脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日本人の性質

2013-09-30 | Weblog
「日本人の性質」
あるテニスプレイヤーが観客のためいきがテンションをさげるからやめてほしいと言うようなことを言っていた。
私も以前日本人が人が弱気になったり、まけそうになった時などに、がんばれとさも同情するかのような応援に対してよくわからないというようなことを書いたことがあるが、スポーツをしていて人に同情したり共感しようというような気持ちを持つのはおそらく日本人独特の性質で、たぶんそういったことがため息と言う行為に表れているのだと思う。
私自身はそういう感情はわきあがってこないのだが、日本人は応援するときに負けるなということを言うが、これはいいかわるいかは別にして、戦っている相手に対してなぜ負けるなというマイナス的な言葉で応援するのか理解できない。
韓国ではこういう時イギョラ(勝て)と言うが、日本人がこういう表現をするのはたぶん彼ら彼女らが島国で生まれたからだと思っている。
作家のオンソンファさんだったと思うが、日本の相撲と韓国のシルムと違って土俵に出たらまけになるのだが、その感覚を韓国人は理解出来ないと言っていたが、おそらくそれは日本人が海に囲まれて生きていて、外の世界は未知の世界で、すなわち外に出てしまうことの危機感から気持ちが内に向かっていくのではないかと思っている。

「子供にボクシングを競技させることは愚行である」
そういうことを奨励している人間を見たらわかるが、決して賢いとは思えない。そういう乱暴なことで成長すると考えているような奴は本当にバカそうな顔をしている。
最近ボクシングに力を入れている国はアムネスティで問題になっている国で、こういう人権を理解しない国が子供のころからアドバンテージを持たせるために鍛え上げるのであるが、はたして頭蓋骨が大人にくらべて柔らかい子供にそうさせることが正しいことなのであろうか?
スポーツの原理は競争である、そしてその場合の競争はあくまで自由競争でなければならない。言わずともここで言う自由競争と言うのは中国のようにそれが国に指定されて、それ専門に競技する人間をつくることではない。
日本人は中国のように子供から育ててなんてバカなことを言っているが、こういうことを言うのは本当にバカで子供の人権と言うものを本当に考えてはいないと思う。
前にも言ったが欧米ではそういうことをさせるのは大人の問題であって、大人が子供にボクシングを競技さえるのあたっては医学的なことや倫理的なことを考えて判断しなくてはならない。
しかしそれでも日本と言う国家はスポーツをする権利があるのだから、アメリカのようにきちんと何が危険であるか、そしてもし競技を続けた場合には死んだり、重度の障害にもなるうる可能性を説明して、コントラクトにサインをさせる必要があると思うのだが、たぶん欧米社会では子供にボクシングを競技させた場合はこういったことが問題になってくると思う。
話はアメリカの話になるが、アメリカでは小学生のころは4つぐらいスポーツをかけもっている。
日本だったら考えられないことだが、4つも競技できるのは実践から競技に加わっていくからで、向こうでは小学生のころから基本とか言って素振りのようなことをさせることはなく、まず競技をさせてスポーツをする楽しさを教えることからはじまるのだ。
日本のスポーツはどう見ても修行である。その修行を子供にもさせるのだから異常である。
最近では何とか明るい雰囲気を作ろうとしているが、しかし私から見たらそういう雰囲気は実際に経験しないと理解できないもので、今のボクシングの指導者には海外で何年も競技していたなんて言うような人間はいないので、時にはそういう雰囲気がかえってしらじらしく見えるわけで、それはまさに新興宗教の集団に見えることさえあるのだが、本当にスポーツを修行の場にしたくないのならば、まず人権と言うものを理解して、宗教の勧誘でもないのだから、これが一番で競技人口を増やしていかなくてはならないなんていうことを思わない、自分も楽しんでやればいいと思っている。
私はアメリカと日本の決定的な違いは競争の原理にあると思っている。私が学生時代に競技していた州も毎年練習試合なども含めて試合がかなりあったが、向こうでは試合などで競争させていい選手を選出する。すなわち競争の原理の中で残っていくことがいい選手の条件である。
*アメリカの場合は競争が主体なので、もし競技人口が少なくなれば資源とその競技は淘汰されていく、それは仕方がないことで、アメリカのアマチュアボクシングの低迷はその競争の原理に基づいてである。
しかし日本はどうか、よくいい選手を育てるというが、たぶん子供にボクシングをさせるのも子供のころから育てていい選手にしていくという発想からだと思うが、しかしこういうシステムが根付いてしまったらスポーツ自体が閉塞的になり、一度そのスポーツをはじめてしまったら、ほかのスポーツがやりにくくなるというディスアドヴァンテージが出てくる。
まさにこういうシステムの中で、何も考えを持たないバカが、今はやりのほめてその気にさせれば子供はその気になって将来は世界チャンピオンなどとその気になるが、しかしこういうつくられたシステムの中で本当に子供が自発的に意思を持って楽しいと思えるのかは疑わしい。
まあ何とかの弟子とかいう奴は、よく飼いならされている。そういう奴らを見ていたらわかるが、子飼いになって育てられたというような奴はたいていは素直なバカ、人から言われてコピーしたことは言えるが本当に自分の意見を言うことができない。
親玉の言うとにただハイハイハイと言葉をかえす姿を見ると、ハイがワンに聞こえる。
まあ聞いているふりをしているこずるい奴もいるのだろうが、そういう人間がそろった世界だから英語が話せない、海外に出ても何も意見を言うことができないのだ。







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言葉は大事だ

2013-09-25 | Weblog
よく親が子供に自信をつけさせるためにスポーツをさせると言う話があるが、しかしそれはやらせかた次第である。
はっきり言って本当に自信をつけたいならば論理的に考え、自分のいいたいことを明確に伝えることができる能力を養うことである。いくらボクシングができてもこれができなくては社会では通用しない、自分たちの子飼など聞いてもらえるからでかい口をたたけるというのはなさけない話で、人前で自分の言いたいことを論理的に伝える能力はスポーツでは必要なことである。
ロンドンオリンピックでえげつない判定をだされたことは記憶に新しいが、これは日本人だからと完全になめられているのだと思う。自分所の子飼いにはあれだけエラそうに言えるのに外国人には何も言うことができない、はずかしいとは思わないのだろうか?
しかし外国人はおかしいと思ったら聞く、伝える、抗議する、いわゆるスポーツ選手もそういう表現力を持つ者は少なくはない。
ボクシングではモハメッドアリがまさにその人物であるが(論理的であるかどうかは別だが、しかし感性はすぐれていた)ヨーロッパのサッカーなんかを見てもそうであるが、ヨーロッパの監督は非常に知的で、たぶん知的でないとチームをうまくまとめていくことができないのだと思う。
たぶん縦社会しかわからない、監督の言ったことをみんながイエッサーと言うような世界しか知らない日本の監督はヨーロッパ社会では通用しないと思っているが、まだまだ日本のスポーツ界は封建的で、気が小さいやつが多いので何も言わせない、専制政治的な組織をつくる監督にあこがれ、モデルとし、何とかそうまとめようとしているのではないかと思っている。

しかしこれからのスポーツ選手は論理的な思考を養い、どんどん表現していかなくてはだめだ、私は論理的な思考と表現力はある程度スポーツによって養われると信じているが、しかし縦社会しかしらないDQNの指導ではそういう力は養われないであろう。

話はボクシングの話になるが、私はボクシングと言うスポーツは健康維持やダイエットは別として、このスポーツを競技する理由はマイナス的な理由が多いことに気づく。いわゆるコンプレックスを持った人間が多い。
勉強もできない、たいした人間でもない、そういう人間が単に目立つからとか、これをやっていたら一目置かれるだろうというような理由でボクシングを競技することはよくあることだ、もちろん最近では単に興味本位で競技する人間もいるが、しかしチンピラが刃物をもったような感じで、これをやっただけで俺は他の奴とは違うんだというような思い込みは根本的にすてさらなくてはならない。

ジムと言うのはそういう奴が集まりやすく、教えている奴にそういうバカもいることは確かだ。
まず自分ところの指導者がきちんと自分の言葉をもっているかどうか考えてみたらいい、たぶん体罰なんかをふるう奴はきちんと自分の言葉をもっていない奴が多いと思うのだが、きちんと議論できない奴は傷つきやすく繊細である、繊細で傷つきやすいというのはわるいことではないが、しかし指導者としてはだめだ、そういう奴は根本的には自信がなく、コンプレックスがあるので話す人間も特定で、そのせいか特定の人間が集まりやすく暴走族のように仲間中心に集まる傾向がある。
たぶんそういう奴らの仲間に入っても成長できない、バカなクラブのミーティングはミーティングと称して、スパーリングがおわった後に、ひとりずついいところとわるいところを感想として言わせているらしいが、こういうミーティングは小学生のおわりの会以下、大人にもやらせているらしいが、こういうことをするのはいかにその指導している奴の程度が低いかと言うことがわかる。
たいした学や知識もないのに、一方的にべらべら聞いてもらえるからしゃべるというミーティングも時間の無駄だ。
よく日本人は何をどう話すかと言うことを悩むが、しかし外国では話すことは当たり前、監督は自分が話すことよりも話させるためにはどうしたらいいかと言うことを考えることが第一である。
しかし何の知識もボキャブラリーもない奴がさっきの話ではないが、スパーリングの後に人のいいところとわるいところをそれぞれ言わすというのはバカ丸出し、こんなレベルで話させても言いたいことを言うだけの会になってしまうだけ、こんなことをオリーヴのメンバーにしたら間違いなくバカだと思われる。
話させるということは刺激を与えなくてはならない、言葉で刺激を与えるということはその指導者自らも言葉をたくわえなくては子供や人に刺激なんか与えることができない、子供に刺激を与えることができないからステレオタイプの人間いわゆる前に言った素直でスポーツしかできないというような人間しかそだてることができない、スポーツバカと言うのはまさに連鎖からくるものである。

よくスポーツは人間形成だという奴がいるが人間形成と言うのは権威主義の中で礼儀と称してハイハイハイと言うことをきかせて人の顔色を見るような人間をつくっていくことではない、私は人間形成とか子供を成長させるということは大人が語る言葉と深くかかわってくるのだと思っている。



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タビチ すべてを照らす光

2013-09-20 | Weblog
だいぶ前の子供のドッジボール大会で、試合の番を待つ子供たちが鬼ごっこをしている。
みんな楽しそうだ、しかし一人だけみんなと走り回ってはいるもののタッチされない子供がいる、その子は満足そうにみんなと走り回っているのだが、しかし彼は透明の存在である。
そしてドッジボールの試合はその子が入るからとリーダーのお母さんが言う、しかし子供たちは顔を見合わせて○○って誰、おいおい君たち今一緒に走っていた子供じゃないか、かなりさびしい気持ちになったが、しかし子供と言うのは残酷だ、どうやら彼は名前がわからない透明の存在である。たぶん彼は誰も気づいてはくれないが、一生懸命みんなについていくことで自分の存在を示し、居場所を求めていたかもしれない。
その子が気になって私はずっと見ていたが、結局彼は最後まで透明の存在であった。
しかしもしひとりでもその子の存在に気づいてあげるものがいたら、その子は透明の存在でなくなる、スポーツクラブと言うのはそのひとりの存在に気づく一人になることだと信じているが、スポーツするということはまさにその子を受け入れることであり、きれいごとのように聞こえるがスポーツは性格の違いや国籍、宗教や思想などをこえて存在するもので、そのことをこえて競技するからこそ、その人の存在が認められるのだと思うが、私は子供にとってのスポーツのフィールドがそういう存在を認めることができる場になることが必要だと思っている。

しかしはたしてスポーツクラブは、そういう役割を担うことができているであろうか?
はやり言葉のように個性と言うようなことを言っているが、実は私は日本のスポーツクラブと言う場は、平等と言うよりも、むしろ差別的な構造で、そこではステレオタイプの人間が育ちやすい社会だと思っている。

将来のオリンピックを育てるなんて言っているが、お受験でもあるまいし、そこまで子供に責任を負わすことは異常だ、スポーツと言う枠を超えている、たかだかスポーツではないか。
ボクシングにしてもそうだ、将来のオリンピックでメダルをとるために小さいころから頭をバンバンたたいて連取させているが、しかしボクシングと言うのは、若さのカタルシスを向けるために存在しているようなもので、昔とんでもないわるがボクシングによって救われたというお決まりの話があるが、まさにボクシングはそういう人間を救ってきた。
しかし小さいころから特殊な人間を集めて煽って競技させる、倒しあうプロならまだしもアマチュアと言うつくられた世界では、高校からはじめても遅い、そういう意味ではアマチュアボクシングも差別化が進み、たぶんそういう枠で縛っていくと必ず閉鎖的な世界になる。はたしてボクシングと言うスポーツの存在意義とはそういうものか、歴史的に考えて見ればいいだろう。

今やスポーツを指導するにあたっては、単なる技術論だけではなく、倫理や児童心理学などの学問的考察が必要であru.
私も実際に宗教学や哲学を学んできたが、医学や化学の場合は実験や研究の結果が重要なのに比べて、そういう哲学いわゆる文系はどれだけ資料を集めることができるかということで、その資料を集めるのに日本語ではとぼしい、英語が必要なのだ。
スポーツクラブは学校ではない、ひとりびとりの存在に気づきその子供を受け入れる場であると信じている。スポーツは平等で自由だ、そしてどういう気持ちやかたちであれ競技することができる。だからここに来たらスポーツをやるための条件はない、挨拶ができなくても返事ができなくても、スポーツを競技しに来ているのだから、そういう子供や人間を受け入れることができる開かれた場として存在しなければ意味はないと思っているが、そのためにいろいろなことを学び、いろいろなアプローチの仕方でこの競技の存在意義と言うものを考える必要があるだろう。

しかしスポーツクラブにはサルのようなヒエラルキーがあって、まだまだ日光猿軍団のような親玉中心の世界で非常に閉鎖的である。
中学受験する子供よりも国語力のひくい奴があいさつしろ、あいさつは基本などと言うのはギャグ以外にありえない、こういう奴は何をするにもいちいち条件をつけがちであるが、しかしスポーツをするぐらいで条件をつけるな、すべてを受け入れてやったらどうか。
あいさつしろ、敬語もろくにきちんと話せないバカが何を言っているのだろうか、スポーツの指導者に多いのはスポーツをコミュニティーの場としてとらえるのではなく、自分たちのくだらない王国をつくりあげること、ある運動部員などはランニング中に人が通るととまってチワーッスとあいさつするらしいが、こういう行為を行き過ぎ、何かおかしいとは思わないのだろうか、過ぎたるはおよばざるしと孔子が言っているが、世の中の感覚で言えばまさにそれ、たぶんこういうことをさせる監督自身が狭い世界でしか生きてこなかったので世の中の感覚についていけない、世の中とのずれがあるのだろうと思う。
あいさつをしない、返事ができないのはしつけだとか、そういうことを小さい時からしつけるのもスポーツだという奴もいるだろうが、しかしそういうことを決めつけて言う奴はまさしく狭い世界で日本語しかわからないで生きる人間、非常に狭い世界で生きていると思う、もっといじめの問題や児童心理学や集団心理学、あるいは社会学などを学べばいい、そういった学問的なことに理解できれば私があいさつや礼儀と言うものにはこだわる必要がないということが理解できると思う。
私がいいたいことはあいさつしなくていいということではない、今の社会はいろいろなタイプの子供たちがいる、中には問題を抱えた子や難しい子供もいるが、スポーツはそういう子供たちのうけざらにならなくてはいけない、そのためにはいちいち杓子定規な考え方で条件をつけていてはいけない、もっと客観的な目で見て受け入れろ、くだらないヒエラルキーや組織、考え方をこわせ、そのためよく勉強をしろと言うことだ。

英語が話せない、お受験クラスの小学生以下の国語力もないような奴が広い視野で物事をうけとめ考えるなんて言うことはできない。
そういう人間が子供を導いてもミスリードしてしまうだけ、アホなボクシングの肩書に固執せずに、世の中の動きをよく理解し、子供をよりよい道へと導くために勉強したほうがいい。












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When I was small

2013-09-17 | Weblog
私は子供のころからまわりの人間とうまく合わせることのできないいわゆる問題児であった。
今ではうまく人とコミュニケーションをとり、話すことも立て板に水で、自分の思っていることを人以上に伝えることには長けていると思うのだが、しかし本当に昔は言葉をうまく伝えることができない人間で、あまり話したくないことだが、周りかなりをこまらせていたと思う。

私が思う日本人の悪いところはそういう子供がいたら集団にあわさせようとすることだ、なぜこの子は周りとうまくやっていけないのかと、スポーツクラブなんて言うのはその典型的な場所であるが、たかだかあいさつの声が小さかったり、あいさつができないと人生の基本ができていないとおおげさに問題視するが、しかし子供だからできない人間はできない、それに実際問題をかかえた子もいるし、それを軍隊でもあるまいし、強制的にさせると、今度は逆にそれができない人間を裁くようになる。今あるクラブの先輩による体罰と言うのはこういう構図でおこっていると思うのだが、本当に挨拶が大事というのなら、まず自分たちが正しい敬語を覚え、自分たち自らが挨拶をしてやるということを心がけて見ろ、こいつらのあいさつは上下関係をはっきりさせるためのもので、はっきり言って教育的でない。少なくとも敬語や日本語を正しく話すということはその人の品格をつくることであるのだから、本当に礼儀と言うことを教えたかったらまずそのことをしっかりさせる必要がある。そういうこともできないであいさつが基本と言うのは勘違いも甚だしい、今全国の中学受験の国語の問題がどれぐらいのレベルかわかっているのだろうか?最低の国語力もないような人間がエラそうにあいさつや礼儀などと言う資格はない、たぶんそういうところで強制的にさせられるあいさつなんて言うのは上下関係をはっきりさせるためのものである。

なぜこういう集団は、うまくかかわっていけない人間をだめだとみなすのか理解できない。たぶん日本の場合は同じ民族、一つの言葉というのがその壁をつくっていると思うのだが、しかし世の中と言うのは広い、よくスポーツ指導者は見分を広める必要があると言っているが、同じフィールドだけで物事を考えていてはだめ、スポーツと言うのは世界にあまねくのだから、できるだけ物事を広くとらえて可能性と言うものを考えてあげる必要がある。

たとえばそこがどうしてもだめだったら違うところに行くとか、日本がだめだったら言葉を覚えて外国に行くとか、自分の行動を広げていったら必ず理解できる人間に出会うし、自分にあった生き方も見つかる、人間は生まれながらに個性と言うものがある、人に合わせようと努力しても個性が強い人間にはそれができない、無理に合わせようと努力しても挫折するだけ、私はここに来た子供にはボクシングだけではなく、ほかのスポーツあるいは文化的なことでアドバンテージを感じたら、それをすることもすすめるようにしているが、特に子供の場合は可能性がいっぱいある、それを競技人口を増やすとか、子供のころからやっていたら有利だとかで、こういうせこい考え方をしていること自体愚かで狭い考え方だ、宗教の勧誘でもあるまいし、来た人間をなるべくにがさないようにするのではなく、いろいろな可能性をためせるようなコミュニティでなければならないのだが、残念ながら日本は欧米に比べてそういう場になりにくい、それしかできない同じことしかできない運動バカがヒエラルキーのトップにいて、明日のジョーやスポ根漫画の影響かいちずに一つのことを続けるのが男の生き方だと思っているので、欧米のように小学生の時は4つぐらいのスポーツをかけもってという柔軟な考え方はできない、あいさつ、基本と言うのはその人間を自分たちの世界にとじこめてしまう手段で、こういう杓子定規でバカが牛耳るスポーツ界と言うのは健全ではない。
今そこを見るのではなく、彼彼女が見れる未来に目を向けてやることも大事なことで、特にスポーツと言うコミュニティーはそういう人間を見て育てることができる場であると信じている。

私はスポーツによって人間は平等と多用性を認めることができると信じている。
実際海外でやったものにはわかるが、海外では国籍が違えば複雑なものがからんでくる、私自身バイレイシャルなので学生の時、一度韓国で試合をしてみたいと言ったことがあるが、その時かえってきた答えは殺されるよ、米国でも決勝などになったらよその土地のアジア人に勝たせてたまるかと言う雰囲気がただよい、かなり殺伐とした雰囲気になる、実際決勝戦で何とも言えない雰囲気の中で、ファイトしたが、思い切り敵対視してうってくる、その前勝った相手が同じチームの選手だったので、ジョージが日本語でかたきうちだと言っていたが、こういう雰囲気はたぶん日本にはない。案の定その試合は激しい試合だった(こいつのせいで私の鼻の奥がまがっているが)でもしかし試合がおわれば、我々は所詮アマチュアなのだから、握手を求めてくる、勝っても負けてもにやっと笑って「thank you」と私自身も同じように「thank you」とかえすのだが、その時何かを理解できたような気がして、言葉では言い表せないが何か受け入れられたような気がして、この体験は本当に自分にとっても貴重な体験だった、そしてその時の体験は自分を大きく変える「これが人を認めることなんか」といろいろと悩み考えていたことが、こういう単純なことを通して見えてくる、それは同じような考え方をもった人間ではなく、自分とまったく違うような人間にぶつかっていくからこそ見えてくるのではないかと思う。



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Pediatricians urge parents to keep kids away from boxing, head injuries をトレーナーは理解できるか?

2013-09-13 | Weblog

7月27日のLA timesの記事の見出しだ。
「16 years old boxer dies after sparring match」
もう説明する必要はないと思う。英語が読める人間は検索して調べればいいが、この記事はボクシングを未成年にさせることの危険性について語っている。
どんなバカなトレーナーでもdieと言う言葉は知っているだろうが、わからなければ辞書で引いてみればいい。
この少年が何歳からボクシングを始めたかと言うことは書いてはいないし、その死因が蓄積されたダメージによるのか、はたしてその時の衝撃かはわからないが、しかしこういう練習でなくなったということは、もともとそういうダメージが蓄積していたと考えられる。

ボクシングは頭をたたくスポーツだ、その危険性特に幼少のボクシングについてはこのタイトルにあげた記事だけではなく、多くの医師や評論家が危険であると警告しているが、子供の将来を考えたらさせるべきではない、かなり自粛しているアメリカでさえこういう事態がおこりうるのだから、日本もこのことを真摯に受け止めるべきである。
確かに幼少の部ぐらいでは死にいたるということにはならないだろう、しかし子供の頭は大人に比べて柔らかい、これは医学的に言えることで、大人が脳震盪から回復するのに3日かかるのに対して、子供は10日もかかる、こういう衝撃を子供の頭にあたえ続けることがはたしてよいことなのだろうか?はっきり言ってだめに決まっている。

よくジムでも子供にスパーリングをさせたり試合に出場させることに対して、うちは幼少の部はあるが、本人の希望以外ではやらせないというようなことを言っているところがある。中には小学生に減量させて節制しろと言うあほもいるらしいが、しかしこういうことは本人の希望がという問題でもない、小中学生にむかって希望者以外などと何をたわけたことを言っているのだろうか?
タイトルにも「Urge parents to keep kids away from boxing, head injuries」とあるように、こういうことは大人が危ないと思ったらさせるべきではない。減量もそれと同じことが言えるのだが、こういうことは子供や一部の熱狂的な親が判断することではない、そういう問題は子供に正しい理解をもとめ判断できないから、大人が安全かそうでないかということを判断するのではないか、こいつらはcompusory educationの意味を知っているのだろうか、私が親だとこういう考え方しかできないアホに子供を近づけたくないが、こういうことを言っている奴は、英文どころではない文章をあまり読んだことがないのだろうと思う。そういう稚拙な人間の考え方がまともかどうかは冷静に考えれば理解できること、うさんくさい奴らは、楽しいとかわきあいあいやってまーすというようなことを強調して、引き込もうとするが、しかし常識的なことや学問的なことにたいしてはいい加減、ボクシング論は一緒前に語るが、そんなものは常識や学がなくても語ることができる、そんなたわごとよりも医学と言った一番肝心なことに対応し答えることが大事である。

欧米では医師が子供にボクシングをさせるのは危険だという論文を書いているが、医者がこういう論文を書いても何の利益もない、逆の場合はありうるが、しかし何の利益もないのにこういう論文を発表するということは、本当に危険であるからだ。


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俺の国籍をかえせとはいわない

2013-09-09 | Weblog
英字新聞にこういう記事があった。
「s.korea leftist lawmaker arrested」記事によれば、左翼政党の議員が有事の際に武装して内乱を起こす企てをしているということで、近く証拠をそろえて逮捕する見込みである。
少し古いが正直言ってこの記事を読んだ時、外国人にも参政権をなんて言っていた政党があったがぞっとした。日本は日本人のものだけではなと言っていたのがいたが、この記事を見てどう思っているのだろうか?インタビューでもしてやればいいのだが、私は日本も然り、こういうことが起こりうるのであるから、今の日本の現状において外国人に参政権を与えるというのは反対である。
しかしこのことでよく引き合いに出されるのが、二重国籍の問題である。
外国では二重国籍が認められている。そのアドバンテージをあげて日本もこれにならって二重国籍を認めるべきだなんて言っていたが、しかしそれはかなり勝手が違う。
日本では我々のような人間は21歳までに自分の国籍を選択しなければならず、その選択の方法は宣言することである。
日本人の感覚からして、宣言と言うとなんだ宣言だけでいいのかと思うが、しかしこの宣言は外国からそのまま持ってきたのだろうが、外国人にとって宣言はアメリカの独立宣言にも見られるように非常に重い誓約で、もともとは自分たちの宗派の教会などを建てる時に神との契約として用いられてきたものである。
アメリカも然り国家に対して忠誠を誓うような踏絵のようなものが存在すると思うのだが、これは私の恩師の話である。
その子供さんはアメリカに来て30年以上日本語よりも英語のほうが話しやすい言葉で、米国人と結婚している。
その方がもう何十年もここに住んでいるのだからと、米国政府にアメリカ国籍の所得を申請、そして宣言したのであるが、しかし所得できなかった。普通30年も住んでいてアメリカ人結婚していたならば、所得できてもおかしくない、しかしその宣言の中で「あなたは有事の時にアメリカのために武器をとることができるか」の問いに正直にノーと答えたことがひっかかって認められなかったそうである。
アメリカと言う国にはところどころそういう踏絵が存在する。国民の祝日や行事に試合がある時は国家を流し、その流れた国家を胸に手をあてて聞いている。ハワイはまだ歴史的にネイティブなど問題があるので遠慮しているところがあると思うのだが、そういう時は何かが違う、たぶん日常の中で国家ということを意識させられるのだろうが、日本とは国家に対する考え方が違う。現に国家にそむく罪は重罪、そんなことはアメリカ人はアメリカ人として生きていく中で、当たり前のように意識させられている、宣言させられているのだ。
韓国での踏絵は徴兵制、韓国ではたとえ親が韓国人で韓国で生まれて二重国籍を持っていようが、国民として認められるためには徴兵の義務を負わなくてはならない、当たり前の話である。
しかし日本はどうか?だいぶ前テレビで日本国籍をとった奴が、堂々と日本国籍をとれば便利だからとったという奴がいたが、こういうことが堂々としかもテレヴィで言えるのだからおそろしいものだ、もし外国人が参政権を持つようになればとんでもないことになる。だから二重国籍は認めるべきではない。
最近では日本国籍を放棄しないということであれば、二重国籍が認められるらしいが、しかし実際にスパイなんかもいるらしいので、ここらでそういう人間をとりしまる法を作って国会で可決したらどうであろうかと思う。

でももしそういう法案が通り、スパイに対して政府が目を光らせたら、私は絶対に疑われる。名前を二つつかいわけてメールやスカイプの履歴でこいつは誰と話しているのだとなれば、目をつけられる可能性はあるだろう。

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ケハクセンって??

2013-09-02 | Weblog
最近韓国語の授業でおもしろいことがあった。それはある生徒さんとテキストを読んでいる時、彼女は国語力があるので韓国語の上達がはやいのだが、しかし読む時ひとつのくせがある。それは「ケ」の音を読む時であるが、いきおいあまって「ケッ」と言って少しの間でとまってしまうのである。一瞬どきっとする。なぜなら「ケ」は韓国語で犬のこと、ヨーロッパや日本では犬はどちらかと言うとそんなにわるいイメージでとらえられてはいない、どちらかというといいイメージである、がしかし韓国では犬はどちらかと言うとわるいイメージでとらえられ、この犬野郎!というとかなり強いケンカ言葉であるし、韓国語にも英語のようにbitchと言う言葉が存在するが、しかしそのbitchも実際は犬と言う言葉ともっとえげつない言葉をつなげて表現している。
だからいきおいをつけて「ケッ」と言うとドキッとする。たぶん韓国人に言うと同じくドキッされるので「うん間違ってはないけど「ケ」でとめるな「ケ」でとめたらやばい」といったのだが、しかしこの前意識しすぎて大学生テハクセンをケハクセンと言ってしまい、二人で大笑いしてしまったのだが、何度も言うが彼女は国語力が高いので、韓国語の文法も理解しやすく、優秀なので半年ぐらいでだいたい話せるようにはなると思っている。
しかしこのケハクセンには意表をつかれた、めちゃくちゃ笑ってしまった。
たぶん我々は「ケ」と言う言葉はつかってはいけない言葉として認識しているから「ケ」と言わないのだが、しかし日本人はそういう概念はない、ここで思うことは言葉と言うのは意識するかしないかというだけで出てくる言葉が違う、言葉と言うのはそういう細かいことも意識して使わなくてはいけないということで、それは語学を教えるときにも教える必要があると思っている。

よく指導する人間は言葉を大事にしろと言っているが、公平不公平と言うのは言葉と大きな関係があると思うからだ。
たぶんそれは指導者の対応力やコミュニケーション能力と大きくかかわっている。
社会と言うのはいろいろな人がいるのは当たり前のこと、クラブと言うのも社会人の集まりであるからさまざまな人がいて、そこには学歴の高い人間や社会的に地位の高い人間たちもいて、人間力の高い人たちもいる。
同じような仲間を理解し、コミュニケーションをはかろうとしたら、英語が理解できない、本も新聞も読まないでもこいつら特有の共通意識を持って仲間とわいわいバカやってと言うような安っぽいアットホームの世界をつくれば、それはそれでいいだろう、しかしある程度いろいろな人間を理解しコミュニケーションをはかろうと思ったならば、言葉が乏しいでは通用しない、同じような仲間ならばわきあいあいと楽しくやっているように見えるのだろうが、しかしいろいろな人と話をするためにはそれなりの語彙力や学問的なレヴェルが必要だ。そういうレヴェルを意識して、運営しないと仲間が集まる閉鎖的な軍団をつくりだしてしまうのである。
私がよく頼まれる、結婚式のスピーチなどでもそうだが、結婚式や公共の場で語られるようなスピーチは仲間内で話すこととは違う、日頃エラそうなことを言っていてべらべらしゃべる人間が、いざスピーチを頼まれて、実際にやったらあがってしまい何も言えなかったということはよくあることだが、はっきり言って自分たちの仲間と話すことと公共で話すこととはかなり違う、仲間内で話し、理解することは内輪の理解でいいが、しかし人間の幅もひろく、人数が多くなると自分たちの話では通用しない、納得させるためにはある程度の教養とロジックが必要である。

私は常に気をつかっていることがある、どこでどういう言葉を使うかと言うことであるが、特にこのことは子供には気をつかう必要がある。
しかし学校のクラブの顧問は口がわるい人間が目立つ。いい指導者もいるが結構わるいやつが目立つ、中学生でもないのに巻き舌で話すバカ
「おいそこ」とかよその生徒を呼び捨てにするようなバカ教師がいるが、こういうバカがいる限りはまだまだ日本のスポーツは人権が守られて競技できるとは言い難い、所詮親玉中心のやくざの世界である。
そういうことをすると生徒がどんどん乱暴になっていく、だいたいそういうことをするバカはかなり評判がわるいのだが、今体罰の問題にしても道徳や規律などと程度の低いやつが上から目線で言っても意味がない、逆に体罰がなくなれば、今度はここぞとばかりにもともと力だけで抑えられていた、バカアスリートが暴走するだけだ。
しかしそうならないためにもこういう人権と言う問題をよく理解して、考えて言葉を使う、そのためには受け取る側のキャパも大事なことで教育が最も大事なことであり、アスリートには勉強させる必要がある。

あと昔は男は黙って言うようなことがもてはやされていたが、しかし今はスポーツ指導者も話せないやつはだめ、話すと言っても自分の得意なことだけやバカ話ではなく、きちんと公的な場でも通用するようなスピーチ力は必要である。







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