脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

君は10年後の自分を信じれるか?

2021-11-25 | Weblog
よく自分の得意なことを見つけろとか、得意なことで勝負しろとかいうけれども、でも実際取り柄のない人間だっている。それにはっきりいって得意なことなんて人と比較したらそれは得意でないことだってある、というか大半がそうであろう。世の中ではたまたまそういう才能があるものを取り上げてやればできるとか言っているが、できない人間よりもできる一部の人間を例をあげて、得意なことをみつけろとかやりたいことをさがせとか言うのはいささか無責任でそれは詭弁である。

アドラーは「劣っていることは資産である」と著書"What life should mean to you(人生の意味の心理学 )”の中で言っているが、この言葉は非常に興味深い言葉である。人にはそれぞれ劣った部分がある。でもその劣った部分に目を向けて、そこから克服しようとする力が人間を大きく成長させると言うことである。以前、自分はコミニケーション能力がひくくて人とうまくやっていくことができない、たぶん発達障害ではないかと言う大学生に相談された時に、私はこう彼に伝えた。「君は自分の10年後を信じれるか?」「えっ」と言う彼に続けて「アドラーは劣っている部分は資産であると言ったが、今君が与えられた劣った部分はまさに自分が乗り越えて行かなくてはならない君への課題であって、それを乗り越えようと頑張った先に君の未来があるんじゃないのか。むしろ何のハンデもなく平々凡々と生きていく人たちよりも君は悩み、考えて、そのハンデを克服しようとするだろう、けれどもそういう努力が君を大きく成長させる、どうしてもだめだったらまた考えたらいい、でも君はまだ若い、それよりも今与えられているハンデは君を成長させるメッセージであると考えて努力することも大事だろう。アドラーは劣った部分は資産であると言っているがまさに俺が言ったそのことだ、がんばれと言う言葉は適切ではないが、俺が言えるとしたら10年後の自分を信じることだろう。」そういうと彼はありがとうございますとお礼を言ってくれたが、現在は自分の夢をかなえるために大学で勉強し、自分のハンデと向き合って力強く生きている。

実は私自身もできないことは極端にできない、未だにパソコンは指ひとつでうつ、軽度であるが特有のハンデがあって、人よりも劣った部分はあることは確かである。私のことを知っている人間にそのことを言うとほぼ全員がいやむしろ人よりもアドバンテージがたくさんあるし、外国人でも語学をつかってコミュニケーションがとれるので、コミュニケーション能力だって極めて高いと言うが、しかし以前はまったくそうではない。これじゃあだめだとそれと向き合って生きて来たからコミニケーション能力が高くなったことは確かなことで、以前の私は人とうまくコミュニケーションをとるのも仲良くなるには特有の性格とかが邪魔をしてうまくいかない。だから仲良くするのではなく人をどう扱うかと言うことを問題にして人とかかわる、そのためには共通語である英語を話す、学生の時哲学や宗教学、時には心理学の本を人の倍以上読んで勉強したことは確かなことで、そのことが今のコミュニケーション能力を培ってきた。その経験がジムのコミュニティづくりに生かせている。人には劣った部分は必ずある。けれどもそのことを認めてそれを克服しようとするならば、それは自分にとっての試練や訓練になり、そしてその試練や訓練が自分の大きな成長につながり、それはやがて希望となることを信じたいと思う。

Reference  Alfred Adler  "What life should mean to you" Alfred Adler 





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人間らしいコミュニティを目指す

2021-11-13 | Weblog
うちのクラブでは裸でトレーニングすることをかたく禁じているが、その理由は不快に思う人がいるということと汗が飛び散ってまわりに迷惑がかかるからだ。たぶん中には私は気にしないからそれぐらいいいじゃないかと思う人もいるだろう。しかし自分は気にしなくてもそういうマナーが欠ける行為は一人でも不快な人がいる限り禁止するのがうちのクラブの方針である。
ロビン・ディアンジェロは著書「ホワイトフラジリティ」の中でレイシズムは個人主義や実力主義と言うイディオロギー、メディアによって繰り返される非白人に対する狭い視点、学校や地域社会における人種的隔離、人種差別的なジョーク、警告、人種についてオープンに話すことのタブー化、白人同士の結束といったことがその社会的な力になってその中で起こる問題だと言っている。レイシズムは「自分は差別しない」「俺は平等にあつかっている」と言う個人化された問題ではなくて構造主義的な理解をすることが必要なのだろうということであるが、まさに「俺は」「自分は」と言う個人を重視して、コミュニティをとらえ運営すると、そこには人種差別のような不平等が生じると言うことである。たかだか裸でトレーニングするぐらいと思う人もいるだろうが、それをする人間はまわりのことをどう思って行動しているのかわからないが、汗が飛び散るし、痴漢やレイプなどにあった女性は威圧感を感じるであろう。かなり話はおおげさのように聞こえるが、しかし公共の場で女性や社会人が集まる場では管理者はそこまで想像力を働かせて、考えて運営しなくてはいけないと思っている。こういう世界はめだちたがり屋が多く、俺は強い、俺はえらいと言うことを強調したがるアホがいる。世の中ではたいした実績を語れないので、武勇伝ややんちゃ話、自分よりも力の劣る人間にかかってこい的なマスをして力を見せつける。こういう人間がでかいことを言えば言うほどみじめなだけ、ユダヤにからのツボほど大きな音がすると言うことわざがあるが、まさにそうだ。管理者がアホでコミュニティがでたらめだと、こういうアホが集まって来て群れの中心になりサル山のようなヒエラルキーができると言うのが私の意見だ。ここではカーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくのは暴力だし、よくある生意気だと思われる人間をスパーでボコボコにしたりするのはいじめである。私はこういうことがおこらないようにしっかりと管理し暴力を徹底排除しているが、それはコミュニティにサルのようなヒエラルキーが生れないためである。こういうヒエラルキーが出来上がると不平等が生じる。力の強いものが優先的にリングを使い、ミットを持ってもらって、自分たちは自由にやらせてもらっているとのたまう一方で、ミットをろくにもってもらえない、実戦練習をしたかったら競技者のいない時間に行くと言う人たちが存在するのは、一般的に考えて不平等だ。しかしそういうことも力の強い連中が平等で楽しくやらせてもらっていると言ったらジムは平等になるのだろうが、そういうことであるから立場の弱い人間はもはやそういうことに慣れてしまってそれが当たり前のように思っている。ジムではそういうヒエラルキーを絶対につくらない、たかだかボクシングができるぐらいでいばらせないこれが私のポリシーである。

いい年をしてみっともないと思うのは、俺はこう思う的な考え方でそういう話しの仕方しかできない人間、話の内容が客観性にかける人間だ。こういう奴は若い時に頭を耕してこなかったので、キャパが小さいので決めつけるような言い方をする、自分が答えられない質問や反論などしようものなら語気を荒げて勢いで相手を押さえつけようとする。こういうスポーツ指導者は少なくはないと思う。

参考文献「ホワイトフラジリティ」ロビン・ディアンジェロ
    「ユダヤ格言集」M トケイヤー
    


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Let's study Latin.

2021-11-07 | Weblog
私は学生時代ラテン語の勉強をしたことがある。ラテン語はローマが当時世界を支配していた時に使われていた言葉で、現在はバチカンでのみ使われている言葉である。格変化がめちゃめちゃあるので習得するにはかなり時間がかかる言語、毎週水曜日だったかその日の授業で行われる格変化の小テストは私にとってかなりきつい思い出である。今日はラテン語の格言から。

Alter ipse amicus.(友はもう一人の自分である)
これは日本語で言うところの類は友を呼ぶである。ジムでもそうだがその責任者のまわりにどういう人間が集まってくるかということはそのコミュニティの質を問う意味では重要なことである。責任者が言葉を知らない、狭い世界で生きているアホだと集まってくる人間の質もひくくて、見た目はまさに半グレの集団、非常に下品である。そしてその質を問うのはその管理者の言葉だ。あいさつは基本だとか礼儀とか言う前にきちんと言葉をおぼえて正しい言葉を使う、正しい日本語、知的な言葉を使っていたらその群れは自ずと健全で礼儀正しくなると言うのが私の意見だ。いくらあいさつとか礼儀とかいってもそれらは単に力関係から生まれるもので、結果的にはサル山のようなヒエラルキーができて、不平等が生じる。私個人の意見ではスポーツでも何でもコミュニティをよくするためには言葉を学ぶ、知的要素は不可欠である。

Dum spiro, spero(息のある限り希望はある)
ラテン語は動詞の中にすでに人称が表現されているが、spiro, speroも同じ一人称、私は息のある限り希望を持つ、すなわち生きる限り私は希望を持つと言うことである。希望は苦難や困難の中でこそ、我々の生き方に大きな意味を与えるものだ。そしてそれが実現に至る時、人間は大きく成長するものである。聖書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生む」と書かれているが、我々には避けては通れない運命が存在する。でもその運命は我々を成長させるものだ。希望とは単に絵にかいた餅ではない、苦難の時にこそ我々が目指すべきゴールであり、そのゴールは我々を成長に導くものであると思う。希望を持つことができるのは人間だけであり、そしてそれは人間であるあかしであると思う。

Carpe diem
これは私の監督が言っていたことで、私の好きな言葉のひとつ、ラテン語の詩人ホラティウスの詩の一文だが、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。前にクラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言ったが、失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。私自身自分の実績を振り返ってそれこそ人に大ぶろしきを広げるようなものではなかったし、それをまわりにバラベラと針小棒大に語ってアドバンテージをとろうと思わない。でも自分の競技人生を振り返るとそれはすごく楽しくてかけがえのないものであったと言える。そう考えたら自分は一生懸命そこで頑張って生きたと言えるのではないかと思っている。よく言っていることだがアレンの家で昔の動画を見た時、試合がおわってジウンに何かを話しかけている時の顔は本当にいい顔だった、あの日あの時にしかできない顔である。失敗するとか、恥をかくとかそういうことにこだわっていたら精一杯生きれないし、人生を楽しめないだろう。人生を充実したものにさせるのは才能や実績ではなく生き方の問題だと思っている。

参考文献「ギリシャ、ローマ名言集」柳沼 重剛 



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人間らしい覚悟

2021-11-06 | Weblog
韓国人はキリスト教徒が多い、時々彼らまたは彼女らと議論になるのだが、この前議論になった時にこう言った。「そもそも君らは時代錯誤だ、今何世紀かわかるか21世紀だ、それなのにtrinityでなければイエスと神の関係を証明できないとか、なんで神の子がvirginマリアから生まれなくてはならないのか?キリスト教の考え方は宗教改革からぬけだせていない。そもそも1500年代の宗教改革の人間なんてインターネットどころか電話もなかった時代だ、そういう時代の人間と我々を比べたら情報量が違うし、世界観も違う、我々は情報量がほとんどなく迷信を信じていた中世の人間たちとは違う。科学や心理学などが発達した時代に生きているのだ、そういう今の情報時代を生きている人間が宗教改革の時代のレベルで物事を考えて信じろなんて言うこと自体おかしなことだ。」と、人間が主体的に生きることは大事なことだ、考え抜いてそこに導かれるのは正しい選択だろうが、しかし何も考えず付和雷同に宗教を信じるのは危険なことで、それは自爆テロなどが物語っている。ハイデガーは人間の存在を時間もって解釈する。人間だけがここに存在していると言うことを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在だと言うことである。ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけたが、ザインというのは存在そのものでザインデスは存在者と言う意味である。ウサギや犬は時間の感覚を持たないのはただそこに存在しているからだ、しかし人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ちそれをどう生かすは人間次第であるということが言える。彼はその著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。しかし人間の時間には限りがあるゆえに人間は死に向かう存在である。その死を受け入れつつ自分の可能性に向かって生きるのが人間がその時間の中に存在すると言う意義ではないかと解釈している。ここからは私の解釈であるが人間が時間の無駄と感じるのは自分の時間には限りがあり自分がその死に向かって生きると言うことを知っているからである。そう考えればもっともっと積極的に正しくその時間を有効に使おうとするのではないかと思っている。時間と言うのは平等に与えられる。そしてそれを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、しかし我々はその与えられた時間時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。私に流れる時間は無限ではなく限りがある。その限られた時間の中で精一杯生きることは人間らしい挑戦である。

参考文献「存在と時間」ハイデガー



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