脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

どうやったら群れれるのでしょうか?

2014-10-30 | Weblog

私は韓国語を教えているが韓国語は非常に大雑把な言葉である。
この前文字を読む練習でチマと言う言葉が出て来た、チマというのはスカートのことでチマチョゴリというのは女性が着るスカート型のチョゴリのことでむこうではすそのひろがった形のものをまとめてスカートと言うのだが、この発想は日本人から見たら非常に大雑把らしい。
確かに韓国語は大雑把である。例えば入口のようなものをムンと言うムンとは玄関の戸や寺の門も同じムン窓はチャンムンと言うが彼ら彼女らにとって人が入ったり出たりするところはすべてムンである。
マンドウと言う言葉もそうだ、これも非常に大雑把でマンドウと言うと日本語の饅頭もマンドウだし、餃子もマンドウおそらくそれらしき形をしていたらすべてマンドウと言っていいのだと思うのだが、そう考えるとたこやきもマンドウと言っていいかも知れない。
さらに人間の自然現象や生理現象に関してもそうだ、韓国語で涙はヌンムルだヌンと言うのは目そしてムルは水でヌンムルと言うのは目の水と言うことで、髪を切るというのを頭を切ると言ったり、彼ら彼女らは人間の生理現象に関しても単純にとらえていることは確かである。
はっきり言って韓国語は表現力に乏しい言語である。向こうの修士論文を英語で書くと言うのがまさにそのことを物語っているのだが、表現力に乏しい言葉であるから感情や情緒をこめて表現する必要がある。だから向こうの人間は感情的であり情緒的であると思う。
しかし韓国語が表現力に乏しい言語だからと言って、韓国人の表現力が乏しいと言うことではない。
彼ら彼女らがいろいろと言葉を組み合わせて自由に使う表現力は豊かであると言ってもいい。
あるおっさんなどは自分がどれだけ我慢したかと言うことを伝えるのに(実際はそうでもないが)俺は血の涙が出たとおおげさに表現するのだが、こういう表現は韓国語だからこそ自然な表現であると思う。

これは私の経験であるが言葉をおぼえると感情が安定してくる。自分の言いたいことや考えていることをうまく表現できるだけでも行動を慎むことができるのだが、私の行動や感情が安定してきたのはまさに言葉を勉強し表現力を養ってきたからだと思っている。
しかし勘違いしてほしくないのは韓国語が表現力に乏しいから彼ら彼女らが未熟だと決して言っているのではない。哲学の分野では世界100に哲学者に入る学者もいるし、言葉をうまう形容して書く詩は素晴らしいものがある。
私が言いたいのは言葉をおぼえることはすべてのことにおいてアドヴァンテージであると言うことだ。
自分の考え方を整理できるし、言葉をおぼえることで多面的な考え方ができるので原因をひとつで考えるのではなくいろいろな可能性を考えることができるのだが、それだけでも疑心暗鬼になりにくいであろう。
群れる奴と言うのは言葉が乏しい。言葉が乏しいので話を誇張したり、でかい声ではなすのだが、それはまさに言葉が乏しく表現力がないからである。
言葉をみがけばそれなりにきちんとした人が集まってくる。
たくさん言語を話す必要はないが、しかし日本語をきちんと話し、まともに話ができるリテラシーを持つ必要があると思う。


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Homo Sapiens

2014-10-19 | Weblog

金曜日のブログが久しぶりに閲覧者が300を超えたが、ここ最近は一日に100から200ぐらいであったが2年ぐらい前に400何人と言うのがあったが300と言うのはひさしぶりである。

私は数えられる名詞と数えられない名詞を教える時に犬が好きと言う表現を使う。
犬が好きはI like a dog I like dogs I like dogのどれが一番適切な表現か?と言う質問をするのだが、正しいのはI like dogsで院は一匹ではないので、単に犬が好きだと言う時は複数形にする必要があるからである。I like a dogだと少しおかしいが犬が好きなんだと言っていることがわかるが、しかしI like dogは少し意味が違う。
I like dogとa theもつけない複数形でもない状態で犬が好きだと言うと食用の犬の肉が好きだと言う意味になる。
ここからが数えられる名詞と数えられない名詞の説明になるが、この数えられる名詞と数えられない名詞を理解できたらI like dogが食用の犬が好きになるということが理解できるのである。
じゃあまず数えられる名詞って何?
勉強した人なら何となく言葉には説明できなくても、それを判別することはできるであろう。私の説明ではまず数えられない名詞と言うのは物に入れたりしなければ数えられないもの、そしてそれ自体を切ってもやぶいてもこわしてもそれだと言えるものだ、例えば紙がそうだ紙は切ってもやぶいてもそれ自体が紙だと言える。さらにチョークもそうだと思う、チョークもおってもそのおったもう一方をチョークと言えるので数えらない名詞であると言うことができるのだが、そう考えると犬などの動物が切っても形をこわしてもそれが犬だと言えるのはロースやカルビがビーフだと言える食用の肉であってI like dogと言う言葉をネイティヴが聞いて食用の肉が好きだと言うのはそういう発想から来ている。
MOBでは英語を教えているのだが、こういう冗談まがいのことを言って教えている。
この前のレッスンで会員のひとりが面白かった。話にひきこまれてしまってはじめて英語の授業が楽しいと思ったと言っていたが、たぶん私が教える英語は実戦的と言うよりは楽しく学ぶことができると言ったほうがいいであろう。

ボクシングも授業と同じでそれを楽しくするかしないかはその教える人間たちがどう知恵を使うかと言うことである。トレーニングの仕方、それらを取り巻く環境、そしてウイットにとんだ会話をもってトレーニングを楽しくする義務はあると思ってる。そういうところに知性を使うことができない奴はダメだとさえ思っているのだが、どこかの新興宗教の信者のようにトレーニングを修行のように一生懸命するものだけが中心で何となく楽しんでるようなクラブであってはいけないと思っている。
スポーツと言うのはすべての人間が競技する権利がある。
うちのクラブもDQNお断りであるが来たからには平等に楽しむ権利がある。
ジムによっては試合に出るものしか教えないと言うようなもったいぶった奴らもいるらしいが、たぶんそれはくだらない権威づけのようなもので、真剣にやってるかやっていないかという線引きをしているのだと思うのだが、しかし私にして見れば目立つための目標を持つ人間よりも地道にコツコツと仕事帰りにくるダイエットの人たちのほうが真剣とさえ思えることもあるのだが、スポーツは競技するということだけではなく、ダイエットや健康維持でエクササイズすることもスポーツであってここに何らかの差別をすることは公共の場であるボクシングクラブとしてはおかしいことである。

世の中では何をやっているのかは知らないが、一般社会の人間が一生懸命仕事をして、金を出してジムに来ているのにそういう子供のような差をつけられること自体心外である、何を考えているのか知らないが社会人もいるのに試合に出るものしか教えないと言うのは幼稚すぎるガキのような考え方で、コンプレックスがあるのでそういうことを言って人と差をつけてえばっているにしかすぎない。
現にたいしたこともないような人間がジムに来ると自分がいかに強かったかなんていうことを示したがる。
他に何もできない人間のルサンチマンやコンプレックスのあらわれだと思っているのだが、他に何もできないからボクシングの実績や経歴にこだわるようなところはバカだと思う。

だいぶ前にたかだかボクシングされどボクシングと言ったが、一部のほんのごくわずかな人間以外はボクシングは趣味である。
ボクシングだけだけをするのではなく、むしろ仕事や勉強に励んで生きることが大事でその当たり前の自分たちがやらなくてはならないことを一生懸命やりながらスポーツをすることで、そのスポーツが本当にその人の生きる人生の中で価値をおびてくる、それはいくら実績がなかってもだが、そういうスポーツの仕方をすることが大事であり、そういうことを教えるのも指導者の責任ではないか。

人間を正しい場所に導くのは人間が与えられた知恵によると信じている。
パスカルは人間は考える葦だと言った。これはいくら人間の存在が宇宙に比べて小さくても人間にはそれに勝る知性があるということであるが、人間は知性によって行動し導かれることが必要である。
何とかチャンピオンとかそういう肩書もいいが、しかし肝心な部分がかけてしまったら群れの健全性をうしなってしまうであろう。

最後に人間をあらわす言葉にホモサピエンスと言う言葉がある。
よく勘違いしてこの言葉自体が人間だと思っている人もいるが、しかしホモと言うのはラテン語で持つ者的に使われていて、ホモサピエンスは知性を持つものだ。
さらにホモルーデンス(遊ぶもの)ホモモータリス(やがて死すべきもの)ホモファベル(道具を持つ者)と言う言葉も人間をあらわす言葉なのだが、しかしホモサピエンスと言う言葉が人間をあらわす代名詞のようになっているのは人間だけが他の動物に比べてすぐれた知性を持っているからである。










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通訳を軽んじるな

2014-10-16 | Weblog
少し前のブログで通訳を軽んじるなと言うことを書いた。
国際社会でのスポーツは主張が求められるから言葉がわからなければ通用しない、日本人は言葉がわからない主張できないからなめられる。なめられるから都合のいいようにルールをかえられたり、不正を行われたり、暴言をはかれるのだ。
今回のアジア大会にしてもなめられっぱなしだ、普通国際大会などでは必ず現地の言葉がわかる人間と英語が話せる人間が同行することになっているのだが、特に韓国と言う国の事情を考えたならば韓国語を理解し、向こうの文化に精通している人間を同行させる必要はある。
向こうの人間の話によると通訳のボランティアはあまりよくないらしい。なぜなら向こうは大手の会社に就職する時にスペックというものが求められる。
スペックと言うのはもともと仕様と言う言葉であるが、韓国ではその学生がどれだけ使えるかと言う能力をあらわしたもので、成績、英語力、資格など就職に必要な必要不可欠な条件である。
通訳や海外でボランティアをしたなどということもそのスペックのうちで学生は履歴書にそのことを書きたいから通訳のボランティアを希望したということもざらにあって、その通訳の質がいいかどうかと言うことは二の次で、こういう通訳はあまりあてにはできないと言っていた。
このアジア大会ではいろいろな疑惑があったことは確かである。さらに宿泊施設など対応のあまりのわるさが問題になっているが向こうのやり方を知っておけば事前にふせげることもあったのではないか、毎回毎回対戦するたびに同じことを繰り返すのは学習していない証拠だ。
相手の国のことをきちんと知って分析してどう対応するのかあるいは何を主張するのかと言う戦略を練るのもこういう国家がらみの大会には必要なことだ、だからこそ語学習得はスポーツにおいて大事な要素だ。

日本のアスリートは語学力がひくすぎる。あるインタビューでバカそうなアスリートが英語のことを振られて私はゼスチャーでと言っていたが、こういうことを堂々としかもお約束事のごとくうけをねらって言うからなさけない話だ。
最近ゴルフなどはメインな大会では英語が話せないとプレーさせないなんて言うルールがあると聞いたが、日本ももっとこのことに危機感を感じる必要がある。
特に6年後のオリンピックにむけて競技者に語学を習得させることを奨励させる必要があるのだが、国際大会に行っても通訳は数が限られる、ましてや韓国などの国で通訳にたよるわけにはいかない。
何かあったらいちいち通訳を探しに行くのは非常にみっともないことである。せめて日常会話ぐらいはできるようになってほしいものだが、ボクシングにいたっては盗撮ジムみたいな程度のひくいジムがあるように小学生レヴェルでも理解できないのではないかと疑っているが、世の中はボクサー=バカだと思っている人間も少なくはない。盗撮、置き引き、おまけに英語がまったく理解できないなんてまさにその王道を行ようなものだ、チャンピオンになれとか世界を目指せと言う前に世間が求める常識的な学力と常識を持たなくてはならないのだが、その真逆を行くような奴がいるから恥ずかしい話である。
日本人は優秀で工夫をする職人気質なので語学を習得できて他の国に行っていろいろなことを学んでくるとそのスポーツの練習や技術面でも大きく進歩する。
言葉と言うのはパスポートのようなものだ、この言葉を理解することでたくさんの情報を集めることができるし、コミュニケーションがひろがる、私は東京オリンピックにむけて語学習得を奨励する必要があると思う。









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オリンピックの見方をかえる

2014-10-13 | Weblog

インターネットの出会い系で「Tom,handsome,vertically challenged male seeks a partner for life」と言う記事があった。
「vertically challenged male」と言うのは背がひくいということであろう。それにしても背のひくい人をvertically challengedと言う表現は笑わせるものがあるが、この表現はおもに障害を持った人たちに対してつかわれる言葉であり、障害をdisabilityととらえるのではなく特性としてとらえていこうと言う試みからこの言葉を使うようになった。
前にブログで義足のランナーであるエイミームーランと言う人をとりあげたことがある。
その彼女が講演で自分の人生をふりかえってこういっている。
「逆境と言う言葉は避けるべき言葉ではない。自分の人生の一部だ。それは影のようなもので、それを乗り越えていこうとするのではなく自分がそれに向き合って踊るようなものだ。逆境とはまだ対応できていない変化である」
まあこのブログは「accepting yourself and admitting your weakness」を見てくれたらさらに私の主張したいことがわかるのだが、人間がその弱さを受け入れ、そしてそれを認めて前向きに前進していく姿と言うのは今最も尊ばれる言葉である。その力は生きていく上での本当の力となり、それは人を突き動かす大きな力になると信じているが、彼女のようにそういう生き方をしている人たちにとってのchallengedと言う言葉はからまわりした言葉ではなく、その生き方にふさわしい言葉であると信じている。

あと6年でオリンピックが開催されるが、しかし今のところ日本のアスリートはうっとうしい人間が多い。
理由はスポーツバカが多いからだ。ひとつのことしかできないようなバカがテレビと言う公共の電波を通して部室で話すようなくだらない発言をすることにたいして非常に不快感を覚えるのだが、最近ではお笑いのようにうけをねらっているような奴もいて、そういう奴に茶の間が好感を持ってしまうのだから恐ろしい話だ。
日本はなぜこういう一つのことしかできないような人間を特別扱いするのかわからない。
はっきり言って彼ら彼女らが何をしたのか知らないが、私から見ればただ好きなことをしてきただけの話で、ただそれが人よりも上手だっただけの話ではないか?
私はこういう奴らを英雄化するよりも障害を持ってそれと向き合って乗り越えてきた人たちをもっと尊重しテレビなどで取り上げるべきだと思っている。

メダルか何か知らないがただ好きなことをやって来たような人間から何を学べと言うのか?確かに謙虚になって考えれば何か学ぶことがあるのだろうが、しかしどのスポーツ選手もやっていることは同じことで、ただ頑張れと煽っているだけ。サクセスストーリーのようなものは茶の間でうけるのでただそれを英雄視して視聴率を稼いでいるにすぎない。
それよりもむしろ今必要なのは、自分の弱さやディスアドヴァンテージを認めてそれとどう向き合っていくかということである。強く生きるためにはそういう力を蓄える必要がある。だからこそ私はパラリンピックをもっと興味をもって取り上げる必要はあると思っている。

スポーツと言うのは人間が成長していく上では大事なものだが、しかし人間はバランスをもって生きることが必要だ。スポーツだけでは絶対に人は成長しない。
成長するためには、エイミームーランの言葉をかりれば、自分の弱さを受け入れそれを認めて変化を求めること、そして変化を求めるためには視点を変えることも必要だ。








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国際大会では通訳こそが重要だ

2014-10-10 | Weblog
アジア大会である中国人水泳選手の「今夜は中国国民にとって溜飲がさがる思いをさせた。正直に言うと日本の国歌は不快に聞こえる」と言う発言が物議を醸し出している。
こういう国際舞台で国歌を侮辱するコメントをのこした人間も人間だが、しかしそれに対してコメントした日本の選手団にはあきれた。
日本の選手団は彼の発言は悪意がないとコメント、さらに「孫選手と仲がいい。どういうつもりでコメントしたのかわからないが、翻訳が曲解された」と言っていたが、しかしこの選手団は自国の通訳よりも暴言をはいた、しかも国歌を侮辱した人間を信じようとするのか??

私はコメントを聞いていったい通訳を何だと思ってるんだと思うのだが、このコメントは通訳を軽んじていると同時に彼ら彼女らがいかにスポーツ村と言う小さな世界で生きているかと言うことが垣間見れると思う。おそらく彼ら彼女らの中では競技者が主役で通訳が脇役という構図ができていて、そういう考え方があるから競技者である中国人選手をリスペクトしたのだろうが、国の代表が国歌を冒涜されているもかかわらず通訳がおかしいなんて言うことは的外れなコメントでこういうことを言うこと自体スポーツバカである。
さらにこういう場面で仲がいいですよなんてコメントするのも非常に稚拙で、こういう発言自体体育会と言う狭い考え方から脱却できていない証拠、こういうメンタリティーであるから彼はモチベーションを上げるためにああいう発言をした。それは競技者にしかわからないなんて発言しかねない。こういう時こそカウンターをしかけるチャンスではあるが、しかし何もできないからなさけない話だ。

はっきり言ってスポーツは国境をこえると言うのは絵空事だ。
むしろスポーツは代理戦争でその代理戦争がある意味国民の鬱憤をはらす役割を担っていると思う。
私はこういう大きな大会では競技パフォーマンスもそうだが、その競技者や団体の言葉や行動など注意深く見ている、なぜならその国の人間の言葉や行動がその国の情勢を反映しているからで、そういう意味では言葉を伝える通訳と言うのは非常に重要な位置を占めている。

これは私の体験である。ボクシングはマイノリティのスポーツであるが、しかしそれでも私はその国の中に入ると東洋人である。それはたとえ小さな州であっても大会で東洋人が優勝するとなるとあいつだけは優勝させるなと躍起になってかかってくる。HIは比較的移民が多いのでそこまでえげつなくはないが、しかし実際にヨーロッパ系の白人にお前だけは勝たせないと言われたことは確かなことだ、日本のスポーツには国境はないのだろうが、しかし他の国は代理戦争、メンツをかけて戦ってくる。
韓国のようにきたないことをしようが勝てば官軍、それを食い止めるには水面下、あるいは言葉の力で威嚇していかなくてはならないと思うのだが、言葉を扱う通訳と言うのは重要な役割だ、その通訳を言いたいことを言う道具のように思っている人間は国際社会で生きていくセンスがないと思うのだが、まさにこの選手団の発言はそうである。

私は韓国語を教えながら向こうのいいところはもちろん、違う文化やこれはおかしいと矛盾しているようなところを伝えているが、これからの通訳はただ単に向こうが好きだからとか憧れとかというものだけではなく、客観的に相手のわるいところや矛盾点なども教えていく必要があると思っている。








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なめられる日本人

2014-10-08 | Weblog

NewsweekあったかThe TIMESだったかは忘れたが、その記事の中でこれからは英語力もそうだが表現力、主張する力が大事であると書かれてあった。
まあこの表現力と言うのはある程度英語力を考えてのことだろうが、しかし日本の英語力はかなりひくい中でもTOEFLは韓国が10位にたいして日本は27位と少しはよくはなってきているが、しかしそれでもまだまだアジア上位の国とは差があることは間違いない。
日本人が海外でなめられるのは英語が話せないし自分の意見を主張できないからだ。
ロンドンオリンピックでもアジア大会でも日本人はなめられっぱなしだ、バトミントンのコーチのコメントにしても、インドのボクシングの競技者はメダルを辞退するという抗議に出たのにこれ以上組織委員会に質問状をあげたり抗議するつもりはないなんてなさけない話だ。
私なら英語と韓国語で抗議書を書いておくってやるのだが、それができないのは非常になさけない話である。毎回こういう大会があると日本は被害者側になるのだが、それははっきり言って思いっきりなめられているからである。

私から見ても日本人のスポーツ選手の軍団はつっこみどころ満載である。
日本では子飼いを従えて偉そうな態度をとっているのに海外に行くとかりてきた猫の子のようにおとなしくなるのはなぜか?
自分が言える相手には偉そうに親でも言わないようなことを平気で言う。
ボクシングでは試合で髪の毛が耳にかかった選手をその場で切らせたという奴もいるし、ちょっとしたことだが靴がそろっていないだけで大声で呼び出すやつもいるが、しかしこういうことが言えるのは自分よりも弱い立場の人間で、それが外国人相手だと何も言えないから情けない話だ。
これはある学校での話だが、その会場で我々が間違ってとめてはいけないところに駐車してしまったことがある。それで門に鍵がかけられてしまって外に出れない、出れないのでそこの学生を探して事情を話したて鍵をあけてもらったのだが、普通止めてはいけないところにとめるのはルール違反である。我々もてっきり時間も時間だしきつく注意されると思ったのだが、しかしなんとその学生はこともあろうか迷惑をかけてすみませんとあやまったのだ。たぶん私だったら「Fuck you!」ものだ、とめては行けないと言っていたでしょぐらいは絶対言うと思うのだが、おそらく日本の運動クラブの上先輩にはさからえない、上の人の言うことは正しいと言う上意下達的な考え方が迷惑かけてすみませんになったのだと思うが、こういうアホな上意下達的なしきたりが世界でも類を見ない裸の王様たちを生み出したのだと思う。
はっきり言って言葉もわからない主張できないような人間が何の役に立つのかわからないが、私なら海外に行ったらこういう人間を信じることはできない。
おそらくアジア大会なんかは自分で身の回りのことはやるし、それよりか友達を頼ったほうが心強いと思うのだが、言葉は悪いがこういう世界的な大会はある意味お互いがメンツをかけて戦う代理戦争のようなものである。だから言葉ができない意見がはっきりと言えないと言うのはまるごし同然、もっと危機感を持たなくてはこれからもこういうことに巻き込まれる可能性は大である。







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Accepting yourself and admitting your weakness

2014-10-03 | Weblog
ある英語のコラムで自信についての書かれてあった。興味深いので読んでみたらそこには自信について自信とは自分がやってきたことを信じること、そして他人を勇気づけたり元気づけたりできる存在であると書かれてあった。
特に勇気づけたり元気づけたりできるというのは納得がいくが自分を信じると言っても、もし誰かを勇気づけたり元気にできなければ自信はただの過信か思い込みであると言ってもいいだろう。
そして最後のしめくくりにこう書かれたあった。そのまま英文をのせるが、Accepting yourself and admitting your weakness is the primary element to having self confidence.
自信を持つためにはまず自分の弱さを認め受け入れることが第一である。孫子の兵法にも己を知って敵を知れば百戦錬磨だと言う言葉があるが、兵法においても自分を知るということは自分の弱点を知ることでありその弱点を十分知ることで本当の強さが見えてくるのではないだろうか。
最近よく言われるのが個性を認めてできる特異な部分だけを伸ばしていくと言うやりかたがあるが、こういったやり方においてもまず自分はこれができるのだからと単純に取り組むのではなく、自分はこういう部分が弱いからそれを補う意味でここを伸ばして行くんだというようなやり方のほうが本当の才能を伸ばすことができると思っている。
事実多くの偉人と呼ばれる人たちが、その自分のディスアドヴァンテージをアドヴァンテージにかえてきたことはよく知られていることであるが、そのディスアドヴァンテージがあったからこそ自分は成功した言っていることはよく聞くことである。
エイミームーランと言う義足のランナーがいる。
彼女は自分の人生を振り返って、逆境と言う言葉を避けるべき壁のようなものではない、自分の人生の一部で影のようなものでそれを乗り越えるというよりも自分がそれに向き合って一緒に踊るようなものだ、逆境とはまだ対応しきれていない変化なのだと言っているが、まさに弱さを認め受け入れるということはこのことではないだろうか。
彼女の講演を聞いたらわかるが非常に積極的で勇気づけられるもので、そしてその彼女の表現は今まさに大きなインパクトをもって差し迫ってくることがわかるであろう。
だいぶ前に予備校の講師が英語の現在進行形は5秒でそれをやめれるかどうかの行為だと言っていたが、自信とは単に確信したり信じることではない、自信とは現在進行形だ。
それは今まさに自分の弱さをみとめてそれを受け入れて克服しようとする行為であり、その行為をやめてしまったら存在しないもので、今まさにその行為がおこって続いているからこそ、人を励ましたり勇気づけることができるのではないだろうか。



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ワンツーと体幹

2014-10-01 | Weblog
英語は文法じゃないと言うのは負け惜しみだ。
根拠があっていうのならそれなりの理由があるのだろうが、しかしそういう人間はたいていできない話せない、話せないから文法のせいにしているのだろう。
最近英会話のテキストを探しに本屋に行くことがあるのだが、一番多くあるのがフレーズ集だ。
こんなものおぼえてどうなるんだろうとさえ思うのだが、その場面での会話集などと言うのがあって、道を聞くと時とか買い物でとかそういうシチュエーションでの決まったフレーズがのっているのだが、しかしそれをおぼえたからと言って相手が必ずそう答えるとは限らないのであまり意味がないと思っている。
英語のプロが選ぶワースト教材で最も多くあがっていたのがスピードラーニングと言うフレーズ集だが、まさにこれはフレーズ集は役に立たないということを言っているのだと思う。
英語は文法が大事である。
特に中学3年ぐらいまでの文法は話すためには最低限必要な文法でこれぐらいの文法力がなければ相手にされないであろう。
ここでは中学三年間の文法をやりながら日記をつけてもらっているが、そうすることで自分が英語で何を伝えたいかと言うことを表現する力がついてきていることは確かなことである。

ボクシングでも何でもそうであるが基本的な練習と言うのは大事なことだ。
しかし基本と言っても日本の体育会系のおやじが言うような抽象的なことをおしつけることではなく、基本と言うのは反復練習のこと所謂ルーティンなトレーニングだ。
スポーツ心理学によるとこのルーティンなトレーニングを続けることで自分はこのことをやっているから大丈夫なんだという自信につながるそうである。
しかしこういう地味トレーニングと言うのはなかなか好まれることは少ない。
最近ではこれと並行して視聴覚からはいるトレーニングもあるので、実際にイメージ力をつけてトレーニングすれば形だけではあるがそれがスムーズにできるようになることもあるが、実際にはこういうかたちで覚える技術と言うのは付け焼刃的で実戦では十分であるとは言えないであろう。
よく技術的なことが実戦では使えないというのは実戦の経験が少ないということだけではなく、ルーティンな基本的なトレーニングをしていないからだ。
私は試合に出たいと言う人にはルーティンなトレーニングをすすめているのだが、ワンツーだけを延々とうたせても飽きて違うことをやりたがる人が多いのだが、しかしこれを続けた人は間違いなく上達している。
これは私の持論であるがワンツーと言うのは体感を鍛えるためには一番適したパンチである。
だからまっすぐのコンビネーションをトレーニングさせることで全体のバランスがよくなってくると思っているが、ワンツーをうつことは体幹運動のひとつだと思っている。















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