脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

不思議な話し

2010-06-30 | Weblog
明日から7月、もう夏である。
夏となると怪談話であるが、ハワイにはそういう怪談話が多い。
むこうにいた頃はとにかくそういう話を数多く聞いたのだが、UH(ハワイ大)のキャンパスの絵の近くに幽霊があらわれるという噂を聞いて夜、いやいやながらにつれていかれたこともあったし、某ホテルの赤いドレスの女なんていうのは、観光客の間でも結構有名な話である。
そして特に有名なのはヌアヌパリという崖のようなところがあって、ここはむかしカメハメハの時代に戦いがあってここから多くの兵士がおとされたそうだが、この付近を豚肉をもって通るとかならず幽霊があらわれるそうで、地元の人間はそこを通る時はポークサンドウイッチさえももたないという。
なぜ豚肉かというと、当時はこの豚肉が神聖なるもので、それは男性しか食べることができなかったそうである。
もし女性がこれを食べれば死罪にあたるほど、それは神聖で高価なもので、その豚肉を持って通ると、むかしそこでなくなった兵士たちがその豚肉を求めて集まってくるそうであるが、最近にわかに出て来たゴースト研究家のグラント博士なども、その著書ハワイアンゴーストストーリーなどでとりあげているほど、こういったハワイのゴーストストーリーは有名で、実際目撃談も多い。
私がある人に頼まれて、観光案内をしたことがある。
二人組の名古屋から来た女性であるが、滞在中世話をしてやってほしいということで、お世話をしたのだが、来て一日目は時差があって十分に寝ていないので、その日からどこかに連れて行くのは、少ししんどいので、今日はゆっくり休んで明日、どこかのビーチに行きましょうということになった。
でその次の日私は友達のピーターの車で、待ち合わせていたホテルのロビーに行ったのだが、彼女たちの様子が疲れているようであった。
昨日寝たのかと聞くと、かえってきた返事は寝ていないということであったのだが、昨日あれだけ疲れていたのに寝てないのというのは不思議である。
昨日昼食を食べた時に、しんどくて食事もほとんど残していたのに、何かへんだと思いながらも、ピーターお得意のビーチへと車を走らせた。
しばらくするとその女性の一人が私に声をかけて来た「あのう実は昨日寝れなかったんですよ」と、一瞬ぎょっとしたが、話を聞いてみると、昨日の夜彼女たちはたいへんおそろしい体験をしたそうである。
どういう体験かと言うと、その日は二人ともかなり疲れていたようで、だいたい10時過ぎにはベットに入ったそうである。
そしてしばらく話していたのだが、時差ぼけと旅の疲れもあり、うとうととして眠ってしまったのだが、しかし突然二人はある異様な音で目を覚ましたそうである。
どういう音かははっきりおぼえてはいないが、閃光がきらめくような音が、ラナイからバチバチバチと聞こえたそうであるが、しかしここは地上何十メートルの高い場所、一体何事と思いきやラナイをおそるおそるのぞいたが、そこには誰もいないし何もない。
不思議に思ったのだが、明日のこともあるので再びベッドに入ったのだが、その時再びラナイからバチバチという音が聞こえ、しかも今度はそのバチバチという音の後に、女性の笑い声のようなものが聞こえたそうで、そこから恐ろしくなって寝ることができなかったそうである。
実はこのホテル過去に人が死んだそうで、その幽霊か赤いドレスの女かはわからないが、このホテル付近では度々目撃談があると言う。
彼女たちはもうホテルの戻りたくないというので、ある日系人の人に話をして、滞在中はそこに泊っていたのだが、ハワイにはこういう不思議な話が多く、私自身体験はしていないし、半信半疑ではあるが、こういう話をたくさん聞いた。




 

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プロフェッショナルということ

2010-06-28 | Weblog
Professionalという言葉がある。
日本語ではプロのことであるが、この言葉は実は話すと言うことと大きくかかわりを持っている。普通アマかプロかと聞かれたら。アマはそのスポーツや音楽などで、収益をあげない人で、プロはそれで収益を上げて生計を立てている人となる。
がしかしこのProfessinonalという言葉は、プロとアマをそういう短絡的な分け方はしていない。
アマチュアは以前にも挙げたように、ラテン語で「何々を愛するもの」を語源とし、それである収益はないがそのスポーツや音楽、芸術を愛している人がアマチュアである。
しかしプロはラテン語のProとFateから来る合成語で、Proは何々の前にということを表し、Fessは話すということですなわち何々の前で話す人をProfessionalと言い、Professor(教授)という言葉にもあるように、Professionalとは言葉と深くかかわっているのだが、私はこのプロであることというのはまさに語ること抜きにしてはあり得ない、競技をを通してその人が何を語るかということに、その人の質や評価と言うものが問われるのではないかと思っている。
よくインタヴューを聞いていて、興味のあるインタヴューとあっなんだこれというインタヴューがあるが、メジャーリーグでもたいてい一流選手のインタヴューは興味深いし、いい選手であればあるほど、偉大とも言える名言を残しているものである。
私が思うには一流選手はただ素晴らしいプレイをするだけではだめである。その競技や芸術あるいは事業を通して、人に大きな影響を与えることができる人が、本当に一流選手であると信じている。なぜなら競技することは、考えることであり、その考えて頭を使うことで自分の哲学がもてるからで、私は根本的にスポーツは体を動かすだけではない、頭をつかうのがスポーツだとかたく信じているからである。
以前イビチャオシムが書いた「考えよ」という本の中にこういうことが書かれてあった。
「サッカーは結果と内容が一致する。まぐれでいい試合をしても長期的には強くならない」と、まさにこの言葉は、彼が長年サッカーをプレイし、サッカーを見て来た、彼の人生哲学のような言葉で、彼はそのほかにも著書において数々の言葉を残しているが、まさにこれは彼が考え、頭を使ってサッカーに取り組んできたあかしであろう。
ラテン語の言う、プロとは人前で話すことであり、話すためには自分の哲学を持たなくてはだめである。
哲学と言っても漫画に描かれたような言葉ではなく、本当に人に影響を与えるような言葉を競技者は競技やその哲学を通して影響力のある言葉を残していく、そういう競技者が本当にプロ中のプロ一流と言えるのではないだろうか。





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ギガントピテクス

2010-06-25 | Weblog
よく人に運動部が嫌いなのかと言われる。うんでもそれは微妙であるが、しかし本当にこれはいかんと思っているのは権威主義で学業をおろそかにしがちなシステムである。
これは何人かの人がいってたことで、ある人がこういっていた。
彼女は飲食店でアルバイトをしていたのだが、大勢で来て騒ぐのはたいてい運動部らしいのだが、そこで後輩をいじって遊んだりとにかくうるさくて、彼女はよくちょっかいをかけられて困ったそうであるが、彼らが入ってくるとあっまたきたかとなるらしいが、彼らは部という中ではテンポラリーに芸のような礼はできても、離れてしまえば無骨であるのだ。
もちろん運動部の中には立派な生徒もたくさんいるし、将来のことをきちんと考えている人もいる。しかし残念なのは、意外とこういう輩が多いことであり、クラブを引退した後に、何をやっていいかわからなくなり、燃え尽き症候群となることである。
運動をすることは素晴らしいし、いいことである。
しかし将来のことを考えずに、学業をおろそかにして、ただ競技するだけではたとえ一生懸命やってもそれは無駄に終わってしまうと思う。
たぶんそういう時、一生懸命何かに生きた人間が、キルケゴールなどの書物を読むと、どれだけその書物が、彼ら彼女らの力となり生きる指針となりうるかと思うことがある。
がしかし残念ながらスポーツばかりやってきた人間には、そういう書物を理解する力がないというか、訓練されてはいないのだ。
なぜこのようなことを言うかと言うと、スポーツをしながら何かを学ぶと言うことは非常に意味のあることだと思うからで、スポーツと言うドラマにおいて普段では経験できないことがあり、そのことを通して我々は多くのことを学べることは事実であるからだ。
これは事実かどうか、曖昧になってわからないことであるが、Jという人間がいた。
彼はあるボクシングクラブの選手で、かなり重いクラスの選手である。
HIのボクシング事情は、大きな体育館にボクシングクラブが集まって練習するのだが、私自身もそこでよく会うJと話をしていて、彼はあまりよくない場所出身で、俺はメインランドに行ってチャンピオンになるなんて言っていた。
しかしある時から彼は姿を現さなくなったのだが、私はてっきりメインランドに行ったのかと思ったのだが、実はそうではない、どうやら風のうわさでは練習中か試合中に死んだとかこの話は有名で、ピーター曰く、ニュースになったそうである。
長くボクシングをやっていると、こういう話は、時々聞くが、ボクシングは今はだいぶ安全性を考えてやっているが、しかしそれでも危険なスポーツである。
時々ボクシングは殺し合いだと言うようなことを騒ぎ立てて、俺たちはそういう危険なことをやっているんだと、半ば陶酔しているバカがいるが、とんでもない話である。
私があまりあぶないことをさせない、してもらいたくないというのは、実はこのことが多少トラウマになっている。
つい最近まで普通に話していた人間がとそう思うと、おおげさではあるが、言葉上の問題であっても人間の命を軽んじることができないのである。
この時正直人間はなんのために生きているんだろうということを考えた。その時からさらにいろいろな哲学書や宗教の本を読みあさったが、答えなんかはない、しかしそのことを通して生き方が変わったことは確かである。
人間は体を動かすだけでは得るものは少ない、学生であれば勉強するのは当たり前、もし本当に充実した生き方を望むならば、頭を耕すことは大事なことである。
よく言うが書物と言うのは、人間が成長する上ではスポーツよりも重要であり、このことを欠いてしまえば、本当に人間は成長することはない。

夏大阪で電車に乗った時、わいわいがやがやとスポーツバッグをもった集団が乗ってきた。
あいている席を見つけるといなや、その席に座り大きくまたを広げて座り、わいわいと騒ぎ出したのだが、うっとうしいのでそこから離れて少し向こうの座席に座ったのだが、私が向こうに行くとそれをいいことにさらに騒ぎ出した。
UMAという生物がいる。
UMAとはUnidentified misterious animalの略で、その中にギガントピテクスというのがいるが、まさにこいつらの行動はギガントピテクスそのもので、思わずその存在を信じてしまった。





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礼儀とエチケット

2010-06-24 | Weblog
「侘び」「寂」という言葉がある。この言葉は茶道からきた言葉であるが、わたしはこの言葉が非常に好きである。
特に侘びというのはもともと物事が欠けているという状態をあらわすのだが、この侘の概念が日本人における謙虚さの美徳というものを生み出したのであろう。
日本人は控えめで謙虚であるということは、まさにこの侘びという概念に込められている。
これは自分の意見であるが、おそらく礼儀とか礼節というのは、この茶道に深くかかわり、その茶道を深く極めることが、礼儀や礼節を知ると言うことではないかと思っているが、まさに前に言った四規七則なんていうのは、その礼儀を凝縮した言葉で、こういう概念はおそらく西洋にはなく、日本人の美徳哲学であると思っている。
だから礼儀と言うのはただ単に、あいさつをしたり、極力敬語と言うか先輩に対して不快にならない言葉を使わないと言うような、小中学生レヴェルのことではない。
私自身もこの礼儀と言う言葉はよくわかってはいないのだが、しかしこの言葉は、さっき言ったしつけやコミュニケーション程度のものではなく、我々はこの礼儀を語るのであればもう少し哲学的にこの問いに対して答えなくてはならない。
日本はだいぶ昔からこの礼儀を勘違いしてきた傾向がある。
それは運動部などの礼儀というのがそうであるが、おそらくあいつは礼儀がなっていないというのはこの礼儀と言う言葉が、恣意的にかつ、組織の便宜上使われてきたと思うが、だいたい正確な敬語がつかないような人間に、礼儀とは何かということを聞いても曖昧なことしか答えらず、サルやゴリラのように礼儀と言う言葉を用いて、統率させているだけである。
礼儀と言う言葉はそんな薄っぺらい言葉ではない、もっと深い言葉であり、そうたやすく礼儀礼儀と言うことでもないと思っている。
もしあいさつをしたり、先輩に対して何々っすよなんていうことでも、一応気を使うことが礼儀ならば、日本は運動部が一番礼儀正しく、礼儀を重んじているということになるが、そんなことは、どう考えてもおかしいことである。
以前フランス人に礼儀について聞かれたことがある。
「西洋には騎士道があるように、日本にも武士道と言うのがある。そこでは礼儀と言うような言葉が出てくるが、それは一体どういうことなのか?」と、確かあれはLast samuraiと言う映画が上映されて、ヒットしていた頃である。
実は彼ら彼女らも、この礼儀という言葉はもっていて、この礼儀にあたるフランス語はEtiquetteであるが、エミリーポストーという人がこのEtiquetteについて「他人の思いやりに基づく行動の規範であり、良いマナーとはこの規範に則って生活しようとする人々の暖かい心、善意の表れである」と言っているが、この点はさっき言った四規七則にも通じるところがある。
さらに新渡戸によれば、武士道と礼儀がかかわっているように、エチケットというのも騎士道精神と深くかかわっているというのだ、しかしこの時残念ながら、私が答えることができたのは、せいぜい感謝のためにおじぎをするということぐらいで、肝心の礼儀とは何かということには答えられなかったのだが、おそらくこのことをもっと彼のようにきちんと説明できていたら、私を見る彼の目は変わったであろう。
礼儀というのは非常に難しい言葉である。そしてこれは日本人の美徳や美意識を表す言葉でもあり、我々はこの礼儀と言うものをしつけや統制と言った短絡的な見方をせず。
この言葉を我々はもっと深く知り、この言葉に根ざしていくことが、本当の意味での道徳教育につながるのではないかと思っている。



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一期一会

2010-06-23 | Weblog
外国からお客さんがくるので、部屋の整理をしていると一通の手紙を見つけた。
昔かかわった営業マンからの手紙で、それは感謝の手紙であった。
そう言えばだいぶ前この男から高価な買い物をした。
しかしその時あまりにも段取りがわるく、人に同じことを何回もさせる。おまけに時間には遅れてくる始末で、あまりにも彼の態度がいきおいだけで、人の話を聞いてはいないいいかげんな態度だったので、彼のことをいましめたことがある。
彼が大学を出て営業マンになり、右も左もわからないころだ、これは私のいいところでもありわるいところでもあるのだが、非常に観察力がするどく、分析力にたけているところである。だから時々ぐさっとくることを言ってしまうらしい。(最近ではだいぶ言わなくなったが)
これはのちに彼の話でわかったことだが、彼曰く私と最初に数分話した時に「あっこの人、手ごわい」と思ったそうだ、だから話す時やたら緊張して、自分が自分でなくなってしまい、うまく対応できなかったらしい。
まあ遅刻はおそらくいい印象を与えるために無理して、いついつまでに行きますと言ってしまったが、それができなかったと思っているのだが、しかし彼の態度はいきおいはいいが、賢明ではなかったと思っている。
で私が彼に言ったことはこういうことだ「君相手が何を望んでいるかわかる。君一生懸命やっているのはわかるけど、僕が単純に望んでいることにすら答えられていないじゃない。一生懸命自分の気持ちや誠意を見せてるつもりでも、それが相手に伝わらなくてはただの迷惑、まず相手がどうしてほしいかと言うことを単純に考えることが大事なんじゃないか。」とこの一言である。
彼曰くこの私の言葉は彼の胸につきささったらしいが、これは営業だけではないが、とにかく人とかかわる仕事は人の気持ちを考えたり、行間を読むと言うことは大事なことである。
時々飛び込みの営業みたいな奴が、大きい声であいさつをして飛び込んでくる。
そしていろいろと話しかけて来てきっかけをつかもうとするが、しかしそういう奴に限って人の気持ちを考えない、正直仕事中にいきなり来られても話しかけられることが邪魔なのだ。
だいたいそういう営業マンに限ってボクシングの話題をして、亀田がどうだのと言ってくるが、私ははっきりと体育会系は苦手だから話はあわないよと言うのだが、あくまでこれは邪魔だからかえってくれのサインで、それでもしつこく話しかけてくる人には、はっきり今仕事をしているからひきとってくれというのだが、ここまで相手に言わせるということは営業失格である。
しかしこれに対してこいつは人の気持ちを考えているなという営業マンがいて、彼はジムに近付いてドアをあけようとするなり、私の仕事をしている姿に気づき、そしてぱっと目が合うといかにも、あっどうも邪魔をして失礼しましたと、ふかぶかおじぎをしてかえったのだが、これだと逆に私のほうが、あっ追い返してわるかったかなという気持ちになり、この動作が計算だったとしても、次来た時には話を聞いてやろうという気持ちになることは確かである。
実際私は彼から高価な買い物をしてあげたのだが、自分のこの一言だけではなく、いろいろ私が言ったことにかなり影響を受けたと言ってくれた。
例えば言葉の広がりをもたせるために国語辞書をたえずもちあるいてひけ、そうすれば言葉に広がりがもてると言ったのだが、いくら一生懸命話しても言葉を知らなければ、軽く見られるし、愛想をつかされる。
大事なのは、こいつと会うことが貴重だと思ったら、どんな忙しい人でも時間を割いてきてくれる。そういう存在になるためには、まず言葉の勉強をしろと言ったのだが、そのため国語辞書を持ち歩いて言葉を知ると言うことは大事なことだと言ったのだが、彼はそのことをたえず実践しているそうである。
最後に手紙のしめくくりで、一期一会という言葉が書かれてあった。
これは出会いがいかに大事かという茶道の言葉であるが、この言葉は仲間が出会うと言うような、単純なものではない、何も知らない暴走族のような集団でもつかっているらしいが、この言葉は単に仲間集めのような言葉ではないのだ。
これは茶道から来た言葉であるので、礼節というのをともなっているのだが、この礼節も体育会が言うような先輩にでかい声であいさつしろなんていうような程度の低い礼儀ではなく、四規七則があらわすように、まさに相手を気遣う礼儀が大事である。
私は礼儀と言う言葉が好きである。正直礼儀と言う言葉がよく理解できてはいないが、おそらく礼儀は、やさしさとか親切と言う相手を思いやる気持ちがこもったものであり、それは日本人の心を表すものであろう。


四規七則とは
心を込め、本質を見極め、季節感を大切にし、命を尊び、ゆとりを持ち、柔らかい心を持って互いに尊重し合うこと。

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宗教と哲学の課題

2010-06-18 | Weblog
おとついアジア系アメリカ人に神道のことについて聞かれた。
彼は日本で英会話の講師をしているのだが、従業で生徒と日本の文化について話をしていたのだが、生徒がお正月には初詣にいくという話をしたので、初詣のことについて聞いたら神社とか神道というような言葉はでてきたのだが、曖昧でよくわからずよくわからないのにお参りに行くのかと少し興味をもったので、聞いてきたのだ。
確かに欧米人から見たら、そんなこと信じてもいないのに神社と言う神域に入り込んで言ってお参りをすることは不思議なことである。
私は神道のことを手っ取り早く説明し、エンペラーが神様だと言うのは、アマテラスオオミカミという概念から来ている、というようなことを言ったら、不快感をあらわしていたのだが、しかし外国人から見て日本人の持つ宗教観と言うのは多少というか、かなり不可解であるそうだ。
外国人と話してわかるのだが、この宗教と言うことについて外国人は、無神論であっても自分なりの意見と言うか、ある種の哲学的な考えを持っていて、それは教育を受けたものであるほどしっかりとした考えと言うか、意見をもっていると思う。
しかしそれに対して日本人は曖昧で、その代表的な神社や神道などのことについて聞かれてもこたえることができない。
宗教学や哲学と言うのは日本ではたいした学問のうちに数えられてはおらず、宗教学や哲学は、文学部よりもつぶしの聞かない学部であるが、しかし欧米では非常に専門性の高い学問であり、語学などをいくつかマスターしなくてはならないので、たいへん難しい学問でもある。
特にアラビア語や古典ギリシャ語なんていうのはある意味、宇宙語のようなもので、英語のことわざで「ちんぷんかんぷん」だという「Greek to me」という言葉があるように、かなり骨の折れる学問であるのだ。
これは私が持っている宗教観であるが、人間と言うのは必ず死ぬし、人生なんて言うのは失敗や不幸の連続である。
おそらく宗教や哲学は、それらの人間の死や不幸と言うものを受け入れて行く力を人間にあたえる知彗であると思う。
よく病気が治るとか、金持ちになるというキャッチフレーズで人を勧誘する団体があるが、しかし病気や死は人間に必ずおとずれるものであり、人間はそれをさけることはできない。
むしろその病や死というものを受け止めて行く力というものが、人間には必要であり、その力となるのが、宗教や哲学の課題である。
最近お笑いの影響か、おもしろければそれでいいと思っているバカな連中が増えて来た。
話をしていてもすぐにちゃちゃを入れたがり、とにかく笑いを取りたい、笑いたいと言うのが目に見えているのだが、こういう連中がとろうとする笑いは、建設的で人を豊かにするものではない、どちらかというと人を犠牲にする、破壊的な笑いで、そういう現象が教室などでも起こって来ているのではないかと思っている。
ヤスパースは、人間はのがれられない死に対する不安や恐怖をごまかして生きていると言っているのだが、日本がお笑いブームになっているのも、ヤスパース的に言えば、その死や不安と言うものに対して克服できないことの現れでもあるのではないだろうか。
こういう時代だからこそ、ユダヤ人が迫害にあった時にそれをどう耐え忍び、生き延びて来たかと言うことを彼ら彼女らの宗教観から学ぶ必要がある。
本当に人間大事なのは、自分が逆境のうちにあった時、そして死を迎える時である。
その時、根本的な立ち直りが必要であり、我々は多くの迫害や苦難のあった民族から、どう生きるかという指針を示されるであろう。
人間であるならば、だれでも失敗し、不幸があり、そして死ぬ。
しかしそれらの悲劇を我々がどう受け入れて行くかが問題であり、それを受け入れていく力を哲学や宗教は与えてくれるのだろう。






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Understand

2010-06-16 | Weblog
最近日本語をおぼえたスタッフであるが、彼女は以前生徒さんから、面白い人は遊び人だということを聞いて、彼女は何も考えずに、面白い人=遊び人というように考えていたらしい。
で以前彼女が生徒たちとカラオケかどこかに行った時の話であるが、たまにしか見ない私に興味をもっているのか、その生徒たちが私のことをいろいろと聞いてきたそうである。
年はいくつだとか、あの人はどこにすんでいるのかとか興味深々に聞いてきたそうだが、しかし私のつかみどころのない性格について、あの人はどういう人なのかということを聞かれた時に彼女は、面白い人=遊び人ということを思い出し、ここぞとばかりにと「うちのボスは遊び人です」と答えたそうである。
その時まさかと、どよめいたそうであるが、今考えればわらいばなしである。
少し話は変わるが、言葉の伝達と言うのは非常に難しいもので、人に何かを伝えると言うことはたいへん骨が折れる仕事であると実感しているのだが、自分が思った以上に言葉が伝わらなかったことは、多々ある。
それは伝える側の伝え方がわるいのであろうか、いやしかしそれだけではない、それは聞く側にも問題があって、相手の言葉をきちんと的確にとらえていなければ、正確にはつたわらないと思っている。
なぜこのようなことを書いたかと言うと私の友人で、中小企業をおやじさんから引き継いだのがいて、そこでは毎月曜日に朝礼が持たれているのだが、その朝礼で彼が毎回心に響くようにとためになる話を、一生懸命本を読んだりして、考えて話すのだが、しかしあまり従業員は理解していないと、多少悩んで相談されたことがあったからだ。
「今時朝礼か」と思ったが、彼は真剣である。
しかしこう言った問題は、話し手ばかりが問題ではない、実は聞き手にも問題があって、相手の話をどれだけ理解しようと努めたかということでもある。
英語で理解と言う言葉はUnderstandである。これはUnderとstandという言葉からなっていて、文字通り訳すと何々の下に立つと言うことである。
これは私なりの解釈であるが理解すると言うことは、相手の言葉を下から支えると言うことであるのだが、この言葉が意味するのは、言葉に対する責任であって、理解したと言うことは同時にその聞いた言葉に対して責任を持つということである。
イスラエルに見られる宗教教育というのは、この聞くということそして理解させるということを徹底させるのであるが、彼らは群衆理解が、単に語り手の問題だけではなく、聞き手の理解にも問題があることを知っているからであるのだが、ユダヤ人のがよく訓戒として唱えている経典のようなものが、シェマ(聞け)である。
話は朝礼の話に戻るが、だからもしそこで本当にそこでなされる朝礼が、形式的なものではなく、組織において重要であり、力になるものであれば、従業員である聞き手にも話を聞く訓練が必要であり、聞く側にも責任を持たせることも必要であるというようなことを言ったのだが、じゃあどうするんだというので、話をする時にきちんとその流れやバックボーンがわかるように務めろ。とにかく一回一回レジュメをつくって渡して見ればいいのではないかというアドヴァイスをしたのだが、実際バックボーンが見えると話が見えやすくなるとおもうのだが、このことによって、話のポイントと言うのをつかむことができるのではないだろうか。
何も朝礼ぐらいでと思うかもしれないが、しかしもし彼が従業員を言葉によって改革しようと思うならば、この聞くということは、非常に重要なことであり、あたりまえだがこの聞く姿勢と理解にによって人間は多くのことを学べるからである。
おそらく彼が求めている朝礼は、いい話が聞けたと言うことではない、この言葉の投げかけでおおげさではあるが、覚醒させたいというようなことを言っていたが、そう思うならばなおさら聞く側の姿勢と理解が求められる。









                               

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3つのジョーク

2010-06-14 | Weblog
今日は聞いて納得できるジョークを3つあげたいと思う。
私などは聞いていて思わず笑ってしまったのだが、結構これらは核心をついている。
「When you start on a diet,the first thing you surely lose is you patience.」
ダイエットをはじめて最初にあなたが確かに失うものは忍耐である。
On dietと言うと英語では食事制限のことを言うのだが、日本語で言うところのエクササイズもそうであろう。
地道にこつこつと痩せようとすること自体、たいへんなことで最初の1か月であきらめた人はたくさんいるであろう。
私自身理想の体を手に入れるのは、最低でも3カ月以上はかかると思う。
おそらく一か月ぐらいでやせるのは、汗を大量にかいたからで、一時的なもので、もとにもどりやすく、リバウンドしやすい。現に1か月ぐらい練習につめてきて、5キロ以上痩せた人たちがいたが、その後すぐにこなくなった。
しかしやめた後にすぐに体重が戻ってまた来たのだが、ダイエットの目的はやせることではない。やせにくくリバウンドしにくい体をつくることである。
適度な筋肉をつくり基礎代謝をあげ、ふとりにくい体質をつくる、ある種の体質改善をボクシングの練習を通してすることであり、コンスタントにこのことを続けて行くならば、理想的な体を手に入れることができるであろう。

「The loudness of a subordinates laugh is proportional to the banality of his bosss jork」
上司のジョークのつまらなさと、部下の笑い声の大きさは比例する。

「Of the six senses, the most important is common sense」
6つの人間の感覚の中で最も重要な感覚はコモンセンスである。

笑った。
私は人間のバカ度とグループ度は比例すると思うが、バカな人間程群れる。それは暴走族やコンビニでたむろしている連中にも言われることであるが、彼らはルールや掟のようなものはもてるが、コモンセンスを持たない、コンビニの前でごみをちらかし、一般市民に迷惑をかける姿からも理解できることである。
コモンセンスとは、何が正しいか悪いかということを自分で考えて、行動する能力である。
だから怖い先輩にわけのわからないあいさつや敬語をつかったり、ボクシングをやっているのだから、けんかをするなという程度の問題ではないと思っている。
群れると言うこと自体、基準がその群れにあるのであって、本当の意味でコモン性に欠けるものだ。おそらく暴走族や素行に問題のある連中は、その群れの中でしか基準をもてないのだと思う。
このジョークのように上のものには顔色を見て行動できるが、しかしはたして本当に何が正しいかと言うことを真剣に考えようとはしない、ただ上のものの反応が気になるだけで、赤信号みんなで渡ればこわくないという冗談にもあるように、人間は群れると、自分で自分の基準をもたなくなる。ゆえに考えなくなるので、愚かさだけが目立ってしまうのだと思う。
コモンと言うのは公共性の問題である。
少し逆説的な言い方であるが、集団がどうというよりも、自分がどうかかわっていくかと言う自発的なことが問題であり、そのために英語でも使われているAbility(能力)が問われる。
これは私の見解であるが、ゆえにコモンセンスとは道徳や規律などを越えた大人の能力であると思っているが、この感覚を身につけて人間は社会の一員になっていくのであろう。









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知性を持つもの

2010-06-11 | Weblog
人間のことをラテン語でホモサピエンスという。
これは人間と言う代名詞を、ラテン語でいうのだと思っている人もいるようだが、しかしこれは知性を持つものと言う意味で、その言葉が人間と言う言葉の意味にあてられた。
このホモと言う言葉はラテン語では、持つものという言葉を意味していて、ギリシャ語では同じという意味であり、余談ではあるが、ホモセクシャルのホモはこのギリシャ語の同じものと言う言葉が語源である。
人間を表す言葉はその他いくつかある。ホモルーディエンスエンスは遊ぶもの、そしてモホモモータリスは死すべきものであるが、なぜこのホモサピエンスが人間をあらわす代名詞のようなものかと言うと、人間のみが知性を持ち、考えることができる唯一の存在であるからである。
そう考えるとスポーツをするだけでは、人間は養われないと言うことがわかるであろう。
ホモサピエンスと言う言葉からもわかるように、知性を磨くと言うことが、人間らしさを磨くと言うことで、パスカルが人間は考える葦だと言っていたのは、実にこのことではないだろうか。
最近記事になっていたのだが、元ボクサーが刑務所にボクシングを教えて構成させるという企画があった。
確かこれはアメリカの刑務所でも行っていたことで、アメリカが更生プログラムに取り入れてたのは、かなり前の話である。
私自身こういうボランティアの気持ちと言うのは非常に大事なことで、やっていることは尊重されるべき行為であろう。
しかしこの企画が本当に更生になるのかと言ったら、何とも言えない、実際このことを行ってきたアメリカが結果として残していないので、たぶんそれは漫画か映画の世界の話だと思っている。
英語にEnlightenという言葉があるが、これは人に何かを教え導くということで、この語源はラテン語の光をあてるという言葉から来ていて、すなわちEnlightenと言う言葉は知恵や教えによって新しい世界に導くと言うことである。
はっきり言ってスポーツしろというのはたやすいが、勉強しろというのは難しく、この勉強の楽しさというものを伝えて行くことは至難の技である。
しかし勉強や学問によって啓蒙していくことは非常に大事なことであり、刑務所なんかでも実際この学問を身につけたり、宗教によって改心させられ更生する場合が多いのはないだろうか。
この前も言ったが、ボクサーの誇りとかチャンピオンの誇りと言う人がいて、俺はボクシングをやってきたのだから、他の奴とは違うということを言って、自信を持たせようとする人がいるが、しかしこれはただ単に他者と分離して、自分たちは偉いと言っているだけで、本当にきちんとした指導者ならば、強くなったからこそ、その足りなさを気付かせなくてはならない。その足りなさを気づかせることがEnlighten(啓蒙)であり、その足りなさに気づいて何かを求める時に、人間はまたさらに新しく生まれかわるのだが、まさに人間の本当の出発点はここにあるのだと思っている。
今青少年の犯罪率が増えて来たということが言われているが、こういう時代であるからこそ、Enlightenしなくてはならない。
青少年の問題をスポーツに頼ることは安易である。
こういう時代であるからこそ、学問の大切さをとき、青少年に啓蒙しなくてはいけないのではないだろうか。

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opinion

2010-06-09 | Weblog
最近会社の役職の人など、話すことが求められる人たちに、話しているとどうしたらうまく人前で話せるのかということを聞かれる。
まずアドヴァイスすることは、人前でうまく話すためにはまず手本が必要で、とにかく本や雑誌を読んで、これはいいと思ったところを書きのこす大学ノートを一冊つくる。
そしてこのノートを一冊一冊書きつぶしていくうちに、表現力が磨かれていくことに気づくと思うのだが、これは英会話で言えばシャドーイングのようなものであり、私自身も実際それを実行しているが、もう何十冊ノートをつぶしたかわからないぐらいである。
また自分のオピニオンを述べる時、意見がぶれないことが大事である。ただうまく話ができるだけでは仏像に魂をいれずで、相手には伝わらないのである。
英語のThesis(論文)と言うのはおおまかに言って、大事なのは綺麗な文法をつかえとか、正しい文法をつかえという文法などの問題ではない。
大事なのは何が言いたいかということで、そのことをより一層クリアにさせ、相手に伝えることが重要であると思っている。
しかしぶれない意見というのは、決してそれを強く主張することとは違う。
これはよくあることだが、議論をしていて自分が不利になるとどなりつけたり、恫喝したりする奴がいるが、こういうことは議論ではなく、単なるおどしであって、大事なことは、それをいかに客観的にとらえているかということで、そのため客観的な考察が必要なのである。
もうこれはあたりまえだが、一般的に論文の良し悪しは、その参考文献の量や質によって決まるものだ。
自分の意見をその参考文献や資料によって客観しできるから、ぶれない意見がもてるのである。
以前学生が卒論を書いた時に、その卒論が自分の思っていたような論文にはならなかったと言っていたので、参考文献の少なさを指摘したのだが、本人も時間がなくてその資料を探すのに時間がとれなかったそうで、その論文が少し恣意的になってしまったというようなことを言っていたと思うが、一度論文を書いたことがある人はこのことがよくわかると思う。
上司や何かを指導する人が、人に意見をしたり、何かを伝える時もそうである。
それは小学生や中学生の作文レヴェルで物事を理解し、物事を伝えていくには、言葉に対して重みがないので、信用をえることができないし、誰もついてはこない。
もし仲間を集めたとしてもそれは情や、しがらみでかたまっている軍団にすぎず、こういう輩が会社などの弊害になっているということをよく聞くが、まさに集団を正しくまとめあげていくためには、情やしがらみでつながらない、客観的な考察が求められるのではないだろうか。
議論や意見と言うのはあくまで、客観的な考察にたって主張するのが、正しい主張の仕方であり、このことによって建設的な意見がもたらされるものだと信じている。
日本人はディベーティングを意見で相手をやっつけることだと思っているが、これは勘違いで、もともとディベーティングと言うのは、論理的な意見に基づいた建設的な手段であるそうで、むこうはこの議論を重ねていって相手の意見や、考え方を共有させるそうだが、今まさに自分の意見を言い、相手の意見をうまくまとめていくためには、この客観的な考察が求められ、このグローバルな時代は、特にリーダーにその能力が問われているのだと思う。








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