脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

セヘ ポン マニ パドウセヨ  

2012-12-29 | Weblog
「セヘポンマニパドウセヨ」は新年のあいさつ、日本語では「新年の福をたくさん受けてください」この言葉は新年だけではなく、日本語でいうところのよいお年をと言う意味でも使われる。
最近朝鮮民族系の人間とかかわることが多くなって、朝鮮語が身近になってきたのだが、我々の暮れのあいさつはこの「セヘポンマニパドウセヨ」だ。
実は少し前からある韓国系の人間が日本で仕事をしていて、職場には欧米人もいて英語が必要だからということで、最近彼とは英語で会話している。おそらくネイティヴは少しきついので私でならしておこうと思っているのだろう、しかし彼と話しているとなんとなく違和感を感じるのだが、昨日も夜中12時頃をまわった頃二人で英語で会話をしていた。

私は昔韓国の水原というところの語学学校に臨時の講師を引き受けたことがある。そこは友達の勤めていた語学学校で、ある期間日本語の講師が足りないので手伝ってくれないかということで行ったのだが、さっそく10人ぐらいの上級者クラスで教えることになった。
韓国語と日本語はよく似ている。助詞もあるし、文法も同じだ。しかし時々助詞の使い方が日本語では「電車にのる」が「電車をのる」となり、そういうこまかい助詞の使い方の違いや、過去や未来の使い方や受け取り方のちがいなどの、そういうミステイクを聞いて正しくするのが私の役割であった。
ある時否定形の説明をした時に韓国語の否定形のように文頭にいきなり否定形を持ってくるかたちは日本語にはない、だから日本人はあいまいなのだというようなことを言われたことがある。
しかしいやいやそうではない。実は大阪の言葉にはあるんだそれはチャウという言葉で、この言葉はそのものは独立しているのだが、しかしそのチャウと言う言葉の後には文章が続くので、これは韓国語のアンと同じだと言ったことがある。
そしてここからあの「チャウチャウチャウ」という例文を出して、その説明をしたのだが、これが思いっきりうけた、中には爆笑している奴もいたが、私があまりにもうまく彼ら彼女らの心をつかんだので、その私を呼んだ友人はかなり喜んでいたようだ。

韓国人は失敗を気にしないで、言葉をつかってくる。
儒教の国でも何かを学ぶと言うことに関してはとてもアグレッシヴで、日本語でも英語でも積極的に言葉を使ってくる。
中には「銀行でお金をおろしてきた」を「銀行でお金をとってきた」ととんでもない間違いをするが、そんなことはおかまいなしだ。
時々間違っても堂々と話してくるので「えっそんな表現って文法的にありなんだ」と思わされてしまうが、しかしある英語圏の人間も言っていたが、失敗を気にしないから語学習得も日本人に比べてはやいそうである。

私は結構いろいろな民族と付き合いがあるが、日本人は慎重すぎる。
そういう時日本人が使う言葉でよくわからない言葉がある。それは「失敗をおそれるな」と言う言葉で、こういう語学習得の時にそれはよく言われる。しかし失敗をおそれるとは一体どういうことなのか?
私にしてみたらたかだか語学の練習ごときで何が失敗なのか??こんな言葉はおおげさだと思うし、ここまで言うと語学の練習で表現を間違えたり、文法を間違えることがそんなにわるいことなのかとさえ思ってしまう。

韓国語にケンチャナヨという言葉がある。
この言葉は日本語にはないことばだ。
もし訳すとするならば「大丈夫」と「いいじゃないか」を合わせたような言葉であると思っているが、これは彼ら彼女らがよく使う言葉で、それは彼ら彼女らの文化を象徴するかのような言葉であると思っている。
だいぶ前にシクタン(食堂)でウエイトレスに水をこぼされたことがある。
日本ではそういうことはないが韓国ではよくあることで、そういう時決まって相手はケンチャナヨと言う。
しかしこのケンチャナヨは大丈夫ですか?と言うような感じではなく、少々押し付け気味で、コーヒーじゃなく、水をこぼしたぐらいだからかまわないじゃないかと言うような感じのケンチャナヨで、日本の習慣に慣れてしまうとかなり戸惑いをおぼえてしまう。
日本人ならばこういう時すみませんというのが普通であるが、しかし韓国人(最近の若い人はわからないが)は、チェーソンハムニダとは普通言わない、こういうことはお互いが気にしない、ゆるしましょうということが前提にあるので、ケンチャナヨと言う言葉が出てくるのだが、そういう受け入れるというか、小さいことはどうでもいいじゃないかという考え方が彼ら彼女らの中にはあるのだと思う。
(だだこれは彼ら彼女らの独特のウリ(私たち)という考えがあって成立する言葉で、たとえもし日本人が韓国人に水をこぼした場合はそうでないこともありうると思う。)

失敗を恐れるなと言うのは、その失敗を受け入れたり、失敗してもいいという環境があるかということだ。
たかだかボクシングごときで命をかけるかのごとく、練習するのはばからしいことだ、武勇伝を語ってっ競技者を鼓舞したり、日本のクラブは競技で失敗するとおこられるらしいが、こういうことはかえって選手を委縮させるだけ、私がよく封建主義的な軍団を批判するのはこういうピリピリした独特の雰囲気があるからだ。
自分が聞いててアホかと思うのは、自信を持てとか、自分を信じろとかやたら自分を強くみせるようにふるまおうとする態度である。
どういう根拠でそういうことを言っているのかえわからないが、たかだかボクシングをやったぐらいで、人間が強くなって、そういう自信や誇りなどがもてるものなのか?
ボクシングをやったからと言って特別な存在になれるなんていうこと自体間違った考えである。私はメンタルテラピーとしてのスポーツを考えているが、いろいろと研究していくうちに、こういう考え方が、心を本当に豊かにしていくことの弊害だと思っている。
チャンピオンとか何とか何位とかそんなものが自信になるのか?
むしろそういうことだけしか自慢できない奴は社会に出てもコンプレックスを持つだけである。弱いくせに無理をしてとよく見せようとすることに何の意味があるのだろうか?
正直なぜ精神が強くなると言うことをこの世界の人間は言うのかわからないが、もし言うのだったら心を豊かにするということで、その心を豊かにしていくためには、単にこのスポーツを競争としてとらえるのではなく、楽しむことができるスポーツとしてとらえることも大事なことではないだろうか。



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日連一派  

2012-12-27 | Weblog
次回のオリンピックからヘッドギア着用の義務がなくなり、プロの選手の参加も認めるという方向に向かっているらしい。
しかしもしヘッドギアの着用の義務がなくなり、プロ選手の参加が認められるとルールなどもかなりかわってくるのではないかと思っているが、もしそうなったとしたら、日本はどのように対応していくのだろうか?
たぶんAIBAと言う団体はプロボクシングの設立をねらっているので、プロの選手が参戦してもやりやすくするために、ルールなどをゆるくすると考えているのだが、AIBAという団体はロンドンオリンピックでの判定でもわかるように、思った以上に汚い団体でこのほかにもいくつかオリンピックで金がらみの疑惑が浮上している。
そういう団体だから金を集めるためにはいくらでも汚いことをやってくると思っているが、今回のプロボクサーの参戦やプロ団体の発足なども金がらみだと疑っているが、こういう不透明で胡散臭い団体を相手にするのだから、アンテナをはっていないと今回のオリンピックでおこったような不正とも言われる判定のようなことがおこりかねない、そうならないようにしっかりアンテナをはって、国際社会でも物が言えるように英語やほかの語学をマスターする必要はある。

今や英語が理解できない人間はリーダとしてふさわしくない。 
アマチュアボクシングの親玉どもは自分たちの子分や関係にない人間には偉そうには言えるが、しかし海外では何もいうことができないのは親玉どもに語学のセンスがないのと封建社会で議論することになれていないからだ。
国内ではやくざの親分のようにふるまっても、海外では猫の子のようにおとなしい親玉どもの姿を見たら、なさけなさを通り越してあわれささえも感じられるが、英語を理解して情報を集めて物事を先読みするのは、戦略の基本である。
AIBAのルールだってヘッドギアやプロの参戦などところころ状況がかわるし、前回のようにめちゃめちゃな判定をくだされることもありうる。今時英語を理解できないやつらが固まってもこういう国際社会ではあたふたとするだけで、役に立たない。はっきり言って英語をつかって抗議できなければ、日本人は意見が言えないと思われてなめられてしまうのだ。

海外ではいばれないので、国内では自分たちの権威を振りかざして、日蓮などという村社会をつくっているが、そういう村社会は子飼いや不正や不公平を生み出すだけだ。
ヘッドギアの問題も、国際試合と同じものをつかっているのに、なぜ日蓮のマークがなければ試合に出れないのか??しかもそれを独占販売させているのだから、悪質だ、そんなことを誰もおかしいと思わないのだろうか?
明らかにこいつらの世界は村社会だ、こういった問題も村社会だからおこったことで、素っ裸の計量、審判の印象をよくしろとか、あの選手は何々の派閥だから勝ったなんていう話はよく聞くことだが、こういうことは欧米社会ではありえないことで、こういうことが当たり前のように行われているのだから、いかに親玉たちの感覚がずれているかということがわかると思うが、おそらくこのことは親玉たちが権威主義で英語を理解できないと言うことと関係していると思う。

しかしこういう村社会でも、そういう奴らの子飼いはいるので、自分たちはのびのびさせてもらってまーす。なんてDQNが言うようなことを言うが、おそらくそいつらの憲兵のような態度にはらただしく思っている一般の競技者は少なくはない。
冗談ではないが、権威を振りかざし憲兵のようにふるまう奴らが牛耳っているボクシング会場に自閉症の子供が来たら、まちがいなくパニックになると思うのだが、こいつらの特定の集団はかなり雰囲気がわるい、何とか連合かわからないが、そういう日蓮とか言う親玉を中心にやくざの一派のような軍団が独特の雰囲気で集まっている姿を見て健全ではないと思うのは私だけであろうか?

日本は今回オリンピックでメダルをとったというが、しかし実際に日本のアマチュアボクシングのレヴェルがあがったかと言うとそうではない、世界的に見てアマチュアボクシングは金にもならず、おもしろくないので、大国のアマチュアボクシング離れが目立ち、むしろそれは日本のレヴェルがあがったのではなく、世界的にかなりレヴェルがさがったと分析するほうが正しい物の見方だと思っている。

はっきり言って日本のアマチュアボクシングは戦略がない。非モラル的である。
せいぜい子供のボクシングなどと医学を無視してうちあいをさせるようなことをやっているが、そんなことは国際社会ではひんしゅくを買うだけだ。
中国や韓国などは、そういうことに対しては国家がらみで戦略を練ってくるのだが、中国が北京オリンピックからにわかに強くなったのは、大国のアマチュアボクシングの競技人口がへってメダルをとりやすくなったという情報から、国がらみでボクシングを奨励して、養成所までつくって強化したからだと言ったが、現地の大学生の情報によるとボクシングは、国がオリンピックの強化スポーツとして定められているらしく、一般の学生は競技できないスポーツである。
中国や韓国はそういう目的をもてば、いろいろと情報をつかんで、それにむけて戦略をねってくるのだが、一方日本と言えば中国や韓国のように具体的な戦略をもってはいない、ただ基本に忠実とか練習をしろと言うだけで、封建的で英語に疎い人間が集まると、こういう小学生でも言えることしか言えない、ただ小学生との違いは、権威主義かそうでないかの違いである。




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知的 大胆 容赦なし

2012-12-25 | Weblog
私の友人が読んだ本に、昔の朝鮮半島のリーダーのタイプが、世宗大王をあげて、書かれていたんだが、そこにはこう書かれてあったらしい。
「知的 大胆 容赦なし」そう言って、すかさず彼はこう言った「こう書いてあったけど、これ君のことじゃないのか、わはは。」
思わず苦笑いした。彼は日本人なので、多少遠慮気味に言っていたが、確かに言われても見たらそうだ、それは遠からず近からずあたっていると思う。
私自身自分では絶対に日本人だと思っているが、しかし実はそうではないらしい。
私は半島の影響を強く受けていて、どちらかと言えば性格や物の考え方はアメリカ系の韓国人に近いような気がしている。
だいぶ前ある私のことをよく知る年配の人に「君は確かに徳はあるのだが、しかしよくわからないのは、君は自分が間違っていると思ったり、それは違うだろと思うことに関しては激しく抗議するのだが、それは和を尊ぶ日本人のそれとは違う、たぶん君は大陸の人間に近い考え方を持っているのだよ。」と言われたことがある。
よく何を考えているのかわからないと言われるのは、おそらくこういう行動に出たときで、考え方や行動などが日本人のそれとは違うからだ、特に地方では同じような考え方をするので、よく言われるが、たぶん半島の考え方や気質などを理解すれば、私が何を考えているのか、なぜこのような行動をするのかと言うことが見えてくると思う。

話しはこの世宗大王の話になるが、朝鮮ではこの世宗大王というのは非常に徳の高い王様として、尊敬されている。
世宗はハングルをつくった王としても有名であるが、学問にもすぐれていて彼は本の虫と言われるぐらい本が好きで、日夜勉学に明け暮れていたらしい。
これは韓国だけではなく、世界共通だと思うが、おそらく指導者にはある程度学がなければいけないと思うのだが、韓国では一生懸命勉学に励むことが徳を積むことである。
スポーツをやっている人間は、世界と言うものが対極にあるのだから、ひろい視野を持たなくてはいけない。
それはスポーツのことだけではなく、世の中がどのように動いているかとか、子供や青少年を教えているのであれば、彼ら彼女らの教育の問題や就職などの社会問題などに深く関心を持たなくてはいけないのだが、そういう視野を広げるために勉強することは指導者にとって不可欠である。

前に地元の新聞が「ネコの里親募」「金魚の里親募集」と掲載したことについて挙げたことがある。
里子がいるのに、そういう表現を新聞社が使うことに対するのは非道徳的で、配慮に欠けると言うようなことを言ったと思うが、これはある人が調べたのだが、新聞などの公共機関がこういう表現をするのは法律上問題で、大手の新聞社などは里子に対して配慮してそういう表現では掲載しない決まりになっているそうであるが、地元の新聞社は、そういうことを言われたら自分たちは傷つくと言っている子供たちがいるのにもかかわらず、何がわるいのかとその訴えを一蹴したそうである。
私はその手の人間にはあまりいい印象をもってはいない。こいつらとかかわるとうちのクラブの品格さえおとしかねないとさえ思っている。
「ネコの里親」「金魚の里親」などと里子の子供たちが傷つくと言っているのに、こういう人としての基本的な配慮ができない人間たち、あるテレヴィ局は毎回非通知でかけてくるが(こういう常識的なことができない割にはきっちりと受信料を回収するのだが、)誰がそういう人間を信用して取材など引き受けるであろうか。

たぶん子供とかかわっていれば、いろいろなことが見えてくると思う。そしてそういう問題をとらえて解決するためには、たくさんのことを学ぶことは大事なことである。
引率でキャバクラに行ったり、女を連れ込むなんて言う話し、集団退部なんて言うのも問題である。こういうことがあって校長が原因を突き止めなかったのだろうか?
たぶんそいつは子供がうまく何がおかしいのかということを表現できないことをいいことに、グレーゾーンの言葉をつかったり、存在を無視したりして、いじめたのだろうが、だいたいそいつを見ていると気が小さく顔や態度にすぐ出るので、よくわかる。
おそらくそういうことを一般のレヴェルでやれば問題であると言うことがわかっていないのだろうが、特にこれはあて名書き事件の時に、こういうことをして子供の自尊心を傷つけていたのだなあなんて思ったが、以外にもこういう根性のくさった奴はいるのだが、次回の勉強会でひとつの具体例として挙げておく必要があると思っている。

聞くと結構こういうくだらない不祥事やいじめがある。しかし競技させることばかり優先にして、まわりがそういうことを無視するのはおかしいことだ。
中にはそういうことについていけなくてやめた子供もいるのではないかと思うが、そういう子供たちを根性がないとか、だめだとレッテルをはるのはおかしいことではないのか?むしろこういうバカについていけずやめた人間のほうがまともではないのか??
おそらく手をあげてはいけないという手前(手をあげている奴もいるが)こういう言葉をつかって、あるいは行為で子供の自尊心を傷つけてくる顧問の教員もいると思うが、そういう陰湿な行為は暴力よりもひどく、後々トラウマになってのこるものであるが、こういうことに対してもっとまわりが感じて、問題意識をもたなくてはだめだ。

クラブやスポーツクラブの世界ははっきり言って狭い世界だ。
特にボクシングは英語を話せる人間が他のスポーツに比べてかなり少ないので、視野が狭く、封建的で見ていて非常におかしいと思うことが多いが、正直ここだけだから通用すると言うことが多い。
こういう奴らは自分たちの仲間を集めて小さく固まって、さも自分たちは素晴らしいことをしているとふるまっているが、しかし実際はそこにいて子飼いや子分を集めているだけ、親玉がいたらそこには弟子みたいな奴がいるのだが、そういう奴らのたいていは世の中では通用しないので、ボクシングと言う自分が何とかフライドを保てる場所に集まってきているだけ、そういうやつらをただスポーツができるということで、認めることは、世の中の基準から見て何かおかしいことではないのか。
だいたいこういう奴らは自分のことには非常に繊細なくせに、こういう不祥事や人権に関しては無関心だ、中には自分を大きく見せようとしてとんでもないことを言うバカもいるが、そういうことは、群れから離れてみたらわかることだ。
とにかく子供に指導する人間は世宗大王ではないが、たくさんのことを学び、いろいろんことを知って感じ取らなくてはいけない。
自分のことだけに繊細で傷つきやすいのではだめだ、しかししっかりと勉強をして頭を耕さなかったら物事を恣意的にうけとってしまい、正しい判断ができない。結局仲間中心の小さくかたまる軍団になるのだと思う。

















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漢字文化

2012-12-21 | Weblog
この前言っていた中国語と日本語の教えあいであるが、昨日の朝に学習をしたのだが、私にはおおまかなことを説明して中級からはじめるのが妥当だと言う。
私はラテン語とドイツ語は学生の時とっていたので、ヨーロッパ圏の言葉はまあまあ理解しやすいと思うが、しかしはっきりいって中国語に関してはずぶの素人まったくわからない。おまけに漢字はそう得意でもないので少々不安がある。
しかし彼女が言うには中国語は韓国語や日本語と共通する部分が多く、この二つの言葉を理解していたらかなりのアドヴァンテージになるそうである。確かに日中韓は漢字を使うので言葉の共通点が多く、日本人とお互いで筆談ができるそうだ。
特に四字熟語がそうだが、季節的に少し早いが三寒四温はサンハンサオンと韓国にも中国にもある。
さらに八方美人と言う言葉はもともと中国語からきた言葉で、これは意味は中国と韓国では同じ意味であるが、日本ではその意味が真逆になっているが、しかしもともとは中国語で、いろいろな才能があるというような感じで使われると思うが、漢字自体は共通している言葉である。
中国語は聞きなれない言葉なので、少々難しく感じられるが、しかし漢字を使うと言うことはニュアンスが伝わってきて、かなり大きなアドヴァンテージであり、漢字を知らない欧米人に比べて、漢字を知っている日本人はそれに比べてかなり有利である。

余談であるがカムサハムニダという言葉を聞いたことがあると思う。
最近韓国語はポピュラーになってきたので、知っている人も多いと思うが、意味は言うまでもないがありがとうである。しかし韓国語にはもう一つありがとうを意味する言葉があるのだが、それはコマプスムニダである。
この表現はコマオヨと少々くだけた表現で使われるので、こっちの言葉の方が有名かもしれないが、これはほぼカムサハムニダと同じ意味だ、時々辞書などにはカムサハムニダは形式的であると表記されているが、しかしそれはコマオヨと言う時であって、文法的にはコマプスムニダとほぼ同じ意味であると思っている。
しかし大きな違いを言えば、カムサハムニダは中国語から来ていると言うこと、カムサというのは感謝と漢字で書くのだが、この感謝がハダ(する)という動詞の前におかれて、直訳すれば感謝するがカムサハムニダである。
しかしこれに対してコマプスムニダは漢字で書くことはできない。なぜならばこの言葉は生粋の韓国語でハングルから出て来た言葉だからだ。おそらく北朝鮮では、この言葉は使われてはいないと思うのだが、、前にテレヴィで北朝鮮の人たちをインタヴューしていたのだが、そのインタヴューがおわって、かえる人たちがインタヴュアーにむかって再会(zai4 jian4)と言っていたが、これは北朝鮮そのものが中国の強い文化の影響を持つからで、北朝鮮と中国は密接なかかわりがあるそのことは言葉にも表れている。

ついでに言うと北朝鮮のキムジョンイルは日本では独裁者であるが、しかし韓国では二つの見方があって、一方では独裁者ととらえ糾弾しているのだが、しかしもう一方では立派な指導者と評価されている。
なぜ日本では悪名高い独裁者がと思うかもしれないが、それは彼がキムデジュンと対談した時、彼とその大統領の対談までの様子が映し出されていたのだが、その時総書記は終始自分よりも年上の大統領を気遣い、歩くときも彼よりも前を歩かず大統領を常にたてて行動したのだが、この行為が儒教的で素晴らしいふるまいであると大きな評価を得たらしい。
この北朝鮮の指導者が韓国の一部の国民の評価を得たのは、彼ら彼女らが共通の言葉と儒教文化を持っているからであり、文化と言うのは言葉を通してくるのだから、言葉を理解すると言うことはそういう共通点を理解することにつながる思う。
これは何も韓国語を宣伝するわけではないが、日本はもっと戦略的に韓国語を話す人間を養成すべきだ、最近では少し勉強する人も増えて来たそうだが、そういう人気と別にして戦略的に中国語や韓国語を学ぶ機会を増やすことは重要なことだ。
言葉と言うのは情報を集めるには欠かせない道具である。前にも言った朝鮮族は子供の時に韓国語を習い、そして中学で日本語さらに英語を勉強する。これは私の友達が言っていたのだが、彼女は日本に来て、おもに日本語を話すようになって言葉がかなり婉曲的になったということを言っていたが、言葉を理解すると性格的なものまで見えはじめる、彼ら彼女らは我々が考えている以上に日本人について理解しているのは言葉を話すからだ。

さらに韓国では高校で英語以外の外国語を学ぶのだが、彼ら彼女らに日本語を話すのが多いのは、高校の時に第二外国語が選択科目で義務付けられ、文法が同じで取得しやすい日本語を選択する人間が多いからである。
日本は島国なのか語学習得にあまり積極性は見られない。最近ではかなり変わってきたが、しかしそれでも地方は語学にたいする必要性が諸外国に比べて希薄である。
特に地方などはそうだが、これからのスポーツは英語が必須だと言うのに、中には軍団が集まって一人も外国語がはなせないという連盟もあると思うが、これは非常にディスアドヴァンテージだ。

これは私の持論であるが言葉の領域が狭い人間は、言葉が自分の行動の範囲を限定してしまっているので小さくかたまる傾向がある。
暴走族やバカなコギャルと言われていた人間もそうだが、バカが集まるスポーツ軍団もそうだ、軍団のボキャブラリーが少なくて、そのボキャブラリーや自分たちの理解できる言葉の常識や考え方で集まるのがそういう集団だと理解しているが、おそらく彼ら彼女らが言葉を増やしていろいろな情報を集めて、行動や考え方を広げれば、バカななふるまいをすることはないだろうと思っている。

アマチュアボクシングが、封建的で、人前で裸で計量させるような人権を無視したことがことができるのは、言葉の問題であると考えている。
だいたいこの人たちは権威主義なのか、小さく固まりすぎだ、英語はともかく、言葉をつかって人に対してきちんと言葉を伝達しようと言う気持ちがみられない。
ヘッドギアの件も偉そうに何々に決定したなんていうのはおふれであって、権威主義的でそれは受け入れがたいことだと思う。
自分たちの権威を保ちたいから命令的になるのだろうが、しかしくだらないヘマばかりしでかす人間を、子飼い以外の誰が尊敬できるのか?
暴走族レヴェルの人間を相手にしているのではないのだから、人に命令するような偉そうな言い方ではなく、何に警戒して偉そうなふるまいをしているのかわからないが、ときどきお前ら憲兵かとと思うぐらい偉そうな態度で接して来るのだが、そういう態度を見たら非常にはらただしく感じてしまう。

言葉の伝達は重要である。たぶん議事録なども、ヘッドギアのように、江戸時代のおふれのような感じで記載していると思うのだが、物事をイコーリティに見れて、人と対話する気持ちがあるのならば、もう少しきちんと対応し伝えようとするのだが、しかし独占販売や人権的なことを考えたら、人に言葉を伝えようとかそういう気持ちが見られない。

語学的感覚を養って周りを見たら、大勢の前でたわいもないことで大きい声で恫喝したり、素っ裸で計量させることがいかに人権を無視しているかということがわかる。それをみんながやっているからと、こういうことに慣れてしまってはだめだ、誰が考えてもそれはおかしいことだと思うが、そういう狭い世界だから通用することを当たり前のこととして受け取る人間の気がしれない。
たぶんこういう軍団のやっていることがおかしいと感じるのは、広い視野を持つとか英語を話すとかいうレヴェルではなく、こいつらが小さく固まろうとすることが問題で、そういう世界でこういうことが当たり前のこととしてまかり通っていることが大きな問題である。
親玉が中心に集まって、ハイハイハイとうなづくだけのミーティングがいかにバカらしいか、まわりを取り囲んで、一人ずついいとことわるいところを言いましょうなんて言うミーティングもあるそうだが、こんなことは中学生未満の人間にするのはバカ丸出し、こんなことをするからバカスポーツだと揶揄されるのだが、ある程度のレヴェルの大人はこういうことはしない、小さく固まろうとする世界で、指導者の言葉が稚拙で、無知だとこういうことになるのかもしれないが、こういうことははっきり言ってはずかしいことである。












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Boxing day 

2012-12-19 | Weblog
もうクリスマス。私の仕事仲間は外国人が多いのでもうこの時期になると「Hi」とか「Hello」ではなく「Merry Christmas」と言うあいさつが交わされるが、キリスト教国の文化では12月になるとクリスマスの時期に入るのだが、日本も最近はこのクリスマスシーズンに入るのが昔よりもかなり早くなってきたように思える。
25日は諸外国や韓国のように祝日にはならないが、しかし12月に入ると換骨奪胎で趣旨は違うが、クリスマスの宣伝が盛んになる。
ある有名おもちゃメーカーでは11月のおわりごろから、クリスマスツリーが飾り付けられ売り出されていたが、日本はグローバル化が進みかなり欧米文化に浸食されて行っているような気がするのだが、お正月の雰囲気が昔に比べておごそかではないと感じるのは私だけであろうか?

クリスマスは英語で「Christmas」これは直訳ではないが、おもな趣旨ははキリストを祝うという意味である。
「Mass」と言うのはラテン語で「Missa」それはもともと共同体を意味する言葉であるが、その12月25日のイエスの誕生日に大勢が集まって祝うのがクリスマスの意味である。
このクリスマスであるが実は英国ではもう一つ言い方がある。それは「Boxing Day」と言う言い方である。
「Boxing」と言うとバカボクサーは、すぐに人をたたくことを想像するが、しかしスポーツの「Boxing」は「Box(拳でたたく)」と言う言葉の進行形ではない。
そもそもクリスマスに「こぶし」なんていう物騒な言葉がつかわれるはずはない。
この場合の「Box」は箱に何かを詰めると言う意味で、クリスマスは感謝の気持ちを互いにプレゼントを贈りあい、そのプレゼントを感謝の気持ちを込めて箱につめる、そういう深い意味がこの「Boxing Day」という言葉にはある。

余談であるが韓国ではボクシングは、あまり人気がないというか人気がでないスポーツである。
日本でもそうだが、どちらかというとボクシングはマイナースポーツのひとつで、落ちこぼれや問題行動をおこす人間がするスポーツとして見られていて、人々の見方もどちらかと言えばネガティヴで、最近では昔に比べて競技する人間がかなりへってきたそうである。
ボクシングと言えば「こぶし」でのたたきあいがその醍醐味だが、しかし韓国ではボクシングの象徴である「こぶし」という言葉があまりいい言葉ではない。
こぶしは韓国語で「チュモク」と言い、この言葉はけんかと暴力の象徴としてつかわれるのだが、暴力団のことを「チュモクペ」と言い韓国ではボクシングの人気がないのは「こぶし」がネガティヴな言葉として受け取られているからだ。

話しはクリスマスの話にもどるが、クリスマスは日本ではこぞって友人などとパーティをする日で、飲み屋などでもパスニ(キャバ嬢)たちが客集めに躍起になっているその姿は外国人から見たらあきれかえる姿であると思うのだが、しかし欧米では基本的にはクリスマスは家族と一緒に迎える日で、それはどちらかというと昔の日本の正月のように厳かに迎える日であると言っていいと思う。
クリスマスが慣例化することは、ある意味欧米化が進んでいいことであると思うが、しかしそれとは別に日本の伝統である「お正月を祝う」と言う日本の文化が希薄になってきているような気がしているのだが、おそらくこういう伝統と言うものが崩れはじめると日本人そのものが持っているアイデンティティや解釈がくずれてくるので、それは社会の退廃につながるのではないかと危惧している。
もともと日本人は独自の文化を持ち、宗教を信仰してきた、昔日本に来た外国人の見聞録などを見ていると、日本と言う国がいかに道徳的で勤勉であったということがわかるのであるが、それははっきりいって、日本人が当時そういう素晴らしい文化を持っていたと言うことが言えると思うのだが、正直クリスマスのような欧米の文化が間違ったかたちで盛んになり、逆にお正月のような伝統的な文化が希薄になってきていると言うことに、私は日本人のアイデンティティと道徳的な危機感を感じる。


話しは勉強会の話になるが、来年とある場所で勉強会を開くことになった。
その勉強会は前からそういう勉強会が持てないかと思っていて、ある方の呼びかけで実現できるのだが、それは教育の分野や法曹関係で活躍する人たちなどがそれぞれの立場から、子供の人権や教育問題などを発題して、それらをお互いが話し合うと言うようなかたちでもたれる勉強会であるが、私はそこで特に若いこれからそういう現場でたくさんのことをになっていく人たちに参加を呼び掛けているが、こういう人たちがそこで刺激をうけてくれることと、こういう場を通して真面目に取り組み悩む人たちがそこで相談できる場となってほしいからである。

私は子供とスポーツなどを考えた時に(特定の人間があげられるのでここでは書けないことが山ほどあるが)そういったことやアマチュアボクシングの人権問題、そこで何人かのバカを名指しで挙げて、原因や弊害などをあげてこういう現実があるということを伝える必要はあると思っている。













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今日は2本立て

2012-12-17 | Weblog
「韓国語教室」
日韓の関係がやや良好になったらはじめようと思っている韓国語の教室だが、講師を朝鮮族の女性に頼んでいるのだが、実は中国語とセットで教室を開こうと思っている。
しかし韓国語の教室を開くのになぜ韓国人ではないのかと思うかもしれないが、私の見解では韓国人よりも朝鮮民族の方が、今の状況において日本人に語学を教えるにはベターな選択だと思うからである。
朝鮮民族は少数民族だが、教育熱心だ、朝鮮自治区にある延辺大学は国家重要大学に指定されていて、ここでは朝鮮語と中国語で授業がおこなわれている。小さいころから朝鮮語を習い、そして中学から日本語を習っているので語学に堪能である。
私は彼ら彼女らの出身地で朝鮮族かどうかわかるのだが、日本企業に来ている中国人にはこの語学に堪能な朝鮮族が多くみられるが、彼らの中にはそのアジアの3つの言葉と英語も合わせてマルチリンガルの人間も少なくはなく、かなり多くの朝鮮族の人たちが海外で仕事をしていると聞いている。
そのせいか外国人の対応に慣れていて、漢民族や韓国人のように戦争の話を持ち出しで場の雰囲気をぶち壊すような奴はまずいない。彼ら彼女らと話してわかるのだが、文法重視なところもあって、日本人に合った教え方ができるとみている。

だいぶ前ニュースキャスターの桜井さんがアジア諸国の人間を囲んで討論した時に、ある韓国人の女性がアジア諸国は日本人のしたことに対してわるい感情を持っていると発言したことがある。
それに対して桜井さんは「アジア諸国とはどこですか?」と言ったのだが、その女性はしどろもどろして、結局事実として反日として挙がった国は韓国と中国であったが、さらに深く突っ込んでいうと、中国は民族が多く、韓国のような徹底した反日教育をおこなっていないので、反日はおもに韓国人と漢民族であると言うことが言えるが、事実中国の朝鮮民族は日本人に対してそういうわるい感情はあまりないと思うのだが、もしあるとしたらそれは日本人よりも韓国人に対してではないかと思う。
ついでに韓国語の話になったので、韓国語でよくつかう「アジュ」と「ノム」だが、これは日本語では「とても」とか「すごく」と言うように訳される。
しかしこの「アジュ」と「ノム」はそれぞれ違う働きを持っている。
例えば「アジュ マシッソヨ」と「ノム マシッソヨ」は、日本語に訳せば2つとも「とてもおいしい」だが、しかし「ノム」は「ノム クダ」と言う時「大きすぎる」と言う意味になるので、意味的にはノムを使うとこれ以上おいしいものはないという意味になるのだが、文法的には「アジュ マシッソヨ」と言うよりも「ノム マシッソヨ」と言う方が喜ばれる。
だから女性をほめるときも「アジュ イエッポヨ」ではなく「ノム イエッポヨ」ちなみに日本アマチュアボクシング連盟の親玉どもは「ノム パボ」だ。

「地元の新聞」
私は地元の新聞は程度がひくいので、英字新聞をとっている。
どう程度がひくいかと言うと、こいつらの新聞によくある広告、そこには大きい字で「ねこの里親募集」とか「犬の里親募集」最近では「金魚の里親募集」と言うことが書かれていたそうだ。
たいてい大きな新聞社などは里親が必要な子供たちに対して、動物の飼い主を募集する時、こういう表現は使わないそうであるが、それはまず人権の法律的にも問題があることと、そして子供たちを傷つけてはいけないと言う配慮からである。
現に里子の子供たちが、この表現を見て「自分たちは猫や金魚といっしょなのか」と言ったそうであるが、里子がいるのにあえてこういう表現をするということは、もはやデリカシーの問題ではなく、言葉の犯罪だ。
このことに対してある里親の人が抗議の電話をしたそうだが、新聞側は一向にとりあわなかったそうだ。
私自身購読をやめたのは、高知新聞のそういういくつかの記事に憤りを感じたからで、こいつらのよわいものに対するいたわりが感じられないと思ったからだ。
特に子供が母親の付き合っている男に殺された記事があったのだが、その記事の中でその女が自分の子供を殺されたにも関わらず、その男の出所を待つと書いていたのだが、もしその子が生きていてその言葉を聞いていたら、どういう気持ちになるのか考えたことはあるのだろうか。
無神経にもほどがある、こういう記事を平気で書く神経がわからない。
よく私が日本アマチュアボクシング連盟は人権を侵害していると言うことを言うが、確かにこいつらも弱いものに対するいたわりなどもたない。おそらく子供を指導したり、教育すると言うのはこういう当たり前の考えと細かい配慮が求められるのではないだろうか。















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マルチリンガルを目指す。

2012-12-13 | Weblog
 友人の朝鮮族の人に、ビジネスレヴェルの日本語を教える代わりに中国語を教えてもらうことになった。
最近朝鮮族が日本で活躍する機会が増えてきている。その韓国で知り合いになった朝鮮族の人も日本語が堪能であると言うことで、現在日系の企業で貿易部門の通訳をまかされているそうだ。ビジネスレヴェルの英語を教えてくれと言うのは、たぶんその時に使う敬語などのことだと思うのだが、私の見解では朝鮮族と言うのは他の中国の民族に比べて語学に堪能で熱心に勉強する人が多いと思う。
現に彼ら彼女らは子供の頃からまず朝鮮語を勉強させられ、そして朝鮮族の中学に入ると日本語を教えられる。
日本語を学ぶのも、日本のアニメが好きとかそういう理由ではない、日本語と朝鮮語が文法が同じで、似ている言葉が多いからで、考え方が非常に合理的、おそらく彼ら彼女らが韓国人に比べて反日的ではないのは、そういった土壌もあるのだと思う。
中国の朝鮮民族は、少数民族である。その少数民族である朝鮮族が生き残っていくためには、言葉をおぼえて自分たちの行動範囲をひろげていかなくてはならない。実際言葉をおぼえることで中国にいて、外国人と交流できる機会を持つことができるし、今では彼女のように日本企業で中国語の通訳として働く機会が与えられる。おそらくそういう仕事をしている人たちの中に朝鮮族の人たちがいると思われるが、やはりこれは彼ら彼女らが日本語を勉強してきたアドヴァンテージである。

話しは中国語の話になるが、やはり中国で何かあることについて知りたかったら、人から直接話を聞くこと、たぶん政府などが出しているようなことは、少し深くつっこんでそのことを知りたいと言うぐらいのレヴェルではあてにはならない、やはりそこで信頼できる友人をつくって直接情報を得ることは不可欠である。
私は中国に親しい友人がいて、特に香港にいる友人は実際にこのクラブの人が中国で貿易する時に通訳として動いてくれたのだが、そういう人間たちから聞く話と言うのはかなり興味深いもので、いろいろと参考になる。
言える話の範囲では前にも言った、中国ではボクシングは一般の人ができないと言うこと、前からボクシング特にアマチュアボクシングは金moneyにならないので、競技者がへってきて、昔に比べてかなりメダルがとりやすくなった。
そういうこともあって政府が北京オリンピックにむけて強化スポーツの一つとして位置づけ、そういう養成所をつくったのだと思うが、これはメンツを重んじる中国らしい政策である。
また話によると、とある大きな貿易会社は、おおがかりな貿易がやりにくくなっているらしい。その人間はその通訳としてまかされたのに仕事がなくなってしまって困っているというようなことを言っていたが、やはりこれも尖閣諸島をめぐって大きなまさつが起こっていると考えられる。

言葉をおぼえて他の国の人間と話をすることは非常に興味深くためになることだ。
はっきり言って生徒をほったらかしにしてキャバクラに行ったり、女を連れ込むような奴らは、そんなことに金をつぎ込むなら、語学を勉強した方がいい。基礎英語1からでもはじめりゃあいいと思う。
現に英語で書物を読んだり、新聞を読んだら日本で聞くことや知っていることとは全然違うことや、えっこんなことがあるのかというようなことがよくわかる。
この前の子供のストレスなんて言うのも英字新聞を読んでいて、記事になっていたものだが、欧米と言うのは日本よりも子供の人権と言うものが確率されているので、こう言ったことが記事になりやすく、深刻になるのだと思うが、こういう問題を突き詰めていくと、もはやスポーツクラブと言うのは、ただ自信をもたせるというような安易な考えでは、十分に子供の心のケアをすることは不可能であると言うことがわかり、多少なりともそう言ったことを学ぶようになるだろう。
しかし外の世界に出て行かない、漫画やゴシップ雑誌、スポーツ雑誌しか読まないような奴は人権やコモンセンスが理解できない、この21世紀のグローバルな時代に、広く物事を見ることができないから自分たちの世界でかたまる「そういう奴らが、仲間どうし楽しくやってまーす」というような雰囲気で集まって、日光猿集団ややくざの一派のような軍団を生み出すのと思っているが、指導者がバカだとそういう小さく固まる軍団になると思っている。

この世界は中学生のどころか、小学生の方がまともな会話ができるんじゃないかというぐらい程度のひくいバカがいるが、大人としての当たり前の常識や学識を持たないような、キャバクラや飲み屋でしか通用しないような会話しかできないような人間に何を期待できるのだろうか?
たぶんこういうところにいたら何々一派の一員になるだけで、肝心な部分は成長しない、おそらくそいつらの言っている自信というのはかりそめの自信で、人をなぐって、筋トレをするぐらいで自信がつくならば、そんなことは誰だってする。
正直今このアマチュアボクシングの世界はまともな常識が働いているとは考えがたい。
前にも挙げた不正、人権問題、女性差別、こういうことももう少し広く考えればおかしいことだと思うのだが、しかしなんせ自分たちの世界だけが素晴らしく、正しい世界だと思っている、北朝鮮のような世界だから、どうすることもできない、正直相手にしないということが一番賢明かもしれない。

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言葉によるアイデンティティ

2012-12-12 | Weblog
最近子供に英語を習わす親が増えている。速い人では3歳ぐらいから習わせているのだが、しかし私のところでは5歳未満の子供には英語を教えてはいない。
この時代に英語を無視するような人間は能力に限界があると思うし、モノリンガルでは世界がせまくなり、今の時代には通用しないと思っているのだが、しかし幼児期から英語を習得させると言うことには反対である。
なぜ反対かと言うとアイデンティティの問題である。言葉と言うのはその民族のアイデンティティを確立させる事柄で、人は何語を話すかによってどの民族につながるかと言うことが決定して来ると思っているからだ。
例えば「水」と言う言葉がある。これは英語では「Water」韓国語では「ムル」である。たぶん日本人が「水」と言う言葉を聞いたら「冷たい」とか、そういった感情につながると思うが、キャッチコピーなんかは、まさにそういう人間の言葉の心理をついたものだ。
おそらくそれは日常を日本語つかい、それを経験することによって、そういう言葉や感覚を持つことができ、言葉と感情、感覚の結びつけアイデンティティになっていくと思うのだが、しかし日本人に「water」とか「ムル」と言っても「冷たい」などという感覚や感情には、すぐにつながりにくい。
なぜなら日本人は日本語によって事柄を伝達し、日本語をつかって成長してきたからで、おそらく「水」冷たい「火」あついというのはそういう言葉を通して経験してきたことだからだ。そしてこの経験が自分たちのアイデンティティになっていく、すなわちにこの経験が言葉を単なる事柄としてとらえるのではない、感情や感覚をともなったものとして備わるのだが、日本語を話すと言うことは、自分たちはその日本語を話すから日本人なのだというアイデンティティにつながっていくのだ。

これは経験的なことで科学的な根拠はないが、言葉を大事にする民族ほど民族意識が強く愛国心が強く、それとは逆に言葉を大事にしない人間は民族意識が低く、母国を大切にしないと言う考えが私にはある。
卑近な例では、新しく党を発足した石原氏は作家であり、その参謀の橋本氏も弁護士であるが、二人とも言葉を使う仕事である。
石原氏の発言を聞いていてもわかることだが、彼らの理念はかなり右寄りだと言われているのは、このことと関係してはないだろうか。
それに対して最近日本語があぶないなどと言われているが、たぶん日本人に愛国心が欠けていると思わされるのは、日本語教育がおろそかになってきているからだと思う。
私はよく本屋に行くが、最近気づくことは、岩波の本が少なくなってきていることだ。10年ぐらい前はちょっとした本屋におかれていたが最近ではへってきて、特に岩波文庫はかなり大きな本屋に行かなくては買うことができないのだが、そのほとんどは当たり前だが絶版である。
確かに岩波は文体が古いのでかなり読みにくいが、しかし文章や内容はかなり難しいことを書いているので、これ1冊を読むとかなり、鍛えられる。言葉も「蓋し」とか「強ち」などという普段使わない言葉や漢字でかけない言葉が出てくるので、広辞苑を持って読まなくては読めない、最近でゲームや漫画が小説になっているそうだが、しかしあんなものは本ではない、漫画の延長で、こういう本が結構読まれていると聞くが、岩波のような難解な日本語を読む人がへってきていることに、日本人のアイデンティティが希薄になってきているような気がする。

韓国人とフランス人の共通点をあげるとしたら、愛国心が強いことだ、まず愛国心が強いので言葉に絶対的な自信を持っている。
よくフランスに行くと、彼ら彼女らは英語をわかっていても話さないと言う話しを聞く。
まあこれは半ば都市伝説的なものであって、実際はわからないから話さないと言った方がいいのだが、しかしこういった話は彼ら彼女らがいかに愛国心が強く、言葉を大事にしているかと言うことが理解できる。
韓国人もそうだ。ハングルと言う言葉は偉大な言葉という意味で、韓国人のほとんどの人間はハングルで表せない言葉はないと信じている(しかし実際は「ざ行」の音や伸ばす音など出せない)が彼ら彼女らのほとんどは自分の国の言葉に絶対的な自信?を持っている。
特に中国の朝鮮族は中国で育つが、しかしほぼ100%の人間が朝鮮語を話す。それだけではなく、朝鮮族は中国でも教育レヴェルが高く、日本語などの他の言葉もおぼえさせるのでトライリンガルの人も多く、それは彼ら彼女らが子供の時から朝鮮語を教えるからで、中国にいても自分たちは朝鮮人だと言うアイデンティティがあるからだ。
まあここまで話を聞けば、日本語教育=日本人であることのアイデンティティと言うことになるが、しかし自分がどの民族につながっていて、どの言葉を母国語にして話しているかと言うことは大事なことで、それは自己を確立させていく上では重要なことだ。
私は国粋主義者ではないが、しかし自分はどの国につながっているかと言うアイデンティティ、日本人だから日本語を話すと言うことは、重要なことだ。

最後に前にソヒョンにもらったCDに「missing you like crazy」という歌がある。
このさびのところの「ミチゲ ポゴシップン サラム」「ミチゲ トウッコシップン ノエ ハンマリ」「サランヘ サランヘヨ クデヌン オディ ナヨ」「カスム キピ パキン クリウン サラム」
こういう独特の激しい言葉を聞くと、なぜか民族的な感情が湧き上がってくるのだが、たぶんこの曲を意味も分からず日本人が歌っていても、本当の意味で感情にはどどかない、やはりこれらは歌い手がその国の言葉で歌っているからであり、特にこのようなその国独特の激しい言葉を使っている時は、そのことがよくわかる。


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お前何時に寝るんだ。

2012-12-10 | Weblog
英字新聞にこういう記事があった「Children get depression, too. Specialist Sympathize with their hardship amd anguish. 」
先日友人の子供ソヒョンと話をしたら、かなり疲れている様子であった。疲れている様子なので「お前何時に寝るんだ」と聞いたら早くて12時遅くて1時半ぐらいだと言う。
我々の時代小学6年生が夜中の12時まで起きてること自体ありえないことだが、しかし韓国では当たり前のことで、ハゴン(塾)や英会話などの習い事で毎日をおわれる彼女らは、必然的に寝るのが遅くなるそうである。
今韓国の子供だけではない、日本の子供も非常に疲れている。それは特に彼女のような競争社会の中にいるような子供だけではなく、この社会の現実と言うかひずみの中でストレスを抱えて生きていると言うことができるのだが、今日挙げた英字新聞の記事は、実際にそういううつやプチウツの危険性を抱えていることもたちがいると言う、社会に対する警告である。

前回も言ったがオリーヴはスポーツテラピーというものを考えている。実際そういうテラピーの必要な人が現代社会に増えているということをうけてのことだが、私自身スポーツをすることで、人間の心は癒されると信じている。
しかしそのスポーツそれ自体が持っている、本来の心の治癒力を引き出したかったら、その共同体がどういう共同体であるかと言うことが重要なことで、はっきり言って今の日本の運動クラブにはそういう子供たちをいやす力はないと思っている。

日本では子供の頃から同じスポーツを徹底してさせるが、しかし欧米では小学生ぐらいから4つぐらいスポーツをかけもちさせる。
日本だと野球クラブに入ると基本だとか言って、素振りのような基礎練習を徹底的にさせて、それがいい指導法だと考えられている。
クラブに入ってもあいさつしろとか先輩や監督と言う親玉に気を遣い、それができなければ、そういう基本的なことができない奴はボクシングなどできないというようなことを言われる。いわゆるそこで独特の縦社会がつくられ、こういう縦社会に順応できない人間はだめな奴とみなされるのだ。
しかしこう言ったくだらないルールをおしつけて、何も考えずにただひたすらにんじんに向かって走らせるような体育会のシステムがよりよい人間を育成しているかどうかと問えば、それは違う。むしろ私はそういう狭い社会に子供を押し込めることは、かえって健全ではない。マイナスだと思っている。
日本は他の世界に比べて凶悪犯罪が少ないことはよく知られていることである。
特に最近減ってきてはいるがレイプの件数は非常に少ないとも言える。
しかしにもかかわらず毎年新聞をにぎわす運動部のレイプ事件は異常なことである。
レイプと言ってもこいつらのレイプは集団レイプで、ある意味殺人よりもえげつない。
こういうことが毎年毎年新聞にのるのだから、はっきり言って、ストレスを発散し、そして健全な心をつくる目的としての、スポーツの場が機能していないと言うことが言えると思うが、最近では指導者もレイプして事件になるのだから、常軌を逸脱している。

欧米は基本的にはスポーツは楽しむもの、まず実戦形式でゲームに参加させることでスポーツの楽しさを教える、これが欧米のスポーツにたいする考え方で、英語で野球をすると言うのは「Play ball」と言うが、欧米人は基本的にスポーツは楽しむことと考えていて、それは日本人が考えるような修行の場ではない。
スポーツと言うのは楽しむためにあるもので、遊びのようなものだ、その遊びが思い切り何もかも忘れてできるからこそ、ストレスが発散でき、心が癒されていく、そういう環境をつくることが必要で、そういう環境をつくるためには、この世界を改めてとらえなおしていくことが必要だ。

私はチャンピオンになれとか全国に行けなどと言うことだけをめざして、それに優劣をつけるようなやり方に徹底して否定するが、何とかチャンピオンとか何とか何位が偉いのか。そんなもので自信がついたと言うのは、自分の価値をみとめてほしいから言うだけで、そういうことを自慢したがる奴はバカだ。何もないからそういうことしか言えない、いわゆる自信がないからそういうことしか言えないのだが、そういうかりそめだけの何の根拠もないことを自信だと言って子供をふりまわすのはよくない。こういう無意味な競争でつぶされた子供を何人か見ているが、今では幼児心理学や児童心理学と言う学問があるのだから、そういうことをもっと勉強してこういうことを発言しなければいけないのだが、しかしたいていは興味がないというか、そういうことを理解できない人間がいて、ただ勢いと意地でいっているだけである。

これからのスポーツは、正直何とかチャンピオンとか、何とか何位よりも学問的に物事を考える力が必要である。
英語ができないのなら仕方がないが、これからの特に日本のスポーツは、指導面やものの考え方など、スポーツ科学はもちろんのこと、心理学や倫理学などの学問を学び、とらえなおさなくてはいけないことがたくさんあると思う。
縦社会は言語道断であるが、成長期に無理な減量をさせたり、ひどい奴になると小学生に減量などをさせるやつがいて、その減量も節制などと言うような言葉を小学生に使うバカもいるそうだが、なぜそういう非常識なことができるのか理解できない。そういう世界では正しい事なのだろうが、しかし子供や成長期の減量なんて医学的におかしいことで、こういうことを試合のたびに繰り返し、させることにはかなりの問題があると言える。
たぶんウルトラバカなトレーナーはそういう成長期の人間や子供に減量させて、いかに自分はすごい減量をしたかと言うことを自慢げに言うのだと思うが、しかしこれは常識的にはおかしいことで、狭い社会だから通じることである。
かなりおおげさだが、しかし要点は同じだと思うが、中国に昔「てんそく」という制度があった、これは人為的に女の子の足をかたにはめて小さくするのだが、これは今では人権問題だと言うことで、廃止になった。
成長期や子供など十分に栄養が必要な時期に、階級を意識させて減量させると言うのは、自分の意志であると言っても未成年の場合は、はっきり言ってその人間の成長する過程を妨げているという上では「てんそく」と同じようなもので、そこまでおおげさではないにしろ、こういう権利を妨げるような行為や言葉、特に節制しろなどと決して言ってはならない。
減量なんて言うのも無理して階級を下げることが有利であると言うことがないのだから、むしろ成長期にはよくないのだから、そういうことをとめて階級をあげるぐらいのことを言うのが当然だと思うのだが、こういうことはもう少し深く考えなくては見えてこないのだが、しかしこういうことが当たり前のことがわからないノー天気な奴が多い。
最近ボクシングと言うスポーツは世間の風当たりが強く、アマチュアの親玉たちもそれなりに過敏になっているが、しかしその過敏にならなくてはいけない気の遣い方が違う。
はっきり言って私にしてみたら、それは配慮と言うよりも、暴力団新法をおそれているやくざのようなもので、むしろなさけなさが伝わってくる。

私は決して人権擁護派ではないが、アマチュアボクシングという団体はもう少しというか、かなり人権と言うことをよく考えなくてはいけないと思う。世界的に言ってこの人権問題と言うものを基本として考えなければ、子供や女性などの弱い立場の人間を支えることはできない。(こういうことを理解できないから、試合をするにあたって女性だけに試験があるのだと思うが)
大勢の人の前で素っ裸で計量させる。独占販売させて高いヘッドギアを買わせる。子供にたたきあいをさせることを認めている。大きい声で人をののしる。言葉を含めて暴力的行為。下半身の暴走、引率でキャバクラ言ったり女を連れ込むなんて信じられない話だ。こいつらのち○こに対するちん権はあっても、しかし真面目に生きている競技者の人権は軽んじられている。アムネスティにつっこまれたら否人権団体として認められるんじゃないのかと思うぐらいだが、こういう人権が疎い奴らに礼儀だのあいさつだの言われたくはない。
たぶんこれは「モノレイシャル」「モノリンガル」の限界だと思うが、もう少しいろいろな考え方や立場に立って人権と言うものを考えてほしいものである。

最後にR15指定にしたのに、それでも彼女はブログを見ているので
「ハジマン ヒムル ネ イマンクム ワッチャナ」「イゴッチョムン チョンマル ピョルゴ アニャ」
はよねろ。がんばって。





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ちょっとだけサクリファイス

2012-12-07 | Weblog
来年韓国語の教室を開校予定しているが、しかしここのところ日韓の関係が悪化してきているので、延期せざるを得ない。
まあ彼ら彼女らのこういった一連の行動はあらかじめ予想できたことなので、特にあせりなどないが、しかし大統領の発言を発端に反日教育の実態がさらけだされ、今では旅行者もへってきているのだが、たぶんしばらくはこういう状態が続くであろうと予想している。
この韓国語の教室であるが、これをするにあたって友人の紹介で講師を紹介してもらっている。
彼女は来年卒業予定の大学生、就職が厳しいのでその間つなぎで韓国語を教えると言うことを言っていて、この前この学生と韓国語の打ち合わせをしたのだが、その時ちょうど大学のアサインメントがあって、彼女は教育学部の日本語学科で将来日本語の教師を希望しているのだが、私に「日本ではいい教師ってどんな教師なのか」ということを聞いてきた。
私はとっさに「devote themself to students」ができるような人と言ったのだが、これは私の持論である。
たぶんこのことは人に何かを教えるときにおいてそうだと言えるのだが、おそらく人に何かを教えようと言うような仕事には、ある程度の犠牲といってはおおげさだが、そういう部分がなければいけないと思うし、人から多くのもの見返りとして期待してはいけないと思っているのだが、ボクシングを教えると言うことにおいても、ある程度犠牲的というか、そういう精神や奉仕的な精神がなければ人に教えて本当の信用を得ることはできないと思っている。

これは前にも話したが、私は以前福祉施設で何人かの子供をカウンセリングしたことがある。
私自身も複雑な環境におかれて、それなりに世の中に対して反発して生きてきたが、しかし彼ら彼女らのように自分の親に見捨てられたと言うことから比べたらそんなことは比ではない。とにかく彼ら彼女らの信用を得ることは難しかった。
実際かかわっていても最初はかなり食い違うことが多く、はじめの頃はかなりきつい裏切りにもあって、正直頼まれて引き受けたがもうかかわるのはやめてやろうかと思ったこともしばしばあったのだが、しかし彼ら彼女らと向き合ってかかわっていくうちに、彼ら彼女らは犠牲者で、自分は彼ら彼女らからどうしたら信用してもらえるかと言うことを真剣に考えたことはたしかなことである。

前回生徒をほったらかしにして遠征でキャバクラに行く下半身にしまりのない奴らのことを言ったが、特にこういう不誠実は、親や人間に裏切られた人間にとっては、一番信用を失うことで、豪快でいいとかおもしろいですまされる話ではない。
なぜなら親が酒におぼれて暴力をふるうとか、母親が男に走って子供をほったらかしにされりたり、ひどい奴になると男に好かれるために子供を虐待したという話があるからで、子供たちがこういう大人の自分勝手て自重できない行為の犠牲になってきたからだ。
私はそういうかかわりの中で、今後一切酒を飲んだり、不誠実なことはしないと誓ったのだが、これが唯一不完全である私にできる建設的なサクリファイスであったと思っているが、無力であってもこういうことをしっかりすれば信用を得れるものである。
現にそれ以来思い切り言いたいことが言えたし、思っていることも伝えることもできた。時にはかなりおこって言ったこともあるが、しかしお互い一人の人間として向き合えたことは確かなことで、うまくいかなかったこともあったが、しかし私は彼ら彼女らを裏切ることはなかったということは自信を持って言える。

サクリファイスというのは日本語で「犠牲」という言葉である。
しかし私の言うサクリファイスは「犠牲」と言うよりも、子供と大人の心理的な壁をとりのぞくために必要な大人が譲る行為で、正直子供とかかわる人間は大なり小なりこのサクリファイスが求められるのではないだろうか?
子供と言うのはよく見ているものだ、たぶんこういう下半身にしまりのないような奴らは、本当の意味で信用などされない。たぶんそういう奴らが作る群れと言うのは、仲間や子飼いと言った、自分たちさえよければいいと考えているような奴らが囲む集団で、親玉中心の封建的な社会がまさにそれだと思っているが、こういう奴らばかり集めて自分たちの小さい王国をつくろうとするから社会的に影響などもたない、むしろボクシングは野蛮でバカがやるスポーツだと揶揄されるのだと思う。
今や社会的に何らかのかたちで世の中に貢献しなくては、スポーツの存在意義は乏しいものだ、アマチュアボクシングがマイナースポーツでおわっているのも、こういう貢献の仕方ができないからであり、ある意味レヴェルがひくいと言わざるを得ないような行動をおこすからだと疑っているが、親玉だけではなく、この世界は本当に人権を無視していることが多い。

ちなみに私は人権派の人間ではない。
むしろすべてのことを人権にからめてアドヴァンテージをとろうとする団体に対しては、疑問を持っているが、しかしそれにしてもアマチュアボクシングはひどすぎる。










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