脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ジムのヒエラルキーとレイシズムの関係

2021-06-27 | Weblog
私が違うよと思う人たちは、ジムは公共の場であるからみんなが公平に扱われ平等でなければいけないと公言したら。いやいや自分たちは何の問題もなく、ジムやクラブでは自由に平等にやらせてもらっていると即座に答える人たちだ。おそらくそういう人たちは競技者か、取り巻き見たいな連中だと思うが、でもよく考えてみてほしい、多くの人間はジムは平等だと言われたら、まわりの状況を考えてはたしてそうだろうかとまず考えてみるのが普通である。おそらくうちのクラブの人間はそういうことは安易には言わないだろう。そう言われて何も考えずに自分たちは自由にやらせてもらっているだから平等だなんて言う人間は、まわりをみないで自分たちだけが満足しているだけ、こういう連中は今度は自分が満足できないと不満分子になることは間違いない、こういう人たちは自分たちの満足度=ジムの評価で、おそらくこういう人たちがトレーニングを優遇されて、リングを牛耳っているのだろうと思う。ミットうちや実戦練習を十分にさせてもらって、自由にやらせてもらってます、ボクシングは楽しいですと言う一方で、ミットはたまにしか持ってもらえない、あまり教えてもらえない、実戦練習は試合に出る人間が優先でたまの機会にしかできない、ミットを持ってもらいたかったり、マスがしたかったら、競技者のいない時間に行くと言うことが求められるならば、例えそういう奴らの結束がかたく、そいつらだけが充実したトレーニングができてもそのコミュニティは平等ではないと言えるだろう。

アホが集まって自分たちだけが盛り上がって喜んでいるコミュニティの構図はレイシズムに似ている。ロビン・ディアンジェロによるとレイシズムは個人主義や実力主義と言うイディオロギー、メディアによって繰り返される非白人に対する狭い視点、学校や地域社会における人種的隔離、人種差別的なジョーク、警告、人種についてオープンに話すことのタブー化、白人同士の結束といったことがその社会的な力になってその中で起こる問題らしい。いわばレイシズムは「自分は差別しない」「俺は平等にあつかっている」と言う個人化された問題ではなくて構造主義的な理解をすることが必要なのだろうということであるが、まさにスポーツのコミュニティで起こる差別も同じである。競技者優先は競技者するものがボクシングを本当に競技していると信じられ、彼ら彼女らは大事なトレーニングをしているのだと扱われる、ジムでの関係をあらわす力が働いているという点ではレイシズムを生み出す構造と同じである。
私はジムで起こりうる差別について考えるようにしている。性別や年齢はもちろんのこと目的、そういったことも含めてどういう場合に不平等が生じるかと言うことを考えてみなさんが平等にトレーニングできるように考えている。そして最も大事なことはジムでは力の関係をつくってはいけないと言うことである。

差別問題はともすれば被害妄想的になる、権利を主張するための道具になったり、俺は何々だと言えば権利がまかり通るようなそういうめちゃくちゃなことにもなりかねないのでそうならないように「愛」であるとか「ゆるし」であるとか宗教的な考え方も大事であると思う。

参考文献
「ホワイトフラジリティ」 ロビン・ディアンジェロ



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俺は弱い、でもなぐさめられる必要はない。

2021-06-25 | Weblog
「勉強でもスポーツでもそうだが、一生懸命やればやるほど自分の小ささがわかる、まずはそこから」

私の経験と理解では学問でもボクシングでもまず自分の小ささを知らなくては上達しない、絶えず虚勢をはっている人間には理解できないだろうが、私もジムに入った時はまわりの人間を見て「リズムが違う、こりゃああかんわ」と思ったが、実際にスパーをしてまったく相手にならない私は悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら、そこで声をかけてくれたのがジョージタナベである。ジョージについては何回もブログにて紹介しているのであえて言及はしないが、彼とのは私にとって大きい出会いであったと思う。まあ正直たいした実績を残したわけではないが、でもそこからこれではいかんと常に上を目指してトレーニングに励んだことは確かなことで、小さな島でのメダルではあるが、才能がない私が獲得できたのも自分の弱さを実感し、これではいかんと頑張ったからだと思う。そしてそこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や弱さ、小ささを知る、そしてさらにそこから新しい目標に向かって努力をする、競技を続けると言うことはまさにそういうことの繰り返しであろう。
しかしそれでも人間は自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時がある。それが引退するということだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。私は本当に向こうでは小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかった。そういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。それは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。私はボクシングを競技して、ひとつのことを教えてもらった、それは謙遜するということだ。たかだかボクシングができるぐらいで偉そうにしたり、教えてやると言う態度で接しない、ダイエットや健康維持の人たちの目標を心から尊重し、応援できるのは自分がたいした人間ではない、小さい人間であると言うことを知っている、でもそういう人間だからこそ努力することの大切さを知っているからだ。
 
虚勢を張って生きている人間は、とにかくでかいことを言う「俺は絶対勝つとか、優勝するとか、あんな奴はたいしたことがない」とか散々なことを言って負けても同じことを繰り返す、そしていつの間にか消えている、こういうアホはどこにでもいると思うが、正直こういう輩にスポーツをする資格はないと私は思っている。


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Principleを持て

2021-06-23 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

うちのクラブは中高生の運動クラブのような稚拙なルールは存在しない、だがここには大人が集まっているので、一般社会のルールが存在する。だから一般の社会人にとってはトレーニングしやすくいごこちのいいところであろうが、アウトローややんちゃですの人間にはかなりいづらい場所であると言ってもいいだろう。私はそういう類の人間には言わないことがある。それは彼ら彼女らが迷惑なことしたり的外れなことをした時に「次からは気をつけろ」と言うことである。そういう人間にはもともと基準やプリンシプルなどない、あいさつと敬語もどきの会話ができて、親玉とうまくやっていたらOKぐらいの感覚しかないので、次から気をつけてくれと言っても無駄、もともとそういう常識など持ち合わせていないのだから、ここは自分たちの常識は違うと思わせる方が懸命だ、だからこの人は違う、自分たちの常識とは違うと思わせるために、なぐられようが思い切り否定するようにしている。

私の知り合いの外国人たちは基本的にHoyoungまたは、キムさんと言う、だから私は彼ら彼女たちからしたら外国人枠に入るのだろう。この前もいつの間にか俺たち、weのカテゴリーに認定されたが、彼ら彼女らにはうけがいい、初対面で紹介されると、インテリで地位の高いポジションだと勘違いされることもある。いやいや普通の人だよ、何でそう思ったのと聞いたら、自信をもって堂々と話すからと言っていたが、特にアジア人はできるなら仕事を一緒にしたいと言う人もいて、私は彼ら彼女らから見て高評価である。

私は人から見たら自信を持っている人と映るようである。がしかし絶対そんなことはない、それは自信があるように見えるだけで、実際はチキンで、自信など持っていない、普通のおっさんで、そう見えるだけである。
しかし自信があるように見えると言っても虚勢をはったり、俺に任せろとか大ぶろしきを広げるたりはしない、がしかしもしそのように見えるとしたら、それは私にはプリンシプルがあってそのことを基準にして物事を判断したり、行動したりするからであろうと思う。
管理者であるならば、プリンシプルを持つことは必要なことだ。ジムも人間が集まる群れであるから、どのように考えてどう行動することがその群れにとって正しく、秩序を守るものであるかと言うことをまわりが理解していないとその群れの秩序は乱れてくるだろう。前にも言ったが人の顔色を見たり、一部の人間や自分だけの都合を考えるのではなく、性別や、年齢、そして、国籍や社会的立場、そしてその人のもつ学歴などをよく考えて、ジムにとってどのように考えて行動することが正しいことで、全体の益となるのかと言うことを考えることが重要で、私はロールズの無知のベールを参考にしているが、管理者は「俺はこう思う」と狭い考え方に固執するのではなく、その行動や考え方がその群れ全体の益となるように深く考えることが必要であると思っている。
だから哲学を学ぶと言うことは自分の考えを広げる意味では必要なことだ、哲学書を深く読み込めば自分の考え方がいかに浅いかということをい思い知らされることもある、それは自分よりもレベルの高い人たちと話すこともそうであるが、自分の考え方などちっぽけなものだから、成長するためにはいろいろな知識や経験を経て、それが一度バラバラにされて、そしてさらに再構築されていく作業が必要であり、スポーツ指導者であるならば、そういう考察ができないと群れを平等に正しく管理し、おさめていくことはできないと考えている。
それは哲学だけではなく、宗教学や社会学、そして心理学の本を読むこともそうである。しかしやるからには薄っぺらい誰でも読めるようなものではなく、2,3ページ読むのにも最初は一時間かかるぐらいのものを読んで大いに葛藤することが大事なことで、こういう作業をしないとその考え方や考察が薄っぺらくなる、基本的にスポーツしかできない人間は本を読むセンスがない、リーダーとしての条件とか自己啓発本はベタで稚拙、笑ってしまうが、そういうことを群れに役立てるとしたらそれは新興宗教の類である。





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작은세종 

2021-06-19 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

この前年配の会員の方に「練習生と言う呼び方はどうですか?」聞いてみた。「ここで練習しているから私はそれでもかまいませんよ」と謙遜されていたが、しかし年配の人を練習生扱いすることはいささか失礼のように思える。私は言葉をいくつかの言葉に置き換えれるので、引っかかる言葉は他言語に置き換えて考える習性がある。練習生は英語では「trainee」これは新しいスキルを学ぶための日本語で言うところの見習いのことである。traineeは企業で使われる言葉であるが、企業の概念の基本となっているのがクラウゼビッツの「戦争論である。戦術と戦略をわけて考えるクラウゼビッツの思想は今日の企業の組織のベースとなっているのだが、企業で使われる用語はクラウゼビッツの戦争論と言う哲学の影響が大きく、企業で使われる多くの専門用語や考え方はは彼の組織論によるものである。だからtraineeもどちらかというとそこで働く人を企業戦士とみたてた言葉であろう。うちのクラブに来ている人はほぼ100%と言っていいほど趣味でボクシングをしている人たちである、そういう人たちを練習生などと見習いともとれるような言葉でひとくくりにするのはよくない、私個人的には練習生と言う言葉は絶対に使わないようにしている。
しかしそう言ったらお前たちは会員にあだなをつけてるじゃないかと言う人もいるだろうが、しかしあだ名はその人個人と向き合って、親しみから出てきた言葉だ、ひとくくりに練習生などと呼ぶのとはわけが違う。

私個人の感想としてはボクシング用語は品がない、どちらかと言えば下品である。しきたり的なこともそうだが、用語もおそらく元をただせばヤクザ用語ではないかと思われるものもあるが、サンドバッグって一体何、ラスト30とか永遠にやっとれと言う感じだが、基本的に言葉を大事に扱わないと組織はダメになっていくと言うのは私の考え、国語力を磨いて、ジムではなるべく正しい言葉を使う、そしてある程度の知的レベルで会話ができる、そういう努力がジムの雰囲気をよくするものだと私は思っているし、実際にそうなっていることは事実である。
少ないボキャブラリーで教養が乏しい人間がベラベラと得意がって、武勇伝などを自慢げに語りだす、まわりが自分たちよりもできる人たちであればあるほど、負けたくないとわけのわからない闘争心を出してマウントをとろうとする。そういう人間に限って声がでかいので、まわりが圧倒されてそういう話しや雰囲気を受け入れてしまう。そういう人間が集まると一般の人がそこで練習しにくくなる。ジムには多少言葉を選ばないといけないと言う雰囲気がなければジムの秩序が健全にたもたれることはない。正しい日本語を話す、多少知的な会話ができる、これらのことは群れを正しくおさめる上では非常に大事で、不可欠なことだと思っている。

私はいろいろな文化を吸収しているのだが、基本的に政治の在り方は韓国人に近い、韓国人の後輩に尊敬の念を込めて?小セジョンと言われるが、私はセジョンみたいなところがあって容赦がない、しかしそれは会員の人たちが平等でかつ安全にトレーニングしてもらうためである。

戦争論を多少掘り下げて読むために参考として
「クラウゼヴィッツの戦略思考戦争論に学ぶリーダーシップと決断の本質」

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私は人から見て自信があるように見えるが、そうではない、しかし基準はある。

2021-06-15 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

最近ふたたび見学の人が増えて来たので、うちはどういうコミュニティをめざしているかということを説明したいと思う。
コミュニティを健全な場とするためには、そこにどういう人たちが集まって来るかが問題である、そのためよく人間を観察することは大事なことである。この人間観察に関しては人によくよく見てますね、時にはえげつないわと言う人もいる。しかし私が人やコミュニティを観察しているのは単なる批判的な好奇心のようなものではなく、自分なりに基準を持って人を判断し、みなさんに喜ばれるようなボクシングクラブにしようとしている、それゆえの観察である。

そして私は人を観察する時、基準を持って考察していることは確かである。よく直感的なことで得意がってあたかもそれがわかったのようにベラベラと語りだす人間もいるが、しかし私はどういう人間がコミュニティに入って来たら問題がおこるとか、迷惑がかかるとか、直観でこうと決めるのではなく、ある種の基準があってその基準を持ってこうだと判断している部分もあるが、おそらくそういう判断がまわりからみて自信を持っていると思われるのだろう。
ジムと言うのはある意味公共の場であるから、そこにどういう人たちが集まってくるかはジムの質につながる大きなissueである。この前も言ったが私が重要視しているのはカントによる意思を持った人、人がどうとか、親玉の顔色を見て善悪を判断するのではなく、もともとしてはいけないこと、そして迷惑がかかることはしないと言うセンスを持った人たちが集まるジムを形成することだ。正直人間はそこまで完璧ではないが、しかし親との関係や教育によって多少なりともそういうセンスを持った人たち(所謂一般的にまじめに生きている人たちのことだろうが)そういう人たちが集まることでジムの秩序はよく保たれていくと言うのが私の考え方である。

モラルに関しても規則や法律に関してもちょっとぐらいだったらいいだろうという、常に灰色の世界で生きている人間を私はDQNと呼んでいるが、こういう奴らが集まると群れの秩序はくずれはじめる。ジムでもけがをさせたり、したりするのが当たり前、やんちゃばなしや武勇伝を特別な経験だと吹聴する、実力差があるのにいいところを見せるためにぼこぼこにしたり、かかってこい的なトレーニングをする、そういうことをする人間が跋扈するとジムにはサル山のような力関係ができてまともな人間が肩身の狭い思いをする、そういう群れにならないために、よく人間を観察し、来てはいけない奴を入会させない、そしてそういう芽が出たらすぐに摘み取る、それが私の一番重要な仕事であると思っている。
私はここに来ている人たちすべてが、できることすべてにトライしてもらいたいと思っている。そういう中で自分たちが目立つことしか考えていないようなDQNが来たら、こういう奴らはすぐに仲間をつくって群れるのでまわりがこわがって実戦練習などできない、躊躇してしまうだろう。
はっきり言うがうちのクラブはDQNややんちゃですのために開かれたジムではない。まじめに生きている女性や社会人の人がここで心から楽しんでもらって、ストレスを発散してもらいたい、そういう目的で運営させているボクシングフィットネスクラブである。


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汝偽証してはならない

2021-06-10 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

最近格闘家が言ったやられたらやりかえせみたいな発言が物議を醸しだしている。実際にやられたらやりかえすぐらい強くなるために努力しろと言うような意見は、格闘技やスポーツの範囲でしか物事を理解しようとしない格闘技をしている人にありがちなテンプレのような意見だ。
うちのクラブはフィットネスなので女性や健康維持が大多数を占める、ボクシングに興味がない人もいるし、格闘技のことはよくわからない、痩せるために来たと言う人たちもいて、そういった人の中には本能的に人をなぐれない人間はいることは確かだ。基本的に格闘技には向いていないと言う人間は存在する。そういう人間に向かって行けとかやられたらやりかえせとボクシングなどの格闘技をさせるのは苦痛以外の何物でもない、そういうことを無理にさせたら性格がゆがんでくる、実際そういう人間はまれに存在するが、もともと気が優しくて、おとなしい人間に、むかっていけとかやられたらやり返せと言うのは精神的苦痛、虐待に等しいこと、私はそういう人間に格闘技をむりにさせて強くなれと言うようなことを強いることはセカンドいじめだと思っている。

暴力をふるうような奴はデリカシーがない、想像力がないからやられたらやり返せみたいな発想しかもてないのだが、そういう理論で言うと、外国のスラム街のようなところでは銃で撃たれたら撃ち返せ、そのためには銃を持てなんて言うことは正しいことになる。極論のように聞こえるがしかし暴力をふるわれたら、やりかえせ、だから相手をなぐり返すぐらいの力を持てと言うことはそれと同じことだ。基本暴力はいけないことである、それは言葉の暴力もそうであるが、暴力をふるう人間を見逃さない、ゆるさないというのが正しいことで、そういう意識をしっかりとまわりがもつこと、だからいじめは本人ではなくまわりで解決していくものだと思っている。

ルソーは子供を高貴な蛮族と言ったが、いじめがおこるのもこの子供の残虐性ゆえである。しかし子供は教育のありかたでかえていくことができる。バイブルの10コマンドメンツには「汝偽証してはならない」と言う言葉がある。これはBCの時代の裁判では人の証言は極めて重要で、その真意は偽証と言うことをこえて「知っていることはすべて話せ」ということである。いじめや暴力もそうだ、見て見ぬふりをしたり、関わらないと言うことは、この古代法においては偽証することと同じこと、何々するなではなく、積極的にいじめや暴力に対しても、その暴力が生み出す悲惨を知り、それをゆるしてはいけない、自分たちはどうすべきなのかと言うことをしっかりと考えさせることは大事なことだと思う。

そして私が提案したいのはドネイションである。そういうことを学校などで取り組んでみてはいかがであろうか。うちでは暴力や性暴力、そして教育の権利を奪われたり、迫害されている国のおもに女性や子供を支援するために毎月いくらかドネイションさせてもらっているが、そういう国では暴力や性暴力が当たり前のように行われている。学校に行きたいのに学校に行けない、貧しさゆえに売られていってそこでむごい仕打ちをうけると言った、実際に筆舌につくしがたい日本では考えられないことが起こっているのだが、私は多少なりともこういう痛みを知り共有することは大事なことだと思っている。いじめたり暴力をふるうような奴は想像力が乏しいと言ったが、こういう現実を知り、そして痛みを少しでも共有することで暴力はいけないことだということを多少なりとも理解させられる、そして何よりもまわりの意識がかわるだろう。

ボクシングは暴力を扱うスポーツだ、だからこそジムでは暴力的な行為は徹底排除しなくてはならない。うちでは格闘技ではマイノリティである女性をプライオリティだ、そういうマイノリティを大事にすることが平等につながることだと思っている。

Reference 
William Barclay  ”The Ten Commandments” 

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React quickly first!

2021-06-08 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

最近動画などでボクシングが見れるようになったおかげでトレーニングの効率がよくなってきた、実際うちのクラブでもグループラインでその日のマスやミットうちなど動画にあげているが、そこにはかなりの人数が参加して動画を閲覧しているようである。
確かに動画が普及してきたのはいいことであるが、しかしその一方で動画で見る世界ゆえに理想を追い求めて、考えすぎて進歩をとめている懸念もある。
私の意見ではボクシングはさほど頭を使うスポーツではない。ボクシングのように0.でうったりよけたりするスポーツは反応することが大事で、まずは反応ありきである。最初からいちいち考えていたらその0.でくるパンチに反応できないし、パンチをうつのも相手はロボットではないのだから、その予測不可能な動きに対してパンチをうってあてていくことはできないであろう。

はじめに断っておくが、私は自己主張が強かったことは確かである、そのおかげで現役時代は病気だと思える発言をしたものだ、その私がジムで自分のボクシングの経験の話をしないのはこういう話しにひがついて、けんかとかやんちゃ自慢になって、そういう奴らの居場所になってはいけない、まじめにジムでトレーニングしている人たちが不快な思いをしないようにである。
私は現役時代どういうコンビネーションでミットをうったかおぼえていない。おそらく何千ラウンドとたたいたように思えるが、それでも自分がどういうコンビネーションでミットをうっていたかということはまったくおぼえていない、ただアレンのミットの動きに合わせて言われたコンビネーションをうっていたような気がする。何も考えてはいないのだ。さらに試合もそうである、試合前もベラベラベラベラとしゃべっていたtalk too muchな奴を見て、永遠に黙らしてやるとかそういうアホなことを思っていたもので、とにかく相手をたたきのめしてやろうとそういうことばかり考えていたと思う。しかしそれでも経験を積んで次第にうまくなって余裕がでてきたら、今度は戦略を考えて挑むようになる。何が言いたいのかと言うとボクシングは考えすぎてはダメまず相手の動きに反応する、そして余裕できてはじめてその戦略が見えてくるということである。

今動画などでボクシングが研究できるので技術面などは格段とうまくなってきた、正直私がはじめた頃とは比べ物にはならないほど、上手な人たちもいることは確かである。でも自慢させてもらうと、センスはあっても私と同じ質のパンチはうてないだろう、なぜなら私はそれをただひたすら実践してきたからである。うまくなることと強くなることは少し違う、そして動画で見るのと実際にそれを実践することも違う、それはその人の個性や特性もあるのだが、それがその人にできるとかできない、あっているかあっていないかは別、ルソーは「自然にかえれ(使い方は違うが)」と言ったが、ボクシングは本能のスポーツだ、考えすぎない、考えすぎて修行するのではなく、まず思い切りストレスを発散するために動くことが懸命な競技の取り組み方、そしてそうやってやっていくうちに自然とそれが自分のスタイルになっていく。
うちに来る人たちはほとんどが健康維持、かたち重視でそれなりにボクシングを楽しんでくれたらいい、しかし考えすぎると進歩をさまたげてしまう、修行しない、気軽に楽しく気の向くままにトレーニングする、うちには名トレーナーがたくさんいるのでそうやっていく中で自然とボクシングは上達するであろう。


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Aura アウラ

2021-06-07 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

よくニュースなどで凶悪犯罪をおかした人間が護送車から降りてくるシーンを私はよく観察している。どこを見ているのかと言うと歩き方、歩き方にも存在感を出そうとしているのか、性格的なことが自然とそういう歩き方にさせているのかはわからないが、サンダルをひきずって独特のサウンドで歩いている。実際に音などは聞こえてはいないが、足の運びでその足音がなんとなくわかるが、それは普通の人と明らかに違う。実際そういう足音の人間が来たと思うとほぼ高確率でひとくせもふたくせもあるようなDQNである。
よくあの人にはオーラを感じるとか、最近では占い師のたぐいがオーラが見えるとか言う。ラテン語読みでアウラ(オーラ)はベンヤミンによると目に見えない人を引き付ける力のことを言うが、広義にとらえたらその人が醸し出している独特の雰囲気もそうである。ひとくせもふたくせもある人間は歩き方が違うと言ったが実際にそういう人間は雰囲気が違うことは確かだ。人は見た目で判断するなと言うが、しかし私は見た目もそうだが、その人のアウラと歩き方などの行動で判断できると思う。おそらくそれが占い師のようなたぐいの人間が持っているような観察力であったり行動学だと思うのだが、たぶん占いとか言うのもそういう観察力と経験で人のことを言いあてるのであろう。いつも言っているがジムでいろいろ人たちを管理し、それが健全で安心できる場とするためにはたえずどういう人たちがそこに集うのかと言うことを問題にして観察力を養うことは大事なことだ。
でも実はそんなことを言っても私もDQNとは違うが独特なアウラがある、事実そっちけいの学者が特殊な人と言い、友人の精神科医は高知能犯罪者っぽいと冗談で言っていたが、私は基本やばいやつ、弱い人間だ、それをよく理解しているから人を選ぶ、まじめに生きている人たちとかかわることで、自分がまともに生きることができる、そう思ったから哲学や宗教学を必死で学んだことは確かである。

雰囲気で言うと、メガネをかけた時に品のなさがあらわれるやつ。普通めがねをかけたら、多少はインテリに見えるが、しかしこれがどっからどう見ても詐欺師にしか見えない。中には印象をよくするためにメガネをかけるが、しかしこれがかえってうさんくさい。

フランス語でオーラはオラに近い発音だ、だからオラオラ系の雰囲気を出す人間のオーラはそのままオラである。

参考文献
ベンヤミン「複製技術時代の芸術」


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Was kann ich wissen? Was soll ich tun? 私は何を知ることができるか、何をすることができるか?

2021-06-04 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」これはカントの認識論であるが、一見何を言っているのかわからない、もっとわかりやすく言えと言う人もいるだろうが、カントは非常に理屈っぽいまじめな哲学者である。私は専門的にやったわけではないが、カントによれば人間はただ五感に入ってくるものを自動的に受け入れて、それを認識するのではなく、それがそれとしてあらわれるためにはその対象が人間と言うフィルターを通して理解され、はじめてそれがそこに現れる。例えば爆弾があるとする。この爆弾は視覚、聴覚、そして体験してきたことに基づいてこれが爆弾と認識し、そこに爆弾が存在する、すなわち人がこれが爆弾だと五感や経験で認識できるからこそ爆弾はそこに存在するわけで、人間がそこにそれがあると認識することで対象は唯一存在できると言うことだ。
そしてそれとは別に意志が存在する。意志はその認識した対象をどう扱うかということを問題にしている。例えば爆弾は五感で認識できる範囲としては共通の事柄だ、しかし爆弾は爆発させるために使うものだと考えて使うのと、爆弾は危ないものだから爆発させてなならないと考えるのでは大きな違いがあって、この世界を住みやすくするためにはそれをどう正しく扱うかと言う意思を持つのが我々の課題である。意志は条件に関係なく「~ならば~すべき」の仮言命法ではなく、誰にでも当てはまる定言命法「~すべき」に基づく意志によるものだ、そしてその正しい共通理解によって行動することで平和な世界を実現させていく、そしてその意志を育てるのは教育の問題である。

前に何々するなとか何々しろと言うルールをもうけるような集団はそれ以外ではモラルがひくいと言ったことがある。うちのクラブは体育会のようなルールはないし、そういう小学生でも理解できるルールで動く人間もいない、それでも秩序が整っているのは、みなさんがやっていいこととわるいことの基準を人に言われなくてもきちんと持っているからだ。ジムでありがちななまいきな人間をスパーリングでボコボコにしたり、カーッときて敵意むき出しでなぐりかかっていく、いいところを見せようとして自分よりも実力のない人間をいたぶるようなスパーリング、裸でトレーニングするのもそうだが、そういうことは絶対におこらない、なぜならこういうことは決してやってはいけない暴力であると言う認識が会員のひとひとりびとりの中にあるからだ。
何々しろとか何々するなあるいは自分よりも立場が上の人間の顔色を見て行動するような人間が集まるとでたらめなことがおこる、どういうでたらめなことかというのは想像におまかせするが、そういう人間が集まるとその集団がサル化するということである。

正直教育は大事だ、その集団が教育的であるのとないのでは大きな差がある。筋肉をつけて、威嚇したような恰好で、意味もない武勇伝をはいてアドバンテージをとろうとする。ユダヤに「からのツボほど大きな音がする」ということわざがあるが、いくら外見を強く見せても中身が空っぽではチンピラやDQNはついていけても一般の社会人はついていけない。
ウィトゲンシュタインによれば、言葉によって表現できる世界が我々の世界である。そして言葉の理解も人それぞれで、人間は言葉理解の共有できる範囲で群れをつくる、単純に言えば言葉がつたないと同じようなレベルの人間しか集まってこない、ジムのような公共の場に一般の人が来やすくするためには、言葉をまともに理解して話せと言うことである。
社会には言葉の格と言うものがある。これはその人のインテリジェンスや学歴などによって付随するものだが言葉はその人の格あるいは、品格をあらわすものである。インテリジェンスの高い人にボキャブラリーもひくい、言葉もつたない人間がまともに会話できるはずがない、管理者が言葉をしっかりと選んで使って群れを管理していくことは、一般の社会人たちにも来やすい、同じレベルで集まってくる特定な人間を集めない、平和で平等なコミュニティを形成する上では不可欠な事柄で、それは教育的な事柄でもあるだろう。
前も言ったがうちのクラブの人たちは学校生活をまじめに送ってきた人たちである、みなさんやっていいことととわるいことの基準がしっかりしているので群れを管理しやすいことは確かなことだ。マスク着用に関しても説明してお願いしたら全員がその通りにマスクを着用してトレーニングしてくれたのだが、こういった秩序は彼ら彼女らの学校生活とは無関係ではないだろう。
私の意見では学校生活を経験することは社会で生活していく上では大きなアドバンテージだ、学校がおもしろいとかおもしろくないとか、そういうことは抜きにしたら、学校は社会で生きていく上での訓練となる場であるとも言っていいであろう。うちのクラブはルールはない、すごく自由である。しかし自由だからと言って力の原理がはたらいて、試合に出るとか言う人間がリングを牛耳ったりしない、暴力的なことはおこらない、マスなども安心して見ていられる、でもそれができるのはひとりびとりにまともな善悪の判断があるからで、そういう意味ではうちのクラブは教育的であると言ってもいいだろう。

最後に私が好きなヴィトゲンシュタインの言葉を上げたい、少し本題とはずれるが非常に深い言葉だ。
「良心とは認識の生が保証する幸福のことだ。認識の生とは、世の中の苦しみにもかかわらず幸福であるような生のことだ。世の中の楽しみを断念しうる生のみが幸福なのだ。世の中の楽しみは、この生にとって、たかだか運命の恵みにすぎない。」

参考文献
カント「純粋理性批判」
Ludwig Wittgenstein " Logico-philosophicus"




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