脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Bサイドレベルでも

2017-10-31 | Weblog
「福祉国家」
JITCOという団体がある。開発途上国の経済発展、産業振興の担い手となる人材の育成を行うために、先進国の進んだ技能、技術、知識を修得させるために外国人を雇用することで、介護の分野ではこの制度を積極的に導入しているらしい。しかし私から見たら少し違和感がある。特に問題点とされるのが日本語の習得であるが、少し表現しにくい内容であるのだが、外国人が特にアジア諸国の人間が介護などの仕事を行うために日本語をマスターさせられるというのに何か少しそこに違和感を感じる。日本は福祉の先進国と言っていいと思うが、しかし学問的にはレベルがひくい。それでもなぜ福祉が先進国かということが言えるかというのは日本人はほかの民族に比べて勤勉で仕事をしっかりとこなしていくからだが、まさに福祉というのはその日本人の特質が反映された現場主義であると言ってもいいだろう。福祉の仕事を見ていたらわかるが働く人たちはすごく気がまわるし、動きまわっている。現場主義ではとにかく動けない奴はだめだ、そのため言葉が理解できない外国人は使えないとなるのだろうが、しかし外国人を採用するのだったらもう少し調和というものを考えなくてはならない。私自身以前責任ある立場にたたせていただいたことがあるが、福祉は要求されること、平たく言えば押し付けられることが多く大変な世界だ。働く側の権利そのものがうばわれているとさえ言ってもいいが、外国人を雇用するという制度にあやかって、さらに働く人たちの人権や権利について話し合い、もう少し違った視点からとらえなおし充実をはかるべきだと思っている。私の意見では福祉は学問というよりも精神だ、それは何か別の意味で体育会が言う根性論のようなものである。さらに外国人の日本語力を問題にするのはお前ら日本にきて仕事がしたかったら日本語を話せと言っているような逆植民地的違和感をおぼえるのである。

「Bサイドレベルでも」
もうすぐ試合がはじまる。ちょうどハワイアントーナメントもこれぐらいの時期に行われるのだが、私は最初のトーナメントは決勝でまけてしまった。相手が強すぎてこりゃあかんやろというレベルで、一応判定ではあったけれども相手にならず。しいて言えばBサイドレベル以下の人間がここまできたのだからそれはそれでよしとしてもいいのだろうが、しかし優勝できなかったのがくやしくてくやしくて、一応まわりはおめでとうと言うけれどもくやしくて、今度はLAのえげつないジムに行ってやろうと本気で考えたが、経済的にもできないし、しがらみや学校もあるのでそれはできなかった。私が口だけだと思う人間は、失敗しても自分の環境をかえようとしない、変化をもとめない、そこから一歩前に踏み出さない人間だ。そんなところに立ち止まっていたら成長するものも成長しない、次は優勝するとか言って茶番劇を繰り返す人間、そういう人間はBサイドレベル以下の以下、人間としても成長しないだろう。
韓国語の言葉に역경에 처한 시기는 바로 자신을 성장시키는 기회를 부여 받은 시기이다. 逆境にある時は自分を伸ばす機会を与えられている時だ。という言葉がある。まさに逆境というのは自分を成長させるチャンスだ、そのチャンスを生かすためには一歩前に出て変化を求めて未知の世界に出ていく気持ちが必要だ。くやしい時俺次は優勝しますとか言っている奴は後ろを向いて、ただ犬があとずさりしてワンワンと吠えているだけ。本当にくやしかったらまわりにぐだぐだと言わない、それはただくやしがっている自分をわかってほしいだけ、本当にくやしかったらそのくやしさは自分に向けられるものだ。茶番劇を繰り返す奴は、結局まわりになぐさめられて、大したことをするわけでもなく同じことを繰り返すのだが、本当に一歩前に出るということは多少の困難を伴うこと。本当に強くなりたいと思うならば環境をすべてかえて困難な世界に入っていく覚悟があるかどうかというのが問われる。そういう困難を通して人間は成長していくのだろう。ルーティーンで科学的なトレーニングも重要であるが、時にはそういうはちゃめちゃではあるが人間らしい強くなり方、成長のしかたもあるしそのほうがおもしろい。
今思えばすごくいい思い出であった。当時私はLAだったら死んでるレベルのケグジェンイであったが、私を支えてくれるコーチや友人、そういう人たちに支えられ、認められたからこそ、私の競技人生は最高だったということができる。うちのクラブにも最善のコーチそして素晴らしい仲間たちが存在する。そういう人たちに囲まれてボクシングをするからこそこのスポーツを意味のあるものとして楽しくできるのだと思う。



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アウトローややんちゃですにかき乱されないクラブ

2017-10-30 | Weblog
「アウトローややんちゃですにかき乱されないクラブ」

うちのクラブには40代以上の人たちがかなりの比率で在籍している。みなさんいずれも社会では信用のある人たちで、そういう人たちが在籍してくれることでジムの常識やコモンセンスが正しい方向に導かれていくから貴重な存在である。一般的に格闘技のジムは若い人たち、しかもやんちゃですとかアウトロー臭い奴が多いというイメージを持つ人もいる。
私も実際ボクシングを競技していたのでそう思っているが、どうしてもそういう人間が集まると一般の人がトレーニングしにくいし、我々一般の人間から見て何かズレを感じるだろう。あいさつができて、体育会のルールが守られるからと言ってまともかどうかということはまた別の話だ。ジムでの常識やコモンセンスはそこに集まってくる人間、特にそこにどういう大人が集まってくるかということが重要だ。
同じようなレベルの人間がかたまってあいつはあいさつもできて年上には敬語を使う(でたらめではあるが)なんて言っても、改造車っぽい車に乗って、話すことは自慢話か武勇伝、アウトローややんちゃです見たいな奴が目立つようなクラブは健全ではない、どこかずれている。話は少し違うがそういうアウトローくさい奴でわけのわからないファッションをする奴がいる。バカだからやっているのか個性でやっているのかはわからないが、人間は言葉を持つ生き物だ。言葉を持たない人間が目立つために奇抜な格好をするのは南米の鳥やサルと同じようなものだ。結局はそういう輩は個性とか言っていても同じ言うな恰好をしているのだから、個性ではなく動物のカテゴリーのようなもの、まわりがこわがるし、不快感さえもおぼえる。本当にバカだと思う。うちには意外と小中高生が多く在籍しているが、みんな自分の将来をまじめに考えているし、親もしっかりとしている。中にはアウトローややんちゃですが話しかけにくいちゃんとしてますオーラを持っている子も少なくはないが、ここで私が親や子供から信用を得るには基本的には教養が大事、そういう意味では教育は大事だ。中身のない人間が得意げにボクシングの自慢話や武勇伝を語ってもなめられるだけ、私自身その子の親も含めていろいろな人が集まる集団を管理する立場なのだから、大人としての常識やコモンセンス、そして教養を持つことが求められる。私が本を読むのはこの群れが健全に機能するため、あくまで大人が気軽に着てトレーニングできる場であるためだ。

「practice makes perfect」

私は少しかっこをつけて使っていた日本語がある。それは稽古と言う言葉だ。私がだいぶ試合に勝って頭角を現したころ、かっこをつけてpracticeをあえて稽古と言っていた。稽古は日本語でそのまま稽古であるが、しかし外国人に稽古に行くと言うと当たり前だが「それなんじゃ?」とかえってくる。すかさず稽古はpracticeだが、ただ技術を磨くためのものだけではなく精神を極めるためのものだ。日本人は勝ち負けよりももっと大事なものがあると考える。いかにそこで自分の力を出し尽くして正々堂々と戦えるか、そのため心を鍛えると言うことは大事なことだ、大事なことはただ試合に勝つと言うことではなくおのれに打ち勝つと言うことだ。正々堂々は英語にはないのでDo not against my belieifとかなんとかさもわかったように言っていたが、稽古と言うのは日本的概念だpracticeのように合理性のみを考える概念ではなく、基本的に小さなことを忍耐してコツコツとつみあげていくいわば心と体の鍛錬である。歌舞伎などの稽古を見ていてもわかるように歌舞伎は見せるものだが、その見せる派手さとは違って稽古は地道でしんどいことの繰り返し、しかしその地道でしんどいことを繰り返すからこそ舞台でのパフォーマンスが可能となる。そういう派手な面よりも見えない部分をもっと大事にするのが日本人だ。だから日本製が世界一だと言うのはうなづける。日本人の技は見える部分ではなく、見えないところを時間をかけて地道に積み重ねていく努力と忍耐によって生まれる極みである。それゆえにメイドインジャパンは世界一である。

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かっこいいと思ったカップル

2017-10-26 | Weblog



今日あげた動画はアンディガルシアとメグライアン主演の「When a man loves a woman」この映画はアルコール中毒になった妻を献身的に支える夫を描いた物語、私は白人を特にかっこいいとかきれいだとか思っていないが、しかしこの映画の二人を見てわっかっこいいなと思った。私の中ではこの二人はベストカップルだ。
ハワイは東洋人が多くその混血もたくさん存在していてHapaハワイ語で半分という言葉は彼ら彼女らの代名詞ともなっている。ハワイは二か国語以上話す人が多く、家では日本語や韓国語そして学校では英語を話すなんていう人間もざらにいて、まさにここは東洋人のメルトポッドであった。うちのチームも比較的東洋人が在籍していて、英語だけではなく言葉がいりみだれていた。我々はそれぞれ民族が違うので英語を共通語として用い時には日本語や韓国語、そして中国語や台湾語などを使い分けて会話していた。笑い話だが当時は結構その国の悪口を教えあったものだ。でも意外にも日本語はほかの国に比べたらそういう悪口は少なく、やはりキングオブトウヨウは韓国語であると思う。そしてそういう言葉を使い分ける自分たちは何か少しかっこいいみたいに思っていたことは確かである。
グレムリンという映画を知っているだろうか?口のとがった、スラントアイズの気味の悪い小さい生物がくちゃくちゃくちゃと何かわけのわからない言葉を話して集団でニューヨークだったかわすれたが、そこを占領しようとする映画で、グレムリンは東洋人にたいする不快感をあらわした映画だと言われているようだ。我々が言葉を使い分けて話すのもかっこいいなんて思っているのは大きな勘違いで、西洋人から見たら英語を話すがへんな言葉を使う異様な人間、自分たちがかっこよかっても東洋人はそう見えているようである。

人間は少し世界を広げて物事を考えると見えてくるものが違う。ジムでもそうだが、先輩の顔色を見て、体育会のルールのようなことが守れるようなことがさも礼儀正しいなんて言うのはちゃんちゃらおかしいことである。おそらくその群れのものさしというのは指導者のレベルを見たらわかると思う。うちのクラブでは暴言や暴力的なこと、そして女性がいやがるような武勇伝は誰も言わない。さらにいくらあつくても裸でトレーニングすることもかたく禁止、それは小学生であってもだ。ジムで武勇伝的な自慢話をしたり、裸でトレーニングするなんて言うのは教育レベルの問題であって、公共性とか格闘技ではマイノリティの立場の女性視点から物事を見ずに自分たち中心で物事を見ているからそういうことができるのだが、それは指導者のレベルの問題で、指導者の教養のレベルがひくいとコミュニティをどうとらえていくかというところでの正しい判断ができない、考え方がすこしずれてくる。その群れを健全に導いていくのは正しいものさしを持つことが要求される。そしてその正しい物差しを持つためにはしっかりと勉強して外の世界に出てそこから自分のおかれているコミュニティを見ることが大事である。

昔韓国人の女の子がパーティで化粧をしてきた。アイシャドウが独特で何か目じりを黒のアイシャドウでのばしていて、私から見たらそれはキジにしか見えなかった。だからからかって「君その化粧の仕方キジにしか見えないぞ。」と言ったら「キジって何」と聞いて来たので「kwongだよkwong」というと笑っていたが、これも勘違いのひとつかもしれない。


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昔の話

2017-10-23 | Weblog

私が時々書いているHIでのジムでの出来事元世界チャンピオンを怒らせた話、しかしその話は具体的なことははっきり書かずぼかしていた。もうだいぶ年月もたっているので書いてもいいだろうと言うことで書くが、元チャンピオンをおこらせてしまってあわや乱闘の真相はこうだ。そこに行くまでには原因があって、当時私に勢いがあったこと。当時結構連勝していた私は2,3階級ぐらいの奴がきてもたたきのめしてやるぐらいの勢いで、確かジョージにジムにいた重い階級の競技者をあいつぐらいならたたきのめせるとか、そういうことを言っていたと思う。そしてそこに現れたのが某JrW級の4回戦ボクサー、しかし4回戦のプロと言っても勝ちがなくパンチもそうたいしたことがない。こいつとはジムで時々会うのだが、その時エラそうにアドバイスしてくる彼に、いつか思い知らせてやろうと言う気があって、まさにその時ジョージが彼に話をつけてやることになったのだ。しかしそれを見てそのスパーリングに難癖をつけてきたのがいた、それが元チャンピオンだ。チャンピオンは「お前あんなでかいのとやったら頭がおかしくなるだろ。お前はバカか」と言うようなことを言ってきた。もちろんそれは正論だが、私も少々エキサイトしていたし、実は私はこの男がチャンピオンと言うことを知らなかった。名刺を見せてもらった時も誰じゃこいつと相手にせず。そして言ってしまったのが「お前よりましじゃ」というようなことだったと思う。その言葉はチャンピオンをおこらせるのは十分だった。そしてチャンピオンはすごい剣幕で「今なんと言った」と詰め寄ってきた。それを見てやばいと思ったのかジョージが彼のところに行って何か言っている、しかしその彼の言葉がさらに彼をおこらせたようで、もう自分たちはどつかれるのは時間の問題、しかしチャンピオンのただならぬ様子にまわりがあわてて止めに入って事なきを得たが、それから1週間以上ジムでは非常に気まずい思いをした。なんせ伝説のチャンピオンをおこらせたのだから前代未聞だったと思う。ピーターはよく私の言動に対してもう少し治安の悪いLAとかだったら絶対死んでるって言ってたが、本当にその当時私はケグジェンイであったと思う。

でもむこうは雰囲気が自由で楽しかった。向こうではそもそも反則なんて日本みたいにとられないが、日本人はオープンなどの反則をしたら審判にすみませんと頭をさげる。普通失敗して減点されるのだから「S○○t!」か「F○○K」だろ、なぜいちいち審判にあやまるのかわからないが、でもしかし私の言動は、日本ではよい競技者はまねしちゃだめだよレベルだと思うのでまねをしないようにしてほしい。


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「그렇게 재미있어?(そんなに面白い)」

2017-10-15 | Weblog

私が学生時仲がよかったアメリカ系韓国人の女の子がいた。お母さんが韓国人でお父さんが韓国系アメリカ人、彼女は英語、韓国語、日本語を流暢に話す。そして彼女とはよく半島の話をしたが、お互い仲間意識をそこで感じていたことは確かである。私も彼女も苗字が金であるが、半島では同じ名前で出身地が同じだと結婚できないというわけのわからないルールがある。彼女はそういうわけのわからない因習や儒教の因習が理解できないと言っていた。彼女のおばさんはkoraen barを経営していてそこに来る女性のほとんどは夫の暴力から逃げてきたり、子供が生まれても女性一人では育てられないのでとここを頼ってくる女性たちだ。彼女はそういう人たちの背景にある社会的差別に不条理を感じていて、時々そういう話を私にした。私がマイノリティの問題に関心があってクラブの名前で毎年募金しているのは彼女の影響が大きいであろう。

韓国に伝説のボクサーがいる。特に韓国系アメリカ人の間では有名なボクサーであるが彼の名前はキム・ドゥック、彼の話は後にチャンピオンと言う映画にもなっている。少年時代貧しかった彼はソウルに出てきてボクシングに出会う。韓国のいじめや差別はえげつない。身分や国籍、出身地そして学歴など何も持たない人間はひどい社会の差別にさらされる。そういう中で力をもたなくては生きていけないと感じるのはよくわかる。まさにキムドゥックもその底辺にうごめいていた人物であったが、そういう何もない人間がボクシングを競技して栄光をつかもうとする姿はまさに韓国社会のひずみとだ。そしてそこで才能を見出されめきめきと頭角をあらわし、ついには世界戦のきっぷをつかみLVへと、試合から序盤から壮絶なうちあいとなりまわりは大いにもりあがるが、しかし彼は壮絶な打ち合いのすえ死んでしまったのだ。その時ボクシングのルールは世界戦は15ラウンド戦うことになっていたが、しかしその試合があまりにも壮絶であったがゆえにルールを改正15ラウンドから12ラウンドになったことは有名な話である。

そしてこの物語には続きがある。実は彼は結婚していて子供が生まれる予定であったが、彼はその子供の顔を見る前に死んでしまった。そしてたぶんその後のこされた彼の奥さんの人生はもっと壮絶であったと推測されるが、その奥さんや子供の消息は未だにつかめないなぞのままであるそうだ。男が好きなことをやって太く短く壮絶な生き方をして、そしてそれを伝説化するのも大いにいいことであろうが、そこでのこされた家族はどうなるのか。彼の物語はチャンピオンと言う映画にもなっているが、しかしこれは男性中心の世界から見た映画言わば伝説化された映画で、私はなぜ彼がここまでやらなくてはいけなかったのか、そして儒教色の強い韓国社会では女性一人で子供を育てていくことは困難であるがゆえにおこる不条理、世の中の構造、そして我々の中にも今ある女性差別も含む差別や不条理、我々が見えていない見ようとしない現実をとらえる視点は大事なことで、この話は有名であるがゆえに、社会差別や生命倫理なども含めてサクセスストーリのような形で語られる単純なものではないと思っている。

実はこの話を聞いたのもこの女性からである。ボクシングやっていると言うと「그렇게 재미있어?(そんなにおもしろいの)」とさめたように、そして「有名な話教えてあげる」と教えてくれたのがこの話だ。たぶん彼女はこの伝説に社会のひずみを感じていたのだと思う。もう絶対に会うことはないであろうが、私は彼女から大きな影響を受けている。


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女子更衣室にカーテンをつけた

2017-10-13 | Weblog

女子更衣室にカーテンの仕切りをつけた。間違って開けた時のためであるが、一応間違って開けないように張り紙はしているが、それでもまだ不十分化と思い、お互いが気まずい思いをさせないために仕切りをつけることにした。うちのクラブは女性が半数以上在籍しているが、その分気を使わなくてはならないことも多く、うちのクラブは教育的な考え方が第一にあるので二つのことに気をつかっている。一つは暴力、うちではマスでかーっときて敵意むき出しでなぐりかかっていくのは暴力だとみなしているが、暴言をはくのもしかり、武勇伝を自慢話のようしないさせない、女性と男性とでは暴力のとらえ方が違う。ボクシングというのはもともと暴力をあつかうスポーツであるから、そのことに関しては気をつかう必要があるだろう。うちにはダイエット目的の女性が多いので暴力的なことを徹底的に排除している。

さらにもうひとつは女性がらみの問題だ。特に責任者がそういう問題をジム内でおこすとうちのようなまじめな人が多い集団は信用度ゼロ、まわりからそっぽ向かれるだろう。たぶん情でつながる人間はいても誰もついてはこないだろう。私は興味がないが群れのために自制がもてない人間にまず強い集団なんてつくれないし、健全な群れとして機能しなくなる。特にうちのように女性の多い集団ではこの二つのことに気をつけて厳しく管理している。


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一歩踏みだして外の世界を見よう

2017-10-12 | Weblog

80年代から90年代にかけて、アメリカはハワイといえどめちゃめちゃレベルが高かった。はじめてスパーをした時、私はよわすぎててんで相手にならない。終わった後すごく悔しくて、こりゃあかんは自分の力ではどうすることもできないと自分の無力さを感じた時、自分の目の前に現れたのが、そう日系人のジョージタナベである。偉そうにいうが人間特に若いときは自分の世界を広げると時には自分ではどうすることもできない壁にぶちあたる。そしてその時どうしても人にお願いしますと頭をさげなくてはならない時が来る。その経験が本当の意味で人間を成長させると思っている。俺流とか個性とかたいした実績もない、スペックもないような人間が「俺には俺のやり方がある」などというのは笑止だ。広い世界に出て行ったら本当に自分はどれだけ小さいかということがわかるし、私などは今でも本当に小さいとさえ思っている。それぐらい世の中は広い。私はそのくやしさを通して謙遜になれたと思う。まだまだこの後とんでもない発言をしたり、問題を起こすが、しかしそうやって世界をひろげていけばいくほど自分の無力さがわかるのだが、それは何もスポーツだけではない。学業面もそうで、自分よりもかしこい人間と議論した時に自分はこれではいけないと無力さを感じて一生懸命本を読んだのもそうだ。その時本当に自分はものを考えていく上では哲学の基本ができていないと感じたのだが、大した実績もないのにあいつはやればできるとか、メダカの学校のような小さい世界で、自分が通用する人間だけを集めてかたまるのは非常にみっともない話である。人間の成長はその世界を広げていくことにある。その世界を広げていくと本当に自分ではどうすることもできない大きなかべにぶつかるだろう。そしてそのかべにぶつかった時に私の経験では必ず自分を助け協力してくれる人がいる。そういう人に出会うことによって新しい世界が広げられて人間は成長していくのだと思う。

 


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彼女は笑った

2017-10-06 | Weblog

これは私が好きな話で大学時代の話。ある女性仮にエイミーとしておくが、彼女は生まれてすぐに施設にあずけられたらしく、そのあずけられた時には名前がなくその施設でエイミーと名づけられたそうである。彼女は親から名前をもらえなかったことが彼女のトラウマになっていた。それはある意味彼女を消極的にさせていた何かであったようだ。やがて成人になり彼女は大学に入学かなり年をとってからでの入学ではあったが非常に楽しい学生生活を送り、そこで年下の男性と知り合い恋におちる。優しい人とたくさんの友達にかこまれての楽しい学園生活であったが、しかし周りが幸せであればあるほど自分の過去がひっかかる。そこで思い切ってその男性に自分が施設で育って親から名前をもらわなかった、だから名前がないんだということを打ち明けたそうだ。するとその男性はこう言った「ケンチャナヨ。神様にも名前はないんだよ。」二人は同じ教会に行っていたのだが、聖書の神には名前がない、十戒の戒めにも神が人間に対して自分の名前を持つな、名前をつけるなと言う厳しい戒めがあるのだが、彼はその神の厳しい戒めを逆手にとってジョークにしたのだ。そしてそれを聞いた彼女も笑ったそうだが、二人は笑い飛ばして過去のいやな思いでとおさらばしたのだ。私はユーモアには力があると信じている。人間が人間のことを思いやり知性を持って伝えるユーモアは本当にその人を生かす言葉であると信じているが、ユーモアがその人を気づかう気持ちと知性が感じられればその人は勇気づけられるものだ。

私がお笑いが嫌いなのは人を陥れたり、いじめたりするからだ。そういう笑いは決して本当の意味で人を幸せにすることはできないと思う。

 

 


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Wax on Wax offってか

2017-10-06 | Weblog

Karate Kidのワンシーンでダニエルがひたすら車のワックスをかけさせられるシーンがある。「Wax on Wax off」とへとへとになりながらも交互に回しながら車のワックスをかけるのだが、しかしこの動作は単に車にワックスをかけさせているのではなく、その動作が空手の防御の基本的な動きと同じで、ミヤギがそれを教えるために彼にワックスをかけさせたのだ。

ジョージがつれてきた合気道のじいさんがまず私にさせたことは、フラフープを改良したようなものを持ってきてそれをリングワークの前に30分、そしてへんな歩き方を30分しろということであった。「えっフラフープってどういうこと。なぜなんだ」と聞くと「I said do it」と思いっきり命令口調で、ジョージもやれというので仕方なしにコツコツとリングワークの前に1時間ほど頑張った。フラフープって意外と難しいものだ、大きく回せば疲れてくるし、疲れないようにまわそうとすると体感を使ってまわさなければうまくまわらない。いい青年が必至でしかも時代遅れのフラフープを回している姿を通りがかりのKidsたちは白い目でじろじろと見て通っていく、韓国人のKidsたちがふざけて何やっているんだと聞いて来た時は、はずかしいのでコジョ(うせろ(あくまでその時の私の言葉だが))と言っておいかえしたが、個人主義の国であってもこのトレーニングは体育館の外でやっていたので通りすがりの人も多くて、やはりそこははずかしかった。しかしこのトレーニングは体感を鍛えるためのトレーニングであり、1か月もするとその体感の使い方がわかってパンチのうち方がすごくかわったのをおぼえている。私はいつも思うのだが日系人って原理やこつの伝え方がうまいなあと思う。何か理論的なことを言って説明するのではなくて、自然のかたちを通して吸収さそうとする伝え方は東洋人独特の発想で、おそらく日本は山が多く自然に囲まれているので、その自然が彼ら彼女らの生活に影響している。そこから生まれてくる発想であると思っている。たぶんやれと言われて何のためにとか理由を求めていたら、私はそこでおわっていた。しかしやれと言われてケグジェンイの私がそのことができたのは心から彼らを信頼していたからだ。

 


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Im on a diet

2017-10-03 | Weblog

今計画していることがある。それはうちのクラブでダイエットのコミュニティをつくることだ。うちのクラブにはunsung heroes、マス部隊、女子検定をうける人たちのコミュニティなどそれぞれが目的に応じて情報交換したり教えあったり、楽しませたりしているわけだが、しかしダイエットを励ますコミュニティはない。運動でダイエットすることはすごく地道なことで、思い通りに進まなければ不安になったりくじけそうになることもある。ダイエットのコミュニティというのは少しおおげさであるが、しかしダイエットでここに来る人はすごく真剣だ。だから少しでもダイエットをしている人たちの存在をよく理解してアドバイスや情報交換、そして励ましあうことで頑張ってゴールを目指せると考えているが、ダイエットが目的の人たちのコミュニティの存在は必要だと考えている。うちのクラブは見せかけの強さは強調しない。基本的には人間は弱い。だからどこかで支えあって生きる必要があると考えている。コミュニタリアン的なスポーツクラブである。

私の好きな歌に「같은 마음」と言うのがある。直訳すると同じ心(気持ち)であるが、これは朝鮮戦争で離ればなれになる男女の物語、映画の主題歌である。一般の戦争映画と言えば、社会正義や戦争の矛盾ということをうったえるのだが、しかしこの映画は朝鮮戦争で戦地に赴く恋人の帰りをひたすら待つ女性を描いている女性視点で見ている映画である。この物語を通していえることは暴力の犠牲になるのはいつも弱いものである女性や子供だと言うことだ。格闘技には虚勢をはった人間が多い。グッズなんかを見てもわかるように威嚇したようなファッション、とにかく自分たちを強く見せようとして虚勢を張っているが本当はたいした度胸もないし強くもないだから虚勢をはったり言葉に表してごまかしているのだと思う。

私がなぜボクシングをはじめたかというのは根本的には強くなりたかったからだ。しかし強くなろうと頑張れば頑張るほどわかってくるのは自分も含めて人間は弱い、めちゃくちゃ弱いと言うことである。人間にとって大事なことは自分の弱さを知ること、その弱さがわかれば人間は弱いものを傷つけたりいじめたりはしないのではないか。人間にはいくら泣いても叫んでも自分ではどうすることもできないことはたくさんある。昔私は一度韓国人の女の子の前でこらえきれずに泣いてしまったことがある。どういうことかということは2人だけの秘密であるが、自分ではどうすることもできない不条理、その不条理に負けてはいけないとこらえるが涙があふれてくる、最終的にはくるっと後ろを振り向いてごまかしたが、怒りと憎しみしかのこらないようなみじめな涙を流せば、人間は弱い、弱いからそれを認めて支え合うことが大事だと言うことがわかるはずだ。人間は弱いからこそ支え合う、それは強者が弱者をということではなく、同じ弱いものどうしが協力してその弱さを乗り越えようとするところに本当の力と支えがある。おそらく待っている側の女性や子供はただ日常の平安がほしいだけである。本当にその弱いものやマイノリティの視点に立ったら、そういう争いはおこらないだろう。自分が強くなって助けるのではなく、自分の弱さを認めて助け支え合う、人間は一人ではない、弱さを認めて支え合い助け合うそこに共同体の強さがあると言うのがうちのクラブの考え方である。


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