脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

えっそれお前のファッション

2015-07-29 | Weblog

よくコーチが基本と言うが基本っていったい何なのだろう?基本ができていないとかよくわけのわからないことを言うが、日本人は基本にかえれというと妙に納得するが、基本と言うのはそのスポーツのルールをおぼえることではないかと思っている。そもそも外国ではbasic的な動作は存在するが、しかしそれは根本的には日本で言うところの基本ではない。私の経験上日本人は強くパンチをうたせる時にどうやったら強く打てるかと言う方法を教えるが、しかし向こうではとにかく強くうてと言い、それを試行錯誤いろいろなやりかたで何回もためして強くうてたらいいという考える。基本と言うのは大事なことだが、しかしやたら基本と言うのはその人の個性をつぶすものでもあると思う。日本の空手は最初に型ありきであるが、しかしボクシングは西洋のスポーツだから空手のような型は存在しない、存在しないから人のを見てコピーしてそれにオリジナリティをくわえて上達していくのがボクシングのトレーニングである。

スポーツしかできないのは思いっきりディスアドバンテージだというのには根拠がある。最近ではそうではないが、しかし日本と言う国はスポーツしていることがいいことだと勘違いしている。それが場合によっては偉いことだと勘違いするのだが、スポーツ校では中間や期末などの試験がなかったり、授業を切り上げて練習をさせていると言うような話を聞くが、しかし一般の中高生はコツコツと机に座って勉強して試験をして単位をとっているのだ、それをただスポーツをやってればいいというのは思いっきり間違っている。人間は思い切り勉強をしなくてはいけない時期がある。そこでコツコツと一生懸命するかしないかで差が出てくると思う。私が高校生の頃中学時代の知り合いがあるスポーツ校の運動クラブに入っていた。そこは寮生活でほぼ毎日練習や試合がある。そういう生活を彼は3年間続けたらしいが、その引退した頃に彼と町でばったりとあった。学生時代にやくざのチンピラになった地元の同級生と組の前でばったり会ったこともあったが、しかしはっきり言ってそいつよりもインパクトはあった。まずファッションがいけていない やっと伸びかけた髪にパーマをあてるからほぼパンチパーマだ、さらに私服も目立てばいいと言うようなブライトカラーで黄色いズボンに派手なベルトはまさに刑務所から出てきた奴はこんな感じなのだろうなあと彷彿させるかっこうだ。もう少しましな恰好はないのかよと思ったが、3年それしかやってこなかった彼にとっていけてる恰好がこれである。少し話はずれたが人間は一生懸命学ばなくてはいけない時期があってその時期に一生懸命学ぶことで差が出てくる。きちんと学習をしてこなかった人間は未熟である。こういう未熟さをのこしたままでスポーツでほめるだの都合のいいことを言うのは教育的には弊害であると思う。当たり前だが中高生は勉強をするのが本業であり、これは国民の義務でもある。私がこういうのは一般論であって。こういうとじゃあ勉強ばかりしている学者は変人が多いじゃないかと言う人間もいるが、しかしあくまでこれは教育的な視点から見た一般論であって、その一般論を位置付けるのは教育の度合いであると信じている。

 

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意外と難しい日常表現

2015-07-28 | Weblog

 私の知り合いの小学校はソウル金玉小学校だ、そして金玉中学、金玉女子高なども存在する。日本人が聞いたらぎょっとするが、しかしこれは韓国語では文字通り金の玉で日本語で言うところのそれではない。日中韓は漢字をつかう文化である。四字熟語やことわざ的なものもある。しかし漢字の解釈が違うので時にはこういう違いがでてくる。東洋の場合は漢字の解釈の違いであるが、これが英語などの言語になると発音の違いが大きな勘違いとなる。特に東洋人は「r」や「v」の発音に見られるようにできない音と言うのがあるので、それが時にはえげつない言葉に聞こえるらしい。前にも言ったがエリッククラプトンを日本人の発音ではエリッククラップトンクラップというのはクソとでも訳すのだろうか、このことはよく外国人にネタにされているらしい。あと日本人は大学をuniversityと言うがしかし通常はcollegeである。しかも日本人がuniversityと言うと人によっては俺は○○くそったれ大学出身だと言っているみたいで笑えるそうである。学生のころボクシングの試合会場で試合をしていると相手が応援するときにベリーベリーとしきりにさけんでいた。そしてさらにそれは次の試合もまた次の試合も叫んでいて、私はてっきりアメリカ人にはベリーと言う名前が多いのだと思い、ある時友人にアメリカ人ってベリーって言う名前が多いのか?と聞いたらえっと顔をされて、そういえば私のまわりにはベリーなんていないよくよく考えてみるとbellyとは腹のことでbelly punchと言う言葉にもあるように試合でベリーを応援していたのではなく腹をうてと言っていたのだ。よく英語は話せるかと聞かれて日常会話ぐらいと言う人がいるがしかしこの日常が意外と難しいことだ。前のブログでも書いたこのワイン何年物かとか何時から何時まであいてるのか、何々はおいているか(売っているか)は日常で使う言葉であるが意外と言えない言葉である。かつてその日常会話をためすためにある女性に言ったことがある。それは旅行に来ていて有名な橋をわたる時に「あの橋は2トン以上は乗り入れ禁止だ」と言ったのだが、その私の使った英語がすごくダイレクトだったらしくものすごい剣幕でこれでもかというぐらい怒られた。私は二つの名前を使い分けているが現在の国籍上の名前はそうでもないが、しかしホヨンはヒールで結構きついことを言う存在で、アメリカ人にはなぐられそうになったし、韓国ではどえらい目に何回かあいかけている。二重人格者ではないがしかし私は名前をふたつ使い分けている。日本は外国に比べて日常的にはっきり言ってはいけないことが多く、ホヨンだと間違いなくここでは不適合者になってしまう、だから戸籍の日本人のように生きている。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

このワイン何年物ですかを英語で

2015-07-25 | Weblog

うちのクラブは高校生までは親が同伴なしでは入会させないし、子供だけの見学も断っている。習い事は親を通してすることであるから、そこできちんと親の承諾を得て、そしてボクシングの危険性を説明し高校生までは絶対に頭をたたくことはしないという方針を十分に伝える義務があると思っているからだ。髪をそめていかにもやんちゃですと言うような自称高校生とか言う人間がひょっこりあらわれてボクシングやりたいんですけどと言われても親の姿が見えなければ入会させるにあたってかなりの不安がある。暴力をあつかうスポーツなのだからずれた感覚を持った人間にそういう場を提供し教えるわけにはいかない、私自身は小学生の頭をたたくことは医学上危険だとされているにも関わらず、競技目的でさせるということにもかなり世の中とのずれを感じているが、女性も多いのだから全体のバランスを考えてなるべく世間一般からずれた人間は入会させないようにしているのがMOBの方針である。うちは比較的進学校出身が多い、多いからどうしたという人間もいるだろうが、私自身は安心できるし、常識的な感覚が非常にマッチするのでこういった方針を打ち出しやすいことは事実である。これこれこういう奴、いわゆるずれた感覚を持った人間は常識がないなどと言うと「みんながみんなそうじゃない」と言うようなことはまず誰も言わない。大事なのは持っている共通認識で会って、それはある程度その人がきちんと学校で人の話を聞いて学習してきたこととの関連性はないとは言えないむしろそういう人たちのほうがコモンセンスをしっかりと持っていると言うのが私の考え方である。さらに子供のボクシングなんて言うのも医学的なことを無視して競技させるのも問題だ、英語が読めたらいろいろと論文や資料が出てくるのでそれを読んだら危険で欧米社会があまり奨励していないことはわかるだろう。こういったことを説明した場合、ある程度それを理解できるレベルでなければ受容できないだろう。論文を読む力がなければ、その重要性がわからないのでそれがどうしたとなるだろう。DQNを入会させないというのは世の中の基準や常識そして考え方に大きなずれがあるからである。

このワインは何年ものですか?はHow old is this wine?だ、相手の年齢を聞く時もHow oldをつかうが、この表現はどれぐらいたつかとかどれぐらい古いのかということを聞く時に使う表現だ。英語圏では年齢を聞くことは失礼とされている。コレアンは会うと必ずナイガオットケトゥセヨ?おいくつですか?と聞いてくるが、しかし英語圏ではこういう習慣はないというかむしろ年齢を聞くのは失礼である。How oldと言うのはどれだけ古いかと言うことを聞くことである。西洋で年齢を聞くのが失礼とされるのは、いくつですかと聞くのがあなたはどれだけふるいのかと言っているようなものだからだと思う。うちのクラブは中年が多いので相手の都市が気になることもある。まあ女性が多いので女性には年齢を聞くということはないが、しかし男性が入会して来たらいくつぐらいなんだろうと気になりさぐりを入れる、中にはダイレクトにいくつですか?と聞くのもいるが、しかしたいていの場合は見た目よりも若い、しかし中にはええーと言う人もいて自分よりも5つも6つも若い人にずっと敬語を使いそのように接していたということもあって、相手の年齢が自分より年下だとわかり、さらに交流が深まるということもよくあることである。少し前に非常に頼もしい中学生が来た。私立中学通うこの子は物おじせずに人と話すので、聞いたら小さい時から英会話を習っているそうであるが、物おじせずに話すのは小さい時から外国人とコミュニケーションをもっているからだと思う。ただおもしろかったのは学校の授業で一切英語しか使えずHow are youと聞かれてIm fanny(私は変な奴だよ)と言ったりwhat does it mean?と聞くところをTell me this mean(教えてこのいじわるさ)と言ったり非常にユニークでこういうタイプは英語圏では伸びると思っている。今やコミュニケーション能力は必要である。少し前からIQよりもEQが高いほうが出世するというがまさにこのEQと言うのはコミュニケーション能力にはかかせないものでEQを伸ばすためにはいろいろな人と会話することで、その会話することで広く世界を見ることができるコミュニティに参加して行くことが大事なことである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

I really appreciate boxing

2015-07-24 | Weblog

人種差別のことを書いたが事実アメリカは人種の坩堝なので相手がいがみ合うような人種だと敵対心むき出しになることもある。私はかつて試合で何度か人種的なことだけではないだろうがそういう敵対心むき出しのマッチをしたことがある。日本人はおとなしいのであまり問題にはならないがコレアンは意外と当時から嫌われていることもあって、それをわざと全面的に出していた私は「俺は韓国人が大嫌いだ」と言う人間とマッチする時はいつもはげしいマッチになった。向こうでは食べ物が意外と罵り言葉となる。例えばキムチ野郎とかタコス野郎、その国の代表するような料理を侮辱的に使うのだが、私の場合はいいパンチが一発入ると「18このson of bitch」と思い切りどつきにいったものである。韓国人が大嫌いだと露骨に言う人間もいる。「俺もじゃ」と正直思うのだが、私にはさけられない運命だ。しかしボクシングの素晴らしいところはなぜか試合が終わればどういう相手でも仲良くなることだ。むこうはそれこそ日本のようにしらじらしくありがとうございましたなんて来るような人間はいない。私は日本人が試合が終わって決まりごとのように相手にありがとうございますなんて行くことが理解できない。さらに信じられないのは勝った奴が負けた相手に堂々とあいさつに行くところだが、こういう行為は礼儀とは思わない、むしろ負けた相手を気づかいそっとしてやるのが礼儀であるが、たぶんこんなことを向こうでやったらお前けんかうっているのかと人種によっては袋叩きにあうこともあるだろう。こういうときはせいぜい終わって廊下などで会った時にニコッと笑う、時には晴れ上がったところを指さしてきいたよなんて話しかけてくるのもいたが、しかしそういう何気ないことが、本当に自分たちはこのスポーツを通してひとつなんだなあと実感することができたものだ。MOBは素行のわるい人間やアウトローくさい人間の入会はお断りしている。しかしこれはクラブ単位の問題であって、私がそうしているのは群れの秩序を守るためである。しかしボクシングと言うスポーツ自体は何ら差別することなく、スポーツは誰にでも競技する権利はあるのだからほとんどの場合はそれを受け入れるべきであると思っている。事実私はこのスポーツによって救われた部分もある。ボクシングはマイノリティーが生き生きと競技しているスポーツだ、ここだと誰かの子がいになったり、どこかの連れや軍団のone of themにならなくては少々やりにくいようであるが、しかし向こうはone of themでなかっても堂々と競技できたもので、そういう中で自由に堂々と競技できたことが今の自分の考え方を築く上での大きな体験となっている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オディソ ワッソヨ 

2015-07-22 | Weblog

世界美女ランキングと言うのがある。1位から100位までにかなりの頻度でコレアンがエントリーしていてその1位がコレアンである。この記事を見てアジア人である私は非常に誇りに思うが、民族が美女に選ばれたりして世界で認められることに誇りが持てたり、うれしいと思うのは人種差別がどういうものかということを体験しているあるいはわかっているからだ。特にヨーロッパ系がアジア人を認めるようになったかと思うとうれしい気持ちになる。ただ私はヨーロッパ人とも家族のようなつきあいをしているので特にアジア人賛美をする気はさらさらないが、しかしかつてはおとっているとみなされていたアジア人が評価されることはうれしいことだ。

初めて会った外国人にどこの国の人かと聞かれた時に「guess where あててみろ」と言ったら、たいていはチャイニーズと答える。noと言うとコレアンそして最後にジャパニーズと答える。だいぶ前日本で中華料理屋の外国人に「どこから来た」と聞かれたので「高知だ」というと「いや国はどこだ」と聞かれたが、たぶん店の店主は私をチャイニーズと思っていたのだろう。これはあるヨーロッパの人間が言っていたが、私のものの考え方は日本語でものを考える人の考え方ではないらしい。これを人はかわっていると言うらしいが、しかしかわっているというのは日本人ぐらい、外国人はあの人かわっているよなんて言う人はいない、むしろいい意味で解釈してくれるほうが多い。おそらく私はstrangeではなくuniqueである。しかし日本人は人と違う考え方をしたらたとえそれが論理的であってもあいつはかわっているという。よくよく考えてほしいそういう人間はいくつ言葉を話せるのか、どれぐらいの専門知識があるか、そしていくつ文化を経験しているのか、そういうことを考えた上で本当に人を自分のものさしではかる権利があるのか、たかだか自分の住んでいる小さな世界から見て違うからと言って人をstrenger扱いするのは間違っている。それよりももっといろいろなことを勉強していろいろな世界を見て自分のものさしを広げたほうが賢明であると思う。かたまる人間は外の世界に出ていくよりも自分たちの世界をつくりたがる。いわゆる人との違いを認めるよりも同じと言うことで共感する人間たちがそう、DQNの軍団や勉強しない運動系クラブなんかはまさしくそうだと思っているが、おそらくこういう他者や違いをみとめない島国根性がいじめなどを生み出すのだと思う。言葉がいくつか話せて文化もいくつか経験した人間は他の人間と違う視点で物事を考えることができる。そういう人間たちをストレンジャーととるのかユニークととるのかはその人次第である。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Watch this

2015-07-21 | Weblog

アメリカのテレビ番組にWWYD(What would you do)と言うのがある。これはもし人種差別などを目撃した時人はどういう行動をとるかと言うドッキリではない、アメリカならではの問題を観察した実験番組のようなものである。この番組を見るとアメリカは人種差別にたいしては無関心ではないことがわかる。https://www.youtube.com/watch?v=nuU2oS5_WOE&index=11&list=PLzfUwRRwPKPlT8j-F_K9KyAkPhbGertLZは字幕もあるので見たらいい。おそらく日本ではここまで問題が深刻化することはないだろうがやはりその背景は人種の坩堝と言う日本とはかなり違った国の事情があるのだろうと思う。いやみな言い方かもしれないがモノリンガル(日本語しか話せない)他の文化に触れることがない、まわりを海で囲まれているような環境では人種間の問題にうとくなるのは当たり前のことである。私が学生の頃ひとりでふらりとマウイ島に遊びに言ったことがある。そしてそこで2日ほど滞在したのだがそこで泊まったのがYHの二段ベットの6人の相部屋だ。そこにはアメリカ人とオーストラリア人のグループのバックパッカーが泊まっていた。その時私以外は白人であったのだがやはり白人の中に黄色人種はかなりの違和感を感じる。おそらく黄色人種は英語など理解できないと思っているのだろう、オーストラリア人のグループは私のことをチャイニーズだと思っているようで、中国人はなんでも食うなんて言うようなことを不快感をこめてこそこそ話のように言っていた。たぶんそれがジャパニーズかコレアンに対する悪口だったらこいつらの荷物に黄色人種は手先が器用だとばかりにえげつない細工でもしていただろう、しかしそれがチャイニーズであっても同じエイジアンだ私はその時かなりの不快感をおぼえたことは確かである。おそらく同じ人種のなかに他の文化も言葉も違う人種が入ってくるということは非常にデリケートな問題だろう。グレムリンと言う映画は西洋人から見た東洋人への不快感をあらわした差別的な映画だと言われているが、小さいからだでチンキーアイ、そしてくちゃくちゃくちゃっと薄気味悪い言葉を話す。私から見てもきみ悪いが西洋人には東洋人がそううつっているのだろう。この映画が上映されたのはもう30年ぐらい前の話であるが、肌の色がちがう言葉も文化も違う他民族に対する嫌悪感があらわれていると思うのだが、同じ民族の中に他民族がひとりだけというのはどう考えても不自然なことで、私のようなことはありがちなことだと言っても過言ではない。日本人がこわいところは差別はないと言い切れる人間がいることである。差別と言うのは感じるものだ、感じなければわからない部分もあるだろう。事実単一民族で日本語しか話せない、文化もほぼ一つでは感じ方や受け取り方に限界がある。そういう中で日本は人種差別はないというのは説得力はない。しかしそういう人の偏見や差別を変えていくのは教育の力だと信じている。道徳教育の根本は他者との違いを認めるということである。日本人の言う個性と言うのは目立つことにしかすぎないが、しかし個性というのはまず人との違いを認めるということである。本当に人との違いと言うことに原点を置いて個性と言うものを考えればただ目立つ者だけがいいとか、いじめも少なくとも今のような陰湿化はしないだろうと思っている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アロエじゃなくてアロー

2015-07-19 | Weblog

この目コンビニである商品が目に入ったアロエヨーグルトである。アロエヨーグルトって食べたことがないのだがしかし英語ではアロエとは言わない。アロエはアローと、からアロエヨーグルトはアローヨーグルトである。日本語は発音においては独特である。なぜならすべての言葉が母音で終わる言語でおそらくそういう言語は少ないように思える。だから言葉を聞き取る時もかならず母音を最後に持ってくる傾向がある。日本語は他の言語に見られるリエゾンやアンシェヌマンがないもっともラップに適していない言葉であると言える。

日本語はださいとかかっこわるいとかということはさらさら言う気はないがしかし日本語はリズム感のない言語でそれはラップのようなリズムが求められる歌にたいしてはディスアドヴァンテージである。しかしたぶんこのことは日本語だけしか話せなかったり興味がなければわからない、自分たちの話す言葉がどうかということは他の言語を知って客観的に見なければわからないのだ。スポーツにおいては客観的に物事を考察することは非常に重要である。田舎のヤンキーや暴走族がなぜあんなみっともないような恰好をするのか?たぶん本人たちはかっこいいと思っているのだろう、しかしそれははたから見たらちゃんちゃらおかしいことであって、正当な評価を受けられないからまけおしみで目立とうとしているだけそれは非常にみじめである。それと同じように我々も客観的に自分たちの群れと言うものを見なくてはそれは非常に偏りのある、滑稽な集団となりうるだろう。たいした学もないのに信念とか哲学とかちょっと突っ込んだらしどろもどろするような薄っぺらい考え方を聞いてくれることをいいことに押し付けるのはただしいことではない。第一お前哲学の勉強をしたのか?と言いたくなる。私だったらそういう勉強もしない英語も話せない日本語もあいまいな人間に信念だの哲学じみた話をされることは非常に不快だ、それよりもむしろスポーツなんか一生やるわけでもにのだからそれぞれのキャパに応じてアドヴァイスし考えさせるような指導が大事なことだ。本当にこれをどこまでやれるかわからない人間に自分が努力した話をさもすごいことのように言って、それができないからと言ってしまうのは簡単だが、しかしそれを受け入れる側はそういうキャパが備わっていなければ無意味に終わってしまう。そこで自分の自慢話をするよりも相手のキャパや興味を見極めてなぜそれにあわせた指導ができないのだろうか不思議だ、事実私はこんなもの一生やって行くわけでもないし、リスクもあるのでその人にとってボクシングが有益になるようなかたちですすめているが、指導者のこういう時の自己主張は必要ないと思っている。

英語をおぼえたり、よその土地に出ていくことは物事を客観的に見る上では非常に重要なことだ、外国人が東京と大阪ではまったく文化が違うと言っていたが、国内においてもそういう大きな違いがあるのだから外の世界に出ていって、自分のいたところを振り返ることは自分を成長させる上でも大事なことだが、そのことを若いうちに経験する必要はある。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

I must stay awake CZ I dont wanna miss a thing

2015-07-15 | Weblog

前回のブログでも言ったがだいぶ前からほめて伸ばすということが言われているが、これに対して私はいささか懸念がある。昔はそれこそスポーツ指導でもこれでもかいうぐらい怒っていたが、最近ではほめてのばすなんていうことが言われだすとコロッと変わってまわりが口々に競技者をほめるようになった。しかしこういうことだけで人間は本当に成長するのかは疑問である。うちのクラブには過去にいろいろな親が相談に来た。よくわからなくて期待に応えられなかったこともあったが、しかしそれでも最近わかってきたことは大事なことはほめるというよりもむしろおこるということで、その感情をどのタイミングで子供に伝えていくかが大事だということだ。おそらく子供はおこられることでいくらか自分のキャパをひろげることができるであろう「ダメなことはだめ」特に気持ちの部分で「ああこんなことをしたら傷つく人もいる」と言うようなことを子供に伝えていくことは非常に大事なことで、子供とのコミュニケーションはそう言ったこと伝えるための信頼関係を築くためのものだ。子供のキャパに応じておこる時はしっかりとおこるということができないと本当にいい関係は生まれない、子供は成長しないと思っている。事実そのキャパに応じておこることで子供の成長がわかる。おこることでなぜどうしてと考えるようになる。そこで信頼関係と大人の言っていることが本当に正しければそのことを受け入れて子供は成長するのだと信じている。

ただ大人も大人で責任を持つことが大事だ。品行方正な生活を心がけ、無学ではなめられる。スポーツだけ教えていっぱしなことを言ってりゃいいと思っている奴もいるが、しかしまともな親や子供はよくわかっている。教師と子供のような関係を築きたかったらきちんと常識的な教養を身に着けてずれた感覚を持たないことだ。学校の教師でも品行方正に生きている人は雰囲気が違う。最近ではそういう教師も少なくなったがしかし学ぶことを怠らないで品行方正に生きる人間は子供からも信頼されるだろう。ずれた感覚を持った教育のセンスもない、勉強もしない本もきちんと読めないような人間がただおだてて子供をてなづけても、その集団は派手ではあるが暴走族の集団と同じ、本当の意味で子供は成長しないであろう。私はいつも思うことは人をおこることのむずかしさで、ここで言わなくてはダメだ、でもこの子がそれを受け入れられるかどうかということを迷い葛藤しながら伝えるべきことを伝えているが、私に問われるのは自分はこの子をおこることができる人間かどうかと言う問いである。事実おこるということによってその子にキャパが備わっていたらその後の成長がある。だからこそその子をよく観察して成長するためにおこるべき時はおこる、そしてその時運動系にありがちなサルと猿回しのような関係ではなく教師と生徒のような信頼関係を持つことが必要である。

 伊藤由奈と言うシンガーがいる。ハワイ出身で日本人とアメリカ系の韓国人を母に持つ日系2世であり韓国系3世である。ハワイにはHAPA(半分)と言ってこういう存在がたくさんいる。彼ら彼女らのアドヴァンテージは複数の言葉を話せることで時々「君は家ではどの言葉を話すのか」と聞かれることもある。その伊藤由奈であるが彼女がアルマゲドンの主題歌を歌っているのだが、さびのクライマックスはDont wanna close my eyes I dont wanna fall sleep CZ Id miss you baby and  I dont wanna miss a thing.だ。I dont wanna miss a thing.だこの歌詞のように、ぼけっとしていたらそのa thingを見逃してしまう。よく観察して指導者も頭を使わなければならない。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食文化

2015-07-14 | Weblog

可算名詞と不可算名詞の区別は簡単だ。しかしそれをどう定義するかと難しい。私は教えるときに不可算名詞は切ったり、かたちをうしなってもそれがそれだと言えるもの、すなわち水や紙は切り取っても水あるいは紙と言うことができる。しかし可算名詞は切り取ったりかたちをうしなえばそれがそうだとは言えないものだと言っている。そこで問題だが「I like dog」は私は食用の肉が好きになるがなぜだろうか?可算か不可算で考えたらこのdogには冠詞がついていないのでdogは不可算である。不可算と言うのは切ってもかたちをうしなってもそれがそれだと言えるのだから、もし犬が切ってもかたちをうしなっても犬だと言えるとしたらこまぎれとか手羽先のように食用となる。よってI like dogは食用の犬が好きとなる。

犬と言うのは韓国語ではケッと言うがこのケッは侮辱的な言葉だ。韓国語にはケッセ○キとかケッをつかった罵り言葉がかなりたくさんあるのだが、韓国人は犬に対してあまりいい印象を持ってはいない。ソウルオリンピックの時に韓国人は犬を食べるということがヨーロッパ社会で大きな問題になってソウルオリンピックの時にそういう店が表からきえたとか言う話を聞いたが、犬を食べるというのは愛犬家の多い欧米にとってはもはや文化の違いではすまされない問題である。確かに犬を食べるなと言うことは国際社会に大きな摩擦を生じさせかねないのでわかる。最近ではある国(韓国ではない)が犬を食べることを大問題にしていたドキュメントがあったが、犬と言うのはヨーロッパ系の人間にとってはパートナーであって家畜ではない、だから犬を食べるなと言うのはわかるが、しかし日本人はそう言いながらも馬を食べるのだから不思議である。

食文化と言うのは非常にデリケートな問題である。たぶん国際人かどうかと言えるのはその国で出されたものをきちんと食べれるかと言うことも大事である。学生の時中国人の家に食事に招かれたことがある。出てきた食事は中華風の普通の料理であったが、ただその時目の前に卵がいくつかつまれていた。私はその時ただのゆで卵かと思っていたのだが、食事も終りかけになるとその中国人が○○(なんと言ったか忘れたが)食べるかと言う。私はゆで卵はあまり好きではないのでいらないと答えると、おもむろにその卵をとって殻をわりだした、するとその中からおどろくようなものが、何とそこから孵化しかかったひなのかたちがでてきたのだが、このゆで卵は普通のではなく有精卵のゆでたまごであったのだ。「えっこんなものをこいつは食べさせようとしていたのか」と驚いたが、しかし私も興味があってそのゆで卵をくれと食べた。かなり気合が言ったが最後まで食べると何かわからないが喜んでいたようだ、その他にもあるハワイアンの伝統料理を食べさせるところがあって、ここも結構口に合わなかった、特にポイとかいうノリみたいな食べ物は味がなく、本当にポイしてやろうと思ったが、そのあまりおいしくない料理を完食、店の人間はお前らよく食べたなと感心していたが、やはり国が違えば文化も違う、私はこの食を通して文化の違いを感じたことは多々ある。前回英語を話すことはこれからの時代には不可欠だと言ったが、それと同様いろいろなものを出されても少々なことではこわさない多少丈夫な胃袋も必要かもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しいスポーツ学科

2015-07-12 | Weblog

英語のレッスンで教える時一番難しいのは前置詞である。たぶんこれは外国人に助詞を教えることと同じ難しさがある。前に友人が言っていたことだが外国人とタクシーに乗った時にその外国人はそのコンビニを右に曲がってくれと言いたいところをそのコンビニを右に曲げてくれと言ったそうだが、日本語の女子も前置詞同様、使い方を間違えば違う意味にとられてしまう。しかし助詞にはルールがあるのに対して前置詞は絶対的なルールがないとにかくイメージで覚えるのだが、そこが物事を固定化しようとする日本人に伝えにくいのである。例えばlisten toと言うがlisten forとは言わないことは学校では習ったことである。しかしlisten forはありうるliste toを固定化して熟語のようにおぼえたら理解しがたいが、例えばHe left  for tokyo I went to tokyoではどちらも彼は東京に行ったという意味だ、しかし決定的な違いは前者が彼が東京に向かって言ったと言うことを強調いているのに対して後者は彼が東京に行ったと言うことを強調している。すなわちforは方向だけをあらわすが到達点は示していないがしかし toは方向と到達点を結び付けるための前置詞でこれをlistenで考えるとtoは何かが聞こえて私の耳に到達した=聞くであってforの場合は何かが伝わろうとしているが、それがまだ耳には到達していない、すなわちliste for a phoneでかかってこようとしている電話に耳をそばだてている様子が思い浮かべられるであろう。さらに10分たったらそこに行きますの英語訳はI will go there in 10 min.だafter 10 minも間違いではないが、しかしafter 10 minと言えばそれよりも後に来るというニュアンスなので消極的である。なぜここでinを使うのかというのは砂時計を連想してほしいのだが、その10分と言う器の中に10分と言う時間がたまったらと言うことなのだろう、アバウトな言い方ではIm about 10 min awayと言う方もあるが一般的には10分後とかはinをつかうのが通常であると思う。前置詞を理解しようと思ったらニュアンスをつかむことである。このinのような例は彼ら彼女らの頭の中の構造の問題なので多少の文化的な違いはある。意外と日常的につかっている前置詞の使い方が日本では専門的にあつかわれていたりすることであるが、とにかく使って言ってそれがつかえるかどうか試す必要はあるだろう。

うちのクラブには結構キャリアアップのために英語を勉強している人たちがいる。特にtoeicは昇進や海外主張の必須条件である。最近では日本も求められる得点が800点以上なんて高得点になってきたので専門の塾に行って勉強している人たちも増えてきているのだが、スポーツも同様これから東京オリンピックに向けて指導者も同様toeicを導入する必要はあるだろう。でもしかしいきなり800点なんて言うとほとんどの人が通らないし、スポーツによってはゼロなんて言うのもある。まずは500点ぐらいを基準に500点以上得点を取れないものは文部科学省が開催するような大会にはかかわらせないという政策も必要であると思う。なぜこういうことを言うかと言うと国際舞台で通訳を通して出ないと何も言えない人間を誰が信用できるかということだ。何かあった時にいちいち通訳を探しに行くのだろうか?ロンドンオリンピックやインチョンではことごとくなめられたが、こういうことがおこるたびに日本人は言葉が話せない、議論できないからなめられるのだと実感してしまうのである。外国人は日本人はおとなしい何も言えないと思っているから以外にもいや違うと反論するとぎょっとする。これからの大学のスポーツ科と言うところには英語だけではなく、他の言語も学ばせて、今まで日本が受けてきた理不尽な採点や他の国がつけそうなクレームなどを研究したプラティカルな授業をもうけてコーチ陣としてそういうエキスパートも育成していく必要はあると思っている。そして近い将来あいつらを黙らせろぐらい言わせてほしいものだ。

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする