私が違うよと思う人たちは、ジムは公共の場であるからみんなが公平に扱われ平等でなければいけないと公言したら。いやいや自分たちは何の問題もなく、ジムやクラブでは自由に平等にやらせてもらっていると即座に答える人たちだ。おそらくそういう人たちは競技者か、取り巻き見たいな連中だと思うが、でもよく考えてみてほしい、多くの人間はジムは平等だと言われたら、まわりの状況を考えてはたしてそうだろうかとまず考えてみるのが普通である。おそらくうちのクラブの人間はそういうことは安易には言わないだろう。そう言われて何も考えずに自分たちは自由にやらせてもらっているだから平等だなんて言う人間は、まわりをみないで自分たちだけが満足しているだけ、こういう連中は今度は自分が満足できないと不満分子になることは間違いない、こういう人たちは自分たちの満足度=ジムの評価で、おそらくこういう人たちがトレーニングを優遇されて、リングを牛耳っているのだろうと思う。ミットうちや実戦練習を十分にさせてもらって、自由にやらせてもらってます、ボクシングは楽しいですと言う一方で、ミットはたまにしか持ってもらえない、あまり教えてもらえない、実戦練習は試合に出る人間が優先でたまの機会にしかできない、ミットを持ってもらいたかったり、マスがしたかったら、競技者のいない時間に行くと言うことが求められるならば、例えそういう奴らの結束がかたく、そいつらだけが充実したトレーニングができてもそのコミュニティは平等ではないと言えるだろう。
アホが集まって自分たちだけが盛り上がって喜んでいるコミュニティの構図はレイシズムに似ている。ロビン・ディアンジェロによるとレイシズムは個人主義や実力主義と言うイディオロギー、メディアによって繰り返される非白人に対する狭い視点、学校や地域社会における人種的隔離、人種差別的なジョーク、警告、人種についてオープンに話すことのタブー化、白人同士の結束といったことがその社会的な力になってその中で起こる問題らしい。いわばレイシズムは「自分は差別しない」「俺は平等にあつかっている」と言う個人化された問題ではなくて構造主義的な理解をすることが必要なのだろうということであるが、まさにスポーツのコミュニティで起こる差別も同じである。競技者優先は競技者するものがボクシングを本当に競技していると信じられ、彼ら彼女らは大事なトレーニングをしているのだと扱われる、ジムでの関係をあらわす力が働いているという点ではレイシズムを生み出す構造と同じである。
私はジムで起こりうる差別について考えるようにしている。性別や年齢はもちろんのこと目的、そういったことも含めてどういう場合に不平等が生じるかと言うことを考えてみなさんが平等にトレーニングできるように考えている。そして最も大事なことはジムでは力の関係をつくってはいけないと言うことである。
差別問題はともすれば被害妄想的になる、権利を主張するための道具になったり、俺は何々だと言えば権利がまかり通るようなそういうめちゃくちゃなことにもなりかねないのでそうならないように「愛」であるとか「ゆるし」であるとか宗教的な考え方も大事であると思う。
参考文献
「ホワイトフラジリティ」 ロビン・ディアンジェロ