脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

教養としての宗教学

2011-03-30 | Weblog
ここオリーヴには外国語を話せたり、国際的なものに関心のある人は少なくはない。
先日も国際コミニケーション学科を卒業した人若い人と話をしたのだが、彼女いわく私の話はおもしろく、ためになるそうで、そう言われるとたいへんうれしく思う。
ここ最近というか何年か前から、英語を勉強する人が増えてきている。
ここは企業人が多いのだが、その人たちに話を聞くとたいていの会社では英検やTofulなどを受けることを義務付けているそうで、その人も今年英語の検定を受けるそうである。
そう言えば最近プチ留学なんていう留学もあって、ほとんどの人が外国に行って何かを学ぼうとする時代で、よくグローバルという言葉が使われるが、実際日本人は外国に目をむけていることが分かる。
しかし私が思うにこの国際社会で日本人が外国人を知るためには根本的に足りないものがある。
それは何かと言うと宗教を知るということで、特にバイブルを読むと言うことである。
まあ読むと言ってもそれは教養として読めばいいことである。教理や手引きみたいなものをなしに、ただ読んでいるだけならば布教されることはまずないので、安心して読めばいいと思うが、しかしこのバイブルの世界を知ると言うことは外国人の考え方を深く知ると行っても過言ではないのだ。
私は英字新聞をとっているのだが、記事自体を見ても宗教的な記事が多く、面白かったのは先日呼んだ記事で神のジェンダーについて書かれてあった。
それはバイブルで神を表現する時「彼」にするのかしないのか、しかし「彼」神は完全に男としてみなされるので、それは性差別につながるということを真面目に大議論している。
我々から見たら理解できないことであるが、しかし我々にしてみたらどうでもいい議論でも彼ら彼女らにしてみたら重要なことで、これが彼ら彼女らにとっては重要なことなのだ。
まあ実際英語の記事なんかを見たらバイブルの引用がたくさんあるし、彼ら彼女らのスピーチなどでもその言葉を分からなくては真意が伝わらないことが多く日本人は訳す時にそこをあえて訳さないことが多いのだが、彼ら彼女らの日常は常にバイブルと関わっていると言っても過言ではないのだ。
少し前うちのスタッフが恋愛の相談をしてきた。相談と言っても若い人たちにありがちなあれかこれかの選択で、私はこういう話が苦手でなんとか切り抜けたいと思っていたのだが、すると彼女はこういうことを言ってきた。
「まわりはいろいろな人と付き合って決めればいいと言うけど、自分はそういうテンポラリーな恋愛はできない。私が求めるのはエターナル(フォーエヴァー)な恋愛で、そういう人にならすべてをゆるしてもいい」と。
それに対して私はこう切り返したのだが、この意味わかるだろうか?
「エターナルラヴ?そりゃ不可能だ、持っているのは彼(HE)だけだよ。」
まあうちのスタッフはそんな冗談は言わないでくれと言っていたのだが、この意味は宗教と言うものを勉強し理解していなければ分からない。宗教なんてばかげていると思うが、しかしこれが彼ら彼女らの世界観である。
彼ら彼女らの歴史はキリスト教とともに発展してきたのだが、その歴史においてキリスト教徒以外は異邦人とみなし、人間扱いしてこなかったことも事実である。
そう考えればヒラリーは敬虔なキリスト教徒であるらしいが、彼ら彼女らの人類愛と言う視点から見れば我々は同じ人間であるのだが、しかしある意味我々日本人はキリスト教徒である彼ら彼女らから見れば異教徒であり、未だ何を考えているのかわからない、信用に足らない民族なのである。
しかしもしわれわれが相手を知り、この壁を乗り越えることができたならば、ひょっとしたら外交も多少は有利に持っていくことができるかもと考える。
たぶん我々は彼ら彼女らの世界観を理解しついて行ってはいないだろう。
ある大学で教鞭をとっている外国人の先生が、外国語学科の生徒にはバイブルを勉強させる必要があると言っていたが、これには私も同感だ、信教の自由と言うものがあるが、しかしそういうことではなく教養として、知識として外国人をよりよく知るためには不可欠なことであると思っている。
宗教を学ぶと言うことは大事なことだ、おそらくこういうことを知るのと知らないのでは、国際交流をしていく上では大きな違いがあると思う。

私は向こうで結婚式や葬式などのセレモニーに出たが、確かにこう言った場においてもその宗教観の違いがわかって、かなり勉強になったと思う。




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ある記事で感じたこと

2011-03-28 | Weblog
先日会員の方から日経新聞の記事をいただいた。
その記事の内容はサッカーの三浦和良選手が、震災に合われた人たちに向けてのメッセージであったが、生きるための明るさをという題で次のような文である。

「このたびの大震災の被災者の方々に、心からお見舞いを申し上げます。被害に遭われた方々ににとって、この2週間が、その1分1秒が、どんなものだったかを思うと、本当におかけする言葉も見つからない。生きているとはどういうことなのだろう、サッカーをする意味とは何なのだろう。見つめなおさずにはいられなかった日々の中、思わず頭をよぎったのは「今の俺価値がないよな」。試合がなくなり見に来る観客がいなければ、僕の存在価値もない。プロにとってお客さんがいかに大切か改めて学んでいる。サッカーをやっている場合じゃないよなと思う。震災の悲惨な現実を目の前にすると、サッカーがなくてもいいものに見える。医者に食糧、必要なものから優先順位をつけていけば、スポーツは一番いらなくなりそうだ。でも僕はサッカーが娯楽を越えた存在だと信じる。人間が成長する過程で、勉強と同じぐらい大事なものが学べる、「あったほうがいいものだと」未曾有の悲劇からまだ日は浅く、被災された方々は余裕のある日々を送っていない。水も食べるものもなく、家が流され、大切な人を失った心の痛みはとても癒されはしない。そうした人々にサッカーで力を与えるとは思えない。むしろ逆だ。身を削って必死に生きる方々、命をかけて仕事にあたるみなさんから、僕らが勇気をもらっているのだから。
サッカー人として何ができるだろう。サッカーを通じて人々を集め、協力の輪を広げ、「何か力になりたい」という祈りを支援金の形で届け、1日も早い復興の手伝いをしたい。そこに29日の日本代表との慈善試合の意味があると思う。言える立場ではないけれども、いま大事なのは、これから生きていくことだ。悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えて来たのが僕たち人間の歴史のはずだ。とても明るく生きていける状況じゃない。でも、何か明るい材料がなければ生きて行けない。暗さではなく明るさを。29日、Jリーグ選抜の僕らはみなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う。」

私はこの文を読んで感銘を受けたが、こういう時こそ、その人がどういうコメントをするかによって、本当にその人が常日頃から社会と言うものを意識して生きているかいないかということがわかるのだが、まさにこの三浦選手のメッセージは、単にサッカー選手としてだけではなく、この社会とのかかわりの中でサッカー選手としてどう生きるかと言うことをしっかりととらえたコメントである。
よく勇気を与えるとか力を与えると言うことを言うが、しかしこの世の中に対して無知であるならばその言葉はむなしく、かえって無神経のように聞こえる。
新聞や本を読まないと言うことは社会に関心がないと思うのだが、そういう人間が単純な言葉を並びたてて表現してもかえってむなしいだけであり、私自身クラブの責任者としてむしろそういう人間であってはいけないと考えている。
スポーツと言うのは娯楽で三浦選手のようにその娯楽とは、別に勉強と同じぐらい大切なことが学べると私自身も信じている。
しかしそれは三浦選手のように世の中のことをよく理解しようとし、そのかかわりの中で、自分たちが生きていると言うことを実感してはじめて自分たちがなぜスポーツをやっているのかということを深く理解できるのであろう。
いささか辛辣になるが、私はこういう何かを教える人と言うのは知性を磨かなくてはならないと思う。少なくとも本や新聞を読み学び世の中の情報をもたなくては、人間の育成なんていうことはほど遠いであろう。
まだ多少スポーツの世界は単純である。言葉自体も単純な言葉が飛び交い、時々間違った言葉や表現などが当たり前のように使われていることに気づくのだが、おそらく聞いていて単純で無神経なことしか言えないと言うのは、多少なりともそういう土壌があるからだと思う。
少し前専門学校のパンフレットみたいなものに私の経歴を乗せてもらった時に、嫌いな言葉と言うのがあって、一言「仲間」ということを書いたのだが、前から言っているがこういう公的な求められるフィールドでは、同じ価値観を持った仲間や軍団と言うのは大きな弊害であるが、指導者が無知だとその群れは軍団か仲間なのである。
今もう仲間をつくる時代ではない。私は思うが協力することと仲間や軍団をつくることとは違う。
しかし指導者が何も学ばなかったら、単純な言葉や考え方に広がりが持てないので、いわゆるたんなる情だけで仲良しな人間が集まるので、同じような人間しか集まらない、それが仲間と言われるもので、そこでは腐れ縁はできるが人間的な成長はないのだ。
三浦選手は単独でブラジルに行ってそこで、プロになって成功した。所謂海外組の草分け的存在でもあるが、おそらく外国に一人で行って何かをしようとしたことは彼にとってすべてのことが学びであり、このことが彼の人生観の土台になっていると信じている。
この三浦選手の記事を見て、自分たちはもっとこの世の中のことを感じなくてはならないと思わされるし、もっと知らなくてはならないだろう。
私は思うボクシングクラブは仲間の集まりではないし、また軍団でもない、ひとりひとりが独立した存在であるが、しかし権利を尊重し時には助け合うことができる集団を形成していかなくてはならないと思っている。











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見れなかった桜 2

2011-03-24 | Weblog
実は彼女にはひとつこころ残りがある。それは桜が見たいと言っていたのだがその桜が見れなかったことである。
桜が見たいから高知城に連れて行ってくれと言われていたので、今週末には行くかということだったのだが、せめてあと2週間滞在で来たら桜も見れただろう。
よく外国人に日本に来て何がしたいかというと桜が見たいと言う。
人によってはいつ頃咲くかと言う情報を聞いて、その時期にあわせてくる人もいるが日本の桜は外国人から見れば実にあざやかで美しい花で、ああいうタイプの花はまず外国にはないと思っている。
よく外国人は日本人を曖昧だと言うが、しかしこの桜もいつ咲くのかわからない、季節も寒いのか暖かいのか分からない時期に咲き始めるのであるが、そう考えるとかなり曖昧な花である。
しかし桜はその曖昧であるからこそ美しいとも言える。
チューリップやダリヤなどの色鮮やかな美しさこそないが、しかし彼らはその曖昧さの中でしっかりとした存在感のある花で、それは日本人の言う曖昧さの中にある謙遜さということを表している。
よく外国人は日本人は曖昧だと言うが、しかしその曖昧さは人を傷つけたくないという気持ちの表れで、ある意味我々の持つ文化でもあるが、まさに桜と言うのは我々日本人の心を象徴している。

アリン去って、部屋にレポートがのこされていた。それは半年間の様子をまとめてその局にだすはずであったレポートであるが、そこにはこう書かれてあった。
「日本に来て半年間の中で一番楽しかったことは何か?」
「日本に来て一番楽しかったことはひとつもない。なぜなら毎日が楽しかった」
今震災によってたくさんの命が失われていった。それらのすべては生きたいのに生きれなかったという命であり、それらは悔やんでも悔やみきれない尊い命である。
私は神戸と東北の大地震を見ているが、そのことを通して思わされることは、人間の命のはかなさと、そして今ここに自分がいるのは生きていると言うよりも生かされているということであり、われわれはその生かされている人生を一生懸命生きなくてはならないということである。
「毎日が楽しかった」それは彼女がこの日本で自分なりに精一杯生きたあかしであると思う。
毎日が楽しかったからこそ、別れがつらく、なごり惜しい、しかしそういう経験を経て彼女らの年代は強くたくましくなっていくのだろう。
今回この大地震を経験して、子供たちはいろいろなことを感じた。
災害のこわさ、人間の命のはかなさ、そしてそのことによってひきはなされていくと言ってもいい別れのつらさ。
どういうわけかあれからうちの子供は地震に興味を持ち、いろいろなことを調べボランティアにも積極的に関心を持っている。
地震のことをもっと学びたいと言っていたが、たぶんそれはこういう経験を通して自分が何か役に立ちたいと言う気持ちになったんだと思っている。
アリンが去った日、高知は珍しく雪が降っていた。今日彼女がかえると言うことを知っていた会員が、あっ雪が降っていますよ。まさに彼女がかえった後のなごり雪ですねと言っていたが、パリっ子らしい粋な別れであった。
韓国語で素敵だと言う言葉はモシッソヨと言ってそれは直訳すれば、粋があると言う言葉だが、まさにそれは粋のある帰国であった。
たぶん次会えるのは夏だろうか。9月には彼女は16歳で高校3年生になるらしい。

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見れなかった桜 1

2011-03-22 | Weblog
3月13日の夕方、それは突然起こった。
東北宮城県で起こった大地震は今までの最大級の地震で、大きな被害を及ぼし未だに行方不明者や死者の数が増えつつある。
当たり前だがこの被災された人たちの痛みには比べることができないが、しかしここにも一つの傷跡を残して言った。
フランス政府が日本の状況を見て、在日フランス人をこのまま日本にいてはあぶないと考えたのだろうか、うちの留学生もしかり本国から呼び寄せ帰国させたのである。
それは突然過ぎた、いきなり電話がかかってきて2日後の12時のパリ生きの飛行機に乗せるから、最終の便で大阪に遅れと言うのだが、しかしそれはあまりにも突然すぎる。第一彼女がそのことを受け入れることができるはずはない、だからせめていとまごいする時間をくれと、夜行バスで大阪に行くようにしてもらったのだが、しかしその時間まではたいへん切ない時間であった。
実際その日の10時半まで一緒に過ごす時間があったので、彼女の好きな夕食をとり、その貴重な時間を我々は楽しもうとした。
しかしその時の私の息子の態度がよそよそしい、もうかえらなくてはならないのにゲームで遊んだり、写真をとろうとしても写真を撮るのをいやがったりと、あまりにも状況がわかっていないので「おまえいい加減にしろ」と戒めてしまったのだが、しかし私は彼がなぜああいう態度をとっていたか、そして彼の本心をその夜知ることになる。
その夜いつものように彼が寝静まったか様子を見に行くと、彼の様子がおかしい、その時すすり泣く声が聞こえて来たのだが、たぶん彼女の前で泣きたくなかったから、あえてああいう態度をとっていたのだろう、たぶんそのことに気づかなかったのは私だけで母親とアリンは彼の性格を十分に理解していたと思う。
よくまわりの人が二人がいっしょに歩いているとあの二人は姉弟のようだと言ったが、おそらくこの二人の間には我々の思いを越えた絆でつながっていたのだろう。「姉弟のようだ」という言葉がそれを物語っている。
思えばなつかしい、最初はお互いにいがみあい、警戒しあっていたのだが、しかし子供と言うのは不思議なものだ、同じ場所に住み、同じ生活をしていると情のようなものがわいてくるのだろうか、次第に二人の距離は近くなり、最近では二人仲良く遊んでいる姿がよくみられ、フランスの国技といってもいいサッカーを教えてくれたのは実は彼女で、今でも時々息子はサッカーボールで一人遊んでいる。
実は彼女はここに戻ってくるので、思い出のものを置いていっている。というか自分の痕跡をここにのこそうとしている。
帰った後部屋を見たら、結構大事なものが置かれてあったのだが、カベにはられた自分の写真やかいた絵がそうだ。本当にここがよかったんだなあとうれしかったのだが、特におさるさんの人形は3歳の時から持っている彼女のお守りのようなもので、彼女はわざわざそれをフランスから持ってきたということはいかにそれが大事なものかと言うことが分かる。
彼女とはそれからもSKYPEで連絡を取っているのだが、帰ってきてすぐに話した時、息子にこう言っていた。
「Eutoおさるさんの人形ある。あれあなたにあげる」息子は「うんありがたいけど.....」と遠慮しながら「うん」とうなずくのだが、たぶん大事なものと分かっていたんだろう、後に私があれ3歳の時から大事にしているんじゃないのかと言うと、彼女は本当に自分が大事にしているから彼にあげるんだと言うのだが、たぶんこのおさるさんの人形は彼の一緒の思い出となるだろう。

私は民族の壁を乗り越えるために大切なことが3つあると思っている。
一つは言葉、そして相手を知ろうとするために文化や習慣を知ろうとする知識、そして情である。
日本人は時々情だけで相手を知ろうとするが、しかしただ情でつながるだけではその関係は長くは続かない。
本当にお互いを理解し合い、大切にしたかったらまず言葉をおぼえ、相手を知ろうとする事が大事で、主張して時にはぶつかることも大切であり、そしてその関係をつなげるのが情ではないかと思っている。

彼女が去って、彼は間違いなく成長した。
クラスでひとりだけ100点をとったり、クラスで何かの最優秀賞に選ばれたそうだが、彼は彼なりにその寂しさと言うか悲しさを乗り越えるために一生懸命がんばっている姿が見られる。
人と人との出会いと言うのもそうだが、まさにこの別れと言うのも人を成長させる出来事だ。人間は出会えば必ず別れが来る、しかしこの別れというのは人間を成長させると言うことを、私は子供を通して実感した。









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お知らせ

2011-03-13 | Weblog
3月11日宮城県北部大地震が発生しました。
私自身外国からの電話でまずそのことを知ったのですが、宮城県またその周辺の地域が多大な被害をうけたことにたいして遺憾に思い、またそのことを重大にうけとめています。
このブログは多くの閲覧者があり、多い時で400ぐらいの人たちが閲覧してくれて本当に感謝しています。
しかし今回こういったことが起こりましたので、ブログは今週いっぱい自粛させていただきたいと思っています。正直なところその400人の閲覧者の中にひょっとしてあるいは東北の人がいて、今被害にあっているのではないかと考えた時に、優雅にブログなどを書いている時ではない、少なくともブログと言うのは自分の主義主張のあらわれでもありますので、こういう時にブログなんてという思いがあって自粛することにしました。
震災の被害にあわれた方々をおぼえ、心からお見舞い申し上げます。一刻もはやく心の傷がいやされ生活が回復されることを願っています。
尚できるだけMTオリーヴとして義援金などを送りたいと思っています。今週いっぱい日記は更新しますが、ブログは自粛させていただきます。

                         



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ソンムル

2011-03-11 | Weblog
前回紹介した「加速スキャンダル」という映画好評であった。
ある会員が「レンタルでかりて見ましたよ。すごくよかったです。」と言っていた。
特に私が言った決勝戦でジョインが歌う「GIFT」という歌は感動したらしく、彼曰く「あの歌非常によかったですよ。聞き入ってしまいますね」と言っていたが、絶対いいからお勧めである。
この映画のテーマはおそらく彼ら彼女らの世界での情(ジョン)である。
ジョインという名前は、おそらく漢字で書くと「情人」と書くのであろう。この映画は親子そして孫への情と言うものを現代風ではあるが、かたちをかえてわれわれに伝えている。
最近時代がかわり、ソウルは国際化、そして近代化されてきて、若い人たちの話などを聞いていても、情というものが感じられない、わりとあっさりしていると感じるが、しかしそういう情は親子そして家族と言うものの中にしっかりと生きている。
ある映画で家族愛を語った時に、夫婦と言うのは最初は愛することだが、しかしそのことが次第につかれはじめそして、愛(サラン)が情(ジョン)になりその情が家族をつなげると言っていたが、むこうでは時に情は愛よりも深いことがあって、こういう感情と言うか情緒は東洋人であるからわかるわけで、私などはどことなくこの映画を見ていて、自分の持っている民族感情がわきでてきたのだが、そういう彼ら彼女らの哲学が表現されている映画である。
実は最近韓流ドラマや映画を見るようになったのは、ストーリーがおもしろくなったからだけではない、自分がわかるからだ。
なぜ彼らがこういうことを言うのか、するのかということがよくわかるからで、日本人からみたら少しおかしい行為も私が日常的にやっていることで、表現はおかしいが映画やドラマを見ているともうひとりの自分に出会えるからである。

私自身民族的には半分だし、いろいろな文化に触れているので、少し考え方が違うし、人との違いを感じることが度々ある。
ブログでそういうことを表現しているからだろうか、オリーヴは語学に堪能な人が多く、高知のどこから集まってくるのか、はたして最近はそういうスキルを持った人が増えているのだろうか、留学経験があったり、向こうでの生活が長い人、あるいは出張などで海外に行く人たちなど国際色が豊かになってきた。
個人的な意見であるが、そういう経験をした人の話はおもしろくあきない。
おもしろいと言ってもくだらない内輪の話や下品な話題でおもしろいのではなく、ためになる面白さで、そういう話を聞けると言うことは大いに刺激になる。
私はもう何度も何度も言っているが、語学というのはこれからのスポーツ界には不可欠である。
世の中が英語を不可欠としているように、このスポーツ界も英語や他の語学が必要であり、正直最低限英語が多少なりとも読めなくては厳しいとさえ思われる。
この高知でさえも外国人が増えて来ているし、小学校でも英語教育が重要視されつつある中、スポーツをやっている人間が興味がないとか、必要ないと言うのは愚かな発言である。
大阪に行くと必ずそこに立ち寄る本屋があるのだが、その本屋でボクシングの教本みたいなものを見ていた。その本屋は最近できた本屋で専門書などがたくさん置いてあって、そこで何冊かの教本を見ていたのだが、正直単純すぎておもしろくなかった。
内容も絵とか写真ばかりで、語彙も少なく表現も単純なのであれぐらいなら小学1年生でも読めるだろう。
たぶん捜せばもう少し難しく表現している教本もあると思うのだが、それにしても単純である。
分かりやすく伝えようとしているのは分かるのだが、しかしそれでももう少し表現や語彙を豊かにして、時にはもう少し専門的なことを語ってもいいのではないかと思う。
またその横にはボクサーと言われる人たちの自伝と言うか自慢話がおかれてあったが、それらもザーッと読んだだけだが、刺激させることやあおることばかりで、これだと勉強嫌いの人間が集まるのは当たり前で、こういう世界にどっぷりつかったら、やはり生きていく上でバランスと言うものをかいてしまうであろう。

スポーツと言うのは今やいろいろな見方をしなければいけない。特に最近ではスポーツ科学と言う学問が出て来ているが、そういう学問を学ぶと言うことはこれからのスポーツを発展させていく上では大事なことであり、そのために英語と言う語学が必要である。ボクシングにしてもスポーツ科学にしても英語を読めるだけでもその情報量は1000倍は違う。
確かに英語が読めても重要なことがらをピックアップしていく能力が必要であるが、しかしまずそういう文献が読めなくては話にならないだろう。とにかく情報を集めたり、考え方に広がりをもたせるためには語学が必要で、英語を習得した人間とそうでない人間の学習の差はことがらが専門的であるほど大きく、特にダイエットなんて言うのは英語で情報をピックアップする必要があるのだ。
しかし我々は完璧な専門家ではない。
だからある意味それを徹底させる必要もないということである。
例えばダイエットで筋トレで筋肉をつくって、基礎代謝をあげてやせていくというダイエット法が最近の主流であるそうだが、しかしそれでもやせないという人がいたとしよう。これを専門家であれば筋トレに何かが原因があると考えて、その線で考えて適切なアドヴァイスをする。しかし意外とこれが体が硬いからとかそういうことに原因があって、実際柔軟をじっくり教えたらよいといこともあるのだが、しかし学問の専門家はそれ以外では考えようとしない。
まあこれは少しはっきりとした例だが、言いたいことは我々は学者や学問の専門家ではないので、原因をあらゆる方向から見て知恵を拝借することができる。その知恵を拝借するために語学が必要であるのだ。

個人的な意見だが、これからは英語的に物事を考えられるかということで大きな違いがでてくる。
この多様化された時代、英語と言うものを学びある程度身につけなければ、ものの考え方のセンスに違いが出てくると思うし、まず流れについていくことができない、もうやらなくてはならないという時代に確実に立たされている。










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韓流ドラマに見る感情のコントロール

2011-03-09 | Weblog
「スキャンダル良妻賢母」と言うドラマがある。
最近DVDをかりて見ているのだが、意外とこれがおもしろい。
韓流ドラマや映画は昔は低予算で学芸会に毛が生えたようなものばかりでおもしろくないというイメージがあったが、しかし今はかなりお金をかけ、俳優や女優の質などもあがって面白くなってきているのでおどろいたのだが、たぶんこれぐらいやればブームになってもおかしくないと思うが、特にコメディはお勧めで、時々日本人からみて時々文化そのものが、コメディじゃねえのかと思うこともあるが、とにかくギャグと言うかジョークのセンスは日本人よりも間違いなく上だと思っている。
さてこのスキャンダルと言うドラマであるが、これは4人の女性と生き方を描いたドラマで、主人公のグッキと言う女性が、子育てや夫との関係などに悩み、最終的には夫との関係を切り捨てて自分の人生を切り開いていくという物語である。
この物語に主人公とその夫との関係がぎくしゃくして、ついにはその夫ヨンピルが浮気に走ってしまい、その浮気をといただされ彼が開き直った時に言うセリフがある。
それは自分は彼女といるといらいらしてうまくいかない、そして浮気に走った最大理由は彼女が抽選でマイホームが買えなかったことを悔み、そこから自分の人生はおかしくなったというのだが、自分の人生が家をかえなかった時から、かわったというのである。
日本人から見れば何をそそんなことでと思うかもしれないが、しかし何しろ家を大切に考えるお国柄、家を買うと言うことはその人のステータスや家長としての責任を果たす上では重要なことがらである。
朝鮮語で家のことをチプと言うが、彼女のセリフにはよくチプとかチビという言葉がしばしば出てくるのだが、このことからも彼女らが常日頃から家と言うものを意識していることがわかると思う。
さらにこれは半ば都市伝説的なことであるが、うちの親戚のおじさんと家の話になったことがあるのだが、彼がマイホームを持つと言うことは、いかに難しいかと説明する時に、辞書で成功者をひいたらまず最初に家を持っている人と出てくるなどと言うことを言っていたのだが、しかしこれはでたらめにせよ都会でマイホームを持つことがあこがれであり、いかに難しいかと言うことを物語っているのではないだろうか。

向こうのドラマと日本のドラマを比べて決定的に違うなあと思うことは、悩み方である。
悩み方と言っても喜怒哀楽を表しやすい民族なので、そこだけでも日本人とは感覚がかなり違うのだが、日本では主人公などが悩んでいたら友達とか相談相手がいてそういう存在の役割が大きいのだが、しかし彼ら彼女らは徹底的に悩み、時には病んでしまうのではと思うぐらい悩み続け、また捲土重来のごとく立ちあがってくるのであるのだが、これは彼ら彼女らは非常に感情のコントロールの仕方がうまいからだと思っている。
そりゃあ喜怒哀楽が激しいので日本人から見れば、いささか感情的のように思えるかもしれないが、しかしそれらは彼ら彼女らのモードのようなもので、そのことでうまく自分たちの特に負の感情と言うものを、ハンプリなどにも見られるようにうまく吐き出すことでコントロールしているようにさえ思えるのである。

まあ私の付き合いだけではかるものなんだが、向こうの人間はストレスが感じられない。明るい人間が多い。
しかし時にはすごく暗い歌をたっぷり感情を込めて歌ったり、悲しすぎる映画を見て涙する。ドラマなどでも恋人がルキミアなんていうようなしらじらしい設定をしていて、もう泣かせてやろうというのが見え見えであるが、こういう姿はまさしくその負の感情をうまくコントロールしている姿である。
よく欧米人がコレアンは米国的だと言う人がいるのだが、おそらくこれは欧米人が言葉で自分の思いをはっきり伝えるのにたいして彼ら彼女らは感情や態度ではっきりと伝えるからであろう。

人間は必ず悩みをかかえている。しかしいささかニヒリズム的ではあるが、究極的にはその悩みを本当の意味で人とは共有することはできない、人間なんて人のことよりもむしろ自分の虫歯のいたみをおさえることのほうが大事で、中途半端に人にわかってもらおうとするから悩み続けるかもしれない。
しかし悩むから人間で、少し無責任な発言かもしれないが、人間悩みぬいた先には絶望はない、なぜなら雨が降った後には晴れるように特別な場合をのぞいては必ず解決策があると思っている。
特に若いうちは悩むことをおそれていては成長しない、悩むことをおそれて人と同じことをしたり、群れたりするがしかし若いうちは、特にそういう悩みを希望に変えていく力があるのだから大いに悩めばいいと思っている。
主人公のグッキは夫の不倫、子育てそしてついには離婚へと発展し、悩みに悩み続ける。ドラマの中には幾度となく彼女が感情を吐き出す部分があるのだが、けれどもその悩みつづけた結果彼女の新しい生き方を見いだすのである。
私は思う人間は悩むことが必要だ、しかしその悩みには開き直ることが必要であり、その開き直りと言うか、切り替えはその感情のコントロールがうまくできないとうまく悩めないのではないかと思っている。
そういう意味で言うと日本人は悩み方がへただ。しかしむこうの人間はこの感情のコントロールが上手で、悩みを力に変えている。
私は研究していないのでわからないが、たぶんこういうことは気の学問に関係しているのであると思うのだが、彼らの哲学的な思想をもう少し詳しくしらべて心理学に役立てることも可能ではないかと思っている。

あと彼ら彼女らの思想の中に情(ジョン)という考え方があるが、これは「加速スキャンダル」という映画によく表れている。
都市化が進み、国際化されつつある現代のソウル、人々の生活や文化がかわりつつあるが、しかしかわらない彼ら彼女らの感情がその近代化する都市を舞台に表現されている心あたたまるストーリーである。
特に決勝戦の舞台でジョインが歌うGift(ソンムル)という歌は感動的で涙を誘う。

http://www.youtube.com/watch?v=EdplT2zIegI&feature=rec-LGOUT-e
here come to Park boo young Gift

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アヤッ あいたた Ouch!

2011-03-07 | Weblog
最近暖かくなって何人かの人がまた久しぶりに練習を再開、ある人は忙しい中でもここをおぼえて下さって、とてもうれしい次第である。たいていの人は来なかった間に新しい人たちが増えているので、少しこなかったらだいぶ様子がかわったなあと言っていたのだが、しかしどれだけ休んでいても気軽に再開できるのが、うちのよさだと思っている。
ボクシングはおもしろい。私がおもに経験したのは外国でのボクシングであるが、むこうにはくだらないヒエラルキーもメンツもなくそれなりに楽しかった、がしかし強豪と言われる人間が多く、今日はその私が経験した中でもいたかった試合やスパーを3つ紹介したい。

「スイッチしてくるメキシカンらしき男」
メキシカンスタイルなのか、変則型というのだろうかわからないが、スイッチしてくる奴がいた。
生意気にひげなんかはやして、いかにも映画に出てくるわるいメキシコ人のような風貌、ひげなんかはやしていたら、日本のアマチュアでは失格であるが、しかしこいつが意外に強いと言うかパンチ力はかなり強かった。
今ではもうスイッチしてくる人間なんてたくさんいるのだが、しかし当時の日本ではあまりそういう選手はいなくて、ここに来てはじめて体験したのであるが、かなりとまどった。
一般的にスイッチと言うのは、フックやアッパーなどのパンチはストレートと違って、反対のかまえでも強く打てるので、接近戦に持ち込む時に使うそうだが、メキシカンと言うかその選手のスイッチする時に同時にうってくるフックがえげつなかった。
タイミングがいいんだろうか、もともともっているばねが違うのだろうか、その出会いがしらにくるフックは強烈でおまけに死角から入ってくるのでよけにくく、そのあとたたみかけるようにフックアッパーと連続でくるのだが、あの連続技はかなり厳しく痛かった。
幸い相手が単純で同じ攻撃の繰り返しなので、2ラウンドから巻き返して、判定勝ちであったが、終わったらかなり腫れあがり別人のようになっていた。
その次の日はラジオ局に出演したのだが、そのラジオ局でまわりからじろじろみられてかなりはずかしかった。
極めつけは帰りにダンキンドーナッツでコーヒーをのんでかえったのだが、店員のアジア系の女性が、明らかに自分の顔を見て警戒していた。
気まずいので「野球のボールがあたって」みたいなことを言ったのだが、店員に「野球のボールじゃそこまでならないわよ」と言われ、さらに気まずい思いをして隅っこで犯罪者のようにコーヒーをちびちびすする。

「ゴールデングラブベスト4だか8」
彼はすごすぎた。はじめてこりゃああかんわと思ってしまった。
ブザーが開始と同時に、ピシ、バン、ドスンで一瞬目の前が暗くなった。
むこうのスパーは本気でうちあわず、あえてたたみかけないのが普通なのだが、しかし80パーセントぐらいの力でこれだけ歴然とした差を見せつけられたらたまったもんじゃない。
特にすごかったのは左のジャブ、彼のジャブははやくて一瞬であるが相手の動きをとめる力がある。時々アメリカの選手で得意技はジャブと書いている選手がいるが、彼らはスナップも東洋人に比べて強く、かなり強いジャブをうてるので、もらいすぎると致命的である。実際彼のジャブを主体にしたコンビネーションは完璧で、スパーリングの時何度もそれを見事にいただいたのだが、そのスパーもいいとこなしのみじめな結果でおわった。
ロッキーのあるシーンで、彼がロシアのボクサーから強烈なパンチをもらった時に奴が3人に見えるといい、セコンドの人間が「真ん中をねらえ」というのがあるが、あのセリフは比喩的なものでもなんでもない、リアルである。

「DQNの世界ランカー」
こいつは別格番外編と言ってもいい。
その前にスパーの手合わせをした奴が「いやあ彼はすごい、軽くアッパーをいれられたけどあごが燃えそうだったよっ」なんて言っていたので、それを聞いた私は「何をおおげさな、俺が一発ぐらいいいのをいれてやる」と意気込んで、自分のレベルを考えずスパーを志願したのだが、しかしこれがとんでもない間違いであった。
あまりにレヴェルが違いすぎるので、相手は左だけと言うことになったのだが、その左のイーッイーッとショッカーのようにうってくるパンチがえげつなく、近くから石をおとされているような感じで、あたるたびに軽い脳しんとうだ。
ラウンドが終わって千鳥足でふらふらとコーナーにかえって来た時に、ジョージが大丈夫かと言っていたが、大丈夫じゃない。見てわかるやろ。しかし自分で志願したのでギブアップできず、結局2ラウンドやるはめに、正直左だけであれだけえげつないパンチをもらったのは初めてで、こういうのをもらうとやはりボクシングは危険であると言うことを考えざるは得ない。
「いたい OUCH アヤッ」とにかく彼らのパンチはいたい、持って生まれた身体能力の違いだろうか、私のスパーの思い出はとにかく痛い思い出であった。








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Dont you see

2011-03-04 | Weblog
最近またスポーツ界の不祥事と言うのが目立ってきている。
この前もある高校が下級生に暴行をはたらいたことをだまって甲子園に出場していたなんていうことが問題になっていたのだが、
おそらく何度も言うようにこういう不祥事はクラブ全体のヒエラルキーと言うものを見直し、教育を義務化しなければこうい不祥事はなくならないだろう。
学生でありながらなぜ勉強もろくにしない奴がでかい顔をするのだろうか?
どこかのクラブは勉強しなくても卒業できると聞いたが、スポーツマンシップがどうのこうの言うのならば、きちんとまともに勉強してまっとうな試験を受けて卒業すべきである。
まあサッカーなどは諸外国との交流が多いせいか、こういうヒエラルキーはメルトダウンしてきていると聞くが、しかし未だにこう不祥事がたぶたびおこるということは、そのスポーツそのものの純粋性を大切にすると言うよりも、まだまだ部や監督のメンツを重んじている傾向が強いのではないかと思っている。

以前知り合いの卓球部の顧問と、これからのスポーツ部について激論になったことがある。
私はひとつひとつ例を挙げて、個性や個人の権利よりも部や監督のメンツを重んじるようなヒエラルキーは即解体すべしだと言ったのだが、それにたいしてじゃあどうしたらいいのかと言うので、「まずあいさつをかえろ、ああいうでかい声で叫べばいいと言うやくざのあいさつはやめるべし」と言ったのだが、そもそもチワーッスなんてバカなあいさつする奴がいるけど、チワーッスというのはでかい声で叫びやすいようにかえられたおかしい言葉で、日本語でもなんでもない。
そういう言葉を使うと言うのは日本語に対する冒涜でもある。
もともとあいさつというのは相手の会話や関係をよくするための潤滑油のようなもので、外国人が「Hi」とか「How are you」とにっこり笑ってあいさつするが、そういうあいさつをされるとすごく心が豊かになってくるような感じで、やくざのようなあいさつを義務化して、できない人間を裁いたり恫喝したりして、統一するよりも、そういうにっこり笑ってあいさつができる場をつくるべきである。
そしてそのためにはまず監督や目上の者が、すすんで下級生やはじめて来た人に、相手があいさつしようがしまいがほほえみかけてあげることが大事で、そういう安心感を与えなくてはならないのではないだろうか。
そしてさらに自分たちで自分たちのルールを決めさせたらいいだろう。何年かごとに改正し、自分たちで決めたルールを自分たちが守っていく責任と言うものを負わす必要もあるだろう。
今の世の中管理ではだめだ、正直ヒエラルキーの強い場ではそれが管理を越えて、支配になっているが、そういうところで本当の個性など育つはずがないと思っている。
犬をつくるようなヒエラルキーの中に入っていくとただ上から言われたことに対して「はいはい」というだけで犬化していくだけだが、しかし自分たちがルールを定めそれを基準にして行動し、レスポンスビリティーを持たせると言うことは、本当の意味でそこが自分たちによって運営されているという実感を持つことができるのではないだろうか。
よくマルチ商法まがいのえげつない言葉で煽っている奴がいるが、しかしそういう行為は教育上許されるべきことではなく、あくまで競技しているのは学生であってそれがすべてではないのだから、その今やった競技が将来的にも大きな意味をもたせるような指導の仕方をしてやらなくてはならないと思う。

たぶんこういうやくざまがいのヒエラルキーはグローバル化が進む中メルトダウンしつつある。
少し前までは礼儀(厳密にはヒエラルキー統一させるための規則である)と言うよくわからない考え方が重宝されたが、しかし多様化する今の社会ではそういう自分たちに都合のいい犬を育てるための礼儀よりも、スポーツを通して自己主張できる人間を育てるというのが21世紀のスポーツ育成ではないかと思っているのだが、やはりそのためには自分たちがどういうコミニュティーを形成していくことかということが問題である。

さらに私はできれば週一度のミーティングというか1分間ほどでいいから、英語で何かを奨励しろ。
ひとつひとつステップを踏んで最終的には英語でミーティングができるようになればいいと言ったが、しかしこのことは大学生や少しレヴェルの高い高校であるならば可能である。

私はよく運動部のことを取り上げるのだが、それにはわけがある。
パワハラが原因でやめた人間の話やえげつない話を数え上げたらきりがないのだが、そういう話を聞いているからで、そういうことに対して委員会か何かを発足させる必要性は十分にあると思っている。

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君らの「自己主張」は「目立ちたがり屋」と書く

2011-03-02 | Weblog
私の友人にヒスパニック系の人がいる。
気が合うのでよく話をするのだが、いつも彼女を見て思うのだが、彼女はヒスパニック系の血が流れているせいか、マライアキャリーに少し似ているというか、マライヤキャリーもどきである。
以前知り合いの大学生がホームステイの時にお世話になったのだが、彼女はソープオペラやコメディが好きで、日本でもレンタルヴィデオやなどでかりて見ているそうである。
この前彼女からこれおもしろいよとすすめられたドラマがある。彼女によればこのドラマは、いくつか自分がひかれていくようなキーワードがあるそうで。とにかく面白くて、時々感動のコメディだから見て見ろと言われたのだが「Glee」というコメディドラマを知っているだろうか。
これは以前は名門であったあるハイスクールのGleeクラブを、OBである教師が立て直していくという物語である。
しかし廃部寸前のクラブの会員募集を募ったのだが、集まってきたのはいじめらっこやおたく、へんな東洋人と言ういわゆる学校のルーザー(負け犬)たちだった。
しかしそのルーザーたちがあつまるクラブを、いろいろな策略を練って見事に立て直していくと言うコメディドラマである。

彼女いわくこのGleeクラブはアメリカを象徴していると言う、このクラブのメンバーを見てもわかるように、人種もそれぞれ違うし、集まってくる人間も自意識過剰で夢見がちな人間、おたく、ゲイのいじめられっことどこからそういう奴が集まってくるのかというぐらい、とびきり個性の強い奴が集まって、それを音楽と言う手段でまとめていくのだが、そういう人種も違い、考え方も違うけれどその個性を認め合ってまとまっていくのが、自分たちの国だというのだ。
まあこの考え方は強ち間違いではない、私もクラブに入った時は最初個性の強い奴ばかりで驚いた。
人種もそれぞれ違うし、考え方も違うし、目標も違う、おまけにここではそれぞれボクシングと言うものに対する優先順位も違うのだが、ある奴なんかはボクシングよりもサーフィンを優先にしていたし、週末は釣りに行くから試合には出ないと言っていた奴もいる。
とにかくみんな個性が強いので、真剣にやればやるほど衝突はまのがれなかったのだが、たぶんこういう中で自分が自己主張や自己表現をしなければ絶対だめだと思わされたのも確かなことである。
たぶんこのGleeというコメディもそうだが、アメリカの映画やドラマを見ていると必ず激しくぶつかり合うシーンがあるのだが、おそらく自己表現や自己主張をし合って、ぶつかり合うということは人種のるつぼと言われ、個性を重んじる国で、お互いを認め合うためには不可欠なことである。
認め合うというのは仲良くしましょうと言うレヴェルではない。
仲良し軍団はだいたい考え方や目標もも同じであるから仲良くなるのだが、しかし認めると言うことは自分とはまったく違うことを認めると言うことであるから、それを認め合うことができるために、特に若いうちは衝突することも大事である。そのために自己表現や自己主張するのである。
しかし自己主張も一方通行ではだめだと思う。よくここ日本でも自己主張と言って自分勝手なことをする若い奴、時には30を越えてもそういうバカな奴がいるが、しかしそれは相手が自分を理解し、自分が相手を理愛する気持ちがなくては、単なるおしつけ目立ちたがり屋で、間違っている。最近個性的な人間が増えたと言われているが、しかしわけのわからんことを言ったり、へんなことをするのが個性ではない、現に個性だと言ってズボンをずらして尻をみせて、同じようなかっこをしている人間がいるが、それは目立ちたがり屋が増えただけで、単に迷惑なだけである。

私がむこうで感じた自己主張は、時には自分勝手もあるが、相手を認めると言う手段である。
あれだけ人種があって、考え方も違う国の人間同士が、自己表現や自己主張することで、自分をわかってもらいまた相手を理解しようとするそういう自己主張で、そういうポジティブな自己主張を時にはぶつかりあうことが本当に大事なことではないかと感じている。

不思議なことだが、ここでは個性個性と言うわりには衝突はない、あれだけ個性個性だというのならば考え方や意見などが違うのだから、もっと衝突すべきである。
個性と言うわりには主張できない、相手を認めないと言う人間が増えて来ているが、こういう人間もある種現代のステレオタイプ人間である。
私は思う。個性や自己主張と言うものを繰り返せば繰り返すほど人間はひとつにまとまるものだ、ただしその個性をお互いに認めることができるかどうかということが大事なことで、このことは非常に難しく、しかし若いと言うこと、そして何かにうちこむと言うことはそれを可能にする。








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