脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Dear George

2023-09-27 | Weblog
”Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant“ 

ジョージ私のトレーナー、正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホクのような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前でまけたらお前らの視界から消えてやると、本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもいっぱいした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針ジョージから教えられたことだ。私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。そのジョージは今はいない。おそらく私の存在と言うのはおそろしく強烈だったので、その時までわすれることはなかったと思うが、それは私も同じである。


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黒子に徹する

2023-09-22 | Weblog
私が徹底していることは「指導者が黒子に徹する」ことである。
自分の経験上ボクシングやっていた人間は、もともとナルシストな人間が多いので、目立とうとする。例えば自分の実績をそれとなく強調したり、教える時に偉そうな持論を語ったり、そんなんじゃ通用しないと偉そうに言うのも、俺はこんなもんじゃなかったんだという主張の裏返しである。しかし正直な話ジムに来て誰もそんなたわごとや自慢話を聞きたいとは思わない。会員の人たちが求めているのはその日の一日の成果である。その日一日が楽しく練習でき、ある程度結果をのこせてストレスを発散できれば、それで満足なのである。ここには多くの会員がいるがここが運営で来ているのは、みなさんのおかげである。その会員ひとりびとりに感謝し、なるべく自分たちは目立たず会員に仕えることが自分の役割であると思っている。




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나의 DNA는 한반도에서 왔어. My DNA came from Korean peninsula.

2023-09-19 | Weblog
「紙ウサギ ロぺ」という映画が始まる前のちょっとした時間に放映される動画があるのだが、最近それがおもしろくて見ている。
ロぺと言うのは主人公でウサギである。そのウサギが先輩のリスと今時の若者の間抜けな会話を淡々とするのだが、その間というか受け答えが面白いのではまっている。この物語は何が面白いのかと言うと、おしゃべりで間抜けなリスととぼけたウサギの持つ独特の間で、そういう独特の間をこのリスとウサギがうまく醸し出しているところである。日本人はこういうのんびりした間を楽しむ民族である。おそらくこういうのんびりした間というものを理解できる民族は少ないと思うが、これは日本人が平和だと言うことを意味しているのではないかと思う。
学生の時アメリカ系韓国人の先生が授業で「韓国は和の国で、日本は武の国だ」と言ったことことを聞いた。「部」の国だったらわかるけど、日本人は平和だ、違うと言い返してやろうとしたが、どうせ戦争のことを持ち出して侵略したとしか言わないのでバカらしくなって言わなかったが偏見も甚だしい。
私はいろいろな民族を見ているが、日本人はおとなしい民族である。争いごとを好まず、言いたいことを言わない、すぐに固まると言うわるいところもあるが、しかし島国独特の考え方や気質を持っていて、平和的でいわゆる大陸や半島の人間とはかなり違うと思う。
これは私のはずかしい話だ。笑い話として聞いてほしいが小学校の時上級生とけんかになった。けんかといっても鉄棒の取り合いであるが、最初は私が遊んでいたのだが、いじのわるい上級生がのけといって、後ろからはがいじめにして、どけようとしたところを私は後ろ頭突きをした。足でけって思い切り伸び上げたのでかなりいたかったろうと思う。彼はその場にうずくまって、その時は戦意喪失して教室に帰って行ったのだが、私はその時上級生をやっつけたので得意げになっていた。しかし次の日、私は階段の踊り場で襲撃されて、どえらい目にあわされた。笑い話だが頭突きを警戒して、はなれてけり技でひどい目にあわされた。小学生の子供がこういう戦略を練っていること自体笑えるが、そしてうずくまった時にネリョチャギ(かかとおとし)のようなものをくらわされたが、たぶん私が日本人ではじめてネリョチャギをくらった人間だと思う。島国の人間と半島の人間は似て非なるのものだ。両方を見ているが、私はどちらかと言うと半島の血をひく部分が強い。日本人は言いたいことをいわない。感情をあらわにしない、これはかなり異質である。
私は今ではコントロールして日本人以上におとなしくなったが、それでも昔は自分の性格やまわりと比較して、あまりにも違うので、自分は病気じゃねえのかと思えたぐらい特別で、島国だけしか知らない人間と言うのは独特の文化や性質を持っていると思う。最近ようやく日本人も主張するようになったが、しかしまだまだ国際社会ではもっと言わなくてはならないことがいっぱいあると思うが、しかし未だに遠慮して主張しなかったり、そういう問題に関心のない人間も多いことも事実である。
これは個人的な意見であるが、日本人にかけているのは民族教育だ、アジアでは韓国や中国を除いては、日本人は優秀な民族だとレスペクトしているし、マレーシアの大統領のルックイースト政策は日本をそのまま表したものであるが、もっと民族に誇りが持てるような教育を導入していくことも必要だと思っているが、意外とこれが肝心なことかもしれない。


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What is the equality of our community?

2023-09-11 | Weblog
少し前の世代は父または母が外国人だと言うと、少し気まずいような感じで、そしてよく言うのが「顔がいっしょだからいいじゃない」である。しかし今の世代の人は「かっこいいじゃないですか。英語も話せたらトリリンガルですよ」と言うのだが、今の世代は我々の世代に比べて、グローバル社会になり、多様性を認める時代になったものである。
基本的に私は差別や不公平をゆるせない人間である。私も実際カウンター差別を試みて抵抗した人間であるが、差別や不公平は構造の問題であり、マジョリティが幅を利かすとマジョリティが有利になる構造社会ができる。そこから排除されるものとそうでないものがでてくるのだと思っている。差別や不公平をなくすためには誰かが有利になったり、特別であるという存在をつくらない。わかりやすく言うとジムが公共の場であるというのならば、コミュニティに集まっているのは同じ会員、そこで競技者が優先であったり、取り巻きができるのはそういう人間に特権を与えているのと同じことだと考えたらいい、ジムに来る人達は年齢や性別、そして目的がそれぞれ違うのだから、ひとりびとりを大切にとかそういうきれいごとではなく、コミュニティの性質上、ジムでは優越性を認めないようにするのが差別や不平等をなくすことだと考えている。そしてそういうコミュニティを目指すためにはそこにどういう人たちが集まっているかと言うことは大事なイッシューである。差別や不平等に関しても「自分はやっていない、自分は平等に接している」レベルではなく(よくあるのがジムで優越性をもった競技者や取り巻きが自分たちは自由にやっている。ジムは問題なく平等だとのたまうこと)構造的にイッシューをとらえ考えることができる。だからある程度教育レベルも必要だし、インテリジェンスの高い人が一定数在籍するとそのコミュニティは安定するというのが私の考え方である。うちのクラブではマイノリティを大事にすることが全体の平等だと考えているが、自分たちの満足や充実だけを考えることしかできない余裕のない人間はそれができない。それは道徳や知的レベルが多少なりとも関連していると思っている。

参考文献「ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? 」ロビン・ディアンジェロ 

不公平や差別を理解するためにはJennifer L. Eberhardtの"Biased"もおすすめ。「私たちは見て判断するのではない。判断して見ているのだ。」と言う彼女の言葉はストロングインパクトを持つ。

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λόγια

2023-09-04 | Weblog
夏休みに大阪に遊びに言っていたが、外国人が多かった。観光客から店の定員もはや日本人よりも多いのではないかと錯覚をおこすぐらい大阪の繁華街は外国人でにぎわっていた。私はよく外国人に道を聞かれたり、電車の乗り方を聞かれたりするのだが、今回もやはり何度か聞かれる。たぶん私は他の人よりも外国人に話しかけられる率が高いと思っているが、それには理由がある。日本人は外国人が何か話しかけようとしても(例えば道を聞きたい時とか)言葉がわからないので目をそらす。しかし私は話しかけようと向こうがアクションをおこしても目をそらさず堂々としているので、話しかけやすいのだと思う。よくボクシングや格闘技をやったら自信がつくと言うが、しかしそんなことよりも言葉をおぼえて言葉のアドバンテージをとったほうが自信がつくというのが私の考え方である。外国人の例もそうであるが、自分は言葉を理解できるという自負と自身が堂々とした態度につながっているし、その自信が人を受け入れ、コミュニケーションを円滑にできるものである。コミュニケーションは言葉によってなされる。当たり前だが言葉が流ちょうだと交渉や話し合いなどが有利になるし、正しい日本語を流ちょうに話すことで人から得る信用度も違うであろう。それなりに商社で働いているサラリーマンが見学に来て、語彙力がない、言葉の使い方が稚拙である人間に信頼などもてるであろうか。私は言葉をみがくために国語辞書をこまめに引いたという話はよくするが、国語辞書は難しい言葉を簡潔に表現し、説明しているので引いているうちに意味を理解するだけではなく、説明能力が身についてくる。いわゆる言葉を支配することで表現力を豊かにする。人と話す時、言葉の意味を理解して、表現力を養えば自分の言っていることは言葉に裏付けされている、正しいと信じることができるんだということが自信になるのではないかと思う。スポーツして体を鍛えることは大事なことだし、体力をつけることは必要である。しかしそういうことが一般の社会で多少アドバンテージになることはあっても自信にはつながらない、やはり言葉をおぼえて表現力を養うほうがベターではないだろうか。



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MOBは女性とおっさんがおおいジム

2023-09-01 | Weblog
MOBは女性とおっさん率が高いボクシングクラブである。そして夜になるとどこからともなくおっさんたちが集まってトレーニングをはじめるがおっさんと言っても大体が40以上普通だったらもうとっくに引退している年であるが、そういう世代の人たちがジムに来てミットをうったり、マスをしたりして楽しそうにトレーニングしている。しかし中年と言っても中には、大学生や20代の人と互角に、というか相手によってはそれ以上のレヴェルの人もいることには驚かされている。そういう人を見るたびに「最近のおっさんは強いなあ」と思ってしまう。そしてマスのあとおっさん同士の会話が始まる。
「○○さんはどれぐらいやっているんですか?」
「だいたい1年ぐらいです」
「えっ1年ですか、1年ぐらいやったら私もうまくなれますかねえ」
「大丈夫ですよ、○○さんの攻撃何発かいいのがあたってましたよ」と結構健気にお互いをほめあっている。
自分も中年であるが、中年と言うのは一番ストレスを抱える世代である。ここ10年ぐらい中高年の自殺と言うことが問題になっているが、そのあたりの年代は精神的にも弱くなってくる年代である。
フランスの哲学者であるアランは悩みがある人間は、体育教師のところへ言って運動しろと言っているが、精神的な問題はある程度運動することで解消されると言っているのである。運動することは体にいいことだけではなく、ストレスなどを解消することができ、精神的にもプラスになることは誰もが体験を通して知っていることである。自分がこのクラブを開設した目的のひとつは、中年といわれる世代の人たちを仕事の疲れや、その他もろもろのストレスから開放したいからである。運動することは非常に大切なことである。自分は女性や中年そしてこの社会でまじめに生きている人たちをはげましたい、勇気づけたいと思っている。うちのクラブは力による関係ではなく、むしろ弱いものをいたわるボクシングクラブであることをモットーにしているが、ここに来たら何もかも忘れて楽しくボクシングができるような環境を常に提供したいと思っている。

参考文献 「幸福論」アラン 白水社

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