脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私をささえた力

2016-11-28 | Weblog

うちのせがれがたるんでいる時に言う言葉がある。それは「韓国軍に1週間体験入門させるぞ」だ。なさけないことをしたり言ったら「お前そんなことをやってたらボコボコにいかれんぞ」と言う。もちろんそんなことはできないが友達に頼んで特別許可がもらえると言っている。最近の若い男性ははおとなしい、どうおとなしいかというと草食系男子と言う言葉があるようにがつがつしていないのだが、うたれ弱い人間が多いように思う。こういことを書けば少し勘違いのもとになるが、最近のスポーツはどちらかと言えばゲーム的であるように思う。特にボクシングはルールも厳しくなってきたのでそう言えるが、しかしスポーツとは言えどそれは勝負事、もっともっと闘志をむき出しにしてもいいと思う。最近の若い人はたぶんボコボコに行かれると言う経験をしたことがない。ボコボコにされると言うのは暴力的なことではなく、実力差がある人間と本気でむきあって圧倒されてみじめな思いをするということである。前にやめた若い人が言っていた。自分はまけずぎらいでまけたくないから試合はしない、マスでもうまい人がいて勝てないからやめたそうだ。まあ続ける続けないは本人の自由であるが、しかしそういう理由で試合に出なかったり、ボクシングをやめると言うのはよくわからない。スポーツで得ることができる最も大きなものはファイティングスピリットだ。それは自分よりも強い相手や大きなものに向かって行くからこそ養えるスピリットである。ハワイのボクシングはそれこそいろいろな目的でボクシングをしててみんな自由であるが、しかし試合は結構シビアであったと思う。自慢ではないが私などは自分と同じぐらいの階級で強そうな相手がいたら、あいつは絶対にやっつけてやると虎視眈々とその機会を狙っていたものだ。しかし強い人間は強いスパーリングをしても全く相手にならないことに結構くやしい思いをしたものである。これは男性特有の性質かもしれないが、競技者はボコボコに行かれることで学ぶことが多い。そしてそういう大きな相手に闘志むき出しでかかって行くからこそ逆転劇があったりとそこにドラマが生まれる。今は天才天才と才能ばかりに目が言っているよな気がするが、しかし凡才が天才にまさるためにはこの闘志が必要だと思うのだが、最近のスポーツは初めに才能ありきの世界でそういう闘志むき出しで来る競技者が少なくなっているような気がしている。私などはくやしい思いをした時に「son of bitch」と唇が勝手に動いたものである。たぶん相手もagain!(かかってこい)なんて思っていたのだろう。しかしどんなに闘志をむき出しにしても私の闘志はしょぼかったのでとどかなかったようだが、けれども自分で言うのも何だが強くなりたい絶対にやってやると言う気持ちが自分のボクシング人生を支えたのだと思う。でなければ才能などない私など決してやっていくことはできなかったであろう。


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これがオリーブだ 笑い篇

2016-11-23 | Weblog
「マスが最終的にあてるマスになる」
はじめに断わっておくがオリーブではスパーリングもどきをあてるマスと言っている。これはビビりの会員にいきなりスパーリングと言ったらビビッて拒否するのでとりあえずマスそしてあてるマスと抵抗をなくすためとそしてうちのクラブはけがをしてはいけないのでスパーリングのように全力でということではなく力をぬいてうってくださいよということで便宜上使っている。でうちではマスしようとなったら「あてる」「あてない」と聞く、その時じゃああてないやつでと言うと、時々あてないけど念のためにとヘッドギアとマウスピースをつける。すると相手も不安になって、ヘッドギアとマウスピースをつける、お前ら信用してないじゃないかと思うのだが、結果的にあてるマスになってしまうのがオリーブのマス。でもビギナーとかにはそういうことはしないので安心してね。
 
「慣れて来たらあだ名をつけられる」
すべてではないがいけそうな人間にはついあだ名をつけてしまう。トレーナーは実名、ひろちゃんとかヨッシーなんて言うのは普通のあだ名だが、しかし時には貧乏神、彦摩呂、この前女性でウーロンとつけた子がいたがえっと言うようなあだ名もあるが、しかしウーロンは意外にユーモアとして受け入れてくれた。自分言うのも何だが結構特徴をとらえていて人間関係もあるのでみなさん公認のあだ名でfacebookに登場する。
 
「マス部隊のお約束が多い」
任務が終わると「邪魔だからとっとと帰ってくれ」は帰る時のお約束。「隊長がそこのけっていってるよ」って女の子に言うと隊長すごくあせって「いやいやそんなことは言ってない」とさらにウグイスの竜に選手組とマスやとふって無理無理とぼけさせ笑いをとる。このやり取りが面白いのか結構マス部隊の人たちは人気があって特に隊長は有名、なんか時々コメントがあるし、この前沖縄の山口さんからブログにコメントをいただいていたほどである。マス部隊はとにかく面白い集団で女性の味方である。そして隊長はじめ若頭たちは体を張ってくれている。感謝!
 
 
「ジムの隅っこで語学のレッスン」
土曜日のジムがオープンするまでの時間が語学の時間だが、土曜日これなかったのでどうしてもレッスンを受けたいと言う人たちをそこで教えている。トレーニングしている横での語学の勉強は少し違和感があるが、しかし怒号などがとばないおとなしい雰囲気のうちのクラブにはなぜかマッチする。
 
「新聞が 英字新聞だ」
地方新聞は内容がおもしろくないのと子供の教育のために英字新聞を購読している。
だいぶ前高校生の親がうちに子供を見学に連れてきた。そのお母さんは子供にはボクシングをさせたくないが、しかし子供がどうしてもというのでいやいや見学に来た様子で、その時入会させるつもりは見られなかった。そしてふとお母さんが横にあった英字新聞に気づく、「えっこれ読むんですか?」と言うので「ええ、読みますと言うかちゃんと読めますよ」と答えたら「へー」と感心して、「英語教えてるのって本当だったんですね、どうやって教えるのかと思っていたけど先生が教えるんか」そしてすかさずその子に向かって「あんたここで英語教えてもらい」あまりの急なかわりように驚いたが、一応その子のお母さんはまともな集団と見てくれたようである。

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Most men will be survived by their wivesと言う文

2016-11-23 | Weblog

一橋大学の英語の入試問題にこういう問題があった。
「Most men will be survived by their wives」一見何を言っているのかわからない英文だ。たぶん直訳したら、ほとんどの男性は彼らの妻たちによって長生きさせられるだろうということになる。これではなんとなくおかしい、高校生だったら三角ぐらいあげてもいいが、たぶん名門大学なのでこういう訳では正解にはならない。
実はこの文がわかりにくいのは受動態で書かれているからだ。
受動態と言うのは主語をぼかしたり、endfucusと言ってby何々の言葉を強調したい時に用いる表現だ。この文は受動態によって書かれているのでややこしくなっているが、しかしそれを能動態で書けばより理解できる。でこの文を能動態で書くと「Wives will survive their husband.」こう書けば、この文のは女は男よりも長生きするということを言っているということが理解できるのだが、こういう受動態で書かれたわかりにくい文は、それを能動態にしてから訳すと明確になる。
よく英語学習に必要なことを学校の教師に聞くと、単語をまず覚えろと言う。しかしいくら単語を覚えても使い方が分からなくては、言葉にならない、確かに単語を覚えることも重要だが、しかしそれよりも重要なのは英語の構造を理解する(英語頭に切り替える)ということで、そのためには文法を理解することが大事だと思う。

前にブログでなぜ西洋人は、遅刻してもまずいいわけをするのかということを書いたことがある。理由はこの言葉の使い方と言うか、性質にあるということを書いたと思うのだが、たとえば日本人が会社で遅刻したらまずすみませんとあやまるのが普通のことで、それは常識であるが、西洋人はあやまるまえに言い訳をする(文化圏によっても違うし、多少の偏見もあるが)。
日本人から見たら遅刻しておいていいわけするなんてと思うかもしれないが、
しかしそれは西洋人はすべてのことにおいてまずReson Whyを求めるからであって、時々彼ら彼女らが言う、雨が自分をそこに行けなくしたというような、日本語で考えればいささか無理とも聞こえる英文も、彼らがまず物事にたいして理由を求める性質があるからで、それは英文法を理解することで理解できることである。

言葉と言うのは単なる通信手段ではない、言葉の背景には文化や思想があり、言葉を学習するのは相手の考え方を知り、自分の考え方をひろげるには大きなアドヴァンテージになる。
私自身も英語を理解することで、日本語の能力が上がった、どう上がったかと言うと、日本語は説明するのに長々とはなすのだが、英語ではそれを短くして伝えなければつたわらないことがある、翻訳にしても日本語から英語になるのと、英語から日本語になるのではページの量がかなり違ってくるのだが、英語を話すということは物事を簡潔に伝える能力が必要で、そういう意味でかなり物事を簡潔にわかりやすく伝える能力がついたことは確かである。



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L’homme est un roseau pensant

2016-11-18 | Weblog

パスカルのパンセの中に「L’homme est un roseau pensant」と言う言葉がある。これは哲学の中でも私が最も好きな言葉だ。これは原文からの引用だが、読み方はestとunがリエゾンするのでエ・アンではなくエ・タンとなるのでロム・エ・タン・ロゾ・パンサン。英語のパンセにはMan is no more than a reed, the weakest in nature. But he is a thinking reed.と書かれているが、それを短く伝えてMan is a thinking reed.すなわち人間は考える葦であると言うパスカルの有名な言葉である。どういう意味でパスカルは語ったかと言うと人間は葦のように弱い生き物だ宇宙規模で見たら人間はその自然の驚異に何も対抗できないもろくて弱い存在だ。けれども人間はその弱さをあえて知っている。宇宙は何も知らないが人間はもろくて弱い存在であり、そして自分たちはやがて死ぬということを知っている。ゆえに人間は考えることができる能力がある崇高な生き物だということである。パスカルのパンセはいかににんげんがもろく弱いか、しかし人間はそれでも考えることができる、ゆえに人間は何者よりも崇高であるということを伝えた書物である。ラテン語でも人間は知性を持つものだと言っているが、パンセの理屈から言うとその知性を大事にしなくては人間性を磨くことはできない。ボクシングとか言っても色々な人が集まってくるのだから、責任者にもある程度の教育や教養が求められる。そういう教養や知性を持って群れをまとめていくことが人間的であると言える。それをおろそかにすると群れはズレてくる。特に格闘技と言うのは暴力を扱うのだから何々するなとか何々しろと言ったサルの掟に毛が生えたような体育会のルールのようなものでしばるのではなく、きちんと自分の頭で考えて行動する人間が集まることが群れの質をよくしていくものだと理解している。

TEDと言う有名なプレゼンの番組があるが、その番組で2010年にブルックリンのブラウンズビル地区に学校を創設したナディア・ロペスはこう言っている。「When I opened Mott Bridges Academy in 2010. My gole was simple, Open a school, Close a prison」端的に言えば彼女が学校を設立したのはそこではびこる腐敗や貧困をなくそうとしたからで、それらをなくすためには教育が必要だと思ったからだ。私がいたところにもいくつかジムがあったが、あまりいい地区ではない場所にあるジムにはそれなりにわるい人間がいて、そういう人間が上半身裸でトレーニングしていたのを思い出す。普通女性がいたりしたらとか気をつかえばいいのだが、教育レベルと言うのはこういうところに出てくる、説明したら問題になるのでしないが、彼らの生活をその一面で感じたことは確かである。教育を軽んじると群れの質はわるくなる。群れの質をよくし、一般の人たちが入って来やすい場にするならば教育を重んじなくてはならない、そしてその責任者が知性を重んじ教育を大切にすることで群れの質はよくなる。

 

 


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コミュニタリアンであること。

2016-11-18 | Weblog

メンバー紹介で自分はコミュニタリアンと言うことを書いた。リベラリストが正義と言うのは多様性があるから何が正義かと言うことは議論せずに手続き的な正しさに基づいて正義を決めていく立場で一方共同体を重んじるコミュニタリアンは何が正義かと言うことをみんなで話し合って決める立場である。すなわちそれは個人にとっての正しさよりも世の中の正しさを追求することであり、それがコミュニタリアンの正義である。少し話は違うかもしれないが、いじめを解決するということはもはや個人の問題ではなく、コミュニティーで考えて行かなくてはいけない問題だ。いじめと言うのは自分たちの共同体の中で起こる悪質な事件である。だからそれを黙認したり、何もしないと言うことは同罪であると言ってもいい。共同体にとっての正義がいじめをしないということであるならば、それは見逃されるべき問題ではなくそれを止めなくてはいけないということを伝えていくことは重要なメッセージであり、もはやこういうドラスティックな改革をしていかなくてはこういう問題は根本的に解決されないのではないかと思っている。
揚げ足取りになってしまうかもしれないが、ある評論家がこのいじめが起こる原因のひとつに、教師が生徒と同じ目線にたっていないというようなことをあげていた。
しかし私からすればこういう発言は時代錯誤もはなはだしい。一般的にうけのいい評論家は、どうしたら人に話を聞いてもらえるかと言うことを最優先するので、話が感動的になったりするものだが、こういう場で語られる教師が生徒の目線に立つなんて言う言葉は自己満足、欺瞞を生み出す原因で、人間などそう強くはないのだからひとりの人間にそこまで背負わせるようなやりかたは、まさにスケープゴートを生み出す考え方である。
大事なことはこの問題を共同体でどうとらえ考えていくかと言うことで、こういう問題はその講演を聞いて、いい話が聞けたと言うようなことが問題ではない、いじめというのは共同体で起こる犯罪であるから、その犯罪に対して語られるメッセージは、ひとりびとりがそれに対する責任を負うための警告でなければならないと思う。

オーストラリアであったと思うが、このいじめの問題をうまく解決しているらしい。
本で読んだのか、テレビで見たのかはおぼえていないが、オーストラリアの学校はいじめに対して、それをまわりが無関心ではいけない、行動を起こす義務があると言うようなことを伝えることでいじめを解決しているらしいが、彼ら彼女らはいじめと言う問題をいじめる側といじめられる側と言う構図でとらえるのではなく、そのまわりにいるあなたたちにも責任はあるのだというメッセージを送ることで解決しようとしたのである。
しかしこの解決法は我々とは持っているバックボーンが違うから可能であると言える。
彼らのバックボーンはキリスト教だ。彼ら彼女らもいユダヤ教やイスラム教と同じく旧約聖書の戒め十戒を守っているが、十戒において偽証と言うのはただ虚偽の証言をすることではなく、積極的に知っていることは話さなくてはならないという義務があり、共同体においては知っていることを話すという義務がある。それゆえに彼ら彼女らはアンガージュマン的なかかわりができるのである。

しかし日本人は感情的ではあるけれども、良心の痛みを感じることができる民族である。
私はルソーのような性善説には立っていないが、しかし人間には良心はある。
私のような無責任な人間でも、苦しんでいる人間を助けてあげることができなかったということを悔やんでいるということを前回のブログで書いたが、もし人間にこういう痛みを感じる良心と言うものがあれば、十分にその責任を負うことができるであろう。いじめをする奴はごみ同然だ。人を傷つけたり、苦しめたりするのに理由などない。そしてこういうごみを出したのは我々の責任であり、ごみをきちんとかたずけるのが社会のルールである。

最後に補足しておくが、いじめをする奴はごみだという意見は私の私的感情で、こういうことをする奴らがいかに最低かと言うことを表現したまでである。
この感情がまた新たなスケープゴートを生み出さないためには、われわれの共同体をかたちづくる何かが必要で、私は彼ら彼女らのような主教的バックボーンを持たない日本人が今、その宗教に代わって持つ、バックボーンとして、コミュニタリアリズムを学ぶことはいいことだと思う。



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今年もまたあの季節になった。

2016-11-15 | Weblog

たまたまハワイのボクシング関連の記事を見ていたらハワイアントーナメントの決勝の記事が記載されていた。うわっすごいなつかしい俺もここでやったんだなんてタイムスリップしたのだが、ハワイアントーナメントの決勝はすごくエキサイトした。日ごろから敵も多いので結構厳しく来ると思っていたがファーストラウンドから激しいうちあい。ボコボコたたかれ判定勝ち。ハワイのルールでは試合が終わるとリング上で審判が一旦お互いの手をあげる。これはよく戦ったというしるしであり、そしてその後結果がコールされる。私は青コーナーだったのだがブルーコーナーと勝者宣言をされた時は本当にうれしかった。そしてその時関係者がメダルをかけてくれるのだが、私にメダルをかけてくれる人が当時30前ぐらいの女性で、私の試合を見て目をウルウルさせて今にも泣きそうな目で「あなたは偉大だ。素晴らしい」とメダルをかけた後にぐっと抱き着いてきたのだが、たぶん東洋から一人やってきた人間がここまでやったということに感動したのだと思う。たぶんどけどけお前らとオラオラものでリングをおりてきたと思うのだが、ボクシングの勝利と言うのは本当にうれしいものだ。きれいごとかも知れないが、私は自分が対戦した人間すべてを尊敬している。なぜならボクシングのリングに上がってなぐりあいをするということはそれなりに覚悟がいること生半可な気持ちではあがることはできないからで、私はそういう気持ちを尊敬している。そしてそれは何も競技者だけではなく、トレーナーたちもそうだ。試合が終わった後よく相手のトレーナーにお前は偉大だとハグされたが、向こうのトレーナーは競技者を尊敬していて、それをおしみなく表現する。私はスポーツマンシップと言うのはお互いを本当に尊敬するところから生まれてくるのではないかと思っている。前にも書いたがある試合で自分のパフォーマンスに納得できずエキサイトして帰ってくるときにコーナーマットを思いっきりけったことがある。たぶんこんなことを日本でやったら間違いなく思いっきり注意されて、こういう選手がいたと悪の殿堂入りさせられて10年ぐらいはわるい見本として語り継がれるであろう。しかし審判はけった私に対してダメだというしぐさを見せるだけで何のおとがめもなし。そしてその試合が終わって控室で彼が私に近づいて来た。そして言う「bowだよbow」「えっ」と言うと「東洋にはお辞儀があるだろ。私は東洋人は礼儀正しいと思っている。そしてそれはもちろん君もそう。だからコーナーマットなんかけっちゃだめだよ」とそういうことを私につげて行ったと思う。私はこの言葉以来絶対にエキサイトしてもコーナーマットはけらない。そればかりかリングでは紳士的に振舞おうと心に誓ったのは確かなことである。

 


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左対策。なんじゃそりゃ?

2016-11-09 | Weblog

パリングを教える時日本では左に対して右右に対して左と教えていると言うことを聞く。しかし私が競技したところでは右とか左ではなくインかアウトすなわち相手を中に入れたくなければアウトサイドパリーそして中に入って攻撃したければインサイドパリーと使い分けていた。さらに日本では左対策とか言うがそんなことを聞いたことがない。なぜなら左対策とかと言う前にスイッチしてくる人間やくせのあるスタイルの人間がいるのだから、そういうことにこだわっていたらきりがない。たぶんこういう言葉が出てくるのはステレオタイプの人間が多いからだ。それよりも人種的なくせがある。典型的なのがヒスパニック、フックのほかにスマッシュと言うロングフックのようなパンチでそのパンチを手が長い彼らが中距離ぐらいからひっかけるようにうってくるのは非常にやっかいであった。おまけに彼らはスイッチしてくる。そのスイッチもテンポラリーなものでもなくおそらく彼ら彼女らにはそれが変則と言うことではなくて一つのスタイルとしてあるのだろうと思う。さらに白人系はデトロイトスタイルと言うのかフリッカー気味のジャブをうつ、ジャブも立て続けに1 2 3と連続についてくるのだが、しかし鼻が大きいので鼻をうたれると意外にもろい、うちのバーガーも白人系で優勢に立っていた試合が鼻を思いっきりうたれて劣勢になんていうこともあった。基本的には相手がサウスポーとかそんなことを言う前に自分のスタイルを確立させることだ。いろいろな人種やいろいろなスポーツを経験した個性的な人間たちの中で生き残っていくためにはまず自分ありきである。私のスタイルはワンツーのみ、うてる間合いに入ってワンツーをうつと言うめちゃめちゃワンパターンの攻撃である。しかしジョージのトレーニングのおかげでめちゃめちゃはやいストレートがうてるのでパパーンともらうとたいていは面食らった。かっこよく言えば居合切りのような攻撃はスピードがあるのでこれだけでも十分通用した。しかしトップレベルの人間には私のワンパターンの攻撃など通用するはずはない。それも現実だ。坂本龍馬は日本人に尊敬されている人物のトップ5に入る歴史の人物で非常に人気が高い。しかし私は彼よりも壬生の浪士たちのほうに好感が持てる。古い考え方をすてずにただひたすら前進し討ち死にして言った姿は愚かに見えるが、しかしそのぶれない考え方に私はひかれる。そして何よりも私は自分の居合切りのようなボクシングスタイルを彼らになぞっていたことは確かなことで、近藤、土方、沖田の存在と言うのは当時の自分にとってひとつの偶像のようなものであったと思う。たぶん今の私を知っている人から見たら新撰組の生き方は今の私の考え方や生き方とは正反対に見える。外国語を話せて合理的な考え方の私がそういう生き方に惹かれると言うこと自体不思議であるように思えるだろう。しかしはっきり言って徳川幕府的な保守的な考え方は今の時代に通用しない。私がスポーツで批判していることはまさに自分の体験談であり、自分の留学経験の中のこれじゃあダメだと感じたことを綴ったのが脱あしたのジョーである。

外国の観客はあつい。それはアマチュアであってもだ。ヒスパニック系の人間とすごい打ち合いをして判定勝ちをおさめた時、声援がすごかった。あの時はお互いへとへとになりながらのすごい打ち合いだったと思うのだが、2ラウンドあたりからイケーみたいな感じですごく盛り上がって、そして最終ラウンドが終わってブルーコーナーのコールがされた時、拍手がどっとおこって声援が、中にはチェゴ!(最高!)と言ってくれる人もいて、この自分におしみなく声援を送ってくれるのだが、この声援でマイノリティーの自分が自信を持つことができた。そしてこの時いつも自分はボクシングをやってよかったと思った。


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Every day, in every way, We are getting better and better.

2016-11-06 | Weblog

「右にまわって、そこでもっとひくくかまえて」とトレーナーの声、女性も一生懸命アドバイスに従ってトレーニングをしている。しかしその姿は決してピリピリとしたものではなく、本当に楽しそうだ。教えることで一番難しいのは相手にそれをどう楽しく伝えさせるかということだ。親玉がさもえらそうにサル山のようなヒエラルキーをつくり、目標は大きくもてだとかニンジンをぶらさげて煽って半ば洗脳のようにしてトレーニングさせることはたやすいだろうが、しかしうちのようにそれなりに社会での役割がある社会人が集まっているクラブではそういうヒエラルキーは全く意味を持たない。機能しないから必要がないと言うことだ。おもしろくさせるためにはまず環境が必要である。格闘技ではマイノリティである女性をクラブではどう尊重するかということが大事なことで、男性の競技者の取り巻きになったり、女だけのグループなんてできることはクラブ内で女性が尊重されていないからである。たぶんこういう考え方は指導する側の教養の問題でもあると思うのだが、ダイエット目的をたかだかダイエットと軽く見たり、女性の前で裸でトレーニングするような失態さらすことは決してしてはいけないことだ。特にダイエットを軽く見る奴に言うが、どれだけ真剣かわかるか?と思う。ボクシングの試合に出るとか出ているぐらいで、ダイエットを軽く見ることは愚かである。人間の幅が狭いからそういうことを軽んじるのだと思うのだが、今やボクシングと言う競技は試合に出るためのものだけではない。ダイエットのためのものでもあるし、演技と言うコンテストもある。もし演技と言うコンテストが試合に出るための女性が通らなければならない条件とするならば、それは明らかに女性差別だ。しかしその演技を目指してトレーニングしている人もいるのだから、それははっきりとした目的であってA級まであるのだからそれを目指して頑張ることもひとつの楽しみ方だと思っている。何を言いたいかと言うとボクシングと言うのは明日のジョーのような男くさいスポーツではなく、競技の仕方やトレーニングの仕方で誰でもできるスポーツであると言うことだ。うちのクラブでは女性が楽しそうに生き生きとトレーニングをしている。最初はダイエットではじめたボクシング、しかしトレーナーが熱心に教えてくれるので演技の試合に出てみようと言う人も増えてきて、今では検定にうかった人たちが女性たちにアドバイスをしてくれるまでになった。

Every day, in every way, I'm getting better and better.はある小説の主人公が言った言葉。この話は実話である。物語はルキミアの子が一生懸命野球に励む、のこされた命を無駄にしたくはないと野球チームに入って練習をするが、しかしハンデがあまりに大きく一向にうまくならない。そこでたまりかねたチームメートが彼に野球をやめることを伝える。しかし彼はそれでも続けると言った言葉が「Every day, in every way, I'm getting better and better」である。もうだいぶ前に読んだので内容はわすれたが、たぶんその小説は少年が試合に出てフライをキャッチできて目的を達成したと思う。うちのクラブはたいした業績はないが、しかしもともと運動音痴で何もできなかった人やへたれが何かを残すことができたというような人間ドラマがある。そしてそういったドラマは生きていく上での我々の励ましになると思っている。偉そうに言わせてもらうが感動はつくるものではなく生まれるものだ、そしてそれが生まれるためには多くの養分や土壌が大事である。


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DO SURVIVE!

2016-11-04 | Weblog

週1回の割合ではあるが中高生に英語を教えている。教えていて難しいと思うのは中学生に教えること。何が難しいかと言うとこの時期の英語は基本であるから、それをどう教えるか例えば冠詞や数えられる名に数えられない名詞など簡単なようで理解しがたいことをどう伝えるか、おぼえるしかないと言う消極的な言葉を使わずに説明して、大学受験などに対応できる基礎作りをどういうアプローチの仕方で教えていくかは難しいことだ。私はだいぶ前に日本人は基本基本とうるさいと言ったが、しかし基本は学習面においては大事なこと、欧米のメソッドはとにかく解ければいいおぼえることができたらいいということに焦点をおいているので日本の教育には合わないと思う。一方スポーツにおいて重要なのは競争させることである。基本基本と言っているが私はそこまで基本と言う言葉に固執する必要はないと思っている。1億何千万の決して数では少なくはない、他国と比べてベストな環境でトレーニングできる日本人が、基本基本と血のにじむようなトレーニングをしてあの結果なのだからたいしたことはない。それよりももっと競争させて才能を引き出すほうが結果が出ると思っている。私がこちらのボクシングで気づいたことはみんな同じようなスタイルであると言うことだ。たぶん基本をさせる時間が非常に長いのであろう、それはもうかなり昔から基本は大事だなどと言われているので基本と言う言葉は何か知らないが説得力を持つ、私から言わせれば日本の体育会は宗教のようなもので親玉が教祖で先輩が幹部その経典が基本である何かである。

私もたいしたことはないが競技した国はまさに競争である。一番最初に試合した相手はスイッチしてきた。しかもそのスイッチするときにえげつないフックをうってくる。まあ日本の選手にはこういうタイプはほとんどいないが、海外ではスイッチしてくる選手やフリッカージャブみたいな何かへんてこりんなジャブをうってくる選手はざらにいる。さらに子供のころからいろいろなスポーツをやっていて身体能力が高いのでえっこりゃなんだと驚かされることは多々ある。そういう人間たちを相手にして同じことをやっていてははっきりいって勝てない。(私が最終的に負けて引退したのもそれ以外は何もできないと感じたからだ。)基本とか言って一生懸命同じことを繰り返すのも大事だが、しかし実戦練習では試行錯誤やって見ることが大事、所謂競争の中では適応能力が必要である。元メジャーリーガーだった長谷川選手が「適者生存」と言う本を書いているがまさにこれはメジャーリーグと言う競争社会で力の差を感じた長谷川選手がそこでどう生き残っていったかと言うことを書いた本であるが、広い世界に出たら日本式に固執していては通用しないと言うことだ。

もう何年も前の話だがある人間がマスボクシングをしていた。相手は結構強いので当時キャリアのなかった彼は結構うちこまれていた。しかし私が感心したのはうちこまれたら次は違うやりかたで試行錯誤考えてそれを試そうとすることだ、これを見て私は将来彼にはここで教えてもらおうと思った。そして実際今トレーナーとしてやっているが教えてもらった人間は確かにのびている。そして何よりも引き出しが多いので教えてもらう人間も楽しそうにやっている。そういう教え方はただ基本だけに忠実な人間にはできないと思っている。私が何を言いたいかと言うとフィールドはもう日本だけではないと言うことである。日本人も外国でスポーツを競技すると言う機会が増えてきている。そういう中で言葉が話せない、日本式を貫くのは愚かなこと、常に競争と言うことを意識して井の中の蛙にならないように自分を意識して技術を高めていくことは大事なことだ。


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