脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Toxic olive

2009-12-28 | Weblog
明日はオリーヴの練習のしめくくりである。
終わってから大掃除をするのであるが、今年一年もいろいろなことがあり、いろいろな人たちと出会うことができ、今年一年もオリーヴにとって恵まれた年であったのだが、特に最後のしめくくりの試合で、A級トーナメントで優勝でき、画竜点睛を欠くことなく、1年の歩みが守れたことは、まことに感謝すべきことであると思っている。
韓国か中国のことわざにこういうことわざがある。
それはある有名な絵師がいて、その絵師が龍の絵を描いた。
絵師はもうほとんど描き上げたのだが、しかしほとんど描いたところでその絵師の手はとまり、ずっとそこで考えている様子であった。
不思議に思った弟子はなぜ彼の手がとまったのかと思い、絵を覗き込んでみると、何とその絵には龍の目の部分だけが描かれていなくて、絵師はその最後の部分の龍の目をいれることにたいそう悩んでいたのであった。
たかだか目をいれるだけで悩む絵師の様子に、不思議に思った弟子が「どうしてあなたは龍の目をいれようとしないのですか」と聞いてきたところ。
その絵師は「この目を入れるということは龍に魂を入れるのと同じで、この龍を生かすも殺すも、最後にどういう目を入れるかと言うことだ」と言ったそうである。
物事の終わりと言うのは、たいへんむずかしいものである。
オリーヴにとって12月のゴールデングラヴというのは、まさにそのしめくくり、といってもよいのだが、私自身もこの大会を終えると、一年間ボクシングの仕事をようやくやり終えたという気持ちになる。
今回A級トーナメントで優勝者をだせたわけであるが、しかしこの大会が今年最後のしめくくりとなり、まさにその龍の目となりえたのは、勝った負けたという結果よりも、みんなのがんばりがあったからだと思う。
今回この大会の様子は実際ブログなどでも紹介したのだが、このみんなのがんばりにオリーヴでも何人かの社会人や学生などが励まされ、自分も試合に出てみたいという人がでた。
さらに入会の問い合わせでも、自分はボクシングが経験がなく、年齢もそう若くはないが試合に出れますかという、問い合わせも何件かあり、聞けばここの30代の人ががんばっているのを見て、自分もやってみたいと思ったそうである。
私はここを設立する理由は、日ごろ仕事などで疲れている社会人を励ますためであるが、まさにそういうがんばっている人間がある人を触発し、励まし、勇気づけることができるということは、このクラブの理想であり、いい仕事をしてくれたと喜んでいる。
2009年が終わり、そして2010年の歩みがはじまるが、このクラブがさらにそういう社会人たちや疲れた人たちを励ませるように努力したい。
そして一年ごとにそれらを振り返ったときに「Es ist gut(これでよし)」と言えるように研鑽を積みたいと思っている。







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僕が空港に行く理由

2009-12-26 | Weblog
池上彰が著書「知らないと恥をかく世界の大問題」の中で、人材という資源をあげた上で、発展するする国かどうかは、その国の本屋を見ればわかるということを言っていた。
池上氏が言うには、その国の街に大きな本屋があって、そこに若者が大勢いるかが問題であって、彼が9年前に取材したヴェトナムは、まさにホーチミンには大きな本屋があって、若者が大勢、本を探していたのを見て、この国は発展するなあと思ったそうである。
私自身も仕事をしてきて本というのは、その人を成長させていく上では、非常に大事なものだと思っている。
自信も本が好きで、いろいろと学んでいるのだが、学んでいておもしろいと思うのは、学べば学ぶほど「自分は何も知らないんだ」ということが分かるということであるがこれは実に不思議なことである。
ソクラテスは人間は知っていることは何もない、人間は無知だと言ったが、自分はこの年になって、ようやくソクラテスの「無知の知」というのを、よくやく分かりだしてきたかもしれない。
これは解釈学的な問題にもつながるのだが、本と言うのはある意味、人間の意思によって書かれたものである。
だからその文字にしたためられた思いと言うのは、生きている。
時々古典などの本を読んでいて、こんな古い時代の言葉や考えが、今のこの現代にマッチし、するどいこといいあてているというようなことがある。
また私は海外生活で孤独な時に「戦記」や「哲学書」に励まされたのだが、それはやはり本自体が、その人の思想や考えを表しており、その人によって書かれた文字自体に力が宿っているからではないだろうか。
特にマルクスの「資本論」なんていうのは、その国や情勢によって水のようにかたちをかえる、ある意味生きている証拠であり、ばけものである。
最近名言集というものがよく書店で売られている。
私もかなり前だが「思わずにやりとするひと言」という名言集を買ったのだが、しかしこの名言週と言うのは頭の刺激にはいいのだが、考え方や思想と言うものをつくっていく上では短絡的な書物である。
むしろその時代にあって彼ら彼女らがどう生き、何を考えてきたかと言うことを理解し、また我々がそこから何かをつかみとり、励まされるという点では古典と言うものにふれることは貴重なことだと思っている。
この前練習生と「うつ」についての話をしていた時に、その練習清が運動というもひとつの大きな治療法だといっていたが、こういうことは、昔にアランと言う学者言っていたことである。
このアランだが「幸福論」というのが、最近訳され一時期読まれるようになったが、ストレスをかかえて生きる現代人にはひびく何かがあるのだろう、それは何百年前の昔の言葉である。
最近インターネットで情報をひろえるようになったが、しかしインターネットで得ることのできる情報はかなり短絡的である。
一昔前大学生の論文で、インターネットのウキペディアという辞書みたいなものを引用して参考文献に挙げていたというが、これもインターネットにより情報収集が短絡化したあかしであると思っている。
特に若い人に大事なことは、インターネットなどで、情報を集めてそれを駆使していく能力じゃない、むしろ本などを読んで自分の意見や考えをしっかりと持つことだと思っている。
最近古典と言うのは人気がない。しかし私は若いうちにこういうしっかりとした難解な本を読むことは、その人の基礎をつくっていく上では大事なことだと思っている。

最後に余談であるが、私はよく空港に行く。
行く理由は、高知に新書がいちはやく売られていると思っているからである。














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O HOLY NIGHT

2009-12-24 | Weblog
Celtic Woman-O Holy Night


今日はクリスマスイヴ。
私はむこうでクリスマスを過ごしたことがあるのだが、外国に来て、何がカルチャーショックであったかと言うと、このクリスマスの迎え方である。
以前もこのことについてはブログで書いたが、向こうのクリスマスは質素である。
おおよそ日本では恋人と会って楽しいひと時を過ごし、子供はクリスマスケーキを食べてプレゼントをもらう日となっているが、しかし欧米にはそういう習慣はない。むしろその日は教会に行ってミサを捧げ、家族とともに食卓を囲みクリスマスを迎える、今は少し古くなっているが、しかしそれでもそれが本来求められる欧米のクリスマスの迎え方である。
今日紹介した歌は「Holy night」という有名な歌で、これはもうこのシーズンになるとしょっちゅう耳にする曲であるので、知っている人も多いと思うが、少し古い英語の言葉が使われている歌である。
この「Holy night」日本語に訳せば「聖なる夜」なのだが「Holy」という言葉は、最近マンガや歌なんかにもよくつかわれていて、確かドラゴンクエストの武器か何かに「ホーリーランス」という武器があったことをおぼえているのだが、もう半分和製英語のように使われていると思う。
この「Holy」という言葉を聞いて、おそらく「清い」とか「清潔」とか、聖母マリアから思い浮かべるような「うつくしい」という言葉を思い浮かべると思う。しかしこの「神聖」「聖」という言葉というか、概念は、そういう可憐なものではない「神聖」と言うとけがれがなく、清いものだという発送を思い浮かべるが、しかし、少なくともこのクリスマスで使われる「神聖」と言う英語は違うのである。
それは今日の歌の中にある歌詞にに出てくる「Divine」と言う言葉が表しているのだが「Holy」も「Divine」も日本語に訳せば「神聖な」であるが、しかし「Divine」の語源は「区別する」であって、この「区別する」という言葉が意味するように、クリスマスと言う日は、他の日と区別されなくてはならない、特別な日である。
だからこの日は娯楽に興じて、自分たちが楽しむ日ではない、むしろ厳かにこの日を迎え、その神聖さをおぼえ、たたえなくてはならない日であり、そのために彼ら彼女らはミサを捧げるのだそうだ。
「Taboo」という言葉もこれと同じである。
日本語では「タブー」というと「ふれてはいけないもの」「アンタッチャブル」のことを言うのだが、しかしこの「タブー」と言う言葉もポリネシア語で「神聖」という言葉であるそうだ。
「神聖」であるから人間は触れることができない、そういう圧倒的な力が「神聖」であり、そこから転じて、今我々が理解している言葉の「タブー」となったのだろうと思う。
このことをふまえて考えてみると、欧米の人はこのクリスマスと言う日を特別視しているわけが理解できる。
しかし特別視と言ってもそれは日本のように軽いものではなく、厳かに、いにしえから伝わってきたこの日を区別し、守ろうとする敬虔な態度がそこにはあるのだが、こういう日を一年に一度でも覚えるということは、人間にとって、あるいは家族にとって大事なことかもしれない。
日本人もかつてはもう少し、厳かに正月を迎えたような気がする(私は少し文化圏が違うが)。
私もそうであるが、日本人は忙しくなったのだろうか、昔はおおみそかは、あわただしく、正月の準備をして正月を迎えたものであるが、今は日本人はその正月を「迎える」というよりも「休む」というかたちで過ごす過程のほうが多いのではないかと思っている。
いつの日からはわからないが、正月を海外で迎えたり、おせちがコンビニやスーパーで売られ、最近ではおせちを食べない家も多くなってきたというのだが、こういう傾向にも、正月は「迎える」というよりも「休む」という傾向が強くなってきたことを表しているのかもしれない。
私の家族も子供とWifeは大阪に帰省するので、いっしょに正月を過ごすということはないのだが、しかし家族が一年の一度でも、かつてのような厳かな気持ちで共に一年を迎えることは、非常に大事なことであり、意味のあることだと思う。
いささか大胆な意見かもしれないが、実は日本人が欧米人に比べて家族の関係が希薄であるというのは、実はこの点にあるのかも知れない。

最後に今日紹介した曲は、Hiでガールフレンドが教会の聖歌隊で歌うから来てくれくれと言われ、行った時に彼女らが一番最後に歌った曲である。
私はそのおごそかで、かつ美しいメロディに心うばわれたのだが、貴重な体験をさせてもらったと思っている。
告白するが、私はここ何十年と、夢を見たり、泣いた記憶がないのだ。
しかしこの歌のさび「Fall on your knees O hear the engel voices O night divine O when Christ was born.」を聞いて、自分では分からないが、Fall on your knees の言葉にぐっと来て、跪きたいような気持ちになり、感情ではなくよくわからないが、涙がでていたのはっきり覚えている。
確かガールフレンドが「よく「聖」を表す色として、白が使われることが多いけど、しかし私にとって「聖」とはそういう白のような弱々しい色ではない、なぜなら白は他の色に染まってしまうからだ。私にとって神聖な色は光を表すゴールドだ、それは圧倒的な力を表す色である」と言っていたが、私はその彼女の言う「光」にふれたのだろうか?よくわからないが不思議な体験であった。
「信仰」とはよくわからない世界であるが、この体験は私にとって」西洋を知る意味で貴重な体験であったことは確かである。








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2009年を振り返って

2009-12-19 | Weblog
2009年ものこすところわずかであるが、まず反省点としてあげられるのは、優勝できる選手の優勝を2回のがしてしまったことである。
私は反省なんていうことをめったに言わないし、人に促すこともないが、しかしこのことは私の中で大きくひっかかっている。
なぜできなかったのかと言われれば、答えることはできないが、しかし実力不足や練習不足ではないと言い切ることができる、おそらく言えるとしたならば、それはわれわれの経験の浅さではないかと思っている。
リングと言うのは何が起きるかわからない、予告不可能であるからどんなに実力のある選手でも100パーセント勝てるということはなく、ある程度それに対応し、処理していくからこそ勝利が生まれると考えている。
実際ある選手がフックでダウンを奪われたことがあったのだが、私はその時死角でそれがフックとわからず。
適切なアドヴァイスができなかった。もしフックとわかっていたならば、日ごろ練習してきたコンビネーションを使えば、おそらくそこで展開もかわってきただろう、ポイントでは勝っていたのだから。
次の試合から別のコーナーに誰かアスリートをたたせて、違う角度からあたったパンチやダウンしたパンチが、どういうパンチかということを4行以内で伝達させようと思っているのだが、しかしおそらくこれは作戦がどうのというよりも、見方、経験の部分が大きいのかもしれない。
十年以上ボクシングをはなれて、しかも外国でボクシングを経験してきた私にとって、地方での3年間はそれほど十分ではない、これからもっと研鑽して、1年ごとに進歩していくクラブでありたい。

アスリートの全体の反省としては、ドライヴィングがしっかりとできていない。
特にリードパンチをうつときに、ドライヴィングができていないので、前足が伸びきって体重が前にかからないというディメリットがある。
プロボクシングのような一発一発が勝敗を決める、試合においてはいいのだが、アマチュアボクシングのように、手数が勝敗を決める試合ではかなり不利である。
2010年の歩みとしては全体的に「けりあし」をしっかりさせて、ドライヴィングテクニックをみがこうと思っている。

ダイエットコースは今年はそこそこウエイトを目標までおとせた人もいたが、しかしそこまでできる人は、週2、3回と結構つづけてこれる人である。
やはり練習がまんねりかしてしまっては、試合に出場すると言う目的ではないので、練習に行くのがおっくうになる。
そのダイエット目的で来てくれている人にたいして、モティヴェーションを高め、楽しいと思える練習を提供したいと思っている。
またそれだけではなくスタッフなどと話合い、できるだけ効率のいい練習法を見つけたいと思っている。
2010年は私にとってわくわくする年である。
どういう人がここに入会するかまた、誰がどう成長するか期待したい。



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オリーブの精神論

2009-12-16 | Weblog
この前少し精神論について語ったことがある。
オリーヴの精神論は、肉体的に苦しめ、精神的に追い詰めて、精神を鍛えるというような考えではない。
むしろ人間は「弱い」ということを知り、そういう人間が支えあい、励ましあって自信をつけていくという考え方であるが、この考え方の基本にあるのは「支えあう」ということであり、そのことによって、アスリートは精神力ならぬ力を得ていくと考えている。
そしてこのことを実践するためには、われわれコーチが言葉をしっかり学ぶということを述べた。
なぜなら言葉と言うものには力があり、その言葉を力にかえていくのは、我々のインテリジェンスであるから、我々がいろんなことを学び、知ると言うことはその言葉を力にかえていく上でも重要な作業である。
所謂「煽る」と「励ます」は違う、しかしともすれば、われわれはこの「煽る」と言うことをアスリートにしてはいないかと言う懸念がある。
そして彼ら彼女らを煽らず、励ますためには言葉の研鑽が必要であり、十分に言葉をねって語らなければいけないということを以前ブログで書いたと思う。
時々練習や試合などで「死ぬ気で行け」とか「誰も助けてくれないぞ」という言葉がつかわれるが、こういう言葉は意味もなく使われる言葉ではないと思っている。
人間は弱い、そしてアスリートというのは常に不安をかかえて競技している。
そういうアスリートに対して「殺す」とか「死ぬ気でいけ」なんていう追い詰めるような言葉をつかうのは憚るべきである。
少なくともオリーヴではそういう言葉を使わない。
オリーヴでは根本的に人間は弱いという哲学的な問から入り、そしてその弱い人間が支えあい、励ましあうことに意義があると考えている。
しかし弱いから支えあうということは、所詮弱いもの同士だから、一緒にがんばりましょうというネガティヴなことではない、むしろ自分たちは弱いからこそ、どうすれば勝てるのかということを真剣に考える。
だからこそわれわれは、知恵が必要であるということがわかってくるのであり。その知恵を出しあうのである。
手前味噌な言い方だが、オリーヴの選手はよく考えている。そして人一倍アドヴァイスを求めるのもわれわれのカラーではないかと思っているが、そういうアドヴァイスの中で会話が生まれ、その不安を伝えたり、提言されたり、したりできる、会話力のある人間が多いことにも気づかされる。
時々試合で彼らはセコンドにもどってくるなり「どうしましょうか」と言ようなことを言う選手がいる。
これと同じく「どうしたらいいですか」と聞いてくるのもいるが、普通試合においてセコンドが一方的に何かを言うことはあっても、アスリートが何かを語りかけ会話をするということはないように思う。
しかしこのように選手そのものが問いかけ、会話が成立していると言うことは、まさに彼らが考えてボクシングをしているということである。
われわれはへたれが多いボクシングクラブである。
しかしその弱い人間が支えあい、励ましあい、そして知恵を出し合って競技している。そしてその支えあい知恵を出し合うということが、われわれの勝利につながるのだが、それを支えていくのが、われわれトレーナーの言葉や会話力だと思っている。



最後にこれは笑い話であるが、われわれは考えるゆえに時々おもしろい発想をする。
これは1年ぐらい前のゴールデングラヴでの話である。
その時うちの初代ピノキオは仕事がかなり忙しく、もう試合まで1ヶ月だというのに練習ができない、来れても週2回ぐらいでとにかくあせっていた。
そこでわれわれはある作戦に出た。
その作戦と言うのは、同じ階級ででる選手の名前を交換して呼び合うということであった。
お互いオーソドックスとサウスポーなので、いざ試合になると右と思っていた選手が左にかわる。これは有利だと思って使おうと、一応ラッキーの佐藤に聞いたら、出場停止になるおそれがあると言われたので却下。
一見冗談とも思える作戦であるが、しかしこの作戦少なくとも私と初代ピノキオは本気で使おうと思っていた。




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Routine

2009-12-14 | Weblog
「Routine」という言葉がある。
これは日本語で「日課」をあらわす言葉であるが、アメリカ英語では「ありふれた」というような感じで使われることもある。
最近「Routine」という言葉はスポーツにおいても使われてきている。
もともとスポーツ用語として存在していたのかどうかは分からないが、少なくともイチローが活躍し出した頃に、この言葉が頻繁に使われるようになった。
そもそもスポーツ学における「Routine」とは何か、この言葉はおそらく和製英語だと思うのだが、「Routine」とは試合などで、自分は必ずこれを行うと言う、動作や練習のことで、これをしていれば自分は絶対に大丈夫だという暗示のような動作というか行動である。
実際イチローは、バッターボックスに入った時にユニフォームの袖をさわり、バットを手を伸ばして、バットの先端を相手側にむける動作は知られているが、これも彼が行うルーティーンの1つである。
このほかにも彼は高校生の時、毎日欠かさず365日、10分間の素振りをしていたというが、私はこの「Routine」という動作をスポーツ学的に言えば、スポーツ選手が目的を達成するために、モティヴェーションを高めたり、スランプに陥らないための牽引力であると考えている。
まさにスポーツ選手が「Routine」を行い、それをかたちづくっていくことは、メンタル面や練習面において大きいことであり、自分の力を十分に出し切るためには必要なことかも知れない。
これは勤勉な日本人に限って言われることかも知れないが、聞く話によるとこの「Routine」がしっかりとした、規則正しい生活をおくっている子供は、成績もよく、伸びるということが統計的にでているらしい。
オリーヴは社会人が多く、仕事でそう毎日練習にこれない。
しかしこういった状況で、何人かの上達していく姿を見ているのだが、中には試合にでて勝ったものもいるし、優勝したものもいる。
少し抽象的な言い方ではあるが、私はここの社会人たちを見ていてわかることは、うまくなっていく人は、この「Routine」が、ある程度しっかりできているということである。
しかし私はこの「Routine」という言葉は、単に何かを毎日するということだけではなく、習慣的なことができる能力としてとらえているのだが、、おそらく仕事をして、誰に言われることもなく練習に来ると言うことは、結構たいへんなことだ、仕事の疲れもあるし、他の誘惑もある。
しかしそういうことがあっても、1週間のサイクルの中に練習をいれ、ジムに来て練習するのだが、ここに来ている人たちの中には、ひまな人はいない、みなさんそれぞれ責任ある仕事をしておられ、忙しい毎日をおくっている人たちである。
しかしそれでも1週間と言うサイクルの中で、練習時間をしっかりとつくり練習しているからこそ、短い時間の中でも効率よく練習できるのだと思っている。
何度も言うがここに来ている人たちに暇な人はいない、暇だから練習するのではなくて、忙しいけどそれでも時間をつくって来ているのだ。
何年かボクシングをやってきたわかることは、練習は量ではないということである。
もちろん量ではないということは、質のある練習をしろと言うことでもあるのだが、しかしもう一方ではこの練習のリズムと言うこともいえるのだが、とにかく決めたことを実行する能力というか管理が、最も効率のいい練習時間をつくりだすのだと思う。
スポーツ学において「Routine」という言葉は、和製英語である。
がしかしこの言葉は、勤勉な民族である日本人に対して、その解釈として最も適応した言葉であると思う。












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I do love you.

2009-12-11 | Weblog
この前のブログで言葉を大事にする音楽大学の人のことを書いたが、この人との出会いは知り合いの人に、今度私の姪がくるから日曜日にでもどこかに連れて行ってあげてほしいということで、その案内を引き受けたことである。
この人と会ったのは案内した日1日限りであったのだが、非常に品格のある人で、当時の私とはかなりミスマッチであったことをおぼえている。
なぜ彼女から品格があると感じたかと言うと、そのもっている雰囲気はともかく、言葉の表現、朝から夕方まで1日案内したのだが、決して悪い言葉をつかわず、そういう微妙な言葉さえも発することはなかったからだ。
その当時私には微妙な関係の女性がいた。
そういう人を案内するので、一応彼女にことわりをいれるつもりで、何かいい場所がないかと聞いたところ、やはりやきもちをやいたのだろうか、日本人だから観光客がよく行くハナウマベイにしとけと、なんとも言えない、いやな言い方をされてしまったことをおぼえている。
で私たちは実際彼女の勧めたというか、日本人のよく行くところに行ったのだが、そこでのどが渇いたので何か飲み物を買おうと、ある屋台のようなスタンドでコークを買おうとしたときだ、値段を聞いたら2つで6ドルというのだ。
「そりゃあ高い、コークって俺のすんでいるところじゃあ50セントだ」と言うと、「いやここはワイキキプライスだ」と言う。
ワイキキプライスなんじゃそれと思ったが、こちらも負けじと「わかった、そしたらチャイナタウンプライスのコークを2つくれ」と言ったら、あきれて「そんなものはない」という。
頭にきたので買うのをやめようと思ったのだが、しかし飲み物を売っているところは、当時ここしか見当たらなかったので、私は最後の交渉で2本買うからと5ドルにまけさせ結局5ドルでコークを2本買った。
この様子がよほどおもしろかったのか、その人は笑っていた。
そして私がお支払いしますというのだが、ここまでさせてしまえば逆にせこい奴と思われるのがいやで、「いやキャッシュで払いますので」と言って、5ドル渡してコークを受け取り、どうぞとコークを手渡した。
いつもだったらこの後「あいつらがぼったくろうとふっかけてくるので頭にきたので」なんて行っているのだが、しかしそういうことが言えず、「彼らが水増し請求をしてくるので、権利を主張しました」というと笑って「岡崎さんはたいへんユーモアのセンスがあります」と言われた。
言葉はその人の人格をつくっていくものである。
この女性が品があると感じたのはまさに言葉を正しく理解し、そのひとつひとつの表現の中に相手を気遣い、思いやる姿が見られたからだと思う。
コイネーで書かれた古い書物に「言葉の中にいのちがあった」とある。
人を生かすも殺すも言葉次第であると言う格言があるが、言葉というのは唯一神が人間に与えた命のToolであり、この唯一人間に与えられたToolを生かすか生かさないかによって、人間の質と言うものが、違ってくるのではないかと思っている。
しかし言葉を生かすということはただ言葉を表面的に理解し、道具のように言葉を使うことではない、それだとまさに「慇懃無礼」である。
さらにこのコイネーにおいて、この言葉は「愛」であるということを言っている。
この言葉があらわすことは、この我々があたえられた言葉というToolに、我々がその愛情や思いやりをこめること、そしてその愛情や思いやりこめることによって言葉は命となるのである。
時々英語圏の人が「あなたを愛してるよ」という時、「I Do love you」とか「I 100% love you」というが、まさしくこの言葉には、口だけではなく心からあなたを愛してるんだと言う意味をこめている。
言葉が命であるということは言葉は生きているということである。
この言葉を私たちは大切にあつかうことによって、またその言葉によって生かされるのではないだろうか。










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Something great

2009-12-10 | Weblog
試合前によく聴いた音楽がある。
バロック音楽やクラッシック音楽である。
よく試合前にラップなどのテンションが高まるような音楽を聴いて、試合前の集中を高めようとするものは多いが、しかしなぜか私はバロックなどのクラッシックを聴いて心をおちつけ集中力を高めた。
試合前と言うのは非常に不安である。
特にトーナメント戦は勝ち上がっていかなくてはならないのだから、精神的にもかなりこたえる。しかも私の舞台はは外国であったのだからなおさらである。
外国で試合をするということは非常に不安である。
はじめのころは自分以外の人間がすべて敵に見えたぐらいだが、誰も知り合いがいない場所で試合をするということは、いろいろな意味で怖いものである。
私がバロックやクラッシックを聴きだしたのは、ここに来て3ヶ月ぐらいたってからである。どういうきっかけで聴いたのかはおぼえていないが、とにかく聴いていると心がおちつき集中力が高まるので聴いていたのだが、JSバッハなどが代表するバロック音楽というのは、宗教音楽で神聖なものである。
私はそのころから、ラテン語などの言葉にふれ、聖堂やハワイのヒーリングスポットに行って、神聖な力をあやかろうとしたのだが、そういう場所に行くということは、何か違う言葉では言い表すことができない「Something great」にふれることができ、そこから何ともいえないような、おちつきを得ることができた。
私はこのことを体験することで、ある種の覚悟を決めるというか、たとえ結果がどうであってもそれをうけいれる覚悟ができる、そういうおちつきのようなものを得たわけだが、そういう開き直りのようなものが、実力以上の力を発揮させたのではないかと思っている。
人間はただ恐れず前にむかっていくと言うよりも、むしろある状況を受け入れることで強くされていく。
われわれが恐れるのは「戦う」ことではない「結果」である。
この「結果」を求めるからこそ、われわれは試合をおそれナーヴァスになるのである。
しかし試合前に「結果」をうけいれる気持ちを、もつことができるかできないかということでは、大きな違いがある。
「結果をおそれるな」とよく言うが、この結果を恐れないで戦うことができれば、どれだけ自分の実力が発揮しやすいかと言うことは、誰もが分かっていることである。
たいした才能もないが、私がある程度ここで実績をあげることができたのも、この落ち着きというか開き直りがあったからだと思っている。
実績自体もそうたいしたものではないが、こういう厳しい状況の中でたいしたことがない人間がここまでできたのは、そういうおちつきというか開き直りがあったからである。
しかしそういう状態に持っていけるのは、自分自身の精神力や集中力には限界がある。
何かわからないがSomething greatという、自分よりもに高い存在によって導き出されなくてはならない。
私が試合前神聖なものにふれようとしたのは、そういう理由である。
GFが「岡崎は試合前になると、顔がノーブルになってくる」ほめて言ったが、まさにそういう力が働いていたのかも知れない。


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言葉の勝利

2009-12-08 | Weblog
Celtic Woman - Don O醇^che 遵濺 i mBeithil-Christmas Celebration


動画の歌はケルト語の歌である。
私はケルト語は分からないので、内容はわからないが、英訳によるとこれはクリスマスの歌である。
この一番最初に歌っているソプラノ歌手であるが、彼女が歌の言葉を正確に発音し歌おうとしているように見えるのは自分だけだろうか、彼女の口の動きや息づかいに素人ながらではあるが、ケルト語を正確に発音し歌おうとしていることが分かるのだが、彼女は英語においても発音がかなりきれいである。
昔ハワイで頼まれて、知り合いの音大の学生の人を案内したことがある。
そこそこ英語が話せる人なのだが、この人もなるべく正確にその英語を話そうとするのであるが、やはり2人とも歌を通して言葉を使うからであろうか、その行動から、非常に言葉を大事にする姿勢が見られたのだ。
われわれも言葉を使うのであるから、言葉に対して敏感でなければならない。
言葉に敏感であるということは、我々がもっと日本語を学び、正確につかうということであると思っているのだが、日本語と言うのは意外と難しいものである。
私はそれほど日本語が正確に話せると言うレヴェルではないが、しかしそれでも電子辞書を持ち歩いて、あいまいな言葉や格言、ことわざなどは調べるようにしているのだが、日本語を表現するということが、いかに難しいかと言うことを実感している。
特に子供に指導をしていて分かるのだが、指導者が日本語を学び正確な日本語を話すと言うことは、大事なことで、それは親の信用にもつながる。
これは自分自身に対しても言えることだが、人に何かを教える仕事をする人はまず日本語をしっかりと学ばなければならない。
なぜなら言葉の持つ影響は大きいからである。
これは心理学で有名なたとえであるが、昔フリードリッヒ大王が生まれたての赤ん坊を50人ずつわけて育てたそうだ。
一方にはたえず言葉をかけたが、しかしもう一方には声をかけなかったそうだが、1か月たつと言葉をかけられた赤ん坊は、すくすくと育ったそうだが、しかし声をかけられなかった赤ん坊死んでしまったそうである。
これはおそらく本当の話ではないが、しかし言葉の大切さ、そして言葉が人間に与える大きさと言うことを物語っている。
アスリートであると言うことは、いろいろな試練に会い、それに打ち勝っていかなくてはならない。しかし時にはその試練に対して負けそうになることさえもある。
そういう人間が弱いとき何かを必要としてる時、まさに力ある言葉が必要であり、その力ある言葉は、人間のもつインテリジェンスから生み出される。
かつて私のコーチは、試合前、インテリジェンスの高い表現や言葉を用いて、それを紙に書きわれわれを励ましたのであるが、その引用は古典や聖書などのいろいろな書物からの引用であった。
おおげさであるが、われわれの戦いと言うのは肉体的な戦いだけではない、むしろ精神的な戦いが強いられる。その戦いにおいて精神が勝たなければ勝利はなく、そういうくるしい戦いにおいては、肉体が精神に勝って勝利することはないと思っている。だからこそ心を癒し、励まされる力ある言葉が必要なのだ。
よく肉体を苦しめて精神論を語ろうとするが、しかし精神論とはまさに精神を励ますことであり、われわれはこの精神論をいかすために言葉を学び、アスリートを勇気づけるのである。







 

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ゴールデングラヴ

2009-12-07 | Weblog
12月5-6日の2日間にかけて、兵庫県でゴールデングラヴが開催され、オリーヴは3人が決勝にのこり、うちひとりが級トーナメントで優勝した。
毎年オリーヴはこの大会に出場しているのだが、それには大きなわけがある。
ひとつはレヴェルに応じてAからEとトーナメントを組んでくれることと、もう一つは、1ラウンド2分と言うことである。
試合開催も土日と決まっているので、働く社会人には、出場しやすい条件がそろっていて、希望者も多いので、毎年7月と12月に開催されるこの大会には出場している。
この大会であるが非常に雰囲気もいい、参加している人たちも子供から女性、社会人や大学生などがバランスよく参加しているので、ボクシングの試合とはいえ威圧感が感じられず、私が常日頃から批判しているような偉そうな監督もいないので、参加者は十分競技に集中できるであろう。
この大会の1回戦でうちの選手とあたったフェザー級の選手がいる。
彼はちょうど1年前に一度、同じうちの選手と決勝で対戦したことがあるのだが、その時はおしくもRSC負けであったと思うが、負けっぷりもよく非常に好青年である。
実は彼は今回も惜しくも負けてしまったのだが、試合が終わって、判定を聞いてお互い相手のセコンドにあいさつに行くのであるが、彼が今回も前回と同じく素晴らしい試合をしてくれたので、握手を求めたのだが、その握手をした時に、彼がこういったことをおぼえている。
握手をしながら「ありがとうございました。次は絶対に」と、しっかりとした態度で「次は勝ちますよ」と言う意味で言ったのであるが、彼のこの言葉が胸につきささっている。
私は若い人のこういう言葉が大好きである。
負けても次こそは絶対勝つぞという、たたかれてもまた向かっていく態度に若い人が持っている特権というものを感じるのだが、私もよく向こうでは悔しい思いをした。
なんせアメリカは競技人口なども、明らかに日本とは違うので、才能や実力が追いついていかず、何度も叩きのめされていたい思いをしたものである。
向こうはスパーリングと言うよりも、マスボクシングとスパーリングの間の練習をするのであるが、その練習でも各の違いを見せ付けられ、ボディとアッパーをくらって前のめり込みに倒れたこともあるが、本当にその時はくやしかったことをおぼえている。
ベーブルースと言う映画がある。
もうベーブルースと言うのがどういう人物かは、説明する必要もないと思うが、彼は偉大な野球のヒーローである。
この映画のシーンで、彼が幼年期に野球に出会うシーンがあるのだが、そのシーンで彼がバッターボックスに入った時、相手の投げたボールをかすめることもできず、悔しさのあまり「A son of a bitch!」とつい口にしてしまうのだが、この言葉には彼の本当の悔しさがあらわれている。
彼は全力で大きく空振りした後にそう言うのであるが、この言葉を発した後にまた再び今度こそわとバッターボックスに入るのである。
年をとって分かるのだが、こういう悔しさをはきだすことができるのは、若いうちだけである。
私もよく練習で悔しい思いをした時に、こういう激しい言葉が出て来た。
マススパなどでも各の違う選手とやって、少しパンチをあごにかすめられただけで倒された時、悔しくて「Son of a bitch!」と自分自身をののしったものであるが、この若い時に、どれだけ悔しい思いをしてがんばったかと言うことが、その人の人間の幅をつくるのではないだろうか。
最近失敗を恐れるものが多いが、若い時には必ずといっていいほど人間は失敗するものであり、その失敗を跳ね返す力が十分に若い人にはある。だから若いうちは全力でぶつかっていくことができる。それが若さの特権ではなかろうか。
競技をすればかならず勝ち負けがある。
勝てばラッキー負ければチャンスである。
私はその競技において大事なことは、単に勝つことよりも失敗にどう立ち向かっていくかと言うことであり、その失敗にどう立ちむかうかということが、大きな成長と結果をもたらすと信じている。
アメリカに「最大の名誉は決してたろれないことではない。倒れても何度も立ち上がってくることだ」という東洋人が言ったとされる格言があるが、失敗しても何度もたちあがり、そのくやしさをばねにした勝利であるからこそ、喜びも大きいのである。
私はオリーヴの選手たちにそういう喜びを手にしてほしいと願っている。












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