脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The Olive stars rise and shine in their stage

2014-06-29 | Weblog
今日試合があった4人出場して全員勝利した。
最近試合出てそこそこの実績をあげるようになったが、試合に関しては私は何もしていない、すべてトレーナーとそれに協力してくれる人たちのおかげだと思っている。
今試合に出たいという人を指導してくれているトレーナーだが、実は彼が入って2ヶ月ぐらいの時からトレーナーに向いているんじゃないか、特にここでやってもらうにはいいんじゃないかと目をつけていて彼をトレーナーにしようと計画していたことは誰もわかってなかったと思う。理由は彼がいろいろと工夫しながらボクシングを競技していること、特にマスなどで痛い目にあったら次はどうしたらいいかを考える、結構失敗から学んでるなという気がしたからだ。
彼のいいところは何でも思い切ってやらせるということ、細かいことはごちゃごちゃ言わずにいいところを徹底的に伸ばそうとする姿勢は非常に競技者にとってやりやすく、絶えずモチベーションを上げていられると思うが、個性重視のここにはあった指導法である。
MTオリーヴボクシングクラブはへたれも多いがしかし個性的だ、そういう人間をスポーツの小さい常識でとじこめてしまってはくだらない競技者になる。
日本は基本というのがあってその基本を忠実に守らなければだめだとみなされるが、私が競技したところではもともとボクシングに型などないと考えているので結構自由にさせる、日本はどちらかと言うと競技者を育てるという考え方だが、しかしアメリカは競争の原理で動いているので競争させてトップに立つ人間が強い、だから日本のように判定などで名前で勝つというような言葉を聞いたことがないが、それだけダイナミックだ試合によっては観客が立ち上がって応援、さらにスタンディングオベーションというのもあったが、日本のように村社会でハイハイハイということを聞く特定の人間しか活躍できない場では、こういう盛り上がりはないと思う。

とにかく向こうでの試合はおもしろかった、リングにあがったら監督とかコーチなんて関係なくなる一対一の勝負だ、試合になるとセコンドが私の肩をたたいてOKボーイ、ぶちのめしてこいと言っておくりだしてくれたが向こうは親玉どもが俺たちに気をつかえよ言う雰囲気もなくコーチ人もとにかく競技者を中心に考えてくれているので非常にやりやすかった。
日本人は試合が終わるとあいさつに行くが、たぶんこれは多民族国家にはありえないことだろう、時々勝った人間がうれしそうに近づいてきていやあどうもなんてあいさつにくるが、正直相手の出方次第ではふくろだたきにしてやろうかと思うのだが無神経だ、競争の原理がはたらいている多民族国家ではこういうことはないだろうが、日本は勝ってもガッツポーズをしない相手のところにあいさつに行くというのは親玉の指導だろうか、しかしこういうことはスポーツマンシップでも何でもない単一民族国家の勘違いと言ってもいいだろう。

私もたくさん試合をしたがその試合のすべてが楽しかった、まるでピクニックに行った時のような楽しい思い出としてのこっている。
思い出すのは試合が終わって夜の海外線を友達3人でハンバーガーをほうばりながらぺちゃくちゃ喋って帰ったことだ。
当時私には台湾人の男性と韓国人の女性の親友がいて試合になるといつも来てくれて、私を応援してくれたのだが、帰りは決まってなぜかハンバーガー金のない学生にとってこれが最高のぜいたく、夜の海外線の風をうけてほおばるハンバーガーは格別にうまかった。


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USAって

2014-06-23 | Weblog
10年ぐらい前の話だが講演会でアメリカ系のユダヤ人を紹介してもらった、彼はどこかの大学で教鞭をとっているらしくインテリである、しかしいかめしい顔でかにもと言う感じなので、後にフランス人の友人があれは誰だったんだと聞くのでdetectiveだと言うと大笑いしていたが、もう日本にはかなり長く住んでいた。
私はてっきり日本語が理解できると思い日本語で話しかけるとあなた英語はと聞く、うんああっと言うと英語で話しかけてきたので、そこからは英語での会話になった。
私は彼が日本語が離せないと思っていたが、しかし後で周りの人間に流暢な日本語で話すわ話すわ、正直ここまで話せるとは思っていなかったので、なぜ日本語が話せるのに話さなかったんだと聞くと、その言葉を察するかのように、英語は共通語だから英語を話す必要はあるだから自分は極力日本語は話さないと言っていたが、やはりアメリア人だ彼らは日本に来ても英語は共通語だと主張し、自分たちが日本語を使うよりも英語を話させようとする態度は少し横柄である。
確かにに英語は共通語だ、だから英語を話さなくてはならないと言うのはわかるが、しかし問題なのは話せという態度だ、日本に来たら日本語を話せと言うのも横柄であるが、しかし日本人はもともと英語を話す民族ではないのだからそこまで共通語だということを強調する必要はない日本語が話せるならばそれでコミュニケーションをはかればいいが、こういうところがアメリカ的であると思う。

アメリカ人は自分たちの文化を押し付けるけいこうがあると思う。彼らの文化の押しつけはよその国のルールをこわすことだが、前に相撲の土俵に女性は上げられないというとそれはおかしいとすごい剣幕でおこっていたアメリカ人の女がいたが、しかしこれは女性差別というよりも文化的なことで、おそらく相撲のような伝統的なものは習慣や儀式には宗教的な理由があると思うが、私はこの問題に関してはやたら女性の人権を持ち出して賛否両論を問うことではなく、長い歴史の中で培ってきたこわすことができない文化があると言う見方でみているが、しかしこういうことがわからない、文化的なことでも人権がどうのとか言ってルールをこわすのがアメリカ人だと思っている。
確かにカースト制やイスラム圏などではおぞましい女性差別がのこるような文化が存在し、苦しめられている女性がたくさんいるが、そういう人権問題にたいして主張することは重要なことだ、がしかしそれらが行き過ぎてしまい内政干渉になる場合もある、おそらく相撲などの文化の問題なんかはほとんど内政干渉だと思っている。

少し話はかわるが時々下の名前で呼び合っている親子がいる。
親を名前で呼び捨てにするのは私からすればそれはかなり違和感がある。おまけに自分のおばあさんやおじいさんをじいじとかばあばとか、私などは親父方のおばあさんとは生涯5回ぐらいしかあったことがないが、それでも一応それでも建前上ではあるが尊敬のんをこめた言葉で接していたが、それからすると自分のおじいさんやおばあさんをじじいとばばあとお言ったり親を名前で呼ぶなんていうことは暴挙だ、私は間違っても子供にはこういう呼ばせかたはさせないようにしている。
こういうことを言うと考え方が古いとかそういう考え方が親子の間に壁をつくるんだ、中にはアメリカ人のような親子のスキンシップがいいという人間もいる。
しかし言葉というのは民族にとって大事なことで、こういう昔から尊敬の念をこめてつかってきた言葉を言葉の変遷だとか言って自分たちが使いやすい言葉に変えるのは軽率だと思う。
少なくとも200年ちょいの歴史しかないような国の人間には言われたくない、日本の文化を語るならばそれ相応の歴史を持ってから言ってほしいものである。


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実はそれはディスアドヴァンテージじゃない

2014-06-21 | Weblog
ここでは英語を教えているが、ビギナの人たちもだいぶ文法が理解できつかえるようになってきた。ここでは文法をひとつおぼえたらそれをつかい応用するというメソッドで英語の学習をしているが、この方法はかなり訓練になっているようだ。
しかしここからが重要なのだが、これによって特にいくつか文法をおぼえたビギナーの人たちに必要なのは日記をつけることで、実はこの学習のねらいはいくつか文法をおぼえたらそれをつかって文をつくって英語に慣れるということである。
文を書くというとは当然今まで習った文法をつかわなくてはならないし、当然わからない言葉は辞書をつかって調べなくてはならない、これをしなくては上達しないここからが大事だと言っているが言葉は習うだけではなくたくさんつかっていくことが一番の上達法である。

話は私の話になるが、私はどちらかというと自分の言いたいことをきちんと整理して論理的に表現することができる。たぶんたいていの人間はそういうことには長けている中にはうらやましいという人もいるが、しかし昔はそうではなかった。
論理的に自分の言いたいことを言うどころか、人の言っていることがよく理解できないそういうディスアドバンテージを持っていた。
しかしある時期をさかいに自分は大きく特に論理思考の面において大きなアドバンテージを持つことができた。
あるところでの結論は一応IQが高いということになっているが、しかしそれは違うなぜならIQというのは数学的なセンスだがしかし私は数学的なセンスがない、それに論理的思考とIQとは少し違うと思うからだ。
たぶん私が論理的な思考になれたのは語学をやってきたからだと思う。
語学というのは時には相手の言っていることをGuessして答えなくてはならないので相手が何を言っているのかということを感で理解しなくてはならないことがある。
そういうことを繰り返していくうちに実際に言葉が理解できるようになれば、今度は相手の言っていることが先読みできるなる、論理的な思考を司る脳の部分が強くなければ、感をみがいてそこに働きかける、言葉というのは時に英語のような文法がまったくちがう言語は、それと共に頭の中で整理していかなくてはならないのだから、人の言っていることを理解し論理的に話すことができるためには大きなアドバンテージとなる訓練となると思う。
なぜこういうことを書くかと言うと、人の言っていることが理解できない子供は私だけではない、たぶんそう言った子供たちはたくさんいるからで、もし自分が人の言っていることがわからない理解できないから人とうまくやっていけないと言うならば、とりあえず語学を勉強してみたらどうだろうか。
さらに語学は人とのコミュニケーション能力を広げる。特に西洋にいおいては言葉はつながりを意味するのだから、自分自身を主張しなくてはならないというところでの自己表現や理解力が養われる。
よく日本人は仲良くしましょうというが、仲良くしましょうって何、はっきり言って仲良くすることとコミュニケーション能力はちがう。日本人のように単一民族ならば同じ仲間で集まってという理論が成立できるが、しかし英語圏ではいろいろな人種がいるのでまず相手の違いを認め尊重することからはじまる、だからコミュニケーションとは同じということを強調して集まるのではなく、人との違いを認めて交流していくテクニックのようなもので、このことはむしろ訓練することで養われることだ。
私は友達がほとんどいない。だから飲みに行くなんていうこともまずないし、飲みに行ったところで何をどのように話せばいいかわからない、孤独と言えばそれまでだが、しかし人に必要とされているかといえばそうではない、自分は人に必要されているしコミュニケーション能力もひくくはない、なぜならその人が必要だと思うときはきちんとその必要に応じて話ができるからだ。
これは私なりの解釈だが問題なのは友達がいるかいないかということではない、人に必要とされるかされないかだ。
よくジムなどでも私たちは仲間だ家族的と仲がいいことを強調するようなところがあるが、しかしそこでは仲良くなければ排除されるし、必要とされるというよりも人に頼って生きるぶらさがりの世界だ。
私は仲良くしましょうという日本人のコミュニティーは非常に閉鎖的であると思っているが、大事なのは人と仲良くすることではなく、人に本当に必要とされているかということで、それは決して同じという集団から見えてこない、違いを認めて自分が少しはなれたところから見えてくるものだと思っている。




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オリョプタ

2014-06-17 | Weblog
私は時々いじめを相談されることがある。
結論的に言えばいじめは話し合いで解決させることが一番ベターな方法だと考えている。
しかしそれはただまるくおさめるということではなく、被害者側に立って被害者が自分の口で言いたいことをはっきりと主張させることが大事だ、よく格闘技のジムでいじめられたらやりかえせ強くなって見返してやれという奴もいるが、しかしそれは間違っている。
やくざでもあるまいしやり返すことで誰が責任をとるのかわからないが、こういった発言は非常に無責任だと思う。
いじめはいかりや憎しみという感情をこえて解決しなければ、ただの報復だ、いじめはそのにくしみやいかりをこえたところに解決策はある。
その報復にならないためにも大人がしっかりと責任を持って指導していく必要があると思う。

昔の法でハンムラビ法典という法がある。その中に有名な言葉がある。
「目には目を歯には歯を」だ、しかしこの言葉を多くの人が「やられたらやりかえせ」という風に誤解していると思うが、よくこれは復讐の言葉として使われてきた。
しかしこれは実際はそうではない、同体報復法と言って、何かされたら感情的それを倍にしてかえしてやろうと思う気持ちを同じことをするだけで我慢しろという人間のそのいかりやにくしみを抑えることに意味がある。
従ってこの法の趣旨は復讐にあるのではなく、相手と同じことをするだけでゆるしなさいということである。
はじめて聖書を読んだ時おどろいたことがあった、それはこう書かれてあった「If any one strikes you on cheek,turn to him the other also」日本語では「右のほほをうたれたら左のほほをうて」と言う有名な言葉だ、この言葉を見てアホかと思った、俺だったらよけてうつぐらいに思っていた。
しかし後でひっかかったのでよくよく考えてみるとここで言っていることはそうではないということを理解した。確かに文字通りに読めばなぐられても徹底して抵抗するなという言葉にうけとれるが、しかしここで語られるのは無抵抗ではなくゆるしである、その伏線としてハンムラビ法では同じことをするだけでゆるしてやれと書いてあると言うことが語られているが、ここであえてたたかれても違うほほを出せと言ったのはいかりやにくしみというのは報復することでは解決できないそのことをこえたゆるしの中にあると言うことを言っているのだと思う。

これはある子供の話だ彼はバイレイシャルで文化の違いや考え方の違いからかいろいろためらいもあってうまくコミニケーションがとれなかったそうである。
なんとか人と友達になろうとしたが性格的なこともあるのだろうか何かが違うので上手くコミニケーションがとれない。
ある時そんな彼を見て不良グループが彼をからかった、そしてその中である子供がかれに絶対に言ってはいけないことを言ったらしく、そのことで彼は激怒しその行った奴をなぐりつけてさらににげる彼をどこまでも追いかけていって徹底的に痛めつけようとした、途中先生たちが入ってどエライことにはならなかったものの、あいつは○○人だからおこらせたら怖いとさらに教室で浮いた存在になったらしい。
彼はこの事以来不良グループにはいちもく置かれるようになったけれども、しかし彼が求めていたのはこういったことではない、ただ周りの人間と友達になり普通に話しかけたかったことただそれだけの話だ。
中にはこういう話をいじめられている人間に俺はいじめられていたけどもいじめかえしたなどと武勇伝のごとく話すバカがいるが、しかし決して暴力では何も解決しない、私の親しい友人で元暴走族で今は更生して少年院などを回って話をしている人間がいる。彼が非行にはしったのはいじめられていた時にそいつらをたたきのめしたことがきっかけになったと言っていたがまさにそうだ、暴力は連鎖しか生み出さない、いかりやにくしみは暴力では何も解決しない。
私は人間はそういう時徹底的に話し合うことで解決すると信じている。
なぜなら私は話し合うことは最終的にはゆるしというものをもらすものであり、このことによっていやされると信じているからだ。
現実の世界はどろどろしていてゆるしなどという言葉をつかうことさえ無意味に思えるようなことがあるが、しかしせめてその子供の世界だけでも暴力が支配することがない、ゆるしあえる世界というものを実現させていく責任が大人にはあると思う。










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本当に戦う必要がある時

2014-06-13 | Weblog
先日うちの子と運動部の子の間でトラブルがあった。
まあ子供同士の争いと言えばそれまでだが、問題は何を言ったかということで学校でも指導が入ったのだが、問題になったことはその人間が相手の欠点をついて非常に汚いつかってはいけないような言葉をつかってうちの子の自尊心を傷つけたらしい。まあはっきり言って運動クラブと言うのはエネルギーが有り余っているのでそういうエネルギーが時には暴言となることもある。体育会にどっぷりつかった奴と言うのは暴言をはく傾向があると思っている、そういう奴らは狭い世界が常識だと勘違いしきちんと適切な指導をうけなかったからだと思っているが、今回暴言をはいた子供は同じ進学校の子供で世間的には賢いと言われているのでたちがわるいと思っている。
ただこういうことを言う奴はごまんといる、そんなことでいちいちこんなことを言われたなどと学校に行っても本人のためにはならない。
しかし問題なのは自尊心がひどく傷つけられたことである。
私は先生に彼が先生のところに行ったのは単なるつげ口で相手をさばいてくれと言うことではない、彼が暴言をはかれて自尊心を傷つけられ人権を侵害されたからで、相手と対峙して自分の名誉を取り戻すためだ、大事なのはその名誉と人権を侵害されたことにたいして黙っていてはいけない、主張することも必要だ、だからそういう意味でうまく指導してやってほしいということを伝えたが、そのことによって彼が成長してほしいと思ったからだ。
私の子供は私とはまったく逆で論理的思考が苦手である。
だから言われた時は黙ってかえってきたのだが、その内容がいわゆる差別的にも思えたので指導がはいったのだが、たぶん口下手な人間が相手に対峙して話し合いをすることは勇気が言ったことだと思う。
まあこれは笑い話だが、たぶん私だったら間違いなくそいつをバットで襲撃するだろうが、こういうやり方は他に教えてくれる大人がいなかったからで、そうするしか他に方法がない一番くだらない解決法だ。
しかし彼には手本となる大人がたくさんいてどう解決していったらいいかと言うことを教えてくれる大人がいる。我々の時代や環境とは違い今はきちんと話し合いで解決できるし、他に方法はいくらでもある。
名誉や人権と言うものは人間が生きていく上では大事なものだ、この名誉や人権が侵害されることは生きている権利を奪われると言っても過言ではない、よくいじめなどで使われるお前は空気以下の存在だというような言葉はまさにそうで、時にはこの名誉や人権を守るために戦うことも必要であり、その時自分はどう主張してどういう行動をとるかということを教えることは大事なことで、私はこのことを通して彼が成長してくれたらと思っている。

聞くとおどろくと思うが、実は私も昔は論理的に物事を考えることができない人間で、人の話もきちんときけるような人間ではなく人との違いを感じていた。
そんなことを言うと今の自分をあげるためにそんなことを言ってと言う人間もいると思うが、しかしそういうディスアドバンテージがあったからこそ逆にそういう部分で人よりもアドバンテージを持つことができたと思っている。
神は平等だ人間には大きなアドバンテージが与えられている。しかしそのアドバンテージは努力しないと見えてこないもので、実は人間の一番弱い部分にそれがかくされていてその部分を克服しようと努力するときにその自分の本当のアドバンテージが見えてくるのではないかと思っている。
人間はかならず誰でもおとっている部分がある、それを個性といってしまえばそれまでだが、しかしそのおとった部分にこそかくされた本当のアドバンテージがある、そのことを信じて私は子供にこういうディスアドバンテージが見えた時、一番最善なかたちでそれを克服し解決することを教えたい。

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その時はおごってくれ

2014-06-05 | Weblog
AIBAのランキングを見たらおもしろいことがおこっていた。
ランキングに上がっているのがほとんど中東やロシア、中国特にカザフスタンという国は昔のキューバのようにランキングに名前をつらねていたが、これらの国はアムネスティという人権擁護団体でも問題になっている国、私はだいぶ前にボクシングはもはや西から東に移行しているとブログで書いたががまさに私の言った通り、欧米が小さいころからボクシングを競技させることに躊躇する中、人権に疎い国が子供のころからばんばん頭をたたかせて競技レベルをあげていく、まさにこう言ったことは人権に疎いからできるともいえる。

私の友人で日本によく出張に来る韓国人がいる。
彼女は某有名大学の国際政治学科を卒業後、とある企業の海外事業部で主任として働いている3国語を話す非常に優秀な人材だ。そのせいかよく海外に行くそうだが特に日本にはしょっちゅう来ていて、大阪なんかは私よりもよくわかっているのではないかと言うぐらい詳しい。
この前連絡があって今度大阪に行くのでその時会えませんかと言ってきたが、しかしあいにく行く機会が今のところ少なくなっているので行けないというといつも残念そうにそうですかと言ってくるのだが、私は両方のことをよく理解しているので日本人を相手に仕事をしている彼女にとって話しやすく、一般の日本人に聞けないことでも聞けるので頼りにしている人間の一人らしい。
今度夏にプライベートで来た時にここに来たいと言っていたが、しかし私も大阪に行く用があるので、もし日程が合えば大阪で会おう、でもその時はおごれってくれと言ったら、いいですよと言ってくれたが久しぶりに会うことになると思う。

私が韓国人で仲良くなった人間には言っていることがある。
それは韓国人いや朝鮮民族が大嫌いだったこと、こいつら消えてなくなってしまえぐらいに思っていたということだ。こういう話をすると一瞬ぎょっとするが、しかしその後怒りをばねにかえて「お前らのおかげでボクシングが強くなった」と言うとどっと笑うのだが、わたしにとって過去の話は昔の話はっきり言って笑える話だ。
人間は笑っていてもそれがすぐに怒りや憎しみに感情がかわることはたやすいことだ。
しかし怒りや憎しみの感情を笑いにかえていくことは困難なことだ。
たぶんそういった怒りや悲しみの中に自分が立ちどまって、ただ同情してくれる人間だけを求めたとしても何もかわらない、怒りや憎しみは怒りや憎しみのままである。
しかし外の世界に出て行っていろいろなことを経験することで見えてくるものがたくさんある。
いろいろな人間と話そこでいろいろな経験をすればいかに自分の考えていることが小さいことかということがわかる、俺はマイノリティだなんて思っていたが、しかしマイノリティなんてたくさんいるし、ボクシングというスポーツはむしろそういうマイノリティが生き生きと競技している、こりゃ笑わなくちゃしかたがないと思えるほど自分の生き方や世界が小さかったということがわかるのだが、自分があったいやなことや怒りを肯定して生きていたら、とんでもない了見のせまい人間になっていたかと思う。
私が英語を話せ、いろいろな人間と出会って話をして自分の世界を広げろと言うのはそういう経験を通して人間はキャパを広げていく必要があると思うからだ。
人間には否定できない事実がある。否定できないから受け入れていくしかない、だからそのためキャパをひろげていかなくてはならない。



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悪口が国語

2014-06-02 | Weblog
「悪口が国語」
先週靖国の落書きについて、あれはハングルではないということから落書きをしたのは韓国人とは言えないと言うことを書いた。
そうしたらある人がじゃあ絵馬はどうなるんですかと聞くので、見たらこれはきちんとしたハングルで書かれた文だ。
特に日本沈没と言うのはよくつかわれるフレーズで、この絵馬に関しては99%彼ら彼女らがやったと言える。
しかし私が指摘したのは問題になった落書きのことで、それに関してメディアは落書きを犬畜生と病気を表す言葉だと言っていたが、しかし子音だけの文字やケとセだけ書いているだけでケセッキと書いてあると決めつけるのは短絡的すぎる、たぶん韓国人ならケとセだけ書いてあったら犬と鳥と解釈するだろう。また病気なんていう言葉はどこに書いているのだろうか、もしPの音を表すピウムが書かれていたのでピョン(病気)と書かれてあったとするならば、それは日本語の「い」という言葉が書かれてあったので犬畜生と書いてあったというのと同じ、それに韓国人だったら悪口をもっとうまく書く、もともと辱と言う悪口をつくる言葉遊び的な文化があって悪口が国語の国であるから書くとしたらもっと完璧な悪口を書くだろう。
悪口を自慢する気はさらさらないが、私なら21ウエ○ムとか18セ○キ、イルボンビ○ニセ○キ(絶対使っちゃだめだよ)と書くが、たぶんこの件に関してのみ韓国人が書いたとは言いがたいと思っている。

ただ絵馬のことも含めて、向こうは悪口が文化だそういう悪口が国語になっているのだから民度がひくいといわれてもしかたがない。
いくら戦争のうらみとは言っても日本人の文化を冒涜するようなことをするのは絶対にやってはいけないことだと思うし、こういうことが世界にむけて発信されるとなんと民度がひくい民族なんだと逆に自分たちをおとしめることになる、ただそれでも10年前や20年前に比べたらかなりよくなってきたほうだ、マナーもよくなったし、こういうことをしてはいけないというルールも外国に行くようになってだいぶ比較できてきているし、まだまだ日本人に比べたら足りないところはあるが、しかしそれでも私などは昔と比べてよくなってきていると考えている。

「1対10000の関係」
私の知り合いにアラビア系のハーフのアメリカ人がいる。
彼女は父親がアラビア人で母親がアメリカ人だと言っていたが、こういうハーフの家族関係は子供が一方の母国語でやりとりするので、当然彼女はアラビア語も英語も話せる、さらにおもしろいのはおやじがムスリムで母親がキリスト教徒だと言っていたが、むこうではこういうユニークな家庭が少なくはないだから個性の強い人間が多い。言葉を話すということは個性的であるといってもいい、なぜなら考え方が一つではなく言葉を話すごとに広がっていくからで、個性は人との比較や客観的に見てそれがそうだといえるから個性であって、ただ目立つことだけが個性だと思っている奴がいるが個性というのはそういうことではない。
私があほだと思う奴は目立ったり、さからったりすることが個性だと思っている奴たぶん人と比較したり客観的に物事を考えることができる能力がない、だからしょうむないことで目立ったりさからったりすることでしか自分を表現できないのだろう、こういうタイプはスポーツしかできない奴に多く見られるが目立つことが個性なのは南米の鳥と同じ、よく成人式でサルのような奴らが奇抜な格好で思いっきり目立とうとしているが、しかし個性というのは自分たちの狭い世界で目立ったりさからうことではない、それは1対1000あるいは1対10000の関係から見えてくることであって、君は1対10000の関係においてもそう言えることができるのかといわれた時にそうだと言えることが本当の個性であると思っている。
そう考えるとたいていの人間の目立とうとしていることは個性ではない、強がりで俺はそういえると言ってもしっかりとした考え方を持たなければそう言い切ることはできない、個性というのは持って生まれたものであるけれども、しかしそれをだしていくには非常にむずかしいことだ。








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