ジムを平等、平和に運営するための3つの心得として「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」 ことをモットーにしている。
まず「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」であるが、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の重要な主張は、言語と世界とが一対一に対応する(one-to-one correspondence)ということだ。名はモノと対応し、命題は出来事と対応する。例えば、「このバラは赤い」は要素命題で、花はモノの名前であり、「このバラは赤い」はこの世界の中で成立する出来事を表している。目の前にある花が赤い色をしている場合、この命題は真である。「バラ」という名前に対応するモノが存在し、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから言葉は意味を持つ、というのが「論理哲学論考」の考え方である。我々は言語理解の中でルールをもって生きている。したがってその理解の仕方によってその世界の価値観や、ルール、雰囲気も違うというのが私の理解である。
そして「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」ボクシングをはじめるような人間は目立ちたがり屋である。ほかのスポーツでは頭角をあらわせないから、みんなが驚くような、かつ競技人口のスポーツをやって目立とうとするような輩も存在するだろう。そういう人間が引退しても、自分は人よりも目立ちたい、勝ちたいと言う気持ちが鎌首をあげるのは当たり前のことである。そうなると人の意見に自分の意見をかぶせていったり、自分はジムでは一番の存在だと躍起になる。引退して退いたのだからそういうことはみっともない。現場では実際に動いている人間の方が上、ジムで教えてくれるトレーナーや集まって来てくれる会員に感謝し、強くなるよりも、ひとりびとりが持っている個性を重視した、ユニークなボクシングを確立させることが重要な課題であり、そういう意味で私はひとりびとりをリスペクトしている。
さらに「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」
うちのヨーロッパ系の監督はリングを降りたらジェントルマンであれと言っていたが、その根本は一番弱い立場の人間を顧みることだと思っている。格闘技の世界では女性はマイノリティである。そういうマイノリティを大事にするのが全体の平等であると理解している。うちでは上半身裸でトレーニングなんていうのは言語道断、女性がいやがったり、こわがったりすることはしないというのがここでのルールである。
参考文献「はじめての言語ゲーム」 橋爪大三郎 講談社