脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

MOB with logos

2022-02-20 | Weblog
うちのクラブは子供に文武両道をすすめるクラブである。しかしそんなことをかかげてはいないが子供が実際ここに来たらその雰囲気は伝わるであろう。文武両道と言うのは少し仰々しい言葉であるが、私はスポーツをする人間はそのことだけに没頭するのではなく、本を読んだり、外国人と交流するために語学を勉強したりして幅を広げることは大事なことで、指導者も学習を促しそれができるような環境をつくるべきだと思っている。これは私の意見であるが、それしかしない人間はこうとと決めたらまわりの話や意見を聞かない、スポーツバカと言うのがまさにそうであるが、話し合ってまわりのアドバイスを受けてから決めるのではなくて、もうすでにそれは決定事項で、たとえこちらが適切でまわりが納得するようなアドバイスをしても無視して自分の意見を押し通す傾向がある。そしてさらにそれがたちがわるいことにそういう我を貫き通すことが信念だと勘違いしている。まあこれは余談であるがそういう我を貫き通したような人間がたまたまうまくいってそれを美談のように語るが、しかしそこに行きつくまでにかなりのしりぬぐいと協力があったことは否めないだろう。
我々のような社会人が多くいろいろなタイプの人たちが集まるコミュニティはある種の知的要素は必要であると思っている。私はボクシングクラブをひとつのコミュニティとしてとらえ、アドラーなどの心理学を参考としているが、そのアドラー的に言うならば、コミュニティはどういう人間がそこを管理し、そこにどういう人たちが集まっているかと言うことを問題としてとらえる必要がある。集団においてその集団の良し悪しはその責任者の言葉にかかっている。責任者が知性を重んじ言葉を大切にすると言うことは重要な課題で人間はその言葉によって影響されると言っても過言ではない。語彙力が高い人間とそうでない人間だと話したり集まってくる人間に差が出てくるというのが私の考え方だ。アウトローくさい奴は学校のことを話してもケンカをしただの校則をやぶっただの出てくる話はやんちゃ自慢か武勇伝だ、もちろん進路のことや受験のことなど語ることなどない、人生の裏技を賢いことだと勘違いしているが所詮うさんくさいアウトロー、格闘技は刺激を求めてくる輩が集まりやすいので、そういう奴らを集めない、どう見ても半グレが集まるようなクラブには絶対にしたくないと言うのが私の考えである。
人間の集団の在り方を決めるのは言葉だ。言葉がとぼしく稚拙であるとそのまわりに集まる人間もそういうたぐいの人間が集まる。しかし言葉をよく理解して言葉に知的さを持っていれば、少なくともそういうたぐいの人間が幅をきかせるクラブにはならないだろう。私の見解ではそのコミュニティを管理する人間はボクシングができるとかそういうことよりもまず知性を磨くこと、そうすればきちんとした社会人がトレーニングしやすい雰囲気になる。そしてそういう大人が集まればその群れに集まる未成年の子供たちにも社会的にもいい影響を与えると考えているが、この考え方がうちのクラブの教育的配慮である。学生時代に宗教学を勉強したので少し専門的なことを言うと聖書に「人はパンだけで生きれない」と言う言葉がある。このパンだけで生きれないの生きるは命がζησεταιと言う永遠に生きると言うことをあらわす言葉からキリスト教では命のパン=神の言葉として受けとっているが、しかし私の解釈では命のパンはギリシャ哲学風に言って知性のある言葉と理解している。だから人はパンだけでは生きれないと言うのは人間には知性が必要だと言うことで、人間は知性ある言葉によって生かされると言うことである。言葉に息吹を与えるのは知性だ、この知性によって息吹を与えられた言葉は力であり、そういう言葉を指導者は持たなくてはいけないと思う。

reference, the bible new international version 

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アイヒマン裁判からクラブのあり方を考える

2022-02-03 | Weblog
今日クラブあるあるで話をしていた。そこで話題になったのは体育館の入り口に脱いだ靴がそろっていなければわざわざ部員をよびつけて「お前ら靴がそろってないじゃないか」と怒鳴りつける顧問。そもそも体育館と言うのは誰が入ってくるのかわからないし、ましてやそこで大会が行われていたら多少靴が散乱するのは仕方がないこと、しかしそれを言うことを聞くからと自分の力を見せつけるためかわからないが、人をわざわざよびつけてでかい声で人前でののしる、はっきりって誰がやったかもわからないのにそういうことをするのは濡れ衣を着せること甚だしく不公平である。こういう一方的な権力を行使できるようなコミュニティはまともではない、第一靴がそろっていないのなら自分から片づけてやったらいいし、もしそれを言う必要があるのなら人前でどなりつけるのではなく、こっそりと注意すればいいことだ、私はこういう話しを聞いたり、行為を見たりするたびに彼ら彼女らがよくする権威を見せつけるためのパフォーマンスと思ってしまうが、スポーツのコミュニティには絶対的な権利をもつ権力者は必要がない、平等性を保つためには絶対に親玉がいて人を支配する構造をつくってはならないと言うのが私の考え方だ。
アンナハーレントの著作に"Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil"がある。これはナチスの親衛隊隊長のアイヒマンの裁判を傍聴したアンナハーレントの記録である。その中で彼女はこう語っている。「アイヒマンは悪人でも狂人でもない、彼の罪はまったく思考していないこと、思考を放棄しその組織の歯車になることでホロコーストに加担した。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だ」彼女はこの現象を悪の陳腐さ(あるいは凡庸さ)the banality of evilと名づけたが、悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る。悪とはシステムを無批判に受け入れることである。
まだまだスポーツの世界は暴力や支配的構造が見られるが、それは監督や顧問をどうにかしろといった問題ではなく、そこに集まるひとりびとりの問題でもある。そこにある権力的構造を容認すると言うことはその力による支配を受け入れると言うことだ。上級生が下級生よりも力を持ち、時には下級生はその上級生の理不尽な要求に我慢しなければならないと言うのはその権力構造の延長である。格闘技ではケガをしたりさせたりするのが当たり前、なぐられたのはお前を強くするためだとか本人が納得してたらいいと未だそういうことを言う奇特な人間が存在する。さらにそういう群集心理が歪むと自分もやられたから問題ない、よくあることだ、我慢しろ的なことを無神経にも言うが、はっきり言って世の中では暴力をふるえば犯罪だ、こういう狭い世界で生きると物事を一般化して考えることができない、常に自分たちの都合で解釈する、そういう人間が集まると暴力が容認され、理不尽なことがまかり通る。
クラブやジムで暴力や不公平がおこらないためにもひとりびとりが考えて行動する必要がある。正しいものさしをひとりびとりがもたなくてはならないと言うことだ。そして客観的に、広く深く物事を考える。その考える力を養うため勉強する必要がある。はっきり言って強豪と呼ばれる運動クラブは勉強させる暇がない程練習するので勉強がおろそかになりがちだが、こういう習慣になれてしまうとそのスポーツ以外は何も考えずに没頭することが正しいこととされ、その権威主義の歯車となってしまう。スポーツは誰もが競技する権利があって、人権を侵害されてまでするものではない。同じスポーツをする共同体なのだから、そこでは誰もが権利を軽んじられることなく平等に楽しんで競技したらいいだけのこと、そこで我々はスポーツをする権利があるのだ。暴力や不平等を生み出さないためにもひとりびとりが考える力を養い、自由に行動することが必要である。アイヒマン裁判は特別なことではなく、我々が陥りやすい人間の弱さ、愚かさの象徴である。人間は愚かで弱い、愚かで弱く脆いからこそ考える力を養い間違った虚像をもたない、自分だけの正義ではない、普遍的な正しさを求めて行動することは大事なことである。

参考文献
Hannah Arendt ,Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil.
「ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像」開高健

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