脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

感謝そして来年もよろしくお願いします。

2010-12-29 | Weblog
今年もまた無事に1年の歩みをおえることができました。
おかげさまでブログも多い時で約400人の閲覧者があり、大変感謝です。
一般的な日本人が書く好ましい文は導入起承転結と、相手の共感を得て話を推し進めていくのですが、しかし私の文章や主張はどちらかと言えば英語的で、物事を白か黒かはっきりさせるので、ある人に外国人が書いている文章だと思ったと言われ、なんだか微妙な気持ちでした。
私自身人に共感を得ようということは一切考えていませんが、しかし私が書く文で誰かが励まされること、ユーモアを通して喜べること、そしてそれだけではなく、「暴力」とか「いじめ」、仲間意識で集まることがいかに弊害になるかと言うこと、そしてそういうことは得てして、スポーツクラブが陥りやすいことであるということを感じとってくださったらと思っています。
来年の更新は1月4日からですが、来年もまたよろしくお願いします。

セヘ ポンマニ パドウセヨ たくさんの福をうけてください。

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ネガ キオッケ ジュルケ(僕がおぼえてあげる)

2010-12-27 | Weblog
何年か前の「私の頭の中の消しゴム」と言う韓国映画がある。
今日は1年のおわりのブログなので今年見たいい映画(ヴィデオ)を紹介したい。

「ロッキーザファイナル」

スタローン懲りもせずに、またやったかとと思いきや、実はロッキーシリーズは全部見ているので、一応見ることにした。
しかし意外と感動、特に中年になったせいだろうか、いいおっさんが危険を承知でリングにあがって戦う姿に、何か自分をオーバーラップさせ励まされた。
いい年をしたおやじになってからもまた試合に出ると言うロッキーに対して、息子がやめろと説得するが、しかしその息子に向かってこう言う「I love you no matter what. you are the best part of my life, but you gotta believe in yourself, or love you no matter what. you are the best part of my life, but you gotta believe in yourself, or you anit gonna have no life.(何があろうと君を愛している。君は私の一番大切な私の一部だ。自分を信じろ、さもなければ人生なんて意味はない。」
このセリフの初めにロッキーは「人生ほど思いパンチはない、しかしそれに対して、耐え忍んで、前に出続けろ」と言うのだが、よく自分を信じろなんて言う人間がいるが、しかし自分を信じると言うことは、簡単なことではないし、そんな軽い言葉ではない。
ロッキーが言うように、自分を信じるためには、たたかれ打ちのめされ、そしてそれでも前に出ていく勇気と力が必要だ、人間は戦うことを抜きにしては自信なんて生まれない。自信を持つためには一生懸命戦うことが必要で、そのことを中年ボクサーが我々に教えてくれているのである。

※戦うと言ってもDQNレヴェルでの戦いではないのであしからず。

「カラーパープル」
題名自体謎めいた言葉で、パープルは高貴な色をあらわすほかに怒りをあらわす色でもある。
黒人で女性と言う当時圧倒的にしいたげられる立場にあった、主人公のセリは様々な虐待にあう。義父のレイプ、長年に続く夫の暴力、ついには子供をとりあげられ、普通だったら生きる望みさえもうしなってしまいそうになるのだが、しかし彼女は周囲の人たちの交流によって自己の平安と自由を得ることができるのだが、この映画のキーは「ゆるし」である。
しかしここで語られるゆるしというのは、仕方がないからゆるしてやろうとか、これ以上自分が傷つくのがいやだからゆるしてやろうと言うレヴェルではない
ゆるすというのは、完全に忘れ去ると言うことで、そのことは難しいが、しかしそのことによって人間は心から平和を得ることができるということを伝えている。

「頭の中の消しゴム」

私はあまり韓国映画は好きではないのだが、友人がこれは絶対いいから見ろと言われて見たのだが、うんこれはいい映画だ。
この物語は建築会社の社長の令嬢の娘スジョンと、建築士を目指して働くチョルスが恋におちる。
その身分の違いからチョルスは彼女と結婚することをためらっていたのだが、彼女におされて二人は結婚し、幸せな新婚生活をおくっていたのだが、しかしそんな矢先二人に試練がおとずれる。
それは最近少し忘れやすくなっていたスジョンが医師から若年性アルツハイマーだと宣告され、脳がだんだん機能しなくなって、今日の記憶が明日になれば忘れると言うのだ。
スジョンは悩みに悩んでチョルスに別れを告げる。しかしそれでもそばにいたいと看病を続けることを決意するチョルスであるが、次のセリフはまさにそのチョルスが彼女とともに生きようと決心したセリフで、「ネ モリソゲ キオケガ イッテ。」(私の頭に中に消しゴムがある)「ネガ キオッケ ジョルケ。」(僕が(あなたの)記憶になってあげる)というセリフは見ている人たちの涙を誘い、強い印象をうける。
その日一日を生きると言うことがどんなに大切かと言うことを教えられる映画でもある。

以上が今年見た映画でよかった映画である。

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メレカリキマカ(メリークリスマス) Ich indem du bist

2010-12-24 | Weblog
クリスマスから暮れにかけて、オリーヴにはたくさんの訪問者が訪れる。
転勤や研修でこちらに来ていて、また出張で来た人、就職してこちらに帰省している人、様々な訪問客があるのだが、彼ら彼女らの活躍した話を聞けることは私にとっての楽しみであり、それはたいへん励まされることである。
先日HIの恩師から連絡をいただいた。日本に来たと時にはここまで足をのばしてくださるのだが、今年は来られないと言うことでわざわざHIから電話をいただいたのだが、電話の様子はいつも新鮮で、いつもこちらの様子を気にかけてくださることがわかる。
話すたびに「また君に会って話がしたいなあ」と言ってくださるのだが、「会いたい」と言われれば、自分の存在価値を認められているようでうれしいものである。

私はいつもこの季節になると、人間の存在がいかに大きいかと言うことがわかるのだが、こうして自分のことをおぼえて下さって声をかけてくれると言うことはたいへんうれしいことで、それは生きていくための大きな糧となるであろう。
今日はクリスマスイヴであるが、基本的に外国ではクリスマスは単にパーティをして騒ぐ日ではない。
日本だと恋人同士があってどこかに行ってプレゼントを渡すと言うような、どちらかというとロマンチックな演出をし、雰囲気だけを楽しむ換骨奪胎的なクリスマスのだが、しかし外国ではこの日は家族がともに集まって食卓を囲み、日ごろの感謝を伝える日で、プレゼントももらうというよりも、どちらかというと相手にあげるという気持ちのほうが強く、彼ら彼女らのプレゼント捜しは1カ月以上前からはじまるらしいが、それはそのプレゼントに深い感謝の意味が込められているからである。

毎年この季節にはたくさんの人がここにあいさつに来てくれるのだが、その彼ら彼女らからいろいろな話を聞けると言うことは私にとってそれらは最大のクリスマスプレゼントであり、特にこの先生の言葉はかけがえのないクリスマスプレゼントである。
勝手な解釈であるが、自分の存在を知らせると言うことも、それはある意味人を励ます力であり、相手に「あなたは私にとって必要な存在だ」ということを伝える感謝のかたちではないだろうか。
私はよく結婚式の寄せ書きで「Ich indem du bist(あなたが存在するゆえに私が存在する)」という言葉をおくるのだが、これはあ互いの存在を忘れないようにということで、その土台が感謝し合うと言うことにあると言うことを伝えたいからだ。

人間思った以上に自分が存在しているということは大きなことである。そして自分では思っている以上に自分の存在を必要としてくれている人がいて、そういう人たちに自分の存在、声を届けることは意味のあることだと思っている。
私は毎年この季節には大阪の母を訪ねるようにしている。正直大阪にはしょっちゅう行っていて、この人が混雑する時に、あえて行くことはあまり気が進まないのだが、しかし私の子供の訪問を待ってくれている人がいると思うと、そうしてまでもいってあげなければと思うのである。
人間が存在すると言うことは大きい、生まれたての何もできないちいさな子供でも、その訪問を待っているおじいさんやおばあさんがいるし、その訪問はどれだけ彼ら彼女らを励ますであろうか。
私は時々子供に大阪に行くのは、君の訪問を待ってくれている人がいるからだと伝えているのだが、向こうに行くのは遊びに行ったり、プレゼントをもらうだけではない、ちゃんと彼には彼の使命があって、彼の存在が人の励みになっているんだと言うことを理解してほしいからである。

「与えられるよりも与えるほうが幸いだ」と言う言葉は日本人にはあまり知られていないが、この言葉は根本的なクリスマスの意味をつかんだ言葉である。
プレゼントをもらったり、パーティで騒ぐのもひとつのクリスマスの迎え方であるが、しかしこういう日だからこそ、誰かに本当に感謝し、その気持ちを伝えることが大事なのかもしれない。







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Speechless

2010-12-22 | Weblog
今日は少し私と言うか友人たちの失言を紹介したい。
みんなそれぞれ自己主張がはっきりしているので、なかなかおもしろい。

「夜中の駐車場にて」
昔住んでいた近くの駐車場に夜中1時頃DQNの軍団がたむろしてうるさかった。
注意してやろうと思ったが、行っても話してわかる相手でもないし、私は腕に自信がないと言うか、暴力で解決できないので、逆にかえりうちにあうだけ。オートバイのエンジンの音などでうるさかったので、警察に電話をしたのだが、すでに誰かが通報していて警察はこちらにむかっているという。
私はこういうことはしばしばあって迷惑していたので、到着した警官たちに、その事情を話し「こういうわけのわからないうさんくさい連中がたむろしていること自体が迷惑だ」と言ったのだが、しかし彼ら彼女らをうさんくさい連中とひとくくりに言ったことが偏見と思ったのだろうか、「人はみかけで判断するな(うちの会員の人もあることがきっかけで同じようなことを言われたらしいが)」と言った来たのだ。
しかし偉そうに言う警官に頭にきたので、その警官に一言「偏見じゃなく、プロファイリングです」と言ってしまった。
その一言に目がきれかけていたが、しかし私がそこであまりにも毅然として言ったからだろうか、何も言ってはこなかったのだが、のちに近所の人が言っていたのだが、その連中は、警官の近所の人間で顔見知りらしい。

「旅行代理店にて」
海外旅行の予約をしに某旅行代理店へ、パックツアーが安いので私は必ず行く時はパックツアーにするのだが、しかしそのパックツアーはいろいろとオプションがあって、それをいろいろと説明される。
そしてもちろんそのオプションは海外旅行保険についてもふれられるのだが、その保険の説明をしている時にアジア系の友人が私に真顔で一言「おい、傷害保険ってやったほうなのか?」。この時日本はつくづく安全だと言うことを思わされた。

「タクシーにて」
神戸でタクシーに乗ることになった。
行き先は外国人の友人の住む寮、どこの会社かはわすれたがある会社の寮に特別すませてもらっていると言う、かえりがかなり遅くなったのでタクシーを拾って帰ったのだが、その行き先を説明している彼が運転手に一言「あのコンビニを左に曲げてくれ」。
その言い方もかなりかんでいたのだが、運転手の反応は無表情でただ「はい」というだけであった。

「ハワイで」
友人がハワイに遊びに来た。
彼らのホテルに行って食事をしたのだが、彼らは英語が苦手、ハワイとは言えど外国、観光地から離れてしまったら日本語が通じないので、その時はマクドナルドに行くらしい。
私たちはあるホテルのステーキハウスに行ったのだが、あいにくそこは観光地のホテルでも、アメリカ人やヨーロッパ人が多く泊るホテルでウエイトレスも白人の女性、飲み物は何がいいかと聞かれて思わず友人は「I am orenge juice」と言い、さらにその横にいた友人が「Me too」と言ってしまった。
私は思わず冠詞を入れろとつっこみそうになった。

「ボクサーに」
あるボクサーがある元チャンピオンにあって、アドヴァイスを受けたことを自慢げに言っていた。
私はボクサーと言う言葉自体が嫌いで(私のプロファイリング的に)その元チャンピオンも胡散臭くて、実際事件の起こしたのだが、言っていることも、何がそんなにすごいことかわからないので、思わず「(勝負に)にげるとかにげないとか暴走族と次元はいっしょやろ。そんな奴は、たかだかうじむしがハエになったぐらいで根本的にはかわらない」と言ってしまった。
力だけで謙遜を学ばない人間は、駄目だ。謙遜と言っても体育会のように、権力者の前ではおとなしく、先輩をたてるということではなく、自分の足りなさに気づくということだ。力や根性ばかりを強調して生きても意味はない、本当にある程度何かをやった人間はその自分の足りなさが見えてくる。おそらく勉強をほったらかしにして生きて来た人間は、学ぶことの大切さがわかるだろう。その足りなさが見えた時に人間はそれを「to learn or to hide, thats the question」なのだ。

「Speechless」とは言葉をうしなうということだが、まさに我々の言葉はそうである。このほかにもいろいろとあるが、とりあえずこれぐらいにしておこう。






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いい顔してますか?

2010-12-20 | Weblog
 先日司法関係の友人がこちらに来ていたので、食事をいっしょにした。
自分の意見をはっきりもっている人と会話するということは、たいへん益となることで、話していてもおもしろく、つい話しこんでしまった。
その話の中で心的ストレスと言うことについて話し合ったのだが、我々のように人とかかわる仕事と言うのは、心的ストレスをためやすく、それをどう発散すると言うことが問題である。
何年か前に学校でカウンセラーと称する人たちをたくさん採用したことがある。
目的は不登校やいじめ学級崩壊などの問題をうけて、子供たちのケアにあたるためだが、しかし文部省の対応がにわかであったために、たいした実績をあげることができず終わってしまったのだが、しかし本当に必要なのは教員のケアである。
最近ニュースでクラスの人数を減らして、教員の数を増やすようなことを計画しているそうだが、しかしそれだけでは焼け石に水で、根本的には傷つきつかれている教員を十分にケアすることができなければ意味がないように思えるのだ。
この教員のケアと言うことが大事だと言うのにはそれなりの理由と根拠がある。
まず指導する人間の精神状態がよくなかったら、それはクラス全体に影響を及ぼすだろう。
本当に教室を生き生きとさせたかったらその指導にあたる彼ら彼女らの環境を十分に整えることが必要があるからで、特にその心的ストレスの負担を軽くすることが必要だからだ。

うちのクラブでの話になるのだが、最近ある人の指導のおかげで、さらに全体の雰囲気がかなりよくなってきた。
よくなってきたと言うのは、みんなが明るくなってきたということだが、彼が指導を手伝ってくれるおかげで、全体のモティヴェーションが上がり、クラブ全体が生き生きとしてきたのだ。
しかしよくなってきたといっても、試合に出るだとか、特定の人間を集めて自分のいわゆる仲間をつくって盛り上がるというような程度の低いことではない。
よくDQNとおぼしき人間が、自分たちはこんなに仲がいいんだと肩をくんだり、ふざけ合った様子などを写真にとったりするが、しかし、そういう仲間をつくることは一切せずに、とにかく個人の目的を尊重し、人のためになるように手伝って指導してくれているのだが、学業も仕事も立派に行ってきた彼が、生き生きと献身的に人を指導している姿には脱帽させられるものがあり、見ていて思うのだが、彼の顔は非常に生き生きしている。
本当にスポーツをすることでストレスを発散し、楽しんでいる。そういう姿を見てまわりの人間は影響を受けるのであるが、特に最近では小中学生がいい影響をうけて、顔つきが高尚になってきたと思うのだが、彼が素晴らしい指導ができるのは、彼が一社会人で立派に仕事をこなし、彼自身がそのことでストレスを発散し、楽しむことができるからである。

学校や会社なども、そういう人材をつくるために指導に当たる教師や役員の環境を整え、自らもストレスを十分に発散させる必要がある。最近教員や司法関係の事件が目立つが、しかし肩を持つわけではないが、道理の通らない人間が増えて来ている中で、そういう人間たちを相手にして、あきらかにおかしいという考え方も受け入れていかなくてはならないという現場において、そういう不祥事が起こっても不自然なことではないだろう。
そういう人間をピックアップして、スケープゴートにするのではなく、むしろその起こりうる背景を問題にして、休暇を増やしたり、カウンセラーを置くというような対処も必要ではないかと思っている。
当たり前だが、指導する人がストレスをためていたらいい指導をすることができない、やはりいい指導をするにはテクニックだけの問題ではなく、自分にそのストレスを正しいかたちで発散させることが不可欠である。

これは私の考えであるが、やたらテンションが高く、冗談を言い合うなんて言ってよく笑い、ふざけあい、やたら共通理解が多いグループは稚拙だし、危険だ。社会人の集まりとしては不適切であると考える。
オリーヴの目指すものは中高生の集まりではなく、大人の集団である。



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彼、マルチリンガルですよ

2010-12-17 | Weblog
少し前うちのスタッフとある芸能人の話題になった。
スタッフ「Hiro Mizusimaって知ってる」
私   「誰じゃそいつ」
実は私の情報はアムロナミエあたりぐらいからとまっている。彼女がデビューした時もアムロと聞いてガンダムか何かロボットの操縦士かと勘違いしたが、芸能人にはかなりうとい。
スタッフは驚いて「えっ知らないの、彼は有名で小説を書いたらしいよ」と言ったので、私は小説と言っても、どうせ芸能人がエッセイを書く程度だろうと思い「小説をなめるんじゃない、芸能人だか何だか知らないが、売れたからと言ってそれに便乗して小説を書くと言うのはアンフェアーだ」と言ったのだが、しかしこの時彼のことは何も知らなかったことはおろか、実は名前さえも聞いたことがなかったのだ。
しかし彼女の話では、かっこよくて、かなりスマートな人物であるそうで、なんでも彼はマルチリンガル(4か国語以上話す人)で英語だけではなく、ドイツ語やほかの語学をも流暢に話すそうで、そういう人間がアイドルにいるのかということさえ、私を驚かせた。
正直外国人の話なので情報が錯綜して、多少の誇張もあるかと思われるが、しかし語学をいくつか話せると言うことは物事をまた違った視点から見れるので、小説を書くにしても何をするにしても、大きなアドヴァンテージになることは確かである。

「怨」とか「恨」と言う言葉を聞いたことがあるだろうか。
韓流ドラマなんかを見ている人はこの言葉をよく聞くと思うのだが、これは韓国人がよく使う言葉だ。
しかしこの「怨」とか「恨」という言葉は日本人が考える「怨」や「恨」とは違う。
一般的に「怨」とか「恨」いうと何か物騒な言葉で、誰もが憚るべき言葉であるが、しかし韓国ではこの「怨」や「恨」というのは、むしろ情熱的な言葉である。
私の解釈では、これらの言葉は人間のもどかしさや愛情をあらわした言葉であり、自分はこのことを伝えたいのに言葉にできないという気持ちや感情がウオンやハンという言葉、概念である。
以前こちらに来ていた韓国人と日本語の「ねたみ」について話したことがある。
日本人がねたみと言う時、往々にしてしてそれはうらみやつらみであるが、しかし韓国人はそのねたみに対して愛情さえ感じると言う。
日本人から見たら少し滑稽にさえ思えるが、しかしもし自分の愛する人が自分のもとを去ってしまったら、それは相手を思う気持ちがねたみになる。そういう気持ちを韓国の人は強く持っていて、それが彼ら彼女らの「怨」や「恨」であるとさえ言うのだ。
そう言えば日本でも源氏物語などのシーンで、そういう怨や恨を感じさせるセリフがある。特に浮舟という女性が語った「女は、今の方に今少し心寄せまさりてぞ待ちりける。それにねたみて、終に今のをば殺してしぞかし」という言葉は、この「怨」や「恨」の概念に近いものがあり、愛情とはここまで深く、複雑なものかと首をかしげてしまうのだが、しかしそういう人間の感情を憚らず、むしろ表現しようとしているのが彼ら彼女らであり、それが彼ら彼女らの「恩」や「恨」と言う概念であると思っている。

今や時代はかわりその価値観も変わってきている。
この「怨」や「恨」という言葉のとらえかただけではなく、外国語が話されるようになってきた今、言葉を今までの日本語としてだけのとらえかたではなく、いろいろな視点から言葉をとらえるようになってきている。
少し昔はバイリンガルと言う言葉もあまり聞くことはなかったが、今ではトライリンガルを通り越して、マルチリンガルの時代になってきているのだが、そういう人間が増えて来ているということは、世の中の求めることや価値観もかわってきている。そういう時代の中にあって、こういうマルチリンガルの人間が小説を書くということは、多少興味深いこととも言えるだろう。

ちなみによくバイリンガルというがこれは2か国語を話す人、バイという言葉はギリシャ語の「2」その「3」を表す言葉がトリスである。そしてその言葉通りにトライリングルは3か国語、マルチというのはたくさんということで、3か国語以上話す人のことである。








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アジア諸国って?

2010-12-15 | Weblog
2年ぐらい前だっただろうか、アジアと日本の国交を話しあうような感じのフォーラムがやっていた。
司会者と言うか、そこでフォーラムを仕切っていたのは桜井さんであるが、ある韓国人だったか中国人だったか忘れたが、彼女が日本の戦争責任にたいして、アジア諸国と言った時に、桜井さんの言った言葉が非常に印象的であった。
彼女は言わずとも有名なキャスターであるが、留学経験もあって特に歴史学を専攻しているそうだが、自分の立場をしっかり持っていて、私は彼女の歯に衣着せぬ物言いが好きで、結構彼女が出ている番組なんかは好んでみている。
私の見解では彼女は歴史観がしっかりしていて(ある人間にはまったく逆であるが)物事をするどい視点でとらえているのだが、しかし言葉は単純明快で、人に影響を与えやすく印象深い。
その桜井さんが、その女性にむかって「アジア諸国ってどことどこの国か」と言っていたのだが、これには悪いが笑ってしまった。結局どこの国かと聞かれてしどろもどろしながら、2カ国しか挙げられなかったのだが、しかし彼ら彼女らのプロパガンダ的で、いきおいで論駁しようとするやり方にはいささか辟易している。
私はよくこういうことに巻き込まれたり、テレヴィなどを見ていつも思うことは、われわれがこういう国際的な場において発言する時、歴史観をもつことは非常に大切で、そのためバランスというものを考えて歴史を学ばなくてはならないと思っているのだが、このアジア諸国と発言した国には、それが当たり前になっているのだろうが、しかしこの発言は非常にバランスにかけた発言と思えるのだ。

以前アンビリーバボーという番組で、イレイナ サンドラーさんと言う、2500人のユダヤ人を救った人の話が取り上げられていた。私は日ごろからテレヴィごときで感動するなといいながらも、実際見て深い感動をおぼえてしまったのであるが、それはあるアメリカの4人の高校生の物語である。
アメリカでは全米歴史コンテストと言うのがあって、その歴史コンテストに出場するために、4人はテーマを探していたのだが、その時ある記事に目がとまった。
それは2400人ものユダヤ人の子どもたちを救ったあるヒロインの記事であったのだが、1200人を救ったシンドラーに対してその倍の人数も救ったということで、さっそく研究のテーマに選び、とりかかったそうだ。
しかし実際そのテーマに取り組んで見たものの、インターネットの検索にはかからないし、実際資料がない、歴史の専門家の先生に聞いても、そういう人はいるかいないかわからない、少なくとものこっている資料や記録がないと言われて、4人はあきらめかけていた。
しかしある一人の言葉であきらめず、その研究を再開する。
それは小さい時に親に見放された高校生が、自分は大人を信じられないが、こういう人が本当にいたなら大人を信じれるような気がすると言ったひとことで、その言葉で4人は研究を再開するのだが、ここから本格的な半年に及ぶ調査がはじまる。
実際彼女たちは資料がのこっていないので、実際にアウシュビッツから生き延びた人たちを捜し、そこから情報を集めようとするのだが、しかし証言者と言っても、彼ら彼女らにしてみればあの地獄のような体験だったので、証言者から直接話を聞くことは難しく捜査は難航するのだが、しかしそれでも彼女らは真実を知りたいと、あきらめず情報者を探すのであるが、その努力の結果、ついにヒロインを探し当て真実にたどりつくのである。
そして今まで歴史コンテストではパネルや資料をつかってプレゼンをするのが習わしであったが、それでは本当の彼女(イレイナ センドラー)の気持ちが伝わらないと、この物語を劇にして歴史コンテストで発表したそうだが、この物語はそこで大きな評価を得てコンテストで優勝し、現在もその劇は「Life in a jar(ビンの中のいのち)」という名前でのこされ公演されているそうである。

ここまでユダヤ人の命を救ったヒロインであったのだが、なぜ彼女スポットライトをあびなかったと言うと、当時彼女の生きていたポーランドは社会主義国で、彼女の活動はある意味地下組織的でもあったので、そういう人間にスポットをあびせることは危険だと今までほうむりさられていたそうである。
それが4人の女子高生によってとらえられ、歴史の中に組み込まれたのであるが、まさにこの4人の活躍は政治史ではなく、文化や人間と言う視点で歴史をとらえ、真実をとらえようとした結果であるのだ。
最近では歴史を政治史からとらえるのではなく、文化史や人間学からとらえる傾向がでているのだが、政治史だけではなく、文化や人間にスポットをあてると言うことは、ある意味本当の真実が見えてくることもあるのだ。
まあ歴史的なことなので、ここは曖昧にしておわりたいのだが、しかし本当にしっかりした歴史観をもつということは、歴史を政治史としてとらえるのではなく、文化や、人間というものを理解することが不可欠である。
結論的に雑ないいかたであるが、歴史を学ぶ時に同時にヒューマニティについても考えることが必要だろう。
私は思うにバランスのある歴史観を持つと言うことは、それはヒューマニティをもつということと深くかかわっていて、個人的な意見だが桜井さんがバランスがいいと思えるのは、彼女がヒューマニティをしっかりと持って語ることができるからだろうと思っている。

この「Life in a jar」であるが「世界を変えた普通の高校生」で検索すれば、その高校生たちの物語が見れる。





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ああ勘違い 

2010-12-13 | Weblog
オリーヴはは忘年会などの親睦会をもつ機会が増えて来た。
最近では宴会部長などもちだして、ある節目にはそういう機会を持っているのだが、それでも仲良しクラブやレギュラーメンバーなどと言う定着感はなく、新しい人も気軽に入ってこれる雰囲気があって、非常に公平でやはりそれは社会人が多いからだと思っている。
この親睦会結構盛り上がるそうだ。何を話しているのかは分からないが、それぞれ集まった者が、仕事のストレスを発散で来ていることは確かで、彼ら彼女らはおわると必ずカラオケに行くそうだが、年齢や性別そして仕事の違うものどうしが、それぞれの立場を越えてこうしてボクシング以外でも楽しめることは、歓迎すべきことであり、それは日ごろの練習が楽しく、雰囲気がいいからだと自負している。

話はカラオケの話になるのだが、オリーヴの会員は二次会でもカラオケに行くように、よくカラオケに行くのだが、私自身そう歌がうまくないのでカラオケは好きではない。
しかしこれでも昔は言ったほうで、この話はかなり前に書いた話だが、特に学生の頃HIでよく友達に誘われて時々、カラオケに行ったことを思い出す。
カラオケと言ってもホールなようところで、そこはおもにローカルのアジア人たちが常に100人ぐらいいるのだが、そのホールのようなところで、いわゆる自分のリクエストした歌をまって、自分の順番が来たら歌うと言うシステムであった。
しかし簡単には言うが、100人以上知らない人がいる前で歌を歌うのはかなり根性がいる。
私の友人はほとんどがアジア人だったのだが、その100人の前で熱唱する友人たちの姿を見て「やっぱり俺はひかえめな日本人だ」と実感したほどである。
私たちはよく行っていた時期があったので、いつしか常連のようになり、私もそこで熱唱できるようになってしまっていたのだが、慣れると言うことはこわいものである。調子のいいときは相手がうたっているところに入って行って歌うほどであった。

我々は日本人や韓国人そして台湾人、中国人からなるアジア人の集まりで、歌や言葉も英語や日本語、そして中国語や韓国が混ざると言った独特の集団であった。
基本的には共通語は英語であるが、しかしその組み合わせによって共通語が日本語になったり、韓国語になったり、中国語になったりするのが面白く、エキゾチックである。
私は最初こういう言葉のやり取りができるということに対して、ある種の優越感の持っていた。
英語を共通語としながら、それぞれの言葉を使い分けて話す自分たちがかっこいいとさえ思っていたのだが、しかしこれはとんでもない勘違いであった。

「グレムリン」と言う映画を知っているだろうか。
ある青年が東洋人のある骨董屋で、ちいさくてかわいい生き物を見つけて、うってほしいとせがむのだが、しかしそれを飼うのにはある制約というか、絶対してはならないことがあって、そのことをしなければ、彼を連れて帰ってもいいと言う。
青年は最初少しとまどったが、しかしそれでも彼を連れて帰りたかったので、その骨董品の老人に約束をし、ゆるしを得て実際に彼を飼うことになったのである。
しかしその青年は不可抗力ではあるのだが、彼に水をかけてはいけないと言う約束をやぶってしまう。
どういうきっかけでどうなったかはおぼえていないが、あることがきっかけで彼に水がかかってしまったのだが、その彼に水をかけた途端、その小さなかわいい生き物は突然変異して、悪魔のような顔つきになりわけのわからないことばで語り始め、人間を攻撃し始めたのだ。

実はこのグレムリンと言うのは、われわれ東洋人、特に日本人をモデルにしたと言われているのだが、まさにチンキーアイ(つりあがった目)で、わけのわからない言葉をぺちゃくちゃとしゃべる不気味な姿はわれわれのことで、作者はその我々東洋人の姿をグレムリンにオーバーラップさせていたのだ。
西洋人から見て東洋人の話す言葉や行動は、ある意味神秘的であると言うことも言える。
しかしその神秘的の裏返しは不気味であるということでもある。
そう考えればあの時集まっていた我々は、まさに彼ら彼女らから見たら正真正銘グレムリンである。
自分たちはいけてるなんて思っていたが、小柄でチンキーアイな人間たちが、不気味な言葉をぺちゃくちゃと、エキゾチックでかっこいいと言うのは、われわれの幻想であって、ここはアジア人が多くてもアメリカ、西洋である。
その西洋ではまさに我々はグレムリンの集団であったのだ。








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エイジアンビューティ

2010-12-10 | Weblog
最近ダイエット目的で来る女性がかなり増えて来た。
おそらくダイエット相談をうけたり、フランス語などの語学をやっているせいだろうか、会員の人に聞いたら、ここはボクサーと言うよりも普通の社会人が多いので入りやすいそうで、ここだったら大丈夫だろうと言うことで来てくれるそうだ。
実はこのダイエットだが、最初のうちはボクシングの練習をすれば痩せるだろうと言うようなことを思っていた。
しかし取り組んでいるうちに、それはとんでもないことであることがわかった。
ダイエットと言うのはデリケートなものである。だから教える側がもっとそのことについて学ばなければならない。
なぜなら太るのは簡単だが、痩せるのは難しい、ダイエットには気力と体力が必要であり、そのどちらかの一方がかけると挫折してしまうからだ。
30を過ぎた人には、やせたくてもボクシングのハードな練習についていけるはずはない。特に運動経験がない人はそうである。
よくダイエットが目的の人に中高生のような練習をさせる人間もいるが、しかしダイエットとボクシングは別、クラブのかんばんに「Fitness」とついている以上は、そのことをよく理解しなくてはいけない。ボクシングもダイエットも同じ練習、同じ説明ではおかしい、ましてやそれを無視してボクサーと同じような練習をさせるのは粗すぎるやり方だ、われわれはもっと効率を考えて指導しなくてはならない、その道のプロになるぐらいの研究をしなくてはだめだ。
ダイエットに来る人たちは藁をもすがるつもりで来ている。これは決して大げさではない。
私のところでは最近女性の割合が多くなってきているのだが、話を聞くたびにダイエットと言うのはデリケートなものであることがわかる。
時にはこうすれば大丈夫だと、データーをもってきたり、エクササイズを説明して安心させる必要がある。そのため我々はそのことについて知らないといけないと思っている(特にここはFitnessとつけている)。

さらにもともとダイエットと言う言葉は医学的な言葉である。
よく言うが英語でIm on dietと言えば食事制限のことで、痩せるためにエクササイズをすることではない。
おそらくこういう言葉がエクササイズも含めて痩せると言うことにつながった背景には、肥満=不健康と言う図式が見えるのだが、まさに脂肪をたくわえた体は不健康であると言える。
その不健康である状態を健康的な状態にすることが幅広い意味でのダイエットである。

昔学生の頃ある高級なコンドミニアムに、アルバイトでボクシングと言うかエクササイズを教えに行ったことがある。
教えると言っても、それは助手程度のものであったのだが、そこでパイロットや医者を相手にコンドミニアムの専用のジムでトレーニングのお手伝いをするアルバイトであった。
私はだいたい週に2回ほど、そこでミットをもったり、ダンベルをあげるのを手伝ったりしていたのだが、トレーニングをしているのはほとんどが女性で、今のように女性がジムに行って体を鍛えると言う時代ではなかったので、ある意味それはカルチャーショックでもあった。
ある時そこでトレーニングがおわった後に、ある夫婦に自分たちの部屋でお茶でも飲まないかと誘われた。
なんでもご主人はパイロットで日本にはよく行くそうで、日本語も少し話せるらしく、たいへん日本の文化に興味があるので、私が日本人だと知って前から誘いたかったそうで、声をかけてくれたのだ。
私はしばらくそこで日本のことや自分の家族などについて話したのだが、話がトレーニングの話になった時に、そのワイフが私に言った。
それは先週(といったかあいまいだが)私の姿をあるビーチで見たそうである。
その時一緒に友人の女性がいたのだが、彼女はあなたのGFで、彼女はロコ(地元の人間)かと聞く、
そして「あの子はきれいだ」と言い、何がきれいかというと特に体のラインがきれいで、ああいう体は西洋人では15歳か16歳ぐらいの体で、彼女いわく西洋人はティーンエイジを過ぎるとすぐに脂肪がつき始めるのだと言う。
その時「ははん、それで西洋人はトレーニングをする習慣を持っているのか、やはり西洋人と東洋人は食生活が違うので、その差が20歳をこえると出てくるんだ」と思ったのだが、やはり西洋人が脂肪がつきやすいと言うのは、普段から甘いものやオイリーでスパイスのきいた料理を食べているからであり、一方食事などでもプレーンな食生活を好む東洋人は、そのせいか太りにくい体質を持っているのだが、いわゆるトレーニングは必要性の問題であることに気づいた。
最近体を鍛えて綺麗になっていくという筋肉美に憧れをもつ時代になってきたが、これはおそらく食生活がかわり脂肪がつきやすくなってきたからだと理解しているが、しかしアジア人にはその痩せ方においてもアジア人の美がある。
抽象的であるが、それは我々の食文化を守ることとつながってはいないだろうか。
アメリカでも和食と言うのはダイエットにもっとも適した料理であるとされているが、食生活を食材をなるべく有機野菜などの自然なものをつかい、和中心のものにしたら、かなり違ってくるのではないかと思っている。
体をつかうエクササイズも大事だが、食生活を見直すのは我々東洋人にとっては最も重要なことではないだろうか。
しかし食生活と言っても自然にかえることが大事で、我々にはそういうDMAが備わっているのだから、それにかえる食生活の見直しが大事である。

Han Xueという女優がいる。
日本語読みではハンシュエと発音するのだろうか、170cm 48kgというのは驚異的で、ここまでくれば痩せすぎだが、しかし自然的な痩せ方でこれは努力だけの問題ではなく、DNAの問題でもある。

この食生活に関してはミンデルという学者が書いた、食生活によるダイエットのための本がある。これは日本語にも訳されているので読んでみる価値はある。

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Lessentiel est invisible pour les yeux (大切なものは目では見えない)

2010-12-08 | Weblog
ここ何年かパワハラ被害の件数が増えて来ているらしい。おそらくこういう問題は世の中がこういうことに敏感になってきたというせいもあるのだろうが、少なくともこういう現象が起こると言うことは、ストレスが多い時代になってきたと言えるのではないだろうか。
しかしこのパワハラ(正確に言えばパワーハラスメント)であるが、おそらく英語にはない言葉である。
誰が提唱したのかはわからないが、おそらくモラルハラスメントやセクシャルハラスメントに便乗してできたことばであろう。
外国では個人の権利と言うものがしっかりと確立しているので、こういう言葉はないと思われるが、これらは職場で密な人間関係を求められる日本特有のものであると言える。

時々大阪で友人たちと会うのだが、彼ら彼女らは会社では、そこそこの地位にある。
中には中小企業だがある会社を経営してかなり成功しているらしいのだが、少し嫌味な言い方だが、みんなそれなりの成功者、今の言葉で言えば「勝ち組」である。
しかしある女性が言うには、私が一番見た目が若く、幸せそうであると言う。
だいたい集まって話すとみんな私の話を聞きたがるのだが、私が英会話の様子やジムの様子など(特にボクシングのねたはうけるのだが)本当に楽しく話すので、そういう環境で仕事ができる自分をうらやましいとさえ言っていた。

少し大風呂敷を広げたような話しになるが、ヘレンケラーがこういうことを言っていた。
「Believe, when you are most unhappy, that there is something for you to do in the world. So long as you can sweeten anothers pain, life is not in vain.」日本語に訳すと「あなたがもっとも不幸な時に、あなたに何かできることがこの世界にあると言うことを信じてほしい。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではない」
ヘレンケラーはもう有名なので、何も説明する必要はないと思うが、これは彼女が生涯を通して語られた言葉であるが、私の言いたいことは、人生には自分が何か人のためにしたいと思う気持ちが必要で、そのことが仕事の価値をかえるということである。

実際この友人の一人が「もう仕事のために働きたくない、若いうちはただ単に数字の成功を喜べたが、今はそうでもない。40にもなったのだからもう会社のためではなく、自分のために働きたい」と言うことで、仕事をやめてある事業を興したのだが、その事業を起こした時も、私の言葉をヒントに、とにかく何か人のためになるような仕事をしようと言うことで、自分の子供のちょっとした体験から、こういうことをしたら人の役にたつんじゃないかということで教育的な事業をおこしたらしい。
しかしもともと経済学部出身の彼は教育なんていうことなどわからない(専ら教員もそういう概念的なものは理解しているか疑問だが)、一度ホームページをつくった時に、会社の理念を書いてこれでどうだと持ってきたのだが、その時は文があまりに抽象的で稚拙あったので「そういう文を書いてたら、なめられるぞ」ときついアドヴァイスをしたのだが、しかし本当にそういう何か人を励ましたり役に立ちたいという気持ちがあるならば、理念は非常に大事だからで、畑違いだとよりもっと専門的な知識を必要とされるからである。
まあ結局思考錯誤ホームページを立ち上げたのだが、たぶんそういう経験も彼にとっては楽しい経験であり、そのはじめてする自分の仕事に生きがいを感じていたのではないかと思っているのだが、彼がこういう充実感を本当に見出すことができたのは月並みなことかもしれないが、今まで責任をおうだけの、余裕がなかった生活から解放され、他者のうちにも喜びを見出す余裕ができたからだと思っている。

私自身もこのボクシングクラブを経営した理由は、そういうストレスや重圧から社会人を解放し、励ましたかったからである。
ここではなるべく社会人にあわせた雰囲気作りをしている。
もう中高生ではないので、あいさつの義務化などの稚拙なルールなども定めていないのだが、私はなるべく彼ら彼女らには楽しく時間を過ごしてもらいたいからであり、ここで日ごろのストレスを発散してほしいと願う、そのことが私の生き甲斐であり、とにかく何かをしてあげたいという気持ちがあるからだ。
実際ここに来て何カ月かすると顔つきがかわって、多少なりともストレスが発散で来ているということがわかるのだが、そういう姿を見て私自身も励まされる。そういうことを経験できると言うことは尊いことかもしれない。
たぶんこういうことは20代や30代前半の人間から見れば退屈で、いささかきれいごとのように聞こえるかもしれない。
しかし40代だからこそ、見えてくるものもあるのだ。
人のために何かをするというのは言葉にすればきれい事だ、しかしそれを自分の生きがいすれば、かえってくるものも大きいし、何よりも本当に自分が生かされていることに気づくのである。




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