脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

DQN誕生

2013-11-30 | Weblog
自慢ではないがこのブログの閲覧者は多い、中にはお便りをくれたり、どんな人か会いに来てくれたりしてくれるのだが、ここの会員もよく見ていて特に入会してきた人も然りで、よく読んで観察してから来ている。
だからここの会員は暴力がきらいである、格闘技のクラブの親玉や取り巻きは、例えばスパーリングなどでいたいめにあった時、ここぞとばかりに自分たちはもっとぼこぼこにやられたなどと、自分たちがいかに肉体的にも精神的にも鍛えられてきたかと言うことを自慢げに話すが、しかし実際にそういうことを言われても返答にこまる、そういう武勇伝を聞いてハイハイと返事する奴を見てバカじゃないのかと思ってしまうが、はっきり言ってそういう精神構造では社会人が多く在籍するまともなスポーツクラブはやっていけないと思っている。

血の酩酊と言う言葉がある。この言葉は最近にわかに出てきた言葉であるが、殺人をおかした時に、血を見ることで興奮し残酷になっていって、行動がエスカレートしていくということで、この言葉はよくリンチ殺人などで、若者がなぜそこまで残酷になれるのかということを分析した時につかわれた言葉である。
もともと酩酊と言うのは酒に酔った時におこる大きな精神的な変化のことである、がしかしこの酩酊と言う言葉は正確には英語にはない、ないからもともとの言葉のラテン語の言葉をそのまま使っているのだが、酩酊と言う言葉は「Nihil aliud ebeietas quam voluntaria insania( 酩酊とは自発的な狂気以外何ものでもない)」というセネカの言葉から来ていて、たぶんセネカはこの酩酊と言う言葉を使って、自分を狂気に変えていくのは、自分自身だということを言いたいのだと思う。

特に日本人はマゾが多いのか、なぜかよく自分はぼこぼこにされたということを自慢げに言う、人によっては目をかがやかせて、毎日ぼこぼこにされてそれでも練習にたえたなどと、聞いてもらえることをいいことに、入ってきたばかりの入門者やあるいは後輩に言うが、しかしこういう話は聞きようによってはど変態だ、私ならそこまでなぐられなくてはディフェンスがおぼえられないのかと突っ込んでやるのだが、しかしこういうことを必死で言う奴はそこまでのレヴェル、相手にしていたらきりがない。
こういうなぐったとかなぐられたと言う話は、血の酩酊ではないが、どんどんエスカレートしてくる、ぼこぼこにされても自分は今こうしてボクシングを続けているということを言いたいのか、素晴らしいことだと思っているのか、もしボクシングクラブでこういうことがイニシエーション的に行われていたら、それは非常に程度のひくい話しで、指導する人間の程度をうたがったほうがいいかも知れない。

あとこいつらバカだと思うのは低学年の子供に目標を持てと必死でいう奴、一般の大人なら問題ないが、しかし子供を預かる立場として、低学年や幼児がどういう精神構造で、どういう成長の過程にあるのかということが理解できているのだろうか?
私はこの年代の子供に今から目標を持てと言っても目的と言うものをはっきりと認識して、持てる年ではないと思っているが、こういう年代の子に目的を持てと言って目的を持たせることはむずかしい、子供に節制しろと言ったバカもいるそうだが、なんでも言えばいいというものではない、大人なのだから、スポーツクラブと言う場であるのだから、ある程度学問的に裏付けされた言葉を持って伝えなくてはならない、、そのためにもう少し幼児心理学や児童心理学と言うものを学んではどうだろうか。
私はこの年代の子供を成長させるためには目標を持てなどとバカなことは言わない、実は子供を励ます魔法の言葉があるのだが、その言葉を何人かの教育関係者に説明して伝えたところ感心していたが、しかしここで書いたら子供になぐりあいをさせるためにつかわれたら困るので書かないが、子供や青少年を育成して成長させようと思うならば、幼児心理学やその他のことを学ぶ必要はあるのではないか、英語がわからない、本を読まない、新聞を読まない、言葉をおぼえようとしない、こういう奴がはっきり言って常識的であるということができるだろうか、さらに本当に公共の場で公平で正しい判断を下すことができるだろうか、はっきり言ってできない、できないから同じような奴が集まって仲間になるのだ。
よく自信を持たせるためにボクシングをやらすと言うが、しかし勉強もしないでボクシングばかりやってたら逆にそれがコンプレックスになるのではないか、当たり前だが学生の本分は勉強することだ、なのにそこからにげて好きなことばかりやっていると、結果的には社会に出た時には恥をかく、人とまともに話せなくなる、時々ルサンチマンのかたまりのような奴を見るが、そうならないためにもバランスを考える必要がある、しかしそれがそういう程度のひくい奴ばかりの中にいたら気づかない、自分自身そうなりたくなかったら、環境をかえる必要はある。
英語が分かりませーん、興味ないです、時事問題って何、新聞もめんどくさいから読みませーん、しかし武勇伝を目を輝かして語る、こういう奴を巷ではDQNと言うのではないのか。

最後にボクシングの試合に出ることが、しんどいことからにげずにむかっていく強さだと勘違いしている奴がいるが、しかし強さと言うのはそんな武勇伝のようなことよりも、人を裏切って肝心なところでち○こをつかわないと言った、誘惑に立ち向かう強さで、女性の競技者との垣根がなくなりつつある今は、そういう強さが今のスポーツ界には求められているのではないか。to control or not, thats the question.強さとか、弱いものをいたわるというのは自分たちが目立ってかっこいいからと言ってするものではない、日常の平凡な生活から生まれてくる地道なものだと思う、この日常をこわされてつらいめにあっている子供あるいは人たちがいる、そういうことをよく考えて特に見えないところで行動を慎むべきである。












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ルビコン川を渡れ

2013-11-29 | Weblog
今日うちのせがれが弱気なことを言ってきた、なんでも塾の成績の上がり方がゆるやかになってきたそうで、6年から受験の準備をするのは少しおそかったらしく、これでは少し志望校にしんどいということで少しやる気をなくしていた。
私は普段はあまりこういういい方はしないが、頑張ってほしいのでこういった。
「とにかく自分で決めたことなんだから、最後までがんばれ、戦い抜け、うかろうと思ったら休み返上でかなりしんどいことをしなくてはいけないが、しかしだめだとかあきらめないで、覚悟を決めてやるんだ。僕は思うんだが人間は覚悟を決めて何かをしないと新しい道が見えてこない、カエサルだってルビコン川を渡って敵に勝利できたのも、彼が覚悟を決めてルビコン川を渡ったからだ、君は知っていると思うけど、カエサルはあのルビコン川を渡った時は疲労困憊していた、さらに彼は帰りたい奴は帰れと戦いたくない人間は返したわけだが、それでもあのルビコン川を渡って勝利できたのはまさしく彼が覚悟を決めていたからだ。
何でもそうだが、もうだめだとかできないと思ったらある程度覚悟を決めることだ、人間覚悟を決めて何かをすると10倍20倍の力を発揮することもある、君の気持ち次第でその奇跡をおこすこともできるんだ、だからこれからしんどくても、めちゃくちゃがんばってやるという覚悟を決めろ 奇跡は起こるもんじゃなくて、起こすものだ、カエサルは言う「賽は投げられた」君はこの意味が分かるか、もう後戻りはできないということだ」

まあたいして根性のない私が言った言葉を、どこまでうけとめているかはわからないがどうやら彼は私がスペクタクルに歴史に例えて話す教訓はきらいではないようだ。
前にアメリカ人に日本人の自慢を話した時に、日本人と言うのは潜在能力が他の民族に比べて高いということを言ったことがあるが、たぶんそれはこの覚悟と言う言葉にでている。
英語ではこの覚悟にあたる言葉はない、日本語では「覚悟を決めて」と言うとそれは何か熟語のように響いてくるのであるが、しかし英語で覚悟を決めて何かをするという時、それにあたる言葉はなく、たぶんその表現の仕方は人によって異なるのではないかと思っている。
私は子供に覚悟を決めて何かをすると、10倍20倍の力を発揮することもあると言ったが、これこそ日本人の持つ潜在能力のもとだと思っている。
私が日本のスポーツで納得できないのが、相撲のルールだ、なぜ土俵の外に出たらまけになるのか理解できない、これと同じことをアメリカ人の人間も言っていたが、これこそ日本人は追い込まれることで力を発揮できる民族であるということを物語っているのだが、覚悟を決めるという言葉はいささか日本人的な言葉であり、たぶんそれは捲土重来をはかった巻き返しの言葉であろうと思う。

実はこのカエサルの言葉だが、我々がここ一番の試合の前のおまじないのようなもので、胸に手をおいて「Alea jacta est」とリングに上がって上がっていくと、やるぞとテンションがあがったものである。
しかし私のチームメイトはまちがって「cogito ergo sum(われ思うゆえにわれあり)」と言ったらしい。







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アムリ セオド ハナ モジャラヨ 

2013-11-27 | Weblog
韓国人の後輩とは月に2回ほど情報交換をしている、情報交換と言っても単なる雑談にすぎないが、土曜日か金曜日の夜中に時々娘を交えて話をしてる。
最近むこうの景気が芳しくないらしい、某メーカーはは携帯電話が売れすぎてしまって、打つ手がないし、さらにウオン高になると輸出に頼っている経済にかなりの影響を与える、そのせいか日本の企業も最近は距離を置くようになったそうで、将来的にはかなり深刻な状況になるのではないかと危惧している。
私は彼にある提案をした。それはハゴン(塾)の経営である、しかしむこうではビルのテナントがあくとコンビニかハゴンがはいるらしいので、その経営は非常に難しい、そして自分は素人だというので「いや向こうではなく、日本でだ」と言うと「どうやってやるんですか?」と聞いてきた。
私が彼に日本でハゴンの経営をすすめたのには根拠がある。
日本、中国、韓国は科挙システムが色濃く残る国で、試験の制度がまさにそれだ、欧米では卒業するためにかなりの勉強を強いられるが、しかしそれとは逆に日本や韓国は入学するためにかなりの勉強を強いられるわけで、勉強のシステムは同じである。
韓国は異常ともいえるぐらいこの受験に力を入れている国で、受験大国であると言っても過言ではないのだが、こういう国だからもちろん受験のためのいい講師はたくさんいる。
私が目をつけたのは彼ら彼女らの教え方である、英語などにも第五文系と言うものが存在し、勉学において基本と言うかたちをしっかりマスターするのも日本と同じ、だから教え方は日本でも通用すると思っている。

さらに彼ら彼女らは学習において一定のメソッドを持っていて、このメソッドは語学を教える時にも活用させているのだが、とにかく向こうはたくさんのことをおぼえなくてはならないので、効率よくおぼえさせなくてはならない、ゆえにメソッドが発達したのだが、メソッドさえしっかりと持っていれば言葉の壁は何とかなるし、日本人の講師でもそれを使えば通用するだろう。
これは教え方の基本的なことであるが、何かを教えるということは、いくらそれをうまく説明できても、このメソッドがしっかりとしていなければ、うまく伝わらないこともある、しかし逆にこのメソッドがしっかりしていたら、さほどうまく説明できなくてもうまく伝わる、だからこのメソッドがしっかりしている韓国人に教えさせると受験に受かりやすくなると考えたからだ。
さらに彼に「このメソッドを一流のハゴンの塾の講師に金でもつかませて聞き出せ、君の後輩に○○がいるだろ、彼に聞いてそのつてでひとりぐらいは塾の講師はみつけだせるだろ」と言うとかなり興味深く聞いていたが、メソッドというのは何をするにも非常に大事だ、もちろんスポーツもそうだが、私は特に日本人のような規則的な民族が、競技を上達するためにはこのメソッドというものをうまくアドヴァンテージにして練習を進めていくことは、競技のパフォーマンスを上げていくためには重要なことだと思っている。

しかしこれではだめだと思うのは、スポーツの世界は学習のレベルがひくいことだ、ボクシングなんかはそう言わざるを得ないところがあるのだが、本一つにしてもボクシングのテキストブックが非常に稚拙である、写真や絵ばかりで、肝心の活字があまりのってはいない、少々活字がのっている本も参考文献があげられていない、いわゆる学問的な本と言うのがないように思える。
そんな本に線をひいている奴が居るので驚いたが、そういう本に線をひくのは、そいつの学習能力の限界とも思えるが、日本のスポーツ界は最近ましになったとはいえ、スポーツによってはまだまだえげつないレベルの人間もいる、そういう奴らがスポーツ界を牽引していると思うとおそろしいものだ、レイプしたり、強盗をしたり、麻薬を密輸したり、みじかなところで言うと素直なバカというのは、そういう人間がけん引したシステムの中でつくられるのだろうと思うが、私が活字を読めと言うのはこういう背景がある。

だからそういう単純な本を読んでコツを理解するよりも、もっとむずかしい専門用語や活字で書かれた本を読むことも必要かと思うのだが、しかしボクサーの伝記みたいな読み物にしても武勇伝しか書かれていない、こういうたぐいの本しか読まれないというのは、ボクシングするする人間はあまり勉強ができないと言われているようではずかしいことだ、欧米なんかはボクシングは下火になってきたが、しかしきちんとした論理で書かれた本もあって、メソッドというのは簡単なことをそのまま伝えるのではなくて、こういう難しいことを咀嚼して伝えることだ、だから何かメソッドを考えたり伝えようとするならば、読解力や語学力が必要であり、学習と言うのはかかせないものだと思う。

韓国は学習面においてかなり基本を重要視するから、しっかりしたメソッドが可能になる。
私自身も語学を教える時には、このメソッドに従って教えているが、付け焼刃的なものではあるがメソッドがしっかりしているので結構評判はいいことは確かである。






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ケ パベ トトリ

2013-11-21 | Weblog
チャイナ9と言うのは中国共産党のトップのメンバーだ、韓国や中国では議会の代表などのメンバーを選ぶ時はだいたい奇数を選ぶのだが、これは意見が対立した時にイーブンにならないためであり、彼ら彼女らがこういう時奇数を選ぶのは人が集まれば対立がおこるということが前提になっているからである。
前にうちの会員がいつもより遅い時間に来た時に「会議があって今日はおそくなりました」と言った時に、みんな会議のことを話し出したのだが、どうやら日本の会議はたいくつらしい、日本の会議は話し合いと言うよりも仲間を作るための会だ、話す奴も本気でどうすることが正しいことかというよりも、自分の意見を受け入れてくれるかということが大事なこと、親玉の顔色をうかがいながら発言するというのも日本の会議の特徴ではないだろうか?
たぶんスポーツ界なんて言うのもみじめなものだと思う、ひどいところは親玉の人権を無視した暴挙に何も言うことができなかったらしいが、こういう場にいた奴らは愚連隊のような暴挙に対して、何も言うことができない、ただまるこおさめることを考えるだけ、これでは何のために人が集まっているのかわからない、これからのスポーツはもっと言葉をおぼえて自己主張しろと言ったことにはこういった背景がある。
日本人はまとまっているということをいいことだと勘違いしているが、しかしまとまるということはどういうことか?少なくともまとまるなんて言うことを強調するような奴は同じ目的を持って、同じことをして、同じユニホームを着てと、仲良くたくさんのことに共通することがまとまることだと勘違いしているが、しかし個性と言うものを考えるならば、こういうまとまり方はちょっと違うだろ。ある会場で競技をしていて、苦しい時に相手もいっしょだと応援していて、日本人は戦う相手にも共感を求める民族なのかとあきれてしまったが、日本人特に日本のクラブは共感を求めすぎる、だからみんながやっていることをやらない、練習を休むとはじかれたり、いじめられたりする、そういう世界が本当にまとまっていると言えるのだろうか?
私がいいまとまり方をしていると思うのは、サッカーの日本代表だ、彼らはいい意味でまとまっている、彼らの考え方やプレイのスタイルは違うが、全員そのことを主張しながら、ひとつの方向にむかっていっているように思えるが、今までの日本のかたちとは違うなあと思ったのは、彼らと監督の関係がフラットであると言うことだ。
しかし稚拙な奴のまとまり方は、同じと言うことで固まる、いわゆる仲間と言う奴でつるんで、そこにはかならずお父さん的な親玉が存在する、中にはおこられても愛情だと、それを寵愛だと勘違いして満足感を得ている奴もいるが、これではメンタリティは北朝鮮とかわりない、時々女性のアスリートに封建的だと言うと「私たちは好きなことを言わせてやらせてもらっていると」言うが、しかし彼女らと監督の関係はお父さんと子供のような関係で、たぶんそういう封建的な世界にどっぷりつかるとフラットな関係がわからないのだろうと思う。
外国で何かのスポーツを競技したらわかる、日本のスポーツ界はおかしい、人間関係がへんだ、バイリンガルの少ないスポーツは封建的で、英語を理解しろと言うのはこういう背景があるのだ。
たぶん会議の場に私なんかが混じるとたいへんなことになる、たぶん会議の趣旨は、私をやっつける会になるだろう。

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受動態の使い方

2013-11-19 | Weblog

一橋大学の英語の入試問題にこういう問題があった。
Most men will be survived by their wives.一見何を言っているのかわからない英文だ。
たぶん直訳したら、ほとんどの男性は彼らの妻たちによって長生きさせられるだろうということになる。これではなんとなくおかしい、高校生だったら三角ぐらいあげてもいいが、たぶん名門大学なのでこういう訳では正解にはならない。
実はこの文がわかりにくいのは受動態で書かれているからだ。
受動態と言うのは主語をぼかしたり、endfucusと言ってby何々の言葉を強調したい時に用いる手法で、この文は受動態によって書かれているのでややこしくなっているが、しかしそれを能動態で書けばより理解できる。でこの文を能動態で書くと「Wives will survive their husband.」こう書けば、この文のは女は男よりも長生きするということを言っているということが理解できるのだが、こういう受動態で書かれたわかりにくい文は、それを能動態にしてから訳すと明確になる。
よく英語学習に必要なことを学校の教師に聞くと、単語をまず覚えろと言う、しかしいくら単語を覚えても使い方が分からなくては、言葉にならない、確かに単語を覚えることも重要だが、しかしそれよりも重要なのは英語の構造を理解する(英語頭に切り替える)ということで、そのためには文法を理解することが大事だと思う。

前にブログでなぜ西洋人は、遅刻してもまずいいわけをするのかということを書いたことがある。理由はこの言葉の使い方と言うか、性質にあるということを書いたと思うのだが、たとえば日本人が会社で遅刻したらまずすみませんとあやまるのが普通のことで、それは常識であるが、西洋人はあやまるまえに言い訳をする(文化圏によっても違うし、多少の偏見もあるが)。
日本人から見たら遅刻しておいていいわけするなんてと思うかもしれないが、
しかしそれは西洋人はすべてのことにおいてまずReson Whyを求めるからであって、時々彼ら彼女らが言う、雨が自分をそこに行けなくしたというような、日本語で考えればいささか無理とも聞こえる英文も、彼らがまず物事にたいして理由を求める性質があるからで、それは英文法を理解することで理解できることである。

言葉と言うのは単なる通信手段ではない、言葉の背景には文化や思想があり、言葉を学習するのは相手の考え方を知り、自分の考え方をひろげるには大きなアドヴァンテージになる。
私自身も英語を理解することで、日本語の能力が上がった、どう上がったかと言うと、日本語は説明するのに長々とはなすのだが、英語ではそれを短くして伝えなければつたわらないことがある、翻訳にしても日本語から英語になるのと、英語から日本語になるのではページの量がかなり違ってくるのだが、英語を話すということは物事を簡潔に伝える能力が必要で、そういう意味でかなり物事を簡潔にわかりやすく伝える能力がついたことは確かである。








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ボクサーに2回どつかれそうになった

2013-11-16 | Weblog
日本のアスリートはおとなしい、おとなしいというのは、自分にとって利害関係のない人間には勇ましいが、しかし自分の親玉と連盟とか組織の人間にはエラそうに言うことができないというおとなしさ、つまり自己主張できないお山の大将が多いということだ。
こういう世界があるから未だにいじめや体罰、やくざのような上下関係が存在する。
いじめや体罰などは言語道断だが、しかしやくざのようなヒエラルキーも然り、こういう関係を意識すると常に人の顔色を見る、自己主張できない人間が育つだろう。
この手のタイプの人間のずるいところは、自分よりも相手が上か下か、さらに言うと利害関係をよく見ているところだ、それが社会の知恵なんてバカなことを言えば、それ以上何も言えないが、しかしこいつらは自分の親玉や連盟の人間にはエラそうには言えないが、しかし自分たちとは関係ない人間や目下の者には非常に横柄で勇ましい態度をとってくる、こういう態度を見ていると非常に腹ただしいが、体育会と言うシステムは、そういう人間をつくってきたことは確かなことだ。

しかしアメリカのスポーツのシステムは自由である。
日本のように親玉のように、気をつかわなくてはならない人間がいたり、やくざのような上下関係もなくフラットな人間関係が存在するので、言いたいことが自由に言えると言うことだが、しかしそれゆえに自分の行動を親玉に決めてもらうのではなく、はっきりと自己主張しなければいけない、すなわちハイハイハイとただ言うことを聞いているだけでは通用しない世界でもある。

私はかつてHIであるチャンピオンをおこらせてしまったことがある。何を言ったのかははっきり覚えてはいないが、しかし私のある一言が原因でそいつが血相をかえて詰め寄ってきたのだ、あの時は本当におどろいた、絶対殴られたらどえらいことになると腹をくくっていたが(白状するがとっさにビンか何か硬いものをひろってかくし持っていた)、しかしまわりが異常な事態に気づきとめに入ったものの、その時私のトレーナーがなぐられる寸前で、人がたくさんいたからよかったが、とめる人間がいなかったらどえらいことになっていたであろう。

これはあるジムに行った時の話だ、スパーリングの後、ヒスパニック系?の顔のでかいプロボクサーが私のスパーを見ていたのか、私のところに来て、先輩風をふかせて「お前はよけるのがへただからせめてガードしろ」とエラそうに言ってきた。
お前のはボクシングじゃない見たいな言い方が、非常に頭に来たので「君はガードしていても顔がでかいからうたれる」と言ったら、そいつも血相を変えて「WHAT?」と、あの時は本気でなぐられそうになった。
たぶん外国に行った人間は、私の行動に対して勇気があるなと思うだろうが、しかしこういう主張は当たり前だ、むしろこういうことができなければ、むこうではちゃんとやってはいけない、ハイ、ハイ、ハイ、ことあるたびにありがとうございました、失礼します、親玉はしつけだと思っているが、しかし昔のキャバレーのボーイでもあるまいし、こういう言葉を多く使うというのは非常に下品、何かにつけて上がとか、上の人などと上と言う言葉を使い、親玉を立てさせようとする、こういうシステムだから牢名主みたいな下品きわまりないような奴らが親玉になる。
そういう親玉が威厳たっぷりに強くなりたかったら俺の言うとおりにしろと言わんばかりに、エラそうに練習で走れなどと命令するが、しかし強くならなかったら責任をとってくれるのか?、ただ走れと言われて走るのは犬ではないのか?たまにはいやだと言えるのが人間であって、しんどかったり気分がのらなかったら、いや走らないというのも選択もある、しかしそういうことを誰も言わないし、考えることさえもしない。ただ命令に従うだけでは、日光の軍団と同じである。

体育会と言う社会では上下関係による力関係があって、飼うか飼われるかという関係がはっきりしているので、自己主張できる人間が育たない、体育会の連中は往々にして親玉とか連盟の人間には何も言えない、逆らえないから、すねて反抗したということが武勇伝になるのだからなさけない話だ、こういう何も言うことができない人間が多いから、親玉たちがやりたい放題、体罰なんて言うのも然りである。
本当にファイターだのスポーツマンだのと言うのだったら、親玉の間違いを正す必要がある、私たちのようにおとなしい人間にエラそうな態度はとれても、しかし親玉にはできないから情けない話だ、暴言をはくやつには暴言をはくな、意地悪をするな、女にだらしないような奴にははっきりと文部科学省的には指導者失格だと言ってやったらいい。
意外とそういう奴らには弟子と称する仲間や信奉者がいると思うのだが、アマチュアスポーツである限りは子供に対してうしろめたいことがあったり、してはいけないことがある、しかしその一線を越えているバカがいることも確かである。そういう奴らの仲間になるということは自分の価値をおとしめるということ、親玉がまともかどうか、情やしがらみに流されないでよく理解すること、そういうことに頭をつかわなくてはならない。

最近の体育会は素直なバカと言うのが目立つ、あいさつはするし、返事はいいのでうけはいいが、しかしあまり深く考えることがないので、これが非常に残酷で無神経なことをする。素直なバカの特徴は自分の好きなことか気に入ったこと、命令されたりなければ自発的にできない、おこられなくては気を付けない、非常に考え方が浅く、学習が足りないとみているが、正直こいつらはハイハイハイと返事はいいが、しかし真剣に聞いていたらそういう歯切れでハイなどとは言えない、むしろ無言である、机に座って人の話を聞けない奴がスポーツのしかもクラブと言う小さな世界で通用したぐらいで、礼儀正しいなんて言う評価をするのが間違っていると思う。

次回は「お前らのは芸だ」で書きたい。



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Sacriface

2013-11-13 | Weblog
だいぶ前に外国人の教育学部の学生に教育って何ですか?と聞かれた。
たぶん学校の話をしていて私が何を考えているか興味があったんだろう、しばらく考えてからsafrifice(犠牲)だと答えた。
しかしこのsacrifaceは命をささげるというような大げさなものではないが、しかし子供にかかわることで多少の犠牲をはらう覚悟は求められる、私は教師などの教育機関で働く人間に関しては、勝手に教師像をつくりあげてしまって、それを押し付けかねないので、教師は勉強を教えるものと言うことを第一義的に考える必要はあると思うが、しかしそれでも子供と係わる以上は何らかのやや自発的な犠牲と言うものは必要である。

話はうちのクラブの話になるが、うちのクラブでは子供にあいさつを強制したりはしない、またそれができないと人生の基本ができていないというようなことも言わない。
余談かもしれないが私の感想では、そういうことを強調する奴に限って、それしかできない奴が多い、そういう奴を見るたびにあいさつと人間の能力と言うのは別のことだと思ってしまうのだが、体育会のあいさつや礼儀と言うのは単に上下関係を区別させるためのもので、そんな程度の低いことができたからと言って自慢できるものでもない、むしろそういうことが習慣づくと人の顔色を見るような人間になる、あいさつはする必要はないということではないが、しかし何の根拠もないのに、ただ上下関係をはっきりさせるために、挨拶を強制したり、あいさつは基本だなんていうこと自体ばかげていることで、そういうナンセンスなことをきちんと敬語や英語もろくに話せないようなバカな大人が押し付けることに問題がある。

オリーヴでは子供が来た時にその子を1年や半年と言ったスパンでは見ない、子供なんて言うのはもともと自由な存在で、ルソーが言うように高貴な蛮族、従順ではない、むしろその子が5年後10年後この子はどうなるのだろうということを見て、彼彼女にとってどういう接し方がいいかと言うことを考えるのだが、うちのやり方は日光猿軍団に芸を教え込むように、今できないことを、たとえばあいさつは基本だからしろとと言うのではなく、じっくり考えて待つ(このことは学校ではなく、スポーツクラブと言う場であるから可能であると思うのだが)実際に根気よく待てばその子が10年後どうなるだろうというビジョンが見えてくるし、かわってくる、そういう中で大事なことを伝え、環境を整えてやればいいことだと思っている。
人間には個性と言うものがある、人によってその個性の表現の仕方は違うし、成長の仕方も違う、しかし狭い考え方でそれしかできないような人間は理解できない、だからそういう陳腐な基本と言う言葉を持ち出して型にはめてしまうのである。
正直英語も話せない、敬語も正確に話せないような奴があいさつは基本だなどと言うとしらけてくる、あほかとさえ思ってしまう。
大事なことは彼彼女らが今どういう風に成長しようとしているかと言うことを考えなくてはならない、そしてそのことは彼彼女らの10年後を見なければ見えてこないのだ。
たぶん挨拶が基本だと言っているような人間は、私のやりかたを見て、これじゃあいかんと思うだろうし、はきはきしない子供には説教したくなるだろう、しかし私は彼らの今を見ていない、彼、彼女の5年後10年後を見ているのであって、それぐらいにはこの子たちは素晴らしい人間になっていると信じているからである。

はじめに犠牲と言うことを言ったが、我々にとっての一番の犠牲と言うのは健全性だ、たぶん子供と言うのはこのことがしっかりしていないとついてこないと思う。
だいぶ前に私は頼まれてボランティアで施設の子供のカウンセラー的な存在になったことがある、そして実際に彼らのことをよく知るために何回も出向いて行ってそこを見たのだが(たぶん100回以上は行っている)そこで見えてきたのが酒と金と女、男、特にゆがんだ母性愛と言うのは最悪だ、私は男のためにすべてを捨てて生きるというような女は信用できない、なぜなら仲良くやっていた親子のおかあさんに、急に男ができた途端に、男に気に入られるために男と一緒に子供を虐待するということはよくあることで、そういう犠牲者になった子供の話を聞いているからだ。
私はこの時こいつらと向き合うには相当覚悟がいるなと思った、私は酒は一切飲まない、ナンパ的な軽い話はしない、女関係の店には一切いかないと言う誓いをたてて、今でもそれをかたくなに守っているのだが、きれいごとではないが、たぶん傷ついた子供と言うのはこういうところをよく見ている、敏感に感じている、自分はこういう子供たちの前では、何も持っていない、無力で何の説得力もないからこそ、そうしなければと思ったことは確かである。
ただある子供が言ったことだが、彼にとって私は誰よりも怖いらしい、怖いと言っても暴力は振るわないし、恫喝などしない、しかしたぶん私が怖いというのは、私が捨身で、何かを捨てて係わってくるからだろうと思う、エラそうな言い方ではあるが、そういうところに押しかけて100回以上も行けばいろいろなことが見えてくるし、はらをくくらなければだめだと思うこともある、子供の成長は時間がかかるし、ある程度の犠牲が必要だ、子育てを経験したらわかるが、まさに親は子供のために時間とある程度の犠牲を強いられるは、子供と言うのは基本的にはそのことによって成長する、たぶんそういう環境で育てられることが一番人間らしく自由に生きることができるのだと信じている。

補足であるが人間どうしが向き合うということは、きれいごとではないが、時にはぶつかることもある、はっきり言ってきれいごとではない世界では、ぶつかりあって、一回きれたところから本当の関係が気づかれていくと思うが、実際私も何回もぶちきれた。
私はあまり人におこったりぶちきれたりしないのだが、それにはわけがある、それはもしぶちきれたらあいつは気が短い、韓国人だからだと差別的なことを言われるからで、そういわれるのがいやでなるべくおこるようなそぶりを見せないようにしてきたのだが、その私をぶちきれさせるのだから、いろいろと複雑なことがあったということは確かである。
しかしその時彼彼女らは見ている、この人は本当に尊敬できるか?そういう時不誠実なことをしていたら関係は築くことはできない。

指導者も暴言をはいたり、意地悪な奴はそういう顔つきをしているし、特に女関係にだらしないようなバカはAV男優のようなオーラを出している、自分では強さのオーラだと思っていても、それはギラギラしているだけ、非常に下品である。










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I love to tell the story

2013-11-13 | Weblog
NYのマリアノリベラが今季限りで引退することになった、彼はNYのクローザーとして19年間活躍したのだが、リベラと言えばカットボールが有名な選手だ、彼のカットボールは来るとわかっていてもなかなか打つことができず、特にインサイドをつまらされてバットをおるシーンは、最後に出てきて相手を圧倒するようで、見ていてこれが真のゲームセットだと思わされるような魅力があった。
実は私は日本の野球はあまり好きになれない、もちろん応援するチームはいるが、しかし嫌いなのはシステムで、私が気に入らないのは外国人枠と言うやつ、誰が決めたのかはわからないが、こういうシステムは非常に消極的で島国根性まるだし、非常に閉鎖的である。
それに対してアメリカは開放的だ、アメリカには多くの人種がいて、その人種から有名な選手が出たら彼を応援する、その当時はまだ日本人や韓国人にメジャーリーガーがいなかったので、私たちはどちらかというとマリアノリベラのようなマイノリティ寄りの選手を応援して、その選手がマジョリティの選手からホームランをうったり、三振をとったりする姿を見て、力をあたえられたものであるが、世界と言うのは宗教や人種と言うものが絶えず対立している、それはこのスポーツの世界とて同じこと、私はむしろスポーツは宗教や人種の対立を緩和させている働きがあると思っているのだが、それは同時にマイノリティであっても努力と才能があれば成功するんだというあかしでもあると思う。
実際に私自身もパクチャンホや野茂がアメリカで活躍する姿に勇気づけられたし、彼らがアメリカと言う大国で活躍できたことは、多くの韓国人や日本人の励みになり、自分たちはやればできるという自信と希望を持たされたのではないかと思う。
スポーツと言うのは誰でもそれを競技するという権利がある、アマチュアスポーツはこれをしなければ試合には出れないというような風紀的なことを規制する、そういう風紀的な規制はクラブ単位ではOKだと思うのだが、しかしスポーツは平等なのだから、それがどんな人間であってもそれを競技する権利はある、髪の色が違ったり、少々はずれていても彼彼女を拒むことをスポーツとしてしてはならないことだ、スポーツというのは平等でふところが深い、実際に私も向こうでマイノリティが生き生きとボクシングを競技していることに感銘を受けたと言ったが、スポーツは誰のものでもない、競技したいという気持ちがあれば誰でも参加できるものだ。そういう自由がアメリカにはあると思う。
だから本来はたいていのことは受け入れるべきであり、外国人枠と言うのはTPOでもあるまいし言語道断、スポーツと言う世界で外国人は2人までと言う考え方が、日本は島国だということを物語っている。

前にある野球選手が日本人はベースボールではなく野球だと言って本国に帰って行ったことがある、途中で契約を破棄したのは問題であるが、しかしこの言葉は非常に興味深い、正直日本の野球は独特である、あれを他の国の人間が見ておもしろいのかどうかとさえ思うのだが、はっきりと伝えることはできないが島国独特の雰囲気があって、それはまさにその野球選手の言っていたベースボールではなく野球である、現にあれだけアメリカではベースボールがさかんなのに日本の球場にはほとんど外国人の姿が見られないのは不思議ではないか?私から見れば日本人はスポーツをする上でも独特の奮起を作り出している、そういう世界が学校単位でつくられる村社会にも反映している、たぶんどこかで日本人はスポーツを修行と言う感覚から脱却する必要はあると思う。

私は彼の記者会見を聞いていたのだが、彼が引退記者会見の時にI love to tellと言う言葉を持ってはじめたのだが、しかし引退でI love to tellと言うのは不自然である、このI love to tellと彼が言った言葉は、古い讃美歌のI love to tell the storyをそのまま引用したと思うのだが、これはこれから神のストーリーについて語り継ぎたいと言う意味だ、私の推測が正しければおそらく彼は敬虔なキリスト教徒?なので、その古い讃美歌をそのまま引用して自分の野球人生は神に祝福されていたということを言っていたのだろうと思うが、引退の時にこういう引用文を用いるところは粋である。

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英検よりもTOEICだ

2013-11-10 | Weblog
「英検よりもTOEICだ」
1月26日に英検の試験がある。
高1で2級を受ける子がいるのでいろいろとアドヴァイスしているのだが、しかしなぜ学校はToeicでなく英検をすすめるのだろうか?
最近受験英語を見ていてもToeicに使われるような単語が増えてきていて、大学受験などもどちらかと言えばToeicに傾向がシフトしてきているように思える。
たとえばnotifyなんて言う言葉は、昔はあまり出てこなかったが、最近ではしばしば受験の英語にもみられる。
notifyと言うのはToeicでよく使われる言葉で「The passenger were notified of the frights delay」のようにnothify 人 ofのかたちで使われる単語であるが、最近の受験英語はToeicで使われるような単語も多く出ていて、大学の入試問題も英字新聞から出題されるし、これからは入試もToeicの影響が大きくなると予想しているのだが、高校生には癖のあるような問題に対して実戦訓練をするためにToeicを学習した方がいいと言っている。
英検なんて言うのはもともと日本独特の試験で、文法と単語を重視したような試験で、会話でも今では使わない古い表現なんかも出てくる、だから人気と必要性から言ってToeicやToefulがあるのだからなくても問題はないだろうと思っているのだが、なぜか中高では学校では英検を重視し、これを残すことに躍起になっている。
確かにToeicと言うのも、ほぼアジアだけで広がっているだけなのだが、しかしToeicはそれでもビジネス英語中心と言う点から勉強する必要性はある、私は英検よりもToeicのほうが将来性はあると考えている。
ただおもしろい意見を聞いたのは、そのToeic800点ぐらいとった人間が言っていたのだが、前に海外旅行に行った時にその英語が通用しなかったらしい、Toeic800点というのはそこそこの点数だが、それでも海外旅行などに行くとマクドナルドのちょっとした会話さえも聞き取れなかったとへこんで帰って来たらしい。
しかしそんなものは心配しなくても大丈夫だ、日常会話と言うのは状況的な判断ができ、環境に慣れれば理解できるようになる、おそらくネイティヴも言ったことを一字一句聞き取ってはいないと思う、これは英語で商談をしている商社の人間が言っていたらしいが、彼は日常会話に関してはそう理解しているわけではない、ただビジネスと言う状況において適応できる英語力と対応力で商談をまとめていたらしいが、おそらくこれから求められるのは、その状況やポジションにおいて対応していくアビリティで、これからの英語学習もそういう目的に付随して行うほうが賢明であると思うのだが、やはりビジネスと言うことを考えると、まだまだ日本人はToeicのような試験を目標にして英語力を上げていく必要があるだろう。

「英語と宗教」
この前会員の人に私の言っている説明が、ある予備校の講師に似ているというようなことを言っていた、気になったのでVCRを見たのだが、たぶん彼が私と似ていると言ったのは、英語を教えるのに文化的背景を語るからであろう、特に宗教的な考え方を踏まえて英語を教えることは英語を理解するためには非常に重要なことだと思っている。
しかし最近の予備校も変わってきた、昔はいかにも講義であったが、最近では人気講師と言うのもいて、セミナーさながらである。これは大学の先生と話をしていて、話は論文の話になったので、最近の論文特にアメリカの論文はかなり簡単に表現されてきたものが多くなってきた、特に人気講師と言われている人の講義は多くの人に伝えなくてはならないので、簡単なわかりやすい文法で書かれていると言うようなことを言ったのだが、おそらくそれは予備校だけではなく、世の中がそういう風潮になってきているのだろうと思う。
しかしその風潮は熟考するという訓練をさまたげている、確かにその講師の説明はわかりやすく理解しやすいのだが、しかしたぶんその理解の仕方はセンスの問題であって、そういう理解の仕方をして、それをほとんどの人が応用できるかどうかというのは別問題である。
受験ではどうかわからないが、しかし難解ともいえる問題にぶち当たって熟考することは人間の成長には欠かせないことで、このことが物事を考える上での骨子となる。
若い人に聖書と哲学書を読めということを言っているが、そういう難しく難解な本を読むことが自分の考え方を述べる上での骨子となるからである。
特に世界のベストセラーである聖書は読む必要がある、聖書と言うのは世界のほとんどの人と言っていいぐらい、その考え方のベースになっている書物である、すなわちこれを読むことで外国人の考え方が理解しやすく、さらにそれを読むことで世界観が広がる。
しかし読むと言ってもカテキズムのような信仰の手引きはとらえ方を狭くする場合もあるので、ただ純粋に読むということだが、李登輝という元台湾の首相がいる。
彼自身彼の考え方のベースにはバイブルがあると言っているが、私は彼が書いた武士道に関する本を読んだが、多少難解な本ではあったが、彼が広い世界観を持っていることがわかる本であったが、それは彼がそういった書物で養われた世界観をしっかりと持っているからだと思う。
聖書と言うのはかなり分厚いたいくつであるが、読み応えのある書物だ、だいぶ前にあるテレヴィの討論会で「俺は聖書を1日で読んだ」という人間がいたが、はっきり言ってそれは不可能なこと、外国人だったらあの膨大な量を、まず1日で読めるはずがないと思うのが自然なことなのだが、彼の発言は日本人が宗教を理解していない一幕であり、こういうことが以外にも国際感覚のずれとなっていることも確かなことである。
聖書だけではない、こういう昔から読まれている古典を、特に英語で読むということは自分たちの考え方やいろいろな考え方を知る上では大切なことで、そういう読書に費やす時間と言うものをもう少し作る必要はあると思う。








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芸と技

2013-11-07 | Weblog
個性と言う言葉がだいぶ前から使われだしてきている、日本人は外国人に比べて個性がないとかよく言われるが、しかし個性って一体何か?と言うことはあまり定義されることなく、この言葉だけが頻繁に都合よくつかわれているような気がしている。
都合よく使うというのは、身勝手な自己主張やただ目立てばいいという考え方、スポーツの世界では往々にしてそういうかたちで使われることが多いような気がしているが、日本はいろいろな民族が共存する米国などと環境がまったく違うのだから、個性と言うのはただ自分の気持ちや主張というものを押し付けるのではなく、まず客観的に見て、人との違いというものを認めることからはじまるのだと思う。
最近運動系の奴で俺のやりかたとか、自分の方法にこだわる奴が増えてきているらしい、頭がよくてしっかりした分析力がある人間ならまだしも、たいした学力もなく、未熟で客観的に物事も判断する能力もない人間が、それが俺の個性だといわんばかりに自分の考え方ややり方を押し通すのだが、これこそ個性と言う言葉を都合よく解釈している。
個性と言うのはもともと存在するものではあるけれども、考えなければ見えてこないものでもある、パスカルが人間は「考える葦である」と言ったのは有名だが、この言葉は人間だけが他の生物に比べて考える能力を持っている、そしてその考える力をつかうことが唯一人間だけにゆるされていることだということだが、その人間に与えられた自分なりの知恵や知性を磨くことが、持って生まれた個性という事柄をこえた、人間本来が持っている特有の個性を出すことであると思う。
スポーツ選手でも賢い選手は個性があるが、逆にお笑いにいじられているようなスポーツ選手は個性がない、バカが個性だと言ってしまえばそれまでだが、しかしお笑いにいじられているような人間を見てああなりたいなどとは思うか?それでもそういうバカを個性にしてしまうのも今の風潮であるが、芸と技の違いは、それが知性によって磨かれているか磨かれていないかだ、スポーツはバカではできないと言うが、しかしそうではない、私から見れば知性が垣間見られない奴のパフォーマンスは芸である、見事ではあるが、それは日光の連中にもできること、そこが芸と技の違いであると思っている。
最近日本でも一部のアスリートの質が上がってきているが、スポーツにおける個性と言うのは知性や知恵と言うものを磨いてプレーするからみがかれるのであって、それがスポーツを通して養うことができるアドヴァンテージだ、そしてそういうことが今の日本のスポーツには必要だと思うのだが、サッカーでは中田や本田がまさにそうだと思う。
しかし日本は指導者のレベルがそう高くはない、バイリンガルどころか日本語すらもまともに話せないような人間が指導をしているのだから、こういう環境で勉強しろ言葉をおぼえろなんていうことを言っても子供がするはずはない。
アメリカには運動クラブを監視するところがあって、もしクラブチームの学業の成績がわるければ、それなりの処罰をする機関であるが、しかしこの期間は日本と違ってきちんと機能しているのだが、少し前には全米のトーナメントで優勝したバスケットチームが学業不振ということで、奨学金をうちきられ、1年間の出場停止をくらったことは有名な話だが、やることもきちんとやらないでスポーツだけをやってればいいという考えのバカには、スポーツをする資格はないという警告である。
最近ましにはなってきているが、しかしそれでもひどいところはひどい、特に私が問題を感じているのは、それしかできないような人間が集まって委員会を結成しているようなところだ。
他では、えばれないから、せめて自分が通用するような場所を求めてかたまる、いごこちがいいのかはわからないが、こういう奴らがかたまると刷新とか改革よりも自分の権威と保身を守ることに躍起になる、こういう連中は語学力ゼロと思っているが、ジムとかでも刑務所仲間をたよって集まってくるように、それしかできないような人間が集まって固まるようなところは、非常に問題で、こういう集団が非常に狭い考え方で凝り固まっている、若いうちにきちんとやるべきことをやってこなかったから、実際に社会に出た時に自分のおとったところが見えてくる、傷つきたくないから、そういうところにどっぷりつかっている人間も少なくはないと思っている。
はっきり言ってボクシングなどのスポーツの実力と、社会などで人と会話する実力はまったく違う、しかしスポーツもやり方によっては、むしろそういうコミュニケーション能力を高く養えると思っている、しかしそれを養おうと思ったら、語学力のように知性を養わなくてはならない。
これからのスポーツはそういう部分をのばしていく必要はある。

これからはスポーツ指導者にも試験を受けさせた方がいい、簡単な英語、日本語のテスト、そして常識を問うためにちょっとした倫理学、人権とは何かと言う論文を書かせてみてもいい、そうすれば少しはよくなるのではないかと思っている。

スポーツしかできないような奴は議論ができない、自分のいいたいことしか言わないので泥試合になるだけだ、言っても理解できないことが多い、こういう体質もスポーツを刷新できない一つの原因だろう。
昔電話で子供のボクシングのことで質問されたことがあった、うちの会員ではないので「責任者は何と言っているのか?」と聞くと「責任者にはそんな難しいことはわからない」と言っていたが、たぶん人の話をきちんと聞いて理解して説得する能力がないのだろう、また最近では見学に来たやつがうちにおかれている英字新聞を見て、驚いてうちのトレーナーは新聞さえも読まないとにやにや笑って言っていたが、社会人が集まるところはこういうところをよく見ていると思う、最近では大学や大学院を出ている親も少なくはないので、人の話を理解して聞いて、説明して納得させる能力は求められるだろう。
だから教える側はある種の社会常識として、そういう能力を養うことも必要なことだ、










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