脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

キムホヨン ヌグエヨ

2011-07-28 | Weblog
キムホヨン????ヌグエヨ(誰それ)?
チョノム(あいつ)
アアッ イルボンノムトウル(ああ日本野郎)

日曜日子供会のドッジボール大会でのこと、休み時間に子供たちがおにごっこのような感じで楽しそうに走り回っている。
そこに一人の子供がいた、彼はその群れでいっしょに走り回っているのだが、しかし彼はタッチされない。
みんなわいわいと他の子にタッチして走り舞っているのだが、彼の存在に気づかないのかほとんど素通り状態である。
それでも彼はその群れの中で、満足そうに走っている。時々誰かが一言話しかければ楽しそうに笑うが、どうやら彼はその群れでは透明の存在である。
その時二人の子供の会話が耳に入った。
「次の試合の組、俺と誰々と、そして何々っていう奴」
「何々って誰」
その会話を聞いて、あれ「何々君」はあの子だろ。自分たちと同じチームだろ。なのに名前も知らないのか?と少しさびしい気持ちになったが、しかし残酷ではあるが子供の世界はしょせんこういうものかも知れない。

時々こういう子供を見かけるのだが、人の輪に入れない子供は、往々にして個性が強いとか、IQが極めて高いと言うような子供が多い、私自身も生まれながらに人との違いを感じて育ったので、どちらかというと透明の存在に近かったのだろう、しかし日本人は違いと言うものを本当の意味で理解できないのか?こういう存在の人間を育てるのが下手であると思う。

私はこのコミュニティーの人たちが信用できる人たちなので、そのドッジボールの練習のことである提案をした。
それはこのチームの子供たちが実際試合になると、同じ人間ばかりがボールを回しているように見えたからであり、もう少しまわりにパスをまわすように、練習の時も実際にそのことを実践させて見てはどうかということである。
たぶんそんなことをしても子供のことだから、にわかにそういうことが実践できるはずはない、しかし実際みんなにパスを回すと言うことを心がけることで、自分よりも体力のおとったものや、低学年の子供にパスをするということに気づく子供がひとりでもいればいいと思ったからである。

透明な存在は誰かが気づかなくては透明である。
しかし誰か一人でも彼、彼女の存在に気づくものがいれば、その彼彼女は透明ではない、彼、彼女はちゃんとそこに存在するのである。
私は誰かがひとりの存在に気づくということは、まず多様性と言うものを認めることからはじまると思っている。
日本人は単一民族でみんな同じと言うことを強調する民族なので、実にその多様性を認めると言うことは、難しいことであるが、しかしその違いと言うものを理解し、認めていかなくてはならないと思っている。
私が英語にこだわるのは、共通語をおぼえたり、他の文化にふれることで、ああ自分とは違う人間がたくさん存在するのだ、自分たちが生きている世界がすべてではないということを実感してほしいからである。
もし韓国に行ってクラスで自分の名前が出た時に「誰それ」「ああ日本人野郎か」と言う言葉を聞いたらどうだろうか?
ただ人種や文化が違うだけで透明にされてしまうということは、悲しいことであろう。
我々の世界もドッジボールのようにパスを回しあわなくてはならない、多様性を認めると言うことは様々な意見を聞くことやその文化にふれることからできることだと思うのだが、こういう相手を認めると言う学習とか訓練を我々はしなくてはならない、それが英語などの語学や他の文化や哲学や宗教を学ぶと言うことで、所謂相手を知るためのパスをまわすということである。

これに反して「同じ」と言うことや「団結」ということばかりを求めてしまうとバランスがわるくなる。
私は思う。我々のようにどこに向かっているか分からない、ひとりびとりが好きなことをやって、目指すものが違う、コミュニティがあってもいいだろう。
日本人はまとまっていると言うことをよしとするが、しかしこのまとまっているというのは何なのだろうか?私からすれば単にべたべたして仲がいいというだけで、閉鎖的であるだけだ。
仲間とか家族的という言葉はこういう公共の場においては必要のない言葉である。
無論それは仲間に入れない少数の人間のことを考えたらということであるが。しかし保守的であるとバカの一つおぼえのようにこういう言葉、雰囲気で協調しようとするが、こういう集団はある意味自分たちでパスを回している子供と同じである。
自分たちはこんなに仲がいいということを協調するのもいいが、しかし今は21世紀で多様性を認めなくてはならない時代である。たぶんこういうことを強調するのは、外の世界に出たことがない、語学がまったくダメだと思うが、実際にそういう奴らを見て見たらいい。
今本当に改めて公共性とか平等と言うことを問うことが必要であり、この公共性とか平等と言うのは、全体を通してみなくては見えてこないことがらであるから、このことを深く考えることが多様性を認めることとつながると信じている。


個性の強い子供はIQの高い子供が多く、やたら計算がはやかったり、驚くほど暗記力にすぐれていたり、中には何か国語も話す子供もいる。
こういう子供に礼儀とかバカなしきたりが通用するはずはない、言うことが大人びているので、中にはあいつは生意気だとか、子供らしくないと言うようなバカもいるが、しかし子供らしくないのが彼、彼女の個性であり、彼、彼女らは自分のこういう個性を十分に知っていると思うのだが、IQの高い子にはへんに大人ぶらずに、まともに話してやったらいい、こういう時も礼儀とか、上下関係など気にしていては何もできないが、とにかく同じ目線で話してやると信用されることもあるだろう。


















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今年も墓参りに

2011-07-27 | Weblog
最近池上彰が「宗教がわかれば世界がわかる」という本を出版した。
この宗教がわかれば世界が分かると言うことは、私が2年前から言っていることで、そのことに関してはこのブログを見てくれれば分かると思う。
この宗教と言うのは欧米人の深層心理に深くかかわっていて、少しでもむこうに済んだことがあるものはわかると思うが、その生活習慣や文化とは切ってもきりはなせないものである。

以前フランス人の女性が日本人のほとんどが死んだら火葬にされるということに驚いていたが、これは死んでから後の復活ということを意識しているからであり、もし彼女らの言う最期の審判が来て、自分たちが復活することになった時に火葬されて、実際に体がなければ不安であるからだ。
これはイスラム教徒にも言えることであるが、やはり彼らもその遺体が灰になってしまうと天国にはいけないので、燃やされると困るらしいいが、このことは実際にある種のおどし文句となっているそうである。

英字新聞を見てもそうだ、おそらくこの宗教的な意味が理解できていないとその記事が一体本当に何を伝えているのかわからないことがあるが、ある専門家に言わせれば実際に誤訳というのが多いらしいが、私が見た卑近な例で言えば「The end of day」を一日の終わりと訳していた雑誌があったが、これは一日の終わりと訳すことは、文法的にも間違いだ。
正確に一日の終わりと訳すならば「The end of the day」で「The end of day」とは、終わりの日のことで、神の審判をあらわす。
この神の審判はよく出てくる言葉であるが、この「Day」の前に「The」が入るか入らないかでは大違いであるが、一日の終わりと訳すか神の審判かと訳すかでは、切迫感が違うのだが、もし切迫感を伝えようとしたならば、一日の終わりではかなり不十分である。しかし宗教的な意味が理解できずが訳してしまうと言う例はしばしばあることで、それは我々のような素人でもわかるのである。

昔ヒッチャーという映画があった。この映画はヒッチハイカーたちが殺人鬼の車をヒッチハイクして、殺されてしまうという単純きわまりない映画であるが、この映画のシーンであるヒッチハイカーがヒッチハイクする車に拒否され、無視して走っていく車に「Je○us C○ist!」と叫ぶシーンがある。
ここで問題だが、この言葉「Jesus christ!」と言っているのだが、どう訳すであろうか?
1 バカ野郎
2 くたばれ
3 神の御加護を

でこれは私なりの解釈であるが、正解は2おそらく辞書なんかではバカ野郎と言うような感じで解釈されていると思うが、しかし宗教学観点から言えば正解は2、説明すると聖書に神の名をみだりに唱えるなという厳しい掟ががあるのだが、Jesus christと叫ぶのはというのはまさにそれに値する行為であって、いわゆるこの言葉をはきすてるということは、相手にのろわれろと言っているのである。したがって正解はくたばれである。

もう最近アメリカでもフランスでも無神論者が増えて来ていると聞いたが、しかし実際には聖書を片手に大統領の宣誓ををし、ヨーロッパなどでは法王が力を持ち、オフィシャル的にもミサや礼拝が行われるのは事実であり、彼ら彼女らの生活と欠かせないものである。
昔キリスト教は自分たちの宗派以外は人間扱いしてこなかったという歴史があると、ブログで書いたが、実際に何ものにも属さない我々日本人は彼ら彼女らからみれば得体のしれない人間であって、正直信用に足らない民族である。
しかしこの文化を我々がもう少し理解し、あわせることができれば、外交と言うのも多少はかわってくるのではないかと思うのだが、実際に日本人が葬式や公的なミサやワーシップに出席し、そこできちんとたち振る舞いができれば、多少相手の見方もかわると思うのだが、もう少しこういうことを大学などの英文科や国際科などの機関で、それ専用に教えることも大事なことであると思っているのだが、やはり宗教を知ると言うことは、このグローバル社会には、非常に大事なことであると思う。

最後に北朝鮮に関して言えることもそうだ。
儒教と言うものが彼ら彼女らの国では重んじられているのだが、以前横田めぐみさんの娘さんが日本に来れるか来れないかという問題が上がったことがある。
実際どうしても拉致問題を進呈させたかった日本政府は、その横田さんの娘さんと会うことを切望したが、むこうはそれをゆるすわけがない、そこで「先祖の墓参りに来い」と言ってみたらどうだっただろうか?
たぶんこのことは約束を守れと言うよりも、多少強い言葉であると思うのだが、少なくともそれは儒教と深くかかわってきたわれわれの世代の人間からすれば重要なことで、重い言葉であると思うが、宗教と言うのは、我々の深層心理がつくりだしたものなのか、それをかたちづけているものなのかは分からないが、しかし実際にその真理に深くかかわっていることは確かである。

そう言えばもうすぐお盆である。
今年も子供をつれて墓参りに行かなくてはならない。
墓参りや儀式的なことを軽んじる私が言うのもなんだが、しかしこの時期になると墓参りにいかなくてはと思うことは、儒教の考えが、私の深層心理の中に働いているのだろう。







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競技者の権利

2011-07-25 | Weblog
よくボクシングは個人スポーツで、俺は団体競技に向いていないからというような言葉を聞く。
しかし意味がわからない、だいたい個人スポーツと団体スポーツを競技するにあたって、その性格的な境界線って何なんだろうか。
確かに英語でもこの個人スポーツと団体スポーツを区別する言葉は存在するが、しかしそれはボールをつかうとか、おおおぜいでやるとか物理的なことで、もともと小学生から複数の競技をプレイし、野球でも球技において個人を尊重する英語圏では、性格的に向いているとか向いていないと言う風に区別はしないと思うが、そこまで性格にこだわって、むいているとかむいていないとごちゃごちゃ言うのは、日本ぐらいで、最近の日本人のものの考え方、決断の仕方は、パーソナリー障害的であると言ったようなことをある書物で指摘していたが、まさにそれに近いが、こういう心理学的にというか、根拠がないことを正しいことだと理解していることはよくあることだ。

私は昔から疑っていることがある。それはスポーツで自信をつけるということであるが、スポーツをすれば自信がつくと言うがどうだろうか?
よく自信をつけるためにスポーツをさせて根性をつけるという意見があるが、私はこれに対しては意を唱える。
たしかにスポーツをするということは体にいいことであるし、人間の交流と言うものを深めるためには最適であると考えている。
しかし人間の性格と言うのは3歳までにほとんどが形成されてしまうので、それをかえると言うことはいささか無理があるように思えるのだ。

例えばカウンセリングと言うのを考えてみたらいいだろう。
正直私は性格をかえるという方向で、カウンセリングすると言うようなやり方を聞いたことがないが、安っぽい自己啓発セミナーでもあるまいし、単純に言えばこの性格があなたをうつの状態にさせているのだから、その性格を克服してうつ病と戦わなくてはならないなどと言ったならば、クライエントはパニックになるであろう。

最近ほめると言うことがやたら取り正され、スポーツでもほめて伸ばすと言うことが言われている。
ノーテンキな人間はとにかくお前はすごいやればできるなどとほめて、ポジティヴな言葉で自信をつけようとする。
確かにテンポラリーに自信をつける意味ではいいのかもしれないが、しかし特定な目的をはっきりさせてニンジンをぶらさげて走らせるようなほめ方はいささか懸念があるが、本当にほめるべき問題点はもっと根本的な問題であって、その部分をもう少し理解して心のケアをしなければ、ほめて煽ったはいいが、失敗した時の挫折は大きく、つぶれてしまう可能性がある。
現にスポーツ選手が競技中や引退後に、挫折した話しはよく聞くが、そういう構造にすっぽりとおさまってしまっていて、自信とは言うけれどもやはり、それは虚像であって、またさらにそこから立ち直ることが、本当の自分をとりもどすことではないだろうか?

おそらくカウンセリングは受容である。
それは今の自分を受け入れて、今の自分の現状を受け止めていくと言うやり方であるが、このすべてを受け入れていくまでにかなりの時間がかかるが、しかしカウンセラーはその心の闇をつぶさにうけとめて、心の改善に向けていくというのが、カウンセリングではないかと思っている。

私は目的が心のケアと言うことを兼ねているならば、受容と言うことは非常に大事なことだと思っている。
人間は根本的には変わらない、弱虫がボクシングをやっても弱虫のは弱虫のままである。
大事なことはその自分を否定することなく、受け入れていくことで、私はその受容ができれば、彼、彼女はそれなりに新しい生き方を見つけていくことができると信じている。
よくこういう競技をやっている奴は強さを強調しようとするが、しかし強さとは何なのだろうか?なぜ強くならなくてはならないのか?弱虫ではなぜいけないのか?にげたらなぜだめなのか?たぶんそういう問いには答えることはできないであろうが、哲学も知らないこういう問いにもはっきりと答えることができない奴が、自信がつくなどと言うのは正直無責任のように思えるのだ。

以前ある人が、ここに子供が気が弱くてこのままではいじめられるから。鍛えてほしいと言うことで連れて来た。
しかしそれに対して私は、ここではあいさつを強制はしないし、強くなれと言うようなことをにおわすようなことは言わない、むしろ自分のペースを考えて、楽しくスポーツができたらそれでいいということを伝えたのだが、正直その答えには多少不安を感じ、大丈夫でしょうかと言ってきたが、おそらく従来のクラブ活動や運動で精神を鍛えると言う考えでは、受け入れられるはずはない。
しかし今や来てよかった。前とはだいぶ変わってたくましくなったと言ってくれるが、おそらく彼がよかったのは自分の性格やペースが受け入れられることだったと思う。
人間なんて根本的にはかわらない、かわらないのに無理にそれを矯正しようとがんばってみたところで、ひずみがうまれるだけである。がんばれとか逃げるなむかっていけというのはかえってその子供の重荷になる場合もある。
大事なのはその自分が何ものかということを知り、その本当に自分が何ものかと言うことを知った時に、新しい生き方を見つけることができるのだと思っているのだが、そういう部分をまわりが認め、それでもまったく問題なくスポーツを競技していると言うことを認めさせることが大事なことで、そこから自分を無理にかえなくても自分にはこういうやり方があるんだということを理解し、自分を知り受け入れると言うことが、ある種の適応能力につながってくるのだと思っている。
へたれであっても、練習をあまりしなかっても、ここではその人のやり方や性格をを受け入れるというスタンスを取っている。
殴り合いがこわいからマスはやらないという子もいるし、練習もほどほどでなければ続かないと言う子供もいる。
とにかく彼ら彼女らの性格ややり方を極力受容する(常識外れのこと以外は)というのがここのやり方である。
しかし人間受けいれられたら自分の能力をそこで発揮しようとするもので、そういうスタイルが受け入れられると後はそのコミュニティーの中で、人間関係ができていろいろなことを学ぶ機会も増えてくるものであるが、特にけつをひっぱたいたわけでもないのに、結構うまくなった子もいるから驚きであるが、カウンセリングと同じで、それはすべての子供にあてはまるわけではないが、しかしここではこういうスタンスを取っている。

スポーツと言う場を、鍛える場であると思っている人も少なくはないが、しかし私はその本質は受容にあると理解している。
受容と言うと、スポーツは敵も味方も関係ない、試合が終了すればノーサイドだというような短絡的なことを想像するのもいると思うのだが、しかし私が言う受容は、誰にでもできる資格があると言うことであって、そこにはなんら区別はないと言うことである。
よくクラブをやるにも、いちいちもったいぶってこれぐらいの気持ちがなければだめだというのがいるが、しかしそういう考え方は主催者側の一方的な考え方であって、強いと言われる軍団になるほど、縛ろうと言うきもちが強く、楽しもうと言う姿勢が見えないのだが、それは単なる偏見なのか?
我々はそれを楽しむ権利がある。どう競技し楽しむのは自由であって、もう少しそこに立って物事を考えていかなくては本当の受容はあり得ないと思っている。



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山賊が出た

2011-07-22 | Weblog
これは昔国民宿舎に泊った時のことだ、夕食をすませて部屋に向かっていると友人が私のところに駆け寄ってきた。
洗濯がしたいのだけど、その洗濯場がちらかされていて洗濯ができない、そこでいっしょにきてほしいと言うのである。
何かトラブルのにおいがしたが、頼られたら断るわけにはいかないので、いっしょにいったのだが、まあいってみるとひどい、野球のユニホームだろうかあたりに散乱していて、これでは他の人たちができない。
その野球部は甲子園でも有名な関西のある野球部だが、おそらくそういう180センチ以上あるような大男たちに注意するのが怖いのだろう、そこにはたくさんのユニフォームやあきれることに野球用具までほったらかしにされていたのである。

しばらくするとむこうからぞろぞろと野球部の軍団が歩いてきた、
私が「これ君たちのユニフォームなの」と聞くと、ひとりの人間が、たぶんこいつがリーダーなのかわからないが、威嚇したような態度で「ああ何か」と言ってきた。
こういう時こういう連中は決まったようなフォーメーションをとる。
それはリーダー格の奴が一歩前に出て、その斜め後ろに熊のようにでかい奴が立って腕組みをして威嚇すると言う行為だ。
おそらくこういうフォーメーションは人間でも本能に近い奴らがすると思うのだが、まさにこいつらのとったフォーメーションは、まともに話しあうというような態度ではない、山賊や追剥のとる態度である。
私がここでユニフォームをちらかしたら迷惑で自分たちも含めて洗濯ができないじゃない、洗うんだったら洗う、洗わないのなら片づけてほしいと言うと、案の定さらに威嚇したような態度で、怖い目をしてかたずけはじめたのだが、おそらくこれが公共の場でなく誰も見ていなければ、私など即座に叩きのめされていたのだろう、まさにそういう態度であった。
その後無事洗濯ができて部屋に戻ったのだが、なぜかその夜何度もいたずら電話がかかってきたのだが、おそらくこいつらが腹いせにやったのだろうと思っている。

私は何も偉そうに言ってはいない。結構こういうことには場馴れしているので、相手の自尊心を傷つけるないように、ましてや彼らは甲子園のヒーローである。
しかし彼らは自分たちは特別だと思っているのか、こういう一般のしかもしょぼい人間に注意されることが、しゃくにさわったのだろう、おそらくいたずら電話はたいしたこともない人間がという腹いせにやってきたのだと思っている。

もう今ではここまでスポーツだけしか知らない人間を特別視することはないだろうが、しかしそれでもまだ日本はこういう奴らに対して甘い、特別視しすぎだ。
USAではNCAAという団体があって、こういうスポーツ馬鹿が出ないように監視しているそうだが、最近全米のトーナメントで優勝したバスケットボールのクラブが、学業の成績不振で部費を削減され、ある一定期間の活動を禁止されたことは有名で、これに比べたら日本は信じられないぐらいスポーツ馬鹿に対して甘く、実際に話してみて分かるが、基礎学力が一般の人間に比べて低いと言うか話しにならない。
余計なお世話かもしれないが、こういう人間を認めていたら、間違いなくブレーインは育たない。
基礎学力と言うのは非常に重要である。
本を読んだり物事を考える時、学校で習った国語力が必要であるし、英語や他の言葉で書物や資料を読むということは、今の時代パースペクティヴに物事を考える上では必須条件で、こういうことをまともにやったことのない連中が、スポーツ科学や専門書など読めるはずはない、ましてや英語なんかは不可能に近い。
特にボクシング関係の本はひどい、絵ばかりでこれでは絵本とかわらない、以前大阪の大きな書店でボクシングの自伝のようなものが並べてあったので、それを立ち読みしていたが、書いてあることはほとんど武勇伝で、こんなもの何がおもしろのかと思ったのだが正直こういうたぐいの本が多いのは、やはりこれは競技者の基礎学力(Achivement)と関係していると思っている。

しかしここで言っておくが何も基礎学力がないのがだめだと言っているのではない。それだけしかやってこなかった学生に勉強させろと言っているだけで、もう少し学業と言うものに力を入れれば、多少競技の質やもかわるだろうし、少なくともボクサーは賢くないと言う偏見を持たれることがないだろう。
私はサッカーのレヴェルが上がったのは、彼ら彼女らが勉強熱心であるからだと理解している。
現に彼らは現地に行っても通訳に頼らず、言葉をおぼえてコミニケーションを取り、よくテレヴィなどでも彼らが言葉をおぼえる様子を伝えているが、まあこれは私の印象で言葉尾おぼえることがすべてではないが、しかし今の時代基本的なことがらであって、この言葉をおぼえることあるいは学ぶことで見えるものが違うと思うのだが、お笑いでもあるまいし、未だに弟子と師匠の関係というのはこの時代に時代錯誤で、そういう年長者を囲んでのヒエラルキーでは、その親玉の駒になるだけで、クリエイティヴな考え方はできないだろう。

今企業の採用条件がToeic700点以上であるとか、ドラスティックな企業では英語が公用語になるという企業が増えて来ている時代、もう俺はスポーツでここまでがんばったということが通用しない時代になってきている。
スポーツ馬鹿はグローバルスタンダードではついていけない、みじめなだけだ。
英語をおぼえたり基礎学力を身につけると言うことは競技を理解する上では非常に重要なことで、そういう指導する側のそういう態度は将来のアスリートの生き方を助けることとなると信じている。












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レッスン中に

2011-07-20 | Weblog
うちの小学生の子供に英語の家庭教師をつけている。
先生は英語のほかにも、アリンともフランス語で会話できるぐらいフランス語も堪能である。
最近英語のほかにも他の言語を話せる人が増えて来た。特に韓国などはアメリカやカナダなどの永住権がとりやすいので、そこに移り住む人たちが何年か前から増え、英語を話せる人が多くなり、確か韓国のToeicの成績はここ最近かなり上位にくいこんできている。
私の友人の子供も当時4年生で会ったが、彼女は英語と日本語を話すトライリンガルである。
当時まだ英語に関しては、少しおぼつかないような感じであったが、両親が家庭教師をつけていたので、今では話せると思うのだが、少なくとも日本語に関しては日本の東京の学校に通わせていたので、問題なく会話ができるのだが、おそらくもうあれから何年もたっているので。今では彼女は完璧なトライリンガルになっているはずである。

で話しはその家庭教師の先生の話しだが、以前レッスンで子供とこういうやりとりをしていた。
それは動作をあらわす英語を習っている時であるがこうだ。
先生   「Euto「Sit」は日本語で何?」
うちの子 「......」
先生   「えっSitだよ。Sitあれ習わなかったっけ」
うちの子 「......」
実はなぜうちの子が沈黙したかと言うと、このSitであるが、彼のインパクトの強いのは「i」の前に「h」が入るもう一つのほうで、私が時々言っていた言葉で、それを聞いていたのである。
これはあまりつかってはいけないと言っている言葉だが、たぶん彼にしてみれば、まさかそれを先生がつかうとは思わず、それを悪い言葉だと知っているので沈黙している様子であった。
実はこのわるいほうの言葉、私がうちに外国人がいる時によく使っていた言葉で、彼ら彼女らがへまをやらかしたり、失敗してしりぬぐいをするような時に、普段は「オーマイガッシュ」お前何やってんねんだが、それがえげつない時はその言葉が出てくるのであるのだが、その言葉をうちの子供は聞いていたのだ。
私はそのやり取りを見て、思わずふきだしそうになってしまったが、しかしこのままでは、うちでどういう言葉をつかっているのかばれてしまうので、彼に「すわる」と言ってしまったのだが、どうやら彼には「h」のサウンドのが入るほうが、インパクトが強かったようである。

私がなぜ彼に家庭教師までつけて英語を習わせているかというのは、それは英語をおぼえることで物事をひろくとらえ、考え方を深めてほしいからで、少なくとも狭い価値観の中で生きてほしくないからである。

人間は構造の中で生きている。
この構造とは社会のシステムのことで、われわれは好む好まざるにかかわらず、このことと深くかかわっている。
それは学校や会社、そしてクラブと言うのもそうであろう、特に青年期や幼年期はその自分の生きる社会がすべてで、その世界がせまければせまいほど価値観は絶対的なものであり、正直私はこういう殻を打ち破ることで人間は成長すると思っているのだが、時々子供がまとのはずれたことを言うのは、その子供自体が幼稚であると言うことではなく、私はその彼の生きる構造自体に限界があると理解している。
現に大人になっても子供みたいなことをいうバカがいるが、逆説的に言うならば、こういう奴は言葉をおぼえてその構造をうち破る力がないから、いつまでも同じ世界にとどまり、狭い価値観しか持つことができないということであるが、すべてのことをボクシングや勝負事におきかえる奴は、まさにそうだが、そういう人間はうらを返せば何も知らない、他に言葉をしらないのだが、そういう輩はスポーツの世界を見ても結構いるのではないか。

正直私が思うに日本の若い人たちは、この構造を破ると言うことに対して、少しアグレッシヴでないように思える。
アメリカ人はよくBreak the rule(ルールを守るな)という冗談めいた言葉を使うのだが、しかし彼らのいいところは相手の立場や多様性を認めるところであるのだが、現にスポーツもその多様性を認めているので、プレイしていても追い詰められているような感じはなく、いい意味での自由さはまったくこことは違う。
たぶんそういった発想が乏しいのは、それは英語の普及率と未だに社会が封建的であるということとかかわっているようだが、古い体質では運動部のうけがよく、理由は飼いならせると言うことであると思うが、しかしもう、都心ではバイリンガルが増え、そう言った考え方はうすれつつ、企業ではグローバル視点を視野に入れているので、ただの運動馬鹿では事実通用しない時代になりつつある。

私は正直子供をサッカー以外の運動部には入れたくないと考えている。
笑い話であるが、もしそれ以外のスポーツをやりたいと言えば、留学した時にしろというと思うが、まあお遊び程度にやっているクラブならいいのだが、しかし監督中心の封建的なクラブには絶対に入れたくはない。
これは私の持論であるが人間は、構造をうち破ってこそ成長し、そこで本当の個性が持てるのだと思う。
人間特に若い時は生きていると自分とは違う考え方の構造、社会をを経験する。
私で言えば日本のクラブ、体育会であるが、しかしその時そのことに対してノーと言い、その環境に甘んずることなく、自分で自分の生き方を見つけていくのが、本当に価値のある生き方だと確信している。

「けつを割る」という言葉がある。今ではほとんど死語に近いが、この言葉は一度始めた習い事などを途中でやめることで、昔クラブなどをやめるとよく「お前は途中でけつをわった」とちゃかされた、そういう言葉である。
しかし、もちろんしんどいからやめたのもいるが、やめたらだめなことなのか、またそれだけではなく、顧問や体質があわないという理由でやめた人間もいるとい思うが、そういう構造をまったく問題にせず、やめた人間を一方的にまけ犬とみなすのは、まさに封建的で、場合によってはそういうことがダメだと思っていること自体おかしいことである。
日本の指導者ほどまわりに信奉者を集めようとするのが多いが、正直まわりに集まる奴らも、あまり賢そうではない。おそらく共通語など話せないと思うが、こういうところにとどまっていると親玉と子分の関係が一生続くことは間違いない、卒業しようが大人になろうが「あの子」とか「お前は」などとひよっこあつかいされるのである。
相手を尊敬すると言うのは、自分と相手が対等であるからこそできることだと思っている。子供や青年期に監督を尊敬していたのは構造の中で、依存と親子関係のような関係があったからで、本当に自分が自立して相手と対等になった時に、情や絆は関係なしに、それでも尊敬できると思った時こそ、本当の尊敬であると思っているが、言葉をかえせば自分が本当に自立したからこそ相手を敬い尊ぶことができるのであるが、こういうシステムにどっぷりつかっていてはいつまでたっても単なる親子ごっこである。

スポーツなんてそこだけではない、どこでもできる。またそれがすべてではない。
近くにそういうスポーツ施設もあるし、場合によっては外国の学校に行ってそこでやるということもできる。
私にしてみたらなぜそういう場所にとどまって何も言わないのか、あるいは自分で環境をかえようとしないのか不思議であるのだが、正直自分たちにはスポーツをする権利があるのだから、おかしいと思ったことや、自分が違うと思ったことに対して考えて、行動をおこす必要もあるだろうが、日本の若い人には、無駄なエネルギーを使いたくないと思っているのか、この部分がかけているように思えるのだ。
しかしただ逆らうだけでは、単なる不良とかわらない。何がいけないのか、何が間違っているのか、そして自分はどうあるべきなのかと言うことを問うことのできる力が必要であり、まさに今はそれが英語や外国語をおぼえて多面的に物事を考えることだと信じている。

次回は「山賊にであった」








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ブログは明日から掲載します。

2011-07-19 | Weblog
台風が四国を上陸しつつあります。
好評のブログは水曜日から掲載します。

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一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇の雪を伝う。

2011-07-14 | Weblog
5年ぐらい前だろうか、テレヴィでよくアメリカ系東洋人ぽいのが、よく自分の意見を必死でいっていたが、最近めっきり見なくなった。
正直うるさいだけで決してオブザーヴィングな意見ではなかったが、とにかく目立っていて、日本語と英語が流暢な彼は、自分のことをアメリカ人だと言っていた。
聞く話によるとアメリカには、韓国からのアドプションが多いらしい。
実際私自身もHIではそういう話しをよく聞いたし、自分は韓国系のアドプションであるという人間も知っているが、彼のルーツを問い、こうだと決めつけることはできないが、彼が韓国系のアドプションであるという可能性は高いのだが、アメリカでは韓国系のアドプションが結構いるらしい。

でなぜアドプションが多いかと言うのは、それは向こうでは圧倒的に女性の対場が弱く、デヴォースした女性やシングルマザーは、いかなる理由があっても社会では受け入れられず、まともな地位や仕事など与えられることがないからである。
自国にいても特別な人間でない限り、力のない女性はまともにここで働いて独り立ちすることは難しいことであり、ましてやひとりで子供を育てることは不可能に近いことだ、だから半ばにげるような感じで外国に行ったり、子供が育てられず断腸のの思いで子供をアドプションするらしい。

私がよく聞くBoAの「Winter love」という歌がある。
結構好きでよく聞いているが、この歌は日本人が作詞作曲したらしいが、私はこの歌は日本人がつくったわりには韓国的であると思っているのだが、それは歌詞の中に感情と言うか情緒が強くあらわれているからである。
特に100億の雪を伝って自分の思いが、相手のところに行こうとしているというような内容の歌詞があるが、表現がおおげさだがそれらしい。
向こうの女性は情緒的で、恋愛においても激しさを持っている。
何とかして自分の気持ちを伝えたい、相手を思えば思うほどその気持ちはせつなくなる、そういう気持ちが100億の雪を越えて向こうに行こうとしているのであるが、それは子を思う気持ちも同じである。だからもしそういうやもえない事情があって、その親子が引き裂かれたとしたら、私たちが想像を越える以上に、悲しくせつないことで、まさにその会いたい、はなれたくないという気持ちは100億の雪を越えるほどの強い思いではないだろうか。

私が家父長制を弊害だと言っているのは、何も感情的なことではない。
バランスの問題である。
人間の権利と言うものが見直され、男女平等の時代に、家父長制であることは、ジェンダー差別を生みだし兼ねない。
レヴィーストローズの交換のシステムによれば、女性は家と家を結びつけるためのものや財産でであるそうだ。
時々結婚式などでバカなおやじが、嫁をもらうとかやるとか、バカなことをいうが、まさにこの言葉は女性は家の財産であって、子孫を繁栄させ、家と家を結びつけるためのものであるということを意味している。
こういう男性中心の家父長制の社会においては、そういうシステムがはたらくので、女性にはほとんど権利がないのだが、こういう環境にあっては女性が本当に生き生きと働いたり、生きることはできず、独り立ちできないから子供をひとりで育てることができないのである。

まあ日本は何もそこまでひどいとは思わないが、しかし多少意識にかける部分はある。
以前運動部の体質が家父長制的であると言ったことがある。
自分の子供でもないのに、あの子とかお前とか相手を子供あつかいし、いかにもお前は俺の前ではひよっこだと、偉そうにおやじのように振る舞うすがたはまさに戦前の日本のようで、そこでは監督を親のようにしたい、敬うと言う構図がある。
そういう世界ではおやじをひたすら立てるのであるが、時々そういう軍団につながっている奴が、私たちはきちんといいたいことを言っていると言うが、それはかっこつきであり、娘や息子のようにあつかわれて、いいたいことを言う時もお父さんに何かを言うような言い方で言うのは、わけが違う。
こういう時代にファミリーみたいなものができること自体おかしいことで、特にそういうスポーツのような公平性が求められる場では必要ないだろう。
こういう家父長制で常に上下関係や師弟関係が求められる場では、本当の意味での対等ということが分かっていない。
現に自分たちのシステムが封建的であるとか、家父長的であると言うことがわかっていないと思うのだが、現に暴力をふるうような指導者は今でもいるが、言語道断だ、アメリカではコーチがちょっとでも暴力をふるったり、ひどい暴言をはくと、そのコーチがくびになるのだが、そういった暴力も時には愛のムチとしてうけとられてしまうのだが、それが暴力でないのは、まさに彼がお父さん的であると言う刷り込みがあって、そこでは納得のいかない理不尽なことでも、そういう構図がある限りは受容されるのである。
おおげさのようだがおおげさでない、現にアスリートを自分のものとして扱っている指導者もいる。
子供や青少年は純粋だから一度その世界にどっぷりつかるとそれが、すべてだと思うが、そういう理不尽がうまれないためにも、制度を見直す必要がある。













 







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自己主張

2011-07-13 | Weblog
オリーヴでは会員に対して英会話を無料で提供しているのだが、ある生徒さんの場合はひとつの記事を抜粋して、外国人講師とそれについて話し合うと言うディスカッション方式で、レッスンを受けている。
このディスカッション方式は私の理想の形で、近い将来英語でディスカッションすることを中高生や大学生たちに訓練し、英語を話せて英語で物事を表現できるアスリートを育成したいと考えている。

私がなぜこういうことを提案するかと言うのは、この21世紀のグローバルな時代において。物事を判断し、決定していくためにはディスカッションすることが不可欠であって、自分の意見しっかりもち、はっきりと主張することが必要であるからだ。
スポーツにおいてもそうである。おそらくアスリートもっと英語をおぼえてしっかりと自分の意見をいうことができたならば、開催地の問題やルールなどももっと有利にもちこむことができるのではないかと思っているのだが、どうだろうか。

自分の言葉を持つと言うことは非常に大事なことで、それは自身にもつながるのだが、正直私はへたに格闘技をやるよりもこういうディスカッションやディベーティングを通して鍛えられるほうが自信がつくと思っている。
しかし自分の意見を持つと言うことは非常に難しい、なぜなら本当に自分の言葉を持とうと思ったならば、多くのものと比較し、弁証法的に言うならば、その矛盾と対立をのりこえてこそ、自分の言葉が確立するのであって、そういう研鑽のない言葉はひとりよがりの言葉であるからだ。
時々たいした学びもしていないのに、俺は自分の意見を持っていると、思わせている人間がいるが、しかしたいていそういう人間は、言わせてもらえる時に自分の言いたいことを言うだけであって、もしそれを10人の前で言ったならばどうだろうか、さらに100人、200人、そして外国人などがたくさんいる前で言ったならば、どうかということを考えてみたらいいと思うが、そういう奴に限って何も言えない、ただ言わせてもらえる場所だから言えるのである。
言葉を伝えるのはむずかしい、結婚式のスピーチですら時間が長く感じ、緊張するのであるから、ましてや人前で意見を言うと言うのはそうたやすいことではないことが理解できるであろう。

自分の意見を持つと言うことの前に必要なのは、自分の言葉をもつということである。
言葉を知り、自分の言葉を持つことができるからこそ、自分の意見が持てる。
私の専門は宗教学なので、説明すると、聖書にこういう言葉がある「In the beginning was the word, and the word with the God.」日本語訳は見ていないが、すなわち「言葉は神と共にある」という言葉であるのだが、しかしこの場合の「With」は、単に「ともに」とか「いっしょに」ということをあらわしていない。
すなわちこの「With」は神と同列であって、この場合の「With」は言葉自体が神なのだと言う解釈で、この解釈に従って言うならば言葉は神そのものであり、すべての力であるということである。
ヘブライ語でも言葉は「言葉」と言う意味以外にも「行為」という意味があるのだが、それは言葉そのものが力であると言うことを意味している。
言葉は力である。若い人の中には、この言葉の力や重みと言うのをよく分かっていない人がいるのだが、言葉と言うのは、力でありその人の人格をつくる。
若いうちは勢いでいいのだが、しかし30歳を過ぎると言葉と言うものを問われる。すなわちその人がどれだけ言葉を知り、言葉をつかうか、本や新聞を読めと言うのは、30を過ぎたらそういう目で見られるからで、正直30を越えても言葉がつたなく、言葉を知らない人間は社会においてもそれがディスアドヴァンテージになると思っているのだが、しかしその言葉を力にするためには、我々はもっとその言葉の意味や深さについて考えなくてはならないのだが、おそらくその言葉を力にするということは、すべてのことにおいて我々のアドヴァンテージになる。
私はよく営業の人間に言葉をおぼえて、しっかりとそれを理解しろと言うようなことを言うのだが、おそらく言葉の意味や深さと言うのを知ることは営業においても、何においても説得力を生み出すからであり、言葉を知ると言うことは相手を制すると信じているからだ。
言葉と言うのは力である。だからこの力を蓄えることこそが、自分の意見とか考え方を構築していく材料であって、実にこういうことが分かれば、英語で自分の言葉を主張していくことの重要性がわかるのではないだろうか。

私は単に格闘技をやったからと言って自信なんかつかないと思っている。
特に監督の言うことをハイハイと聞く封建的なシステムでは、そんなところにいたら絶対に自分の意見なんか持てない。
話しは少しずれるが、かつてある中高生に指摘したことがあるが、彼は非常に強豪の運動クラブ出身で、そのシステムに矛盾を感じてやめてここに来た。
で何を指摘したかというと「ハイ」である。彼は私がある事柄を説明する時に、私が話せば「ハイ」といい返事が返ってくる。
しかしここで心配したのは、いちいち事あるごとにハイハイと返事することだが、これだけ返事に気を使って、本当に話しがきちんと伝わっているのかが問題で、どうやらそこでは、何か言えば「ハイ」ということを強要されているらしく、私は実際の理解力よりもメンツにこだわるくだらなさを実感したのだが、私が彼にハイハイ言わなくていい、黙って聞いてさいごに分かりました、あるいはI seeでいいよと言ったのだが、こういうただ親玉のメンツにこだわるような軍団では決して自己主張や自分の意見など持つことはないであろう。大事なことは形式やメンツではなく、言葉を理解することである。
本当に言葉を理解しようとするならば、ハイハイともちつきのように、返事がでてくることはない、もしもちつきのような返事で理解できるような内容ならば、はっきりいって意味はない、本当に深い言葉で相手に何かを伝えようとするならば、そういうやりとりはないだろうが、こういうやり方に、自分たちの体裁とメンツしか考えることができない、封建社会の限界を感じる。
話しは自分の言葉を持つと言う話しであるが、ついでに聖書に「man does not live on bread alone,
But on every word」人間はただパンだけで生きるんじゃない。神のひとつひとつの言葉によってだと書かれているが、この言葉は我々はまさに言葉によって生かされる、それが人間の生き方であると言うことを言っている。
まあそこまで大げさに考える必要もないが、しかし言葉はまさしく力であり、われわれの命である。
その言葉をしっかりと蓄えて生きる生き方こそ、現代において賢く強く生きる方法だと信じている。

以前試合は殺し合いだつぶしあいだの言う奴を批判したが、しかし言論の自由であるからそういうことをいうのもありで、それが自分の信念なら貫けばいい。
しかしそういうことを言う奴の限って、おかしいと言われると気にしだして、何も言えなくなる、みじめだそこまですごいことを言うんだったら、行くところまで行け、ひくな折れるなと思うのだが、何も学んでいない人間の意見や考えなんて言うのは所詮そんなものである。









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正直者日本人

2011-07-11 | Weblog
今回の大震災から4カ月がたち、政府の対応がわるく、今なお復興のめどがただず、多くの人が未だに避難生活を余儀なくされているが、しかし今回の大地震で、日本人のコミュニティーの正しさと確かさというものが、世界で評価されたと思うと同時に、国会では、復興といいながらも揚げ足取りに夢中になっている政治家の質のわるさも世界に公表されたと思うが、今改めて国民の力と確かさと言うものが再確認されたと思う。
もうこれ以上は政治に関して言及することを避けたいと思うが、しかし日本人ほど秩序を重んじる民族はないと断言できる。
我々が秩序を重んずると言うことは、教育と深くかかわっていて、日本の学校教育の質の高さを信じることができると思っているのだが、日本人の道徳観は「何々すべし」というようなカント的な命題ではなく、つながりを意味するのだが、このつながりこそが日本人の道徳の基準であると思っている。
よく我々は人に迷惑をかけるなとか、相手の立場に立って物事を考えなさいと、相手のことを慮ることを教育されてきたが、日本人は昔から人と人とのつながりを大切にし、それによってコミュニティーを確立させてきたが、この助け合って共存することが、日本人の持つアイデンティティやコミュニティと深くつながっていて、そのつながりを大切にすることが、自分たちが生存していくことであり、我々が農耕民族であることと関係しているように思える。
今回もコミュニティーを大切にする日本人だからこそ成し得たことであって、それは同時に自分たちがアメリカなどの多民族国家でなく単一民族国家であるからであるということを意味していることでもあるのだが(この件に関してはサンデルの特別講義で議論されている)、道徳観や正義と言うものはそれぞれの民族によって違うので、これらを徹底させることは不可能である。
最近読んだ本で「こんなに厳しい!世界の校則」というメディアファクトリーから出された本がある。
これは世界の国のいろいろな校則を紹介したもので、いろいろと日本では考えられないような校則があって、中でもイスラム圏の校則と言うのは非常に厳しく、シンガポールではテストの不正行為で、男性だったらムチ打ちという処罰があるらしいが、とうていこういう校則は日本では受け入れ難く、民族や宗教によって道徳観や倫理観の違いと言うものが分かる。
昔韓国でウエイターに水をこぼされたことがある。普通日本だったらすぐさますみませんと謝るのだろうが、ウエイターが言ったのは「ケンチャナヨ(大丈夫)」である。
しかもこの大丈夫は英語で言うところの「Are you OK」ではなく「お前大丈夫」というような感じでむこうでは当たり前のように言うのだが、しかしもしそこでおこってクレームをつけることをしたら、逆に寛容でない奴だと言われてしまうだろう。
その時むかっと来たので不機嫌そうな態度をとったら「ムルニカケンチャナヨ(水だから大丈夫だ)」と諭されるように言われたが、日本だったら謝るのが当たり前の行為でも、韓国ではまあいいじゃないかというのが当たり前で、このようにお隣の国であっても道徳観は違うのであるから、アメリカのような多様性の国において正義や道徳を定義することは非常に難しいことである。

しかし私は今回の大震災を通して、日本人が秩序を守り、お互いを助け合う民族であることを知ることができたし、そしてそれらはわれわれが受けて来た道徳教育や、学校生活におけるコミュニティーのあり方を通して形成されてきたものであると信じることができることを思わされたことは、事実であり、改めて日本人の教育は間違ってはいないと言うことができるのかもしれない。

少し話しは卑近であるが、我々は小さい時からうそをついてはいけないと言うことを言われて育ってきた。 
このうそをつくなと言うのは、人に迷惑をかけるなということと同等で、われわれがうそをつけば他人に迷惑がかかる。
だからそういう他人に迷惑がかかるようなうそはついてはいけない、言ったことを守ろうとするのが日本人だ。
だから日本人は約束を守るし、曖昧な態度はとるがうそはつかない民族であると信じている。
ブラジルなんかに行けばわかるらしいが、日本人はたいへん信用されているらしい、もし現金の入ったカバンを誰かにあずけるなら日本人にあずけろということわざのような言葉があるらしいが、日本人は政治をのぞいて、それだけ世界から信用されているのである。

私は多様性を認めない群れと言うのに非常に問題を感じているが、しかし我々日本人が、このつながりであるコミュニティーを通して自分たちの質が高められると言うことは確かなことであるし、自分たちのコミュニティーをこのグローバリゼーション化の中で、確かなものにしてく必要があり。そのためその質と深さについて考える必要があると思っている。

よく外国に行ったら日本人のよさがわかるというが、これに関しては私も同感だ。
仕事や留学などで日本を離れた人は、たいていの人はその日本人のよさとわるさを考えさせられ、その日本人の良さと言うものを改めて実感させられると言うが、私自身もそのことがよく理解できたと思っている。
私の場合は少し複雑であったが、しかし他の文化と比較し、それを知ること日本のよさというものを再確認できた。その体験は国籍を選択できるわれわれにとって大きなことであったと思っている。
これは私の持論だが、本当にこの国のよさを知るためには、外に出て他と比較することが不可欠である。
せまいコミュニティーはこの比較こそできないので、村社会になりがちだが、こういう村社会にならないためにも、外の世界から自分たちを見る必要があるのだ。
これも持論であるが今の時代、語学に疎い集団は保守的である。
ある雑誌の財界人のインタヴューで国語教育をへらしても英語教育に力を入れることが必要かというのにたいして、全員YESと答えていたが、それだけグローバル化の波はすすみ、英語を理解する必要性がでてきているのである。








 






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趣味ではじめるボクシング

2011-07-08 | Weblog
オリーヴは国際的であると言うことを目指している。
でそのため英語と言うのは必須条件で、特に若い人たちには英語をおぼえることを奨励し、場合によってはレッスンを提供しているのだが、そのせいかビジネスマンで海外勤務を希望する人や、学生などで留学を目指している人が意外と多い。
この前もある中学生の会員のお母さんが言っていたが、子供がここに来て英語に興味を持ったらしく、彼がお母さんに「俺高校ぐらいになったら日本にはおらへんで」と、さも自分は留学するんだと言うようなことを言っていたそうだが、この年齢でこういうことが言えると言うのは非常に頼もしいことであり、私としてはたいへんうれしいことである。
手前みそであるが、Mtオリーヴボクシングクラブというのは、子供にたいして非常にいい影響をあたえる場であると信じている。
勉強しろ、英語は大事だと基本的な事柄として、ここでは教えるのであるが、しかしそれらは単に体裁をとりつくるためでもなければ、偉く見られたいから分かったようなことをいうわけでもない。
実際にここに来れば分かるのだが、みなさん真面目にやってきて、社会人としても立派にやっている人が多いのだが、やはりそういう人たちが多いと、勉強しろとか英語は大事だと言うことが肯定的であり、説得力があるので、子供たちはその雰囲気に影響されるのではないかと思っている。

ここオリーヴには何人かの青少年が会員として在籍しているのだが、いつも私が思うことは、自分たちが彼らにどういう影響を与えられるかと言うことである。
はっきり言ってここに来ている子供は、格闘技にみられる勝気で、向こうっ気が強いと言うようなタイプでもなく、どちらかというとみんなおっとりしていて、ばんばん練習をやるよりも、ほどほどにやるタイプである。
この前もサーキットトレーニングの後に、シャドウとミットうちをさせたのだが、しかし途中でばててしまい「もうダメやすませろ」と1ラウンドやると次のラウンドは休むということを繰り返していたのだが、彼らはそこまでばりばりやらなくてもいいじゃないか派で、この年でもうすでに彼らは健康維持コースである。

私は彼らのこういうスタイルを受けいれている。
よく精神を鍛錬するとか、自信をつけると言うが、しかしスポーツクラブの目的はそれだけではない、彼らのようにここに来るのは息抜きのためで、運動することで日ごろのストレスを解消している。そういうスポーツの仕方もいいではないかと思っている。
しかしこんなことを言うと、自分たちだけが一生懸命やっていると勘違いしている軍団がおこると思うが、しかしスポーツを自分たちの価値観だけで定義すること自体間違っていることであって、昔はスポーツで精神を鍛えるというような、日本人特有のスパルタ的な勘違いで、スポーツは楽しむものではなく、苦しむものだ、そしてその苦しむ先には栄光がまっているなどというマゾヒズム的な間違った考えが定着していたが、しかし今はそういう考え方が見直され、誰もがスポーツを健康のためにするという時代になってきたので、ほとんどの人が趣味でスポーツをしていると言うことができる時代である。

向こうに行けば分かるが、アメリカには才能のある人間がたくさんいる。
私の知っている限りでは、WBAの1位までのぼりつめた男がいたが、彼はすごかった。フィリピン系の移民で、ミットうちを見たことがあるが、めちゃくちゃはやい。私も実際スピードには自信があって、2年ぐらい前までは会員に「これがリアルパンチじゃ」と半分冗談でうっていたのだが、そのパンチの速さにすごいなどと言っていたが、こんなパンチは彼のパンチに比べたら話しにならない。前に会員の人が辰吉のミットうちをYoutubeで見て「見えない、すごい」と言っていたが、だいたいライト級ぐらいまでに関してであるが、一流選手とそうでない選手の違いは、パンチの速さだと思っている。
実際パンチの速さを見ればその選手がどの程度かと言うことがわかるのだが、いくら格好をつけてやってもパンチが遅くては話しにならない。キックボクシングだったらまだしも、ボクシングは腕2本で勝負するのだから、スピードがすべてで、スピードのない人間は通用しない。
このヘススと言う男もとにかくパンチが速かった。対戦した奴に聞いたら、対戦してかまえたら6つぐらいパンチがとんできて、気がついたらとめられていたそうだが、とにかく打ち返す間もないぐらいの速さで、電光石火のごとくパンチをはなつらしい。
実は彼と私は同じ階級で、次のトーナメントに出場していたら間違いなく彼とあたっていたのだが、彼はプロになるためにメインランドに、たぶんというか、もしあたっていたら間違いなく、ぼこぼこにされていただろうと思う。

さらに向こうではスポーツをかけもっている人間が多く、才能がある人間は何をやってもそこそこできて、我々が5年かけて出来たことを半年ぐらいでやってしまうのだが、トーナメントでもいきなり出て来た新人に、何年もやってた人間が、ころっとまけるなんていうことも十分にありうるのだが、半年前まではサーフィンに力をいれていたが、今回はボクシングの試合にでも出て見ようかなんて言う奴にまけてしまうのである。
才能と言うのはおそろしいものである。だからもしそういう世界で、上に行くことだけを目指すだけであれば、才能のない人間はその競技上においては、価値がないように思えるのだが、私がボクシングは趣味だというのは、実にそういうところにある。
しかし趣味だと言うのはにげ口実ではない。
何もスポーツは上を目指すのが本当の目的ではない、確かにそういう人間もいるけど、しかしまた別の楽しみ方もある。
もともとスポーツと言うのはすべての人のためにあるのだから、誰にでもそれを行う資格はあり、それを楽しむ資格があると思っているのだが、趣味だと言うことは実にそういうことである。

向こうに行けばわかるが、みんなスポーツをやる人間の顔は生き生きしている。
日本のように追い詰められて、修行みたいな感じでボクシングをしているよ言うような感はなく、ただ純粋に趣味でやっていると言う人も多く、本当にスポーツを楽しんでいる。
スポーツ本来の目的は楽しむことであり、その楽しむことで人は日ごろのストレスや、しんどさから解放されると、そう信じている。封建的な世界では修行のようにしんどい思いをしてくるしまなければ、本当の達成感や喜びなど得られないと損じているが、しかしそれは間違いだ。
私は精神を鍛錬すると言うことは教えることはできないが、しかしエンジョイするということは教えることができる。
なぜならそのエンジョイの仕方は自分が経験したものであり、その経験を伝えることができるからである。





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