大切なのはそれを自分たちがどれだけそれを受け入れるかということである。
実はこの点に関して大陸の人間は敏感である。
日本の人間が島国で他の交流がなかったのに対し、大陸では常に他国に人間と出会うことが多かった。
当然そこに行けば同じ食べ物を食べるだろうし、おおげさかもしれないが、それを食べなければ相手を怒らせ、殺されてしまうかも知れない、おそらくそういう遺伝子が残っているのだろうか、彼ら彼女らはアレルギーや宗教的な理由をのぞいては、極力そのホームディッシュを食べようとする。
実は相手を尊重というするということは、こういうことかもしれない、ただ何人のどこが素晴らしいと他国の人間を褒め殺し、日本人はだめだと言っていても交流は進まない、ある意味相手の文化に自分から入って行き、それを受け入れるかたちでなければ交流は成り立たないのではないだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする