脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

あいさつさせることは教育的か?

2015-08-30 | Weblog

アランと言う哲学者がいる。彼の考えている幸福論は仏教の解脱的であるので日本人ならばなじめる内容であると思うが、しかしエセ宗教家ポイので本当に単純に心を開いて読まなければ実践的ではないと言える。その著書において彼が礼儀について語っているのだがこのように言っている「礼儀は相手の気持ちを考えてあげようとする思いやりであって義務感から自分の態度を差し控えたりかえたりするのは礼儀ではない従属である。」と言っている。おそらく彼のこの言葉に日本人の考える礼儀とコモンセンスの違いがあると思うのだが、その違いについては英語の辞書の解釈をあげて説明したが、コモンセンスと言うのはアランの言葉をかりればその場に応じて相手に不快な思いをさせることではない相手に対する敬意と思いやりである。例えばあいさつにしてもチワーッスって不快だろ。こういうあいさつは日本語力がひくいく周りの社会を意識していない自分たちの世界で通用することがすべてだと思っているからでてくるのであろうが、私がこの手のタイプの人間がきらいなのは顧問や先輩の前では普段とはまったく違う態度をとるからである。礼儀と言うのはある程度洗練されたものだ、スープを飲む時音をたててはいけないのは相手に不快な思いをさせてはいけないから、欧米は少し前までレディファースト言うのがあったが、おそらく欧米の礼儀は服従ではなく思いやりと言う要素があってアランは単にその性質を言っているのだろうと思う。顧問や先輩に対して服従するが、しかし後輩にはエラそうにするというようなシステムは間違っている。私なら先輩がまず後輩にあいさつすることを教えるが、もしそう教えて秩序が保てないとか言うのであればその集団は知性が足りないのであろうと思う。うちのクラブのアドバンテージはまさにそういう点である。私は子供にあいさつしろと言ったことはない。しかし彼ら彼女らはできなかってもできるようになる。それはまわりの大人がこんにちはと声をかけてくれるからであり、そういう声をかけられていくうちに子供はきちんとあいさつできるようになる。スポーツクラブは更生施設ではない。よくあいさつは基本だと言ってそこから徹底させる人間がいるが、しかしその意味が伝わらなければ意味がない。第一あいさつする意味とは一体何なのか?私はあいさつというのは会話をはじめる潤滑油と考えている。こんにちはとにっこり笑ってあいさつすると心がほぐれてその人と話がしやすくなる。相手を気分良くさせるものである。しかしチワーッスとかやたら気合の入ったあいさつは逆にドキッとしてしまうものである。気持ちいいあいさつをさせるにはまずそのことを体験させなくてはだめだろう。まわりから暖かく向けられてあいさつされるから気持ちよくあいさつできるのだ、子供はいい意味でも悪い意味でもまねをするものだ、そこでいい体験をしたら同じことをするようになる。高校生で子供があいさつしなくてもこんにちはと言う子供がいるが、彼は小学校の時はあいまいなあいさつであった、がしかし子供がどうであれこんにちはと何の抵抗もなしに言えるのは彼がここのクラブの人たちに同じようなことをしてもらったからだ、しかし逆にあいさつを義務づけるとあいつはあいさつがなってないとか本当に小さなことだと思うが人を裁くようになる。こういうコミュニティで大事なことはその子がどうなっていくかであって、服従させたり仲間にすることではない。個性と自由を尊重しつつコミュニティがその手本となるべきである。あいさつは基本だあいさつしなくてはお前はうちの一員じゃないと言う態度ははっきり言って教育的ではない。

 

 

 

 


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fucking coufucianism

2015-08-28 | Weblog

今日隊長をジムの近くのスーパーで発見、声をかけた。どうやらかなり体調がわるいみたいでかなりの悲壮感が漂ってくる。その姿はとある場所に行けば心中じゃないのかと間違われるぐらいであったが、どうやら体調がかなりわるいのでジムに行こうか行くまいか迷っていたそうで、本人曰くそこを私につかまってしまい女王様をするはめになったそうである。うちのボクシングクラブはほとんどがボランティアで成り立っている。トレーナーはもちろんのことこのマス部隊の人たちもお役に立てればと言うことでやってくださっている本当にありがたい存在である。はっきり言ってお金や特別な待遇がなければ何もできないというのはゲスな考えである。金がもらえるからとかトレーナーだからと言ってこれ見よがしに自慢したりエラそうにするような人間はここには必要はない、うちのトレーナーはボクシングを教えているからと言って上から目線で人をみたり、しょうむない武勇伝を語って自分は違うと特別感を出そうと言うようなせこい考え方などない。そういう待遇を求めるような人間はジムの女性をナンパしたりするものである。普通社会的にもちゃんとした人たちが隊長とかリーダーとか言って自分をさげてそんなおちゃらけたグループで活動などしないだろう。彼ら彼女らは人には平等に接し人と接すること、そして教えることに喜びを感じて指導してくれている非常に頼もしい存在である。うちは来てもらったらわかるが圧倒的に一般のOL風の人やサラリーマン風の人たちが多く、めがねをかけたままでトレーニングしている人も少なくはない。いわゆる格闘技にありがちなやんちゃですよはほとんどいないということであるが、やはりこう言った層が多いのは雰囲気がいいからでこの雰囲気はトレーナーや常連会員さんの存在が大きいと思う。私がジムをオーガナイズドする上で重要視しているのは言葉である。差別と思われるような不適切な言葉や乱暴な言葉はつかわない。なるべく正しい日本語を使いバカと思われるような発言はしない。知的な言葉をつかうことによって群れの質を上げていくことがうちのクラブをオーガナイズドするために必須である。事実群れの質がわるいのはその中心となっている人間の言葉のレベルがひくいからだ、言葉の質がひくいと同じようなレベルの人間が集まってくる。うちのようにいろいろな立場の人たちがいるクラブはまずそういう人たちと会話するために日本語力を上げることが必須である。特に私のように外国語が話せる人間は横文字を頻繁につかうが、しかしここで使うのは日本語であるからその日本語力を高めるために勉強しているが、こうしてブログを書くのもそのうちのひとつである。

よくわからんがこの前ニュースでKARAと言う韓国のグループが日本で活動しているらしく、その理由は独島について踏み絵的な質問をされた時にはぐらかして日本のことをよく言ったからだそうだ。韓国人は最近日本人にはよく思われていない。そりゃ日本を支持したぐらいでこれだけの仕打ちをうけるのだから当たり前のことだ、話によれば彼女らは韓国追放みたいなことを書いていたがこういう民族意識は決して正しいものだとはとうてい思えない。彼ら彼女らがここまで高い民族意識を持つのは儒教にある。彼ら彼女らはよく自分たちの国や言葉を言うときにウリ(私たちの)と言う言葉をつけるが、これは儒教の家と言う考え方が広がって民族=家となったのだと思っている。昔ハワイで友人の女の子が言っていたことを思い出す。彼女は昔はホステスが大嫌いで、おばさんがコレアンバーを経営していてそのバーに来る女性にたいして軽蔑していたそうである。しかしある現実を知った時彼女の考え方がかわったそうだ。それはここに流れてくる女性の現実を知ったからである。ここに流れてくる大半は向こうで仕事が見つからずやもえずにここに流れてきたと言う現実。今はどうかわからないが当時はアメリカに出す養子の数は韓国人が圧倒的に多かったとか。これは未婚の母や離婚してしまった女性たちが母国ではそういう人間に対してひどい差別があったし、ましてやそういう状況で子供を育てながら働くなんて不可能に近い、養子に出すと言うのはまさにそういう現実があって、当時自分の愛する子供を養子に出すと言うことは断腸の思いであったと思う。彼女いわくすべてのことにには目に見えない現実がある。そういう現実を見るのが大事なことで特に我々のように恵まれた人間がそういう現実を知ることは大事だと言っていた。私が見た現実はヨンミ(偽名)と言うとあるみやげもの屋で働いていた女性だ。たぶん彼女は今もワイキキにあるそこそこ日本人も来るみやげもの屋で働いている。ただみやげもの屋で働く前は何をしていたのかは言わなかったが、彼女は夫の暴力にたえきれずにげてきたらしい。幸いなことに子供を一緒ここに連れてこれたので現在子供は現地の小学校に通っているようであったが、しかし英語が話せない人間があえてこんな遠い地で仕事をしなければならないことはそうせざるをえなかった現実がある。儒教と言うのは教訓としてはわるいものではないが、しかし体系的にはこういう間違った考え方を生み出してしまう。ある作家は中国人と韓国人の失敗は儒教を重んじすぎたことで、その点日本人は仏教や朱子学を取り入れたことが日本の道徳を高めたとさえ言っていたが、私にしてみればそんな何千年前のことが大事だと思えない。サンテクジュペリの星の王子様のセリフで「大切なものは目には見えない心の目で見るんだ」とあるが、しかし心の目でどう見るんじゃい、こういう現実に入って人と人との会話の中から大切なものが見えてくる、だから私は言葉を大事にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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能力のない奴はつるむ

2015-08-25 | Weblog

私は人によくあだなをつける。自分で言うのも何だが結構的を射たあだ名であると思っているのだが、学生の時の話だが大学で虫の研究をしてた奴がいた。そいつとはそりが合わないのでファーブルとおちょくってあだなをつけたが私にむかついていたのか自然科学をバカにしたような態度が気にいらなかったのかはわからないが私があだ名をつけたことを知ってなぐられそうになったこともある。

うちのクラブでは英語を教えている。TOEICの点数が高い人には英語で質問を出してそれを書いてもらってアドバイスをしているのだがこの前のお題は iI want to know how would you discribe yourself? what kinda person would you say you are? 君はどういう性格かと聞かれても難しい。このお題の狙いはどれだけ自分のアドバンテージを上げることができるかでそのアドバンテージをしっかりと認識し表現することでインパクトのある自己表現力を養うためだ。日本人はこういわれたら必ずいいところをあげたらわるいところもあげるが、しかしそれは多少悲観的でインパクトが弱い、今回のお題は面接などを想定してであるからこういう場合は積極的に自分のアドバンテージを表現して行くことが必要である。そういうことを積極的に表現できなければ国際社会では自己主張できないだろう。たいした実力もないのに自分を大きく見せるのは逆にみっともないが、しかしそれなりに何かをやってきた人間はアドバンテージの一つや二つはあるものだ。そういうアドバンテージを積極的に表現できないと外国人の前で自己主張などできない。だだスポーツをやってきたことで評価されようとするような人間がいるが、しかしスポーツは娯楽その世界ではどうかわからないが社会ではたいした評価の対象とはならないだろう。現に韓国では面接の時の優先順位は学歴、語学、留学経験、ボランティアなどクラブ活動などはほとんど問題でないとさえ言っていた。だから君のアドバンテージはと聞かれて堂々とI have done boxing for 10yrsと言ってもso whatだ、それだけで評価されると言う稚拙な人間もいるがしかし10年もそんなことをやっているのだから逆にAre you OK with your head?と言われるだろう。で私のアドバンテージは客観的な立場に立てることだ。人とはつるまない常に客観的な立場で見て不公平などに対しては辛辣な意見を言うので思いっきり嫌われることもあるが、しかしわかる人には理解してもらえると信じている。聖書などの預言者がそうであるが彼らは常に一人で客観的な立場に立っていた。そういう立場であったからこそ公平さや正義を語ることができたわけで、スポーツ指導者と言うのもここまでとはいかずとも客観的な目を養うために時には孤独に自分を置くことも必要だ。能力のない人間が一番得意なのはつるむことだ。何もできない何も持っていないから仲間を集めてつるむ、暴走族やDQNの集団なんて言うのはまさに自分たちが社会で小さすぎる存在だから仲間を集めてその存在価値をそこにおいて安心しようとしているが、しかしそこから離れてしまったら何も持たない自分がたいしたことがない、むしろ世の中に迷惑をかける邪魔な存在であることがわかる。群れを管理するにあたって責任者がその群れとつるむようではまともな集団とはなりえない、その指導者の能力に応じてその程度の人間が集まってくる。だから知的センスを養うことが大事だ。DQNの多いような集団はまさにそうだが、客観的な立場に立てばその群れを管理することが仲間とワイワイバカやってつるむことではなく、大事なことは知的センスを養うことがわかると思う。

 


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インターナショナル大阪

2015-08-23 | Weblog

今年の夏久しぶりに大阪にそしてそこで泊まったホテルであるが日本人よりも中国人や韓国人が多いことにおどろいた。しかし私にとってこの環境はむしろいごごちがよくむしろ日本人ばかりの場所よりも落ち着く、フロントで前の韓国人の女の子がパスポートが必要なのかヨクwoンと友達にそれを持ってくるのを言っていた時に「passport right!」と言ったら誰あんたっていう顔をしていたが、やはり韓国語は濃音や激音と言うのがあるのでうるさい。最近韓国人もおとなしくなったがしかし中国人がいる時は並ぶなんて感覚は持たないほうがいい。フロントでも列を無視して案の定空いたところにすっと入って行く、私も空いたところにすっと入っていってチェックインをしたがやはり最後にのこっていたのはほぼ日本人であった。これは私の意見であるが韓国人に物を売る時一番購買欲をそそらすのはディスカウントよりもおまけである。これ買ったらこれだけおまけがあるとと言うとえっとおまけしてくれるのと興味を持つ。とにかく彼ら彼女らと会話すること会話しながら国のことをほめる。ハングルって世界遺産だよねとか韓国ってワールドカップでベスト4までいったよねとかほめてほめまくっておまけをつける、日本はものを買ってもたいしたサンプルもくれないから得点が大きければ大きいほど心を開き購買欲をそそるであろう。

国際政治学の入門書にインターナショナルマインドは英語を話したり外国語を話したりすることだけではない。いろいろな国の文化や習慣を知ることだと言うことが書かれてあったが、それは同感である。話は私がとまったホテルであるが、私はいつもホテルを予約するときは金虎英で予約しているのだが、その読み方がわからないからenglishで書いてくれと言われた。そう言われたのでkim hoyoungと書いたがホテルの人間は読めない。韓国語や中国語の名前の表記の仕方がローマ字とは違うので読めないと思うのだが、この原因は日本人はenglishをローマ字読みしてしまう傾向があるからだ。韓国語の「ん」の音は3つある「N」「M」「UNG」日本人からしたらすべて「ん」だがしかしそれぞれが違う。ローマ字意味と言うのは初歩段階ではいいトレーニングであるが、しかしその文化や使い方が広がればそこから脱却しなくてはいけないと思うのだが、日本人が韓国人や中国人の名前が読めないのはそう言った語学音痴であるという現実を踏まえているのかも知れない。さらに私が学生などと話す時に感じることは日本人の外国の情報と言うのはすべてインターネットのネタやテレビのことであると言うことだ。留学したこともない言葉も話せない人間が匿名で好きなことを書けるインターネットや番組の都合を考えて放映するテレビのネタぐらいで文化なやその人種の性格などわかるはずはない。確かに韓国人は今話題になっているような悪い面もあるが、しかしテレビと現実は違う。特に彼ら彼女らは国家的戦略と言うものを持っていて卑近な例になると中国や韓国の発展途上国への介入名ばかりかもしれないが開発を手伝うことでいいイメージをつくり国連で自分たちの立場をよくするのが彼ら彼女らの目的である。さらに驚いたことにベトナムで韓国人は思いっきり嫌われているのかと思いきやむしろ若年層にはいいイメージを持たれてるそうで、それは国家的戦略でベトナムのテレビ局の時間を買い取ってその時間韓流を流しまくったそうでその影響か若年層にはいい印象があるそうである。元来ならば韓国はベトナムにとって超極悪国家である。彼ら彼女らはこういう戦略を持っている。それは多少ゆがんだかたちかもしれないが、戦略があるということはある程度外交が機能しているということで、彼r彼女らが根本的に日本人と違うのは彼ら彼女らは常に国家を背負っている意識していると言うことだ。日本人は国際交流を仲良くすることだと思っているが、しかし国際交流と言う場はお互いの意見を主張する場であり、意見をぶつけて相手のことを知るからこそお互いがその国の人間をどう扱っていいのか考えるのだ。最近では英語を話すバイリンガルが増えてきたが、しかし日本人は議論がへた、もっとさらに他の国のことを知らなくてはならない。

 

 

 


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親切な日本人

2015-08-21 | Weblog

うちで柔術の教室をやるので、それならと言うことでラッキースターも何か教室をひらくらしい。柔術はたまたまここに師範の人が来てくれていてその人が今のところ月2回ほどのペースで開いてくれているが人数が増えて来たら週1ぐらいのペースで開く予定である。教えてくれる人もうちの考え方がいいということで来てくれた人なので強く優しい、どんなにへたれでも一から丁寧に教えてくれるので興味のある人は気軽に参加できる。この教室は会員の人はもちろん無料今のところ何名かトレーニングに参加している。さらに9月にはアリンが大阪に留学するので、休みの時こっちに帰ってくると思うのでその期間インターナショナルカフェと称して英会話で交流を持つ機会をしばしば持とうと思っているのだが、うちは英語教師をはじめ韓国語教室そして柔術教室などいくつか教室があるがもともとこういった教室を持ったのは会員を集めようとか言うことではなく、自然の流れでそうなったと言ったほうがいいができればこういうかたちで才能を発揮してほしい。

私がもし日本人の優れたところをあげるとしたら親切であることだ。いつも感心するのは日本人の助け合い精神である。よくここでも会員どうしが自分の習ったことを教え合いをしている光景を見るが、おそらく米国では自分が一生懸命トレーニングして習得したコツを他人にそうたやすく教えることなどない。しかし日本人はそれをたやすく他人に教える。柔術を教えてくれる人も師範代であるそうだが、こういう人が報酬抜きでおやくにたてればということで指導してくれるのだが、同じ東洋人でも韓国人や中国人はここまでしないであろう(在日韓国人は別だと思うが)。日本人はコミュニティを形成するうえでは優れた民族であると思っている。ただ海外ではこういう親切心につけこんでだまそうとする不良外国人もたくさんいることは確かだ。私などは外国に行ったら片言の日本語で近づいてくる奴や満面の笑顔で近づいてくる奴はすべてアリババに見える。あやしい日本語でワタシニホンイタコトアルとかじゃあ東京の地名二つ言ってみろと言うと何も言えないので適当にごまかすのだが、こういう奴らとは決して会話してはいけない。ハワイにハナウマベイと言うシュノーケリングで有名なところがあるのだがそこにに行った時のこと、のどが渇いたので近くの露店みたいなところでジュースを買おうとした。しかしその値段がべらぼうに高い、私は英語でなんでこんなに高いんじゃと聞くと(What the faking price is thisと聞いてはいけない)、その店のおやじは笑ってここはワイキキだからワイキキプライスだと言う。えっでも他ではそんな値段では売っていないよというとここはワイキキだの一点張り、頭に来たのでじゃあアラモアナのジュースをくれと言うとさすがにまけたのか、じゃあ3つ買ったらこれだけにしてやるとほぼ半額で妥協、しかしそれでも普通のジュースよりは高かったことをおぼえている。そのおっさんはジュースを渡す時にお前どこから来たんだと言うので日本だというとふーんと意味深な表情をうかべていたが、日本人だったら不当な値段を値切ったらあかんのかと思う。韓国人もそうであるが、仲良くなって韓国人はいい人とか言うとみんないい人ではないわるい人もいるから気をつけろとアドバイスしてくれる。少数のしかもに日本語が話せる韓国人やテレビの情報などを見てそう思うのもどうかと思うのだがしかし日本人は人がいい。韓国にはナップンサラム(わるい人)がたくさんいる。たぶん韓国人が仲良くなってこう言うのはこれは心をゆるすことができたから語る本音で、日本人は仲良くなってもこういうことは言わない、なぜなら人をだますなんて言うことなんて思わないからで、おそらく何の含みもなしにありがとうと言える民族だと思う。

 


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ガウンを着ても実力がないと

2015-08-18 | Weblog

先日フランス人の子から大阪の大学に留学するので休みの日はこちらで過ごすのでよろしくとあった。彼女は以前から日本で働きたいという気持ちがあったようで、まずその足掛かりとして東京ではなく大阪を選んだのは高知に近いからだそうだ。前に彼女が私のことを考え方が公平だと言っていた。たぶんフランスはヒューマニズム的な考え方を持つ人が多いのでそういったことも含めてのことであるが、いろいろな文化を経験してきたので普通の人が見ている目よりもさらに客観的に物事をとらえていると自負している。文化と言うのはそれぞれ国によって違うのだが、文化が違えば考え方も違うそういう考え方の人とたちと向き合って話をすることは非常にためになることで物の見方を広げることでもあり、特にスポーツはそれが大事だと思う。例えばトレーニング中に水を飲むなと言われてきたことは欧米人に言わせればクレージーなことであった。現在では水を飲まさないなんて言うクラブはないと思うが、昔は当たり前にやってきたことでも現在では医学的に見ておかしいことが多く、そう言ったことはすべてとは言わないが多くは改善されていると思うが、こういった間違いなどを知るためにも外の世界をよく見るということは不可欠なことである。私はよく子供のボクシングを禁止させろというのは医学的にも危険であり危険であることを欧米が認めているからである。おそらくアメリカに貧富の差がなくなったら子供のボクシングはさらにマイナーになるだろうが、今アマチュアボクシングが盛んなところはアムネスティで問題になっている国いわゆる人権に問題がある国である。欧米は子供の頭蓋骨が未発達段階であることさらに成長期の減量などそういった医学的な事柄や人権などを踏まえて子供に競技させることにはかなり消極的である。この件に関しては2012年ごろまでしばしばニュースなどで取り上げられていたが、もはや未成年の問題は本人の希望とか親が認めるからと言った問題ではない。事実医学的には後遺症など弊害がある。さらに子供にはそれが正しいかどうかと言う判断基準などとぼしいのだから本人の希望とか勢いやのりではなく学問的な基準を持ってそれがいいのかわるいのかということを判断して、もし競技させるのであればその危険性をきちんと説明してコントラクトにサインさせる必要はあるだろう。こういう問題はいつまでも灰色ではだめだ、うちのクラブでは灰色なものは排除するがこの灰色感でクラブの健全性がある程度はかれるであろう。これからのスポーツはイメージが大事だボクシングはそういう意味では認められないところがあるが、おそらくこういう灰色の部分が多く、学問的な基準に立って物事が見れていないからではないだろうか。狭い世界にとどまっていると非常にその世界が矮小化される。競技者をおいそことかよんだり、指導者が絶対的立場に立つなんて言うことは人権にかかわる問題で、スポーツを修業としてではなくレジャーとしてとらえている欧米ではありえない。これは私の感想であるが日本は競技者がそれを競技していると言うよりもやらされている感がある。確かに一部の人間は思いっきりやっているがしかしそこにはヒエラルキーや区別のようなものがあって、われわれのように趣味でやっている人間はどちらかと言うと遠慮してやっているようにさえ見えるのである。学生時代私が競技しているところは非常に自由であった。笑ったのはガウンを着ている奴がいて、そいつがガウンを着て待機しているのだがガウンを着ているのだからさぞかし強いと思いきや、いざリングに上がるとフィリピーノの選手に1ラウンドでRSC、笑った。そういう実力がなかっても自分がやりたいようにカッコつけれるような雰囲気はあったことは確かだ。以前書いたが私も結構自由であった。たぶん私のようなことをしたり言ったりしたら日本では監督にしこたまおこられると思うのだが、たぶんそういったことも自分を自由にさらけだすことができたからで、私自身決して世界はおろか米国でも通用する選手ではなかったが、その当時を振り返ると本当に楽しく競技できたと思う。

 


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ベンサムではなくミルだ

2015-08-15 | Weblog

私はそれしかできない人間はダメだとよく言う。ただ天才と言う例外もあるがここで述べるのは一般論であって特に勉強ができない嫌いだからと言ってそれを放棄してにげるスポーツバカと呼ばれる人間である。何かを学ぶということは自分の考え方や見聞を広める上では重要なことだ、当たり前だがそれなしには人間は成長などしない。ただ好きなことだけをするのがいいのか?これに対してベンサムは言う「最大多数の最大幸福だ」すなわちベンサムによれば量的快楽主義幸福-快楽の量によって個人の幸福度は決まる。究極的に言えば幸福を得るための行為はそれが本人が幸福であると感じれば何をしてもゆるされる。だからスポーツしかしないというのはベンサムの幸福論においては本人が幸せを感じるならばそれでいいのだ。しかしこれに異を唱えたのはミルである。「いや幸福は質であって量ではない」人間が追い求める幸福はただ単に自分がしたいことをして快楽を得るのではなくて質の問題だ。「満足な豚よりも不満足なソクラテスのほうがいい」というのはミルの言葉であるが、ミルは人間が幸福を求めることにおいてどう生きるかを問題にしたのである。ベンサムにおいてもしゲーム三昧の生き方がその人の快楽ならばそれは幸福であると言えるが、しかしそれが快楽だと言えるのは自分の主張しかできない愚か者であるからで、こういう愚かな生き方が客観的に見て幸せだと言えるはずがないというのがミルの質的功利主義である。少しコンプリケイテッドな問題であるが、私はスポーツ的快楽と言うのは単純で遊びで得れる快楽となんらかわりがないと思っている。スポーツを否定する気はさらさらないが、しかしそれだけしかできない、しないというのは自分の主張しかできない愚かな生き方であると私は思う。それはかかわりの中で自分をとらえることができない自分勝手な考え方だ。特にすべてのことをそれに置き換えて、自慢話しかできない人間がそうである。そういう奴がただ賞をとったり、記録を目指すために他のことを無視するのはのはまさに個人の快楽の追及で、おそらく自分が活躍したことなんかを自慢げに話すのもその快楽の延長であると思っている。余談であるがたいしたこともないのにいかにも自分は成功者のように自分の実績を針小棒大に語る奴がいるが、そういう話が飛び交うスポーツクラブなんて言うのは稚拙な集団だと思っている。しかしなぜベンサム的功利主義ではいけないことなのか、それは人間はコミュニティで生きているからである。特にうちのようなコミュニタリアン的な人間が多いクラブではこういう考え方は通用しない。ここでは例えボクシングができても尊敬されることはないとよく言っているが、それはもはや私の考えと言うよりもコミュニティの目指しているものが違うし我々のおいている価値基準も違うということを示した言葉である。自分の記録や勝ち負けにこだわるのもいいだろうが、しかしコミュニタリアン的なコミュニティであるうちのクラブにおいてはそれはプライオリティではない。もし何か賞をとっても本当にそれがその人にとって価値あるものとなるにはその人がしっかりとした生き方に基づくからその賞が付加価値をもたらすのであって、大事なことはサルのように芸をみがくことではなく、よりよく生きるための知性と知恵を身につけることではないだろうか。

 

 

 


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スポーツの力

2015-08-14 | Weblog

TEDと言うカンファレンスがある。これはその最前線で活躍する学者や活動家ビジネスパーソンたちがそれぞれの立場から問題提起するカンファレンスであるが見たらわかるが非常にためになる必ず見聞が広がる番組なので見る価値はあると思う。外の世界に出ていくことは人間を成長させる上では大事なことだ、見る世界が狭ければ考え方も矮小化される。だからせめてこういう番組などを見て自分の見聞を広めることは大事なことであろう。大学教育は何が違うかと言うとこういった難しいことを学んでいろいろとディスカッションすることである。例えば本を読んでそれを発表してディスカッションすることで、その本に書かれているそれぞれの受け取り方がわかるだろう。さらにそのことについてディスカッションすることで問題を広く考えることができキャパが広がる。おそらく大学教育などの専門課程と言うのはそういうことの繰り返しでこういう訓練を受けているものと受けていないものでは差が出てくると思うのだが、特にそういう訓練は今のスポーツ指導者には必要なことだと思う。前にピーターシンガーの書いた「The life you can save」と言う本いついて紹介した。この本は我々が本気になって貧困のために取り組めば世界の貧困を解決できるということを現実的にとらえた本であるが、スポーツと言うのが国境をこえると言うのならば、もっともっといろいろな問題について考える必要はある、私はいつも思うことであるがスポーツ選手でお笑いにいじられている人間たちがあの時間1分でも30秒でも今世界でおこっている悲惨な現状についてのべたら多少はそれに関心を持つものもでてくるだろう。確かに何人かのスポーツ選手は発展途上国にスポーツをひろめながら援助活動を行っているが、しかしそういうことは忘れたころに美談として取り上げるだけで大半の人間は部室でするようなのりでテレビに出てくる。こういう奴らを見たら本当に無駄な電波をつかっていると憤りさえおぼえる。私がマイノリティだから言っているわけではないが、このTEDと言う番組を見たらいかに世界には問題が多く日本はその中でも経済的にも精神的にもその国を援助できる国だということがわかるだろう。世界とかオリンピックとか言っていてもこういうことには関心がない無知ではいけない、英語をおぼえて教養を身につけて今世界では何がおこっているかということに関心を持たなくてはいけないと思う。世界を目指せというのもいいが、しかしそのお前が目指している世界ではどういうことがおこっているのかと言うことを伝える必要がある。


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Study and speak english!

2015-08-11 | Weblog

私は高校生や若い人たちにはボクシングのいいところばかりを伝えない、うちにはそういう人間は入ってこないがむしろ格闘技は考え方の狭い人間が結構いてそういう考え方に刺激されたらだめだと言うようなことも伝えている。よく格闘技では強さみたいなことを強調するが、しかし本当に彼ら彼女らは強い生き方をしているのか疑問だ、私から見たらたいていの人間は自分の腕力を盾にしてほえているだけ、それならばゴリラやチンパンジーとかわりない、広く世の中を見渡したらそれしかできないということがいかに恥ずかしいことか、あるいは力を持たないことがわかるが、しかしそういう人たちは往々にして自分たちのサル山からでたがらないのだ。強い生き方と言うのは自分が通用するような世界で虚勢を張って生きることではない。親が外国人であるということはある意味周りにそういう人間たちをひきよせるのだが、私自身は真面目であったが実は私のまわりにはえげつない人間がいた。テレビでおなじみの○○連合の親玉たち、地元では有名なやくざになったような奴もいるが、私はそういう奴らをくずとはばからなかった。ただその中でも何人かすごいのはいた。ひとりは関西でも有名な暴走族の親玉で名前を言えばあああの人かと言うぐらい有名らしい。でその男がこのままではいかんと目指したのが弁護士、中学で勉強もろくにしなかった人間が弁護士なんてなれるはずはない。おそらくまわりの人間たちもそうは言えなかったがそう思ったと思う。しかし彼のすごいところは事実だ意見を経て難関大学に受かったことだ。話によると勉強などしたことがなかったのでまず大検をとることが彼にとって大きな試練だったそうで、彼は1日4時間ぐらいしか寝ないで猛勉強をしたそうである。そしてその結果難関大学に合格、そして彼は弁護士の道を歩んだそうである。私がよくダメな奴や立ち直ろうと頑張る奴に、言うことはあきらめるな時間をかけろそのためには人とおくれて何かをすることを恥ずかしいと思うなと言うことだ。人が18で大学に行くところを24で行ったらいい、本当に自分がそこで立ち直りたいと思ったならばそれぐらいの気持ちで生きる必要はある。それをただボクシングをやってればなんとかなるという奴はそいつの生き方がうすっぺらく本当生きていく上で大事なことを知らない、あるいはごまかして生きてきているからだ。本当に人に評価される生き方をしたければ自分の考え方や生き方を変える必要はある。自分の生き方をひろく見渡して刺激をうける、そういう意味では広い世界に出ていくことは必要なことで、同じような奴ばかりがかたまるような集団の中にいては成長しない。少したとえかたは違うがプラトンのイディア論のたとえはこうだ。洞窟の中にいる人間たちは洞窟の中がすべてだと思っている。ある日賢者が外の世界に出ていっていや実際外の世界はこうなんだというが、しかし彼ら彼女らは洞窟の中の世界がすべてだと思っているのでその賢者の声に耳を傾けることはない。これが物事を正しく受けとめられない人間の本質だと言っているが、まさに洞窟とは自分が今大事にしている世界かもしれない、がしかし人間が成長するためそこから一歩出て広い世界を見ることも大事なことだ。

 

 

 


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aweと言うこと 

2015-08-09 | Weblog

だいぶ前にある外国人が日本のおとぎ話はあまい。すべてが仲良しで終わっていて子供に努力することを教えないと言っていたが、私も同感このことに関しては私もブログで言及している。特にわるいことをしたらこうなるぞと言う戒めが弱い、日本のおとぎ話は物語全体を見渡してもこういう勧善懲悪のあくは徹底的にたたくというような部分がないらしい。わるいことをすれば必ず報いを受けるというのは西洋と東洋が共通して持っている宗教観である。しかし最近はこういう考え方が希薄になってきて子供の感覚が少し変わってきている。因果応報や仏教思想が多少なりとも浸透していた時代であれば、目に見えない力に対して畏怖を感じていたが、しかしそういう神や仏の存在を信じなくなった。いわゆる見えない力や上からの権威と言うものを認めなくなったので道徳や倫理感のバランスが崩れてきたように思えるのだ。おとぎ話は単なる物語ではなくて読み聞かせることで子供の深層心理に働きかけ子供に畏敬を教えるためのものだ。人が見ていなくてもわるいことをしたらこうなるぞということを子供の心に聞かせることは大事なことだ、時々子供でこわいと感じなければ反省しないような子供がいるが、そういう子供たちは往々にして親との関係が希薄、勉強嫌い、本を読まない子供に多いような気がしている。小さい子供が言うことをきかない時に鬼がくると言われて、その時鬼が来たらこわいからと親の言うことを聞くのだが、そのレベルの中学生や高校生が少なくはないことは事実である。これは単に中高生が過渡期で成熟していないからではなくて、幼児教育の問題でもあると感じている。これはある店の店長が言っていたが万引きの被害額は相当なものらしい。その被害額は(事実あらわれているだけで)全国で年4615億の被害があるらしく、この数字にいかに人が見てなきゃ大丈夫だというおろかな考え方があらわれているように思えるのだ。おおげさに聞こえるがしかし子供のころから深層心理に何がわるいことかとうったえかけることは大事なことだ、アリとキリギリスではなまけもののキリギリスを最後にはアリが助けて一緒に楽しくくらすようだが、しかしそんななまけものにあまい顔をしてはいけない、最近のおとぎ話はハッピーエンドで仲良しを強調しているらしいが、しかし世の中にはやってはいけないこととなってはいけない大人たちがいることは事実だ、それをおとぎ話から学ぶ必要はあるだろう。

 


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