脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

人は城だと言うが

2019-08-29 | Weblog
インターネットの記事でこういうことが話題になっている。
韓国で30日から始まる野球のU18ワールドカップ(W杯)に臨む高校日本代表が、日韓関係の悪化を受けて現地入りの際に日の丸などが入っていないシャツを着ていたことについて、自民党の武田良太元防衛副大臣は28日、「韓国が強要したのなら極めて非常識で失礼だが、強要されていないのに自ら日の丸を外すのはもっと問題だ」と日本高等学校野球連盟(日本高野連)の対応を批判した。党本部で開かれた外交部会などの合同会議で語った。「原文ママ」

これにたいして韓国人のインタビューではありがたいがそこまでする必要があるのかと言う意見も多々見られたが、たが私の感想では日本のスポーツ指導者は内弁慶の人が多い。まさにこのようなパフォーマンスは典型的である。自分の子飼いたちには親でも言えないことを平気で行ったり、おしめをかえてもらったわけでもないのにひよっこあつかいしたりするが、海外に行ったらからっきし、借りてきた猫の子のようになるから不思議である。それでも通訳が来たらいきなりつよくなるが、誰にも言えないからとその通訳におこりだす姿は少々見苦しいと思う。

日本のスポーツ指導者はスポーツに関してはどうかわからないが、しかしそのほかのことに関しては少し勉強不足のような気がする。おそらくこういうパフォーマンスはかなりおかしいこと、この場合相手の立場を考えるとか言うよりも、スポーツの場として日本代表で行くのだからと、その立場を主張し、理解させることが第一であろう。
これからのスポーツ指導者は外国人と議論できる能力や語学力をつけることは必要だ、議論の仕方にしても少し違う。日本人の議論の仕方は、誰の意見を支持するが問題で、まとまりはあるのだが、しかし建設的であるとは言えない。一方、外国(特にUSA)は議論になるとそれぞれが自分の持っている様々な意見を出し合うので独創的である。日本のどこかの会合のように俺は教育のことはよくわからないからと言って持論をべらべら延々と話せるような雰囲気はない。中にはいい加減な人間もいるが、しかしそれぞれ発言するにはそれなりに勉強していなくてはならないし、いいかげんなことを言ったらたちまち突っ込まれる。それぞれが自分の意見を言える独創的で建設的であると思う。俺は教育のことはわからないけどと言って昔のことやたわいもない話をべらべらとあたかもそれが正論であるかのように語るおやじが象徴するように日本人の議論は甘えがある。どういう甘えかと言うと言わせてもらえるから言うと言う甘えだ。特にスポーツの世界ではヒエラルキーによって発言権が違うが、話し合いや議論の場では年長者や特別な人が言いたいことを言わせてもらうと言う雰囲気は、私から見て異様である。本来ならば言わせてもらわなくても重要だと思うから、あえてそこは言わなくてはならないのに言えない、日本人は議論の時のそういうエネルギーがよわい。意見する時も自己主張しない、他者の意見を追従するところがある。そしてそれは先輩や親玉の目をたえず気にして行動し意見を言うスポーツ系の組織にはありがちなことだと思っているが、これからのスポーツ指導者は自分の意見がきちんと言えないとだめだし、ナショナリティを考えて行動し、その上でしっかりと他国にも自信と誇りを持って主張しなければならないと思う。

私の見解では日本人のスポーツ集団は保守的だ。組織を選ぶ時も同じ学校とか仲間づくりを第一に考えて、刷新したり、変革したりすることは考えてはいない。トップがかわっても何も変わらないと言うのは保守的で人間関係ばかりにとらわれて、刷新しようとする力がないからだ。半分外国人の私から見て、日本人はすごく和を尊ぶすばらしい民族ではあるけれども、しかしこわすことをしない、特に組織などはだめだと思ったら一度こわすことも必要なのだが、それができないところに多少のよわさがあると思う。
うちのクラブぐらいの規模なら、もしこのコミュニティにわるいものが入ってきてだめになれば、明日からでもそれをこわして、刷新するつもりである。私のモットーはぶらさがらない、しがらみやあほなしきたりや人をしばるような上下関係はもたない。うちのクラブの会員すべてが楽しく平等にトレーニングできる場にしたいと思っている。 

「人は城、人は石垣」と言う武田信玄の有名な言葉があるが、しかしそればかりにとらわれていたら組織がだめになる。確かに人間関係は大事だが、しかしまずどういうシステムにしたら人は生かされるかということを考えなくてはならないと思う。まずシステムありきだ。

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俺がすてられた国、そしてすてた国

2019-08-26 | Weblog
最近이영훈(イヨンフン)と言うソウル大の教授が書いた「반일 종족주의(半日種族主義)」と言う本がベストセラーになり物議をかもしているらしい。どういう内容化と言うと、本から一部抜粋すると「半日種族主義は真実に基づいていない。歴史的歪曲と捏造、原子部族たちの敵対的感覚に似ている。そしてそれは今の半日感情だ。これはナショナリズムではない」「慰安婦は公娼の一部、日本帝国は食料を奪っていない、強制徴用は嘘だ、朝鮮人は労働で差別をうけていなかった。」「韓国人が日本に対して捏造したことを信じるのははずかしいことだ」「現在韓国は、政治、経済、社会のすべてが沈没するかわからない危機に瀕している。ムンジェイン政権は不正ポリシーにこだわっていて嘘であふれている」と、ことわっておくがこれはあくまで教授の意見で私の意見ではない。我々がもつ半日国韓国のイメージとはほど遠い過激な内容である。
 
イヨンフン教授は親日ではない。親日ではない教授がなぜこのようなことを書いたと言うのは、それは韓国がこのまま半日にとどまって日韓関係を悪化させるならば、この国に未来はない。嘘でぬりかためた歴史に拘泥するよりもっと他にやることがあるだろうと言う見解に至ったからだと思う。彼が本を出版したのは歴史的な事実をあばこうとしたのではなく、沈没しかかった韓国民たちに活をいれるためだ。だから彼は愛国者であると言ってもいいだろうが、この一見過激とも思える本はむしろ韓国民が立ち上がるために書かれたのだと思う。
しかしまあソウル大で教授をやっていて、こんなこと書いて大丈夫かと思う。私自身も半日のこわさは十分よく理解しているつもりだ。以前後輩の友人たちが日本語をならっているから教えてやってくれと、その会合に行ったことがあって、そこで戦争の話になって「人をゆるす心が大切だ。人をゆるす心がないと前に進むことはない。人間はゆるされ、ゆるすから解放される」みたいなことを言ったら、えらい目にあわされそうになったことがある。韓国で日本を正当化するのはたとえそれが真実であってもNo-No(タブー)である。韓国は半日罪と言う法律があるので、イヨンフン教授がもし刑に問われれば財産を没収されるであろう。しかしだいぶ前のブログで韓国人の本音と建て前、そしてマスコミと民衆の心には隔たりがあるということを言ったと思う。事実韓国がGSOMIA破棄すると、ムンジェインの退陣を求めて数万人のデモがあったようだが、韓国人の中にも母国を批判している人もいるし、日本との友好関係を大事にしたいと思っている人、特に海外に出ている人たちは政府が進む道が正しいなんて思っていない人たちもかなりたくさんいると思う。確かにネットなどでひどい書き込みをする人間もいるが、日本人を擁護する人間もいる。これはある程度表現の自由が認められているからだ。韓国人が職場や学校などの身近にいる日本人からよく、ほとんど日本人とかわらない、礼儀正しいということをよく聞くが、民衆レベルでは確実にかわりつつある。恩と言う言葉があるが、これは日本語で言ううらみつらみと言うことではなく、自分が思っている思いを相手に伝えられない時に起こってくる何とも言えないもどかしい感情である。今マスメディアではイデオロギーだけが政治をとおして伝えられる、しかし民衆の心(マウム)は伝えられない、わかってもらえないそのもどかしさがある。私は日本人と韓国人は政治がどうであれこれからは文化や民衆をとおして理解できると思っている。そしてその理解が政治的な壁をうちやぶることを信じている。1980年代から比べたら、韓国は本当にかわった。そしてたぶんこれからもっと先かも知れないが日本人のよきパートナーとなれるであろう。
 
時々ジウンと日韓問題で大激論をした。彼女が言うには激論する時、日本がわるいとか韓国がどうとかいうことではなくて、私の中で何かをゆるしていない、時には憎しみの気持ちが伝わってくるそこが問題らしい。彼女が言っていた。戦争も原爆もパールハーバーも忘れてはいけない、けれどもゆるす心が大事だと。人間はゆるされ、ゆるすからこそ解放される。うらみつらみを持ったままでは、心が解放されない、私の意見では韓国人の中にはこのゆるしの心を持った人がたくさん存在する。だからこそ今半日種族主義のような意見がでてくるのだろうと思う。
 
 
動画はその講義内容。 コジンマル(嘘)と言う言葉がめちゃくちゃでてくる。ここまで言うかと言うぐらいすごい内容、それにしてもそこはソウル、勇気があると思う。


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Have You Ever Seen The Rain? 俺とバーガーのコラボ

2019-08-19 | Weblog

バーガーと言うチームメイト、私と彼は時々ジムで会うギャングみたいなやつらが大嫌いだった。彼がトレーニングでよく聞いてた曲がある。それは「Have you ever seen a rain」だ。実はこの歌はベトナムの雨のように降ってくる爆弾のことをうたったもので、反戦の意味をこめた歌である。不謹慎であるが聞きながら、私はあのギャグみたいなやつらに「Have you ever seen a rain(雨を見たかい)」と言ってぼこぼこにしてやったら気持ちがいいのになあと思っていた。ある時彼にそのことを言ったら、そりゃおもろいわと、この曲が流れると少しテンションが上がって、さびの部分を歌いだすようになった。「I want know have you ever seen a rain. I want know have you ever seen a rain. Comin down on a sunny day」と、そして時には私もつられて歌い、彼が途中でイェーーっとシャウト、いつかはボコボコにやったやろうぜと共感し、コラボする。もちろん怖い人たちなので試合でのことだが、思い出の曲のひとつである。

8月15日は終戦記念日であったが、韓国では植民地から解放された日、私にとっては複雑な日である。私は戦争はいけないと言うよりも暴力はいけないと言う立場である。戦争で犠牲になるのはいつも女性や子供たちだ、それは暴力が支配するからだと思っているが、うちのクラブでは一番弱いと思われる立場や存在の人たちを一番に大事にする。そのことがうちのクラブ全体の益になることであり、うちのクラブの公共性を守り、ここに来ている人たちが平等に楽しくトレーニングできることだと考えている。男性中心しかもそれがDQNが集まると、暴力的なことを自慢しだす。試合は殺し合いだとか、武勇伝ややんちゃ話、自分は普通の世界では生きていないんだとこれみよがしにくだらないことをべらべらとみっともない自慢話を、そんな人間たちが中心だと言葉も次第に暴力的になる。そういう奴らが中心になると女性や一般の社会人は隅においやられて存在感がなくなってしまう、そういうクラブにしたくないというのが私の考え方である。
 
「しかし人間はオオカミとは異なり、理性を持ち備えている。だから秩序を持とうとするのだ。そうして社会を維持しようとする。しかし、その動機が自らを守るためだけであっていいのだろうか?もしそうだとすると社会は勝者のものだけになってしまう可能性がある。 中略 皆、社会へのかかわり方がどういう結果を招くのか、じっくりと考えることはないのだ。ここで明らかになるのが、一人ひとりに考える余裕のないことが、社会の崩壊を招いてしまっていると言うメカニズムである。これは何も複雑なメカニズムではない。ごく単純な話である。にもかかわらず、誰もそれをかえようとしない。そこでまた、危機の連鎖とも呼ぶべき悪循環が生じることになる」
これは先日購入した「公共性主義とは何か」と言う本の抜粋だが、公共性と言うものを考える時に大事なことはその群れの質である。群れに学力のひくい人間ばかりあつまると考え方が恣意的になってくる。勝ちたい、目立ちたい、人よりも上に立ちたいと言う考え方は否定する必要はないのだろうが、しかしそういう気持ちだけが強いとまわりをおしのけて自分たちだけのことしか考えないようになる。クラブと言うのは公共の場だ、公共であると言うことはその来ている人すべてが平等でなければならない。トレーナーを中心に試合に出たり、その取り巻きが中心で、試合に出ないと教えないとか、ダイエットや健康維持はお客みたいな扱いははっきり言って平等ではない。そういうDQNや取り巻きが好きにやらせてもらってまーす。楽しく自由にやらせてもらってまーす。と言うのは平等でもなければ、公共性のかけらもない。公共性を考えると言うことはそこに集まってくる人たちひとりびとりのレベルの問題でもあり、日本語で「おかげさまで」と言う言葉があるが、我々のように社会人が集まるコミュニティは他者との相互関係を考えて、みんなが気持ちよくこのクラブでトレーニングするために、時にはゆずったり、多少は人のために犠牲になるということも必要不可欠なことであり、そのことによってクラブ全体が健全に機能するのだ。例えば女王様も自分が練習にならないからと言って拒むと誰もそれをやらなくなることもある。うちのクラブはむしろ常連の人たちが女性に楽しんでもらえるようにとすすんでさそってやってくれるし、サンドバッグを譲ってやったり、ロッキー大会はみんながおわった後にとか、うちのクラブは常連になるにつれ自然とこのような譲り合いができる。そしてその譲り合いや奉仕の精神は人との相互関係の中で自分を見ているからであり、公共性を考えてクラブをよくしたいと思ってくれるからだと思う。
 
自分たちは特別なすごい世界で生きて来たんだなんていきがったことばかり言っていない。殺し合いだとかではなく、我々のように直接、暴力を表現するのではなく、アイロニーやジョークで物事を表現する。そういう頭をきたえることも大事なことだ。
 

 


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母音が強すぎる

2019-08-15 | Weblog
週一で外国人に韓国語を教えている。上司がHapaで韓国との取引があって必要だと言うことで教えているが、韓国語を教える時に最も重要なことはどういう順番で教えるかと言うこと、まず発音を教えて、読み書き、そして文法を教えるのだが、文法もまず教える順番があって、ただおぼえればいいと言うわけでもなく、応用をきかせるためにはおぼえる順番があるのだが、韓国語は学習する上ではテキストブック選びが重要であると言うことだ。話は発音の話になるが、韓国語の読み方をおぼえたら、時々習った発音とは違う発音に出くわす。よく聞くのが네の発音の仕方、これはそのまま発音すれば「ネッ」しかし実際は「デッ」と聞こえる。韓国版のちびまるこちゃんはよく「デーッ」と言っているシーンがあるので笑えるが、さらにこの前言っていたのはパラマ(風が)がアラマに聞こえたと言うのだが、これはたぶん韓国語では濃音や激音以外の子音は強く発音するが、しかし平音では子音よりも母音の音のほうが強く発音するのでネッのnの音よりもaの音、そしてparamaのpの音よりも次のaの音のほうを強く発音するからそう聞こえるのだと思う。

語学を勉強することはスポーツを競技する人間、そして特にそれは管理者には必要なことだ。単純に言って3か国語を話す人間と母国語しか話せない人間では語彙力に差があるので、考え方に差が出てくる。前にも言ったが大学の宗教学科や哲学科でははじめに徹底して語学を勉強するのは考え方の幅をひろげるためだ。同じ文献でも日本語で読むのと英語で読むのとさらにドイツ語で読むのではニュアンスが違う。私が学生時代よくやったのはその重要箇所を理解するために英語、日本語、韓国語、そしてさらに原書を並べて書いて比較することである。比較して読んでいくと、ほぼほぼかわらない箇所もあるが、しかし原書を基準にして比較したらあっここ英語では受け取り方が少し違うとか、日本語ではこういう言い回しがないんだと言う個所も出てくるのだが、そういうことをすることで、イマジネーション能力が上がって、理解力が深まる。スポーツでもそうだが何事にも基本と言うのは存在する。語学を学ぶと言うのもある意味、その思考能力をあげたり、理解力を深めるための基本であると言ってもいいだろう。スポーツ指導者は多くの人間の個性を大事にし、ひとりびとりを尊重していかなくてはならないのだから、しっかりと考える力を養って、理解力を深めてインテリ層から子供や学生に至るまで、その人ひとりびとりに向き合って、ひとりびとりを理解し、尊重していくことが求められるだろう。私の感想では日本のスポーツの世界は兄貴や上官的な人間は多くいるが、理想的な指導者はあまりお見受けしない。深く考えることは少ないボキャブラリーや知識をもって悩むことだと勘違いしている人間がいるが、考えるためには方法論が必要だ、どう考えるかと言う方法論を持たない人間が人に考えろとか、俺には哲学があるとか言わない方がいい。本当にその群れの質をよくしたかったら、何々しろとか、何々するなと言う動物園のルールではなく、考える力を養うことが必要だと思う。


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その時時間が少しとまった Like being shot with a stan gun

2019-08-13 | Weblog
「それって名前」
大学生を中心のハワイ研修に引率で行った時の話。幼稚園や小学校、そして学童保育のような所を見学したのだが、現地の6歳ぐらい?の女の子がついてきた。彼女は私の恩師の奥さんになついているようで、学校見学ツアーにいっしょについてきていた。彼女はアメリカ人のハーフで、青い目をしていたが、一応両親のどちらかが日本人なので、日系人で日本語が話せた。時々芋虫を見つけたりしたら「あっキャタピラだ」と英語が出てくるけど、しかし基本的には日本語がべらべらで、普通に会話できる。私には同じようなにおいを感じるのか、結構この子に気にいられているのか積極的に話をしてくるのだが、話しによると日本にはおばあちゃんがいるらしく、彼女は時々そこに行くそうである。さらに話を聞いてみると、彼女は小さい時(たぶん3歳ぐらいまでだと思うが)そこにいて、ちゃんと日本名があるらしく、日本ではその名前で呼ばれていると言っていた。私は「へえっじゃあ君は日本の名前があるんだ」と言うと「そうあるよ」と答える。「じゃあ教えてよ」と聞いたら、とんでもない答えがかえってきた。
「あのねっ、私の名前はちゃかちゃんねーちゃん」「はっ.....いやいや名前だよ。名前はなんて言うの」「だから私の日本名はちゃかちゃんねーちゃん。だっておばあーちゃんの家でそうよばれるんだもん」
この名前に一同ドン引きであった。最近DQNネームなんて、わけのわからない名前をつける親がふえてきているが、まさにこれはその領域をはるかにこえている。もし彼女が日本国籍を選択していたら、間違いなくいじめにあうであろう。
しかしすぐに恩師の奥さんが、実はこの子はさやかという日本名があって、日本に行った時に向こうの家では「さやかちゃんねーちゃん」と言われるので、それをちゃかちゃんねーちゃんと聞き間違えているらしい。と説明してくれた。
こう説明されると思わずああそうかと納得するのだが、しかしもし本当に彼女の名前がそうだったらおそろしいことである。

「ハイデガーと犬」
親しい韓国人の後輩に「時間は人間だけがもつ感覚だ。だから人間だけが時間は永遠ではなく、人生におわりがあることがわかるとハイデガーの話をしたら。その後輩が「お兄さんは犬になったことがあるのか。犬になったことがないのになぜ犬の気持ちがわかるのか」と言ってきた。その質問に何も答えることはできず。ごもっともですと言ってしまったが、たぶんハイデガー先生もこの彼女の言葉には何も返すことはできないだろう。




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仕組みを考える

2019-08-07 | Weblog
この前あるユーチューバーの動画を見ていた。なんとなく私が普段言っていることと同じようなことを言っているので共感を持ったが、彼がその投稿で学力格差について語っていた。学力があるかないかと言うのは物事を理解する上では必要なことだ。でもその学力はただ単に求められた答えを出すと言うことではなくて、思考するために必要な学力だ。これからは思考できる人間と思考できない人間との間に差が出てくると思う。答えを簡単に与えてくれる世の中の仕組みは、考えてその仕組みを理解したりつくったりする側と動かされる側がはっきり分かれてくる。卑近な例で言えば法廷がまさにそう。その法廷の仕組みをよく理解している法曹関係の人間とそれを理解できない人間とでは大きな差がある。裁判などで弁護士などを雇うのはまさに彼ら彼女らがその仕組みを理解し、そのための勉強をしっかりとしているからである。思考できない人間はその仕組みにとりこまれて利用される。それを利用か安定か考えるのは人それぞれではあるが、one of themになりたくない、自分がやりたいことや独創性のある仕事をしたかったらきちんと学校に行って必要な勉強をする。動かされる側ではなく動かす側になりたかったらきちんと正しい意味で学力をつけると言うことである。

必要な勉強とは考えるための基礎となり土台となる勉強だ。学校の勉強はもちろんのこと、大学などでの専門課程の勉強をしっかりとする。私は哲学や宗教学を勉強したが、哲学や宗教学の勉強は医学部が数学や物理などを徹底的にマスターするように、まず語学を徹底的に勉強する。ラテン語、古典ギリシャ語、ドイツ語、毎週動詞や名詞形容詞などの活用の小テストを受けるのだが、特に古典ギリシャ語などは文字自体が違うのでかなりきつい。でもそれをマスターするとかしないにかかわらず、語学を勉強したら間違いなく物の見方がかなりかわる。一つの見方ではなく多面的に考えることができるようになるということだが、そういった学習が本当の意味で物事を考える基礎となり土台となる。そういう土台を頭がやわらかいうちに一生懸命勉強してつくることは大事なことだと思っている。いくつか言葉を理解し、専門の勉強をしてきた私がこれだけははっきりと言えることがある。それは何があっても決してまわりに巻き込まれて自分を見失うことがない。常に自分はどういう立場でどういう考えをもってこのことをやっているかと言う自信を持って行動できる。所謂考え方がぶれないということである。競技性を重要視しない女性や気が弱い人間、おっさんなどを中心に運営しているやり方は、いささかそれは異端児的なやり方であろう。しかしうちのクラブに来たらわかるが、みなさん生き生きと楽しそうにトレーニングしている。たかだかボクシングができるぐらいで威張るものもいないし、必死で目立とうとするような人間もいない。アホな先輩後輩のヒエラルキーなど存在しないし、女性や子供、はじめて来たような弱い存在の人には配慮して場所を譲ってくれたり、声をかけてくれたりするのだが、うちのクラブには他にはないやさしさがある。偉そうに言うがここでの仕組みをつくっているのは私の哲学である。これからもこのクラブがみなさんにとって大きな益となり、喜びとなり、楽しい場となるようにもっともっと学力を上げたいと思っている。




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My funny stories

2019-08-06 | Weblog
「Bon dance fastivalで」
ハワイには盆踊りがある。だいぶ昔の記憶なのだが、私の記憶では7月から8月に毎週ぐらいやっていたのだが、そこには日本の屋台みたいなものから、ホットドックなどの店が出ていてかなりにぎやかだった記憶がある。ここには韓国人のジウンに誘われて、当時よく遊んでいた学生のグループと一緒に行ったのだが、そこで私が少しうっとうしいと思っていた男とある勝負をすることになった。ある勝負と言うのは金魚すくいだ。ハワイの祭りではなぜか時々出店していた。日本ほど本格的ではないが、1回やったら金魚の数に応じてチケットがもらえて、それを集めると景品がもらえるみたいなしくみであったと思う。そしてどういういきさつかはわすれたがその屋台を見て「お前俺に勝てるか」とその男に挑発されて「じゃあやったるわい」と勝負をすることになった。勝負は1分でどれだけ金魚をすくえるかということで競った。そして網がやぶれたらその地点でまけ。カウイパイポで私が先行。向こうの網はかなり雑で日本のものよりも頑丈で破けにくかった。おまけに箱がせまいのですくいやすい。こりゃいけると後半ピッチをあげて、結局私は15匹ぐらいすくえたと思う。たかだか金魚すくいごときだが、その男とはいがみあっていたので、正直こいつだけには負けたくないとかなり気合を入れてすくった金魚たち、俺の方が絶対有利だあんなどんくさい奴に15匹すくえるはずがないとたかをくくっていた。そして彼のターン。しかし彼は私の予想を翻してすごいペースで金魚をすくう「げげっこいつ常連じゃないのか、ここまでいけばプロじゃないか。」、彼はまだ30秒もたっていないのに10匹以上はすくっている。たぶん金魚すくいをやりなれているんだろう。しかし私が「うわっこりゃだめだ」と思った瞬間奇跡が起こる。なんと彼はその容器に水をたくさん入れていたので金魚を入れるたびにその容器がしずみかけていて、そして何かのひょうしにひっくりかえってしまったのだ。その時「あっあっあああーっ」とあわてて容器をもどそうとするが、時すでに遅し、その容器にいた金魚はほぼにげてしまったのだ。しかしそれでも「俺の容器には20匹ぐらいはいた」と必死でアピールする。沈まなかったら俺の勝ちだ」とかいろいろと負け惜しみを言っていたが「じゃあ数えてみろやお前の金魚」のひとことに撃沈、彼は勝てると思っていたのに結果がこうだったのでかなり落ち込んでいた。

「フェニックスって」
私はどちらかというとメンタルが強いと人から思われている。性格診断でもそういうことが必ずと言っていいほど書かれているのだが、この前あなたを動物に例えるとと言うのがあってさっそく診断、そうしたらなんと書いてあったか?答えはフェニックス、フェニックスって動物やないやんけ。あなたは持ち前の強さで何とかかんとか、でもはっきり言って強い人間なんていないし、私はよわい、よわすぎる。性格診断、押し付けんといてくれやと思う。


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Karate kidから学ぶ日本人の精神

2019-08-06 | Weblog
私が好きな映画はKarate Kidだ。そしてその中でも2が私のお気に入りである。なぜお気に入りかというのはまず、その主人公が私のようであること。あまりぱっとしない平凡な主人公であるが、その主人公が日系人に出会って空手を通して鍛えられて成長していく姿がまさに私とジョージの関係のようであるからだ。私はジョージからボクシングを本格的にならったわけだが、その教え方はすごくユニークであった。おぼえているのはパンチのスピードをあげるためのトレーニングだと同じ日系人の合気道か何かの達人のじじい(いやおじいさん)を連れてきたことだ。じいさんの教えはトレーニングの前にフラフープを改造したものをまわせ、そしてじいさんが教えたへんてこりんな歩き方をしろと言うことだった。私はじいさんが言うようにトレーニングの前に約1時間ぐらいフラフープとへんてこりんな歩き方を実践、じばらくたって「よし、じゃあかまえてみろ」と言うことでかまえたら、ドンとじいさんがまだここがテンスしていないもう少しだとお腹をつく。突然ついてきたので、じじい何しやがんだと叫びそうになったが我慢、そしたらじいさんは私に「ピボットポイントはどこだ」と聞いてきた。「えーっと左のボールのあたりここがパンチをうつときのピボットだ。」と答えると私の頭をおさえて「そうだでも足じゃなくて実際はここだ」と、実際に頭をおさえられて「そうか軸はそこをおさえた時にかかってくる感覚だ。左足だけじゃなくて安定させるためには上から考えて軸を理解することなんだ」と理解した。その自然の原理を通して語るじいさんの教えはすごく合理的であった。この時合気道ってすごいんだと実感したが、実際にじじい(じいさん)の教えを守ってトレーニングしたら驚くぐらいパンチがはやくなって、私はこのパンチのはやさだけで勝つことができたと言っても過言ではないが、本当にじじいおそるべしであった。私はこの日系人によって支えられ競技を続けることができたわけだが、彼らはどこか余裕があって、すごく平和を感じた。試合で勝って思い切りほめてくれるが、負けた相手にも敬意を払う。それがジャパニーズ流だ見たいなことを言っていたと思う。

私はHapaであるが、実際、韓国人と日本人のコミュニティは考え方が少し違うと思う。韓国人は差別的なこともあったので、そうなったのだろうが、私はそのコミュニティでは「やられたらやりかえせ」そして「やるときは徹底的にやれ」みたいなことを言われ続けたと思う。まあ日本人にもこういう人がいると思うし、私の見た世界だけだが、しかし私が思った決定的な違いは日本人は人をゆるすことができる。日本人はゆるすことに関しては寛容だと言うことだ。それは欧米諸国とも比べてもそう言えるであろう。私がKarate kidが好きなもう一つの理由はこの映画が日本人的であるからだ。主人公は最初あらゆる手を使っていじわるされたり、妨害されたりするが、しかしそれでも正々堂々と戦って、そして勝っても徹底的にやらない、どんな相手でもゆるし、そして和解して仲良くなる。そういう平和と寛容さをあらわした映画でこれがまさに日本の武道の精神をあらわしているからだ。

もうすぐ終戦記念を迎えるが、この日は韓国は광복と言って光をとりもどした日、解放の記念日であるが、私はすごく複雑な気持ちになる。韓国は日本人が罪をおかしたと言っているが、しかしもしそうだったとしてもなぜそれをゆるそうとはしないのだろうか。確かにゆるすということはそうたやすいことではない。でも日本人は原爆を二回もおとされてそれをゆるしたのだからそれは本当に立派なことだ。ゆるすということは難しいことだ。しかしゆるすことができなければ前に進むことはできない。Karate kidではその相手をゆるし、和解し仲良くなるが、人はゆるすから解放される。そしてまたゆるされるから解放されるのだ。Karate kidは決して単純な映画ではない。まさにそれは日本人の精神を表現した映画である。

ハワイに久しぶりに言った時、アレンに私の学生時代の試合のビデオを見せてもらった。試合に勝ってリングからおりてきて、近づいてきたジウンに何かを言っているのだが、その目がすごく生き生きしていて、たぶんあんな生き生きした目はあの時代のあの時しかできない、本当に私はそこでの競技人生を楽しんでいたと思う。



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금 남が持てる共同体

2019-08-05 | Weblog
自慢ではないが私はかなりの量の本を読む読むジャンルは哲学とか社会学そして心理学などであるが小説はほとんど読まない。たぶん私が小説を読まないのは小説を理解するセンスがないからだと思っている。本と言うのは理解するにはある程度センスが必要だ。特に何とか学と言うジャンルはそういうセンスがなければでたらめな解釈になる。じゃあセンスってなんだと言うと単純に言えばまずそのセンスを養うためには基礎知識が必要だということだ。欧米の大学はリベラルアーツをしっかりと勉強する。リベラルアーツと言うのは日本で言うところの一般教養、しかしそれらは日本のようにただ単位を取ると言うような過程ではなく、その一般教養を徹底的に勉強して基礎をしっかりと固めてから専門の勉強をする。当たり前だが大学の勉強は中学や高校で勉強するのとはわけが違う、そのため基礎知識と言うのが必要だからだ。大学の哲学科や宗教学科ではまず語学を徹底的にやらされる。原書を読むためにラテン語や古典ギリシャ語、ドイツ語やフランス語などを徹底して勉強させられるのだが、語学を学ぶと物事を多面的に見れるので考えるための土台が広がるのだが、これが物事を考えるうえでの土台となる。前に某大学の国際教養学科だかわすれたが、学生が授業について行けない教授の言っていることがわからないと言っていた。何がわからないんだと聞くとただ言っていることが難しいという。しかし話していてわかったことはそれを理解するための基礎がないということ。少しある事柄をわかりやすく説明したつもりだが、ところどころに出てくる用語がわからない参考文献が難しそうだと言う。その学校では最近の傾向に合わせて難しい内容の授業をしているそうだが、しかし学生のレベルと基礎を無視してそんな難しいレクチャーをしても本当に力になっているのかは疑問だ。全体的に学生の質をあげたかったらコミニティカレッジなどをつくったりして、レベラルアーツをもっとしっかり考えるうえでの基礎を磨き土台をつくる必要はあるだろう。

 韓国語で금 남(クムナム)と言う言葉がある。これは夢の木と言う意味である。若い人特に子供に対して使われる言葉で私の好きな言葉のひとつでもある。よくクラブなどで夢を持てという。そして程度のひくいクラブにありきたりなのがサクセスストーリーや成功者の話をすること、そしてひどい奴になるといかに自分は努力して勝利したかということを自慢げに語るがたいていは話を大きくしているだけ。言いたいことはお前らも死に物狂いで努力しろと言うことであるが、しかしこれではあまりにも稚拙で抽象的、ボクサーとか格闘家になるのだったらまだしもこういう稚拙な群れは決して教育的ではない。そういう方向に進むものはまずいないのだから、もっと子供や若い人の将来や成長を考えてその群れは有機的でなければいけないということである。
夢とか自分がよりよく生きていくためには、そういうせまい集団の中で稚拙な人間の話を聞いて刺激をうけることではない。私は夢を実現させたり人間がよりよく生きるためには、まず自分をどういう環境におくかが重要だと思う。うちのクラブはアドラー的だと言ったがコミュニティと言うのはどういう人間によって形成されているかが重要である。すなわちどういう群れにつながるかによって人間はそこから影響や刺激をうける。所謂人間が夢を実現させたりよりよく生きるためには、その群れの質が問われるということだ。うちのクラブではアウトローややんちゃですをお断りしているのは、こういう人間が何人か集まると同じような人間が集まるからで、こういう人間たちが集まる群れには本当の意味での刺激や成長はない。知的教養レベルがひくいともいえる人間が集まって武勇伝や自慢話を語って何の意味があるのだろうか。しかしまともな人間が集まる群れは有機的である。お互いがその存在を通して影響をうけ刺激し合う。若い人などは時にははじをかいたりすることもあるけども、そういう中でこそ自分を高める努力する力がうまれ、人間は成長するのではないかと思う。サクセスストーリーや自慢話は人間の見栄を助長させるだけで、決してそれは教育的ではないと思う。よくクラブなどで人間教育なんて言っている人間がいるが、しかしあいさつさせたり、目上の人間に服従することが礼儀や常識だなんて思っているような人間が何を教えるのだろうか。指導者によっては敬語どころかまともに日本語も話せないのもいる。まず自分がある程度正しい日本語を取得してから偉そうに言えと思うのだが、まわりの人間がそれなりのレベルなら自分の日本語が稚拙かどうかと言うことさえもわからない、アウトローややんちゃですが集まるとそういう集団になってしまう。やはりコミュニティに求められるのは質であり、その質は責任者の言葉にかかっていると思う。

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