脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

금 남  クムナム

2016-09-28 | Weblog

自慢ではないが私はかなりの量の本を読む読むジャンルは哲学とか社会学そして心理学などであるが小説はほとんど読まない。たぶん私が小説を読まないのは小説を理解するセンスがないからだと思っている。本と言うのは理解するにはある程度センスが必要だ。特に何とか学と言うジャンルはそういうセンスがなければでたらめな解釈になる。じゃあセンスってなんだと言うと単純に言えばまずそのセンスを養うためには基礎知識が必要だということだ。欧米の大学はリベラルアーツをしっかりと勉強する。リベラルアーツと言うのは日本で言うところの一般教養、しかしそれらは日本のようにただ単位を取ると言うような過程ではなく、その一般教養を徹底的に勉強して基礎をしっかりと固めてから専門の勉強をする。当たり前だが大学の勉強は中学や高校で勉強するのとはわけが違う、そのため基礎知識と言うのが必要だからだ。理系の人間は基礎ができていないと目的に到達できないのである程度基礎がしっかりしているが、しかし文系は哲学や心理学そして社会学などの一般教養をしっかりと学んでいなくてもそれなりに授業にはついていけるので、卒業しても何が専門なのかよくわからないという人間もざらにいると思う。前に某大学の国際教養学科だかわすれたが、学生が授業について行けない教授の言っていることがわからないと言っていた。何がわからないんだと聞くとただ言っていることが難しいという。しかし話していてわかったことはそれを理解するための基礎がないということ。少しある事柄をわかりやすく説明したつもりだが、ところどころに出てくる用語がわからない参考文献が難しそうだと言う。その学校では最近の傾向に合わせて難しい内容の授業をしているそうだが、しかし学生のレベルと基礎を無視してそんな難しいレクチャーをしても本当に力になっているのかは疑問だ。全体的に学生の質をあげたかったらコミニティカレッジなどをつくったりして、レベラルアーツをもっとしっかりさせる必要はあるだろう。

 금 남(クムナム)は夢の木と言う意味である。これは若い人特に子供に対して使われる言葉で私の好きな言葉のひとつでもある。よくクラブなどで夢を持てという。そして程度のひくいクラブにありきたりなのがサクセスストーリーや成功者の話をすること、そしてひどい奴になるといかに自分は努力して勝利したかということを自慢げに語るがたいていは話を大きくしているだけ。言いたいことはお前らも死に物狂いで努力しろと言うことであるが、しかしこれではあまりにも稚拙で抽象的、ボクサーとか格闘家になるのだったらまだしもこういう稚拙な群れは決して教育的ではない。そういう方向に進むものはまずいないのだから、もっと子供や若い人の将来や成長を考えてその群れは有機的でなければいけないということである。

夢とか自分がよりよく生きていくためには、そういうせまい集団の中で稚拙な人間の話を聞いて刺激をうけることではない。私は夢を実現させたり人間がよりよく生きるためには、まず自分をどういう環境におくかが重要だと思う。うちのクラブはアドラー的だと言ったがコミュニティと言うのはどういう人間によって形成されているかが重要である。すなわちどういう群れにつながるかによって人間はそこから影響や刺激をうける。所謂人間が夢を実現させたりよりよく生きるためには、その群れの質が問われるということだ。それしかできないような人間の負け惜しみや遠吠えから一体何がうまれてくるのだ。うちのクラブではアウトローややんちゃですをお断りしているのは、こういう人間が何人か集まると同じような人間が集まるからで、こういう人間たちが集まる群れには本当の意味での刺激や成長はない、まさに悪貨は良貨を駆逐するからだ。しかしまともな人間が集まる群れは有機的である。お互いがその存在を通して影響をうけ刺激し合う。若い人などは時にははじをかいたりすることもあるけども、そういう中でこそ自分を高める努力する力がうまれ、人間は成長するのではないかと思う。サクセスストーリーや自慢話は人間の見栄を助長させるだけで、決してそれは教育的ではないと思う。よくクラブなどで人間教育なんて言っている人間がいるが、しかしあいさつさせたり、目上の人間に服従することが礼儀や常識だなんて思っているような人間が何を教えるのだろうか。指導者によっては敬語どころかまともに日本語も話せないのもいる。まず自分がある程度正しい日本語を取得してから偉そうに言えと思うのだが、まわりの人間がそれなりのレベルなら自分の日本語が稚拙かどうかと言うことさえもわからない、アウトローややんちゃですが集まるとそういう集団になってしまう。やはりコミュニティに求められるのは質であり、その質は責任者の言葉にかかったいると思う。


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親玉がApe

2016-09-28 | Weblog

中国のことわざに「サルの王様」という話しがある。あるサルの王国に立派と言われるサルの王様がいた。ある夜のこと、このサルの王様が井戸の中をなにげなく見ているとその深い井戸の中に月が映っている。彼らはそれを見て月が井戸におちたと思い、王様はあわてふためく。なんとかして月を井戸から出さなければ世の中が大騒ぎになる。そこで大勢の家来に月を救出するように命じたのだがなんせそこは深い井戸大勢の家来が尻尾をつかみあって何とか井戸の月が届こうとするところまでいったのだが、しかしその中の一人がバランスを崩してしまい、全員おぼれしんでしまったという話しである。
この話しは韓国人や中国人なら結構知っている話しであるが、この話しが意図していることはサルがいくらあつまって知恵を出し合ってもサルはサル、つまりバカがいくら集まっても所詮バカの集まりだと言うことで、このことわざはバ集団で固まることを揶揄したことわざである。軍団と言うのは、人間の創造の意志をたいかさせるものである。以前ある先生が講演会で幅の広い年齢層にどういう話しをすればいいのかという問いに対して、小学4年生ぐらいのレヴェルで話すようにすれば分かりやすく話せると言ったが、まさに軍団で集まると言うことはそれに等しい。そういう軍団が集まると幼稚なことで盛り上がったりする。人間はもともと集まればそうなる傾向があると思っているが、そう言う軍団の中で偉そうにしている奴を見ると「サルの王様」の話しを思いだすのだが、知性にかけた集団が固まると、必ずいばる奴がでてくると言うのが私の持論であるが次に書くことは私がダメだと思う集団の特徴である。

「指導者が非常識」

これは常識レヴェルで物事を理解しているかということ。時々スポーツの世界は狭い価値観や知識だけでとんでもないことを言うバカがいる。当たり前だが漫画や三流ゴシップ雑誌しか読まないような奴はだめ。子供や青少年に何かを教える人間には、最低限の教養と常識を求めるのは私だけだろうか。ボクシングやスポーツのことで同じようなことをさも立派に言えても、それは誰かの言葉をおうむ返しに言っているようにしかすぎず、時事問題や教育的なことはよくわかっていないので、そういうことになるとわけのわからない持論しか語れない。
そういう奴に限って漫画やバラエティ番組をみることが子供や人の心をつかむことだと勘違いしているが、しかしそれはおのれの頭のレヴェルがひくいだけの話。
あいさつと言っても敬語がただしくつかえない、子供のボクシングについて何が危険で何が大丈夫なのかと言われても、明確な答えがだせないようではだめだ。たぶんこういう奴は自分の話を聞かない人間や、自分とは違う考え方を認めることができないので、そこでおこってくるいじめや悩みや葛藤など話しても無駄、その集団あるいは仲良しクラブに順応してステレオタイプになればいいのだが、しかしまともなものさしではかれば話にならない、非常に稚拙な集団ともいえるだろう。私が言いたいことはこの情報社会の時代特に我々のようないろいろな人が集まるクラブは指導者が教養がなければ非常識ともとられることもあるということである。

「独特の精神論を持っている。」

聞いていたらわかるが、こういうことを言う奴はだいたい自分の自慢話から語る。
俺は俺はと自分を強調し、感動的だと思っているのか、漫画のような言葉を並びつらねて、スポーツを最後までやることがいかに素晴らしくと尊い事かと言うことを説くしかし中身はない。

「語学に疎い」

これは21世紀には重要な事柄だと思う。
最低でもバイリンガルだ。特に英語は国際語だ、英語が話せないならまだしも、語学の話にさえついていけない奴がいるが、もっと語学に興味を持って学習する必要がある。最低でもなぜ語学が必要なのかということがわかれば、多少は勉強するはずだ。
21世紀は語学が重要だと言うことを理解し、興味を持たなくてはだめだ。取り巻きをつくるにしても同じようなレヴェルでしか話せない奴を集めるよりも英語が話せるとかせめて韓国語が話せるぐらいの人間を集めてみたらどうだろうか。

「バカを個性やユーモアだと勘違いしている。」

ガーロットは論文「ユーモア」の中で、小説家サッカレーのユーモアの定義についてこう語っている「ユーモアがただ笑いを意味したならば別に興味はないし、イギリス的であるとも言えないが、ユーモア作家の職とするところはあなたの愛や憐れみ、親切心を呼び覚ましてどこにそれらを向けるかと言うことだ」
そのユーモアはディケンズのクリスマスカロルやヘンリーの賢者の贈り物などにもあらわれているが、とどのつまりユーモアと言うものは人をけおとしたり、人を犠牲にして自分たちが快感を得ることではなく、そのユーモアによってまわりが、豊かになっていくということでもあるのではないかと言うことである。ユーモアも知性がなければそれはサルの交流のようなもので、たわいもないことにおもしろいうけたと手をたたいて喜んでいる姿はまさにそれだ。私は日本のお笑いは大嫌いだ。
なぜなら彼ら彼女らの笑いは人をけおとしたり、人を犠牲にして笑いをとっているからで、こういう風潮がいじめというものを助長していると思っているからだ。
笑いと言うのは人を豊かにするものでなければならない。ユーモアを語るのであれば、必然的に愛や道徳そして倫理などが要求され、しっかりと学ぶ必要があると思うが、私の意見では、女にだらしない、家族をめちゃくちゃにしているような芸人に本当のユーモアなど語ることはできない、ただ弱いものをいじめて喜んでいるように見える。




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나를 잊길 바래 나를 지워줘

2016-09-25 | Weblog

あまりここでは政治のことを書くことはさけているが、しかしヨーロッパやアメリカの移民政策はひどい、今後さらに移民を増やす方向で行くそうだが、オバマもメルケルも移民に関してはかなりあまい、弱い人間たちに手を差し伸べるのは大事なことだが、しかし今のヨーロッパやアメリカが移民を受け入れだすと世界のバランスがくずれだすであろう。

韓国のある語学学校の講師をしていた友人から連絡があった。
その学校は日本語コースと言うのがあってにわかに生徒が増えたそうで、その増えて新しい講師が決まるまでの約1週間、こちらでかわりに講師をしてくれないかということで、休みをとって行った。
まず私のここでの名前であるが、普通外国人相手にはその呼び方は発音しにくいので、Hoyoungといういう名を用いるのだが、しかしそうだとチェイルキョッポ(在日)と思われるそうで、日本語を習う時はキョッポよりも日本人のほうがうけがいいそうであるからパスポートの名前をつかってそう呼んだのだが、しかし「ざ」の音がうまく発音できずもどかしかった。
毎回ここに来れば驚かされることが多い、おばさんの道端でのけんか、路上で髪の毛をつかみあっている姿を見たことがあるが、目がわるい私は最初大型犬のけんかかと思って身構えてしまったほどであるが、ここではいろいろなことがある。
今日はその旅行で体験した出来事を伝えたい。ただしこれはもう十年以上も前の話であるということを理解して読んでほしい。

「運転手の迫力」
ここに長くいるとまずおそろしいと思うのはバスである。
最近ではかなりおとなしくなったそうだが、しかし5車線のど真ん中で乗客を降ろしたり、まず日本ではありえないことが起こる。とにかく私は路線バスにのるのはいやだ。行ってそうそうこういう事件があった。
目的地に向かう途中での出来事。私は迎えに来てくれた女学生とバスにのっていたのだが、いきなりバスが停車、何をやっているのかと運転席を見ると、どうやら運転手は接触しかけた乗用車と口論になっていた。
そしてそれは次第にヒートアップして。ののしり合いに、私はあまりにも勢いがすごかったので、何を言っているんだろうとその女学生に聞くと、その学生「運転手がそんな小さいクルマひき殺せるぞと言ってます。私聞きました」だって。
このバスだがここでは目的地で降りる時、日本のようにバスがとまってから優雅に出口まで行っていてはだめ、降りる合図をしたら、席を立って軍隊の訓練のように出口にむかって行き、とまったら、すぐに降りる状態にしておかなくてはブーッである。

「そんなにまけたくないのか」
私が受け持ったクラスは上級クラス。みんなそこそこ日本語を話せるのでかなり楽であるが、みんな負けず嫌いでこういう話しがある。それははじめてのクラスでのこと、自己紹介とともに何年ぐらい日本語を勉強しているかを聞いたのだが、聞いていくうちにキャリアが短くなってくる。
最初は2年ぐらいからはじまって、1年半、1年、そして最後になると3か月ぐらいになっていて。3か月でそんなうまく話せるはずはないだろと突っ込みたくなったのだが、真顔で言うところがすごかった。
これとは逆にハワイのフィリピン人は体重をさばよみした。スパリングの時にだいたい体重を聞いてあわせるのだが、私よりも腕がかなり太い奴が堂々とバンタムなどと言うのだが、あきらかにこれはさばよみ、なぜなら次の試合きっちりライト級かライトウエルターででていたからで、こういう人間が結構いたような気がする。
ちなみにむこうで階級を表す時バンタムとかフェザーとは言わない。すべてパウンドで表現するが、バンタムだったら119と言う。

「お前も同罪じゃ」
これは10年以上も前の話、当時むこうでは地下鉄に乗る時、地下鉄の改札口のバーを飛び越えて入ったり、出たりする姿がしばしば見られた。
日本だったら改札口をキップも見せずにバーを飛び越えて入ったり出たりすると駅員に呼び止められるのだが、しかし向こうでケンチャナヨである。
ある時その光景を見て女子大生に「君も入る時あのバーをくぐっていくのか?」と聞いた。まあ女性がバーを飛び越えていくことなんてまずないよなと安心していると。
すかさず彼女はこう言った「跳びこえない、くぐっていく」と。
まあおおらかなのが向こうの性格、時々日本人はついていけないこともあるが、私が行くといつも思わされるのは近くて遠い国、やはり私は日本人である。

しかし向こうの人間に言わせてみれば、私も結構大胆であるそうだ。まあどう大胆化は想像にまかせるがたぶん発言とか言うことだと思う。


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옛날 옛날에

2016-09-20 | Weblog

ある英語の小説を読んでいてa gang of baffaloをバッファローのギャングと訳した大学生がいた。思わず笑ってしまった。群れを表す言葉はgroupやpackだけではない、おもしろいところではschoolなんて言うのも群れを表す言葉でa school of medakaはメダカの学校ではなくメダカの群れ、gangと言うのも群れを表す言葉でa gang of baffaloもバッファローのギャングではなく、バッファローの群れと言う意味である。

私が韓国人で仲良くなった人間には言っていることがある。
それは韓国人いや朝鮮民族が大嫌いだったこと、こいつら消えてなくなってしまえぐらいに思っていたということだ。こういう話をすると一瞬ぎょっとするが、しかし「その怒りをばねにかえて、お前らのおかげで強くなった」と言うと、どっと笑うのだが、わたしにとって過去の話は昔の話、はっきり言って笑える話だ。
しかし人間は笑っていてもそれがすぐに怒りや憎しみに感情がかわることはたやすいことだ。
しかし怒りや憎しみの感情を笑いにかえていくことは困難なことだ。
たぶんそういった怒りや悲しみの中に自分が立ちどまって、ただ同情してくれる人間だけを求めたとしても何もかわらない、怒りや憎しみは怒りや憎しみのままである。
しかし外の世界に出て行っていろいろなことを経験することで見えてくるものがたくさんある。
いろいろな人間と対話しそこでいろいろな経験をすればいかに自分の考えていることが小さいことかということがわかる。俺はマイノリティだなんて思っていたが、しかしマイノリティなんてたくさんいるし、ボクシングというスポーツはむしろそういうマイノリティが生き生きと競技している。外の世界に出て行って今までとは違う体験や経験をした時、こりゃ笑わなくちゃしかたがないと思えるほど自分の生き方や世界が小さかったということがわかるのだが、もし自分にあったいやなことや怒りを肯定して生きていたら、とんでもない了見のせまい人間になっていたかと思う。
私が英語を話せ、いろいろな人間と出会って話をして自分の世界を広げろと言うのはそういう経験を通して人間はキャパを広げていく必要があると思うからだ。
人間には否定できない事実がある。否定できないから受け入れていくしかない、だからそのためキャパをひろげていかなくてはならないのだ。

私は子供にこう言っている「自信とは自分を信じるから自信だ、でもお前は今のお前を信じれるか」
けれども将来いろいろなことを勉強して、本当に自分を信じることができるようになってほしい。けっしてぬるま湯につからず時にはいばらの道を歩むこともあるが、しかしうちのめされても何度も立ち上がって、自分を信じることができれば本当の個が育つ。本当の個は一度バラバラにされることによって育つものだ。同じようなレベルで同じような考え方の人間が集まる小さな世界で生きていては決して貴重な体験はできない。自分のキャパを広げて成長するためには若いうちは外の世界に出て行って見聞を広める必要はある。


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ANTI GEWALT(アンチゲバルト) 半島を想う

2016-09-17 | Weblog

日記にも書いたが私の好きな백지영の歌に「같은 마음」と言うのがある。直訳すると同じ心(気持ち)であるが、これは朝鮮戦争で離ればなれになる男女の物語、映画の主題歌である。一般の戦争映画と言えば、社会正義や戦争の矛盾ということをうったえるのだが、しかしこの映画は朝鮮戦争で戦地に赴く恋人の帰りをひたすら待つ女性を描いている女性視点で見ている映画である。この物語を通していえることは暴力の犠牲になるのはいつも弱いものである女性や子供だと言うことだ。格闘技には虚勢をはった人間が多い。グッズなんかを見てもわかるように威嚇したようなファッション、とにかく自分たちを強く見せようとして虚勢を張っているが本当はたいした度胸もないし強くもないだから虚勢をはったり言葉に表してごまかしているのだと思う。

私がなぜボクシングをはじめたかというのは根本的には強くなりたかったからだ。しかし強くなろうと頑張れば頑張るほどわかってくるのは自分も含めて人間は弱い、めちゃくちゃ弱いと言うことである。アホな格闘家が強くなって弱いものを守るなんていうような稚拙なことを言うが、こういうことをまじめに言う奴は本当にバカだと思う。人間にとって大事なことは自分の弱さを知ること、その弱さがわかれば人間は弱いものを傷つけたりいじめたりはしないのではないか。人間にはいくら泣いても叫んでも自分ではどうすることもできないことはたくさんある。昔私は一度韓国人の女の子の前でこらえきれずに泣いてしまったことがある。どういうことかということは2人だけの秘密であるが、自分ではどうすることもできない不条理、その不条理に負けてはいけないとこらえるが涙があふれてくる、最終的にはくるっと後ろを振り向いてごまかしたが、怒りと憎しみしかのこらないようなみじめな涙を流せば、人間は弱い、弱いからそれを認めて支え合うことが大事だと言うことがわかるはずだ。人間は弱いからこそ支え合う、それは強者が弱者をということではなく、同じ弱いものどうしが協力してその弱さを乗り越えようとするところに本当の力と支えがある。おそらく待っている側の女性や子供はただ日常の平安がほしいだけである。本当にその弱いものやマイノリティの視点に立ったら、そういう争いはおこらないだろう。自分が強くなって助けるのではなく、自分の弱さを認めて助け支え合う、人間は一人ではない、弱さを認めて支え合い助け合うそこに共同体の強さがあると言うのがうちのクラブの考え方である。

朝鮮半島の女性はよく泣く。ちょっとしたことで号泣なんて言うこともしばしばある。でもしかし彼女らはその分よく笑う。朝鮮民族は喜怒哀楽が激しいと言われているがたぶんそのことでバランスをとっているのだろうと思う。生きていると多くのことを受けとめなくてはならない、つらいことや悲しいことそして楽しいことやうれしいこと、韓国には最低でも2年の徴兵があるのだがその軍隊に行っている間子供や恋人の安否を気遣いながら待つ母親や恋人がいる。うまく言えないが男尊女卑の朝鮮半島では常に女性が犠牲になってきた歴史があるのだが、たぶん朝鮮の女性が喜怒哀楽が激しいのはそれらのことを全力で受けとめているからだろう。

 


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そんな話はどこでも聞ける

2016-09-15 | Weblog

うちのクラブは本当に女性が多い。時期によっては全体の6割ぐらいをしめるのだが、たぶん普通のクラブにこれだけ女性が集まるのはうちぐらいだと思う。この前ある女性から妖怪検定の話を聞いた。私は鬼太郎をこどもと見ていたので妖怪の名前は結構詳しい「ちなみに言ってみて」と聞いたらほぼ知っていたので、たぶん初級ぐらいなら合格するだろう。私が語学を教えているが、言葉をおぼえると選択肢がふえるしものの見方がかわる。読む本も日本語だけで読むのとは100倍以上も違うし、ものの考え方や洞察力を深めるためには基本的に語学が必要だ。語学ができないと今の時代はかなりディスアドバンテージであるがスポーツクラブでもこの集団はかなりずれているなと感じるような集団はスタッフが英語を全く話せないと言うイメージが私にはある。英語を理解するのは自慢でもなんでもなく当たり前のことである。外国に行ったらすごく勉強になると言うのも違う文化に触れることが自分を比較し、新しいものを探究することだからだ。もう英語を理解することは当たり前になっているので日本語には訳されない資料や情報もある。特にスポーツは競技面あるいは倫理面においてグローバルスタンダードでなければならない。男性中心の格闘技では女性や子供の立場で考えると言うのもある意味哲学的な洞察が必要であるし、そういう感覚はまさに欧米において人権として認められていることであり、さらに英語が理解できると多くのことを知ることができるのだが、コミュニティを形成する上でも英語は必須であり基本的な事柄である。

なぜ英語にこだわるのかと言うのは、日本のスポーツの考え方は古い。特に格闘技は本などを見てわかるが内容がうすっぺらい。ひどいのになると絵本のようにたくさん写真が掲載されていて、とにかく人にわからせるように単純な言葉で書かれている。さらにそのコミュニティの考え方や指導法も監督や先輩の教えと言うものが多く、相手のレベルも考えないで先輩や親玉の意見を聞くことが自分の視野を広げると勘違いしているが、しかしそういったことは往々にして、どこのクラブでも聞けるような教えを交配しているにすぎない非常にまぬけである。語学ができない学問に関心がない人間の考え方は本当に薄っぺらい、その薄っぺらいことをパッチワークのようにつなげていってもっともらしいことを言うが、しかしきちんと勉強していないとどこかでボロが出る。大人が集まる集団に体育会の掟が黄金律なのだから片腹がいたい。


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Encouragement

2016-09-12 | Weblog

アドラー心理学は原因ではなく目的をとらえて人を成長させる心理学である。フロイトやユングは人間の行動を過去の原因と結びつけたが、しかし人間の行動をすべて過去にむすびつけたら人間は決してかわることはない。アドラーは原因ではなく目的があるからこそ人間は行動をおこすのだと言う視点を持って人間の行動をとらえる。フロイトやユングが人間回復と言うことにとどまるならばアドラーは未来志向の心理学と言ってもいいだろう。さらにアドラーはEncouragement(勇気づけ)と言う言葉を用いているが、勇気づけとは過去にとらわれずにその目的に導く手段であり、そこに向かって行くための支援である。だいぶ前からほめて伸ばすと言われているが、まさにほめるという行為も勇気づけである。しかし勇気づけはその人を正しい目的に導く手段であるから、何も考えもなしにすごいとほめることではない、4,5歳ぐらいの子供ならばそれはそれで有効なのだろうが、何の考えもなしにただすごいとかお前は素晴らしいなどと言うのはいささか子供だましで、少し賢い人間には響かないだろう。スポーツ指導者にはそういう単純なほめかたをする人間がいるが、サルのように芸ができたからと言ってすごいとかほめるのではなく、ほめるほうもしっかりと言葉を選んでほめることが大事、そのため言葉のボキャブラリーが必要だ。さらに心理学や哲学、宗教学などに熟知する必要はある。ほめ上手と言うのは太鼓持ちのようにすごいとか大げさな言葉をならべたてておだてることではない。自分の目的や未来が見えるような気持にさせるのがアドラー的に言うと本当のほめ上手であり、それを勇気づけと言うのだと思う。だいぶ前からほめると言うことが言われだしてきているが、しかし私は何も考えていない、教養がない指導者がただすごいとかいっておだてるのはいささか無責任でそういうほめ方はいいたいことだけを主張する奴、根拠のない自信を持つ奴、自分の言葉に責任をとらないような奴がでてくる。ほめるという行為は自分はそうならなければとある程度考えさせられる何かである。ただ競技のためのモティベーションをあげるためのものとは質は違う。どう違うのかと言うと難しいが、しかしこれらのことはほめるがわの教養と知識、じっくりと練られた言葉で勇気づけが行われたかと言うことではないかと思う。

本当にバカそうな指導者は頭をたたけばポーンとからっぽの大きな音が出るんじゃないかと言うぐらいバカそうな顔をしている。こういう指導者が競技者に芸をしこみ何とかサル軍団が誕生する。人に考えろと言うのだったらもっと勉強しろ、引き出しがなければそれはただの思い込みか勘ぐり、いい年をした大人よりも中高生のほうが言葉を知っていたり、教養があるなんて言うのは恥ずかしい話だ。人間の群れは言葉がしっかりと機能していなければならない。責任者は常にその言葉が正しくつかわれ機能しているかと言うことを考える必要がある。

 


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See you later

2016-09-09 | Weblog

私の初戦はフィリピン系の相手、ジョージによれば1階級上げてきたらしくオアフかマウイのチャンピオンだと言う。ジョージは相手がわるいので経験ぐらいに考えていただろうが、しかしここまで一生懸命やってきたのだから負けたくはない絶対にしずめてやると意気込んでいた。カーンとゴングがなって20秒ぐらいあれと思ったらダウンしていた。レフリーがカウントを数えていたのだ。あれれなんで俺こんなことしてるんだろと思いながらファイティングポーズをとって再開、コーナーに戻ってきた時ジョージはすごい剣幕でまくしたてていた。たぶんあの時くらったのはスイッチしながらのフックだったと思う。日本ではこういうパンチをくらうことはないがアメリカでスポーツを競技してる人間は子供のころからいろいろなスポーツをしているのでバランスがいい、だからこういう奇想天外なパンチがうてる。ここでは日本の常識が通らんなと気を引き締めて3ラウンドを戦いぬいたが、結果私の逆転ギリギリ勝利ジョージは負けたと思ったらしいが、勝利をおさめることができた。基本的にむこうの競技者はリング外ではあいさつすることはない。さらに私は勝った相手にはあいさつには行かないと言うポリシーがあったのでそのままリングをおりて控室と言うか競技者が待機しているところに戻って行った。そして試合が終わって帰る時、廊下を歩いているとさっきの相手が、そしてすれ違う前に向こうがニコッと笑うのでこちらもニコッと笑いかえす。かえした後であれはホモのサインじゃないだろうなと心配したが、彼がニコッと笑ったのはnextと言う意味だ、現に3か月後の試合では2回戦で当たった時にすごい闘志で向かって来たことをおぼえている。自慢になるがこの時も私がまたまたギリギリの判定で勝利したが、しかしこの時日本にはない雰囲気アメリカは競争の世界だなあと思わされたものである。ゴールデングラブで優勝した奴が偉そうに「優勝したとたんに俺の首をみんなが狙いに来るから気が抜けない」と言っていた。思い切り歯がうくようなセリフだが強ち向こうではおおげさではない、なぜならむこうは完全な競争社会だからだ。英語のことわざに「double or nothing」と言うことわざがあるがこれは強者が弱者から得ると言う意味である。日本語では一か八かとなっているが、しかし直訳すれば2倍得れるか何も得れないかということで敗者は何も得ることがないむしろ奪われると言う意味合いが強いだろう。向こうの人間は一度負けた相手には闘志むき出しで挑んでくる。これ以上負けてはいけない、競争社会においては負けたら何も得ることができないnothingになることをおそれるからだ。そういうルールを彼らは子供のころからたたきこまれているようにさえ思える。それに比べたら日本人は甘い、少し聞き苦しい言葉で申し訳ないが、負けた相手のところにあいさつに行って「ありがとうございました」じゃないだろ。本当に勝ちたい気持ちがあれば「i will beat you next」だろ。日本人が試合後あいさつに行くのは自然であるがしかしこういう競争社会では不自然である。あの時彼が廊下ですれ違った時にニコッと笑ったのは「次はお前ぶちのめすぞ」と言うサインで、私もただにっこり笑って「see you later f○c○ you」とサインで答えただけである。普段はこういうことは書かないが、しかし勝負事と言うのはこういう厳しい一面があって、特に競争社会ではそれがむきだしになることもある。


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SHOW HIM YOUR GIMP

2016-09-08 | Weblog

私が競技者だったころ結構ケグジェンイであった。その頃は競技者どうし火花をちらしていてあいつは絶対にぶちのめしてやると何人かから思われていたようである。で私が競技生活でよくつかった言葉がある。それはたぶん18とs○n of b○○chだろう。普通こう言う言葉は使わないが、しかし米国で自分よりも格の違う相手にあたってくやしい思いをした時に何度この言葉が出て来ただろうか。本当に強い人間は強い、自分が渾身の力を込めてかかって行っても一瞬でのされてしまう。今はポジティブシンキングなんて言って前向きに考えろなんて言うが、しかし本当に実力が違う歯が立たない人間に出会ったらそういうことすら考えることなんて、それぐらいの相手は世の中にゴロゴロと存在する。才能がなければファイティングスピリット(闘志)を養うことだ。やられたらやられるだけファイティングスピリットは間違いなく養われる。闘志なんて言う言葉は古いかもしれないが、しかし才能もない何もない人間にとっては魔法の言葉でこの闘志が勝ることで奇跡の大逆転と言うことも不可能ではないと信じている。

しかし闘志と威嚇は全く違う。闘志はこつこつとトレーニングをつんだ中から生まれるものだ、そしてそれは目的をしっかりと見据えている。しかし威嚇は犬がうーーーっとかいうあれ、威勢はいいがしかし自分よりも大きな壁にぶつかったらキャンと鳴き声をあげてにげていく、たぶんこいつら学習ができないから心や頭を鍛えることができない、できないから人を威嚇するのだと思う。映画ロッキーⅣと言うのがある、ロッキーはかなりシリーズが長く続いていていつまで続くんだとさえ思ってしまうのだが、実は私が好きなのは政治的な意味も含めてこのⅣである。Ⅳはロッキーがクリスマスにロシア(旧ソビエト)で試合をすることになった。当時アメリカとソビエトは敵対関係にあったのだが、ロッキーはあえてそこでトレーニングをすることを申し出るのだが、彼らは歓迎されていない敵対心むき出しの国、しかも彼の邪魔をしようとする国でトレーニングをすることを決意するのである。そのトレーニングのシーンで彼が黙々と雪の中走るシーンがある。厳しい自然の中彼は黙々とただひたすら山の頂上めがけて走るのだが、その黙々と走る姿は感動的で、ただ何も言わずにひたすら勝利を信じて地道で厳しいトレーニングをするこのシーンに内なる強い闘志を感じたことは確かである。こういうファイティングスピリットは石炭についた火のようだ、火がつくのはおそいが、じわーっと熱くなってきてそれはやがて高温の熱で燃え上がる、普通の炎のようにはでにばっと燃えるものではないが、しかしそれはじっくりと長く持続する。私はファイティングスピリットと言うものもそういう質のものでなければならないと信じているが、そういう精神を生み出すためには彼のようなコツコツと地道でしんどいトレーニングをしていくことが必要であると思う。気持ちで負けるなと言うのは自分がどれだけコツコツとトレーニングをつんできたかということを信じることだ、地道のコツコツとへこたれずにゴールを目指して積み上げてきたその思いと努力は大きなエネルギーになる。そのエネルギーがファイティングスピリットだ。



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ソウルで会いましょう

2016-09-04 | Weblog

先日久しぶりにNYにいる友人からメールが、懐かしくなってメールをしてくれたのこと、彼とは学生時代からの付き合いであるが友達とはいいものだ、たとえはなれていても会ってもまた昨日会ったように話せる。彼とは社会問題などいろいろなことについて議論をしたが本当にいい思い出だ。最近はラインを既読してないとかそんなつまらないことを気にしながら付き合うようだが、そんなことにいちいち気をつかい合う中なんて本当に友達と言えるのだろうか?自分たちはかれこれ10年以上だ、10年間以上も何の音さたもない、しかし突然来たメールでお互いがその時の昨日に戻ることができる。そういう関係を気づくことができたのはお互いが主張し合い議論することで交流を深めることができたからだと思っている。最近の若い人たちは親や教師などの迷惑をかけていいと思っている人間には迷惑をかけるが、しかし友達には気をつかっているから不思議だ。友達だからこそ自己主張し合ってぶつかり合う、そしてそのことで心も考え方も成長し大人になっていくのだ。ある社会学者はこう言っている「若者の主張する内容は間違っている。けれども主張することは正しいことだ」ラインが既読されていないとか返事を出さなくてはいけないとかそんな小さいことどうでもいいことだ、若いうちはお互いの意見をぶつけあって時には傷つくこともあるが、しかしそういうことも若さゆえに乗り越えていける。我々もこういう関係を気づくことができたのはお互いがそういう時代を過ごすことができたからで、こういう友達はいつになっても頼りになるものであり、一生の宝である。

だいぶ昔韓国人の女性から手紙が突然来た。今ソウルのおばさんのところに半年ほど滞在することになったのだがいとど遊びにこないかと言う内容の手紙で会った。それで懐かしくなって会うことにしたのだが、飛行機で最初は「やあ久しぶり」にするか「lomg time no see」にするか「オレガンマンニエヨ ポゴシッポッソ」するか迷ったが空港で私を見つけるなり「やあ元気にしてた」と流ちょうな日本語、拍子抜けしてしまった。その後ソンギョンガンテハッキョのあるテハンノに行ってプッチンゲを食べたが彼女とは昨日会ったように話せたことをおぼえている。私の定義ではそばにいていつもなぐさめ合ったり、話したりすることだけが友達ではない。本当の友達とこうして何年離れていてもまたった時に昨日会ったように話すことができる、そういう存在を友達あるいはチングと言うのではないか。


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