脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

You are the one?

2008-08-06 | Weblog
boxingを教えていてまず問われることは、自分には哲学があるかということである。よく人はboxing哲学という言葉を耳にするがしかし、たいていは自分の言いたいことをいっているだけであり、ことあるごとに「俺らの時代はこうだった」というのは典型的であり、日本のように封建的であるから通用しているにすぎない。
USAでは、スポーツを自分の人生という長いスパンのなかでの一部分としてとらえている。日本のように、これが人生のすべてだから、全力でがんばれというような傾向はなく、その自分の人生の中で、それがとういう位置を占め、そしてそれがどうかかわっていくかということを考えて、競技するのが、現代のスポーツ学において主流な考え方であるそうで、だから負けても日本人のような落ち込みはなく、自分が思うに、彼らは充実感を得ることを目的として、アマチュアスポーツを競技している。
話は戻るが自分のボクシング哲学は、このボクシングが自分の人生においてどういうかかわりを持ち、それがどういう影響をもたらすかということを考え、自分の競技スタイルを持ち、生活やその他のことにおいて、向上をはかることができるボクシング、そういうボクシングを厳しさの中ではなく、楽しさの中でとらえていくことを目指すことである。
かつて自分はアメリカの大会で優勝の経験がある。
日本とアメリカの大きな違いは競技人口の違いである。おまけにアメリカは競争がはげしい、自分が優勝した大会はフェザー級だったら全米でもかなり層があつい大会で、ピーターいわくトップランカーにはいるぐらいのレベルであるそうだが、しかしここで優勝してもそんなレベルのやつはごろごろいるらしく、そんなものは本当の意味ではアメリカのレベルではないらしい。
話は飛ぶかもしれないが、向こうには才能のある人間はごろごろいる。
自分はそんな人間にたくさん出会ってきたが、その中でチャンピオンになれる人間はほんの一握りで、才能や気持ちや運だけではチャンピオンにはなれない、もしなれるとしたならば、それは彼が何かによって選ばれているからであり、この選ばれるのはごくわずかな人間で選ばれなくては、たとえ才能があっても決してチャンピオンにはなることはできないと思っている。
日本人のボクシング観は、とにかく上を目指してがんばれであるが、しかしそれでは先細りであり、負けてしまっては、その競技が自分になんら意味を持たさないというような考えになりがちであり、それでは競技をやっている意味がないのではないだろうか。
われわれは天才ではないそして選ばれた人間でもない。そういう人間が大多数を占める中で、ただ上を目指すだけのボクシングは先細りのボクシングである。








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