脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

仰々しい憲法の原文

2015-09-28 | Weblog

韓国に行った帰り空港まで向かおうと駅に行ったら軍隊が出動なんと今日はデモがあるからと言うことで戒厳令がしかれたらしい。私はその軍隊の一人に何のデモがあるんだと聞くと銀行員のデモがあると言う。えっ銀行員のデモでここまでやるのかと驚いたが、しかしここは徴兵制があって軍事訓練が年二回もある国だ、それに比べたら日本のデモはおとなしい時ラップやギターを片手に季節外れの花見かとさえ思わせるぐらいだ。安保理法案を通せば憲法9条に違反する。軍事国家になってしまうと不安をいだいての反対意見がマスコミなどでよくとりあげられる。しかしまずそんなことよりも大切なのは国益を考えることではないか。そう考えると日本の国益と言うかプライオリティは中国や北朝鮮の脅威から自分たちを守ることではないのか?日本が常任理事国に入るのは憲法9条に違反すると言う人間も多くいるが、しかし憲法9条ってどういう状況でつくられたか知っているだろうか。もともと日本の憲法は敗戦後に学生によって草案が書かれてそれをなんとか日本語でかたちのあるものにしたが、もともとは憲法学者や政治家がつくったものではないらしい。9条の原文は「article 9Aspring sincerly to an international peace based on justice and order, the japanease people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of setting international dispute.」と言う文であるがこの文は英文で見る限りはかなり違和感がある。特にjapanease forever renounce warのrenounceがもともと断絶するとか放棄すると言う強い意味があるのにあえてforeverをつけたりしているのも何かとってつけたような意図的なものを感じるがこの文章は全体的にかなり仰々しいイメージをうける。この憲法は原文の英文で見る限り平和を謳歌しているというよりも日本は何をされてもやりかえしてはいけないと言う意図的なものさえ感じるがそれは私だけだろうか?第一憲法は時代によって変えられていくものなのにforeverなんておかしいだろ。自分の国を自国で守ることができない憲法なんて意味があるのか?おそらく外国の憲法や法律と言うのはベースにあるのがルソーの社会契約論でそれらの国家の目的は個人の私有財産を守ることであるから敵国が攻めてきた時は当然それに対抗して軍隊を行使する権利を持つことは当然のこととである。私は何も戦争賛成と言っているわけではない。しかしそろそろ武力や汚いやりかたで圧力をかけてくるやり方に対してはそれなりのやり方で対処しなければ日本は国益を守ることはできないというところに来ているのだと思う。

 

 

 

 


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They never mention a topic of the world .

2015-09-28 | Weblog

昨日うちの子が友達に誘われたそうでTOEICってどんなテストだと聞いてきた。たぶん文法は中学では全部を網羅できないので、関係代名詞とか可算不可算などの今習っている基本的なことを完璧にする。聞き取りは年齢的に可能なので点数をかせいで目標は400点ぐらいにしたらどうだと言うアドバイスをした。最近では中学生でもTOEICを受ける時代になった。学校にも結構ハーフの子がいるらしく本人はわかったようにこれからは国際化の時代だと言っていたが、地方の進学校でも増えてきているのだから都会はもっといる。やはりこういったことは英語を話すことバイリンガルと言うのは最近では必須になりつつあると言うことを物語っているのだと思う。たぶんこれから語学は何をするにも必要になってくると思うのだが、語学力を身に着けると言うことはすべてにおいてのセンスを身に着けると言うことでもある。よく子供のお母さんが英語に興味を持たせるにはどうしたらいいのかと聞いてくる。興味を持たせるには今やっているすべてのことが英語につながっていること、そして語学ができるユーモアのある人と関係をつくることだ、そうしたら自然に英語に興味を持つようになるだろう。

アドラー心理学はかかわりと言うものを大事にする。自分がどういう人にかかわりどういう群れに属するのかということは自分の未来を決定するにあたって重要なことであり、私がジムからアウトローくさい人間を排除しているのはそういうかかわりと言う中で見た時に子供や中高生のもろに影響するからである。格闘技をやっている人間は気が小さい人間が多い。人前で話ができない、はっきりと自分の意見が言えない、コンプレックスを持っていてそういうことをひたすらかくすために威嚇したような恰好をしたり、自分は強いんだ言う態度を自分たちの通用する群れの中で誇示しているが内心は臆病である。世界戦の話ができてもその世界で共通語の英語の話ができない、世界で何がおこっているのかということがわからない、世の中の裏技をかしこい知恵だと吹聴したり、漫画やゴシップ雑誌に載っているようなネタを知識だと勘違いしているが、そういう人間は見る人にはわかる。私の観察ではそういう人間は目立ちたがり屋で世界が狭いのでまともな考え方の人たちとは反りが合わない、合わないから同ような人間を集めて固まるのだが、暴走族や成人式で派手な格好で騒いで問題になる人間はまさにそうだ。そういう奴らが来て刑務所仲間をたよるように次々と集まってくるようなクラブにはしたくない。私は子供がここに来ても安心できるむしろ親から信用されるようなクラブづくりをしなければならないのではないかと思っているが、まさにそれは群れの質が問われる問題であって、これからのスポーツクラブも責任者はある程度の知的レベルは必要ではないかと思っている。

アウトローくさい奴らがかたまって理不尽な個性や権利を持つ時代は誰でも開かれたではなく、子供やまじめに生きている人を守るクラブでなければならないと思っている。そういう意味では格闘技はそういう奴らがエラそうにできる場なので、ここでは社会での関係が逆転しないように何が大事かと言うことを徹底している。

 

 

 

 

 

 


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カジマ サラサラサラン

2015-09-26 | Weblog

時々TVなどで見せる灰色企業の研修みたいなやつ。有名講師か何か知らないが社員に罵倒をあびせて鍛えようとするシーンがうつしだされるが、はっきり言ってここまでやれば人権侵害だ、講師は死ぬ気でやれとかそれがお前の精一杯かとか罵声を浴びせていたが、なぜそこまでやらなくてはいけないのか、社会がそういうことを求めすぎるから心の病気を患う人間が出てくるのだ。TVもTVで一方ではそういう社会問題を取り上げて問題視しているのに一方ではそういう人権を無視した研修をあたかも必要なごとく取り上げるのだからたちがわるい。その番組の講師は死ぬ気でやれとか命を懸けろなんて言っていたが、そこまで追い込もうとする気持ちが私には10000パーセント以上わからない。まあまともな人間ならこんなことが正しいことだとは思わないだろうが、しかしこういう研修が行われていることも事実である。

だいぶ前に仕事で行き詰った若い人間が相談に来た。話を聞いていてもあまり釈然としない部分が多く、いったい何を悩んでいるのかと言うことが根本的にはわからない。私はおそらく彼が期待され要求されることが多くて行き詰っているのだなと思ったのでこう言った。「君はすべてのことにおいて全力でやろうとするからつかれるんだ、ところで君は俺が今まで全力で行ったところを見たことがあるか?」それを聞いて彼はキョトンとしていたが「いえ見たことがないです」と返答、そこで彼はあっそうかこの人それでもちゃんと生活して生きているんだと思ってかなり楽になったようである。日本人は一生懸命やることをまず一番に考えるが、しかし大事なことはその人の持っている賜物を生かすことで、自分にはこういう賜物があるのだと言うことを知り、それを生かすことで人間は生きていけるものだ。はっきり言って私自身も今までの人生で何かに命を懸けたことなどないがこうしてちゃんと生活をしている。時にはそれが余裕のように聞こえるだろうが、しかし言いたいことは人の考え方やまわりの評価を気にして生きていても何も見えてはこない、大切なのは自分らしく生きること、もちろん今の時代はもっと真剣にやらなくてはいけない人間もたくさんいるが、ここで私が言っているのはまじめに生きようとして行き詰っている人間にである。あかんだめだと思ったらそれを放棄したらいいだろう。自分がやらなくても良心と言うものがそこに存在するならば誰かが助けてくれる。少し話はややこしくなるが私はその群れや組織が正しく機能すると言うことはお互いの賜物が発揮することだと思っている。彼には彼彼女には彼女の賜物がそれぞれ存在する、その組織のリーダーはニンジンをぶらさげてそこに向かって走らせるのではなく、その賜物を引き出しそれを発揮させることができるような環境づくりが大切である。賜物は生かすものだからその賜物が発揮されることで人間は成長するし、生き生きと自発的にそのことが行えるだろう。そういう環境づくりができたならばその群れは十分力が発揮できる。まあ企業ではなかなか難しいかもしれないが、しかしスポーツクラブはそういう指導が十分にできるところであると信じている。

外国旅行に行ったらわかるが外国人がもっと適当に楽に生きているのに比べて日本人はきっちりしすぎで緊張して生きている。そういうところも少し見習ってみてはどうだろうか。前にあげた私の好きなグループdavichi彼女らの歌は別れの歌が多い、その別れの歌に感情をこめて歌う姿にかなり聞かされるが、一方でその別れの歌を軽快に軽やかに歌う姿は今までにないかたちでそういうところが年齢をこえて支持されているのだろうと思う。カジマサラサラサラン チェバルチェバル カジマ ヌンムルドウソウイ サンチョトウソンイ ネカスムノットケ アパアパアパ カジマ サランア何のことかわからないと思うが、これはサランohサランと言う曲で別れの歌であるが、リズムが軽快なので言葉のわからない日本人はあたかも出会いの歌であると思うであろう。日本人はまじめすぎる気負わずにもっと楽に考えることも大事なことだ。

 

 

 

 


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アシナヨ

2015-09-22 | Weblog

ラグビーが今盛り上がっている。聞くところによると日本のラグビーチームは訳3分の1が外国出身の人間だとか。しかもキャプテンが外国出身で、チームメイトがインタビューで自分たちだけではなく、もっと海外から来ているチームメイトにスポットをあててやってほしいと言ったコメントは相手の気持ちを慮った最良のコメントである。私はあまりラグビーに興味はなかったが、この大会でラグビーって結構グローバルな考えかたができるスポーツなんだと感心したが、スポーツの基本的な精神はまさにそこだと思っている。スポーツと言うのは本来は視野を広げていかなくてはいけないスポーツなのだがしかし一方で村社会ができてしまうのも事実である。根本的にはこのグローバルの時代外国人や戦術などもふくめて外国と比較しなくては見えてこないものもあるのだから、そういうものに対応していくぐらいのレベルを上げることは今のコーチや監督には必要である。今回日本が金星をあげたことは世界でも大きくとりあげられ賞賛されたと思う。がしかし一方日本のベースボールは個人が賞賛されることがあっても日本の野球がそこまで賞賛されることはない、なぜなら日本の野球はベースボールではなく野球と言う狭いカテゴリーにとどまっているからだろう。今や日本には何十万人と言う外国人が生活しているのだから、外国人枠などはずして自由に競技させたらいい、特に野球が狭い考え方だと言っているわけではないが、しかしグローバルな時代で日本にも多くの外国人が生活している中外国人枠をつくると言うことはこの時代を逆行していると思うのだ。

 この前うちの子供に安保案が通って日本が軍隊を持ったら俺は政府からマークされるぞと言ったら本気で不安がっていた。しかしインテリジェンス=情報の時代に他の文化に精通し2つも3つも言葉が理解できる人間をマークしたり収容所送りにすることは政府においてもかなりのディスアドバンテージだ、まさかこの時代に何万人も存在する貴重な人間たちをそうはしないだろうが、アメリカはそういう人間を教育を受けさせたり通訳などにつかってうまく登用している。今や文化や言葉が違うからと言って排除するような時代ではなく大いにそれを利用する時代である。国が違うとか育ってきた環境が違うからと言ってその人間を特別視したり問題視してはいけない。今回日本代表の人間が外国人にももっとスポットをあててやってくれ見たいなことを言ったのは、ひょっとしたら日本人の報道のありかたなどに彼ら彼女らが持つ日本人と外国人のギャップをチームメイトとして彼が感じたかもしれない。話はスポーツの話になるが私は学生のころ向こうでスポーツを競技したわけだが、向こうに行ってえっこんなかわったしきたりみたいなルールが存在するのと言うような経験はなかった。がしかし日本はわるいことをしたわけでもないのに競技をするのに丸坊主とか、そういう何かうけいれがたいようなしきたりというかルールが存在する。日常においてもスポーツをするのになぜそこまでしなくてはならないのかということが結構あるのだが、スポーツって修業じゃなくて遊びだろ、中には何を勘違いしているのかわからないがエラそうに自分が君主のごとくふるまう監督もいるがこういう性質はおそらく日本人の村社会的な一面であると思っている。少し話はややこしくるが私は日本人であると言うことは帰属性の問題でもあるが、しかしその一方で多様性をよく考え理解しなくてはいけない時代に来ていると思っている。

 


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人種よりも宗教

2015-09-21 | Weblog

共和党候補のカーソン氏の発言が物議をかもしている。というのはイスラム教徒は合衆国では大統領になるべきではないと発言しているからだ。カーソン氏はCBNのmeet the pressにおいて「大統領になるには信仰は問題となるか」と言う問いに「合衆国の価値や原則に矛盾するならば問題だ。しかし合衆国の領域におさまり、憲法と一致した信仰ならば問題ない」と述べ、さらに「イスラム教は合衆国憲法に合致するか」との問いに「イスラム教にこの国を任せることは反対だ」と発言した。この彼の発言を聞いて思い出すのがシャルリーエブト事件だ、シャルリーエブトとはイスラム教の預言者を風刺したことがひきがねとなってイスラム教徒から襲撃にあった出版社である。この事件にたいして日本のコメンテーターがやりすぎだ、たかだかイスラム教徒はフランスの7パーセント未満でマイノリティではないかと言うことを言っていた。しかしこの7パーセントを多いととるか少ないととるかは考え次第だとかつて言ったと思うが、この7パーセントは同じ方向に向かう7パーセントで、私は豚肉を食べない、断食をする1日に3回から7回の祈りを捧げるというような行為を日常において固く守っている7パーセントが少ないとは思えないのだ。ミシェルウエルベックと言う小説家の書いた「soumission」と言う小説がある。これは韓国でも翻訳されて話題になった本だが(日本語訳はない)2020年の大統領選で極右主義政党とムスリム政党がのこった結果国民は国が極右になるのをおそれてムスリム政党を支持してしまい、その結果国がイスラム教に支配されると言う問題作である。「soumission」はフランス語で服従と言う意味であるが、これはイスラム教に支配されたらと言う場合の心理的な不安を一言で表現していると思う。イスラムと言うのは他に宗教を認めない、イスラムの攻撃性をあらわした言葉に「クルーアンか剣か(歴史的事実はないが)」と言う言葉があるが、この服従と言う小説はヨーロッパ特にフランスの抱える不安と問題を浮き彫りにしていると思う。

ここからは私の宗教論であるが、イスラムもそうであるが偶像を持たない宗教は強固である。キリスト教でもpresbyterianと言うのがキリスト教の中でも頑固で強固である。もともとフランスのジャンカルバンと言う宗教改革者の流れを思いっきりくんでいるキリスト教の派閥で、彼ら彼女らは徹底して神の主権を語り、偶像を持たない宗教戦争などで領土を広げていった時に偶像を徹底破壊したことは有名であるがカルバン派そういった目に見えるものを排除することで自信の信仰を確立させようとした、だから頑固で強固だと言うこともうなづける。ムスリムも然り偶像を徹底排除し神の主権を問題にし、個人の信仰を確立させている。おまけにキリスト教とは違ってウンマ共同体と言う考え方があって、ウンマと言うのはイスラム共同体と理解していいが、その集合体では2000年前の戒律が絶対化され、信仰が固く守られその信仰にあわせて生活をしている。そしてそれは運命共同体なので規律を守らなければ人間失格ぐらいの目で見られるであろう。豚肉を食べないのはなぜか神が食べるなと言っている、祈るのも神が祈れと言っているからだ、こういう共同体が7パーセント日本にいたらどう考えるべきか。党内でも分裂や裏切りがあるような政党など太刀打ちできない、宗教弾圧は絶対にしてはならないが、その宗教をよく研究しもし台頭して来たら国の機能を改革するか、あるいは規制をかける必要も出てくる。フランスとアメリカの大きな違いはフランスでは宗教は大きな力を持たない持つ人が少なくなっている中こういう強固な宗教が台頭していることで、その脅威が「服従」と言う小説を書かせたのだろう。

 


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Aut disce aut discede

2015-09-18 | Weblog

アメリカの有名大学の校門にかかげているプラトンの言葉「Aut disce ant discede」

クラブを木に例えると根がそのクラブの考え方でその咲く花が会員だ。根が腐っていたらいくらまわりから養分を与えてもいびつな花が咲く、根がしっかりしていないとアウトローくさいような連中や何かたりないような人間がまわりに集まってくる。前にも言ったが私は格闘技用品のセンスが嫌いだ、どういうセンスかと言うと何か威嚇するようなアウトローくさい雰囲気そういう雰囲気がどう考えてもかっこいいとは思えない。最近ここ高知にわりと大きな本屋が2つできた、ある本屋は医学書などの専門書なども置いてあって、そこは一般の客だけではなく医師などの知的階級なども対象にしているようである。ゲームやアニメなどの娯楽も蔓延する日本だが、しかしそれでも学習すること学ぶことの大切さ、もっとダイレクトに言うと学ばないと落ちこぼれると言う学習する意欲を日本人は持っている。スポーツの指導とは言えどその責任者の学歴や教養と言うものが問われる時代になってきたと思う。指導者はある程度教養が求められる。国語力がひくい語学もだめ本も読まないというディスアドヴァンテージは常識理解にもつながる。日本は他の国よりも基礎学力が高く、勤勉であるから勉強熱心であると信じている。専門性の高い本こそ少ないが、しかしまわりを見渡せば知的好奇心をそそるような本が多く存在するのだから、そういう本を読む日本人は教養が高くそういう人間たちを導いていくにはある種の教養が必要である。きついひとことであるがうちのようないろいろな立場の人間が集まるクラブでは語学がだめ専門知識がない、ある程度知的である本を読まないと相手にされないだろう。専門性と言うのはただスポーツをやってきたということではないということは当たり前のことだが、ある程度の教養を持たないとチンピラや何かたりないズレた人間は相手にできても、まともな人間は相手にできない。その指導する人間のレベルや評価はまわりにいる人間がどういう人間かと言うことを知ったらわかることだが、これからはその集団性が子供やまわりに与える影響を考えてスポーツクラブの責任者はしっかりと勉強してある程度の教養を身に着けるべきである。少年犯罪の影には必ずズレた大人の存在があるが、指導者がそういうレベルだとそういうズレた人間が集まってわるい結果をもたらすこともあるだろう。アマチュアスポーツはプロではないのだから、肉体の鍛錬もそうだが、しかしそれよりも人間の心の育成が目的である。クーベルタンの「健全な肉体に健全な魂が宿る」は原文では健全な魂が主語である。子供を成長させるには同情や理解ではなく、教育的な言葉だと信じている。確かに同情や理解と言うのは時には必要であるが、しかしその同情や理解も教育的な考え方によって裏付けされていなければやくざやちんぴらが見せる仲間意識と同じ。本当に教育的であり、そういう言葉を持ちたければしっかりと勉強しそして健全であることである。

 


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からのツボほど大きな音がする

2015-09-17 | Weblog

うちのクラブは女性が多い。女性のトレーナーがいるわけでもないのだが見学に来るのはほぼ女性でこの1週間の男女比率は70パーセントが女性である。健康維持の人でもそうであるがボクシングを学ぶにあたってビビることは必要であるが、ボクシングなんてなめていいと言っている。ビビると言うのは危険だからけがをするな、無理なことはしてはいけないということで、なめろというのはスポーツは遊びであってそうたいそうなものではない、だから健康維持でもダイエットでも堂々とトレーニングしてくださいということである。ここに来る人たちに率直に感想を聞いたらこういう意見をよく聞く、はじめに思っていたイメージとは違う、やさしそうな人たちが多いので安心できる。私は大学生などの若い人に英語の文献や学科が文系ならばだいたいそのテーマだったらこれを読んだらいいよというような本を薦めてあげるのだが、何を言いたいかと言うとアウトローくさいやつはどうかわからないが、世の中の一般の人たちはそういうところを見ていると言うことである。仕事や学校がおわってジムに来て、人の武勇伝やそれだけしかできないような人間のこれみよがしの自慢ショーなど誰も見たくない。社会では何も持っていない人間は特にそういうことで目立とうとするが、しかし学校で勉強しないやんちゃで人の迷惑をかけるような奴をそんなところでスポーツができるからと言うことだけで誰も認めたくはないというのが本音であって、そういう人間を認めてしまうとバランスがくずれる、子供じみたようなコミュニティにまともな社会人が居場所を感じることはできないだろう。前に会員が私のいいところをこう言っていた。悪いことや間違ったことには冷酷非道にそれを処罰する。それはある種の自信で安心できると言っていた。まあ冷酷非道と言うのはどうかと思うが、私は特に暴力や弱いものいじめなどに対しては絶対に見て見ぬふりをすることはしない。女性や健康維持の人たちがここに来ても競技者組が優先などと言うのもある意味弱いものいじめだと認識しているが、そういうことがないようにジムの雰囲気づくりをしていることも確かである。私はジムの雰囲気をつくるのはその責任者の頭の中身だと信じている。しっかりとした教養を身に着けて何が正しいことなのか、さらにみんなが平等にトレーニングするにはどうしたらいいかということをジムにはいろいろな人たちが来るのだから、ぶれない考え方をしっかりと持って対応して行くことはその責任者にとって大事なことだ。考え方が狭かったり、知識がないといびつな集団を生み出す。きついひとことだが教養がないからと言って勢いでものを言ってもみっともないだけだ、確かに格闘技をやっている人間が高圧的な態度で勢いで話すと相手はひるむだろうが、しかしそうだからと言って納得したわけでもなければリスペクトされるはずもない。この前も若い人に言ったがボクシングなんかで自信はつかない。本当に自信をもとうと思ったら語学や専門知識を学んで人とディスカッションすること、特に欧米の大学では女性も男性と同じように意見をはっきり言ってくるので、そういう環境に自分の身をおくことは自分の考え方をひろげる大きなチャンスであるし、自分の考え方を構築していく上では鍛えられるであろう。いいたいことを言わせてもらえるような小さい世界で語学ができない本も読まない人間がさも正しいかのごとくほえてもむなしいだけ、ユダヤのことわざにからのツボほど大きな音がするというのがあるが、武勇伝や自分の小さいサクセスストーリー見たいな自慢話をこれみよがしにするのはまさにこのこと、自分のまわりにどういう人間が集まるのかと言うことを考えて、見ている人は見ていると思っていたほうがいい。

ただ人を納得させたり言葉のバランスと言うものを考えるならば、哲学や心理学などの知識を身に着けて理論をしっかりと構築して伝えることだけではなく、そこには何か宗教的な知識や考え方センスと言うものが必要であると考えている。

 

 

 

 

 


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半島を思う

2015-09-14 | Weblog

大阪だか場所は忘れたが若い人が目立つところでラップをやっていた。しかも店の前で堂々と、でもたいして響いてこない。日本語は音が少なくリエゾンがないのでラップにはむかない。母音もせいぜい5つで音が少ない。日本語って奥ゆかしくて優れた言葉であるが平坦がゆえに正確に他の言葉を表現できない。そこがディスアドバンテージだ、よく韓国人の名前を「eu」と「e」が入る音なのに単に「ウ」と表記したりと結構でたらめである。よく言われるkimuchiもkimuchiではなくkim chiである。これらの音も英語では表記できるが日本語ではできない。日本語は必ず母音で終わるからリエゾンがないので音がつながらない音に広がりがない、だからリズムや抑揚にあわせて主張するラップには向いていない。私は言語的には総合的に日本語のほうが優れていると思っているが、しかしリズム感と音域のつくりやすさでいったら韓国語のほうが適している。韓国語は合成母音も含めて21ある。たから自然と音域が広くなるので歌うことにかけてはかなりレベルが高い、有名なソプラノ歌手のジョスミは韓国人だ、よく外国人がでたらめな日本人のまねをする時、淡々と言葉を区切ってまねをする姿は滑稽にうつるがおそらく日本語はそのように聞こえるのだろう。とにかく日本語は平坦だと思う。

韓国人の友人家族と日本人の友達とカラオケへ行った時の話。その彼のワイフが結構歌がうまくて何曲かうたっていたのだが、その中で印象的だったったのがDavichiのBecause I love youすごくうまかったので思わず聞き入ってしまった。私は音痴なので1曲ぐらいしか歌っていないが彼女の歌だけでも十分聞く価値はあるちょっとしたミニコンサートだ。さらにそのあと気になったのでdavichiの実物をLiveで聞いたが実物を聞いたらもっとうまく思わず感動してしまった。前回イヘリは品格があるといったのはそういうつながりがある。このBecause I love youと言うのはイビョル(別れ)の歌だ。なぜか韓国人は別れの歌を歌わすとすごく聞かせる。それは彼ら彼女らが持つ感情にも関係している。韓国語でウオンとかハンと言う言葉がある。日本語では恩と恨であるが日本語で言うとあまりいい言葉ではない。しかしこれらはそういうことだけではなくもっと深い部分での感情をあらわしている。自分のいいたいことや気持ちを伝えようとしてもつたわらない時もどかしさを感じる。自分はこう思っているのに自分の気持ちはこうなのになぜこのことをわかってくれないのかとか、どうして伝えていいのかと、そういうもどかしさとその時わきあがってくる感情をオンやハンと言うのだが、そういう感情をこめて歌うから聞かせるのだろう。こういう悲しいシチェーションを歌わせたら右に出る民族はないと思っている。昔私は韓国人が大嫌いだった。でもしかしこういういい歌は私の気持ちを慰めるもので多少そのことを一時的にではあるが帳消しにしてくれるであろう。

 


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人間的な群れとは

2015-09-13 | Weblog

うちのクラブでは英語を教えているのだが、ひとり教えている人にTOEICの高得点者がいる。おもに英語の文章をLineやメールでやりとりして教えているのだが、なかなか優秀である。私は彼女に君はあだなをつけるとしたら毒アヒルじゃと言ったことがある。なぜ毒アヒルかというのはインプリンテッドと言う心理学の言葉がある。これはひなが最初に見たものを親と思う習性があると言うことだが、少し意味は違うが彼女も私が言ったことをそのまま伝える。私はよく冗談で親しい人間にあだ名をつけて、あれは○○さんやとあだ名で人の名前を教えるのだが、彼女はそう呼ぶ。貧乏神さん、ドブネズミさん、○○部長さん(若いのに)彼女がそう呼ぶと爆笑がおこる。最終的にはちゃんと名前を教えろと言うので名前を教えるのだが、まあ間接的にではあるが私の伝えたことをインプリンテッドして毒をはくから毒アヒルである。彼女は私とよく似ているところもあって、特に弱いものが虐げられていたり、不公平であったりすることに私と同じような不条理を感じるようで、ただしいことを言っているがひょっとしたら頑固さが衝突を生むと思うのだが、衝突しても失敗しても自分を嫌いになったり自信をなくしたりせず、私も同じようなことを経験しているのでよき理解者となり相談相手になれたらと思っている。

うちのクラブにはユニークな人がたくさんいる。ユニークと言うのは英語のユニークをそのまま受け取ってもらっていいのだが、優れた個性のある人たちでこのクラブを運営するにあたって彼ら彼女らに助けられている。聖書の言葉に共同体をあらわすのに人間の体をたとえている。人間には手足があるようにそれぞれの部分がバランスよく機能してひとつの体であり人間だと言えるように共同体もそれぞれの個性を生かしてそうあるべきだと言うことだが、うちのクラブの人たちもそれぞれの役割や立場と言うのを理解してバランスよく関わってくれる。トレーナーはもちろんのことマス部隊の人たちや会員の人たち、手前味噌だが来た人がよくここは信用できる人が多いので安心できると言ってくれるが、たぶんこういうかかわりができるのは、その人の教養や仕事をある程度責任を持って生きてきた人たちだからだと思うのだが、こういう人たちが多く存在すると言うのはクラブにとっては大きなアドバンテージだと思っている。私は宗教学を勉強したので多言語で聖書を読む。特に何かを信じるわけではないが、The Bibleはその共同体をオーガナイズドするにはかなり参考になるからだ。確かに書いてあることは神話的で信じがたいことであるが、しかし2000年以上も前に書かれていることもあってか、共同体がオーガナイズドするためにはその書かれていることをよく理解し指針とするとその群れはよくなっていくであろう。例えばイエスの行為はどうであったか。当時虐げられていた女性や子供を解放するために何をしたかということ、さらに彼はその背後にある平等や不条理を見逃さなかった。確かに人間は進歩し競争する生き物である、がしかしそうであるからこそ弱い存在が出てくる。動物ならば最初から競争できなかったり競争にまけたりしたらそこでおわってしまうのだろうが、しかし人間は思いやりがある。その思いやりが道徳や倫理と言うかたちにあらわれたのだろうが、その人間の群れの特有とも言える道徳心や倫理をもって群れをオーガナイズドすることは極めて人間的な群れであると思っている。

 

 

 

 

 

 


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高知のボクシングジムMTオリーブボクシングクラブの日記 9月11日

2015-09-11 | Weblog

今日は男女比率がフィフティフィフティであったがとにかく多くの人たちがトレーニングに来てくれた。新しく入会する人たちもいてこれからもっと賑わいそうである。今日はマス部隊隊長が大活躍一人で10ラウンド近くの女王様の相手をしてくれた。それでもあまりに女性の人数がいたのでのこりの人は高校生の新人のマス部隊に伝令を出し彼が引き受けてくれた。このマス部隊の人たちであるがもちろん本人たちのトレーニングにもなるが、しかしクラブの雰囲気をよくしてくれている。雰囲気があまりにガチだと女性が来にくくなる。しかし彼らの存在はそういうガチの雰囲気はまったくない。見学に来ていた人もおもしろそうだと言っていたが、雰囲気もいかついボクサーと言うような人はひとりもいない。おとなしいサラリーマン風である。この人たちがいたら女性がトレーニングしやすいと思う。ここに来る人たちのほとんどは健康維持やダイエットであるがダイエットのコツは二つある。ここではひとつしか言わないがそれは思いっきりたたくと言うこと。時に女性はたたくと言う行為が本能的にわからないので強くたたけと言ってもわからないが、とにかくいやなことがあったらストレス発散のために思いっきりたたく、マス部隊の人たちは日ごろから気さくに話してくれるので、女王様の時にボクシングの独特の風域ではなく、ゲーム感覚としてそれができると思うのだが、その強くたたいて動くためには女王様を奨励している。

 


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