脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

犠牲のただしいはらい方

2016-03-28 | Weblog

最近のおっさんたちのグループが活発になってきた。若いトレーナーを中心にマスをしているのだが、その様子が非常に楽しそうである。動画で録画して後で自分のマスを見る。フェイスブックなどにもあげているらしく、試合にも出たいと言う中年戦士もでてきて、トレーナーがいない時もマスの後お互いが教えあったりしてひとつのかたちが出来上がったようで、この形をつくってくれたことは非常に評価できることである。私はトレーナーに絶対的な信頼を置いている。なぜならおおげさに聞こえるが彼らは多くの犠牲をはらって指導してくれているからだ。私は人間は多少の犠牲をはらわなければついてこないと思っている。私は時々人に犠牲をはらえと言っているが、犠牲sacrificeは人をまとめ成長させるだけではなく自分も成長するからだ。特にうちのクラブのようにしっかりした社会人が多いクラブは口先だけでいいことを言っても見透かされる。本当にこの人は自分たちのために何かをしてくれていると言う気持ちがなければついてこない。ここのトレーナーは実績はそう目立ったものではないが、しかしまわりから非常に感謝されていることがわかる。マイナースポーツのアホみたいな実績をかさに着ていばったり、特別感を出したり、威嚇にも近い雰囲気でまとめるのではなく、自分の存在を出さずに相手をどう楽しませてあげようか、どうしたらうまくなることを考えて相手をのばすと言うことを考えているのだが、そういう気持ちにまわりがついてきているのだと思う。マイナースポーツごときであるが、そのマイナースポーツでのくだらない実績もどきがあるような奴やそれしかできないほかにとりえがないと言うような奴は自分が目立つことしか考えていない。ここからは私の考え方だが、犠牲と言うのは非常に崇高な考え方だ。本当に人間を動かすのはこのsacrifice犠牲であって、この相互関係が相手と自分を大きく成長させるものだと思っているのだが、まさにトレーナーが自分の時間をつくって来てくれて人を楽しませてくれたり、教えてくれたりするのはまさにそういうことで、そういう中で築いていく関係と言うのは安っぽいものでもなく、そこには群れの成長が垣間見られる。ここの会員の人たち特におっさんたちは一生懸命トレーニングしているが、よく言うのがこんだけやってもらっているのでできなくては○○さんにわるいということであるが、まさにひとりびとりがはらったちょっとした犠牲が実になっている。そういう成長があるからこそここが癒しの場となりえるのだと思う。まあトレーナーたちは好きでやっている。そうでなければやらないと思うのだが、しかし彼らだけではなく上級者が試合の前だと言うのに女王様の相手をしてくれたり、自分の時間をとめて教えてくれるのもまさにそう、自然ではあるがそういうちょっとしたsacrificeがこのクラブを支えていると思う。

 私は宗教学を勉強したので言うがマザーテレサの偉業と言うのはどこから出ているのかと言うと、それは神秘的な力やキリスト教の教えからではない。彼女がそこまでして自分を人々に捧げることができたのはイエスの犠牲、この犠牲によって自分は救われたのだと言う信心からである。私がsacrificeは最も崇高だと言うのはマザーテレサによるものだ。ギリシャ哲学では愛すると言う言葉が3種類ある。ελοs Φιλια αγαpηの3つで最後のαγαpηが一方的に与えると言う意味の愛で最も崇高なものと考えられているが、まさにsacrificeと言うのはそれで、そのことは人間の行動を突き動かすものであり、群れを豊かにするものだと信じている。

 


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うちのクラブはコミュニタリアンだ

2016-03-27 | Weblog

私はいつもコミュニティを考える時にその群れがどこに向かっているのかと言うことを深く考える。どこに向かっているかというのは全国を制覇しろとかチャンピオンになれとかということではない。その群れを健全に正しく導いていくためには何が大事なことで何が必要かと言うこと、いつも言っているがそのためにはしっかりと哲学を持つことと言葉を磨くことだ。群れの指導者が知性を重んじれば行く方句は自ずとそういう方向に向かう。教養があるとか社会でしっかりしている人間よりもたかだかボクシングができると言うだけで目立ったり、ちやほやされるような場ではダメだ。程度のひくいクラブは暴走族、暴力団の組、アウトロー、偏差値のひくい不良が多い学校せいぜい軍隊のような組織でしかないが、そういうクラブは往々して知性を重んじない、ただ体育会的な礼儀が正しいと思っている。アウトローが堂々としかもそれができるだけで目立ってトレーニングできるなんて言うことはうちではありえない。こういう奴らが集まれば武勇伝ややんちゃ話に花が咲く、そして社会の裏技的なことが賢いことだと勘違いしているのだが、格闘技のような集団は往々にしてそうなりがちであるが、こういう方向に流れていかないためにも指導者がしっかりと知性を重んじて管理して行くことが必要だと思っている。

うちのクラブは相互関係によって人間が成長し癒されるためのクラブであると言うことを掲げている。そしてこれがうちの哲学であり、立場的にはコミュニタリアンである。そのためには弱い存在をどう見ていくかと言うことであり、うちのクラブではそういう弱い人に対して配慮すると言うことはブログを見たらわかってもらえると思う。人間は自分のアドバンテージを磨くことだけでは成長しない、自分の弱さを認めそしてその弱いものをどう配慮していくかと言うことで成長するし、それは群れ全体の成長にもつながる。世界の幸福度のトップにある国は福祉がしっかりしていて男女平等指数も高く、人権が認められている国である。前にも言ったがこういう格闘技の世界では男性が中心なので女性はどちらかと言えば遠慮しなくてはいけない立場にいる。そういう構造的なことも含めてジェンダーや能力などを考えた上で群れを形成していく必要はあるだろう。ただ格闘技ができるとか目立ったような奴らが勢いで進んでいくような群れはサルの群れに等しい、威嚇や力が物を言うような世界は群れとしては程度がひくい動物園、暴走族、ヤンキー学校、暴力団、いいとこ軍隊のような雰囲気のクラブはうちのような社会人が多いクラブには必要がない。


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Gimp 私の「闘志」の解釈

2016-03-23 | Weblog

日記に闘志と威嚇は全く違うと書いたが、私がアウトローをジムから排除する理由は威嚇を闘志だと勘違いしている奴が多いからだ、そういう奴がひとりでもいるとまわりの雰囲気がわるくなる、女性やおとなしい人に気をつかってのことである。闘志はある程度トレーニングをつんだ中から生まれるものだ、そしてそれは目的をしっかりと見据えている。一方威嚇は犬がうーーーっとかいうあれ、威勢はいいがしかし自分よりも大きな壁にぶつかったらキャンと鳴き声をあげてにげていく、たぶんこいつら学習ができないから心や頭を鍛えることができない、できないから人を威嚇するのだと思う。ファイティングスピリットなんて言うのは刺激でたきつけるだけでは育たない、ファイティングスピリットは自分の今おかれている状況と自分がアドバンテージとディスアドバンテージをよく理解して冷静に判断した上で湧き上がってくるエネルギーだと思っているが、それは人間が持つ知性や考え方から生まれるものだ。映画ロッキーⅣと言うのがある、ロッキーはかなりシリーズが長く続いていていつまで続くんだとさえ思ってしまうのだが、実は私が好きなのは政治的な意味も含めてこのⅣである。Ⅳはロッキーがクリスマスにロシア(旧ソビエト)で試合をすることになった。当時アメリカとソビエトは敵対関係にあったのだが、ロッキーはあえてそこでトレーニングをすることを申し出るのだが、彼らは歓迎されていない敵対心むき出しの国、しかも彼の邪魔をしようとする国でトレーニングをすることを決意するのである。そのトレーニングのシーンで彼が黙々と雪の中走るシーンがある。厳しい自然の中彼は黙々とただひたすら山の頂上めがけて走るのだが、その黙々と走る姿は感動的で、ただ何も言わずにひたすら勝利を信じて地道で厳しいトレーニングをするこのシーンに内なる強い闘志を感じたことは確かである。こういうファイティングスピリットは石炭についた火のようだ、火がつくのはおそいが、じわーっと熱くなってきてそれはやがて高温の熱で燃え上がる、普通の炎のようにはでにばっと燃えるものではないが、しかしそれはじっくりと長く持続する。私はファイティングスピリットと言うものもそういう質のものでなければならないと信じているが、そういう精神を生み出すためにはある程度の考察と学習所謂訓練そして考察と学習によってもたらされる自分を信じることができるという自信が必要であると思う。

 


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私の群れのとらえかた

2016-03-21 | Weblog

うちのクラブは画像や動画をのせてやたら宣伝しないのは動画や画像などの刺激でくる人よりもきちんと文章を読んで理解してくれる人のほうが安心できるからである。文章で自分の考え方や思っていることを表すと言うことは大事なことだ、特にスポーツクラブと言うのは子供や学生が来るし親とのかかわりもあるのだから一般的な常識力として自分の考え方をきちんと文章にして表現する能力は必要であると思っている。教育とか教養と言うのは群れを形成していく上では不可欠である。私の考え方ではその群れの責任者はある程度知性を持つことはその群れの質を上げるのにはかかせない、その群れの雰囲気をつくると言っても過言ではないのだが責任者の話し方や文章能力はそれをはかるものさしのようなものであると思っている。たかだかボクシングの群れに教養とか教育と思う人間もいるだろうが、私は群れを形成していく上では絶対不可欠なものだと思っている。楽しくやってますとかのりや勢いで行くのも仲間程度のつながりはできるだろうが、教育的には決していい影響を与えるとはいいがたい、体育会のありきたりの礼儀みたいなことを言ったとしても、根本的には中身がないどこかでそのあいまいさが出てくる。現に類は友を呼ぶと言って中身のない人間のまわりにはそういう人間たちが集まっているのだろうが、私はスポーツクラブであるからこそ指導者のインテリジェンスが感じられる言葉や振る舞いは大事だと思う。特にこういう格闘技はその群れにアウトローが集まらないためにもある程度の知的さは必要だ。安心感と言うのはただ楽しくやってますとか女性が多いとかそういう単純なことから生まれてくるのではない。その責任者の考え方から生まれるものだと信じているが、うちのクラブでは弱い立場のものをどう配慮していくかと言うことであるがこの件に関してはブログでもよく説明しているが、このことがうちのクラブがかかげている理念で、それは試合に出るとか出ないとかよりも重要なことである。うちのクラブは強くなるためのクラブではない。成長するためあるいは社会人などが癒されるためのクラブである。このことを見据えてこういうクラブにするためには何が必要かそしてどういう言葉やふるまいによってそれを浸透させていくかと言うことが大事なことで、それらは教養のレベルに比例してくると思う。


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日本人は優秀だが想像力がない

2016-03-20 | Weblog

土曜日某航空会社のキャビンアテンダントと例の件で話をした。どこにいるのかわからないが夜中の1時ごろにと言うことで承諾したのだが、結局かなりうまがあったようで2時間以上も話しこんでしまった。話していてわかったのだが、東南アジアの人は日本にあこがれるが、しかし意外とわかっていない人が多い。それよりもむしろコレアンのほうがよく知られていてリメイクされている日本のドラマは韓流だと勘違いしているようである。日本人のひかえめさはこういうところにも出ている。本当だったらあれは日本がオリジナルだと言うところだが、しかしこういうひかえめなところが実に素晴らしいところだ。彼女はフライトでハワイに行っていたので日本人のイメージを聞くとまずshyだと言う、そして勤勉でまじめそしてひかえめであるそうだ。私は異文化を経験しているが、日本人は即効性のない民族だが、後になってその良さがわかってくる。携帯電話とかも中韓に押され気味でであるが、しかし徐々にその控えめで派手には売りこまないけれども日本製の耐久性や質の良さは認められつつあるが、これらは勤勉まじめそしてひかえめさが生み出した結果であると思う。

英語を教えていてわかるのだが、日本人の語学音痴は想像力がないからだと思っている。最近の英検の問題は多少の想像力がなければ答えることができないのだが、一つの絵をみてその状況を説明しろと言われてもなかなかそれができない、英検でも問題集はできるのだが、絵を見て状況を答えろとかあなたはどう考えるかと聞かれたら自分でどう答えていいかわからない、例えばdo you like dogsと聞かれてyesと答える。じゃあなぜと言われたら返答につまる。かわいいからとかいやされるからとか答えたらいいのだろうが、しかし英語となれば当たり前に言えることでも躊躇して言うことができない、いわゆる定型文的な答えでないと答えが出てこない、これはやはり想像力や自分で考えると言う能力がとぼしいからであろう。昔韓国の税関を通る時に若い職員に因縁ぽいことを言われた韓国語で因縁はいい言葉だが、あくまでここで言う因縁は日本語の難癖である。私は頭に来たので「わからないから英語で答えろ共通言語だ」と言うと向こうの態度がさらにエキサイトして「OK OK」と敵意むきだしのわけのわからない英語を話しだしてきた。その時近くにいた職員が何かあったのかと近づいてきて、私はカバンを調べられただけだと答えると「じゃあ行ったらいい」と言うことで入国できたが、あの勢いはへたをしたら追い返されていたかもしれない。何が言いたいかと言うと向こうの人間と日本人では言葉をつかうことのアグレッシブさが違うということである。だいぶ前にはやったスピードなんちゃらというのは定型文の集約であるし、本屋でもよく売れているのは定型文的な本であるがはっきり言って定型文なんておぼえてもあまり意味がない、英語の本なのに誰か日本語が話せる人がいませんかとか私は英語が話せませんなんて言うわけのわからない消極的なフレーズがあるが、それよりも想像力を働かせて日記を書いた方が想像力や英語的思考力を働かせる上では有益であると思う。日本人は日本語になれてしまっているせいか語学習得に対してアグレッシブさがない。スポーツに命をかけろとか気合を入れろとか言うが語学習得と言うのは生き残っていくためにはかなり重要なことで、単一民族でひとつの言語しか持たない日本人にはそれが危機感として伝わっていない、これからは英語を話さなくてはいけない時代だ、定型文のような分をおぼえても自分の言いたいことや考えなど述べることはできない、それよりも想像力を養い言いたいことが言えるような学習法が必要であるが、私は日記を書くことをすすめる。

 

 

 

 


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これからは個人主義だ

2016-03-19 | Weblog

日本人のラグビー選手が英語力不足でブリスベンのスタメンおちと言う記事があった。近年スポーツ選手に求められる英語力は不可欠となりつつある。英語ができないとコミュニケーションが取れないし、技術を聞いて取得することもできない。そしてそれはアスリートだけではなく指導者にもいえることだ、日本はバカ丸出しの体育会と言うのがあたりまえの組織になっているが、好きなスポーツをやっているのにののしられたり、それしかできないような奴がひいきされるような世界が正しいとも思えない。これからは日本も外国からコミュニティの在り方や組織論と言うものを大いに学ぶ必要がある。そういう意味で英語は不可欠である。基本的に欧米は個人主義である。私の考えるスポーツでの個人主義と言うのは自分の好き勝手なことをやることではない、そのスポーツを自分は競技していると言う権利を持つと言うことだ。好きなことをやっているのにののしられたり、できる人間だけ特別扱いするような集団は決して個人主義とは言えない、いろいろと話を聞いているとそれしかできないそれを一生懸命やっていうクラブの競技者は監督の恩恵をうけたがる。自分だけ特別な呼び名で呼ばれていることに特別感を感じたり、どなりつけられてもたたかれてもそれは自分のためだとわけのわからないことを言うのはそのコミュニティが閉鎖されたコミュニティで個人主義ではないからである。私は外国でボクシングを競技したけど一度たりともどなられたことなどない。試合の時にあつくなって行け何やってんだと言われたこともあるが、しかし言われたら「shut your mouth」と言い返すこともできる。それぞれが自分の権利で自分が選んだスポーツを競技しているからである。日本人は協調性とかチームワークとか言っているが、私から見たらそれを押しつけすぎる。例えばクラブでよく自分が練習を休んだらまわりに迷惑がかかると言う人間がいる。まわりも来なかったら自分たちは練習しているのになぜ来ないんだと怒りをあらわにする。しかし一人ライバルがへるからラッキーだろ、試合にしても勝った相手が負けた相手に握手しに行く、勝っても負けても最後はお互いを認め合うなんてきれいごとを言っているが、尊敬なんてそんな茶番からは生まれない。外国でおわって直後グローブをあわせて握手をするが、それは単なるエチケットで尊敬や尊重と言うのはもっと違うかたちで本気でぶつかって言った時に生まれるもので、本当に相手のことを尊重したかったらわざわざ勝った相手が負けた相手のところに行ってありがとうございました。などと言わない。おそらくこういう一行為は自分がどの集団につながっているかと言う監督などのメンツもあるのだろうと思っている。

私がまだ試合についていっていた時の頃、うちの競技者がまけて控室にいたところ、勝った相手がにやにや笑って「いやあありがとうございました」と近づいて来た。負けた人間は人がいいのかそいつの話を聞いていたが、話を聞いていると終始そいつがどれだけ強かったかと言うことを示すような内容であったが、横で聞いててこいつだけは次どんな汚い手をつかってもぶちのめしてやろうと思ったことは確かなことだ。おそらく米国だったらどえらい目にあわされている。中には試合は殺し合いだなどとか吠えているが、本当の競争社会に生きていないので、彼ら彼女らの言葉は言いたいことを言える世界でのはったりに聞こえて仕方がない。最近のふにゃーっとしたボクサーよりも受験生のほうがファイティングスピリットを感じる。もう少しゆっくり話してくれとか誰か英語ができる人いませんかなんていうセリフばかり暗記しないで、通訳をたよるのでもなくまず英語をおぼえて自分の言いたいことを言うそして広い世界を見ると言うことは必要なことである。


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ヘイトスピーチやめろ 

2016-03-16 | Weblog

在日コレアンが多く住む川崎地区の在日コレアンがヘイトスピーチで人権を侵害されたとして被害救済や予防措置をとるように求めるように地方法務局に申告書を退出したらしい。確かに最近韓国人に対する風当たりが強い。在日韓国人が本気で身の危険を感じると言っていたが、それは彼ら彼女らのせいだと言ってしまえばそれまでだが、しかしこうなったのも一方的に彼ら彼女らのせいだとも言えない。自分たちの立場をはっきりさせることができない、弱腰外交がもたらした結果でもある。1950年代から1984年の帰郷事業にしてもそうだ、あんなめちゃくちゃな国を政治家やマスコミなどが地上の楽園とうたい在日韓国人だけではなく日本人をおくったのだが、結果としてその身内は人質をとられて北朝鮮にいそしくお金と物資をおくるはめに「かぞくのくに」と言う在日朝鮮人を描いた映画があるが、それを見たらいかに北多朝鮮と言う国が汚いか、そして朝鮮人の中には犠牲者もいることがわかる。問題をすり替える気はさらさらないし、いま韓国のやっていることはまったく見当違いであるが、しかし今の日本の立場は日本の外国音痴弱腰外交がもたらした結果でもあるとも言えるのではないだろうか。それを完全に棚上げして韓国朝鮮人は祖国に帰れとか朝鮮人は敵だとかヘイトスピーチを繰り広げるのは賢明とは言えない。私は従軍慰安婦は韓国朝鮮のねつ造で戦争責任になどとる必要などさらさらないと考えているが、しかし帰郷事業は日本の政治家やマスコミの責任だ。北朝鮮がミサイル開発ができたのも日本からおくった物資によるものだと言っても過言ではない、人質をとられてひたすら物資と金を送る。もちろんそれにあやかる悪党や完全に洗脳されたような人間もいるが、しかし彼ら彼女らは犠牲者でもある。これからは拉致問題だけではなく人質問題も含めて解決していく方向で朝鮮人の人権を守ってやることも必要なことではないか。もちろん朝鮮人は日本人ではないのだから本来は国家として政治的に彼ら彼女らを救出したり、問題をとりあげることはないだろうが、しかし帰郷事業は日本人がおかした過ちとも言えるであろう。そしてその責任はとる必要はあるのではないかと思うのが私の見解である。たぶん私の意見はかなりすれすれ普通の日本人ならいわないほうが賢明で、ひと昔前ならどえらいことになっていたであろう。ただ私の気持ちとしてはヘイトスピーチを聞くといやな気持になる。しまいにはその子孫や関係者まであぶりだされて被害にあうんじゃないかと心配している。私が自分の素性をあかしているのは日本人はそういう偏見を持ったり差別したりしない平和な民族だと信じているからだ。

 

 


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λογοςとpημα

2016-03-14 | Weblog

最近ボクサー兄弟がテレビに出てきて自分たちは本当はこうじゃない、あれはただのパフォーマンスだと言っているが、はっきり言って就職活動にしか見えない、すごく卑怯だと思う。あれだけ大言壮語をして中にはテレビを見ていてかなりの不快感を持ったものもいるのだろうに、今更本当の自分たちはそうじゃないんだと手のひらをかえるように敬語らしき言葉をつかって釈明する姿をまわりはどう見ているのかわからないが、いまさらそんなことをするのだったら最初からやらないほうがいい。日本人の子供は意外と自分の言葉に責任を持っていない。この兄弟もそうであるがたぶん欧米、いや韓国でもこういう手のひらをかえすような行為が受け入れられるはずはない。公共の電波を使ってそれなりのことを言ったのだから責任をとらなくてはならないそれだけ言葉と言うのは重いものである。宣言と言う言葉がある。日本人にはあまりなじみがないが西洋ではよく使う言葉で宣言は法に並んで重要なものである。日本人に唯一なじみのある宣言はポツダム宣言であるが、ポツダム宣言は天皇自らが語られた言葉で、日本の最終降伏であり、このことによって戦争は終結されたことはよく知られていることである。この前聖書に「in the beginning was the ward.」と言う言葉があって、この引用した言葉の背景には高度なギリシャ哲学の影響が存在するが、言葉と言うのはギリシャ哲学ではλογοςと言って万物のはじまりや理性や知性そして聖書においては神を意味する。それゆえに言葉と言うのはただ書かれた文字ではない。事実この世界ではλογοςとPημα(書かれた言葉、どちらかといえば文字)とを区別しているが欧米人の宣言の言葉は歴史的にも前者を意味するもので、それは決して軽々しく扱われたり、いい加減に語られるものでもなく、アメリカの裁判でも見られるように神の前での誓いでもある。韓国と言う国はフィリピンと深い関係にある。私の友人も向こうで仕事をしているのだが、その友人から某航空会社のキャビンアテンダントが日本のシンポジュウムに来ると言うのでその時に通訳をやってほしいと頼まれたことがある。えっでも通訳って向こうにいくらでもいるだろと言うと、いやそういうのもありだからと、たぶん観光もセットで頼もうと思ったのだろう、面倒くさいしそこまでする必要もないので、お前がやれと言うことでいまだ交渉中であるが、フィリピンのようなキャソリックが大多数を占める国は誓いが大きな意味を持つこともある。彼が言うにはもし何かこいつ俺をだまそうとしているなと思ったら、それは神に誓って言えるのか手をあげてswear by Godと宣言してみろと言うとたいていの場合はいやなぜそこまでしなくてはならないのかと言うらしいが、宣言や誓いと言うのは宗教的にも大きな意味を持つそういう意味での言葉と言うのは非常に重みを持っている。聖書の「in the beginning was the word.」の次の言葉は「the ward was with God.」であるがキリスト教文化では言葉と言うのは神そのもので、それは時には人間の力となるのだが、宣言と言うのはそういう力によって書かれた言葉であり、決して書かれた文章のようなものではない。何が言いたいのかと言うと言葉と言うのは知性によって身がかれその重みが理解できる。ギリシャ哲学では言葉は理性や知性だと言ったが、その言葉が理性や知性そして重みを持ってくるのはその人間にどれだけ知性があるかと言うことである。学校の勉強をしません、本読みません、語学嫌いですなんて言う人間の言葉なんてうすっぺらい、よく学んで言葉をよく理解したら軽々しい発言などしない。言葉は力だということが理解できるはずである。


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おっさんが多いジム

2016-03-12 | Weblog

うちのクラブはおっさんが多い。8時頃までは女性が80パーセントを占めることはしばしばあるが、8時すぎになるとおっさんが80パーセントを占める時もしばしばある。そのおっさんたちだが最近はマスをやった後にいろいろと研究している。トレーナーのアドバイスに耳を傾け、お互いが習ったことを教え合っているのだが、そのあり方に中年からはじめるスポーツの新しいかたちを見ることができる。中年と言うのは若い人に比べて体力や運動神経がおとることは事実である。しかし観察力や洞察力と言うのは若い人よりも持っているし、その年代からはじめる人たちは謙虚さがあると言うことである。自分たちよりも若いトレーナーの声に耳を傾け一生懸命聞いている。トレーナーも教えがいがあるだろうし、何よりもおっさんたちは律義さと言うのがあってトレーナーが一生懸命教えてくれているのだからその気持ちにこたえなくてはいけないと言う気持ちがあるので一生懸命それをやろうとする。マスが終わった後も自然と井戸端会議のように集まって教え合う、ここをもうすこしこうしたほうがいいとか、左をうつ時にガードがさがるとか実際にお互いがグローブをかわしたからこそ見えてくるプラティカルトレーニングであるが、みんな一生懸命聞いている。こういう姿勢は中年でなければ持つことはできないだろうと思う。おっさんの謙虚さや律義さと言うのはアドバンテージである。おそらくこういう謙虚さや律義さと言うのは社会の荒波の中で得てきた賜物であると思うのだが、そういう姿勢と言うのはボクシングをトレーニングする上では大きなアドバンテージである。確かに限界はあるが、しかし試合のラウンドが2分であるとか短いラウンド数ならば十分に若い人にも勝てる見込みはあるだろう。さらにそのおっさんたちを支える人間関係と若い奴に負けてたまるかと言うガッツはおっさんたちの力になると思う。私は思う。おっさんだからと言って遠慮することはない。おっさんにはおっさんのアドバンテージがある。そのアドバンテージをいかして、アウトローくさい人に迷惑をかけるような奴をボコボコにしてやったらいいと思っている。スポーツクラブと言うのはどうしても勢いのある若い人が中心となる。しかしうちのクラブはおっさんが中心で女性が多いボクシングクラブである。若い人はそのおっさんから謙虚や律義さを学ぶ必要はある。

私が最後の試合で負けたのはそのおっさん。場所は忘れたがハワイアントーナメントの決勝であった。彼は日系で私も日系と言えば日系だがその日系同士の対決、当時勢いのあった私は絶対に負けるはずはないとたかをくくっていた。しかしはじまったら、私のことをよく観察していた彼は私の動きを読み攻撃をブロックして、あいたところにパンチをうってくる。1ラウンドがおわってコーナーにかえった時はセコンドのジョージがハトが豆鉄砲をくらったような顔をしていたが、時すでにおそし、なすすべはない私は余裕の判定で負けてしまったのだ。そのおっさんに負けた私が何十年の月日をへて今おっさんたちにボクシングを教えているのは思いっきりアイロニーである。しかしこれも何かの縁これからもこのおっさんたちを盛り上げようと思う。

 

 


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中韓に対して言いたいことを言える日本

2016-03-11 | Weblog

去年の夏ある有名大学が主催で2泊3日日中韓の学生が40人ほど集まって本音で話し合うと言うセミナーが持たれた。本来ならばそこで日本人としての主張ができるチャンスであるが、しかし学生は準備不足で自己表現が稚拙、アイデンティティや哲学がないので自分の意見が言えず人にあわせるだけ、特に南京問題や従軍慰安婦問題は日本人としてはっきりさせておく必要があったのだが、しかし激しい議論もなく結果的には日本人は受け身で日本人が半数いたせいだろうか仲良くしましょうと言うような結果におわったようであるが、本当に有名大学のセミナーかと疑ったぐらいである。最近私が思うことは日本人の特に若い人は自己表現ができる人が少ない,自分の言いたいことをうまく表現できないということである。おそらくこれはただ単に日本人が恥ずかしがり屋だとか失敗をおそれるということだけが原因ではない、教育の在り方に問題があるのだろうと思っている。おそらく日本人とアメリカ人では授業で持たれるディスカッションに費やす時間がまったく違う、学校などでも発言をしたり質問をしないと授業に出ている意味がないと言う欧米に比べて日本は授業でそう発言する機会がない、日本は発言したり意見を言うと言うよりも詰め込み教育で、そんなにたくさんのことをおぼえてどうするのかと思ってしまうのだが、卑近な例で言うと大学受験の倫理である。アリストテレスやプラトンなどはわかるが、ビトゲンシュタインとかロールズなどの大学の専門の授業で習うような哲学がでてくるのだが、しかしこれらの哲学はただその名前と著書を暗記するだけ、おぼえることはかなり多いがしかし肝心の思想などわかってはいない、これでは一体何のためのテストかわからない。それよりも基本的なミルだとかベンサムだとかロックだとかルソーだとか高校生でも理解できるような哲学の範疇で例えばルソーの教育論と比較して今の日本の受験制度をどう考えるか答えろだとか、死刑制度をキリストはどうとらえていると思うかとかそう言った問題を出すほうが意味のある有意義な勉強ができると思う。これはある有名大学を出た人間が国語で言葉をたくさんおぼえたが実際にどう使うかと言うのがいまいちわからないこともあると言っていたが、日本の教育はおぼえることが多いがしかし実がない、だから自己表現がとぼしくなるのだと思っている。私の子供も進学校に通っているが進学校のカリキュラムは普通公立校が学ぶ高3までの授業を2年までに終えてしまい、その後大学受験の勉強を専門的にやるのでおぼえることがいっぱいである。こんなおぼえることばかりで楽しいのかとさえ思ってしまうが、ここまでおぼえることばかりだとどこに興味を示していいのかわからない。学問と言うのは興味を持つことが大事だ興味を持つからこそ、そのことについて知りたいと言う好奇心がでて、さらにそれが探求心となる。子供でもそうだが自分の知っていることや興味のあることは一生懸命話すし、さらにもっと知りたいと思うだろう。学問もそれと同じ興味があるから一生懸命学べるし、そのことについてあつく語ることができる。しかし日本のカリキュラムはおぼえることだらけで何かに興味を持つと言うような余裕もなく、ひょっとしたらそういう教育方針がディスカッションを生み出さない現場をつくっているのだと思うのだが、日本人の自己表現が苦手と言うのはこういう無味乾燥の詰め込み教育の中から生まれるのではないかと思っている。

昔私は韓国人を思いっきりおこらせたことがある。歴史問題でごちゃごちゃ言ってきたので本音を言ったら思いっきり険悪な雰囲気になってしまい、おまけにアウエイだったのでとんでもない事態になりそうであったが、しかしその時友人がわって入ってくれ事なきを得たが、私のような半分でもここまで言うのだから、日本人はもっと自分の国に誇りを持って、自分の国の問題を再考察してこれからの未来に向けての正しい主張をしてほしいと思う。

 


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