アランと言う哲学者がいる。彼の考えている幸福論は仏教の解脱的であるので日本人ならばなじめる内容であると思うが、しかしエセ宗教家ポイので本当に単純に心を開いて読まなければ実践的ではないと言える。その著書において彼が礼儀について語っているのだがこのように言っている「礼儀は相手の気持ちを考えてあげようとする思いやりであって義務感から自分の態度を差し控えたりかえたりするのは礼儀ではない従属である。」と言っている。おそらく彼のこの言葉に日本人の考える礼儀とコモンセンスの違いがあると思うのだが、その違いについては英語の辞書の解釈をあげて説明したが、コモンセンスと言うのはアランの言葉をかりればその場に応じて相手に不快な思いをさせることではない相手に対する敬意と思いやりである。例えばあいさつにしてもチワーッスって不快だろ。こういうあいさつは日本語力がひくいく周りの社会を意識していない自分たちの世界で通用することがすべてだと思っているからでてくるのであろうが、私がこの手のタイプの人間がきらいなのは顧問や先輩の前では普段とはまったく違う態度をとるからである。礼儀と言うのはある程度洗練されたものだ、スープを飲む時音をたててはいけないのは相手に不快な思いをさせてはいけないから、欧米は少し前までレディファースト言うのがあったが、おそらく欧米の礼儀は服従ではなく思いやりと言う要素があってアランは単にその性質を言っているのだろうと思う。顧問や先輩に対して服従するが、しかし後輩にはエラそうにするというようなシステムは間違っている。私なら先輩がまず後輩にあいさつすることを教えるが、もしそう教えて秩序が保てないとか言うのであればその集団は知性が足りないのであろうと思う。うちのクラブのアドバンテージはまさにそういう点である。私は子供にあいさつしろと言ったことはない。しかし彼ら彼女らはできなかってもできるようになる。それはまわりの大人がこんにちはと声をかけてくれるからであり、そういう声をかけられていくうちに子供はきちんとあいさつできるようになる。スポーツクラブは更生施設ではない。よくあいさつは基本だと言ってそこから徹底させる人間がいるが、しかしその意味が伝わらなければ意味がない。第一あいさつする意味とは一体何なのか?私はあいさつというのは会話をはじめる潤滑油と考えている。こんにちはとにっこり笑ってあいさつすると心がほぐれてその人と話がしやすくなる。相手を気分良くさせるものである。しかしチワーッスとかやたら気合の入ったあいさつは逆にドキッとしてしまうものである。気持ちいいあいさつをさせるにはまずそのことを体験させなくてはだめだろう。まわりから暖かく向けられてあいさつされるから気持ちよくあいさつできるのだ、子供はいい意味でも悪い意味でもまねをするものだ、そこでいい体験をしたら同じことをするようになる。高校生で子供があいさつしなくてもこんにちはと言う子供がいるが、彼は小学校の時はあいまいなあいさつであった、がしかし子供がどうであれこんにちはと何の抵抗もなしに言えるのは彼がここのクラブの人たちに同じようなことをしてもらったからだ、しかし逆にあいさつを義務づけるとあいつはあいさつがなってないとか本当に小さなことだと思うが人を裁くようになる。こういうコミュニティで大事なことはその子がどうなっていくかであって、服従させたり仲間にすることではない。個性と自由を尊重しつつコミュニティがその手本となるべきである。あいさつは基本だあいさつしなくてはお前はうちの一員じゃないと言う態度ははっきり言って教育的ではない。