脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

個性と言う言葉はDQNのためにあるのではない

2016-01-31 | Weblog

韓国人の知り合いの大学生の子が卒業したらアフリカでボランティアすると言う話を聞いて驚いた。えっ嘘だろあれだけ差別していた民族がしかも大学生の女性が行くなんて、本当に韓国もかわったと思う。スペックに書き込むためかもしれないが彼女らのように積極的に海外に行ってボランティア活動をするものも少なくはない。10年ぐらい前にテレビで韓国人に差別されたと言う人が集まって涙ながらにうったえるテレビ番組があって、個人の女性が韓国の有名大学を出て面接に行った時に黒人がここに何をしに来たと言われたと言っていたが黒人や東南アジアの人間は差別されていたと思う。私の友人も黒人の男の子に名前を聞いてフランス語読みでピエールと言ったので「がははは」と笑ったが、おそらく彼らの価値観では黒人がそういう貴族のような名前をつけるのがミスマッチで生意気な名前をつけやがってとばかりに笑ったのだと思う。人種差別ほどえげつないものはない。エスニッククレンジング浄化と言う言葉をつかって民族を大虐殺できるのだからおそろしい、私は民族や人種差別が一番怖いと思っている。私自身も習慣が違う民族はあまり好きだと言えないが、しかしだからと言って排除することはしない。こういう奴がいたらはっきりと伝えるようにいているが日本人はそれができない。それができないのは、その違いがわからないその違いを理解しようとしないからだ。しかし理解すると言っても何もそれをすべて受け入れることではないと思う。世界は自分たちがすべてではないのだから自分たちが生きていく上で自分たちの権利を守り主張すると言うことである。日本人は約束を守ると言われているが、しかし西洋人は違う。たぶん西洋人は約束そのものよりも契約が重要だと思うのだが、もし何か問題がおこればそういう契約に基づいて話を進めるほうが約束するよりも重要なことだ。昔不動産関係の友人に韓国人の入居者のことで相談を受けたことがある。それは貸した部屋を平気で改造するということであった。向こうでは借りた部屋を勝手にリフォームしても問題はないと言う習慣がある。大家にして見れはまさかそんなことはと思っていたのだろうが、しかし彼ら彼女らにしてみればそれはごく当たり前のことである。この時私はどういうアドバイスをしたのかはっきりとはおぼえてはいないが、しかし契約をしっかりさせてこれからそういう文言を契約書に事細かに乗せる必要があるといったことは確かである。韓国人は話せばわかる。しかし世の中には自分たちとは全く考え方が違う民族もいることは確かである。日本人の道徳心は素晴らしいが、しかしグローバルスタンダードではもはやそういう常識は通用しないのが現実だ、自分たちの主張ばかり考えたらエスニッククレンジングのような悲劇を引き起こすこともあるが、しかし他民族同士が共存してやっていくためには契約と言う概念は必要である。

話は個性の話になるが個性はその人がどこで生まれたかそして何をやってきたかということが大きく関わっている。そしてそれは民族も然りである。しかし日本では勉強がきらいな人間やDQNのためにあるようなもの、まともに勝負できない人間の負け惜しみの言葉にさえ聞こえるがDQNの場合は個性ではなく種類である。黒人の子供がピーターをフランス語読みでピエールと言ったのは彼がフランス人だからだ。普段は日本語を話し、日本人のように生活していても、我々が認めなくてはいけない個性がある。島国の日本人がそれを理解することは難しいが、しかし一歩前に出てそれを認めて行くことは必要である。


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ゾーンって

2016-01-30 | Weblog

ゾーンと言う言葉がある。これはスポーツにおいて最も集中した状態の時のことをあらわす言葉だ。ゾーンと言うのは一言で言うとリラックスしているけどすごく集中した状態のことを言う。おそらく集中する時の顔というのは厳しい顔やそれらしい顔をするのではなく、本当に集中した時の顔と言うのはそういう状態をあらわす感じが存在すると思う。実は私が最後に対戦してまけた相手がそのゾーン状態だったんじゃないかと思っている。アマチュアだから100パーセントそういう状態かと言うとそれはわからないが、試合前に彼の顔を見た時になんかぼーっとしたような顔をしていて、例えるならば鉄棒をつかもうとするときのあれと言うか、K1かなんかの格闘技で優勝した人間もそういうぼーっとしたような顔をしていたが、おそらくゾーン状態に一番必要なのはリラックスすることで日本人はこのリラックスをするのが非常にへたな民族であると思う。私がアメリカ感じたことは日本人が修業としてスポーツをするのに対してアメリカ人は娯楽として楽しんでスポーツをするということである。子供が競技するにあたっても基本とか基礎とか言って同じことを淡々とさせるのではなく、実戦形式からはじめてそこでスポーツの楽しさを知り、そのスポーツが自分にあっているかあっていないかという適応性を見るのが向こうのやりかたで欧米の子供はスポーツを3つ4つとかけもっているのが現状である。しかし日本は基本とか基礎とか言ってたとえそれが子供であってもつまらないことを従順にさせるのだが、そうやり方をしているからいつまでたってもスポーツ=修業のわくから出ることはない、欧米の子供が楽しいから続けるのに対して日本人は意地とか人に負けたくないとかそういう目の前の小さいこだわりで続けているようにさえ思えるのだが、こういう気持ちでしかスポーツをとらえられない常に変なプレッシャーを背負おうとするから肝心な時にリラックスできないのだ。私は米国でボクシングできたが、おそらく日本だと同じような結果をのこすことはできなかったと思う。今振り返ればあの時は本当に楽しかった。楽しく競技できたからこそあの時はこうしたらよかったとかこういう時こうすればいいとか、これをするのはこういうトレーニングをしたらいいと言うことを考えることができた。私にとってもはやボクシングは遊びであった、遊びであったからこそそれなりにできたのだと思っている。あいつには負けたくないとか自分は強くなりたいなんて言うことだけでは限界が見えてくる。まさに先細りである。スポーツと言うのは元来は楽しむものなのだから、思いっきり楽しんだらいい、そしてそういうかかわりを持ってリラックスすることが可能となるのだと信じている。

 

 

 

 


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we kick outlaw out of our community

2016-01-28 | Weblog

うちのクラブはアウトローお断りだとブログで書いている。繰り返し書いているのはそう書かないと格闘技のクラブと言うのはそういう輩が集まりやすいからだ。ジムに来るのは誰でも歓迎と言うわけにはいかない。誰でも歓迎となるとアウトローくさい奴は仲間意識が強いのでそういう輩がクラブの中心になって集まるとまじめな社会人がトレーニングしにくくなるからだ。確かにそう言う奴らはクラブにいる間は危害を加えることもないしやさしく接してくれるだろう、しかしそう言う奴らの根本的な価値観と雰囲気の違いは否めないものがある。そういうずれた感覚は健全にクラブを運営して行く上では弊害となる。何が正しいか何がまちがっているかということを判断するにはある程度教育が必要である。特に我々のようないろいろな立場の社会人が集まるようなクラブが求めるコモンセンスは体育会がもっているような礼儀でのレベルでないことは明らかなことで、こういう場での公共性や平等と言うものはある程度学問的なものさしで考えて判断しなければ見えてこないものだ。アウトローと言うのは文字通り法律や常識外の人間のことだ。目立ちたがり屋でコモンセンスや公共性と言うよりも仲間意識でつながる。仲間意識が強いので自分たちの集団は大事にするが、しかし根本的には正しい人間とは言えない、全体的に教育レベルがひくく、威嚇した恰好や反社会的な言葉を好むようなそういう雰囲気をもった人間たちのことを私はアウトローと呼んでいる。そういう人間が群れの中心になるといろいろと弊害がでてくる。学問的なものさしを持たないと考え方をひろげることはできない、世界観がせまいので同じようなレベルの人間は安心してつるむことはできるのだろうが、しかし一般の人間はどことなく違和感を感じる。机に座ってまじめに人の話を聞くような経験がない、自分の好きなことしかやらない、目立ちたがり屋の奴らが集まってまともな集団でありうるとは考えられない。運動クラブならまだしもここは社会人の集まるクラブだ。こういう人間たちが群れの中心にならなためにもある程度教育を重んじると言うことは非常に重要なことだ。うちのクラブには中学受験などで体力をつけにくる子供もいる。そういう子供たちの親には見学に来た時にうちには子供に悪影響を与えるような大人はいない、アウトローくさい人間は入会させないので安心してくださいと言うのだが、ここではボクシングができるとかあいさつができるとかその群れでうまくやっていくということを問題にするよりもその人間が持っている雰囲気を問題にしている。個性か何だか知らないが髪を派手に染めて改造車にのってくるような奴はここではアウトローとみなし絶対に入会させない。うちには今までの経験に基づいてアウトロー基準が存在しそれをここで書くとややこしくなるので書かないが簡単に言うと灰色を好む奴らのことであるがその基準にひっかかる奴はすべてアウト、最初はよくても灰色の世界で生きてきたような奴はどこかでそのボロが出てくるので何があってもやんわりとじゃなくはっきりとお断りしている。うちのクラブはボクシングができるとか目立つ奴が中心ではなくておとなしい社会人がそういう奴らに圧倒されてトレーニングできなくなるというようなことがないように注意している、そういう意味でアウトローはこのクラブには必要ない。

 


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ヒョンジェ イッソヨ

2016-01-27 | Weblog

前に挙げた映画で新世界と言う映画ある。これはそのまま漢字にすれば新世界となるのだが、話は大都市に暗躍するカンペ(マフィア)の情報を得るためにある捜査官をつ潜り込ませる。そこでのし上がっていった捜査官は情報を引き出していくのだが、しかし次第にその要求はエスカレートして行き、男の命さえもおびやかすものとなる。同じ潜入していた仲間が殺され警察の汚いやり方に嫌気がさし、さらにこの裏社会での人間関係のきずなを感じた時、男はその上司で会う刑事とライバルであるカンペたちを暗殺してその世界のトップに君臨すると言う物語である。私はこの映画が好きなのだが、なぜ好きかと言うと向こうの友情というかヒョンジェの絆をわかりやすくあらわした映画だからだ。私が好きなのはマフィアの一大派閥のボスが捜査官が潜入していると言うことを聞いて凄腕のハッカーを雇って調べさせる。その時その一番自分の側近の部下が先入観だとわかるのだが、しかし彼はそのことを隠しその資料を黙って自分の金庫にしまう。やがて抗争は大きくなりそのボスが抗争で殺されてしまう。彼が死ぬ間際に男を呼んで「金庫をあけてみろ、自分らしく生きろ」と言うのだが、それを聞いた男が金庫をあけてみたらそこには自分の情報とやがて生まれてくる子供のプレゼントが、自分が警察のスパイだとわかっていてもそのことを隠し続けて生かしてくれたヒョンに心から恩義を感じるシーンである。

昔ソウルで友達のチョ君に友達が日本語の勉強をしているので会って話してあげてくれないかと頼まれたことがある。約束していたスルチプ(居酒屋のようなところ)に行くとその友人たちがチョくんとその友人たちが「チャーン(乾杯と言う意味だがゴンバに比べてうちとけた相手に使う」と乾杯し早速日本語のレッスンに、最初はいい雰囲気で話していたが、しかし酒が入って日本人がいると必ずあの問題になる。最初はうっとうしいのではぐらかしていたが、しかしここまで汚名を着せられるのは心外だ、ついに私は自分の意見を彼らにストレートに伝えたのだ。たぶん私がいうのだから相当えげつないことだと理解してもらえると思うのだが、当たり前だがそんなことを言うとすこぶる険悪な雰囲気になる。さらに言葉をたたみかけると彼の友人たちがお前もう一度言ってみろと完全に私をたたきのめすつもりで立ち上がって言ってきたのだ。言葉でホントのことを言ったら暴力かやるんだったらやってみろ日本人の徹底した非暴力主義をみせてやるとさえ思ったが、しかしその時チョくんが彼らにお前ら俺の大事な先輩に何をするんだ無礼を詫びろと私を助けてくれたのだが、彼のその一言がなければ私は袋叩きになっていたと思う。向こうの人間は民族意識ももちろんたかい。しかしこういう友情関係も本当に大事に考える民族であるがチングやヒョンジェと言う言葉はまさにそうである。

 


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マス部隊 チェゴ(最高)

2016-01-24 | Weblog

うちのクラブにはマス部隊と言うグループがある。女王様要員と女王様から結成されるグループでしょぼいが一大勢力である。そしてそこにはすぐにひっくりかえされるヒエラルキーもどきが存在する。隊長、リーダー、若頭が一応マス部隊の三本柱だ。隊長は勝手に決められて靴箱に隊長と書かれて任命されたのだが、そのように隊長がみんなからいじられている。ひとたび話題にあがると一斉砲火のごとく隊長にいじりの言葉をあびせるのだが、そのいじられた隊長がさらにR平をいじる、うちのクラブはお笑いの集団ではないが、隊長のおかげで楽しくトレーニングできる。いじり文化は日本独特であると思う。おそらく韓国人に同じことをやったら怒りだすだろう。しかし日本人の場合は相手のことを尊重しつつうちの場合はむしろ親しみを込めていじるのだが、日本でいじられるのはある意味人気者であるあかしである。隊長はそこそこの会社を経営、それでもってかなり難しい資格を持っている。私はその業種はややこしいので困っていたり悩んでいる人の話を耳にするので、よかったら会員で必要な人にアドバイスしてあげていただけませんかと頼んでいるのだが、何人かは隊長にお世話になっている。プライベートでジムに来てさらに仕事の話をしてもらうのもかなり気が引けるが、気が弱いということが半分、親切半分、しかしいやな顔一つせずに親身になって相談にのってくれることに感謝しているし、まわりもそういう人だから信頼と親しみをもっていじるのだろうと思う。

話は前回話に出たヒラリースワンクの話になるが、彼女を一躍有名にしたのがミリオンダラーベイビーと言う映画である。これは女性のボクサーの物語でここで語られるテーマはボクシングというよりもそのボクシングを通して語られる生命倫理の問題である。この物語はひとりの貧しい女性がボクシングの世界で上りつめていく、しかし世界戦の前に相手の故意による反則で下半身不随になりボクシングができなくなる。病院にうつされた女性ボクサーはもう二度とボクシングができないことを悟り自殺をはかろうとする、そしてその気持ちを察したトレーナーが彼女を尊重して安楽死を選び生命維持装置を止めると言う話である。印象的であったのはボクシングができなくなると知った女性ボクサーが自殺をはかるのだが、一度自殺をはかってとめられて手足をこうそくされる、しかしそれでも今度は舌をかみ切ろうとするシーンだ。私はこのシーンを見た時にそういうことにプライドと生きる価値をそこに見いた出した人間の気持ちをよく表現しているものだと感心したが、そこには自称ボクサーとかファイターとかいう人間のゆがんだ価値観と人間が生きると言うことはどういうことかということをこの一人の女性の死を通して投げかけている。おそらく日本人にとってこの映画は日常からかけはなれたものかもしれない。しかし治療拒否が自殺と司法ではみなされない、安楽死が本人あるいは家族などの第三者によってゆだねられるアメリカでは身近な問題であると言ってもいいのだが、その身近な問題であるがゆえに受賞したのかもしれない。この映画はアメリカの背景にあるプラグマティズムと宗教観さらに命のとらえ方の違いが顕著にあらわれている。話はプラグマティズムの話になるが、私はアメリカはプラグマティズムの原理で動いていると思っている。プラグマティズムと言っても複雑で一言では言えないが、ほんとうに単純に言うならば使えるか使えないかあるいは有益か有益でないかと言うことでそれが正しいか間違っているかと言うことをはかる哲学である。最近はパラリンピックが話題になって日本ではこのパラリンピックと普通のオリンピックではかなり差があると言ったが、それが盛んなヨーロッパとアメリカでもとらえ方が違う。おそらくEUと言う概念があって共同体意識をもっているヨーロッパに比べて共同体意識のひくいアメリカはパラリンピックを人間の尊厳や協力と言うような考え方で見ていると言うよりもパラリンピックも勝者として受け入れてるような気がしているが、その一方で社会的弱者が顧みられず福祉制度が最低ともいえるのはまさに勝者のみが潤う国であると言っても過言ではない。

 


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学校に特攻服で来るバカを入れる学校

2016-01-24 | Weblog

カナダで未成年が学校を襲撃4人死亡と言う事件があった。カナダではその身元は法律によって未成年は公表されないらしいが、欧米ではこういう事件がしばしば起こるのだが、銃の規制法をしっかりと改正しなければこういう問題はおこり続けるであろう。アメリカやカナダにはこういう事態を防ぐためにSchool Resource Officerは各学校などに存在する。これはOfficerというところのPoliceのことであるが、武器をチェックしたり何か自体がおこれば武力行使もいとわない、むちろん拘束する権限も与えられているらしいが、日本も校則がどうのこうの言う前に何をしでかすかわからないバカもいるのだからこういう存在を認める必要があるだろう。

私のまわりには学校関係者が多いのでよくわかるのだが、学校の教員がどれだけたいへんか理解できるだろうか。朝早く出てかえってくるのは夜の十時過ぎ、それだけではなく休日も出勤しなくてはいけないというような生活をおそらくほとんどの教師がしいられていると思うのだが、こういう事態は異常な事態である。私は聖職なんて言う言葉はないと思う。教師であろうと宗教関係者であろうが完ぺきではないしすべてが正しいことはないだろう。おそらくそれは教師自らが一番わかっていることであるが、しかしまわりが都合よくこの聖職と言う考え方を押し付けているように思える。

第一学校には何をしに行くのか勉強だろう。思い出とか人間関係とかそういうことを言う奴もいるだろうが、しかし根本的には我々が生きていくために必要な学問と常識をこの学校と言う教育機関から学ぶことが我々が学校に行く目的ではないだろうか?

ヒラリースワンク主演のフリーダムライターズと言う映画がある。かなり前に見た映画なのではっきりとはおぼえてはいないが、これはLAの荒れた学校にひとりの赴任した新任教師がクラスをうけもちその荒れたクラスを教育によってかえて行く物語である。この話は実話だそうだが、日本のよくある学校のドラマと決定的に違うのは、教えることそして学ぶことの大きさそして人間は学問を学ぶことで大きく変わると言うことを伝えているところである。

私は日本の学園ものと言うのが大嫌いだなぜなら教育=悪と言うとらえかたをしていて不公平だからだ。子供と言うのは単純だからこういう番組を見たら教師や教育は悪なのだと言う概念を持ってしまうだろう。そういう概念をテレビはうえつけているようにさえ思える。日本の教師は教育のためのスケープゴートのようなものだ、評論家も耳障りのいい言葉ばかりを選んで言うが、しかし最終的には解決策や行き場がないので学校や教師をスケープゴートのようにしていると感じるのが私の意見であるが、何かを学ぶと言うのは非常に大事なことだ、もちろん今の教育の在り方と言うものをよく考える必要もあるが、この学問を学ぶことそして教えることと言うのはお互いをかえる力がある。教育を受けると言うことは人間にプライドを持たせるからだ。ひと昔アメリカの刑務所などで更生のためにボクシングを教えていたらしいが、これは失敗におわった。で今何に力を入れているかと言うとその中で学問を教えて学位をとらせることとペットを育てさせることらしいが、特に教育をうけて大学までの学位をとらせることでかなり多くの人間が更生しているらしいが、これは単純に教育を受けると言うことがいかに人間にプライドを持たせるかということを伝えていることだと思う。私も実際に語学を教えているが、英語でもそうだがそれがわかってある程度できだすと何か自身のようなものが見られる。最初は下を向いてエーッとと自信な下げに答えていたが、しかし次第にこちらを見て答えるようになる。そういう姿を見ると確実に成長しているし、自信がついてきたように思える。私自身もこの学問を教えることで成長しているのだが、教育現場を本当によくしたかったら教師にその本業である教えると言うことに専念させるような環境をつくることが必要だ。聖職者ではないが教えると言うことに専念できたら自ずとそれにふさわしい人間にかえられていく、子供の私生活は親の問題でそういうことを教師に押し付けることではない、学校が動物園かしないために、人間のことをラテン語ではhomo sapienseと言うがこれは知性を持つものと言う意味でその人間が人間らしく生きるために知性をよりよく磨ける場として機能させることは必要だと思う。


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ENGLISH PLEASE!

2016-01-20 | Weblog

北朝鮮のドキュメントで現地の人が別れ際に再会と言う中国語をつかっていた。おそらくそこは国境だと思うのだが、それでも普通いる人にたいしてはアンニョンヒカセヨそして去っていく人にはアンニョンニカセヨであるが中国語は不可解だ。朝鮮語と韓国語は厳密に言えば違う。私は言語学を専攻したわけではないのだが、私の見解を言えば、例えば韓国語にありがとうは2つある。カムサハムニダとコマプスムニダだ。この二つは大きな違いがある。カムサハムニダはフォーマルで少しかたい感じなので日常ではコマオヨがつかわれる。カムサハムニダは漢字から来ているがコマプスムニダはハングルだ。今はどうかわからないがおそらく北朝鮮ではアヨオヨ体が使われないのと同様コマプスムニダはつかわれないと推測しているが、カムサハムニダがカムサハムニダとカムサヘヨと二つの敬語のかたちでしか使われないのにたいしてコマプスムニダはコマオヨ、チンチャコマオヨ、コマムネさらにおおきにのような方言でコマウォインといくつかの表現が存在するように日常的な言葉と言うことが言えるであろう。朝鮮語と韓国語の違いは朝鮮語が他の文化を受け入れないが韓国語は他の文化の影響をうけたり独自の文化が発展していったことによるであろう。それにしても韓国語を使わない、外来語を朝鮮語であえて表現する北朝鮮の人間が中国語をつかうと言うのはどれだけ中国の影響が大きいのかと言うことができるのだが、こういう言葉の解釈一つにしてもその国の事情と言うものを垣間見ることができると思う。

私は基本的に言葉に話せない興味がないと言うスポーツ指導者はものの考え方が非常に保守的で狭いと解釈しているが、自分の取り巻きには親でも言わないようなエラそうなことは言えるのに海外に行くと猫の子のようにおとなしくなる監督などはまさにそうである。前のブログでも書いたがこれからは人間関係とか和ではなく戦略を学ぶ時代だ。日本の運動クラブのキャプテンは監督の言うことを聞いて、まわりのパイプ役になる人間が選ばれる、ともすれば監督の気に入られた奴がキャプテンに任命させることもしばしばあると思っているが、しかし外国は特に組織プレーでは監督の戦術や戦略を理解してそれに意見できる人間がキャプテンに選ばれる。サッカーの日本代表などは結成当初は監督とプレイヤーに衝突があればそれを問題にしていたが、しかしそう言った衝突はお互いが戦略を理解していたらおこるもので、そういう衝突がおこるということは正常にチームが機能しているということだ。今の時代は言葉に疎い人間は情報量が少ないので戦略など考えられるわけがない。競技中心のクラブではないので実践しないが、インターネットの情報だけでもこんなことやっているのかと感心させられることもしばしばあるが、そういう情報すらもひろえないすべてが猿まねになってしまう。戦争にスパイが必要なのは相手の情報が必要だからだ。そのため言葉は必須条件である。外国に言ったらわかるが言葉ができない人間は本当に頼りない、日本ではえばっている監督も日ごろは威勢がいいのに外国に行くとおとなしくなる。日ごろの威勢はどこにいったのだろうか、こういうことを本当ならば恥ずかしいことだと思わなくてはいけないのだが、外国人と違って日本人は英語を話せることが普通ではなくて話せないのが普通だから恥を恥と思えないのだ。スポーツクラブというところには英語的感覚が必要である。何人集まってもかたことも話せない、英語が読めませーん話せませーんは今の時代では広い視野を持つことができない。私の見解では語学に疎い集団は保守的で、さらに教育レベルがひくくなるとアウトローが集まる。特にうちのような個人のスポーツクラブはそういうことに留意して運営していく必要があると思っている。

 

 

 

 


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履歴書に短所とか長所って書く欄は未だにあるの?

2016-01-17 | Weblog

言葉と言うのはおもしろい。私は学生の時にいくつかの言語を勉強したがそれらの勉強は物事を解釈する上で非常に役に立つことがある。当たり前だが言葉と言うのは国によって違うしとらえかたも違う。例えば平和は英語ではpeaceであるがラテン語ではpaxこれはpax romana(ローマの平和)で有名であるが、韓国語ではよく聞くアンニョン漢字で書くと安寧であるがこの挨拶は相手に平和がありますようにである。おそらくこの言葉が生まれた背景は小国であった朝鮮がつねにまわりの外敵におびやかされていたというところから来たのだろうが、パブルモゴッソヨ(ごはん食べた)と言うあいさつも当時貧しかった時代におそらく農民たちがお互いの生活のことを気遣ったあいさつ言葉であるが、言葉と言うのは知ると非常に興味深くそれは相手の文化を知る一番の近道である。解釈の違いで言えばドイツ語で太陽は「die sonne」と女性名詞であるがフランス語では「le soleil」と男性名詞であるおそらく隣どうしであるが名詞のとらえ方が違うのだろう、こういうとらえ方の違いが言葉を変化させていったともいえるであろう。言葉と言うのは重要だ特にスポーツは外国語が理解できるかできないかと言うことが将来のアスリートの価値を決めるもので、私の見解ではバラエティでいじられているスポーツ選手は語学ができない、いったいよその国で何をみてきたのだろうかと疑っているが、ボクサーのような格闘家でそれしかできない人間は引退後バラエティでお笑いの下っ端にいじられる。そしてVシネか何かでやくざの役を与えられると言うのがお決まりのパターンのように思う。しかし言葉を理解できる人間は発想力が豊かである。事実いろいろなことを感じたり理解できるキャパが違うのだからものの見方がワイドになることは確かだ、特に小国をつくっていばっている監督やコーチにもっと勉強して言葉をおぼえろと言いたいのだが、日本語でちょっと書いた本ぐらいでは根本的に考え方刷新することは不可能である。私のアスリート嫌いはこういう親玉のレベルが低いから自分たちの世界観で物を言うその世界観を正しいことだと信じているからで、自分たちが勉強不足だと言うことを理解していないところだ。こういう人間たちをたかだか競技を強くさせることでほめるというのは教育的にいささか問題がある。むしろ個性とか言うよりも足りなさに気づかせることが大事なことだと思っている。外国の面接で何を聞かれるかと言うのは「君は何ができるか」と言うことである。企業面接ではなるべく面接を有利に進めるためにMBAなどの学位を所得して面接に臨むのだが、それは韓国も同じ。韓国ではSPECと言って履歴書に自分の能力を記入する欄があるが、問題なのは語学力と海外留学経験そしてボランティア活動の3つであるが、韓国では俺野球部で4番うってましたなんて問題にならない。友達に日本ではそういうことを履歴書に書くと言ったら笑っていたが、おそらく外国でもso whatだと思う。何の戦略もないのにゆとりだの勉強以外のことも大事だなんて言うのは、世の中の動向から見てかなり逸脱しているように思えるのだが、この前たまたま見たthe wallstreet jurnalにアメリカのハーバードなどのエリート大学に入る高校のトップ30に韓国のハイスクールが米国のハイスクールをぬいて2校ランクしていたと言う記事があったが、ソウル大と日本のトップの大学はどうかなんて競っていても意味がない。それだけで向こうのレベルをはかるのはおろかで事実欧米の大学には韓国人や中国人がたくさんいて、そういう人材が事実日本の企業で働いている。このグローバルの時代に能力主義を企業が掲げると会社は外国人にのっとられるんじゃないのかとさえ思ってしまうが、これからは国も支援して留学生を海外に送りだしたらいいと思う。市場が違う海外で学ぶことは視野を広げるためにも大事なことであり、和とか人間関係ではなく戦略を学ぶことがこれからは大事なことであり、そのためにはたくさんのことを外国から学ぶ、情報をぬすみとることが大事なことであろう。

paxは文字通り訳せば平和であるが、しかしこの言葉はローマの支配ともとれる。当時ヨーロッパのほぼ全土を支配したわけだが、ローマの道はすべてに通じるという有名な言葉がある。この道と言うのはローマ帝国が戦争や内乱が起きた時にすばやくかけつけるために作った道でそれはいたるところに通じていたと言うことであるが、まさにこれはローマの支配で当時の平和はローマの支配によってもたらされたものだ。

 

 

 


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2016-01-14 | Weblog

サッカー日本代表の本田が「人生には谷があるその谷が深ければ深いほど山は大きい、僕は試練の中にあった時その谷が深ければ深いほどこれは自分にしか経験できないことなんだと思う、そしてそれを乗り越えたら自分は大きく成長する。」と言っていた。私は本田はある意味深い哲学を持っていると評価している。世界に出て行っていろいろな経験をしたのだろう、彼はそういう中で葛藤し悩み自分を成長させている。そういう彼の言葉には非常に説得力がある。一方外の世界を知らない人間がたいした教養もないのに哲学と言うのは笑える。哲学と言うのはただ自分の言いたいことを言うのではない、本田のように深い部分で葛藤し悩むからこそ持てる考え方である。悩むと言うことは人間を成長させるためには必要なことだ、私の子供も中学生なので勉強のことや人間関係に悩んでいる。学校の授業が早いペースで進むのでついていくのがたいへんで、私立なので通学の時間もかかるので結構ハードな中学生活である。母親は悩んだ時に大丈夫かと心配しているが、しかし私は悩むときは思いっきり悩め、中途半端に悩まない、頭を使って大いに悩むとかならずどこかにゴールはあるものだ、即ちただ無抵抗に悩むのではなく本を読んだり、勉強しながら、いろいろなことを経験しながら悩めそうしたら大きく成長できると言っている。母親は教育関係者なのでそういうことに黙って見てられないのだと思うのだが、私から言わせれば今少し子供に対して過敏になりすぎていると思う。我々の時代はもっともっと悩んだように思える。恋愛のこともそうだが人間関係で悩み傷つくのは我々が当たり前のように通る成長の過程ではないだろうか?しかし最近の子供はそういう免疫ができていないのだろう?まわりもそう言う環境をつくらさないように子供に気をつかいすぎている。がしかし思いっきり悩むから人間であってそういう過渡期は人間を理解する上では非常に必要なことである。人間は弱い、弱いから葛藤したり悩んだり傷ついたりするのだ。私などはまわりが強者だと思っているが自分は弱いと言う自覚はある。しかし唯一自分がアドヴァンテージだと思っていることは、いろいろなことに葛藤し悩んだことで、そういう葛藤や悩みは絶対に自分を成長させると言うことを経験を通して理解していることである。谷におちた時にその先にある山が見えるか見えないかと言うのは人間の思考能力が左右する。私はアニメのコナンのファンだがコナンの魅力は何があっても考えることをあきらめないこと、そのあきらめずに考え抜いた先に必ず答えを見出すというところである。パスカルは人間は考える葦だと言ったが、その葦のようにもろい人間には知性や知恵が与えられている。すなわち考えることができるのは人間だけで葛藤し悩むと言うことはまさに人間らしい行為である。人生は山あり谷ありと言う言葉があるが本田の言葉をかりればその谷が深ければ深いほど山は高くその山の頂に上った時見えるものは広い。そしてそこには大きな経験と達成感がのこるだろう。


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サルがテロリストになる?

2016-01-11 | Weblog

成人式で毎年騒ぐバカがニュースになる。仮想コンテストではないのだからこれからはこういう目立つことしか考えないバカを出さないためにも服装を規制したらいいと思うのだがなぜそうしないか不思議だ。おそらくこういう目立ちたがり屋がいるから行きたくないと言う人間もいないとは思わない、私だったら20歳の式典でこんな奴らが我が物顔でふるまうような会場に一緒にはいたくない、危害を加えられるんじゃねえかとさえ思ってしまう。第一知事とか要人がいるというのにSPは何をやっているのだろうか?欧米だったら間違いなくこういう奴らはSPに囲まれてボコボコにされるだろう。少し前に知事が話している時にその壇上に上がって行った奴らが各地にいたがそういう奴らは欧米だったらかなりの確率でうたれる。今フランスで大きなテロが起こったが、今後テロに警戒が必要なのに政府の式典でこういうバカをおとなしくさせることができないのだから日本は安全とは言えないだろう。特に北朝鮮が水爆実験をしたとかしないとか、それに対して日本の制裁もさらに厳しくなってくると思うのだが、こういうことを考えても成人式のような式典がねらわれると言っても過言ではない、ひょっとしたらサルがテロリストだったなんてこともないとは言えない。成人式だけではなくこういうイベントの警戒は今後絶対必要だと思う。サルと言ったら秩序を守っているサルに失礼だが、こういうサルのようにふるまう人間に好き勝手させているのだから日本の安全とはこんなもんである。成人式でもそうだが変な奇抜な格好で目立つことしか考えていない奴の顔を見たら決して知性があるようには見えないのだが、普通に勝負してたらまわりに勝てないダメ人間だから威嚇したり奇抜な格好で目立とうとしているに過ぎない。酒を飲んで改造車にのって暴れたり騒いだりしてとにかく目立とうとする行為は、ある意味捨て身だともいえるからやっかいな存在で、こういう行為はこれからまじめに生きようとする人間に対して精神的自爆テロのような行為であるので迷惑だからやめさせるべきである。

これは私の考えであるが、地元でいばろうとする奴は了見が狭い。地元から出ないから自分がどれだけ小さいかわからないからでかい口がたたけるのだが、非常にものの考え方が狭く、いわゆるこういう奴らの世界が言ったもん勝ちの世界でこういう集団が学校や公共の場で多大な迷惑をかけている。成人式で暴れるような奴らもそうだ。前にそのドキュメントを見たら何がどうまけるのかわからないが、成人式ではどこどこの地区にはまけたくないからもっと目立つような恰好をするとか言っていたが、こういうレベルで生きていて何が楽しいのかわからない。要するにお山の大将でいることが大統領や総理大臣になることよりも偉いことで、何かそういう負け惜しみとゆがんだ価値観と言うものを持っているようにさえ思えるのだ。前に韓国人は外の世界に出て行っている。出て行かなくてはならない現実もあるのだが、しかしそこで民衆レベルではあるが広い世界を意識している。ある意味地球規模では日本人より優しいのではないかと思うと言うことをフィマンTVと言う番組を例に出して伝えたと思う。しかしこれは何も韓国人が日本人よりも優れていると言うことではない。一人の傷つき倒れようとしている人間をまのあたりにしたら誰だって心揺れ動かせれるのは当たり前である。貧しいゆえに子供が学校に行けず大人と同じように働いている姿を見たらどう感じるか?前に会員の人が難病を抱える子供がいるある病院の施設の実習に行った時、その難病ゆえに長く生きれれない子供の姿を見て何度も泣いたと言うようなことを言っていたが、日本にもそういう現実はたくさんある。そういう現実にふれたら多少考え方も変わると言うことだ、何かを学ぶと言うのはそういう現実とは無関係ではない。医学なんかはまさにそうだが宗教学や哲学もそうだ。視野を広げるためにもう少し地球規模で物事を見ることは大事なことで、これは私の考え方であるが、違法改造車に金をかけたり目立つためだけに装飾品に高いお金を書けるならば留学するとか英語を習うとか本当に必要なことにお金をかけるたほうが社会にとっても自分にとっても有益である。私は留学していろいろな民族とふれあっていろいろな現実も見た。時には自分とかかわることに大きな衝撃をうけたし、叫んでもとどかないそういう現実にも直面したことは確かだ。学問と言うのは机上の学問ではない。しかし真剣に向き合えば自分にとって本当に必要なことを教えてくれるだろう。

 

 

 


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