脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

子供にさせたくないスポーツ

2012-10-31 | Weblog
最近うちの子供がテコンドーに興味を持ち始めた。華やかなけり技がかっこいいらしく、自分もやってみたいそうである。
韓国の武術に興味を持ったのはうれしいが、しかし正直少し複雑だが多少のためらいはある。
そのテコンドーであるが、近くに外国人たちが開いているサークルがある。
塾もあるのでそんなに頻繁に行くことはできない。ここだと練習も週1回ぐらいでも通えるので、行きたいと言うならばここにしようと思っているが、テコンドーは少しでも朝鮮文化を理解するにはいいスポーツで、彼のおじいさんは韓国人なので多少は、自分たちの文化と言うものを理解してもらいたいと思っているから、テコンドーを習うのはいい機会である。

しかしボクシングはどうかというと、はっきりいってブログでも伝えたが、日本のアマチュアボクシングは子供にさせたくないスポーツである。こういう小さい世界に順応してしまうと、将来社会に出て時にディスアドヴァンテージになるからである。日本人はスポーツをさせることはいいことだ、子供がいいと思ったらどんなスポーツでもさせてやるのが、いいことだと思っているが、ところがどっこいスポーツと言うのも一つの小さな社会であるから、やらせるスポーツや指導する人間を間違えると、子供に与える影響は大である。そういう意味では、アマチュアボクシングは議会の持ち方、独占販売のことも含めて、大学レヴェルで人間を形成していく上でのセンスを磨くことはできないと考えている。
まあ前回も言ったが自分たちでヘッドギアを規定して、それを独占販売させておきながら、結局ルールをかえて前年度のヘッドギアをつかうことを余儀なくさせたが、こういうバカ丸出しの失態は企業だったらこいつら全員即刻クビ、誰もついてはこない。
こういう軍団が牛耳っているようなクラブに子供を所属させると言うことに対してかなりの不安はある。

私はクラブやスポーツを選ぶことを留学にたとえて考えているが、スポーツと言うのもいろいろとカラーがあってそこでいろいろな人間とかかわっていくのだから、それはスポーツを通しての人間形成の場でもあると考えている。
そしてその人間形成の場としてとらえた時に、誰が北朝鮮のような専制政治が行われているような、小さな社会に子供をおくりだすであろうか?そういう意味ではアマチュアボクシングというのはこの前にブログであげたように、北朝鮮なみのメンタリティで狭い価値観の世界で、こういうところに子供がどっぷりつかることに対してかなりの懸念がある。

まあこれは私の意見であるが、この世界にどっぷりつかった人間と言うのは素直ではきはきしている。
第一印象では素直であいさつはするので、非常に礼儀正しいというような好印象をうける。
しかしそれははっきり言って素直なだけ、アマチュアボクシングは何々するなという禁止事項が多く、おまけに審判に対する印象をよくしろとか常にくだらない権力を意識して競技しなくてはいけないので、こういうところにどっぷりつかると、そういう素直だけが取り柄な人間になってしまうと思っている。
これも偏見かもしれないが、この世界にどっぷりつかった人間で企業につとめてばりばり実績を積んでいる人間の話をあまり、聞いたことがない、はっきり言ってこういう環境で、ロジカルに物事を考えて、自己主張などできる人間なんかそだつはずはない。
おそらく頭をふる活用してロジカルに物事を考えていく能力や英語力が求められる時代で、実際toeicも500点なんか話にならない厳しい世界では自分たちは話にならないとわかっているのだろう、スポーツをする人間は賢いなどと根拠のないような負け惜しみを言って安心するよりも英語を話したり、ロジカルに考える、それはスポーツをしているからこそ、そうならなくてはいけないと言う考えや方針をうちたててこれからのスポーツを考えて行ったらいいと思う。
まさにサッカーなどはそういう方向にむかっていると思うが、プロ選手にすべての人間がなるわけではないのだから、そういう方向に向かっていくことがアマチュアとしてのスポーツの価値を高めるのだと思う。

勉強もしないでアマチュアボクシングばかりやってはだめだ。最近のアマチュアボクシングは力強さがない。
おそらく他にスポーツをやっている人間で、力の強い人間ならば、けんかならば逆にたたきのめされてしまうのではないかと言うぐらい、力強さに欠ける。勉強もできないような奴が、ボクシングをやっていてケンカも弱いと言うことはなさけなさに輪をかけたぐらいなさけない。
ボクシングと言うマイナースポーツしかとりえのないような人間になってはいけない。こんなものは一般的に世の中では通用しない。
「鉄は熱いうちにうて」ということわざがあるが「ボクサーはたたかれる前に頭をみがけ」である。


 




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unsung heroes

2012-10-24 | Weblog
ジャージの話だが、少し案をかえたらしい。
最初はひとりでもつくろうと思っていたが、もう少し買ってもらいたいと言う考えから少しアイデアをかえたらしく、チーム名もつけたそうだが、そのチーム名を英語にしたそうだ。
どういう英語にしたかと言うと「Unsung Heroes」これは私が以前におっさんたちに何気なく言った言葉で、その言葉がかっこよくて目立ちたがり屋の彼らが気に入ったらしく、それをジャージに入れるらしい。
しかし笑ったのはunsungとheroesの間にドットを入れようとしたことだ、最近の人はなんでもドットを入れる傾向がある。
おいおいその間にドットを入れたら形容詞の意味がなくなるやろと言ったのだが、特にこういう英語的なことを間違えられると仕事の関係上こまるので、他のことはどうでもいいが、しかしこういうことは結構厳しくチェックしている。
unsungという言葉は一般的には縁の下の力持ちと言うように訳されるが、もともとの言葉はたたえられないと言う意味で、この言葉は詩歌などに出てくる古典的な言葉で、おっさんが多く、公式戦などのメインの試合に出れない少々かっこつけだが、まあまあのネーミングだと思っている。
たぶんこの言葉を私がつかったのは裏で活躍するヒーローというような意味でつかったのではなく、縁の下の力持ちと言う意味でつかったと思うが、その縁の下の力持ちと言うのは私のモットーでもある。
よくジムなどで自分の実績みたいなものをこれみよがしに飾っている奴がいるが、しかし会員を差し置いて自分が目立ってどうするんだろうか。
第一社会人の多いこのクラブではそういうことは問題ではない。俺たちを尊敬しろとでも言うのだろうか、そういうことを自慢する奴は往々にして会話する能力が乏しく、コミニケーション能力が低いから自信がないので、そういう小さいことにしがみついているのだろうと思う。
ここのクラブには多くの社会人が在籍しているが、みなさんそれなりに実績をもっているので、話を聞いていても非常にためになったり、勉強になることが多く、そういう人たちを見ていると、いかにそういうことに固執している奴らのせこさがわかる。

名前と言うのは非常に難しい。先日も子供が生まれる若いお父さんが子供の名前をなやんでいたが、名前と言うのはそう簡単に変えることはできないので、かなり悩んでしまうものだ。
私の知り合いの子供の名前が「パラム」という。日本人だったらDQNネームに近いが、しかしハングルではかわいい響きである。
パラムは韓国語で風を意味するのだが、風は漢字読みにするとpungだから彼女の名前は、漢字表記はなくハングルのみで表記する。
確かキムハヌルという女優がいたが、このキムハヌルのハヌルは空と言う意味、漢字だとg(k)ongおそらくこの名前もハングル表記だけだと思うが、最近はこういうハングル表記だけの名前もあるらしいが、名前と言うのは響きもある意味大切である。

クラブチームのネーミングと言うのはむずかしい。
名前に意味があるということだけでもだめだ、響きもよくなければいい名前を付けることはできないが、あまり考えないで勢いだけでつけると暴走族のようなネーミングになるのだろう。




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やっぱり70%半島の人だ

2012-10-22 | Weblog
前回のジャージの続きの話だが、何人かで記念につくるそうである。
とりあえずどんなものをつくるのかちょっと見せてみろと言うことで見たのだが、少し暴走族っぽい。
私には着てもらわなくてはいけないからプレゼントすると言うので、「俺はいらん。絶対プレゼントするなよ。もし俺の分をつくったら半額になるとしても俺は絶対にきんからなあ」とはっきりと断ったのだが、しかし意外にも好評で最初はひとりでつくる予定だったのが、今では10着以上つくる見込みはありそうだ。

オリーヴは基本的に社会人が多いクラブであるが、ここには様々なタイプの人間が集う。
高学歴で外国人がいたら英語を交えて話すインテリ派から、ボクシングが好きな人間たち、どちらかと言えばここは真面目タイプが多いが、しかしいわゆる少数派のボクシング好きの人間たちが、おもに試合などに出てがんばってくれている。
普通ボクシングクラブはだいたいがアスリート中心、いわゆる試合に出場する人間が中心にまわっているのだが、しかしここは全く違う。
どう違うかと言うと、試合はここでボクシングを練習したら必然的にするというものではなく、本人が出たいからするものであって、私自身もケガなどの心配もあるのであまり進めてはいない、もし出るとしてもなるべく安全な試合を選んでいるのだが、基本的に私の考えは個人が好きなことをやって、思い切りストレスを発散させてくれたらいいと考えている。試合もそのひとつの選択肢であり、必ずしもそこに目的を置いていない。
ここは試合前になってもいつもと変わらずまったく緊張感などない。普通だったら試合が近づくとどことなく緊張感が出るのだが、ここではそういう厳しい雰囲気はなく、誰も試合があるというまで気づかない、本当にみんな普段通りに練習している。

この前試合が近づいたので会員が話をしていた。
「もうすぐ試合やなあ。体重どうすんの」
「えっ俺○○級で出ようと思ってるんですけど」
「でも、向こうに行ったら前日うまいもん食わんといかんから余裕を持ってた方がいいぞ」
何の余裕だかわからないが、せっかくここまで来たのだから旅行を楽しもうというのだろうか、温泉に泊まりたいとも言っていた。
たぶん時々出張で来てくれる人が、最初すごく驚いたと言うのはこの緊張感のなさだと思うが、おそらく我々の態度は、ボクシングをなめているとしか思えない態度であるが、しかしスポーツは楽しむためにあるもの、狭い世界でそれだけがすべてなんて言うような雰囲気の中で、やっていて楽しいのだろうか不思議である。

しかし前にある人が言っていた。自分たちボクシングだったらよわいけど、口だったら絶対強いでしょうね。これには笑った。
確かにそうだ、私とマネージャーがいるし、結構有名な弁論部だった人も在籍している。
たぶんボクシングクラブディベーティングなんてやったらその中ではかなり強い方だと自負しているが、自分たちは英語でディベーティングも可能である。
ケンカやボクシングはよわいけれど、しかしディベーティングならケンチャナヨだ。
この前マネージャーが私にうちの会員があまり話しかけてこないと言っていた。
実は私は会員に彼女のことを私よりも弁が立つ「俺が初段やったらあいつは10段ぐらいや」と言っているからだと思うが、前に会員が緊張して最初話しかけてこないのは私が何か言ってんのじゃないのか、私はすごく優しくしてるのにと言っていたがビンゴ、ただ彼女は本当にやさしい、私も信用しているから言えるのである。

話しはオリンピックの話になるが、ボクシングで明らかに優勢だったのに、日本人にまけの判定が下った試合があった。
後日判定を覆して、審判を辞任させたそうだが、あの疑惑の判定を日本人は誤審だということを言っていたが、私がめでたいと思うのはあの試合の内容を見て、誤審だと言えることである。
AIBAもたたけと言うブログの中でも言ったが、あの判定は誤審どころではない。私などは意図的に何かの力が働いていなければそういう判定にはならないと思うのだが、それを単なる誤審と片付けていいのか、今後のことを考えたらもっと徹底的にたたいておく必要があるのではないか。
ロンドンオリンピックからヴィデオ判定が採用されたが、これは審判の判定に対して不服であるならば、オブジェクションをとなえて、再判定できるというシステムであるが、これはアメリカンフットボールのルールをそのまま採用したのではないかと思っている。
おそらくこういうビデオ判定が出てきたら判定に対して、異論を唱える国は出てくるであろう。そうなるとディベーティングになれている欧米の人間が有利だと思っているが、この判定がロンドンと言う英語圏から採用されたということからして、少し異論があるが、今後は前にも言ったように、英語を話し、議論できる人材と言うものを養成する必要はあるだろう。

しかし日本人の運動系の奴らは弱い者には偉そうに言えるが、強いものや苦手なものには何も言えない。
サルのように固まって「おい、こら」とか「そこ邪魔」などと、弱いものや少数派には、でかい声で威嚇できるが、しかし海外ではおとなしくかたまっているのが現状だと思う。
時々弱いところばっかりなのに、がんばって自分の威厳を保とうとしているいかめしいおやじを見たら、みじめさを通り越して哀れささえ感じるが、はっきり言って自分たちのようなへたれな人間のほうが堂々と生きている気さえする。

話しはオリンピックに戻るが、あの判定も韓国だったら、誤審どころではすまない。国中が騒ぎ立てて抗議すると思うが、完全に日本人はなめられている。
もう国民のほとんどはそう感じていると思うが、問題は態度ではなく、方法である。どうすれば自分たちのその感情が伝わるかと言うことを勉強しなくてはならない。
日本のスポーツはミーティングのシステムに問題があると思う。
普通ミーティングと言えば議論の場である。しかし日本では監督中心で監督がミーティングのイニシアティヴをとり、そしてひとりひとりがそれに対して意見を言うようなかたちでミーティングがもたれるらしい。
ある奴なんかはスパーリングなどが終わった後に、その人間のいいとこわるいとこを一人つづ言わせていたが、小学生の終わりの会でもあるまいし、そういう知能を疑われるようなことが、しかも高校性以上のクラブで持たれていると言うからおそろしいものだが、人前できちんと話すことができない奴のミーティングなんて所詮こんなものである。

人前でしゃべれないというような奴もいるが、それは日本語がきちんと話せないからか、あるいは自信がないからだ。
しかし監督業をするならばきちんと人前で話す訓練ができてなくてはならない。
日本は派閥みたいなものがあるらしいが、そういう派閥が幅をきかせれるのは、そういう議論ができないから長いものにはまかれろという風潮になるのだろう。
英語どころか日本語すらあやゆい奴もいるが、しかし今やスポーツの監督やコーチは議論できなくてはだめだと言うのが私の意見である。おそらくこれはもう一般的な考え方であると思うが、もし監督がそのミーティングのイニシアティヴをとるにしても、小学生の終わりの会レヴェルではなく、成人なのだから、議論することの訓練もかねて意味のある議論をさせるようなミーティングを持たなくてはならないのではないかと思っている。

最後に断わっておくが私は半島の人間ではない。ずっと英語で話していると、日本人を知っているアメリカ人からは中国人か韓国人だと誤解される。笑い話だが過去に一度台湾料理屋で、台湾人の店員にどこから来たと尋ねられたことがある。高知だというといや国はどこだと聞かれたことがあるが、しかし自分は日本人だし、日本人であることに誇りを思っている。
ただ気質的にはかなり違うと言うことだ。




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The emperors new clothes

2012-10-19 | Weblog
この前長く在籍してくれている会員の人がジャージをつくるのに、オリーヴの名前を入れていいですかと言うことを言ってきた。
下品な色にせんかったらいい。ちなみに何色だと聞いたら黒というのでよしそれではいいということでOkした。
しかしジャージをつくるのにここまでしてくれるのはありがたい。せっかく名前をいれるんだからもっと誘えと言って共同でジャージをつくることになったが、彼らがどういうジャージをつくるか楽しみである。
さっそく何か言葉を入れるのでいい案はないかと言ってきた。
もともとここはboxing clubではなくフランス語でboxe clubにしようとしたが、しかしboxeではよくわからないのでやめた。大学生がかっこいいじゃないですかと言っていたが、フランス語はあまり浸透していないのでだめだ。
さらにラテン語で「alea jacta est」(サイは投げられた)これは自分たちのクラブがリングに上がる前に言っていた言葉、さらに私の好きな言葉で「dum spiro spero」(息をする限り希望を持つ)何かもかっこいいんじゃないか、でもこういう教訓はある程度教養がなければわからない、特にサイは投げられたが語られたときの時代背景がわからなくてはただの勢いだけの言葉にひとしくなってしまう。
でもなぜラテン語かと言うとラテン語は古い言葉で英語やヨーロッパの言語の語源となっているからだ、だからその語源となっている言葉を用いると言うことは言葉を支配していると言うことであり、言葉を支配すると言うことは、相手を支配すると言う意味でラテン語にこだわっているのだが、おそらく我々が試合の前に言っていた言葉もそういう意味があったと思う。

ネーミングや言葉と言うのはセンスとともに教養も多少は必要だ。
バカな奴の言葉やネーミングしたのはすぐにわかる。
あまりセンスがなく、ネーミングすると飲み屋の名前や暴走族の当て字のようになり下品になる。
よくTシャツとかグローヴとかに英語とか言葉をいれているのを見るが、時々見ていてなんじゃこれはというのがある。
ネーミングなんかもスナックの名前みたいなものもあって、たぶん意味を深く考えず勢いだけでつけたんだろうと思うのだが、そういうネーミングや言葉と言うのはそのつけた人間の考え方や教養的なものがよくでている。
狭い世界と言うのはまわりが見えていないので、そういう言葉が通用すると思いがちだが、しかしはたからみたらそれは笑えることであり、もう少し言葉を養わないとその言葉が独り歩きして、ただの勢いだけの言葉になってしまう。

言葉と言うのは重要だ、特に若い人たちには日常的な会話をするにも言葉を選ぶ必要があるが、特に指導する人間の言葉は影響力があるからだ。例えば「一球入魂」というような本能を刺激するような言葉とラテン語で書かれた教訓では競技者の受け取り方が違う。
勢いのある言葉と言うのは自分たちの世界に入って、そこで本能を刺激し闘争本能をたきつけることはできるのだろうが、しかし客観的になって物事を考える方向に向かうかと言うとそうではない。
おそらくラテン語などで書かれた言葉の方が考えると言う意欲を高める。一歩ひいて物事を考えると言うことに結び付くのではないかと思っている。
バカな奴が指導すると本能だけは刺激するが、しかし頭の部分は刺激しない。かっこよく見える言葉や漫画のような言葉でモティヴェーションを高めて、勢いをつけようとするが、しかしこういう言葉ばかりつかって競技者を煽っているだけでは肝心な部分が育たない。
よく競技をやめたら何をしていいのかわからないというような人間がいるが、おそらくそういう人たちはそういう世界で闘争本能だけをたきつけていたのだろう。モティヴェーションにやたらこだわるようなグループは気をつけたほうがいい。

話しは少し変わるが私は日本人というよりは、アジア人と言った方がいいと思っている。
アジア人の友達がいて、そして欧米にも友達はいる。たぶん彼ら彼女らは日本人の友達よりもはるかに多いのだが、そういう人間と仕事をしたり、また夜中にスカイプで情報交換をしている。
ただ学生時代私はアジア人のコミュニティーにいたわけだが、そこには韓国系,日系、中国系さらにバイレイシャルなどもいた。
もともとそこはアジア人が多いので圧倒的にそういう人たちが多く、英語を共通語にして、相手によっては韓国語、日本語、そして中国語などを使い分けて話すのだが、たぶんそういう英語を共通語にして、他の言語を使い分ける自分たちがかっこいいなどと思っていたと思う。
グレムリンという映画を知っているだろうか。
だいぶ昔の映画であるが、この映画は小さくて目のつりあがった悪魔のような生き物が、突然発生して人をおそうと言う映画であるが、その生き物は東洋人をモデルにしていると言われている。
チンキーアイで集団でかたまってわけのわからない言葉をぺちゃくちゃと話す。そういう我々に対する欧米人の嫌悪感が、この映画に現われているというのだ。
実は自分たちではかっこいいと思っていたが、しかし彼ら彼女らから見たら異様でへんな集団だ、たぶんこういうことも客観的に物事をみなかったら自分たちは国際的だなんてとんでもない勘違いをしていたのだと思うが、まさにそれは裸の王様である。

笑い話だが童話の「裸の王様」を「naked king」と訳した奴がいた。
裸の王様は「the emperors new clothes」なんでも直訳したらいいというものではない。これは直訳したらやばいと思うようなものは、しないほうが賢明である。







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ミチゲ モゴシップン ケーキ(食べたくてたまらないケーキ)

2012-10-17 | Weblog
昨日ソヒョンに堂島ロールケーキおくってほしいと言われた。
「堂島ロールケーキってお前どこで食べたの」と聞くと、テレヴィか何かでとりあげられていて、かねてから大阪に行ったら食べてやろうと思っていたそうで、この前来た時堂島ロールケーキを買って食べたらそれがあまりにもおいしかったそうである。
とにかくおいしいから食べてみてくれ、そして私が大阪に行った時に、それを送ってほしいと言うのだ。
さっそくその堂島ロールケーキと言うやつを調べたが、見てほとんど生クリームだったので「おえっ」となってしまった。
甘いものは食べるが、しかしあれは少々きつい、昔日系の老人ホームにボランティアに行った時に、早朝に95%あんこのアンパンを差し出されて、頑張って食べたが、おそらくそれに近いぐらいの生クリームの量である。
これぐらいの年の女の子は甘いものが大好きだ。
そう言えば大阪であった時も、食事の後にペペロをカバンから出してぼりぼり食べていたが、しかしそれでもスタイルもよくスリムなのには驚くが、おそらくトウガラシのカプサイシンの作用が働いているのだと信じている。

彼女を見ていたらもう21世紀の時代が来ていることに気付く。
彼女のように韓国人であっても他国に住み、複数の言葉を話し、外国の文化になじんでいる、こういう存在が増えてきている中、もはや韓国人をひとくくりにすることはできない、もうそういう時代に来ていると思う。
私がよく耳にするのは高知ではこうだと言う言葉である。聞くたびに「出たあっ」と思うが、しかしそういう言葉は使う必要はない。
高知と言う県が鎖国しているならば別の話であるが、しかし公平に物事を考え理解したかったら、そこでしか通用しないルールや習慣がすべてだと言う考えはすてるべきである。
高知も最近は外国人の姿が目立つ、私の住む地区はこの近所だけでも3人以上の外国人が住んでいるが、それは外国人だけではなく、他県からも結構人が来ていて、特にここのクラブはそういう人の割合が高く、過去に進学などで4年以上東京などの都市に住んでいた人も含めたらおそらく80%の人がそうだと思う。
自分の生まれた土地を愛することは素晴らしいことだが、しかしそこから出ないで、そこがすべてだと考えることとはまったく違うことであるが、意外とこういうオラが村の精神を持った人間が多いことに気付く。
これはある人間から聞いた話だが、仕事であるおっさんが客として来た。
そしたらそのおっさんがいきなり「お前俺をしらんがか」とわけのわからんことを言ってきたらしい。
たぶん私だったらこういう傍若無人な奴が来たら「指名手配ですか」と言ってやるのだが、しかし時々こういう話がでてくることに驚いているが、こういう奴らは下品きわまりない。
これは前にも言った日本では偉そうにしているけど、海外では借りてきた猫の子のようにおとなしい運動系の奴らなんかも同じだ。
英語が話せない、議論することができないからだと思うが、この前も言ったが韓国人も含めて欧米の人間は話している時に最後まで人の話を聞いていてはだめ、これはドイツに留学していた会員もそうだと言っていたが、違うと思ったら相手の話のこしをおってまでも自分の意見を主張しなくてはならないが、欧米の人間が声がでかくて、ゼスチャーが大きいのはそういう土壌があるからだと思うが、しかし勉強を無視して、従順性をまずおしつけられる縦社会ではそういう人間が育ちにくいことは確かである。

だいぶ前にアメリカ人の友達と韓国人の女性も誘って、英会話の大学生といっしょにカラオケに行ったことがある。
そこでは英語、日本語、韓国語、そして中国語の4か国語が飛び交っていたので、大学生たちがかっこいい自分たちもはやく英語が話せるようになりたいと言っていたが、しかし英語を話すということは憧れではなく、もう現実的なことであって、採用や物事を判断する基準になりつつあるのは確かなことである。
こういう時代にオラが村しか知らないと言うのは、さっきのおっさんではないが考え方がずれてしまうのだが、それは大きなディスアドヴァンテージである。

話しはかわるが、時々彼女が選曲したCDをくれるのだが、その中に「missing you like crazy」というのがあった。
たぶんタイトルは「ミチゲ ポゴシップン サラム」というさびの部分からとられていると思うが、ミチゲッタというのは「狂いそうだ」という意味で、もう少し平たく訳すと「~すぎてやばい」「ミチゲ ポゴシップン サラム」は「あいたくてたまらない人」とも訳せるが、ミチゲッタというのは強い感情を表す言葉で、こういう歌の歌詞などによく出てくるが、英訳の「missing you like crazy」は直訳ではないが、日本語の会いたくてたまらないよりも的を射た訳である。
「ミチゲ ポゴシップン サラム ミチゲ トウッコ シップン ノエ ハンマディ」こういう激しい言葉を聞くと、心にひびく、そして彼女たちと同じ半島の血でつながっていることを実感する。
私は日本人であっても半島の血が流れている。それは否定することができない事実である。そしてこういう歌や映画などを通して自分がそうであるということを深く感じる。



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Im descended from penisila 半島の血

2012-10-16 | Weblog
最近はまっている動画がある。それは「紙ウサギ ロぺ」という映画が始まる前のちょっとした時間に放映される動画があるのだが、それがおもしろくて見ている。
ロぺと言うのは主人公でウサギである。そのウサギが先輩のリスと今時の若者の間抜けな会話を淡々とするのだが、その間というか受け答えが面白いのではまっている。
たぶんこの物語は何が面白いのかと言うと、おしゃべりで間抜けなリスととぼけたウサギの持つ独特の間で、そういう独特の間をこのリスとウサギがうまく醸し出しているところである。
日本人はこういうのんびりした間を楽しむ民族である。おそらくこういうのんびりした間というものを理解できる民族は少ないと思うが、これは日本人が平和だと言うことを意味しているのではないかと思う。
学生の時アメリカ系韓国人の先生が授業で「韓国は和の国で、日本は武の国だ」と言ったことことを聞いた。
「部」の国だったらわかるけど、日本人は平和だ、違うと言い返してやろうとしたが、どうせ戦争のことを持ち出して侵略したとしか言わないのでバカらしくなって言わなかったが偏見も甚だしい。
私はいろいろな民族を見ているが、日本人はおとなしい民族である。争いごとを好まず、言いたいことを言わない、すぐに固まると言うわるいところもあるが、しかし島国独特の考え方や気質を持っていて、平和的でいわゆる大陸や半島の人間とはかなり違うと思う。

これは私のはずかしい話だ。笑い話として聞いてほしいが小学校の時上級生とけんかになった。
けんかといっても鉄棒の取り合いであるが、最初は私が遊んでいたのだが、いじのわるい上級生がのけといって、後ろからはがいじめにして、どけようとしたところを、こともあろうか私は後ろ頭突きをした。
足でけって思い切り伸び上げたのでかなりいたかったろうと思う。彼はその場にうずくまって、その時は戦意喪失して教室に帰って行ったのだが、私はその時上級生をやっつけたので得意げになっていた。
しかし次の日、私は階段の踊り場で襲撃されて、どえらい目にあわされた。
笑い話だが頭突きを警戒して、はなれてけり技でひどい目にあわされた。小学生の子供がこういう戦略を練っていること自体笑えるが、そしてうずくまった時にネリョチャギ(かかとおとし)のようなものをくらわされたが、たぶん私が日本人ではじめてネリョチャギをくらった人間だと思う。

島国の人間と半島の人間は似て非なるのものだ。両方を見ているが、私はどちらかと言うと半島の血をひく部分が強い。
日本人は言いたいことをいわない。感情をあらわにしない、これはかなり異質である。
私は今ではコントロールして日本人以上におとなしくなったが、それでも昔は自分の性格やまわりと比較して、あまりにも違うので、俺たちは病気じゃねえのかと思えたぐらい特別で、島国だけしか知らない人間と言うのは独特の文化や性質を持っていると思う。

竹島や尖閣諸島の問題にぶちあたって、ようやく日本人も主張するようになったが、しかし拉致問題なども含めて、まだまだもっと言わなくてはならないことがいっぱいあると思うが、しかし未だに遠慮して主張しなかったり、そういう問題に関心のない人間も多いことも事実である。
これは個人的な意見であるが、日本人にかけているのは民族教育だ、アジアでは韓国や中国を除いては、日本人は優秀な民族だとレスペクトしているし、マレーシアの大統領のルックイースト政策は日本をそのまま表したものであるが、もっと民族に誇りが持てるような教育を導入していくことも必要だと思っているが、意外とこれが肝心なことかもしれない。










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Im kinda fabyon?

2012-10-13 | Weblog
今もあるのかわからないが、昔仮面ライダーショーとかいう子供むけのショーがあったのだが、その脇役というか所謂怪獣役のアルバイトがあった。高校の時の春休み、そのアルバイトは当時にしてみれば時給がかなりよかったのでさっそく応募、そして私たちは採用された。
私はどちらかというと偉そうにしているわけではないのだが、当時非常に生意気に見られた。
つっぱっていたわけでもないし、無理にそうしていたわけでもない、たぶん日本人でいうところの従順性がないからであろう。
その世界もどちらかというとオタク系体育会の世界であったので、先輩的な人をたてるというルールのようなものが暗黙の内にあったと思うのだが、しかしそんなことをあまり気にしなかった私は露骨に嫌われてしまった。
そのショーは2回あってそれぞれ15分、その十五分のクライマックスで、怪獣は正義の味方にぼこられて退散していくのだが、しかし彼ら彼女らは、その時をチャンスとばかりに、私をぼこるときにやや本気モードでぼこぼこにしたのだ。
ぬいぐるみと言えどそれでも本気でなぐられればかなり痛い、こいつらこれぐらいだったらというような加減をしっているのだろう。しかも当時は仮面ライダーと言うひとりのヒーローが一人で戦って悪をほろぼすのではなく、戦隊もので5人そろってやってくるのでだからかなり痛い。その時バイト料があるのでこれぐらい我慢しなくてはと思っていたのだが、しかし終わってからも固まって結託している様子に、私はかなりいらだっていた。
しかし2回目のショーで自体はかわった、最初は順調にとらえられていた子供を助け、そのザコの怪人をやっつけて、さあ次は親玉の怪獣を倒す番だ、そして会場からは子供の声援が、しかしいっせいに怪獣に飛びかかった時、歓声がどよめきに変わった。
ここからがショーの見せ場である。悪である怪獣を正義の戦隊が倒すことを誰もが期待していたであろう。
がしかし何と戦隊が怪獣に飛びかかった時に、こともあろうか怪獣が持っていた棒で反撃、そしてそのリーダーである赤をたたきのめしてしまったのだ。
たぶん棒で背中を一撃したので、その痛さにその赤はうずくまっていたのだが、その時、たぶん会場は静まりかえっていたと思う。
しかしその静まり返っていた会場で、悪の隊長が一言「ひとまず退散だ」と言って、わたしはひっぱられるように連れて行かれたのだが、正義の味方がやられているのに怪獣がひとまず退散と言うのは笑える。
それでもその時その司会者の進行で無事と言うか何とかショーを終えることができたが、しかし私は責任者から「お前は子供の夢をつぶす気か」とめちゃめちゃおこられ、ショーをぶち壊しにしたと言うことで、バイト料をもらえなかったと思う。
もういい年になったのでこういうことはまずないが、しかし若いころは結構こういう大胆な行動に出たことも確かだ。
外国人と議論していて、東洋人を見下しているように思えて、机をひっくり返したこともあるし、その当時の私はこういう議論する場では、イエローカードとレッドカードの連続であったように思うが、こういうことも今だから言えるはずかしい話だ。
ただこういうことを繰り返していてはただのバカだ、こういう失敗を繰り返して議論すると言うことは、こういうことなんだということを学んだことも確かである。
若気の至りと言う言葉があるが、若いうちはある程度感情に任せて生きることも大事なことだ、若気に至ると言っても本能に身を任して、人を傷つけたりすることは決してしてはいけないが、しかし考えて悩み、そしてそういう失敗を繰り返して学ぶことも多いと思う。

基本的に私は集団でかたまる奴が大嫌いである。
自分たちではかたまっていないというが、しかし私からみたらほとんどのスポーツクラブは固まって存在している。
日本人のグループと言うのはやたらルールが存在して、気を遣わなくてはいけない相手と言うものがいる。
そういう奴がきたらやたらぺこぺこして、明らかにそいつはバカでもそこでは偉いという扱いを受けるのであるが、ボクシングでいうところのそれだけしかできない何とか大会優勝とか何とか何位と言うような奴らだと思うが、日本人は優秀な民族だと思っているが、群れるとそういう猿のような組織ができるから不思議であるが、それは猿のような奴だから集まるのだろうか?
ここのクラブのいいところはそういう猿のようなヒエラルキーがないと言うこと、はじめてでもボクシングに興味がなくてもそういう奴に気を使うことなく堂々とエクササイズができるということである。








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パロ ノ(まさにお前)

2012-10-11 | Weblog
ヤンキースの黒田選手がチームでしごき体験について語ったそうだ。自分が小学生から大学まで野球クラブに属してやってきたことを淡々と語ったのだと思うが、しかし彼の話は一般の運動系の奴らにはあたりまえの話でも、欧米ではしごきどころか虐待だ、実際それを聞いてまわりはかなりたまげていたようだ。
韓国の犬をたべるという文化も欧米人にしてみればありえない、おどろくべき文化だが、日本の練習中にに水をのまさないとか先輩による後輩いじめなどは、それどころではない、まさにそれは人権問題で、さらに最近ではレイプのような犯罪が集団で毎年おこると言うようなことを付け加えたら、間違いなく日本人のスポーツをやっている奴は異常だと思われるだろう。

私がよく運動系の奴らのことをネタにするが、それははっきり言って異常だからだ。
欧米はスポーツはあくまで楽しむためのものである。だからその好きなスポーツをやっていて、そのことで拘束されたりすることはありえないし、それができないからおこられるなんていうのは言語道断、これでは一体誰のためにスポーツをやっているのかわからない。
私が馬鹿げていると思うのは、基礎練習だと言ってさせる素振りである。
小学生から基礎練習だと言ってそういう退屈でくだらないことをさせてどうするんだと思うのだが、やらせている奴は大真面目に子供の頃から基礎を身に着けるなんて思っているが、しかし小学生のうちは将来何をするのかわからないのだから、まずはスポーツの楽しさを教えることが第一である。
欧米ではまず実戦形式を通して練習をさせているそうだが、子供たちが競技しているスポーツも3つ4つと複数あり、スポーツ科学的には子供の時から一つのことを徹底させるよりも、たくさんのことをさせるほうがバランス感覚を養う上では最適であり、バランス感覚と言うのは最近言われてきている体幹をきたえることだと思うが、しかしそれでも基本を徹底させるなんて言うことを言う杓子定規の奴は結構いると思う。
基本とか型なんてぎゃあぎゃあ言うような奴はたぶん英語が理解できない。
たぶんコンプレックスを持っている奴もいると思うが、スポーツと言うのはまだまだ欧米から学ばなくてはならないところが多い。ルールなどを決めるのもまさに英語だ。
しかし英語ができなくて、横文字を見ることがないので、そういう動きにはついていけない、だから未だに軍国主義的な縦社会の考え方が色濃く残っているのだと思うが、監督の言うことに対して「ハイ ハイ ハイ」と芸のようにうなづいている奴らを見たらそう思わざるをえない。

欧米の人間(韓国人も含む)と話す時は、日本のように話しを最後まで聞いていてはだめ、おかしいと思ったら相手が話している途中でもあいての話のこしをおってでも話さなくては、意見など聞いてくれない。
とにかく俺の話を聞けと言うような態度で意見を述べなくてはだめだ。欧米人がゼスチャーが大きく、声がでかいのはそういう文化があるからだと思うが、縦社会では従順さを押し付けられ、まず人の話を聞けと言われるので、日本のような縦社会のクラブでは、そういう人間と対等にはなせる人間なんて育てることはできない。いわゆる国際社会で自己主張できる人間などめったに出てこないのだ。
いいとかわるいということをぬきにして、金を持っている日本人が海外で幅を利かすことができないのは、英語ができないのと、こういうディスアドヴァンテージがあるからで、まさに縦社会のクラブと言う社会はこういうことを助長させる悪弊であると思っている。
誰も日本人は内弁慶だとは気づいてはいないのか?国内では偉そうにしているが、しかし海外では何も言えない。本当になさけない。日ごろのあのえらそうな態度はどこにいったのだろうか?はっきり言って海外で一番頼りにならないのは日本人ではないかと思っている。

よく韓国も縦社会で先輩の言うことは絶対ではないかと言う人がいる。がしかし向こうにはッタジダと言葉があって、これは日本語では「問いただす」と言う意味があるが、もともとは「理性を持って抗議する」という意味があるそうで、先生や先輩が間違ったことをしたり言ったら問いただすことができる特別な言葉だ。
この前韓国人の小学生の子が、独島は日本のものだと主張して侮辱罪に問われていたが、ああいう雰囲気の中でひとりしかも小学生が主張するのはこのッタジダという文化があるからだが、韓国人は昔からそういうところは日本人よりも大胆で勇気がある。
たぶん私自身もこれをを強く受け継いでいる。
それは私のハラボジから受け継いでいて、私のハラボジは相当インテリだったらしいのだが、みんなハラボジのことになると多くを話さず、最近では彼が教えていた大学をおわれたと聞いているので、政治犯であったのではないかと疑っているが、たぶん私は彼の血を強く受け継いでいるのだと思う。





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しょうむないことでおこるな

2012-10-10 | Weblog
先日ここに時々教えに来てくれる人が訪ねてきてくれた。
営業の出張に来たときに来てくれるのだが、彼には非常にお世話になっている。
その彼がいきなり私のところに来て「実は報告することがあります。」
私は結婚でもするのかと思ったのだが、しかしそうではなくそれは前の大会の結果で、どうやら判定勝ちをおさめたようである。
「えっ勝ったの、君のようなおっさんにまけた奴は相当くやしがっていたやろ」と言うと、いやいや相手はそこそこ強い相手であったようで、この勝利はおっさんボクサーにとって自信になったようである。
彼はそれまではばりばりの運動クラブで活躍していたわけだが、彼はよく本当にここにきて言うことがある。それは目からうろこがおちた、常識を覆されたという言葉である。
まあそれは両方の意味にも受け取れるが、しかし彼が言うには、ここの人間は本当にボクシングを遊びにかえている。普通あんなことしたらおこられるそうだが、それでものびのびとプレッシャーを感じず楽しそうにやっている。そういう意味では非常に楽しく自分もさせてもらっているということである。
正直な話私はここの会員には、ボクシングが趣味として楽しんでいただきたいと思っている。
だから勝ち負けがどうということにこだわらず。その人が満足することで自分も満足でうれしいことで、前に行った試合の帰り、ある人がまけたけれど言ってくれた「いやあめちゃめちゃ楽しかったですよ」という言葉は冥利に尽きた言葉である。
これに対して自分よりも格下の相手に負けたらおこるバカな監督がいる。
どういうことにプライドをもっているのかはわからないが、こういうことはやめたほうがいい。
なぜならこういうバカげた行為は子供に劣等感を植え付けさせるだけで、そういう劣等感が弱い相手をみくだしたりするようになるからだ。
そもそも勝手に相手を格下だと決めつけるのは失礼だ、勉強をほったらかしにして練習をやっているのかどうかはわからないが、しかし相手もそれなりに真面目にやっているのだから、勝手に格下と決めつけて競技するのは失礼だ。よくそれだけしかしない軍団が進学校と試合をする時、こいつらに負けてはならじと本能をむきだしにして、かなりむきになってかかっていくそうだが、こういう行為もいわゆる劣等感からくる行為である。
時々スポーツ学校が進学校や有名な国立大学にまけるという番狂わせがあるのは、こういう劣等感が先走って勇み足になってしまうのだと思っているが、非常にみっともない話だ。
負けたら競技者をおこるなんて言うのは言語道断「お前らほかにやることがないのに、それがまけたら何もない」と言っているようなもので、絶対にしてはならない、こういう教育的配慮の足らないバカは警告すべきである。

私がいたボクシングクラブには3人の韓国系の人間がいた。
全員ファミリーネームがキムであったが、しかし名前が同じでもみんなそれぞれ個性派強い。その中でも私は少々やっかいな奴であったらしいが、よくコーチのジョージとは言い合いになったものである。
あるトーナメントがあったのだが、私はそのトーナメントの参加を見送ったことがある。
参加を見送ったと言うのは聞こえがいいが、実は友達何人かと隣の島に遊びに行く予定がって、その旅行に行きたかったから、トーナメントは見送ることにしたただそれだけである。
しかしジョージはそのことに対して少し不本意であったのか、なぜでないのかと聞いてきた。
私もこの時若かったので、彼の気持ちを理解することもなく、その日は彼とかなり口論になり、結局その日は練習もせずに口論だけで終わったと思う。
で次の日ジョージと会ったのだが、彼はにこにこと近づいてきて「いやあ昨日はおこってわるかった。旅行気をつけて行って来いよ」と言ったのだが、これには驚いた。
えっ昨日はかなりおこっていたのに何でと思って、聞いてみると、どうやら彼は昨日のことを彼の嫁さんに話したところ「若い人はそれぞれうやりたいことがあるのだから、それを尊重して、自分のBOY(選手)たちを絶対におこってはいけないと言われたそうである。
私の経験上ではあるが、向こうの監督やコーチは決してくだらないことではおこらない。(結局トーナメントには出たが)
それに比べてこっちの奴はたかだかくつがそろっていないとか、あいさつの声がちいさいというくだらないことで、目くじらを立てておこるのであるが、本当にくだらない。第一くつの位置なんて人が多ければぐちゃぐちゃになることもあるし、あいさつの声が小さいなんて何を基準にしているのかわからないが、そういう声だけの大きさを求めるから、チワーッスなんていう日本語を無視したあいさつを使うバカがでてくるのだ。
選手を委縮させて従わせるのが指導法だと勘違いしている奴がいるが、昔の軍国主義でもあるまいし、こういう奴は時代錯誤も甚だしいが、意外とこういうバカな指導者が多いのも事実である。

この前取材をことわったNHKの人に「この世界は近年倫理と言うものが求めれれてきていて、欧米諸国はそういうことから非常に停滞してきている。ボクシングは所詮殴り合いだから、その危険性とそして安全性についてある程度医学的な答えをもって説明するアカンタビリティーがある。そういうことを踏まえて、勢いだけでこういうスポーツを進めるようなことをしてはいけない」と言ったが、ボクシングを趣味にして楽しんでほしいという反面、子供や青年に対しては慎重に扱っていることも確かである。




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18と28

2012-10-08 | Weblog
昨日親しい人数人でパスタ屋に食事をしにいった。
前から外国人の友人に、イタリア料理には実際ないナポリタンを食べさせてみょうということで盛り上がって行くことになったのだが、会員の人がみつけてくれたとある店に私たちは行った。
そこはそこそこおいしいパスタの店で、メニューにナポリタンがあったのだが、どうやら料理は注文番号があってそれにしたがってそれぞれ決めたパスタを注文した。
そして注文をしている時に、その外国人の人がいきなりウエイトレスにこういった。
「私はイタリアから来ました。私はピザの味がわかります。私はあなたがたのつくったピザを食べたい。だからピザを注文します」と言ってシーフードピザを注文したのだが、これには店の店員も驚いたようで、少しびびりながら注文をとっていたが、しかし彼はシェフでもなんでもない普通のおっさんだ。
しかしあそこまで堂々と言われたら、どこかの偉いパスタの店のオーナーでも来たのかと思い、つくる側としても粗末なものを出してはまずいと思ったのだろう、多少の動揺が見えたが、そのピザはあつあつの状態で一番早くとどけられた。
しかしシェフでもないのに、味を見てやるから持って来いと言わんばかりにあそこまで堂々と言えるののには驚いた。
その後彼は「うんおいしい」と言っていたが、しかしかなり気をつかってていねいにはしていたが、かかった時間がはやかったので私はそれがインスタントではないかと思っている。
外国の人たちはみなさん自己主張をするのでユニークな人が多く、私はそういうことをいろいろと見てきたのだが、コレアンもこれにまけてはいない。
以前焼肉屋に連れて行ったことがある。「ここはうまい日本式のプルコギの店だ。韓式とは少し違うが俺はどちらかというとこっちの方が好きだ、とにかく食べてみろよ。」ということで、大阪でそこそこ有名な焼肉屋に連れて行ったことがある。
まあそこで会食していたのだが、彼はメニューを見ながら、こういった「あれキムチがあるじゃないか」私は「ああキムチがあるが韓国のとは少し違う」「えっ何が違うんだ。よしじゃあ注文してみよう」ということで注文することになったのだが、その注文する時に彼は「私は韓国人だ」と日本語でその彼と同じようなことを店員に行ったのである。
そしてキムチが運ばれてきたのだが、それを食べると彼は「えっこれうまいじゃないか。」と言ったのだ。
「なぜこんなにおいしいのか、韓式とは少し違うって言ったけど何が違うんだ」と聞いてくるので、私はこう言った「発酵させてないだけだよ」友達は「えっ発酵させていないキムチってこんなにおいしいの」と言っていたが、韓式と日式のキムチの違いはまさに発行させているかいないかの違いである。
こっちではキムチと言うのは発酵させないが、しかし保存食として食べるキムチは発酵させるのが、一般的なキムチの食べ方で、まさか本場の奴が発酵させていないキムチをおいしいと言うのは意外だったが、私個人的にも発酵させたものよりもさせていないものの方がおいしいと思う。しかしそれを焼くとなったら別、むこうではキムチを焼いて食べる習慣があるのだが、発酵したキムチを焼いて食べると味がまろやかになりおいしくなる。日本人でこういう食べ方をする人は見たことがないが、意外とおいしいので焼肉の時に食べてみてはどうか。

よくなぜそこまでむこうのことに詳しいのかと人に聞かれることがある。
それはもちろん私はバイレイシャルであるからだ(バイレイシャルは日本語でいうところのハーフだが国際語ではこういう)。
だいぶ前にそれを知ってか私のところに18と書かれたメールが来た。
18と言うのはシッ○ルと読むのだが、この18の発音がむこうのくそ野郎よりもひどいくそ野郎というスラングの音と同じで、たぶんそのことを私に言いたかったと思う。
しかしそれならせめて18よりも28と書いた方がいい。
なぜ28かというと20と言うのは「イーシッ○ル」と発音するのだが「イ」というのは代名詞の「この」という意味で直訳すると「このく○野郎」でどちらかと言えばこちらのほうがきつい。
まあこういうメールを送ってきたのは韓国人に対する抗議のようなものであるとも思っている。
正直な話世界的に見て韓国人の評判はわるい。特にアジアではベトナムのこともあってすこぶる評判がわるいのだが、最近では日本人がその傍若無人ぶりに腹を立てても仕方がないのではないかと言うぐらいに思えてきている。
しかし最近すごいうわさがネットなどで飛びかっているそうであるが、それに対しては遺憾である。
聞いて少し見て愕然としたが、どういうことが言われているかと言うと、広がってはいけないのであえて書かないが、たぶん情報が錯そうしてそうなったのだと思われるが、ある意味デマゴーグ的な意味合いをこめてうわさにしているのではないかと推測できる。
それは韓国人の習慣的なことについていろいろと定説をあげているが、しかしそもそも出典があやしい、確かに火病と言うのは最近だが聞いたことがあるし、そういう習性は他の民族よりも強いと思う。しかしそれらは昔から言われてきたことではないし、さらにそれは正確に医学的な病気を表す言葉ではない。あっても心理学的なものであって科学では解明されるような病気ではない。
日本人がいかってだろうか、最近ネットではそういうようなことが飛び交っているのだが、しかしそれらは出典がハングルでもないどころか、ファビョンというような韓国語読みさえもない、ただ日本語だけの言葉だけのものもあり、彼ら彼女らがやっていることは世界で非難されても仕方がないが、しかしそれに便乗していろいろなわるいでっちあげのようなうわさが出てきているのも確かだと思うし、そこにはこういうわるい民族はこらしめてやりましょうというデマゴーグでもあるのではないかと思う。
私はバイレイシャルの立場として言いたいのは、国家の在り方を非難することは間違ってはいないし、正しいことである。しかし民族を否定することは決してしてはならないことだが、まさにこういうネットでの信憑性のないうわさは、民族を否定していると思う。

最近では一部の政治家やテレヴィ局を利用して、日本をのっとろうとしているということに国民も気づいてきているし、竹島問題なんかも日本人がおこって当然のことだと思う。私は極力そのテレヴィ局とその政党を支持することはしないのだが、しかしこういうことは民族の問題ではなくその国の政策や教育ががわるいわけであって、私などは歴史などを再解釈と言うか再認識する必要はあると考えているのだがそういうことをはっきりと主張することならまだしも、その発言が民族否定につながるようなことであるならば、すべきではないと言うのが私の見解である。
国家のあり方と民族を否定することとは違うと言ってもその線引きは難しいが、しかし民族否定と言うのはホロコーストにもつながるので、慎重に言葉を選んで発言することが大事だと思う。



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