脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

洗濯物を煮る

2011-10-31 | Weblog
来年から韓国語の教室を開こうと計画していて、今実験的に何人かの生徒に教えている。
そのレッスン中、動詞の活用の練習で講師が例を出したのだが、その例で「洗濯物を煮る」と言う表現をしたら生徒にひかれたらしい。
講師は一瞬なんのことかと思ったのだが、ある生徒が「先生その表現間違っています。洗濯物は煮るじゃなくて洗うですよ」と笑ってこたえたらしいが、しかし洗濯物を煮ると言うのは習慣の違いであって、実は向こうには洗濯物を煮る習慣があるのだ。
実際その洗濯物を煮るかまのセットのようなものが今でも売られているのだが、この習慣はキムチ冷蔵庫ほど知られている情報ではないが、知る人ぞ知る私たちにはない韓国の文化である。
で一体どういうものを煮るのかと言うと、煮ることは煮沸を目的とするのだから、おむつやくつしたのような白を連想させるものである。
私も実際煮ることはできないが、熱湯でYシャツなどをつけて洗っているのだが、Yシャツが熱湯につけて洗った後、新しいシャツのようになるのでお勧めする。

文化の違いと言うのはたいへんおもしろいものである。
私はいろいろな国(おもにアジア人)に友達がいるのだが、その国によって特徴がある。
私自身コリアン、ジャパニーズ、チャイニーズを見分けることができるが、チャイニーズも香港人や台湾人と文化も違うし、性格も違う、それぞれ特徴があるのだが、しかし文化交流のない人は、どうしてもその違いと言うものを意識できない。
なぜ私が宗教学の勉強をしたかと言うと理由は簡単、その宗教と言うものがわかると、おのずと彼ら彼女らの文化背景が見えてくるわけであって、彼ら彼女らとつきあっていく上ではアドヴァンテージになると考えたからであるが、実際にこの知識はかなり役に立っている。

もうすぐクリスマスだが、クリスマスの日にメリークリスマスとあいさつが交わされるが、しかしこのクリスマスと言うのはキリスト教徒のためのお祭りで、厳密に言えば仏教徒やユダヤ教、そしてイスラム圏には関係がなく、この時期に送られるクリスマスカードもキリスト教徒とかかわりがなければ、メリークリスマスではなくシーズンオブグリーティングと書いたカードを贈るのが適切であるのだが、ユダヤ教徒やムスリムにクリスマスカードを贈ることはふさわしいことではなく、場合によっては不快にもなるのだが、事実こういう間違いもその文化の多様性を認めなければ起こりうるのであるが、こういった宗教的背景と言うのはすべてそうではないが、時には人付き合いをする上では重要なカギとなる場合もある。

この前コーヒーショップで40過ぎぐらいの男と20代の男ふたりがでかい声で話しをしていた。
あまりにでかい声なのでいろいろと聞きたくなくても聞こえてくるのだが、どうやら額が非常に大きくなってくるので、自慢話だと思うが、ここまでくれば架空の仕事である。
そしてその話の途中若い男が、閑話休題とばかりに風俗の話をしていた。
こんなところでひょっとしたら子供もいるかもしれないのにこんな話をするのは、非常に下品でこいつらの程度をうたがったが、こいつらは間違いなくこんな話しをすると中国ではしょっぴかれて偉い目にあわされ、さらにイスラム圏では石うちの刑で場所が日本でよかったなあと思っていたのだが、しかし男性が集まればこういう話しをするのが半ば日本の習慣で、こういう手の話しはきらいな人はいないと決めてかかっているのも日本人の特にげすなおやじたちである。
しかし外国人の中には敬虔なムスリムやキリスト教徒などいて、逆にこの手の話しを相手が喜ぶだろうといってすると相手の信用をうしなうことさえもある。
私の親友のピーターと言う台湾人のお兄さんはミニスターである。
アメリカの有名大学を出て、ミニスターになったわけだが、彼は兄を非常に尊敬していて、彼も同様敬虔なキリスト教徒で、なぜ彼と私が仲良くなったかと言うのは、たぶん私自身下ネタ的なことをあまり言わなかったからであり、お互いそういう部分に安心感を感じて親しくなったのだと思うが、これが男性お得意の下ネタでつながろうとしたら逆に信用をうしなっていただろうが、日本人は杓子定規な付き合い方をするきらいがある。

よく田舎に行くと、おらが村を強調する。ビジネスでもこのグローバルと言われている時代に○○流、たとえば高知には高知のやり方があるみたいなことを言われてそれに固執するらしいが、しかしこのインターネットやケーブルテレビでいろいろな情報が入ってくる時代にそういうおらが村のやり方はもう古いし、杓子定規だ。
現に田舎と都会の区別がなくなってきた。
高知のように山に囲まれた土地にいても十分に情報がひろえるし、世の中の動きが分かる。
このインターネットやケーブルテレビなどのマスメディアで世界の情報がひろえる時代に、○○流なんて言う言葉はもう古い、○○流などというのは杓子定規な考え方から生まれるわけで、実際今までやってきたことを意味もなくやりつづけているだけであるが、おそらくもう一歩先を見た場合、今の若い人たちが求めるニーズはおらが村のしきたりに従い生きていくことではないと思っている。
おそらくこういうインターネットなどの通信が著しく進んだ現在、たくさんの情報があるのだから十分大都会と言われる都市と同じようなことができる可能性はあるわけで、現に私自身もSKYPEという通信手段をつかって仕事をしているし、実際ここにはそのSKYPEで外国での会議を英語でしている人もいるのだが、やりかた次第では都会と同じような仕事ができると信じている。

しかしその世の中の動きと言うのは、実際に一度出て体験しなくてはわからないであろう。
特に外国などに行って、文化の違いと言うのを感じることは非常に重要である。
日本人は単一民族で、この文化の違いと言うものに触れて生活していないので、物事を自分たちの観点から見るきらいがあるが、しかし世界は広い、時には考えられない習慣や違いなどを体験することもあるが、そういう体験こそ今の時代に貴重な体験だと思う。

ちなみにある友人から聞いた話だが韓国には親日罪というのがあるらしい、そう言えば聞いたことがあるようなないような、たぶん今ではあっても適用されていないと思うが、しかしこういう罪状があったとしたならば、それでも今までの関係を続けられるだろうか。



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よく感じること

2011-10-28 | Weblog
オリーヴを一言であらわすとカオスであるということは、以前ブログで書いたが、そのカオスであるがゆえに非常にユニーク(英語で言う日本語でのユニークはネガティヴだが英語ではポジティヴである)な人たちがここに集ってプラクティスに励んでいるが、外国語を話せる人が結構いるのもここの特徴である。
ここには企業で働いている転勤族もいるのだが、今彼ら彼女らが悩まされていることがある。それは英語「Toeic」である。
何でも社員は「Toeic」を受けることを義務づけられているようで、企業によってはノルマがあるらしく、このノルマを達成するために学生時代苦手だった英語を勉強しているのだが、こういう様子を見るともう近い将来社内の共通語が英語になるのではないかと思うのだが、以前英字新聞で楽天が新入社員を募集したことが書かれてあった。
楽天は今年新入社員500人を採用したそうだが、楽天はそのうち100人の外国人を採用したということであるが、これは近い将来普通に外国人が自分たちの上司になり、英語がビジネスの公用語になるということは否めない出来事である。
次にあげるアンケートの結果はETS(Educational Testing service)というTOEICなどのテストプログラムを開発している研究所が示したデータであるが、今の社会での人材育成において必要な能力を3つあげさせたところ、実行力31パーセント、リーダーシップ27パーセントに対して、異文化コミュニケーション能力が40パーセント、そして英語コミュニケーション能力が78.4パーセントと言う結果であったが、これはあきらかに英語や他の文化とのコミュニケーション能力が必要性だと感じさせられる意識調査であるが、スポーツの世界もそれと同じこれからは語学能力が必要な時代になる、いやなっている。

正直私は思うのだが、語学に疎いスポーツほど封建的だ、杓子定規で、滑稽なことをしたりするのだが、それには明らかに理由がある。
それは英語や語学ができないから情報がひろえないからで、ボクシングと言う競技は野球などのメジャースポーツのように確立されたものでもないのだから、なおさら語学で情報を集まることが求められるのだが、今のところかなり不十分であると思っている。
よく言う子供のボクシングなんかもそうである。
もう必ずしもまずしい階層が競技してチャンスをつかんで更生していくと言うようなスポーツでもなくなった現在、その安全性や青少年の人権というものを考慮しつつ、先進国ではコンタクトさせることはふさわしいものではないという意見がででバッシングされる中、そんなものを奨励するとしたらよっぽどどのことかあるいは、英語が読めないから何もわかっていない、たぶん意味などあってやっているわけではないのだろう、おそらく精神を鍛えるとかそういう理由だろうと思うが、おそらくそういう勢いだけでやろうとするのはどう考えても愚かであり、こういうところにも英語が読めるか読めないかという差が出てくるのだと思う。
さらに「LA TIMES」という地元の新聞がそのことを取り上げていたが、LAという地はヒスパニックが多くアメリカでもボクシングが盛んな地、その盛んな地が子供のコンタクトは危険だと言うことを新聞で取り上げていると言うことは大きな問題であると言うことが言えるが、イギリスのBBCが発表したニュースやそういう記事を読んでみたらいいと思う。
語学に疎いとまわりの情報がひろえないので、恣意的になったり半ば鎖国状態となるのだが、おそらく特にアマチュアボクシングという競技は鎖国的であり、欧米のスポーツのわりには封建的で保守的であると思っている。
今21世紀の常識はグローバル的な視点でみなくては見えてこない、女性のボクシング、特に女性差別や女性の権利、未だ女のくせにとか、スナックじゃあるまいし競技者をちゃんづけで呼ぶ稚拙なグループが存在するが、今や小学生でも呼ぶ時は男女区別なくさんであるが、こういう人間はよく女性の権利と言うか平等や公共性と言うことについて学ぶ必要があると思うのだが、子供にコンタクトさせるかさせないかというのも、そういうグローバル的な視点から見て考える必要があるが、おそらく今大事なことは指導する人がそういう感覚を身につけなくてはならないのだが、やはりこういう常識も語学とか世の中に対してどれだけ関心があるかと言うこととかかわっている。

卑近な例であるが、うちのクラブの会員は朝起きたら必ず英字新聞に目を通し、日経新聞を見ているらしい。
そして「News week」やその他のビジネス雑誌などを見ているそうだが、こういった人たちを会員としてむかえるのにボクシングのことしか知らない、興味がないと言うのは失礼だし、まずなめられる。
こういう人たちは世の中で起こったことをよく見ていて、今回のトルコで起こった地震、北朝鮮の問題などに関心をよせているからで、こういうトルコの大地震が起こって死者がたくさん出ているのに、頭の中身が○○戦程度ぐらいでは程度をうたがってしまうが、私は今の時代の指導者には語学や異文化コミニケーションができる能力が必要だと感じている。










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組化するクラブ

2011-10-26 | Weblog
ここ10年ぐらい前から運動をしなくなった子供が増えて来たらしいが、そういう理由かはわからないが最近子供が増え出して来た。増えたと言っても何もここでボクシングを本格的にさせるつもりはないし、将来の予備軍だのとバカなことを言うつもりはない、むしろ親は運動不足解消なのだから、本格的にやられても困るという人が多く、この前冗談でもし子供が世界チャンピオンになると言ったらどうするかと聞いたら、それだけはご勘弁をと言ってたぐらいのレヴェルであるから、一応未成年の入会に当たっては親に直接来てもらい、未成年の間に脳に打撃をうけることがいかにあぶないことかということを説明して、ここでは高校生をのぞく未青年にはコンタクトありのスパーリングや、子供どうしのマスボクシングはさせないということを伝えている。

実際こういう体力つくりや健康維持で来る子供が増えたのだが、最近ボクシングの競技層がかわってきたということを実感している。
昔はそれこそボクシングは、不良とか問題児と言った人間が競技するスポーツとして見られていたが、しかし今やごく普通の子供なども競技するスポーツになってきたが、この前ある人が、ここに来る子供はなんか裕福そうな子供が多いと言っていた。
実際聞いてみると、裕福な子がいるようで、ある子供はゴルフ道具を一式持っていて、日曜日にはお父さんとコースを回るそうだが、その人が冗談で「誘拐犯にねらわれたらえらいことですね。もうボクシングは「Proverty」なスポーツではなく「Wealthy」のスポーツですねと言っていたが、実際に恵まれた子供などもある種の偏見をこえて、健康維持や体力づくりのためにできるスポーツ化されたことは確かなことである。

かなり前とはちがうなあと思うことは、ここでは子供には大人にうって行くだけの王様のスパというのをやっているのだが、それをやるときに実際にどうしていいかわからない、人をなぐるのがこわいという子供が意外にも多いことで、昔ヤンキーや不良が多い時代だったら「ケンカと思って行け」とか「やらなやられる」と言われれば「はいわかりやした」と要領をつかんで行ったものだが、しかし最近は自己肯定感が確立しているのか、人を傷つけるとか、人に危害を加えるような行為に対して二の足を踏む子供がここオリーヴには多いことは事実である。
このブログのタイトルは脱あしたのジョーであるが、もうこういう時代であるから、昔のように人をみかえしてやるとか、俺はなにもないからこれにかけるというような考え方は理解されにくい、そういうことを言うと逆にアウトローと見られて、乱暴な奴うさんくさいやつだと思われてしまうが、実際に若い人に明日のジョーがなぜかっこいいのかよくわからない、ついていけないという人もこのクラブだけでも多くいるのだが、スポーツも娯楽の延長になりつつある。

おそらく日本のクラブ的な体質では、中高生が、健康維持でするとか体力維持でするぐらいのかかわり方にいささか批判的で、子供が健康維持程度でスポーツをするのは不健全であるように思っている人間もさほど少なくはないだろう。
しかし自分たちはこういうそういう人たちから見たら、むしろ中途半端なやり方やあり方と言うものを大事にしたいし、さらに言うならばそれは中途半端なことでもなんでもない、おっさんたちの練習を見ても暑い日や調子のわるい時はちょっとやっては、水を飲んで休みちんたらとやっているが、しかしいたって真剣、非常に楽しそうで、ここに来ている時間を有意義にしていると思う。最近ではおっさんたちもうまくなって自信をつけてきたせいか「小てんぐ」「中てんぐ」「大てんぐ」などという言葉もでてきたぐらいである。
そしてその子供たちにしても同様子供たちにしてみれば真面目なことであって、そういう中でスポーツの有意義性を感じる子供もいると思うが、そういう意味ではこういう場が存在することは貴重であると思っている。


実際ここにはクラブにつまずき傷ついてきた子供も少なくはないし、そういう相談の電話やメールもあることは事実である。
ここで書くとそいつが誰か特定されかねないし、証言だけで言うのもなんだが、しかし火のないところに煙は立たず、前にも書いたが信じられないような行動や暴言、そして中には未だ体罰も存在するそうだが、前回書いた勝ったのに自分のメンツのためにあやまらせる雰囲気をつくるバカ監督など言語道断、しかしそういうことがゆるされるのもクラブがにんじんをぶらさげられて走らされるような狭い集団であるから、まわりが見えずに容易に飼いならされるのだ。
私はこれだけしかやれせないという状況を作り出す集団をつくること自体問題だと感じているが、子供の頃はいろいろとやれることがあるのだがら、ひとつのことに縛らず、塾に行く時間や遊びに行く時間なども大いに認める必要があるのだが、しかし現実問題としてそれがうまいと言われる集団ほど拘束や結束が強く、やくざの組化しているのだが、こういうことを放っておいては子供たちの害になるので、よく吟味して、こういうある意味顧問がいくらバカでも組織化すれば、絶対的な存在になる「やくざの組」みたいなクラブのあり方は見直されなくてはならないと考えている。

ちなみにうちのクラブの子供は夜は車で親がクラブの前に迎えにきているので、誘拐はされない。一応何かあればいけないので書いておく。




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猫だまし連打

2011-10-24 | Weblog
土曜日オリーヴの親睦会があった。
私はあまりこういうことはしないのだが、会員がやろうということであるならばその人たちに信用がある限りはノーとは言わないので年に1度か2度ぐらいはこういう機会を持っている。
今回よく行く焼き肉店で親睦会を持ったが結構人が集まったのだが、たいへん有意義なひとときであった。
おそらくまわりから見たらどういうつながりで、これだけの人間が集まっているのかはわからないと思うが、格闘技に程遠いような人間があつまるクラブがMTオリーヴである。
オリーヴは社会人が多く、女性や未経験者が堂々と練習できるクラブであることを自負しているのだが、おそらくここにいる90パーセント以上の人は小学生も含め、ボクシングを競技するにあたって、これが自分の生きがいや、すべてみたいなことを考えてやっている人などはいない。
ほとんど全員が趣味程度、だからたかだかボクシングという感覚を持ってやっていると思う。
だいたい日本人は何をするにしてもいちいち条件をつけすぎる。
あれができていないとだめだとか、一生懸命やらなくては相手に迷惑だとか、いちいち抽象的なことをもったいぶって言いすぎるきらいがある。
確かにけがなどをさせてはいけないので、試合におうじてある程度のレヴェルは必要だが、しかしそうだからと言って勉強もできないぐらい練習をさせることは問題ではないのか。

自分たちも趣味程度にやっているが、しかし何もふまじめにやっているわけではない、ダイエットだってそれなりに真剣だし、中年で試合に出ようとがんばっている人もたくさんいる。
ただほとんどが社会人なので、ボクシングよりも大切なものがあることをきちんと理解しているからだと思うが、おそらくボクシングがすべてみたいなことを言って、偉そうにボクシング論みたいなのうがきをたれて、常識を逸脱していたり、やることがちゃらんぽらんな奴よりは真面目に今を生きていると思うが、そういう意味でたかだかボクシングと言う言葉をつかっているのだ。
これはよく書くことだが、試合で勝ったのに監督にあやまっている人間がいた。
それもひとりだけではなく、ほぼ全員があやまっている。
「おそらくこれぐらいのレベルの奴にこんな試合をしてすみません」ということであやまっていると思うのだが、まず謝る奴らも問題だ、ボクシングをやっているのに自分の考え方ももてないのかと疑ってしまうが、おそらくこれは他校と競争していく中での監督の見栄だと思うのだが、はっきり言って逆にみっともないが、本当に狭い世界で生きていて、しょうもないことにこだわっていると思うのだが、こういう奴を信じて本当に大丈夫かと疑ってしまうのは私だけではないだろう。
そういう意味では一つのことしかわからない人間と言うのは、杓子定規なので、こういう滑稽なことをやってしまうのだが、おそらくそれが無知であればなおさらであるが、意外と狭い世界になればなるほど、大なり小なりこういうバカな常識がまかり通っているのだが、私は中高生がクラブから与えられる影響が多いのだから、いい指導者もたくさんいるが、しかしもう少しクラブの実態や顧問などもあり方、特に自尊心を傷つけるような暴言やいやみなどの言動について調査する必要は十分にあると感じている。

オリーヴのモットーは、どの年齢に限らず趣味程度でも堂々とできるということである。
日本の運動システムでは中高生が趣味程度に運動をするというと、半ば不健全的なようにとらわれがちだが、しかしここではそういう考え方はしない、スポーツと言うものはあくまで趣味であってそれを越えることは、中高生などの身分においてはふさわしいことではないと思っているし、そのほかにもたくさんやることはあるからである。

ここにいておもしろいと思うのは勝つとか負けるとかそういうことを必要以上に意識していないので、自由に自分のやりたいボクシングができるとことだ、その点においては非常に個性的な人が多いことを実感しているのだが、みんなそれぞれ自分のスタイルをつらぬいているので悔いなく競技できていると信じている。
私自身もユニークな作戦をいろいろと考えるのだが、この前ある会員の人が「ねこだまし的連打」というきわどいパンチをうっていた。最初やった時はあまりにせこいので、少しひかれていたが、しかしこれが意外にも効果的で今ではその人の得意パンチになっているが、この方は仕事や家庭を大切にするすばらしい競技者で、趣味のひとつとしてボクシングを競技しているが、たぶんこういうパンチはステレオタイプの集団からは生まれないだろう、ほかにもたくさんの個性的なスタイルの人がいるが、たぶんみんながボクシングを趣味としてとらえているからこういうことができるからで、その趣味に興じる姿はそれぞれ楽しそうである。









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同情するなら権利をくれ

2011-10-21 | Weblog
ある中学の教員から相談されたことがある。
意見を聞かせてほしいと言うことで、話しをしたのだが、それはある部活の部員のことである。
最近日本もグローバル化されて国際結婚が増えて来たらしいが、その子はお父さんが外国人で小学校3年生の時に韓国にいたらしく。そこでの経験が非常にいやな経験になり、トラウマを持っていて、自分のアイデンティティと言うものが持てなくて悩んでいるのだが、彼とかかわってきてそのことを知った彼は、何をどう言っていいのかわからないから相談したというのである。
だいたいどういうことを言われるかと言うことは察しがつくが、そういうハーフの子供にとって一方の国が他方の国に憎しみを持ったり、お前は民族が違うからと言って、排他的な発言をされると言うことは非常につらいことであり、そういうことを言われると言うことは自分のアイデンティティにもかかわってくる。
まあこれは同じ立場の人間によって立場は違うのだろうが、おそらくハーフと言うのはもし日本国籍を持っていても、国籍がそうだからということでそこに自分のアイデンティティーをもっているのではなく、その国と国の間において自分のアイデンティティーを持っていると言うか感じている。
だから実際にそういう中で自分が拒まれると言うことは、自分のアイデンティティーを否定されたようで、おそらくこのことは一般の日本人よりも深く傷つくのではないかと思っている。
おそらくその子にしてもそこに行った時は、自分は本当に受け入れられるのだろうかと言う不安の気持ちでいっぱいだったと思う。しかしいくら心を開いて友達になろうとしても、言葉がへただの日本やろうと無視され、相手にされない体験をしたらもうその国はもはやもう一つの自分の国ではない。もうこんなところに二度と来るかと思ってしまうのだが、おそらくそういう体験をしたら一体自分は何ものなのか?ということを問いかけるのだが、それはある意味自分に対する否定でもある。

以前子供のドッジボール大会で、子供がおにごっこをしている時に、一人だけ誰からもタッチされない子供の存在に気づいたことを書いたことがある。
彼はその群れの中で楽しそうに走り回っているのだが、しかし彼は誰にもタッチされない所謂透明の存在で、それでも彼はその群れにいることだけで満足なのか楽しそうに走り回っているのである。
しかしいずれ彼はかかわればかかわろうとするほど透明な存在であることが見えてくるだろう。
その時までにみんなと同じようにできればいいのだが、しかし個性のある子供や特別な存在の子供は、その特別な個性を認めない限りは透明な存在であり続けるような気がする。

しかし透明の存在は誰かがその存在に気づけばその子は透明でなくなる。
みんなが本当の意味でお互いの個性と言うものを尊重し、理解しようとすればその存在に気づくと思うのだが、しかし日本の仲良くしましょうとか言う、仲間集めレヴェルの考え方では、その透明の存在に気づくことはできない。
もし誰かがその子に気づいたとしても、しかし今の考え方では、まわりがそうだからと流されその子は気づかれることはないだろう。
これもだいぶ前のブログで「なかよくしましょう」という言葉がわからないと言ったが、人間の権利を認めると言うことは仲良くしましょうと言うレヴェルではない、よく仲良くしましょうと言うがそれは一体どういうことなのか?こういう言葉に単一民族の村社会の限界を見てとれる。

さらにこれは日本のクラブというものに、程度の低い村社会人間の考え方がよくあらわれていると思うが、日本のクラブは村社会である。
まあそうでないところもあると思うのだが、しかしこのクラブと言う場が封建的であるならば、監督中心の横一列の考え方を生み出すと思っているが、ひどいところはクラブではない、システムや人間関係はクラブではなく、組であると思っているが、ここにいるといろいろな情報が入ってくる。
まあその情報をここで書く必要はないが、しかし火のないところに煙はたたず、指導者の唖然とするような行動や痴態、時には犯罪じゃないのかと思うようなことも聞くが、おそらくこういうことをしてもクラブや軍団の親玉だからということでゆるされるのだろう、まさにやくざの組であるが、こういう組が存在すること自体滑稽なことであって、スポーツは健全だという単純な理由で見過ごされてきている事実はあるのだが、クラブと言うのは青少年にかかわる比率が高く、影響力があるのだから、もう少し生徒の声が自由に聞けるような配慮をする必要があるが、そうしなければいつまでたっても閉ざされた社会で、こういう狭い世界の専制政治がなくなることはないであろう。

私がスポーツクラブを経営した理由は「癒し」と「楽しさ」を感じてもらうためである。
実際にその役割を今担うことができていると思っているが、私自身スポーツクラブにはそういう力があると信じている。
しかしそのスポーツクラブを組化してしまっては意味がない、よくまとまっていると言われている集団ほど親分に飼いならされていて、独特の雰囲気を持ち、仲間意識が強いが、あくまでクラブは軍隊ではない公共の場である。それを親分中心のシステムにしてしまうから、村社会ができるのであって、私はこういうシステムを少しずつでも排斥していく必要があると感じている。

でその教員になんと言ったかと言うと「俺が話してやる。今やったらSKYPEがあるやろ。その代わり俺のことは一切言うな。なぜなら人間の権利をレクチャーするのに同情は必要ないからだ」
おそらく彼はまよっているだろう、よくわからない人に自分の悩みを話していいのか。しかしもしその機会があって話すことができれば、私が求めている権利のついて話し、外国に行くことをすすめるだろう。


ハワイにはハパという言葉がある。これはハワイ語で半分のことだが、ハワイには実際アジア人の混血が多く、この言葉は文字通りハーフのことであるが、おそらくこのハパと言う言葉は自分たちのアイデンティティーをあらわす言葉である。

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コンブ ヘヨ

2011-10-19 | Weblog
また相撲部屋で親方が弟子を暴行、クラブのアイアンで折れるぐらい殴打したらしい。
親方という一方的な立場において暴力をふるうと言うことは許せない行為である。

しかしこれとはまったく別の問題として、なぐられるとかこわいめにあわされるというような経験をしなければ、話しが通用しない、なめてかかってくるバカもいるのも事実である。
今学校ではそういう子供が教室に何人かいると思うが、やはりこういう輩というかこういう人間を抑えるために何か手をうたなくては学級崩壊どころか教師の精神状態が崩壊してしまうのではないかと思うのだが、私の経験上スポーツしかやってこなかった人間と言うのもこういうぶるいに入るのだと思う。
以前書いた元プロボクサーと言うのもそういう人間のたぐいに属するのだろう。おそらくボクシングクラブや格闘技のクラブのオーナーがいかついのは、その必要に応じてそうなるのだと思っているが、このクラブが暴力的な人間を堅く断っているのは、私自身たいした腕力もなく、ビビりでそういう人間が来たらなめられて、秩序を保つことができないからである。

よくスポーツをやってきた人間はひとつのことを一生懸命することの尊さを語るが、しかしそれは小学生レヴェルの話しで、実際には我々はやるべきことが多く、われわれが本当にやらなくてはならないことは、ほかにもたくさんあると思うのだが、特に学問を学ぶと言うことは大事なことで、そういう必要な大事なことを無視して好きなことだけをするから、ガキみたいな大人がふえるのだと思っている。
少し話しはずれるが、スポーツだけしかしない奴で、自分たちのやってきたことがいかにすごいか、人とは違うと言うような言い方で言う奴がいるが、しかし日常会話ができるぐらいの英単語をおぼえることは、どれだけたいへんかわかっているのだろうか?たかだか趣味程度のことがすごいことなのか?私の意見では、そういう奴は往々にして自分の自慢話をしたがるか、してもらうようにしむけるのだが、しかしたかだか領域の話しを偉そうにする前に、せめて日常会話ができるぐらいの単語をおぼえろ、さらに英語で外国人に自慢話をしてみろと思うのだ。

おそらくそういうなぐられなくては理解しようとしない、分かろうとしないと言うのは教育のレヴェルが低いからとみているが、もし本当に考える力や能力があれば、何が正しいかということはおのずと判断できるはずである。
実際まともなことを注意してもガキみたいないいわけをするバカや、お金を滞納しているのに飲みに行った話しをするくずのような人間がいるのだが、そういう奴らに限ってなぐられたり、どなられたりする人間の前では猫の子のようにおとなしいのだが、はっきり言ってこういう連中は、学校でまともに机に座って人の話しを聞いてはいないタイプの人間である。
こういう時に教育の大切さがわかる。やはり教育によって考える力、能力をみにつけなければ、人間恣意的になってしまい、まともな判断ができないのではないか。英語のことわざで「strike while the iron is hot(鉄は熱いうちにうて)」と言うのはまさに精神が柔軟なうちに教育して鍛えろという意味であるが、本当に暴力事件を解決したいならば、ただなぐるな暴力はいけないということを問題にするだけではなく、もう少し教育のレヴェルをあげることも問題にしなければいけないのではないかと思う。
昔えげつない不良少年に言ったことだがこうだ「本当に大切なことは教育を受けることだ。人間ボクシングだけでは本当にほこりなど持てない、人間は何かを学ぶ何かを知って広く物事を考えることができるようになるから、自分に本当に自信がもてる。本当の教育を受ける、あるいは持つことで自分にプライドが持てる、そういう気持ちがでてきたら自分はいつでも協力する。」

手前みそだがオリーヴは、教育レヴェルに関しては高いほうだと自負している。
外国語を話す人も結構いるし、話す言葉や語彙が豊富である。
だからあいさつしろとか教訓みたいなものは必要ない。ただひとりびとりが何が正しいか悪いかを自分で考える力を持っているから、そういうくだらないことはあえて言う必要はないのである。

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ピーッ

2011-10-17 | Weblog
先日「妖怪人間」リメイクされてドラマ化されると会員の人が言っていた。
彼女はその「妖怪人間」がドラマ化されるにあたってキャストがだめだと心配していたが、しかし私はむしろあの差別用語満載のアニメをよくドラマ化できたなあとそっちのほうが気になって仕方がない。
妖怪人間と言えば、知る人ぞ知る差別用語満載のアニメで、何度か再放送されたがあまりにも「ピー」が多く、しかも「ピー」が多い話は放送できないので、第一話の次は3つぐらい飛んで、第五話と言うような感じで放映されていて、あまりにも話しにつながりがないので、今ではもう放送されることはなくユーチューブなんかでも検索しても主題歌が出てくる程度のえげつない意味で伝説の番組である。
そう言えば昔は差別用語が多かった。最近では少し過敏すぎるのではないかと思うぐらいではあるが、今考えれば、よくまああんな言葉がでてきたなあと思うぐらいひどかったのだが、昔HIのローカル番組で日本の暴走族が「Japanese mortorcycle Gang」として取り上げられていたことがある。
それは少し古いが暴走族の集会みたいな集まり番組の中で紹介していたのだがえげつない。
日本語では書けないので英語から推測していただきたいが、いきなり親玉が「お前ら○○○○だよなー」と叫ぶと、すかさず英語の訳が入る「Are you crazy,arent you!」「オーッス」「Yes-」
「俺はお前らみたいな○○○○が大好きだからよーっ」「I love crazy people like you.」「オーッスありがとうございます」「Yes Thank you very much」ここまででも彼らなどれだけバカかわかるのだが、さらにあとはあまりにも言葉がひどいのか、英訳不可能なのかわからないが、その後英語字幕がのせられることなく、そのままそのえげつない集会を紹介していたが、私は 個人的には○○○○を「crazy」と訳すよりも「idiot」と訳したほうが彼らの性質をよく理解できるのではないかと思っている。

私が何が言いたいかと言うと封建的になれば、悪い意味での差別化が生まれるということである。
インドのカースト制度はもちろんのこと、日本の士農工商もそうであるし、北朝鮮なんかまさにそうである。
卑近な例をあげると昔体育会で4年は神様3年人間2年奴隷1年ゴミというような構図があったらしいが、半分遊びでもこういう組織が世の中に半ば公認されていたのだから驚きであるが、まさにこういう制度は人権を無視した行為であり、それは愚かで稚拙な人間が集まると組織と言うものがわるい意味で制度化され、それを維持するために悪しき制度化がはじまる、それが封建制と言う考えだと私は理解している。
アジアは往々にして封建的であると言われているが、それは人権が確立してこなかったからである。
そのことについては井沢氏が「世界と宗教と戦争講座」という本の中で詳しく説明しているので、それを読んでみればわかると思うのだが、アジア的に言えばカースト制などにみられるように、人間は生まれながらに平等であるという概念が希薄であるが、しかし西洋の概念では人間と言うのは神によってつくられた存在である。その神によってつくられたということは、何人も自分たちの上に立つことがないということである。
英語ではしばしばこの神を「Creator(創造主?)」と言っているが、われわれはまさにこの「Creator」のもとにおいて平等であり、自由であると言うことで、彼ら彼女らの基本的人権は、まさにこのすべての人間は神によってつくられたと言う上に立っているのだ。

もうここまで書くと私が、なぜ稚拙で無知な連中が固まることは危険だと言っているのが理解できると思うが、人権と言うのは情や仲間と言う言葉とは無関係であり、個を確立させてはじめて見えてくるからであって、単に仲間だからと集まる集団はこの個そのものを理解することはできないからである。
そもそも「個」「Individuality」と言うものが理解できれば、何もかたまることははない、よく村社会ではしきたりのようなものが存在するが、そういうしきたりも全員を同一化させるためであって「個性」とか「個」というものを認めることができない社会だからだ。
運動部による後輩いじめなどはイニシエーションに近いものがあり、よく昔先輩にひどいことをさせられたことをおもしろおかしく言う奴がいるが、それらもイニシエーションと考えれば、いじめられたことを自慢する理由も多少はわかるが、こういうことが遊びと考えることができるのは全員が同じ体験をするからで、さらに言うならば人権を無視して考えるからである。
こういう体験と言うか経験が正しいとされる傾向は未だにところどころ見られるのだが、特にそれは女性や子供の扱いにおいて見られるようである。
今日の日本も人権教育と言うものが見直され、昔の封建的で問題発言が多かった時代に比べればかなり改善されてきたと思うが、しかし未だに小さなコミュニティにおいては、まだまだ女性や子供の人権が十分に守られていないような気がしてならない。









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オリーヴを一言で言うと

2011-10-13 | Weblog
オリーヴは女性も含め社会人が多い。
たぶんそれだけしかできない人間からみたら、ボクシングをなめてるとしか言いようがないと思うのだが、しかし自分たちは真剣に遊んでいるつもりである。
しかし遊ぶと言っても中高生のように授業中にふざけたり、からかったりすることではない、彼ら彼女らはその忙しい中、貴重な時間をさいてここに来てくれているのだが、そんなわけであるから、中高生のようなクラブのようなもちかたでは満足することはできない、大事なことは趣味としてこのスポーツをいかに有意義なものにするかということである。
以前会員の人が他のチームのロゴがはっているユニホームを見て、自分たちもロゴを入れたらどうかと提案してきたことがある。じゃあ何がいいのかと冗談まがいに話し合ったところ、私が提案したのはホモルーデンンス(遊びをもつもの?)なんともオリーヴらしいロゴであるが、しかしなんとなくこれはセンスにかけるので却下された。
他にアイロニーをこめて「オムニポテンツッ(ラテン語で全能)」われわれのようなヘタレ集団が名乗るからおもしろいのだが、他にもブラックデビルはどうだとか、みんな冗談まがいにロゴをきめていたが、ロゴと言うのはそのクラブの性格を表す意味ではたいへん興味深い。
オリーヴのカラーを一言で言うと「ケオス」であると思っている。
しかしケオスなんてロゴにしたら、アナーキズムか新種のテロリストと勘違いされるので絶対ロゴにはしないが、この「ケオス」というのはもともとギリシャ語の言葉で、カオスとう言うが、ギリシャ哲学では宇宙開闢説における万物発生以前の秩序なき状態で、言葉としては混沌とか実態がはっきりしないものに用いられる言葉である。
オリーヴは高知であるのに県外の人間が多く、中には外国人の方もいる。さらに職業もみなそれぞれバラエティに富んでいて、それぞれ大学などでも学んできたことが違うし、いわゆるステレオタイプの人間が少ない、個性的な人が多いクラブである。
私はそういうバラエティに富んでいて、ひとつにはまとまらない人間たちが多く存在すると言う意味でケオスと言う言葉をつかっているのだが、手前みそだがここには本当に魅力ある人が多く存在していると思っているのだが、そういう人たちを体育会のように一つにまとめるということは不可能なことに近く、私はこのクラブが逆にひとつにまとまることがない、だからこそこのクラブが素晴らしく魅力的であると思っている。

 中国のことわざに「サルの王様」という話しがある。
あるサルの王国に立派と言われるサルの王様がいた。
ある夜のこと、このサルの王様が井戸の中をなにげなく見ているとその深い井戸の中に、月が映っている。
しかしそれを見て月が井戸におちたと思い、王様はあわてふためく、なんとかして月を井戸から出さなければ世の中が大騒ぎになる。そこで大勢の家来に月を救出するように命じた、のだがなんせそこは深い井戸大勢の家来が尻尾をつかみあって何とか井戸の月が届こうとするところまでいったのだが、しかしその中の一人がバランスを崩してしまい、全員おぼれしんでしまったという話しである。
この話しは韓国人や中国人なら結構知られている話しであるが、この話しが意図していることはサルがいくらあつまって知恵を出し合ってもサルはサル、つまりバカがいくら集まっても所詮バカの集まりだと言うことで、このことわざは集団で固まることを揶揄したことわざであるが、おそらくそういう集団で集まることを揶揄しているところが日本人にはあまりなじみのないことわざになっているのだと思う。

何度も言っているが軍団と言うのは、人間の創造の意志をたいかさせるものである。
以前ある先生が講演会で幅の広い年齢層にどういう話しをすればいいのかという問いに対して、小学4年生ぐらいのレヴェルで話すようにすれば分かりやすく話せると言ったが、まさに軍団で集まると言うことはそれに等しい。
よくそういう軍団が集まると幼稚なことで盛り上がったりするが、人間はもともと集まればそうなる傾向があると思っているが、そう言う軍団の中で偉そうにしている奴を見ると「サルの王様」の話しを思いだすのだが、知性にかけると集団で固まって必ずいばる奴がでてくると言うのが私の持論である。

しかしこのシンプルな話し方であるが、JFKの演説は非常に分かりやすい言葉をつかうので、英会話のビギナー向きの演説だと言われている。
しかし彼の演説はは素晴らしい。興味があれば聞くことをお勧めするが、彼は当時教育をうけていない人たちにもわかるように、やさしい言葉をつかい力強く、淡々と真理を語るのだが、淡々としているがその言葉の力強さに、私は深い感動をおぼえたのだが、彼は私の尊敬する歴史上の人物のひとりである。

このホモルーデンスと言う哲学の概念は、以前ブログで取り上げたのだが、この言葉は単に人間は遊びができる存在だと言うことではなく、その遊び心を通して多くのものをクリエイトしていくことができると言う意味でもある。
遊びと言うとマイナスイメージがあるが、しかし遊びと言うのはホイジンガ的に言えば、創造性や力の源であり、おそらく大人であればボクシングを競技することで、少なくとも遊びと言うのは、ふざけると言うことではないと言うことが、理解できると思うのだが、まさにここはその遊びから何かを得、そして学ぶところである。













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葬式はいらない

2011-10-11 | Weblog
宗教学者の島田氏の書いた本で「葬式はいらない」という本がある。
以前彼の短いコメントを聞いただけではっきりとした内容についてはわからないのだが、おそらく私の意見も踏まえて言うならば、今の葬式は形式的なもので本来の仏教的な意味はなく、世俗化されているだけで、そういう葬儀をしても無駄で、単に宗教ビジネスをもうけさせるだけである。
私自身の感想として思うのは、日本の葬式、特に仏式と言われている葬式はよく理解できない、趣旨がはっきりしないのである。
何がはっきりしないかというのは何のためにやっているのかと言うことである。
仰々しく、われわれには理解できない、その儀式においても戒名や装飾品がいろいろと用いられるが、しかし宗教儀式と言う場において、オプションというものが存在するから驚きであるが、これらのものは本来の宗教的な趣旨を正しく理解してのことなのか意味があるのだろうかわからない。
さらに葬式では経文が読まれるが、もともと経文というのは釈迦の教えがまとめられたもので、おそらくそのなくなった人に読まれるものではないと理解しているが、日本では忌引きといって死人がでた家は、学校や会社などの人のいる場に来てはならないと言う風習があるが、これは今では喪に服すという意味で言われているが、しかし忌と言う言葉が使われていることから、死そのものを穢れであるとみなしているのだが、その死者に対して読まれる経はその史をいたむというよりも穢れを清めると言うような意味合いがあるのではないかと思っている。

しかしこれに対して西洋の特にキリスト教の葬式は目的や趣旨がはっきりしている。
私自身宗教学を勉強しているので何度かむこうの葬式に参列したことがあるのだが、向こうの葬式は多少の世俗化と言うのは見られるが、しかし、その趣旨は、なくなった個人が今神のもとにめされていく、そしてその神をたたえることであって、彼ら彼女らにとってその死は忌まわしいものではないということが、葬式の構成の仕方、その趣旨を通して理解される。
よく葬式ではヨブ記の次の言葉が朗読されるが、この言葉に彼ら彼女らの死生観と言うものが、はっきりとあらわれている。
それは「Naked I come from my mothers womb and naked I will depart. The LORD gave and The LORD has taken away, may the name of the LORD be prised.」「私は裸で母の胎から来た。そして裸で主のもとに旅立とうとしている。主が与え、それを取り去るのだから、主の名はたたえられるだろう。」であるが、私は実際これが朗読された時、その場にいて深い感動をおぼえたのだが、この言葉を聞く限りでは、死と言うのは必ずしも彼ら彼女らにとって忌まわしいものではないということが理解できるであろう。

話しはかわるが10月22日にここでの親睦会がある。
特に親睦会をもとうと計画したわけではなく、その親睦会をもつにいたっては経緯がある。
最初はここのメンバー3人ぐらいで食事をしようと言うことであったが、よくわからないが話しているうちに次第に参加者が増え、結局その3人の食事会がひろがって大人数になってしまい、親睦会というかたちになったのだが、私はこういう傾向を非常にいいことだととらえている。
たぶんこういうかたちで参加者をふやしていくことができるのは、ひとりびとり仕事ができる有能な人物だからと思っているが、ここには海外に長くいた人やキャリアウーマンが存在する。
そういう人たちは公平で仲間をつくらず、人間としても魅力があるので、そこに引き寄せられて集まるのだと思うのだが、まさにこういう人たちは規制概念にとらわれず、いい意味で自由であるが、こういう人たちが増えてくると、今までの無駄な既成概念をこわしていく、まさに葬式はいらないというのは、その時代の傾向を示しているのだと思う。










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I would be stunned  目が点になる。

2011-10-07 | Weblog
前回のブログで子供にコンタクト有りでボクシングをさせることが危険であり、問い合わせや質問があるので、このことは医師やその他の専門家と共同し声明文にしてある機関にとりあげてもらうことにすることを真剣に考えているが、子供の脳に直接打撃をくわえつづけて、豆腐のようにやわらかい脳が何の影響もないということはとうてい考えられないことであるからだ。
先日このことをあるボクシング経験者に話したらこういうことを言っていた。
彼はボクシングを7年ぐらいしていた経験者であるが、話しをしているといきなりこう言った「自分言語障害ですよ」「えっでもそうとは言い切れないでしょ」と言うと、時々ろれつがまわらなくなったり、物忘れがひどくなったりするそうで、言語障害と言うことに対してはいささか問題があるが、しかしろれつがまわらないとか物忘れがはげしいというのは、ボクシングを競技していたことと何か関係していると思う。
さらに彼はこういうことを言っていた。
そこの学校のクラブで時々同窓会みたいなことをするのだが、OBの言っていることがわからないらしい。何が分からないのかと聞くと、とにかくおこっているのはわかるのだが、言葉が分からない。特に年配の人になればなるほど何を言っているのか分からないそうで、話しをあわせるのに非常に苦労するようなことを言っていたが、その話しをそばで何人かで聞いていたのだが、彼が淡々と当たり前のように何の抵抗もなく、話す様子に一同目が点になった。

私自身米国でボクシングを経験して思うことは、日本のボクシングは危険度が米国に比べて高いと言うことである。
これは意外かも知れないが、それは練習の仕方にあると理解している。
特に練習のスパーリングだが、日本ではスパーリングと言うと実際にガチンコでうちあうスパーリングである。
がしかしこれに対してむこうではガチンコで思いきりうちあうスパーリングはご法度で、スパーリングでもみんなかげんしあって60パーセント70パーセントの力でうちあうのが私たちがやっていたスパーリングである。
しかし60パーセント70パーセントと言っても人間はあつくなったら思いきりうちこんでしまうのではないかと思うのだが、確かにあつくなって思いきりうちあうこともあるが、それはまれでそういう時はコーチが間にわって入るので、それ以上あつくなることはない。
じゃあなぜかげんしてうちあえるのかというと、それは彼ら彼女らと日本人の考え方の違いであると理解している。
基本的にむこうの人間はまずけがをすることをおそれる。だからスパーリングのような実践的な練習であってもそこでけがをしてしまったらもともこもないということで、お互いブレーキがかかるのである。
この方式は社会人の多いオリーヴに当てはまるのだが、それに対して日本の練習はやたら競技者を煽り過ぎであると感じる。本人たちはモティヴェーションを上げるためにやっているつもりだがこのモティヴェーションがくせものだ。
よくよくモティヴェーションを上げるのに、声だしと言ってでかい声をだして士気を上げようとする。しかしこれは私から見ればある種の集団ヒステリーのようにさえ見えるのだが、こういう状況で力を抜けと言っても抜けるはずはないのであるが、日本人は本番であがりやすい、大舞台によわいというのは、士気ばかり高めて、力を抜くことを知らないからではないだろうか?
よくファイトという奴がいるが、ファイトって一体何なんだ、まず英語をよく理解したほうがいい。
ファイトは日本語で戦えだと言うことを理解しているのだろうか?まずこういう殺伐とした言葉を煽るようにして使うべきではないと私は理解しているが、今はわれわれの時代にように和製英語が通用する時代ではない。実際帰国子女や英語を習っている子供たちもいるのだから、当然英語の表現にも気をつかうべきであり、時には間違った和製英語が不快にもなりうるということをこのグローバルな時代では考えていかなくてはならないのだ。
まずアマチュアであるならファイトじゃなくBOXだ(まあまわりを囲んでそんなことを言う必要はないが)。
ちなみにBOXと言うのはこぶしでたたくと言うことで、ボクシングはこのBOXの動名詞である。
言葉の伝達は大事だ。特に言葉と言うのは子供が成長していく上で大事なことであるから、子供や青少年を指導するのであれば、後に「それはどういう意味か」と言うことを突っ込まれたときにきちんと答えることができるように、適切な言葉をつかうと言うことは大事なことではないだろうか。
言葉と言うのは物事を伝える道具である。だからこそ、その意味をきちんと理解し、伝えていくことは何かを教えたりする人には要求されることである。
それを何も考えずに勢いやのりで煽るように用いることは、少なくとも青少年を指導すると言うことにおいては危険である。



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