脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

コミュニケーション能力をあげたかったら留学生と仲良くなれ

2021-04-26 | Weblog
うちの子供の大学のクラスには留学生やインターナショナルスクール出身の人が結構な割合でいるらしい、まわりで英語とかで会話している人たちがいるので、やっぱり都会の大学は違うと実感しているようであるが、私は自分の子供だけではなく、県外の大学に行く人間にコミュニケーション能力を身に着けて、友達をつくりたかったらまず外国人と仲良くなれとアドバイスしている。外国人を扱うためにはまず今までの価値観を一度すてて、相手の文化や宗教を知ってそれをリスペクトしなければ仲良くなれない。時には英語でコミニケーションをはかることも求められるだろうが、もし外国人をうまく扱うことができたら、日本人のあつかいなんてたやすいものだ。どうしたら仲良くなれるかと譲歩するから足元を見られることもある、特に田舎から出てきたらそうかもしれないが、しかし私は仲良くなるよりも相手をどう扱うかと言うことを考えて人間関係を構築していく方が懸命だと考えているし、そうやって人間を考察することで数は少ないが本当の友人に会うことができると思う。どうしたら仲良くなれるかなんて言うのは不安をつくるだけだ、どうしたら人間を上手に扱うことができるかと言うことを考えて観察力を養う方が、社会さらに国際社会に出ても十分なコミュニケーション能力を持つことができるだろう。

話はMOBの話になるが、私はジムを運営するにあたって3年スパンで未来を構想している。おそらく来年あたりはこの人が上手になって協力してくれるだろうとか、このメンツだったら来年はこういうことができるであるとか、ジムを安全でかつ誰でも楽しくトレーニングしてもらうためにいろいろなことを考えて、それを実現させようとしていることは確かなことである。
そのために一番大事なことはいろいろな人たちに協力してもらうこと、そしてそのためには相手を心からリスペクトすると言うことだ。しかしリスペクトと言っても口だけで言うはなく、本当に相手の存在を認めて自分を譲ることができるかということである。人に協力してもらおうと思ったら、まずその人の存在を認めて、その彼、彼女が生き生きとこのジムでトレーニングしてもらうことだ。
最近よく読まれるようになったEフロムの著書「愛すること」で愛は炎のようなもで人に伝えて行かなくてはならないものだ、だからもしそれを相手に伝えて行かなくてはやがてその炎は消え石のように冷たくなると言うようなことを言っているが、ジムのトレーニングと言うのもまさにそういうもので、ひとりびとりがここで楽しくトレーニングしていたら、それはやがてまわりに伝わってジムの雰囲気はよくなるだろう、そういう人たちがひとりでも多く存在してもらうためにはひとりびとりの協力と力が必要である、そしてそう動いてもらうためには年齢は関係なくその人を心からリスペクトすることが大事である。

もうこれからの時代は俺についてこいと言う時代ではない。体育会のめしをおごって相手の心をつかむとか、面倒見がいいとかそういうことではなく、相手をどれだけリスペクトできるか、そして相談された時に的確なアドバイスができるかということである。インターナショナルな時代であるから言うが、外国人のような文化も違うし、宗教や考え方も違う人間たちに俺についてこい的な考え方は通用しない、日本人ももうそういう時代になってきている。人をつかうのではなく人を生かし、尊重することがMOBのモットーだ。私は本当に心から会員の人たちを尊敬しているし、すべての会員の人たちがここでは主役だと思っている。そしてみなさんが生き生きとトレーニングすることで豊かな人間関係が生れ、トレーニングに来てよかったと思えるような場になるのだと信じている。

これから参考にあげた本を紹介していきたいので
今回参考にあげた本 Erich Seligmann Fromm, The Art of Loving 日本語E フロム 「愛すると言うこと」論文ではないのでページはのせません。

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But I still judge people by their appearance

2021-04-20 | Weblog
「But I still judge people by their appearance」
就活の時アメリカでは基本的にレジュメには顔写真を貼らないのだが、貼らない理由は人を見た目で判断してはいけないと言う理由からだそうだ。これは留学生が就活の時に写真を貼ることはアメリカでは違法だとか言っていたが、しかし日本に何年住んでいるんだ、そして何年生きているんだと言いたいし、実際にそのようなことを説明と共に伝えたと思う。まず向こうで人を見た目で判断してはいけないと言うのは人種的な問題を含めた意味だ、実際にリサーチでは身なりのいい白人男性の採用率が極めて高いと言う結果が出たそうだが、むこうの事情を考えたら見た目と言うのは単なるアピアランスではないと言うことが理解できると思う。そしてさらに見た目で人を判断するなと言うのは比較的若い人たちの意見だと思う。私も実際に若い時は髪の色や服装で判断するなと思っていたが、しかし年をとるにつれ人を見た目で判断するようにもなってきたことは確かである。人を見た目で判断するのは直感もそうだが、経験値である、何十年も生きて来ていろいろなことを経験すると見た目は人を判断する上では重要な事柄だと言うことが見えてくる、いくら知性をもって理屈をこめてもそういう判断は非学問的かもしれないが経験値の問題だ、経験していくことで見えてくる確かさもあるが、若い人が人を見た目で判断するなと言うのは自然な意見だ、しかし私はある程度年をとった人たちが人を見た目で判断すると言うのも自然な意見であると思う。

「憲法26条に記載されている」
最近学校に行かないとか言う子供のことが問題になっている。個人的には勝手にしろと言う意見だ。
しかし、そういうことを堂々と言っているが、親は日本の三大義務を理解しているのだろうか?教育の義務は憲法26条に記載されている、日本国民であるならば教育を受けなくてはいけないと言う義務があることは、憲法で定められている事柄である。いくら自主学習をするとか言っても、そのことに対して具体的な対策もなく、その義務を全うしていないのはあきらかなことで、これは憲法違反であるといってもいいと思う。
私は結論から言えば私は教育を受けることと学校に行くことは別と考えている。そして基本的には学校に行くことは必要だと思っているが、しかし特別な場合もあるので学校にはいかなくてもいいという例を認めてもいいと思っているが、その場合はそのなんらかのかたちで教育を受けれるようにすべきであろう。
うちのクラブは中高生の入会にあたって一度親に見学に来てもらってから入会してもらうようにしている。その時家に帰ったら何もできなくなるぐらいへとへとになるまでやらない、家に帰ったら集中して1時間ぐらいは勉強できる余力を残した方がいいし、スポーツをすることで勉強することの効率を上げてほしいとアドバイスしているが、それは大事なことをきちんとやってこなかった人間が大人になってからいかにみっともない大人になるかということを知っているからだ。学校を行くか行かないかと言うことを教育を受けるということを抜きにして語ることは危険だと思う。ともすればそれは学校の存在そのものを否定する傾向になりうるが、教育を受けると言うことは義務であり権利である、それをどういう形で受けるかと言うことはcontroversial な課題であると思う。


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バイレイシャルの国家に対する一考察

2021-04-17 | Weblog
インターネットでバイレイシャルの子供の卒業アルバムの写真がいつの間にか黒髪に修正されていたと言う記事が書かれてあった、彼女は地毛にもかかわらずその髪の色が不適切だとされ卒アルの写真の髪が黒く塗られていたことにショックをうけたとかそういう記事だったと思うが、最近日本も国際色が豊かになってバイレイシャルの存在が目立ってきたように思える。たぶんこの記事を見て多くの人は、髪の色は自由だ、ましてや地毛なのだからそれを卒アルで修正するなんてなんてひどいことをするのだと思うかも知れない、しかし問題はそこだけにはとどまらない、これはもはやアイデンティティの問題だ。おそらく髪の色をコロコロと変える人たちには理解できないかもしれないが、髪の色や、目の色、そして肌の色は自分たちが持つ個性であってアイデンティティである。私も向こうにいた時は黒髪はかっこいい俺は黒髪に生まれてきたアジア人であることに誇りを持っているとさえ思ったのだが、おそらく先進国ではその違いを理解してお互いを尊重するように教育されているのが普通だろうと思う。だからその髪の色や目の色をを否定されたりすることはその人個人を否定することである、おそらく学校側はそこまで考えて行動できなかったのだろう。日本人は単一民族である。単一民族であるがゆえにしばしば無神経だと感じるのこともあるのだが、それは日本人が同じような考えを持って同じような行動をするから、外の世界が見えていないのだと思っているが、まさにこの学校の黒髪問題も国際社会を無視した教育的配慮と言ってもいいだろう。

最近よく日本を賛辞するような番組が出て来て日本人は素晴らしいとかそういうことをうたっているが、しかし日本人って一体何者なのだろうか?実は日本には公用語はないらしい。そして多様化する社会の中で血筋と言うものも確かではない、見た目も100%日本人だと言っても韓国や中国の血がまざっている人たちもいるし、バイリンガルだと言葉を話すのでその文化も微妙に違う、そう言った中で日本人を定義するのは難しい、日本人と言っても我々はなんとなく日本人だと言う感覚で生きているのだと思う。

これは私の個人的な見解であり、決して徴兵制を支持することではないが、私は日本人であることと国家は決して切り離せないものであり、日本人=国家、国家に対して忠誠を誓えるかと言うことだと思う。
徴兵制はほとんどの国で義務づけられているのだが、我々が国のために戦うと言うことは国に対する忠誠心のようなものであり、それはある意味その国の人間かどうかと言うことを試すための踏み絵のようなものであると思う。
これは私の恩師の話、幼い時頃からアメリカに住んでいるお嬢さんが二十歳ぐらいの時にアメリカ国籍を所得しようとしたが、提出するドキュメントのあなたは有事の時にはアメリカ国民として武器をとるかと言う欄にノーと書いたことが原因で所得出来なかったと言うようなことを言っていたが、国家のために武器をとるかとらないかというのはある意味踏み絵のようなもので、そうでなければ国家に対する忠誠心はないとみなされるのだろう。韓国もバイレイシャルが韓国籍を所有するためには徴兵に行かなくてはならないが、おそらくどこの国でも自分たちは何人だと言う時、国によって差はあるのだろうが、日本人のようにただなんとなく日本人であると言うことではなく、それは忠誠心とは無関係ではない。さらに忠誠心も戦うための理由があることで国家をひとつにまとめることができる、卑近な例としてスポーツの世界を考えてみると、チームスポーツでは共に戦っているので、誰もがそのチームに属していることを疑わないだろうし、個人よりもチームの勝利を優先させることは正しいことである。同じように徴兵で戦いを意識させることは忠誠心を煽り立てるようなもので、その忠誠心を駆り立てることが国家と個人をつなげるもので、日本人にはそのつながる何かがない、テレビなどで日本人は素晴らしいといくら賛辞したところで、そういうことでつながることはただの幻想にすぎないと思うし、むしろつながる確かさがないからそういう自己賛辞的なことを求めて安心しているのかもしれない。もし自分たちが日本人だと言うことを多少なりとも確立させるためには、そう言った踏み絵的なものは必要ではないかと思っている。
ただ正直な話、日本と言う国はこの曖昧さが楽だ、考え方や思考は違うが、顔を見ても同じと言う我々にとっては居心地は決してわるくはないだろう。

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へたれでも弱かっても堂々とドレーニングできるジム

2021-04-12 | Weblog
うちのクラブはフィットネスをうたっているボクシングクラブである。フィットネスと言うのはボクササイズ的な平たく言えばガチでボクシングを競技するジムではない、社会人が趣味や健康維持、そして女性がダイエット目的で通うジムである。うちのジムに来たらわかるが、中年が多くどちらかと言えばまじめな一般の社会人が多い、それこそオタク系の文化部にいるような人間もいて、新しいユニット「オタク7」とか言うグループを結成させようと試みているが、そういうパッとしない人たち、格闘技ゲームなどで格闘技にあこがれて、でもこわいからできないと言う人たちに開かれた、むしろそういう人たちを歓迎するボクシングクラブである。

時々女性に女王様をしますかと聞くと人をなぐるなんてこわくてできないと言う人もいて、うちには人をなぐれないと言う人も少なくはない。それは本能的にできないタイプの人であるが、そういう人たちに無理にマスや女王様をさせたらトラウマになる。私はその人の目的や要望を聞いてメモを人がもし見てもわからないように英語ハングルなどでとっているが、それは人間のタイプや気持ちを理解し、尊重し、そしてできる限りその人が楽しめるかたちを見つけて楽しんで目的を達成してもらうためである。私が暴力的なマスやオラオラかかってこい的なマスを排除しているのは、MOBはけがをさせたりしたりするのは当たり前のジムではない、半グレのような集団が集まるクラブにしたくないからだ。前回のブログで秩序や平等性を考えることは教育的なこととは無関係ではないと言った。学校でもレベルがひくければひくい程、秩序がめちゃくちゃになっていく、逆にレベルが上がれば秩序が守られるのはそういう学校では校則や親の教育で抑制することを教えられるからだと言ったが、うちのクラブの人たちは比較的まじめに学校生活をおくってきた人たちだ、そういう人たちはきちんと集団の中でやってはいけないことや人に迷惑がかかるようなことを理解し行動してくれる。マスク着用もみなさん誰一人と文句言うことなく守ってトレーニングしてくれているが、そういう人たちが集まってトレーニングしているから人を尊重したり、人に何かを譲ることができる秩序のあるコミュニティとして活動できるのだろう。秩序は体育会のようにあいさつしろとか命令してできるものではなくひとりびとりその集まった人によって生まれ形成するものだ、私はいつもジムにどういう人たちが来てトレーニングしていることがジムを運営する上では最も重要なことだと言っているのはまさにその集まった人たちがジムの雰囲気をつくり秩序をつくるからである。
けがをしたりさせたりすることが格闘技では当たり前だと思っている人間、武勇伝ややんちゃ自慢、奇抜なことを言ったりしたりして目立ちたがろうとする、たいした経験値もないのに人に逆らうことがかっこいいことだと勘違いしている人間、私はそういう人間をひっくりめてDQNと呼んでいるが、そういう人たちはジムを運営していく上でははっきり言って害になる、頼むからこないでくれというのが私の本音である。


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ジムは昇華させる場所ではない、抑制する場である。

2021-04-04 | Weblog
知的レベルがひくい人間が集まるスポーツ集団は見るからに半グレの集団だ、特に格闘技はそういう人間を集めやすいので注意して管理することは大事なことである。ボクシングは暴力を扱うスポーツである、私が暴力はダメだと言うことを繰り返し繰り返しブログや日記などで伝えているのは、まわりがそのことを認識しないと平和にジムを運営できないと考えているからである。
学生の時聞いた話であるが、ある少数民族の12歳になった時にうける儀式のようなものがある、それはお互い同じ年の子供同士で数秒間なぐり合いをさせると言う儀式である。この儀式は数秒経ったらすぐに止められて握手をして仲直りのようなことをさせられるのだが、ねらいはその数秒間の間で相手にむかっていく勇気とかっときても自分をおさえることができる抑制を養うためらしい。一見それは原始的で野蛮であるが、しかしこれは秩序を守るためにはある意味大事なことである。
うちのクラブでは暴力に対しては徹底排除している。マスボクシングで一発もらうとカーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていったり、実力差があるのにかかってこい的な実戦練習、さらに生意気な人間はリングにあげてたたきのめしてわからせるというような行為はすべて暴力、決して容認しないのがうちの方針である。この暴力に対する考え方があまいとその群れは不平等になる。
いくらあいさつや礼儀だと言っても、暴力に対する抑制をもたないとジムでは必ず力関係のようなものが生れて不公平が生じる、私の意見ではこのような暴力をどうとらえるかと言うのは教育の問題だ、わかりやすく言うと学校でもレベルがひくければひくい程、秩序がめちゃくちゃになっていく、逆にレベルが上がれば秩序が守られるのはそういう学校では校則や親の教育で抑制することを教えられるからだ。管理者の教育レベルがひくいとまわりに同じようなレベルの人間が集まって、その群れはサル山のようになって、目立つものや力のある人間が中心になり、その他の人たちは肩身の狭い思いをする、一応自分たちは礼儀正しく秩序がありますよとあいさつを徹底させても、しかしそういう場でのあいさつなんていうのはただのパフォーマンスである。
私はジムを運営するにあたって、その来てくれている会員の家族のことまで考えて運営しなくてはいけないと思っている。ここに来てくれている人たちの中には家族の協力があるからこそ時間をつくってボクシングを続けられる人も少なくはないし、未成年の親であれば格闘技のジムに通わせる不安もあるだろう。ケガをしないさせない、試合に出たり、目立つ人間が中心になって、それ以外は遠慮する言った不平等が生じることなく、家族の人がここに来てトレーニングの様子を見ても安心してまかせられるような雰囲気としっかりした哲学を持って運営し、ジムが平和で平等であるために徹底して暴力を容認しない、それがうちのクラブの方針である。
はっきり言うがボクシングクラブは昇華させる場所ではない、抑制することを養う場である、立場の弱い人のことを顧みれない、ただ強くなりたいと言うだけの人間はここではボクシングはできない。



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私が警戒する人間

2021-04-03 | Weblog
あたかも正しいことを言っているようだが、しかし結果的に言っていることはでたらめか嘘、こういう人間は信用出来ないと言ったが、この手のタイプはわけのわからない理屈をこねて人を丸め込もうとするが、こういう人間に限って実は自分は賢いと思っているから面倒くさい。自分中心で自己顕示欲が強く能力もないのに和の中心になって仕切りたがる、そういう人間は時々お目にかかるが、もともと能力がないから話を誇張したり、でたらめを言って人の関心を引いたり、丸め込んで自分のペースにひきずりこもうとするのだ。まあまわりに集まってくる人間を見たらその程度は理解できるが、賢い人は相手にしない、こういうタイプの人間は人間関係のトラブルをおこすし、まじめに生きている人たちの害になりかねないので、コミュニティのことを考えたら摘むことも必要だ。

人を知っていると言うことが偉いことだと思っているDQN、人の名前を出せば彼は知っている誰々の連れだとか、顔が広いと言うことをアピールする、その手のタイプの人間は知り合いが多いことがひとつのステータスのようだが、そういうことでつながってるような人間は大まかに言って社会ではさほど役に立たない、逆に知り合いになれば面倒くさいこともあるが、藪蛇をつつくということもあるので、もし知っていても黙っている方が懸命なこともある。




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