脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私のモットー

2024-05-24 | Weblog
ジムを平等、平和に運営するための3つの心得として「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」 ことをモットーにしている。
まず「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」であるが、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の重要な主張は、言語と世界とが一対一に対応する(one-to-one correspondence)ということだ。名はモノと対応し、命題は出来事と対応する。例えば、「このバラは赤い」は要素命題で、花はモノの名前であり、「このバラは赤い」はこの世界の中で成立する出来事を表している。目の前にある花が赤い色をしている場合、この命題は真である。「バラ」という名前に対応するモノが存在し、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから言葉は意味を持つ、というのが「論理哲学論考」の考え方である。我々は言語理解の中でルールをもって生きている。したがってその理解の仕方によってその世界の価値観や、ルール、雰囲気も違うというのが私の理解である。
そして「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」ボクシングをはじめるような人間は目立ちたがり屋である。ほかのスポーツでは頭角をあらわせないから、みんなが驚くような、かつ競技人口のスポーツをやって目立とうとするような輩も存在するだろう。そういう人間が引退しても、自分は人よりも目立ちたい、勝ちたいと言う気持ちが鎌首をあげるのは当たり前のことである。そうなると人の意見に自分の意見をかぶせていったり、自分はジムでは一番の存在だと躍起になる。引退して退いたのだからそういうことはみっともない。現場では実際に動いている人間の方が上、ジムで教えてくれるトレーナーや集まって来てくれる会員に感謝し、強くなるよりも、ひとりびとりが持っている個性を重視した、ユニークなボクシングを確立させることが重要な課題であり、そういう意味で私はひとりびとりをリスペクトしている。
さらに「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」
うちのヨーロッパ系の監督はリングを降りたらジェントルマンであれと言っていたが、その根本は一番弱い立場の人間を顧みることだと思っている。格闘技の世界では女性はマイノリティである。そういうマイノリティを大事にするのが全体の平等であると理解している。うちでは上半身裸でトレーニングなんていうのは言語道断、女性がいやがったり、こわがったりすることはしないというのがここでのルールである。

参考文献「はじめての言語ゲーム」 橋爪大三郎  講談社 

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The principle of utility in MOB

2024-05-17 | Weblog
時々いじめのことで相談される。私がちょっと不快だと思うことは、こういう話を聞いたりしたりすると、今は反省してるけど自分はいじめてた側だとか、やられたけどやり返したとか、必要のない見栄をはる男、あたかもやられてない側に立つことが自分は強者の側にいると勘違い、さらに格闘家が事件をおこすと、強い人間はそんなことはしないとか、そういう発言はくだらない男の見栄が存在している。みっともないし、自分もやられる側に立たないと問題は見えてこない、だからそういういらない見栄はすてたほうがいいし、言わない方がいいと思う。
経済学者のJCハーサニーは功利主義の問題点として、自ら選択する社会で自分はどのような地位に陥るかは分からないので、期待効用が最大化すると言っているが、その時自分を他者に置き換えるプロセスが生じ、自分が最悪の状態だったらどうしようと考えることで、期待効用が最大化し、それが必然的に幸福の最大化になるということである。すなわち幸福とかと言う問題はまず自分が最悪の状態を考えて、そしてそこから必要な事柄や権利を主張することで生み出されるということだろう。
MOBには気を使わなくてはいけない人はいないし、親玉中心のヒエラルキーがない、管理者はあくまでわき役に徹する黒子である。競技者だからとか、トレーナーの取り巻きになったり、声がでかくて、強引な人間に徳をさせることはない。あくまで平等、むしろ弱い立場の人間を優先するのがMOBの考え方である。人間は弱い、私自身も差別される側だと言うことに気づき、自分ではどうしようもない不条理を体験したし、そしてHawaiian tounamentのファイナルでまけた時、人間は弱くて、もろい、だから助け合って生きなくてはならないと言う事を実感した。格闘技はまだまだ男社会である。その中で弱い立場の女性やおっさんたちが生き生きとできることがジムにおける効用であり、平等だと理解している。

参考文献 「はじめての政治哲学」 小川仁志

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秩序をもたらすコミュニティとは?

2024-05-04 | Weblog
先日見学の人が来ていたのだが、パンチングバックの近くにすわっていたので、若い会員の人が「自分の汗がとぶのでこっちに移動したしたほうがいいですよ」と気づかってくれた。うちのクラブにはこういう小さな気づかいができる人が多く、この小さな気づかいがジムの雰囲気をよくしていると思う。人間性もそうだが、育ちや受けていた教育が大きくかかわっているのだろうか、私はこういうふるまいをエチケットと言っているが、そこでそうするかしないかは大きな差であり、こういうふるまいができる人が多く在籍しているとそのコミュニティの質は大きくかわる、いわゆる女性や中年が安心して集える場となるのだと思う。
インマニュエル カントは「啓蒙とは何か」の中で「未熟さとは、他人の指導なしでは自分の知性を使うことができないということである。」と言っている。
私はよくそのコミュニティに知的レベルの高い人たちが一定数で存在していればその群れの秩序は正しく保たれると言っているのは、まさに道徳や倫理、自分はどう行動するかと言う基準を持つことは教育的な事柄とは無関係ではないと思っているからである。はっきり言ってうちのクラブには何々しろ的なルールらしきものは存在しない。私の個人的な意見ではそういう何々しろ的な自分で考える必要なないルール(黄金律的なものとは別)は形骸化し、よく言うあいさつしろ(特に先輩や監督には)と言うようなルールは「あいさつしろ、しないやつはダメだ」と制裁や、はぶられる対象になると言うようなゆがんだかたちで機能するので、そのコミュニティを平等に機能させることはできない。一般的に素行のわるい人間の特徴を言って、そういう人間にろくな人間がいないと言うと、みんながみんなそうじゃないと言う人がいるが、MOBにはそういうことを言う人はいない、なぜならみなさんが道徳や倫理的な事柄の基準をしっかり持っているからであり、その基準に従って自分で行動できる人たちも存在するからで、そのことがジムを正しく、健全に機能できる要因となっている。

参考文献「啓蒙とは何か」カント著 篠田 英雄訳 岩波文庫

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