脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

モラトリアム

2008-03-28 | Weblog
モラトリアムという言葉を知っているだろうか。
これはエリクソンによって提唱された言葉で、おもに青年期に青年がアイデンティティを確立させるために、大人としての義務、責任の遂行を猶予されている期間としての青年期であり、この時期に於いて社会的責任や役割、倫理観、経済的な自立、そして男女の交際などを学びながら、自分のアイデンティティを確立させて行くそうである。
そしてこのモラトリアムは、古典的モラトリアムと現代的モラトリアムにわけられる。前者が自己のアイデンティティを確立させるための猶予にたいして、後者は怠惰な大学生のように社会的責任をのがれ、ぬるま湯につかって大学生活をおくっていると言うような状態で、これらは消極的モラトリアムと言われている。
現代のモラトリアムは、大学生やフリーターなどに見られるような消極的なモラトリアムが顕著にあらわれているが、しかしこの時期というのは青年に於いて重要な期間であり、このことを通して熟練された大人へと成長していくのではないだろうか。
よく自分たちの世代の人間が「最近の若い奴は何も考えていない」というが、はたして本当にそうなのだろうかと思うことがある。
自分は仕事柄その世代の人間と話すことが多いが、こちらから話しかけ話題をふってやるといろんな答えが返ってきて、意外にも彼ら彼女らはいろんなことに興味をもっていて、何かをやりたがっているということに気づかされることが多い。
恐らくその古典モラトリアムと言われた時代というのは、彼ら彼女らのまわりには多くの話せる「大人」「師」というのが身近に存在していたのではないかと思う。
話は古いがソクラテスの時代にしてもそうだ、彼ら彼女のまわりにいる「ソフィスト」の存在、また「広場」とよばれる場所があって、そこでいろいろと議論し、学ぶことで大人としての責任や自立を、身につけていくことができたのではないだろうか。
古典と言われる時代には彼らのまわりにはたとえそれが建前であっても国を愛し、良心を重んじようとする姿勢をもった大人達が身近にいた、そういうことを見据えて古典的モラトリアムと言うことができるかもしれない。
しかし今青年に対して多くの大人は無関心で、多くの青年は学ぶ機会を失われつつあるのではないかと思う。
今MOBには何人かのモラトリアムをむかえた人たちがいる。
彼ら彼女らにとって大事な時期、せっかくここに来てくれているのであるから、この競技が単なる思い出として終わるのではなく、いろいろな面でボクシングをとらえ考え、その成長を助けることができるように配慮していきたいと思っている。
そのためできるだけ彼らの身近な「師」となり、ボクシングのことだけではなく、多くのことを聞いて話し、アドヴァイスできたらと思っている。
そしてクラブは彼ら彼女らの「広場」になればと思っている。







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ボクシングを考える 2

2008-03-27 | Weblog
この前ゲームは人間の感性や思考を単純化させると書いた。
ゲームの安易な達成感や敗北感が倫理観をまげ、ものごとを単純かさせると。
MOBもどちらかというと、もともとハードルの高い競技であるボクシングをテニスをやるかのような感覚で競技させるのであるから、当然ボクシングを軽く見ているんじゃないかという批判の声もあがると思う。
しかし自分はボクシングを軽く見ているわけではない、自分も競技者であり、試合にも数多く出場しているので、ボクシングの厳しさというものは誰よりも知っているつもりである。
しかしボクシングという競技は、あまりにも一般化されていないがために、ボクシングそのものの芸術性や競技性自体が伝わりにくく、一般にボクシングを支持し見に来てくれるのは、競技者か、生の殴り合いを見たいという感覚で来る人たちであり、これでは競技に於いて全体の進歩はありえない。
時々TVの試合などで評論家のコメントを聞くことがあるか、野球などのスポーツに比べたら専門的ではなく抽象的で、いにしえの太古の時代から続いてきたスポーツという威厳にかけるのではないだろうか。
確かにボクシングの起源はBCの時代から続き、もともとそういう大衆の欲求に答えるための競技で、そういう血なまぐさい歴史があるのであるが、しかしもしボクシングの進歩というものを考えるのであるならば、ボクシングの持つ芸術性や競技性というものを十分に伝えて行かなくてはならない。
そのためにはボクシングが一般化され、観る側の影響も考えなくてはならないのではないだろうか。
最近わかったことであるが、ダイエット目的であれ、健康維持であれ、この競技に参加している人は、意外にもボクシングに興味を持ってくれ、試合などを見ていてもただ殴り合いを楽しむのではなく、また別のかたちで競技を観て楽しんでくれているということがわかった。
また県体などの試合があれば喜んで見に来てくれる。
競技というのは競技者だけでなりたっているのではない、もちろんそれを見てくれる人たちがいるからなりたつのである。
最近昔にくらべてだいぶましになったが、しかしまだまだボクシングの試合会場は独特の雰囲気があるように思える。
ボクシングの競技の内容を決めるのは、競技者だけではない、観客も然り、そういう意味で、我々は多くの人に、この競技の芸術性と競技哲学を理解してもらうべく、いろいろなやり方でボクシングを教えたいと思っている。


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リラックス

2008-03-25 | Weblog
3月30日は同盟ジムのスパ大である。
選手には練習試合やからそんなに重く考えんでいいと言っているが、出場する選手達は結構緊張している。
試合になると緊張しない人間などいない。それはたとえ練習試合であってもそうだ。
自分の場合は試合場に入るとなるべく、選手達と行動を共にしなかった。
練習前の気合いを入れる儀式や練習を行ったが、それ以降は選手達からはなれて音楽を聞いたり、試合を見に来てくれた友人達と話したりして試合を待った。
考えてみれば試合前というのは誰でも緊張している。
それがトーナメント戦であるならばなおさらのこと、試合前の雰囲気はピリピリしていて、みんな戦争に行くような顔をしている。
そんな中で本当にリラックスできるはずがない、さらに緊張を強いられるだけである。だからなるべく選手達のそばにはいなかったのだ。
話は変わるが、人間が一番集中している時の目というのがどういう目であるかということを知っているだろうか。
集中しているということから、何かにむかってものを射るような目、そんな力強い目を思い浮かべるだろうと思うが、実は違うらしい。
ある学説によると意外にも人間が本当に集中している時は、そんな目ではなく遠くを見ているような一見ぼーっとしているような目をしているらしい。
身近にたとえると鉄棒を、飛び上がってつかもうとするときのような遠くを見ている目だろうか、そんな状態であるそうで、集中というのは気合いを集中させることではなく、リラックスした状態がともなわなければ、人間は完全には集中できないのだ。
最近のスポーツ学はこのことをよくわかっているので、リラックスすることを考えているのであるが、しかしこのリラックスすると言うことは、特に試合に於いて個人レベルでは難しい、そのリラックスできる環境をつくり出してやらなければ、本当の意味でリラックスすることはできない。
自分の場合はその選手達の集団からはずれることで、ある程度リラックスすることができたが、しかしまわりの人間がそのような状況をつくってやったり、言葉をかけてやることは重要であり、大事なことである。
自分のトレーナであったジョージという人は実に相手の緊張を解くことがうまかった彼は魔法の言葉をもっていたのだ、私が今でも思い出す言葉は「yellow」である。彼も同じ黄色人種であったのだが、前日か2日前ぐらい彼から肌の色の違いについていろいろと聞いたことがあった。
彼は言う、黄色人種は日本では偉いと思いあがっているがここではだめだと。
そしてボクシングは下層階級のスポーツらしい、日系人もその貧しかった時代はボクシングが盛んであり、多くのチャンピオンを輩出したというのだ。
話は試合場でのことだが、その時どういうわけか自分のまわりの競技者はアジア系が多かった。
自分は少し緊張してまわりをきょろきょろ見渡したのだが、そんな自分に彼は皮肉ってこういった「yellow」と自分は笑ってしまった。
黄色人種が下層階級なんて言う発想などなかったし、そのことを疑ってまわりを見渡したのでもない、しかし彼はそれを皮肉って「なあ、そうだろう」というブラックジョークを込めて私に言ったのだ。
この爆笑によって自分の緊張は説かれたことは間違いなかった。
断っておくが自分はそういう人種差別的な言葉は好きではないし使わない。
しかしここで言いたいことは、試合前リラックスすることは重要なことであり、それを、いとも簡単に言葉によってつくり出す魔術師がいたと言うことである。



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どうなってるの?

2008-03-24 | Weblog
最近子どもをもつ親の非常識さが目立つ。
特に田舎の学校にありがちで、自分がよくわからないのがPTAの役員であるにもかかわらず、自分の子どものことをやたら主張し、権利を認めろと言う親である。
これはとくに田舎のような地域に多いように思うのだが、本来ならばPTAという立場にあるので、まとめなくてはいけないのに、それを特権と思っているのか、まわりがどうなろうと自分の個人的な意見を無理にごりおしするという話をよく聞く。
同じ世代をもつ親たちに聞いても、やはり学校で問題なのは教師よりもこういった自分勝手な親たちであるそうである。
しかし何も自分はここで教師を擁護する気はない、親には親の立場があるし、とんでもない先生だっている。
しかし明らかに個人的なことや非常識なことを騒ぎ立てたりする親や、給食費を滞納してパチンコをやるバカ親がいることは確かなことである。
大事なのは個人の主張ではない。おばはんの井戸端会議レベルで話したようなことを取り上げること自体ばかげたことである。
よく田舎ではひんぱんに親との飲み会があるそうであるが、そんな馴れ合いで本当に学校をよくしていけるのか疑問である。そういった品のない交流会が、教師との交流を深めると思っているならそれは大きな勘違いであり、ありがた迷惑である。
今自分が思うに、親がもう少し教師目線に立つことにかけている。
教室は教師と子どもの関係によってなりたっているのであるから、子どものことばかり主張するのではなく、教師の立場も多少考えなくてはならないのではないだろうか。
飲み会をやって騒ぐことが教師のねぎらいになったり、交流を深めると思うこと自体無意味なことである。
何を期待しているのかわからないが、酒を飲んでの馴れ合いでは、不倫やセクハラまがいの行為を誘発するだけである。
昔知り合いの子どもから夜中の2時頃電話がかかってきた。電話にでてみたら「おかあさんが帰ってこない」とのことであった。
後で聞いてみるとどうやら田舎のPTA主催の飲み会があったらしく、勢いにのって店をはしごして帰りが遅くなったらしい。
あきれることにこういったことはよくあるそうである。
教師との交流と称して夜中まで飲み歩くらしい。
本当にこどものことを考えるならば、井戸端会議レベルの言いたいことを主張するのではいけない、少しは教師の立場、家族のことなど考え、自分たちも多少教師目線に立つことが大事ではないかと思う。







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99%の汗

2008-03-21 | Weblog
自分の子が今大怪獣バトルというカードゲームにはまっている。
しかし以前まではゲームをさせていたのだが、今はゲームをすると悪影響なのでオークションなどで安く落札したカードを集めさせているだけである。
ゲームというのは非常に子どもにとってよくないということは言われている。
自分の子どももゲームを禁止させた理由は、それをやるとまわりの状況がわからないほどのめり込んでしまうからであり、成長の過程においてもよくないと思ったのである。
子どもを見ていてわかるのだが、ゲームというのは本当に人間の倫理観をねじまげてしまう道具であると思う。
特に自分は勝ち負けという倫理観にこだわっている。
ゲームの世界に於いての勝ち負けと、現実における勝ち負けは明らかに違うということは誰でもわかっていることである。
ゲームでキャラクターが死んだからと言って、自分が傷つくことはないし、スポーツのように努力して何かを成し遂げるという達成感もそこにない。
しかしこれが子どもの場合、どういう影響を与えられるかと言うことを考えたことがあるだろうか。
自分のこどもの場合もゲームをやっているとき、負けてはならないと激しくボタンをたたくのであるが、これが実に脳しんとうを起こしたかのように、頭を揺らしながら無我夢中になってたたくのであるから、彼にとってこのゲームで負けることは重大なことなのである。
またゲームは安易な達成感を実現させる道具である。
ロールプレイングなどで主人公に自分の名前をつけて、ゲームを興じ、クリアするとあたかも自分が何か成し遂げたような気持ちになると言うが、まさにこういうことから倫理観が崩れてくるのである。
人間は競争する生き物であるから、物事において勝ち負けは当たり前のことであり、この勝ち負けというのがなければ進歩というのはあり得ないだろう。
しかし最近ゲームの影響かはわからないが、この勝ち負けに於いて若い世代の倫理観というか常識がくずれているように思える。
最近の高校生は学園の体育祭とか競技大会で、負けて泣く人間がいるというが、我々の世代から考えれば驚きである。
またよく聞くのが高知県の有名な踊りで2,3ヶ月の練習で終了後、泣き出すと言う現象だ。これも自分はよく理解できない。
勝ち負けや達成感というのは人間の努力の賜物である。
一生懸命努力したからこそ、負けたときは悔しいし、勝ったときは達成感があり、努力したからこそ、勝っても負けても、そこから何か大きなものを得られるのではないだろうか。
元ジャイアンツの桑田が打たれたピッチャーがベンチで泣いているのを見て、お前ほんまに泣くぐらい練習したのか、そんなんで泣いてたら努力してきた人間に失礼だと言ったらしいが、今こういった傾向があるので人間の努力が軽んじられているように思えて仕方がない。
努力は人間の高価で崇高な力である。
エジソンも「天才は99%と1%のインスピレーションからなる」と言っているが、人間は努力することに於いてその価値を見いだされるのではないだろうか。

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YESTERDAY

2008-03-19 | Weblog
昨日おもしろいことに気がついた。
練習生がビギナーにデイフェンスを教えている。
ああ彼もここまで教えれるように、ボクシングの技術を身につけたんだなあと感心していると、何やら変わった言葉が聞こえてくる。
「パーリングはこう、左は右で、右は左でパーリングするんだ」と言っていたが、彼はボクシングのデイフェンスのパリングを、パーリングと「パ」の後をのばして言っていたのだ。
昔「ひょうきん族」という番組の中でさんまか誰かのギャグで「あほちゃいまんねんパーでんねん」というのがあったが、何か音的にも変だ。
日本語で「パ」と「パー」はのばすかのばさないかの違いであるが、英語ではこの一字違いが大きな違いである。
正確にはパリングは「parry」の動名詞「parring」「a」が強調される音なので実際「パー」とのばしてしまったら、英語では聞き取れないのではないだろうかと思うのだ。
しかし後でわかったことだが、意外にもこのパリングをパーリングと勘違いしている人も多い、自分が指摘した後「えっパーリングと違うんですか」と何人かの人が言っていたが、たぶん最初に誰かがパーリングと聞き間違えて、後に聞き取りゲームのように間違って伝わってしまった結果である。
以前にも書いたが、ボクシングを始めるにあたって語学的な感覚を養うと言うことも大事なことである。
このパリングも辞書で「parry」という言葉をひいてみると「かわす」とか「受け流す」という意味だが、こういう言葉の感覚をつかむということもその技術のこつをつかむ一つの方法であるように思える。

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お知らせ 

2008-03-18 | Weblog
もうすぐ4月になりMBOの歩みも3年目に入る。
3年目の4月から新しい練習を導入することを計画している。
予定としては練習法は女王様スパ、王様のスパにひき続き「連打でGO」「兄貴のマス」「IQで勝負だ」「虎の穴マス」(これはラッキーのぱくり)
など。
そしてイヴェントは「新人スパ大」「QUEEN OF OLIVE」「KING OF OLIVE」「NEW FACE OF OLIVE(新人王決定戦)」である。
尚12月はチャリティ月間として会員の会費から一人100円の計算で寄付をしようという計画がある。
もともとジムを設立した目的は中年たちを励ますこと、そしてこの仕事を通して何か社会に貢献できたらと思っているので、何かのきっかけになればと思っている。
練習内容などここでは書かないが、興味のある人はメールにて連絡してほしい。

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屋根の上のバイオリン弾き

2008-03-17 | Weblog
屋根の上のバイオリン弾きというミュージカルがある。
これはシャロム.アヘイレムがイエディッシュ語で書いた小説を物語にしていて、当時彼が育った南ウクライナの村を舞台にしている。
物語は村で牛乳屋を営む、一人の男の人間模様を描いた物語である。
詳しい内容は書かないが迫害にあったユダヤ人がどんなときでもくじけず、運命とも言える悲惨な出来事に対して神に不平不満をつぶやき、それでもバイオリンを弾きながら涙を笑いに変えていくというストーリー自体は単純ではあるが、人間の生きる力というものを教えられる物語であるので、特に若い人には観ることをお勧めしたい。
ユダヤの格言に「神の前で泣き、人の前で笑え」というのがある。
しかしこれは決してやせがまんのことばではない、日本人には彼らのような一神教の考えがないので、神の前というと抽象的にとらえてしまいがちなのだが、彼らの神とは自分たちを歴史の中で導き繁栄させてくれる神である。
「摂理」ということばがあるが、これは日本語では自然淘汰のような自然が、すべてを飲み込み処理していくというようなニュアンスで使われるが、実は彼らの理解では「摂理」というのはそうではない、英語では「providence」と言ってこれは、ラテン語で言う「pro(前)」と言う言葉と「video(観る)」と言う言葉の合成語で、彼らの言う「摂理」というのは、神が自分たちの前を見てくれると言うことで、自分たちの将来、未来を神が約束してくれているということである。
だから彼ら彼女らの笑いは、そういう神を、自分たちは信じているんだという力である。
彼ら彼女らの強さというのは実はここにあるのではないかと思っている。
それはある種の宗教的な強さではあるけれども、彼ら彼女らはどんな困難に遭っても常に前を見て生きることができる強さがここにある。
最近不景気がつづいているせいか、悲観的になりがちである。
我々はユダヤ人のような神はないし、特に宗教を持つ理由もない、がしかし彼ら彼女らのように困難にあっても、笑うことのできる余裕と勇気というのは必要なことではないだろうか。
人間は困難に遭うと後ろを向いてしまいがちである、しかし自然において雨が降った後はかならず晴れるように、人生においても必ずその困難の先には、明るい未来があるということを信じなければ、笑えないのではないだろうか。
ヘーゲルは自分たちの悩みや困難は、自分たちが一段と素晴らしい方向へと導かれていくための試練であると、弁証法を用いて励ましているが、彼もこの困難を語る
時人間の未来という姿に目を向けているが、まさに我々はそれに打ち勝つために、未来を見つつ自分を信じなければならないのではないだろうか。
物語の最後は彼らが迫害の地から、ニューヨークへ向かうシーンでThe endとなっている。物語の終わりは迫害から逃げるようなかたちであるが、しかし新しい新天地へと向かって進む、彼ら彼女らの希望がそこにあるのではないだろうか。

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試合は大事

2008-03-13 | Weblog
3月30日大阪の同盟ジムで練習試合が開催される。
MOBからは3名出場予定であるが、みんな試合を楽しみにしている。
高知はジムが少ないので、こういった試合が行われない。
あっても公式試合のみで、それさえも出場者が少なく2日間予定していた試合も、一日で終わってしまうことさえもあるぐらいである。
だからこういった練習試合を、ジムが開催してくれると言うことはありがたいことである。
それがたとえ大阪であってもこれだけの参加者が出るのであるから(仕事の関係で行けない人も多いが行きたいと答えた人は多数いる)、選手は試合にでたくてその機会を待っているのである。
たぶん同盟ジムの代表は、その選手の試合をしたいという気持ちをよく理解しているのだろうと思う。
彼自身も大学の時は、クラブがあまりにも消極的であったゆえに、試合を出場するする機会が少なく、強くなろうとする気持ちに、水をかけられたのであるから、自分がボクシングクラブをつくったらという気持ちがあったのだろう、そういう我々の気持ちに答えてくれる大会であることは期待できる。
日本のクラブの問題の一つは、縦社会があまりにも強いと言うことである(特に我々の世代は)。
ボクシングクラブに入るにしても、ボクシングをやりたくて入ってきたのに、親分子分の関係をはっきりさせられ、後輩は先輩に服従するというようなことばかりを押しつけられて、これじゃあ何をやりにきたのかよくわからない。
よくOB会などで、あの時はこんなことがあったと、当時いじめられたことを思い出にしているのがいるが、私から言わせればそれはサディスティックなことで、こんなことを思い出にしているから、いじめはなくならないんじゃないかと思ってしまう。
しかし我々がボクシングをやるということは、精神的にも肉体的にもこのスポーツを通して、強くなりたいから何かを期待して、ボクシングをはじめたのではないだろうか。
そういう意味は試合に出場すると言うことは、その自分を試す最高の機会であり、その選手の気持ちに答えるような、ボクシングクラブの運営ができればと思っている。




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防御と攻撃

2008-03-12 | Weblog
「勝つ可からず者は守りなり、勝つ可者は攻なり」
不敗の態勢というものは防勢の中に在し、勝利の可能性は攻勢の中から生じてくる。という孫子の言葉がある。
守りというのはボクシングにおいて大事なことである。
特にアマチュアボクシングは、相手を倒すというのが第一の目的ではないので、守り(ディフェンス)を覚えると言うことは重要である。
しかしディフェンスというと、我々は守ることだけを考え、まんべんなくディフェンスの練習をこなし、それを試合で適応させれるようになればいいと思いがちであるが、しかし試合に於いて一番攻撃を受けやすいのは、パンチを撃った後である。
だからディフェンスとは知るには、まず自分がどういうパンチを撃つかと言うことを考えなければならす、意外とここが盲点になっている場合が多い。
この孫子の言葉は防御が大事だと語った後に、勝利の可能性は責めることであると言っているが、これは攻撃と防御が、表裏一体であることを意味しているのではないだろうか。
我々は攻撃と防御を感覚的に別のものとしてとらえている、がしかし攻撃を仕掛けた時にわかるが、ボクシングでもっとも攻撃のすきがうまれやすいのは、パンチをうったあとである。
従って防御の練習を一通りやり終わったら、自分の攻撃の仕方、パンチの出し方をよく見て考え、撃った後どういう姿勢をとるかということは、非常にに重要なことではないだろうか。
ボクシングは防御だけでは勝利は見えてこないし、かといって攻撃だけでもだめである。
まさに彼の言葉のように攻撃と防御が表裏一体とならなければならない、そのため我々は自分のすきをうめなくてはならないのである。


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