脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Bsideレベル?

2017-01-30 | Weblog

パンチは来てからよけると遅い、どこでよけるかと言うと相手がうち動作をした時にもうすでに体がそれに反応していなければよけれない。ミットを持ったらいいと言うのはそのタイミングがわかるからだ。ジョージがある時私にこう言った「相手がうってくると思ったらよけようとするな先にうて、それをしなければお前はずっとBsideレベルだ」普通うってくると思ったらよけろだ、私は最初その無茶ぶりにえっと思ったが、しかし彼が無茶ぶりをしたのはわけがある。たぶん私は攻撃がワンパターンだけど人よりもパンチがはやいので、うったらあたると言う確信があったのだろう。そのアドバンテージをいかすために、相手がうつのがわかったらうてと言ったのだと思う。しかしこの戦術は正解であったと思う。実際に相手がうつなと思ったら得意のジャブ、クロスをうつ、そうしたら私のパンチが先にあたるのだ。だから対戦する時相手のリードを見る。右だったら左、左だったら右、パンチは必ずと言っていいほどリードからうつのでそれがうごいたら先手必勝でジャブ、クロスをうつ、ワンパターンだがこのパターンがおもしろいほど決まって結構勝ち星を得た。しかし外国は変則が多くてフリッカー気味のジャブやスイッチしてくるヒスパニック系にはかなり苦戦したことも確かだ。しかし日本人はほとんど攻撃パターンが同じなので日本だったらもっと勝っていたという自信はある。ただパブロフ犬のように相手がうつと思ったらうつというのは何がおこるかわからないから非常に勇気がいることだ。相手よりもタイミングがおそかったら先にあたってボコボコにされるし、ひょっとしたらそれはフェイントでカウンターを決められることだってある。でもしかしあえてそれをすることで自分のタレントがいかせる、そう思ったから彼は「うってくる前にうて、そうじゃないとお前はBsideレベルでおわる」と言ったのだと思う。もう何度も言うがたぶん日本だったらここまで活躍できていなかっただろうと思う。私のチームのトレーナーは民族も違うし、育ってきた環境も違うそういう人間たちの個性を尊重してアドバンテージを見抜いていかなくてはならないのだから、バカではできない。日本では何かことあるごとに同じことを言う監督がいるが、そういう進歩のない話は学生などの知的な集団だと進歩がないとなめられる。指導者にはそれなりの教養がいると言うのは、事実うちのチームにバイリンガルやトリリンガルがいたし、IQの高い人間もいた。そういう人間を運動クラブが作り出す張り子の虎のような権威でどう導いていくのだろうか?テレビに出てきてお笑いにいじられるような人間を相手にするのならそれはそれでいいのだろうが、しかしもっと幅広く競技者をひろげたかったら指導者の知的レベルをあげることせめて共通語である英語は理解しなくてはダメだ。


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スポーツは勝つから楽しいのではなくて、全力で行けるから楽しいのだ。

2017-01-26 | Weblog

カンサンジュンがニッポンサバイバルと言う本の中で「本当に自由な社会とは敗者復活戦が可能な社会。日本はそれができる社会ではない」ということを述べている。確かに日本は一度失敗したりドロップアウトしてしまうとそれだけで人生の半分以上のものをうしなってしまう。余計なこと考えずにただまっすぐに決められたレールを歩いていくことが求められる社会で、そういう社会にたいしていささかきゅうくつさを感じているのは私だけではないであろう。そしてそれはスポーツの世界にしてもそうだ、何かよくわからんが試合のルールのほかにもヘンテコリンなルールが存在し、そういう偏見や価値観がその世界を小さくしている。私はアウトローは大嫌いでうちのクラブにはそういう人間は入会させないことにしている。しかしそれは個人の考え方やクラブのカラーの話、基本的にボクシングは平等で誰でもそれをする権利はある。私自身ボクシングと言うスポーツに救われたわけだが、ボクシングと言うスポーツは本当に平等なスポーツだ。育ちや人種などには関係なく、むしろマイノリティが生き生きと競技できるスポーツだ。むこうではこいつら絶対ギャングだなんて言う人間もいて、そういう人間たちも普通に試合に出てたと思う。事実私たちの嫌っていた奴らはそういう人間だったと思うのだが、しかしそこはスポーツ、普段そんなことをしたらどえらい目に合うがしかし試合であたるとここぞとばかりに牙をむいたものである。もちろんボコボコにやっても仕返しなどない、私が向こうのリーダー格の人間に勝った時は私のチームがようやってくれたと大盛り上がり、そうしたらゴールデングラブに出場した○ー○ンと言うのが次は俺がやってやると出てきて、やべえこれは行くとこまで行ったなんてビビっていたが、しかしそこはあくまでスポーツの話、さらにむこうの監督もしっかりしていたので、そういう間違いと言うのは起きることはない。即ち監督が認めて試合に出しているのだから彼は列記とした競技者だ。リングに立つ限りはチームのカンバンを背負うわけであって、そういうお互いがボクシング競技者として対峙する場所がリングであると私は理解している。私はもう何十戦も試合をしてきた。試合が終わると相手の目を見て時にはニッコリと笑うのだが、本当にその笑いに試合の充実感が出ていたと思う。私は思うのだが本当の尊敬とは形式的なものではない。よく試合の後にあいさつに行く人がいるが、私からしたら不自然だ。本当の尊敬と言うのは思いっきり全力を尽くしてたたかうからこそできるもので、おもいっきり全力をつくしてすべてを出し切ったからこそ負けた人の気持ちがわかるからそっとしておいてやろうという気持ちになるものだ。私は競技者の時は勝っても負けてもそれ以上かかわらない。終わった時にただにっこり微笑むぐらいが相手に対する敬意であると思っているが、勝負の世界はシビアな世界だ、あいさつに行けなんて押しつけられた礼儀よりも一生懸命やってきた人間が理解できる尊敬の仕方と言うものがあるのではないかと思っている。話は十何年ぶりにハワイのジムを訪ねて行った時の話、ピーターと久しぶりに再会、そしてジムには彼の車で行った。車の中での会話「オギおぼえてる。あいつラジオのDJになったよ。それと○○○っておぼえているか?」「ああ」「お前のことすごくなんか根性があるって言ってたけどそんなに親しかったのか?」「いや、一回対戦したことがあるんじゃないのか」私にとってもはや誰と対戦したかとか、メダルを取ったとかそういうことはどうでもいい話、私自身たいした実力はないが、今まであたったようなことがない人間たちに全力でぶつかって行くことができたし、キャンバスで思いっきり競技人生を謳歌できたことは間違いないことで、それゆえにまわりから見たらインパクトが強かったのだと思っている。


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I've missed over 9000 shots in my career.

2017-01-24 | Weblog

経験値のひくい人間はすぐに自分のやり方にこだわる。所謂俺流とか個性とかに固執するわけであるが、それは本当に自分よりも大きいものを知らない、目の前の目標が小さいからそんな小さな経験値ごときでそれをすれば勝てるなどと錯覚を起こすのだろう。とてつもなく大きなものにぶつかったら、こりゃああかんこのままだったらどうにもならんと今までの自分をすてて何かを得ようとする。本当にこりゃ俺のレベルではどうすることもできないと実感したら新しく何かを得ようとするはずだ、俺流とか個性とか言っているけど、そういうことを強調する人間に限って井の中の蛙大海を知らずである。マイケルジョーダンの言葉で好きな言葉がある。「私は9000回シュートを外し、300試合に敗れた。決勝シュートを任されて26回も外した。人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功したんだ。」よほどの天才でない限り最初から、完成された技術など持てるはずはない。たいした努力や失敗もしていないのにこれが俺のスタイルだなんて言うのは勘違いも甚だしい。持論かもしれないが本当にうまくなりたかったり、強くなりたかったら変わることを恐れてはならない。そしてその変えることができるチャンスである失敗を恐れてはならない。私自身も最初はボクシングなんて突っ込んで行ってなぐったら勝ちじゃぐらいに思っていたけど、向こうでとてつもなく強い競技者とスパーをして相手にならず、フットワークとまた一からストレートのうちかたを学ぶことを余儀なくされた。そしておそらくそれをしなかったら向こうの競技者のレベルについていくことはできなかったと思う。あまりやりたくないので普段はやらないが時々私がシャドウボクシングをしているのを見て、すごくかっこよく動いていると言う人たちがいるが、しかしあんな動きは人種によってはたいしたことがない初歩的な動きで、私自身そのヒスパニックとトレーニングすることでおぼえた動きである。余談だがヒスパニックのハードパンチャーはパンチの質が違う、なんかグローブに石を入れてうたれているみたいで、顔がすごくはれて次の日チームメイトにお前誰だと言われたこともある。本当にうまくなりたいと思ったらまず変わることを恐れてはけない。そしてその変わる必要は失敗を通して教えられる。

I’ve missed over 9,000 shots in my career. I’ve lost almost 300 games. 26 times I’ve been trusted to take the game-winning shot and missed. I’ve failed over and over and over again in my life. And that is why I succeed.

 

 

 

 


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うちの方針 退会処分について

2017-01-23 | Weblog

クラブでの退会処分は暴力とナンパ行為、暴力はまわりがこわがるような暴言をはいたり、けんかのようなマスボクシングをしてまわりをひかせる人間は暴力的であるとみなして退会してもらいます。また人をどなったり、怒号をひびかせたりすることは社会人のスポーツクラブには必要ありません。こういうことを言うと自分は気にならない中高生の時はもっとすごかったという人がいますが、暴言や怒号をひびかせることは社会では必要ありません。またナンパ行為に関しても厳しく接します。露骨に声をかけるのもそうですが、教えているのかナンパしているのかわからないような行為、スポーツクラブと言うのは公共の場、こういう場所で積極的にアプローチしていくナンパ行為はまわりがひいてしまうし不快ですので、立場によっては例外なくやめていただくことになります。うちのクラブのモットーは平等にトレーニングできること、ボクシングができるとか魅力的であるとかないとか、会員の人たちもそういうことで差をつけられるのはたまったもんじゃないでしょうし、そういうことに関係なく、むしろできな人の立場に立って指導するのがここのやり方です。

 

 


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影響をうけたロールズの正義論

2017-01-15 | Weblog

人間の共同体には哲学が必要だ。しかし哲学と言っても言わせてもらえるからと言いたいことを言うことではなく、共同体の正義と秩序を守るための哲学である。ある学者は哲学は動名詞だと言った。これは哲学する、即ち今現在考えているから哲学であって、考えることをしないとそれは哲学でなくなるということだ。よくスポーツ指導者は考えろと言うが、しかし本当にお前は考えているのかと思う。技術何てそんなものはずっとやっていたら誰でも教えれる。肝心なのはその共同体をどう正しく導いていくかである。私から見たらまだまだ体育会の秩序はorder through powerでまだまだお互いの人権を尊重して話し合って決めると言うようなレベルで群れを形成しているわけではない。また悩むのと考えるのは別の次元、この場合の考えると言うのはベースが大事だ、私の意見では本を読まない、語学力や国語力がひくい人間が集団や群れの正義や秩序について、さらに子供や青年についてその競技以外には教えることはできないと思っているが、それは基礎的な教養がかけているかけているがゆえに多面的に物事を解釈できない、物の見方が一面的であるからである。私はロールズの「正義論」にはかなり影響を受けた。それは英語でも4000円ぐらいする本で日本語だったら8000円ぐらいはする高い本だ。彼は経済の競争の原理を認めている。その競争によっておこる社会の格差に対して、弱いものに手を差し伸べない格差は正しいとは言えないとしたが、当たり前だが競争は人間社会の中に必ずある。しかしその競争社会においても弱者をおぼえて助け合うというのがおおまかな彼の論理である。一方サンデルは自分の報酬は他者の協力で得られたものだから還元するのは当たり前だという考え方に立つがが、税制や寄付と言うのは人間社会のコミュニティでは必要である。私がアホだと思うのはテレビに出てきて自慢話をしたり、車や時計をこれみよがしに見せびらかすアスリート、テレビに出てきて部室で話すような会話をするな、少しでもその時間を貧困問題や民族差別などの問題について語れよ、この人たちは世界に行って何を見てきたのかとさえ思う。運動系のクラブは仲間意識が強くてお互いを助け合うが、しかしその外の枠をこえて自分たちが何か役に立とうと言う気持ちが希薄ではないだろうか?確かに震災の時に多額の寄付をしたアスリートなども出てきて最近ではましになってきているようだが、しかし全体的にはまだまだそういうことには関心がない。特に他国のことになると無関心だ。我々は仲間ではなくコミュニティである。コミュニティはそこだけではなく、自分たち以外の社会を意識して集まっているのがコミュニティである。前に一人称でしか語れない、物事を一般化できない監督について話したが、物事を一般化できないのはリテラシーの問題でこのリテラシーがなければ物事を客観的に見て一般化できないというのが私の意見である。哲学するというのはいろいろな方法でいろいろな見方をしなくては真実が見えてこない。哲学するということは共同体をよりよく豊かに保っていくためには大事なことである。

 


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コナンから学べ

2017-01-10 | Weblog

試合前よくワイキキの西のほうにあるキャソリックの大聖堂に瞑想のために行った。そこは信者でなくても自由に入れるところで入ると神聖な感じがして落ち着く場所だが、そういう広々とした神聖な場所で瞑想しているとなんだか自分の存在が小さく見えて、そしてその自分が宇宙と言う広大な領域の中にいるんだということを自覚せざるを得ない。パスカルはパンセで言った。人間は宇宙と言う規模で考えたら非常にちっぽけな存在だ。しかし人間だけが自分は何者かと言うことを考えることができる、すなわち知性がある。その知性を持って宇宙やすべての存在を知りうることができるだから人間は偉大なのだと。少し自分なりの解釈を交えているがこのことがパスカルがパンセで語っていること「人間は考える葦である」である。話は映画の話になるが、私はコナンは上映されると必ず見に行っているのだが、コナンは例えピンチになってももうだめだとまわりがあきらめかけても彼は考えることをやめようとはしない。そしてその考え考え続けた結果、答えを見出し問題を解決していくのだが、人間は考えることをやめてしまったらだめだ。大げさに聞こえるが、その人間が持つ唯一の賜物である知性をつかって考えてその先に答えを見出す、何かを発見するからこそ人間としての成長や喜びがあるのではないかと思っている。これは私の意見だが最近の若い人はあまり考えると言うことをしないように思う。もちろん何かの障害で考えることができない人は別として、非常に考え方が単純で時には浅はかであるかのように見える。中には考えてある答えを見ずにあきらめて命を断ってしまう人もいるが、それは非常に残念なことである。私から見たら最近の若い人は悩まない。悩まないというのは深く傷ついたりするけども考えないということだ。なぜ考えることをしないかというのはひとつは日本は哲学をあまり重視しないのと手本になる大人がいないからだと思っている。外国の大学の先生や知識人はこの人と話したらおもしろいな、この人と話したら自分の考え方を広げてくれるんじゃないかと言うようなそれこそ魅力的な人間がいて、そういう人たちからいろいろと学び自分たちもこうなりたいなあと思うのだが、しかし日本の場合は身近にそう言う人たちはあまり多く存在しないと思う。スポーツクラブなんかでもそうだが、格闘技のジムで責任者の話すことは女や恋愛そしてくだらないテレビの話、世の中の裏技が賢いことだなんて錯覚しているような人間が考えろとか生き方についてえらそうに言っても意味はない、そう言うレベルで集まってくるのはそれなりの人間だ。しかし「良貨は悪貨を駆逐する」と言う言葉があるようにそう言う奴のほうがずるく、仲間とつるんでたくましく生きているのだから始末におけない。はっきり言って何かがずれている。ど派手に髪を染めたり、威嚇したような恰好、変な車にのっているのが個性だと思ったことは一度もない。正直中身のない人間がそういう恰好で目立とうとするのだと思っているが、知性を重んじない集団にはそういう輩が集まってくる。知性を重んじると言うことは集団の質を上げるものだと理解しているし、そういう環境をつくることによって社会人が安心してトレーニングできるクラブになるのだと思っている。


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私が学問を奨励するのは暴力を排除するため

2017-01-07 | Weblog

うちのfacebookで本の紹介をしている。本を読むということは人間にとって必要なことだし、学ばない人間は進歩がない。しかし本を読むと言ってもどういう本を読むかと言うことが大事だ。私が嫌いな本はボクサーとか格闘家が書いた自慢話、何を言ったらかっこいいかということを意識しているのが見え見え、あんなものものの5分ぐらいで読める内容のない本だと思っているが、刺激を求めて何かをしようとする中学生にはある意味刺激になるのだろうが、しかしはっきり言って内容が薄っぺらすぎて見る気がしない。私はボクシングの責任者はある程度教養がなければだめだと思っているが、ボクサーや格闘家の自慢話が本だと理解しているようではだめだ。例えば年末や年始の挨拶文などクラブのホームページやブログなどで発信していく時に、どういう挨拶文が書けるかと言うことはクラブの信用につながるわけだし、そこにそのクラブの責任者の教養が出てくると思う。思考や考え方と言うのは農業と同じで頭を耕すことで成長し、まとまっていくものだ。決してそれは刺激やのりだけでは成長しない。私は学生の時すごく難しい本を読まされた、あの勉強に比べたらボクシングのトレーニングなんてたいしたものではない。それこそ2,3ページ読むのに3時間ぐらいかかるえげつない内容の本、内容があまりにもチンプンカンプンで最初は怒って本をたたきつけていたが、しかしそれでも根性で本と格闘していくとそれが理解できるようになる。理解できるようになるということは客観的に物事を見れるということだ、私は人から言いたいことをはっきりと言葉にして言えると言われるが、それはもともと持っている賜物と言うよりも訓練によるもので、訓練によって客観視できるから何を言いたいかそしてそれをどう伝える必要があるかと言うことができる。学問的考察は主観だけではなく客観が大事でその客観的な考察は経験から生まれるものではない学問することによって可能なことだ。そう言った能力を養うためには本を読んだり、議論したりすることは不可欠なことだと思う。

このブログの「私がダメだと思った監督たち」の記事をそのまま引用するが「元巨人の桑田が体罰はダメだということをしきりに言っている。そしてそのことをスポーツ界の指導者たちにうったえかけている。前にスポーツ番組でその桑田と何人かのスポーツの監督が意見を交わし合っていた。そこには有名な女の監督が二人いたのだが、体罰に関して二人とも体罰は時には必要だということを言っていた。でも話を聞いていて笑えるのはこの人たちは物事を一般化できていないといないと言うことだ。意見を言う時も私はとか私たちはみたいな一人称的な発言が多く、この人たちは物事を客観視できていない本当に教養がないと思った。スポーツと言うのはこの人たちみたいにそれしかしてこなかったという人たちだけのものではない、スポーツを競技していても社会とのかかわりがあるのだから、体罰などの問題を語る時は物事を一般化する必要がある。でもこの人たちは相手を成長させるために殴ったとか殴られたでもそれは自分のためだみたいな発言をしていたが、本当にダメだと思った。この人たちはスポーツ以外に何をやってきたのだろうか?監督だったら共通語の英語が話せるのか?ほかに何かきちんと勉強したことがあるのだろうか?こういう物事を一般化できないような人間を恰も我々の代表のように発言させることは大きな問題だ。体罰と言うのは人権の問題だ、そいつらは本気かどうか知らないが、しかし一般的にはたかだかスポーツごときでできないと言って頭や顔を殴られたり、罰を与えるというのは根本的に間違っている。それは人権侵害だ。佐藤優と言う作家が「性と国家」の中で、自分は性悪説だから暴力を徹底的に制御するシステムをつくらないといけないと言っていたが、戦争をしかけるのも武力で都合よく相手をおさえるためだ、人間はもともと性悪だから暴力を都合よく利用し相手を自分の意のままにしようとする。体罰は愛のムチだと言う大義とベトナム戦争はベトナムの人たちを解放するためだ、イラク戦争はイラクの人たちをフセインの独裁から自由にするためだという大義と考え方の構造は同じだ、リテラシーがないとこういう構造を見ようとしない、だから発言が一人称的であるのだ。学校や社会では暴力はゆるされない、そういう一般的な考え方を無視して愛のある体罰は必要だなんて言うのは言語道断、私は勉強してないアスリートが大嫌いなのはこういう身勝手な考え方しかできないからだ。」

その番組で監督の一人が競技者を殴って指の骨がおれたなどということをさも私は自身があるから殴っているんだと言いたげに堂々と言っていたが、しかし強くすると言っても殴られる方は三者三様で人によっては受け取り方が違う、この人たちは高校のバスケット部であった暴力事件をどうとらえ反省しているのだろうか?殴られて責任を感じて自殺に追い込まれたわけだが、後から期待していたなんて言っていたらしいが、全くバカげたいいわけだ、はっきり言ってスポーツしかできない人たちの学問不毛の世界ではこういったことものど元過ぎれば熱さを忘れるだろう、この人たちはそれなりにスポーツをやってきて信念みたいなものはあるのだろうが、しかしそんな信念は一般社会では通用しない。教育とか学問と言うのは本当に大事だと思う。

人間は言葉の世界で生きている。だからこそ文字を通して何かを学ぶということは大事なことだ。

 

 


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Nullus est instar domus(我が家にまさる所なし)

2017-01-01 | Weblog

새해 복 많이 받으세요(明けましておめでとうございます。)

Nullus est instar domus(我が家にまさる所なし)

本年度ははじめに私のモットーでもあるラテン語の言葉を引用させていただいたわけですが、家と言うのは自分の居場所、そしてこれは世界各国共通であると思います。話は大学の話になりますが秋田に国際教養大学と言う大学があります。この学校には世界各国から留学生が集まって勉強しているわけですが、生徒は最初の一年間は寮生活をすることを義務付けられています。寮生活とは言ってもそこには世界各国から様々な人たちが集まってくるのですからお互いの文化や習慣も違う、そういう中で違いを認めて受け入れあって交流を深めるのがこの寮生活の趣旨ではないかと思います。少しとらえ方が違うかも知れませんが、うちのクラブも集まってくる人たちも性別や年齢職業は様々で、ボクシングをはじめた目的もそれぞれ違います。競技者としてではなく、ダイエット目的の人もいるし、健康維持として趣味ではじめたと言う人もいるでしょうが、目的が違っていてもお互いを尊重し合い、誰にも気兼ねすることなくトレーニングできる場としてこの場を提供することを心がけ、そしてそのためにはボクシングが競技者と言う枠をこえて、健康維持やダイエットの人たちのトレーニングであることも十分に理解し、たかだかダイエットとか健康維持ぐらいなどと言う理解は絶対しない。すべての人にはボクシングを楽しむ権利があると言うことを前提にコミュニティづくりをして行きたいと思っています。私はハワイと言う異国でボクシングを競技したわけですが、ハワイは土地柄バイレイシャルやマルチレイシャルが多い州です。私自身バイレイシャルであることに劣等感を感じていたわけですが、しかしボクシングと言うスポーツはマイノリティーが生き生きと競技しているスポーツで、そこには何のわけへだてもない、自分の居場所があったわけですが、私がクラブを家と言うのはまさに私のこう言った経験からで、ここに来ると時はこのクラブがひと時の居場所となることを願っています。

そして今年もいろいろと皆様方にはお世話になりますが、今年もよろしくお願いします。새해에는 새로운 큰 희망과 큰 기쁨이 가득하시길 바랍니다新年は大きな希望と大きな喜びであふれることを願います。I hope you will have a great year!

 


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