脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The Fight That Changed Boxing Forever

2017-06-30 | Weblog

昨日ヨッシーが80年代のボクシングをよく知っている。80年どころか70年ぐらいのこともよく知っているたぶん彼はボクシングが好きなのだろうと思っているが、事実好きこそものの上手なれと言うことわざどおり彼はかなり上達している。

私が韓国人の女のこと知り合ったのはとある場所、アレンに連れて行ってもらった時に、そのおばさんの店をそこを手伝っていたのが彼女である。彼女は大学でビジネスを専攻していて英語、韓国語、日本語を流暢に話す。そこで意気投合した私たちはいろいろとお互いのことを話した。ボクシングをやっていると言うとへーっと冷めたように面白いと聞いてきて、そしてあるボクサーの話をしてくれた。その話は今でも鮮明におぼえているが、彼の名前はkim DeukKoo在米韓国人の間では有名なボクサーである。なぜ有名かと言うと彼はラスベガスのファイトで死んでしまったからだ。当時勢いのあったブーンブーンマンシーニと言うボクサーとの激しいなぐりあいの末、命をおとしてしまったのだが、この試合からボクシングのタイトルマッチは15ラウンドから12ラウンドになったことは有名な話だ。このストーリーはニュースなどでも取り上げられて、ドラマや映画にもなっている。ボクシングは危険だ。日本ではそういうことがあまり語られていないようだが、欧米では医師などが介入し問題を提起することで、ボクシングの在り方やルールがかわることもある。15ラウンドから12ラウンドになったのはまさにそうであるが、ヨーロッパでは子供にはボクシングさせない、米国も子供にボクシングさせることは消極的になっているが、これらはすべて医学的な見地に立って危険だと判断されるからである。ボクシングの試合にはアマチュアもリングドクターが存在しているが、私は彼ら彼女らの役割は大きいと思う。減量なんていうのもある程度の範囲をこえれば危険だし、スパーリングにおける脳のダメージなんて言うのも素人にはわからないのだから、そういう専門家の話をしっかり聞いてどの程度までやらせればいいのかということを考える必要はある。それは医学だけではなく、子供の頭をたたくというのは倫理などの問題も含むのであるから監督や審判にはそれなりの知的レベルが求められる。新聞や本を読まない、片言の英語すらも理解できないような人間が医学的なことや倫理的なことをある程度理解して群れを管理していくなんてできないと思う。子供にボクシングさせて大丈夫かと聞いたら、軽くあてている(どの程度)あぶなくなったらとめる(あぶなくなつてからじゃあおそいんだよ)スパーリングは本人の希望次第(判断力のない子供にそういう責任をおわせない)そういう灰色の答えがかえってくるのが現実であると思われるが、パンチをどううつかとかどうよけるかなんていうのは子供の遊びの発見のようなもので、大事なのはそういうことではなくて医学や倫理学に基づいてどういう見解を持つかと言うことであり、それが責任者の役割である。

うちのクラブではボクシングは危険だと言うことを前提としている。その上でマスボクシング(欧米では思いっきりあてないスパーリング)を中心とした実践トレーニングを行っているし、うちのマスではカーッときて敵意むき出しで殴りかかって行くのは暴力、さらにむやみやたらにファイトーとか、アホそうな怒号をひびかせて人を煽るなんて言うことはしない。日本はやたらまわりが煽ってモティベーションをあげようとするのだが何とか族の戦いじゃあるまいし、むやみやたらに煽るのはアホだと思う。確かにモティベーションをあげてアドレナリンやドーパミンを出してハイになるトレーニングはそれなりにトレーニングの成果があるのだろうが、しかしボクシングは頭をたたくスポーツだ、そこをよく考えなくてはならない。

平和的にトレーニングするためには、その指導者、責任者がよく考え、群れの知的レベルをあげることだと思う。ボクシングのどうやったらうまくなるかなんていうのは子供の遊びのようなものだ。群れを管理するものに必要なのはまともな判断力で、それを裏付けるためにいろいろな見地から学ぶことが大事で、私はその群れの知的レベルをあげたらある程度安全性についても考えるようになる。平和なクラブになると考えている。

減量は危険だ。特に成長期にそれをさせることは絶対によくない。中には自分はどれぐらい激しい減量をしたかということを自慢げに言うバカがいる。そういうことを煽ると言うのだが、でもしかしこういうバカでクズ話をまともに受けて減量はかっこいいとか、それがボクサーなんだなどと思わないこと、それは他に何も自慢できない程度のひくい人間のたわごとである。


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歴史が我々に何をもたらしたかではなくその歴史を我々がどう解釈するかだ。

2017-06-26 | Weblog

今年の夏も大阪で友達夫妻と会う予定だ、そして今回はもうひとりの友人も韓国からくることになりそうだ。私は東京にいる友人夫妻とは年に一度ぐらいの割合で大阪で会う、そして彼らが大阪に来て最初につれていったのはどこかと言えば大阪城、大阪観光にははずせないところであるが、しかし韓国人からしたら大阪城は豊臣秀吉が建てた城、あまりいい気分はしないだろう。娘はほぼ日本で育っているのですごく楽しそうに回っていたが両親は少し複雑そう、そこで私は食事の時にこう言った。「お前は大阪城に言って少し複雑そうだけど、でも歴史認識なんて所詮学者が都合よくこじつけてひとつのストーリーにしたようなものだ。どこからその歴史を見るかによって見解や受け取り方はは違う。ただ俺たちはそんな過去のごちゃごちゃした歴史をおって生きているのではない。俺と君はずっと前から友達であって自分たちの歴史はそこからはじまる。そんな過去の出来事で俺たちの歴史を変えてしまうのはバカげたことじゃないのか。」と少し強引であったがそう言うと「それもそうですね」と複雑そうに、でも彼らとの関係は決してこじれることなく今でも続いている。

リチャードローティと言うネオプラグマティズムの学者がいる。彼は今までの哲学はある事柄を認識するのに対して解釈そのものが存在するとした。即ち初めから事柄があるのではなくて、事柄を自分たちで解釈していくことに意味があると言う考え方だったと思うがこの考え方が哲学における解釈学の第一歩である。歴史と言うのもひとつの解釈である。政治や宗教や文化によって歴史を見る見方は違うし、解釈の違いはあると思う。我々の習う歴史は政治史のようなもので、少し偏りがあると思っている。誰が誰々を制圧して何々帝国が誕生したとか、戦後何々政権が誕生したとか、そしてその支配から歴史が語られることがしばしばである。「A Brief History of Humankind」と言う最近ベストセラーになった本があるが、これはとどのつまり我々の祖先であるホモサピエンスは虚構を信じることで生き残り、国をつくり発展させていったということを説明した本。この虚構と言うのは権力者や為政者によってつくられた宗教や法であり、われわれはその為政者や権力者が打ち立てた虚構を信じつながることで自分たちの安全や生活が保障されていると信じている。私は何も歴史を捻じ曲げろとは言ってはいないが、為政者や権力者によってつくられぬりかえられた歴史もまた一つの政治的視点から見た解釈である。我々がその歴史を押しつけられたものとしてではなく、どう解釈していくかと言うことは重要なことだ。もう少し文化史も含めて違う視点で歴史をとらえ学ぶことも必要ではないかと思っている。歴史の教科書もだいぶバランスがよくなっているが、しかしまだまだその内容は政治史的である。もし文化史や思想史など選択科目にして儒教や朱子学などを学ぶことででお互いの共通点を見出すこともできるし、また違いもわかるであろう。政治史に見られるようなやったやられたの記述だけでは被害者だの加害者の関係しかない。何もそういう現実を無視しろと言っているのではないが、しかし文化や、思想、そして宗教と言う考え方を共有することでゆるしや緩和がそこに生まれる可能性もあるだろうと思う。私は思う、歴史が我々に何をもたらしたかと言うことが問題ではなく、我々がその歴史をどう解釈するかが問題である。歴史が何をもたらしたかということを問題にしたら被害者や加害者だけの問題でおわってしまう。しかしその歴史を弁証法的な意味で再解釈し、その事柄に意味を見出そうとするところに進歩があると信じている。

私は時間があれば娘に大阪の有名なケーキの店で、堂島ロールと言うケーキを買ってやる。ホールかハーフそしていくついるんだと聞くとホール二つ、私がひとつそしてアッパとオムマでひとつだそうだ。



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I can change.

2017-06-25 | Weblog

結構個性が強かったから挑発行為のようなものを受けたことがある。その時は本当にはらただしかった。特に人種が違ったらそれゆえに不快感がある。私が嫌いだった人間はスペイン語を話す人間で、時々そいつの仲間とスペイン語で何か言っていた。それは明らかに私に対して何かを言っているのだが、私はスペイン語を話さない。むかつくのでA○s holeかF○ck youぐらい言ってやろうと思ったが、しかしそんなこと言ったらえらいことになる。しかしその時「こいつだけは絶対にぶちのめしてやる」と思ったことは間違いない。そしてついに対戦の時が、セコンドのアレンが私に「お前あいつ嫌いだろ」と私が「当たり前だ」と言うと彼は私の肩をポンとたたいてbeat him up!とbeat himは相手を試合などで打ち負かすと言う意味であるがbeat him upはボコボコにしろと言う意味だ。もちろんその時闘志満々であった私はそうするつもりであったが、しかしそれは相手も同じ、試合は序盤からすごい打ち合いになって、何回か意識が遠のいたことをおぼえているが、それはえげつない打ち合いと言うかいがみ合いだったと思う。そして試合は判定まで持ち越されたがその時お互いの顔がかなりはれていて、それは試合が終わってジョージとアレンと一緒にとった記念撮影を見たらわかるのだが、本当にアホだったと思う。

ロッキー4だったか、ロッキーが敵地当時のソビエトに言って試合をする。その試合は敵地で行われた。しかも共産主義国であったので人々は敵意むき出しで彼らを迎え、そしてそこには様々な妨害が、しかしそのことにもめげずに正々堂々と力いっぱい戦うロッキーに敵対心を持っていたまわりの群衆もやがて彼をみとめるようになり、そしてファイナルラウンドには敵地でロッキーコールが起り、その試合で勝利したロッキーの言葉「I can chane you can change everybudy can change」と言う言葉が非常に印象的である。

ボクシングって何が不思議かと言うとそのなぐりあった人間を尊敬できると言うことである。確かに最初はこいつだけはぶちのめしてやると思っていた相手でも尊敬できるから不思議で、それはなぐりあえばなぐりあうほど「ああこいつも一生懸命トレーニングしたのだ」と言う実感と言うかそういうものが伝った時にお互いを尊敬できる。それがボクシングと言うスポーツだ。私は彼と一戦を終えて、すれ違った時にニコッとお互いが笑ったことをおぼえているが、私にしてみればあれが精いっぱいの敬意であって、相手もそうだったと思う。試合はアレンがいつもビデオにしてとってくれていたのだが、おわってリングからおりてくる私の顔は非常にいい顔をしている。韓国人の女の子も試合の後は非常にいい顔だと言っていたが、本当にその時は充実していたのだと思う。

私は正直会わない嫌いだと思う人種はいる。でもボクシングはそういう相手でも尊重できるスポーツだ。あのカ○ー野郎二度と起き上がってこれないぐらいボコボコにしてやると何度思ったことか、でもボクシングは不思議と相手を尊敬できる気持ちがわいてくる不思議なスポーツであると私は思う。

 


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みんながみんなそうじゃないという奴はアホだ

2017-06-24 | Weblog

よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはどういう人たちが集まるかと言うことで、私が言うところの正しい集団と言うのはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方私が嫌いな群れる集団と言うのは価値観がせまい、教養がとぼしい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。

そういう考え方は友達と言う考え方に出てくる。友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言うのだ。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かあっても迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きる。それはわるい意味での弱者の生き方そのものではないか。

群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝すると言う刺激で集まるのもいいが、そういうでかいことを言って目立つ集団と言うのは中身がない。そういう集団に限って世の中ではたいしたことがないような人間がそれしかできないからとまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の教養がとぼしいとそういう人間たちが集まる。私はそういう奴らを灰色の人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからで、威嚇したようなファッションで髪をど派手に染めて改造車にのっているアウトローくさい奴にろくな奴はいないと言って、みんながみんなそうじゃないなんて言わない当たり前の感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。何も考えていない集団が群れると言うのはサルの群れと同じで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかしそれは俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから言うと言う哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは少々のことではずれることはない。そのためには責任者が教養をつむことが大事だ。

 


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Φιλαδέλφεια(Philadelphia)を日系人から学んだ

2017-06-22 | Weblog

ある日ジョージから今度の日曜日50ドルやるから仕事を手伝えと言われ手伝った。行くとそこは空き地のようなところ。何をするんだと聞いたら「簡単だとにかく3つあなを掘れ」と、まさか死体をうめるためじゃないだろうなと多少の躊躇はあったが、しかし50ドルは闇以外ではアルバイトできない私にとって大きい金額、言われる通りあな堀にせっせと勤しんだ。あなはさほど深く掘らなかったが(この地点で死体じゃないなと確信したのだが)、それでも3つ掘るのに時間がかかり、たぶん6時間ぐらいはかかったと思う。そして仕事をおえた私はジョージのおごりでジッピーズへ、この後あなは何につかわれたかはわからないが想像の範囲でおまかせする。ちなみに彼は不動産関係の仕事である。このジョージ、今は不動産関係の仕事をしているが、しかし昔はギャンブラーだと言っていた。彼の話によると結構それで稼いだそうだ。そして娘がいるのだがこの娘とはずいぶん長くあっていないといっていた。この話を聞いて私は「社会不適合型なんだ」と思ったのだが、たぶんそう言ったらお前もそうだろと言われていただろう。確かに私が大胆なことをするたびにお前みたいな奴はまずいないと言われたし、事実そうだったと思うのだがそう考えたら我々はよく似ていたと思う。

ジョージと私の出会いはカラカウアジム、そこはリングが2つある体育館のようなジムで、チームが自由にトレーニングできるボクシングのために開放された施設である。当時学生のチームの一員であった私はそこでトレーニングしていた。当時のアメリカはボクシングがすごく盛んでそこでやったスパーリングでまったく相手にならず、すごく悔しがってリングを見ていたら「強くなりたかったら明日またここに来い」と声をかけてくれたのが彼との出会いである。

カラテキットと言う映画がある。私が好きなのはパート3まである古いほうのやつ。この映画の主人公はダニエルラルーソ、転校してあることがきっかけで不良グループに目をつけられいじめられる。しかしそこでひとりの老人と出会い、空手を習いそしてそのことを通して成長していく物語である。この映画ではいずれもダニエルに立ちはだかる悪役が登場する。卑劣ともいえるやり方で彼を苦しめようとするのだが、その悪役に立ち向かう姿がすごく日本的で私はそこがこの映画の素晴らしさだと思っている。何が日本的かと言うとその解決が平和的で決して相手を徹底的にやっつけようとしないところだ。その不良グループにいじめられた時も決して強くなってやり返そうと言うのではなくトーナメントを通して正々堂々と戦おうとしたし、たとえ勝って自分が優位になっても徹底的にやらない。ロッキーとかでは勝利すると大歓声の中ヒーローになり負けた人間はみじめにさっていくのだが、この映画では勝負はもう終わったのだからと相手をゆるす。私は空手と言う日本の武道の精神がここに語られているんだと感動した。

スポーツをやっていて思ったことは日本人のコミュニティと西洋人のコミュニティは違うと言うことだ。まず西洋は競争第一、ゴールデングラブで優勝した奴がかっこをつけて明日からみんな俺の首を狙いに来るなんて歯の浮くのうなことを言ってやがったが、アメリカはよしもわるしも競争の原理で動いている。日本のように試合が終わってわざわざ相手のところに行ってありがとうございましたなんて言わないし、コミュニティでお互いがそこまで深く教えあったりはしない。競争社会では自分が習得したことをいともたやすくライバルに教えることなんてまずない。さらによくクラブなどで自分が休んだら人に迷惑がかかると言うが向こうでは休んだらライバルがひとりへるのでラッキーだ、そういう社会と比べたら私は日本人的なコミュニティのほうが人の心を成長させる上では機能的であると思う。日本人は競争心がないと言うがしかしともに支え合い助け合って生きると言う精神がある。

ジョージは日系人そしてカラテキットの老人も日系人だが、たぶん二人は同じ世代で日系人がすごく苦労させられた時代に生きた人たちだ。私はこの映画を見るたびに彼との出会いを思い出す。I do believe.私は思う。人間は絶対に誰かがいないと成長しない。私が彼に声をかけられたように誰かがその人間を顧みて声をかけてくれなければそこからはいあがったり、さらに上の世界を目指すことはできないと思っているが、ジョージもカラテキットの老人も日本人が持っている助け合いの精神を持っていたその人たちで、私はそのことを日系人である彼らから学んだ。

 

 

 

 

 


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You must berak him.と彼は言った。

2017-06-18 | Weblog

私が日本のスポーツをよく言わないのはその独特の雰囲気や考え方に違和感をおぼえるからだ。日本人は往々にしてスポーツは修業だと思っているので何な全体が醸し出す雰囲気が重苦しく、私が競技していたところとではまったく雰囲気が違う。チームの在り方も上意下達で、それしかできないチームではこの競技に命をかけろみたいな常に真剣さが問われるような雰囲気の中で本当に自分らしく自由に振舞えるのだろうかと思う。私が競技したところはすごく自由にできたと思う。何が自由に競技できたかと言うのは雰囲気の問題だが、向こうでは日本のように管理する側と管理される側と言うような関係もなく、はじめから押しつけられた上下関係もない。ピーターがよくお前はLAとかもう少し治安の悪いところだったら終わってるって言っていたが、彼がそう言うのはそれだけ私が自由に振舞えたからだと思っている。向こうでのコーチや監督との関係はフラットだった。しかしフラットと言っても相手は私を尊重し私も相手を尊敬していたのでそれなりの敬意ははらっていた。そう言う中で競技した目線で見たら日本のスポーツは楽しむと言うより修業していると言う感じだ。

名前を出したらダメなのでイニシャルにするが、NBと言う男がいた。ゴールデングラブでベスト4まで行ったらしく、彼と彼のトレーナーそしてジョージと私の4人で食事に行った。食事に行ったのはいいのだが、そのノー○ンと言う男は私と目を合わそうとはしない。なんか変な奴だなあと思っていたが、彼はのちの強盗したらしいが、真相はどうやらホントの話である。当時ボクシングは我々のような学生もいたが、素行のわるい人間もいたようだ、事実よく顔をあわせるギャングの集団みたいな奴らですごくうっとうしい奴らがいた。横ででかい音で音楽を流してシャドウしたり、我々は威圧的な雰囲気に不快感を持っていた。そしてそのうちのリーダー格のひとりと私が対戦することになった。特にバーガーと言う男はこいつらを嫌っていて、でもこわいから直接何も言えない、彼は私に頼むぞと言う、私はおうまかせとけボコボコにしてやるから安心して見とけ見たいなことを言ったと思うが、しかし試合が始まるとみんなさっきの勢いはどこにいったのやらビビッて応援しないのだ。でも試合が進むにつれ私が有利に試合を運ぶやいなやすごい応援が、いつもはばらばらだけどこの時ばかりはチームがひとつになって私を応援、そして最終ラウンドを終えて判定、そこで私の手が上がるとオーッと言う大歓声、私は調子にのって相手のグローブをどうじゃとばかりにポンとたたく、そんなたいした試合でもないのにそこだけすごく盛り上がっていたのだが、たぶんまわりから見たら何をこんなに盛り上がっているんだろうと思ったと思う。今考えたら本当に楽しい思い出であった。日本人のスポーツ経験者のほとんどは先輩にいじめられた話や、自分がどれだけしごかれてしんどいことをしたかと言うことを話しそれで盛り上がるが、その感覚が私にはわからない。スポーツは修業ではない、楽しむものだ、それが管理する側と管理させる側の関係だとわからない。スポーツは目的だけではない、そこまで行く過程があるが、その過程を全国に行けとか優勝しろと煽られて、こうしないと勝てないぞと管理されて競技するのと目的を自分で決めてトレーナーの協力のもとにやっていくのではどちらが楽しくできるかということである。

試合が終わった時よく友達とハンバーガーショップに行ったことを思い出す。シーユーレイターハンバーガーを合言葉に試合が終わるとハンバーガーショップに行く、遠征などにも行くのでその帰りにノースにある有名なクアアイナにもよったことがあるが、特にピーターが運転する車の中で窓を全開にして潮風にあたりながら食べるハンバーガーは本当においしかったことをおぼえている。私はたいした競技者ではなかったが、トップノッチアスリートぐらい楽しく競技できた。それはその場所が平等で自由であったからだと思う。

 


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ひそひそ話は日本語で

2017-06-15 | Weblog

原人岩さんが中国語はやかましいけど何かあるのかと聞いて来た。私は中国語はできないが韓国語に関して言えば発音に問題がある。韓国語には激音と言う強く発音する子音がある。おそらく中国語もこれに似た音があると思うのだが、この発音が日本語のように平坦な言葉を話す民族から見たらうるさく聞こえる。英語、韓国語、日本語を話せる人間が二人いたらひそひそ話をするには日本語を使う。日本語はかならず母音でおわるので音が聞き取りやすい、だからひそひそ話は日本語が一番適していると思う。

それしかできない人間は人とかかわる時、人間関係を上か下かで見る。どういう基準かわからないがたぶんそいつらの基準はスポーツとか力的なことで、そのくせインテリにはコンプレックスを持っていて話すのをさけたり敵意を持って接してくる。我々のようにおとなしい人間には威嚇してくるので非常にうっとうしい。その親玉がひきいる軍団は試合会場などで非常にいばっているのだが、私はそれを見るたびに不快感を感じる。サルの惑星と言う映画がある。これは単純に言うとサルが人間を支配する物語だが、この映画を見て不快感を感じた。私はそれしかできないような集団がいかにも自分たちはと独特のオーラを出してかたまっているのを見るとどうしてもそのサルの惑星を思い出してしまう。人間をサルに例えてはいけないが、申し訳ないが親玉と言う曲芸師の指示でミットをたたいている姿は芸にしか見えないし、音楽に合わせてたたくよりも小太鼓のほうがリズムが合うんじゃないかとさえ思ってしまう。

私はいつも思うがこういう輩は日本ではいばっているくせに海外に行くとたちまちおとなしくなるから不思議だ。人に向かって「おいそこ」とか誰がちらかしたかさえわからない状況で「靴がそろっていない」とか頭ごなしに言っても従うからと注意する。時には親でも言えないようなことを平気で子飼いに言うのだが、しかしその威勢はどこにいったのかわからないが、相手や場所がかわるとたちまち何も言えなくなるのだ。これは明らかにコミニケーション能力のひくさを物語っている。いわゆる毎日毎日同じことしかできない、勉強しないと言う自分たちの小さな空間で生きていると大きな社会に出ると自分の立ち位置がわからなくなる。それでも親玉たちはずる賢さを持っているので、逆におとなしくなって、あたかもそれがスポーツマンシップのようにふるまい面目を保っているのだが、言葉がわからない、教養がないと当たり前だが世の中では通用しない。

個人的な意見で特に若い人にではあるが、自分の個を成長させコミュニケーション能力を養うためには語学が大きくその成長にかかわっていると思う。ここで英語学習を奨励するのも若い人の成長には必要だと思っているからだ。私は人の痛みがわかるがサイコ的傾向があり、コミニケーション能力がひくかった人間だ。今そう言うことを言えばみんな驚くだろうが、しかし事実そうであったと言わざるを得ない。ではなぜ成長できたかと言うのは日本語以外の言語を理解できたからである。えらそうに言うが日本語だけしか話せない人間の考え方は似たり寄ったりだ、そういう中で民族や文化考え方が違うとはじかれる。当たり前だが学校でも友達が少なく私は宇宙人のような扱いを受けていたことは事実であり、そしてそれは日本では当たり前のことだと思っている。でもしかし日本語だけではない他の言葉特に英語が話せるとたくさんの人と交流できるし、そこで得た体験は大きい。外国と言うのは広いもので話せば当然自分と同じような考え方の人がいるだろうし、全く違う人もいる。そこで自分が受け入れられ、時にははじかれそして受け入れていく体験が本当の自分のスタンスをつくり、そう言う経験が人にかかわっていくことの自信となる。

私は国語力のひくい人間が稚拙なルールで押さえつけて強制していくことで本当に人間は成長しないと思っているし、今そう言うことを正しいとすることは時代錯誤である。これからの集団はそういういろいろなものを受け入れていく能力のある群れが必要だ。私が責任者は知性を磨けと言うのはその群れの質をよくし、健全な相互関係においてかかわっていく群れを形成するためで、そういう中でこそ人間の個性が磨かれ成長するのだと思う。
                          
 
 


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私のペットボトル理論

2017-06-14 | Weblog

「すみませんペットボトル置きっぱなしにしてました」「このペットボトル昨日すてるのわすれてしまって」と会員の人が申し訳なさそうにそれをとって持って帰る。時々こういう光景がオリーブでは見られる。本来ならば私がペットボトルをすてるゴミ箱を用意すればいいのだが、しかし私なりにクラブのことを考えた上で水は持参してもらい、ペットボトルはきちんと自分で処分してもらうようにしている。なぜそうするかというのは小さな思いやりを大切にしたいからだ。うちの会員の人は何も言わずとも自分で持ってきたものは自分で処分してくれるし、できた人は忘れたらそれをわざわざとりに来て処分してくれるのだが、それはペットボトルをおきっぱなしにしたらごみになるとか、迷惑になる思っているみなさんの小さな思いやりの気持ちであるが、そういうちょっとした気づかいがあるかないかでクラブの雰囲気は大きく変わると思っている。心理学にブロークンウインドウズと言う理論がある。これは窓ガラスが割れると犯罪率が増えると言う理論であるが、ペットボトル理論はこの積極的版と言ってもいいだろう。クラブを汚してはいけない置いていったら迷惑がかかると言うちょっとした気遣いや思いやりがクラブの雰囲気をよくし、安心でき信頼できるクラブをつくると思っている。でもしかし私はこのことに関しては何も言ってはいないし、ルールなどもうけていない。ただごみ箱を用意していないだけ、でもひとりでもそういう思いやりの気持ちがあればこういう環境ではその思いやりの気持ちが伝わりやすいであろう。よくクラブの雰囲気がいいので人選してますかと聞かれることがよくある。もちろんアウトローは入会させることはしないが、根本的に私が考えていることは、その人の中にある善の気持ちを気持ちよく引き出せるクラブにすることである。


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Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant.

2017-06-13 | Weblog

私の好きな映画でスタンドバイミーと言う有名な映画がある。物語はある日、バーンは不良グループである兄たちの会話を盗み聞きしてしまう。3日前から行方不明になっている少年が、森の奥で列車に跳ねられ死体のまま野ざらしになっている噂。死体を見つければ有名になる。英雄になれるとそう考えた彼は仲のいい友達を誘って死体探しの旅に4人で出かける。彼らは途中、喧嘩もするが、お互い助け合いながら、鉄道の線路に沿って、冒険のような旅を続ける。鉄橋で危うく列車に轢かれそうになったり、沼ではヒルにかまれながら、その夜は森で野宿をする。物語を書く才能があるゴーディは、親に嫌われていることが傷になり、将来ものを書く希望も持てない悩みを打ち明けるが、クリスから物書きの才能を守るから必ず伸ばすように言われる。一方でクリスは家庭環境の悪さから自分の将来に希望が無い上、自分が教師の私利私欲に利用されたということを打ち明ける。しかしゴーディはクリスに進学することを勧め、励ますのだった。翌日、4人はついに死体を発見する。そこに不良グループが現れ、死体を渡せとせまるが持ってきた銃でおどし退散させる。そしてひと夏の冒険が終わり4人はいつものように町外れで別れた。その後は進路もバラバラになり、お互い疎遠になっていく。大人になったゴーディは作家となり、クリスは猛勉強して弁護士になる。そのクリスとも最近は10年以上会っていなかったが、クリスの刺殺事件を切っ掛けに「複雑な家庭環境のなかで仲間との友情を感じた12歳の頃のような友達は二度とできることはない」とゴーディは少年時代を静かに思い返す。その映画のシーンで私の好きなセリフがある。それは冒険を終えてそれぞれが帰って行く中でながれたセリフ「Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant(友達というのは、レストランの後片付け係りみたいに、人の人生に入ってきては出て行くものだ。)」であるが、これはスタンドバイミーの名言である。

このセリフを聞くと少年時代を思い出すのだが、誰でも子供の頃の思い出はある。この物語でもそれぞれ複雑な家庭環境を持った子供たちを描いているが、私が子供の頃も家庭環境が複雑な子がまわりにたくさんいた。中でも親が酒乱で虐待されてたチングは時々親父の暴力から逃れるために家に避難してきたものだ。ある時そいつにその殴られた日におやじを殺すのを手伝ってくれと頼まれた。何を言ってるんじゃと一蹴したがどうやら本人は本気であったようだ。当時は迷惑をかけたりかけられたり、そういう人間関係が我々のその住む世界では当たり前だったような気がするが今思えば我々も我々なりに一生懸命生きてきたんだなあと思う。

そして私が一番心に残っているのは学生時代の友人たちだ。彼ら彼女らとは励ましあったりなぐさめあったりそして時にはすごい激論さえしたものだ。最近の若い人はラインの返事が来ることか来ないとかでごちゃごちゃ言っているが、しかしそんなことを気にするようではもはやそれを友とは呼べないのではないか。親や教師には勇ましいことを言って迷惑をかけるが、しかし友達にはすごく気をつかって生きる、一体何のための友達かはわからないが、若いうちは多少友達に迷惑をかけてもいいと思うし、考え方が違えば時にはぶつかり合うことも必要である。私自身よくチングたちとはすごい激論をした。特に日本と韓国の問題はもうこれで関係は終わるんじゃないかと思うぐらい激論した。時にはお互い傷つけあうこともあったが、そういうことを議論でき、そして葛藤して受け入れることができるのは若さゆえの特権だと思っているが、我々はそういう激しい言い合いをすることでお互いの友情を深めていったと思う。私の学生時代はすごく楽しくて有意義なものであったと思う。しかし学生時代友達だった人間たちとはもうあっていない。ジョージ、アレン、ピーター、韓国人の女の子、たぶんもう会うことはないだろうが、でももし彼ら彼女らと明日会っても昨日あったように話せると思う。


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考えろって、まずお前が考えろ。そして本を読め

2017-06-10 | Weblog

日本のスポーツの監督はコミュニケーション能力がひくく考え方が稚拙だと思う。いかめしい雰囲気をつくって、通用する相手には恫喝する。人を押さえつけたり自分に従わせることがその群れをうまくまとめることだと勘違いしている人間が多く、おそらくこの手の人たちが考えていることは相手をどう支配することだと思っている。しかしスポーツはただ単にその技術を向上させるものではない、そのコミュニティにおいて人としても成長しなくてはいけない場であると思う。人間のコミュニティにおいてただ技術を向上させたり、礼儀と称して同じようなことをやらせるのはレベルがひくい、そういう集団はサルに芸を仕込むのと同じである。人間には個性がある。その個性を生かすためにはそれにふさわしい成長のさせ方がある。ただ技術を芸のように仕込む、できなければ怒りをあらわにしたり、あいさつは基本だと言って根拠もない様な事を命令のように従わせるのは人間の群れとしては非常にレベルがひくく、こういう群れにおいては社会的なコミュニケーション能力や精神的な成長などあり得ないと思ってる。

私自身もそのスポーツの群れを指導する立場であるが、私の場合はその群れにおいて人を支配するのではなく、どうしたらその人たちが生かされるかと言うことを考えて指導している。Facebookでハーバーマスと言う政治哲学者のコミュニケーション的理性を挙げた。これは対話において相手を説得しようと試みる理性は相手を目的達成の手段にしている道具的理性と言うのに対して、相手を尊重しともに合意を目指そうとする理性のことであるが、コミュニケーションと言うのは一方通行ではいけない。うちのクラブにおいて大事なことは人の話に耳を傾けると言うことだ。しかし耳を傾けると言ってもただ聞いているだけではだめだ、まず相手が話しても安心できて信用できるキャパをつくらなければ意味がない。そういう意味で勉強してものの見方を広げ考え方を深めることは非常に大事なことだが、そういう対話や人間の存在において人間、特に若い人たちは心や精神が鍛えられ成長するのではないかと思っている。

英語の論文を読めまでとはいかないが、指導者にとって多少の英語力や読書することは義務的なものだ。しかし本を読めと言ってもセンスのない人間がいて、リーダーとして何々とか何とか哲学とか名言集的なものスポーツ選手などの自慢話が盛り込まれた本を読むことが読書と思っている人間がいるが、こう言う手ごたえがなく内容が単純な本は単純な考え方をつくる。せめてニーチェとかヒルティとかNHKの講座ぐらいの本を読めと思うのだが、コミュニティにおいて言葉は大事だ。そして人を生かすためにはそのコミュニケーションツールである言葉が大事で、その言葉は練られたものでなければならない。それゆえにその指導者の知的レベルや読む本と言うのはその群れを意味づけ価値を示すものとして一つの目安になると思う。

 

 


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