脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

江戸の敵を長崎でうつ

2010-10-31 | Weblog
おととい韓国人の友人とSKYPEで話した。SKYPEは便利なもので、おかげさまでSTAFFとはこれで連絡が取れるので、仕事の手間が省けるし、また外国にいる友人たちとも気軽に連絡が取れる。
そう言えばこの韓国人の友人とは私が一度水原に言って以来、直接一度も会っていない。水原とはユネスコの世界文化遺産である華城のあるところで、カルビが有名でソウルに比べればかなり保守的な町である。
その彼とはソウルで会ったのだが、その時久しぶりだと言うことで、彼のおごりで、あるレストランで彼とナチポックンを食べようということになった。
ナチポックンとはあまり日本人には知られていないが、韓国の有名なたこの料理である。
しかしたこのいためものとはいっても、これがはんぱじゃないぐらいからい。私も彼に連れられて「ここのナチポックンはすごく辛いんですよ」と言われたところで食べたのだが、しかしこれが実際辛くて、食べた瞬間それがあまりにも辛かったので、涙が出てムルムル(水、水)と涙を流しながら水を勢いよく飲んでしまった。
その様子を見てその友人は「あはははっ、だから辛いといったじゃないか」と大笑いしていたが、本当にあの辛さは今でも忘れられない辛さである。聞いてみればこの味付けには韓国一辛いと言われている「チョンヤンコチュ」というトウガラシがつかわれているそうで、本当に辛くて汗と涙がとまらなかった。

さて韓国では彼に半ばはめられて、辛い思いをした私であったが、ある時彼が仕事で新大阪に来ることになったので、一緒に食事をすることになった。
そしてどこに行こうということになり、私は日本だからやはりすしだろうということで、「兄弟今日は俺がおごるから、すし屋に行ってすしでも食べようや」ということで、あるすし屋に行くことになった。
しかしここからが私の本領発揮である。店に入ってまずビールとあてを頼んだのだが、そのビールとあてを食べている時に彼にこう切り出した。
「ところで君は「わさび」という辛い食べ物を知っているか?たぶんこれは世界一辛い食べ物で、韓国のトウガラシなど比べ物にならないぐらい辛いのだが、実はこれが少しすしに入っていて、食べたことのない君には辛すぎるので、わさびぬきのを注文したほうがいい」。
しかし実際そう言うと後には引けないのが韓国人だ。そう言うと「そんなことはない辛いものなら俺は平気だ、俺は毎日辛いものを食べているので、そんなものはたいしたことはない、とにかくたくさん食ってやるから食わせて見ろ」というのだ。

そこでじゃあ本当に大丈夫かということで、私はカウンターからわさびをひと盛りもらい、それを彼の前に持ってきて「これがわさびだ辛いぞ」と言うと、いきなりそれをとってそのひとかたまりのわさびを口の中に入れてこともあろうか、それを味わおうとしたのだ。
しかしその瞬間予想通りのことが起こった。そのあまりの辛さに、彼の顔が真っ赤になり、鼻水と涙がとめどなくあふれ、気絶するかのように顔をおさえて、テーブルに前のめり込みになったのだ。
それからしばらくその状態で苦しんでしたが、ようやくおさまって彼がこう言った「なんじゃこれは?」
その言葉はまさに彼にとって衝撃を表す言葉であった。たぶん彼にとってこんな辛さははじめてだ、辛いと言っても今まで食べたことのない辛さの経験であった。
たぶんこのわさびのからさを一言では表現できないだろう。
辛いと言う言葉は英語でHot韓国語ではメウオヨであるが、これらはいずれもわさびの辛さを表現できてはいない。
世の中には辛い料理があるが、たぶんこのわさびが辛さの王様である。



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自己満足のすすめ

2010-10-27 | Weblog
オリーヴには中年が多く在籍している。その中年をどこで区切るかは難しいが、35歳ぐらいを基準に中年とするならば約3割以上の人が中年となるのがうちのクラブである。
まずこのボクシングをはじめたきっかけであるが、若いうちは強くなりたいとか、うまくなって目立ってやりたいと言う気持ちが十分にあって、ボクシングと言うスポーツを選んだと思うが、しかしここにいるほとんどの人は仕事を持っているので、どちらかというよりも、オンとオフの切り替えでここに来て練習でストレスを発散している。

しかしよくうまくなりたいとか強くなりたいと言うことを言うが、しかし一体何と比較してそう言えるのだろうか?
おそらく若い時ならば漠然としたものを自分の目の前においてそう言えるのだろうが、しかし仕事を持った社会人ならばそうは言えない、それなりのやり方と楽しみ方があるのだ。
私はよく人に自己満足をすすめているのだが、この自己満足ということが、競技を続けて行くことにあたって非常に重要なことだと思っている。
うまくなりたいとか、強くなりたいと言う願望は、結局人と比較することでしか満足感をを達成できない、そしてたとえその目的をある程度達成させてもまたさらに人と比較してしまう。
しかしその達成感を人との比較ではなく、自分のうちに見出そうとするならば、競技自体ももっと楽しんでできるであろう。しかしこのことは意外と難しく一生懸命やればやるほど、人と比較することでしか達成感を得ることができなくなってしまうのである。
ちなみに私はこちらにかえってきた時には、もうボクシングなどやるきなんてさらさらなかった。
おそらく今で言う健康維持やちょっとした大会に出て満足感をおぼえることができなかったからだと思うが、今考えれば趣味や遊びでボクシングを競技すると言うことができなかったのだと思っている。

しかし自己満足と言うことは大事なことだ、私が実際ボクシングクラブをはじめてわかったことは、そういう自己満足指数が高い人のほうが、失敗にもめげず、楽しくボクシングを続けられていると言うことであり、そしてその人たちに聞いてわかることだが、仕事の効率も上がったそうであるが、やはり仕事をしながらスポーツを楽しく続ける秘訣はこの自己満足と言うか、幸福感を感じることと深くかかわっているということである。

ここには何人かある大会で優勝した人間がいるが、観察していてわかることだがみんな非常に楽天的である。
ある練習生なんかは、その前何回か試合に出ているのだが、彼は最初の試合でたてつづけに2回負けている。
そしてその負け方が非常に負けっぷりがよく、2回ともほとんど汗をかかずに負けてしまったのだが、たぶん若い時代の私ならば、かなりなやんでいたと思う、しかし彼は2回目に負けた時などは、一人焼き肉に行ったらしく、そのことを暴露されてオリーヴ人たちだけではなく、ラッキーの人たちにも一人焼き肉いったんですかとネタにされていたが、こういう失敗をもろともせず、そのことはそのことと半分開き直って頭の中をリセットできることは、私のようにテンポラリーにではなく、本当の意味でこのスポーツを楽しんで競技できているからである。
さらに負けたら負けたで、次は優勝などと勢いに任せて言わず、まずは1勝というところも、人がどうかということよりも、人とは争わず、ただ純粋に自分の幸福感を得るという姿がうかがえるのだが、彼を見ていてわかることは練習でもなんでも非常に感動しやすく楽天的で、幸福感と言うか満足指数が高いと言うことであるが、そうだからこそ一度や二度の失敗にもめげず、こうしてボクシングを続けて、大会にでて優勝できたのだと思う。

最近うちのおっさん連中がリングシューズを買いだした。
身体能力では若い人にまけるから、まずかたちからということで買いだしたのだが、いろいろとどのリングシューズがいいかという情報をまわりから集めたところ、ミズノがいいということで何人かの人がミズノのリングシューズを買った。そしてそのシューズを実際リングではいて「うわっこんなにフィット感が違うのか、練習の効率が違う」などと感動していた。
普通だったらもう少しうまくなってからリングシューズを買うのだが、しかし「実際リングシューズをはけば何となくうまくなったような気がする」というようなことを言ってその気になっていたが、自己満足というのは、我々趣味でボクシングをはじめる人からしてみたら大事なことで、こういう小さい感動と言うか満足できるということは、ボクシングと言う激しいスポーツを楽しく続けて行く上では非常に大事なことだと思っている。

むかしあるジムにスパーリングに行ったことがある。
私が相手をしたのは西日本の新人王の選手で、何月かはおぼえていないが西と東で対戦する新人王戦があるので、ぜひスパーリングの相手をしてくれということで、そのジムに行ってあげたことがある。
しかし行って思ったことは、そのジムは暗い、まわりの人間も何とかランカーとかいうが、苦虫をかみつぶしたような顔で、幸福感などまったく見られず、こいつら本当に生きてて楽しいのかとさえ思ったぐらいであったのだが、しかし後に考えて見れば自分が競技しているのは米国だと言え、自分も五十歩百歩で、自分も彼らと同じように追い詰められたような気持で、競技していたと思うのだ。
幸福であることとか満足であることと言うのは、自分のうちにしか見出すことができない。しかしもし自分が他の競技者や大会などをもちだしてそれと比較してしまっては、本当にそれを発見することは難しいことであろう。
本当の自分の満足感とは何だろうか。たぶんその発見は自分の日常のちょっとした満足や幸福感からはじまるのだろう。
おそらくこれを見出すことができる人間が本当の勝利者だ、世界の大会で優勝しようが地区大会で優勝しようが、どう満足するかは自分であるからである。








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右でシャドウせいや

2010-10-25 | Weblog
土曜日の親睦会はたいへん盛り上がった。
今回はほとんどが入会して半年未満の参加であったが、それでも結構盛り上がり、話によると二次会まで行ったらしい。
今回の親睦会は、ほとんどの人が今回初顔合わせというわけであったが、しかし今回参加の仕方ひとつを見ても、誰々がいるからとか、仲良くしてもらっているジムのメンバーだからというような意識はなく、自分が興味をおぼえたからまわりと関係なく来たのだろう。
このことからもわかるように、ここには自分で決断できるしっかりした人が多い、まわりに流されることなく自分のことは自分で決める所謂成熟した大人が多いと思っているのだが、これこそがオリーヴの会員の特徴だと思っている。

さてその親睦会である人がこういうことを言っていた。
横でその話を聞いていたが、なんでも私が考える戦略はすごい、実にアメリカ的であるというのだが、彼によるとある試合会場で、試合前はその敷地内でアップをするのだが、そのアップのシャドウをする時に、彼は本来は左であるが、いきなり「右でシャドウせいや」と言ったそうだ。
実際その時は自分がここでやったらいいと場所を決めたのだが、実はその場所は相手のすぐそばで、相手が見えるところであたかもオーソドックスのようにシャドウをしたのである。
本人は言われるままに何とか必死で、右でシャドウし、いざ試合へ、そして彼はその試合は勝ったのだが、その後試合が終わって、相手と話をした時に「ずっと左だとは思いませんでしたよ」と言われわそうであるが、おそらく彼がサウスポーだとわかったのは、試合の後半か終わってからで、あれだけ堂々とシャドウを右でやったのだから、ひょっとしたら相手のセコンドも気づいていなかったのではと思っている。
この話を聞いて全員爆笑していたのだが、ある人に言わせればこういう発想は、日本人だとありえないらしく、他にもやらなかったが、いろいろと作戦があって、中にはあまりに大胆なのでできなかったのもいくつかあるが、しかしこういう日本人離れしたやりかたが私の魅力であるそうだ。
(しかしこんなことを言うと、あいつはとんでもない奴だとか、ボクシングをなめていると言うのもいるだろうが、そういう奴に他のもっとえぐい戦略を教えてあげたいものである。)

しかしこれだけではない、一応いろいろと試合前は研究している。
たとえば相手が空手や日本拳法をやっていたら、それなりにそのヴィデオを見てくせを見抜こうとする。
たとえばある武道は構え自体が後ろに体重を持ってくるので、前足が伸びて接近戦がやりにくいので、なるべく前に行ってボディからのコンビネーションをうたせるのだが、その人間がその武道を長くやれば長くやるほどそのくせは顕著に現れるのだが、特に日本人は基本と言う言葉が好きなので、そういうくせはだめだと考えてアドヴァンテージにしようとしないので、こういう武道はここがこうだというパターン化は測れる。
なぜこういうことをするかというと、うちの選手はオウンペースを持っていて、練習もする人はするが、できない人はできないで、そのほとんどが仕事と両立させているからである。
だからせめて勝たせるために、いろいろと考えるのだが、わかりやすく、手っ取り早く伝えるのがこういう大まかな戦略だと理解している。

最後に勘違いのないように言っておくが、うちの選手は練習しないのではない。
試合が決まると一生懸命やるのだが、しかし時間がないのと年齢が問題で、その分違う何かで補う必要があると言うことだ。

次回は「自己満足のすすめ」

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お家芸

2010-10-22 | Weblog
昔ある先生に心理学のカウンセラーのような、コースを勧められたことがある。
その先生によると私は分析力がすぐれているそうで、ひょっとしたら犯罪心理学などを学べば、かなりものになるような気がしたようで、そのとっかかりとしてそういう勉強をすすめたそうだ。
時々私自身人からその分析力をかわれて相談されることがある。
だいたい相談してくるのは自立した人間が多いのだが、おそらくそれは同情されるよりも客観的な意見を求めているからであり、私は同情や情ではなく、はっきりと物事を言うので、いろいろと話してくるのだと思っている。

しかし自負して言うが、自分の分析力はもともと心理学を専攻していたからというわけではない。
これにはボクシングと深くかかわっている。
少し前に、もと野球部員だった人間に、最小の努力で最大の実力を発揮すると言うようなことが、むこうのモットーで我々のコーチはそういうことを常に考え目標にしていたというようなことを言ったら、そんなこと日本で言ったら間違いなく怒られると言うようなことを言っていたが、しかし身体能力の違いを感じたらそんなことを言ってはいられない、私が競技したところはUSAで、ボクシング一つにしても、それだけのスポーツをやっているというわけではなく、いろいろとスポーツを経験していて、たまにキャリアはかなり浅いのにすごくうまいのがいたが、その身体能力が高いことにはかなりおどろかされたのだが、みんなが同じスポーツをひとつだけやっているわけではなく、いろいろなところから集まってくるので、とにかく身体能力の高い選手が多いのだ。
とにかく体力やテクニックで勝てないならば知力で勝つしかない、そう思った私は徹底的に相手のことを分析し始めたのだが、分析力が養われたのはこういうところによる。

しかし分析するとは言っても、それは何もテクニックと言うことだけではない。
まず考えたのが相手が何を考え、どういう民族なのかということである。
意外と相手が何を考え、どういう民族かと言うことがわかれば攻略が見えてくる。
たぶん日本でこういうことを言えば、それは抽象的にしか聞こえないが、しかしむこうは日本のように同じタイプの選手は少なく、それぞれスタイルが違うので、この読みと言うのは大切である。
たとえば、失敗をおそれる民族と、楽天的な民族は違う。当然両者とも練習のやり方が違うのであるが、日本のようにほとんどが同じタイプの選手ならば一生懸命練習をすればそれなりに差が出るのだろうが、しかしそうではない。
私は勝手にそれを法則とリズムの戦いと名付けて、分析したが、日本人は何をするにもかたちを求める、しかし一方、楽天的な民族はもともとボクシングにおいては身体能力が高く、リズムを重要視して攻撃してくるのだが、これを無理にあわせていては結果的に身体能力のおとるわれわれはかなり不利である。
しかしもともと身体能力の高い選手は、攻撃パターンも決まってくる。その攻撃パターンがわかっていても、みごとに食らってしまうのが現実であるが、しかしそれでもこれにあわせていくつかのパターンを考え(たとえばスイッチしてきた時にそれにあわせて、右を合わす練習を徹底的にするというようなこと)徹底的に練習したのである。

さらに日本人であることの利点はある。
他の民族がうち方が荒いのに対して、日本人はコンパクトにパンチをうてるが、これはある意味日本人のひとつの芸のようなものだといってもいいであろう。コンパクトにうてるぶんたとえ相手のスピードが速く、パンチが強かっても相手よりも速く何発ものパンチをまとめてうつことができると考えた。
そう言えば昔K1にムサシとかいう選手がいてまさに彼はその利点を生かしていたが、しかし日本人がその身体能力の壁を乗り越えて相手に勝つためには、相手を研究し、利点を生かすしかないと思っているが、まさにそのことが求められたのである。
私はそれほど強くはなかったが、考え知力を磨くことで、これぐらいの才能と根性にしては、自分の最大限の力を発揮できたと思っている。
しかしこれらのことは結果論的ではあるが、ただボクシングだけのことを考えていたからこういう結果がでてきたことではない、いろんな書物を読み、分析したから結果としてでてきた答えであるが、特にアスリート時代に難しい本を読んで勉強することは、その戦略を練る上でも大事なことであり、特にクラウゼビッツや孫子などは読む必要はあるだろう。




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ウリナラかそれとも

2010-10-20 | Weblog
留学時代にKoreanのコミニュティーでお世話になったことがあるのだが、そこにファーブルと言う男がいた。この男は私よりも一つ上で、虫の研究をしていたので彼のことを陰でファーブルと言っていた。
その男とわたしは微妙な関係で、時々彼に飲みに来いと言われて彼のところに遊びに行ったのであるが、しかし日ごろ先輩を先輩とも思わない私の態度をよく思っていないのだろうか、行くと必ず説教じみたことを言われた。

一度彼は私の試合に来たことがある。それを見た彼が偉そうにこういうことを言ってきた。
それまでは話を聞いて、ああいう奴と戦うなんて、お前勇気があるなと言っていたくせに、私が彼よりも年下だとわかると途端に態度を変え偉そうにふるまい、試合の後で何人かとバーガーキングに入った時に言ってきたのだが、それはこうだ「お前の戦い方をみてわかるが、お前の戦い方は逃げ腰だ根性がない。韓国人は走れと言われれば、走り続けるし、なぐれといわれればなぐりつづける。そう死ぬまでだ。そういうガッツを見せて会場をわかせてみろ」という何とも言えない、マフィアさながらの脅し文句であるのだが、しかし実際彼はボクシングどころかスポーツすらまともにしたことがない、むかついたので一言「BUY YOUR TICET(まず切符を買え)」と言ってやったが、しかしそれを聞いてキョトンとしていたのだが、そういう立場で臆面もなくこういうことを言えるところがすごい。

さらに彼は「お前はウリナラの人間か、それともイルボンの人間か」と聞くのだが、ウリナラとは直訳すれば我々の国ということで、彼ら彼女らがよく使う言葉であるのだが、しかしもし私がウリナラというとどうなのだろうか?
ウリナラというのは当然私から見たら日本なのだが、そういう矛盾に気がつつかずに言い続けるところが、彼の憎めない何かであるのだが、将来大学教授になろうという人間なのだから、こういう矛盾に気づけよと思うのだが、あさはかである。

しかし彼の言う根性がないというのは、強ちでたらめや単に日本人を敵視しているからでてくる言葉ではない。
その当時から日本人は少し弱くなよなよしていて、腰ぬけ扱いされていたことは事実である。
以前日本人の学生達の集まりと言うかパーティが金曜日の夜にあった。
そこはある教会の敷地をかりてそれぞれがコーヒーやケーキなどを持ち寄って、集まる交流会みたいなものであるのだが、なんとそこに呼ばれてもいないのに、アメリカ人が何人か来ていて、しかもこともあろうか女性をナンパしているらしい。
もうここまでくれば完全になめられている。たぶん韓国人だったらこんなことをすればたちまち袋叩きにするのであろうが、私は彼ら彼女らにたまたま呼ばれただけだったのだが、あまりに頭にきたので何か言ってやろうと立ち上がった時に、そこの責任者の人がここは関係者以外は入ってはいけないと言うようなことを言ってくれたので、事なきを得たが、日本人は本当になめられている。

これは私の見解であるが、今こういうグローヴァルな社会でなめられないためには、自己主張が必要だ、日本人は自己主張できないので勝手に他国から解釈されて損をしていることが目立つと思う。
国連だってそうだ、日本はアメリカに次いで大きな分担金を払っているのに、影響力すら見られない、さらにわかりやすい例で言うと、特にスポーツ柔道なんかはそうである。
日本人は主張できないので、国際柔道連盟の理事には日本人の名前は一人もなく、こともろうか他国の人間の主張によってどんどんとルールをかえられ、権威を失われているのだがやはりこれらはわれわれが自己主張できないからだと思う。
今日本人に求められることは、自己主張である。
この自己主張がグローヴァルな見解において、その人の強さ、少なくともアドヴァンテージになるであろう。
そしてその自己主張するためには、まず自分たちがしっかりとしたアイデンティティーを持ち、母国と母国語を学び愛することである。
最近は政治家なんかも自分の国を売り渡すような輩がいるが、しかし本当に自分の国を愛し母国語を大切にしているのならば、そういうことはしないであろう。
おそらく世界で自己主張すると言うことは、まず自分のこの生まれ育った国をぬきにしてはあり得ない。
なぜなら単純なことであるが、われわれはこの国で生きているこの国の国益と言うものをまず第一に考える必要があるからだ。
だから母国語を大切にし学ぶと言うことは、自分たちのアイデンティティを確立させるために大事なことである。

あるカナダ系の日韓ハーフが日本は世界で一番素晴らしく、きれいな国だと言っていたが、この国はわれわれが思っている以上に他の国から見れば素晴らしい国である。
私は右寄りの人間ではない、一般論を言っているだけであるが、しかしこの国に生きていることを感謝しているし、これからもこの国で日本人として誇りをもって生きたいと思っている。


最後にこの国は私の父が愛し、私が選び、子供は日本人として生まれて来た国だ。
私は時々子供に、将来日本のために何かができる人間になれと言っている。






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Individualな生き方

2010-10-18 | Weblog
よく自然体という言葉を使うが、この自然体と言う言葉はむずかしい言葉である。
以前私の知り合いのところに3か月ほどヨーロッパ人がホームステイしていたのだが、彼と折り合いがわるくて困っているという、聞いてみると彼は自分勝手な行動はとっていないのだそうだが、しかしあまりありがとうとかというような感謝の反応がなく、まったく家でも話さないのでコミニケーションがとりにくく、その雰囲気と言うか彼の態度にいささかイライラしている様子であった。
まあ他人事として聞くと、こういう問題は、本人ができないのだから「ほっとけ」「仕方がない」と言うことができるのだが、しかしこれは内と外をつかいわけ、家を大事にする日本人からすれば、こういう態度をとられること自体、家族の和をみだすものであって、そういう雰囲気が何カ月も続くと言うことはしんどいことであろうと思う。

結局いろいろなことを話しあって3ヶ月間彼とはやっていったのだが、しかしこれは欧米人と日本人の自然体のとらえかたの違いが色濃く出ている。
欧米人は徹底した「Individual」個人主義である。
他人のことには意に介さず、彼ら彼女らは人がどう思おうが自分のペースを貫こうとするし、そのことを相手もなるべく認めよとするのが欧米社会である。
私も典型的なアジア人であったので、欧米人にはこちらでは考えられないぐらいマイペースな人間がいるので、そういう相手に出会うたびにイライラしていたのだが、彼自身も感謝の言葉を言わない、しゃべらないというのは、そういうことがいいとかわるいとかを抜きにして、彼は家でのペースを保ちくつろいでいるだけで、ただ彼は自然体にふるまっているだけなのである。
しかし日本人と言うかアジア人は少し違う、彼ら彼女らはその家庭においても和、調和というものが求められるのだが、私が思うに、それは往々にして、しっかりした家庭になればなるほど、親は親として子は子としての役割があり、そのことによってわが保たれているように思えるのである。
私はこういう日本の家庭が素晴らしいと思うのは、それぞれが互いに感謝し、たとえ家族通しでも互いに気を遣いあい、ねぎらっている様子である。
以前日本を知らない外国人が、日本人はクリスマスや記念日などをむしする。家族を大切にしないと言うようなことを一般論で言った時に、日本人は常日ごろから家族に気をつかい、感謝しているからあえて記念日なんかをつくってアピールする必要はないんだと言ったが、まさに日本人は外国人が思う以上に家族を思い、大切にしている。
それが家族の和、絆であって、その中で親は親らしく、子は子らしふるまうのがわれわれの自然体である。

私の家庭には毎年何人かの外国からゲストを何ヶ月か招くのだが、観察していて面白いのが、東洋人と西洋人はあきらかにうちの家族に対しての加わり方と言うかかかわり方が違うのである。
東洋人は少し抽象的な言い方だが、位置関係をはっきりさせる。
とういうことかというと家族として、自分はどういう位置にいるかということ。
つまりこの家族の中では、自分はおねえさんなのかおにいさんなのか、はたしておばさんなのかという役割をあてはめて関わっていく能力がすでにすなわっている。
その中で自分は役割を演じ家族の一員として加わっていくのである。
しかし西洋人にはそれがわからない、たぶんそのヨーロッパ人がいらいらされるのは、そういう関係を無視してオウンペースを貫くからで、しかし彼ら彼女らにしてみれば、それが自然体であって、たとえ家族であってもあくまで自分は一個人であるからである。

この自然体と言う言葉であるが、それが目指す方向性によっても違うが、もしわれわれが欧米人のような自然体や個人主義というものを求めているならば、たぶんそれは見当違いで、もし本当にそういう個人個人に自然体を求めるならば、いいかわるいかは別にして、まわりからみればとんでもなくバラバラにみえるわけであって、しかし個人個人がしっかりしていなければできない、所謂自立が必要である。

以前ある人に、オリーブクラブは個性的な人が多いので、それをどうまとめて行くのかと聞かれたことがある。
しかしまとめる必要があるのあろうか。みなさん大人なのでそれぞれの自己責任とコモンセンスでしっかりと運営されていると思うのだが。

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あるフォーラム

2010-10-15 | Weblog
世界経済フォーラムが出した「The Gloval Gender Gap Report 2010」というレポートがある。
これはどういうレポートかと言うと、その国が男女平等度をはかって国ごとにランキングをつけたものである。
上位はフィンランドやノルウエイなどの北欧が占めていたのだが、意外だったのがフィリピンで何と6位にあがっていたが、これは家父長制の強いアジアでは断トツである。
ちなみに日本の順位はというと今回も130位中98位と下位のほうで、先進国としてはなさけない結果であった。

まあ「昔の日本のプライオリティは男、女、サルだった」と言ったら、フェミニズムにどえらいめにあわされたので、それがいきすぎるのもなんであるが、しかし日本はまだまだ女性の見かたをかえる必要はあるだろう。

これはよく言うことであるが、オリーヴに女性は多く在籍しているが、私自身彼女たちといくら親しくなってもちゃんづけでは呼ばない。
なぜ呼ばないかと言うと、まずこれは職場などの公共の場ではセクハラの基準として定められていること。
ここは公共の場であるわけだし、いい大人をつかまえて何々ちゃんと呼ぶのは、相手を子供扱いしているようで、失礼だからである。
ここでは苗字かあるいは外国人とを交えて話している時は、下の名前をYoukoとかAyumiと呼ぶのだが、当たり前だが公共の場でそう呼ぶのは、我々教える立場は平等に接しなくてはならないからで(こういうことを言うと親しみをこめて言っているんだという奴がいるが、しかしだいたいちゃん付けで呼ぶことと、よばないことのどこに親しみを感じる根拠があるのかわからないのだが)公共の場でこういう呼び方をすると呼ばれるものと、呼ばれないものの差がでてくるわけで、こういう呼び方をすること自体不平等であり、こういうことを言うこと自体認識に欠けるのである。

日本は構造的に女性を子供のように扱う傾向があるように思える。
それは特にスポーツ界においても思えるのだが、システムが監督中心の家父長制的であるせいか、このシステムはいささか封建的で従順さがないとやりにくいような気がしている。

だいぶ前ドイツ人の女性(ちなみにドイツは5位であったが)が、なぜ日本人の男性は女性にお酒をつがせようとするのかというようなことを言っていた。
私はこの言葉を聞いて思ったことは、この言葉が意外と日本の男性と女性の関係をあらわしているということだ。
封建的な社会では、お酒をついだり、男性を立てたり、根回しができるような人間が、男性に受けがいい。
言葉がわるいがホステスのような振る舞いが、男性の心をうまくつかみ、人間関係が円滑にできるということが往々にしてあるということで、言葉ではうまく表現できないが、そういうことをまわりが求めているのではないかと思うのだが(こういう役回りをすることで取り入ろうとする人間もいるが、)こういう手段は本当の意味で能力を表すものではないと思っている。

現にこういう振る舞いを本当に優秀な女性に求めても、そんなことはできないだろう。
こんなことは社交性でもなんでもない、封建的なシステムの中でうまくたちまわっているだけで、本当に能力のある人は封建的なシステムにおさまりきらないからである。
 
これ以上はフェミニズムの人に聞いてくれたらいいと思うが、私のよく知っている女性がいるのだが、その女性は有名国立大学をでて企業に入った優秀な人間である。
しかし彼女は企業にはいったのはいいものの何年かしてやめてしまった。
それは職場で女性差別があって、不当な扱いを受けたらしく、それに耐えられなくなって退職したらしいが、退職して彼女は大学院に行き、今では大学で確か助教授になっている。
その彼女が言っていた。「日本の企業では女性に求められるアビリティが違う」本当にそこでは自分の能力を生かせないと思ったそうである。
まあこれはざっと10年前ぐらいの話であるから、今は多少は改善されたと思いたいが、しかし未だにそのフォーラムでは98位である。

私は特にフェミニストを支持する側ではないが、しかし日本人はこのジェンダー差別に対して希薄であり、だいたいこういう雰囲気があるところは往々にして封建的、家父長制的なシステムである。
少し前女性の自立と言う言葉がはやったが、大事なのはそのシステムの中で、自分が一個人としてどう見られているかと言うことである。親しみをこめてちゃんづけで呼ぶのはいいが、しかしそれは仲良しだからのレヴェルで「仲良くやっているからいいんじゃない」ではない、こういう言い方は、まさに女性を「女の子」としてとらえていると言われても仕方がないことであるが、大事なのはその人一個人を尊重することであり、責任者がこのことを学び徹底させることは必要なことだと思っている。

ちなみに外国人にYou cute(あなたかわいいね)というとYou too(あなたもよ)という答えがかえってくることもある。


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アメリカで通用したコメディアン??

2010-10-13 | Weblog
この前英会話のスタッフが、ハロウインパーティを開催したらどうかと言ってきた。
むかしはそれほどでもなかったのだが、最近このハロウインは日本でもイヴェント化されてきたそうで、その時「なぜ日本人がハロウインを祝う必要があるのか?」と言ったのだが、しかしほとんどのサークルがパーティをもっているそうである。
実は私もこのハロウインパーティは何度か経験しているが、その醍醐味は仮装である。
実際親友の台湾人に誘われて学生のハロウインパーティと言うか、仮装パーティに参加したのだが、その仮装は半端じゃない。
そこには女装した男やミイラ男、様々なアニメのキャラクターなどがいて、なんでこんなもんにここまでやるかと思うぐらい仮装に気合いを入れていたのだが、こういう光景は当時日本では見られない光景で斬新であった。
でっ私はそこで何をしたかと言うと「電球」である。
なんじゃそりゃと思われるが、これが仮装の予算のない私とピーターが考えだした苦肉の策で、私が電球で彼がリペアマンというコンビであるのだが、しかしこれが意外にもうけたのである。
その仮装はどういう感じで仮装するのかというと、なんてことはない、まず髪の毛をムースのようなもの(いやひょっとしてセメダインのようなもの)で3本ほど固まるのだが、これが電球の熱を集める部分。
ここで重要なのは3本だ、この3本が重要だとピーターに言うと不思議な顔ををしていたが、なぜ3本かと言うと、この三本はオバQの3で、わけがわからないが我々の絶対数だ。
そしてつなぎのような服を着て、最後にマカダミアナッツかよく水が入っているような透明のかなり大きいプラスティックのボトルをかぶると、電球の出来上がりである。
一見何かよくわからないが、実際、怪訝そうに「Who are you?」と聞かれて「Im light bulb?」と言うと、ああそうかとなって、そこで笑いがとれたのだが、しかし日本人と台湾人がコンビでやっていることと、言い方がぶっきらぼうであったことなど、それが意外にも好評で「Who are you?」と聞かれるたびに、笑いをとることができたのだが、中には爆笑して写真を撮るものもいたのだが、笑いが文化の大阪人としてはたいへん光栄であった。
私とピーターはその仮装パーティーの途中でかえったのだが、噂によるとそのパーティーでは誰の仮装がよかったかというような審査があったそうなのだが、その中で結構私の仮装が面白いと言うことであがっていたそうである。




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感受性をみがけ

2010-10-12 | Weblog
以前英会話教室の女子中学生が、夏休みにカリフォルニアにホームステイに行ったという話をしたが、たいへんいい経験になったらしく来年もまたいくつもりでいる。
彼女とは電話であるが30分ほど話したのだが、とにかくむこうの様子を話しっぱなしで、苦労したことや楽しかったこと、正直最初の1週間はホームシックになってしまいかえりかったそうで、つらいことや楽しいことを経験したが、話の様子からも本当にいい体験をしたようだ。
その話の中で彼女がこういうことを言っていた。
それは「日本を出発する時とかえってくる景色がちがった」と言っていたのだが、たぶんその約2ヶ月間の間にいろいろと向こうでの暮らしに感じさせられることがあったのだろう。そう感じるのは、おそらく彼女がひとまわりもふたまわりも成長したからだと思っている。
サンテクジュペリの代表作「星の王子様」の中にも「大切なものは目では見えない、心で感じるんだ」というようなセリフがあるのだが、感受性を磨けば見えるものはたくさんある。
その感受性を磨き鍛えるためにも、若いうちから知らない土地に行っていろいろな体験をすることは大事なことだ。

うちのクラブにオリンピック候補にあがった選手がいるのだが、彼もまた国際試合や強化合宿などで外国に滞在したことがあるらしく、向こうに行くと練習の仕方や選手の態度など、日本とは全然違うので驚かされたらしく(特に私がよく言う、子飼い(子分))の多い体質はよくわかると言っていたのだが、彼は本当にそこで違う文化に実際肌で触れたのだが、その体験したことは、大学を卒業し社会人になった今でこそ生きてくるそうである。

よく言うが若いうちは感受性を十分に磨かなくてはならないし、貴重な体験をたくさんしなければならない。
そういう意味では違う文化に触れて、そこでいろいろな体験をするということは大事なことである。
この女子中学生ではないが、外国に行くと言葉や文化の壁がある。そこでいろいろと苦労し、体験したことはその人にとって大きいことだろうし、貴重なことである。
確かに外国に行かなくても日本でも同じ体験はできるだろうが、しかしグローバル化された現代社会において、島国である日本はもっともっと一歩前に出て行って、いろいろな言葉や文化に触れ、刺激を受け感受性を磨くことは必要だと思っているのだが、まさにそれはオリンピック候補制の言葉にもあらわれているだろう。

しかし私は最近この日本人の感受性に危機感を感じている。
それはある意味日本人が物事にたいして、敏感と言うよりも単純になりすぎているのではないかという懸念があるということだ。
それは最近よく目にするのが感動的な話と言うか番組であるが、そういう番組が最近やたら多く、視聴率がいいのである。
あるお笑いの司会者が何分間のいい話と言うような番組をよくやっているのだが、それは感動話を3分ぐらいで話すという企画であるが、しかし普通あんなダイジェスト程度のような感動話で目をうるうるさせるだろうか。
司会者もそういう単純な話に目をうるうるさせて話しているのだが、あきらかにこういう番組は人を感動させてやろうと言うことをもくろみにした番組で、感動とは少しそういうこととは違うような気がするのであるが、しかしこういう番組がやたら多く人気があるのである。

たぶんこれは私の考えではあるが、こういう傾向は感動したいと言う刺激は求めるが、考えることはしない、できないということから、こういう自分の刺激を満足させてくれる要素だけを求めた結果であると思っている。
確かに人間はすべてのことがそう複雑ではない、しかし考えてみると安価な感動が多く、多くの人がこの安価な感動を求めているだけで、そういう刺激にふりまわされているように思えて仕方がないのだ。
人間は感動すると言うことは非常に大事なことだが、しかし考えることを抜きにしては、刺激が暴走してしまい、単に感情的になるだけだと思っている。
小説にしてもそうである。今うちの留学生はヘミングウエイを読んでいるのだが、そのヘミングウエイを読んで感動できるのは単に刺激でそれを受け取っているだけではなく、先達たちの残した遺産を、しっかりと考えて読んでいるからである。
私が本を読めと言うのは実にこの点で、小説や哲学書と言うのはまさに先達たちが悩み葛藤したあかしであり、そういう文学や哲学書によって人間は深く考えさせられ、ある種の感動をおぼえるからである。
私はこういう感動は人間を豊かにするものであると信じている。
こういう感動は早送りの感動話では理解できない感動であろう。


特に指導者が知性を持たなければ、本当の意味でいい刺激を与えることはできない。
正直ヘミングウエイやドストエフスキーが、わからない人間に何かを学びたいと思うだろうか。
ある意味感動話ばかりする人間や、たいした根拠もないのに礼儀などと言う人間は、知性にかけると思っているのだが、知性がないから相手の感情にうったえかけたり、礼儀と言う型にはめようとするのだが、道徳や倫理と言うものは普遍的なものである、その倫理や道徳あるいは哲学を自分だけの理解で、矮小化してとどめるから、ステレオタイプの人間いわゆる子飼いを生み出すわけで、これが非常に単純な人間を生み出すことだと懸念している。


外国に行くとわかるが、日本の選手は直結型が多い。直結型と言うのはいい意味で素直、しかし言葉をかえれば愚直である。
それは運動馬鹿と言う言葉で片付けてしまえばそれまでだが、自分の意見をもたない、個性がないと思わされることは、むこうと比較すればよくあることで、おそらくそういう直結型思考は世の中では通用しないと思っている。
日本人は優秀である、しかし大きな欠点は従順すぎると言うことと、その体質、そういう直結型に人間を生み出すのもその指導者の学びにあると思っているのだが、指導者の刺激の与え方や、角度を変えて違う視点から物事を見ることは大事なことである。

半分冗談だがミーティングなどで、人が聞いていることをいいことに、よく俺は俺はと自分の話をする人間がいるが(よくいると思うが)、こういう話を若い人にすることはよくない、だいたいこういう輩は勉強しないから客観的な考えがもてない、だから俺は俺はとなるわけで、今はもうアスリートもアカデミックになっているのだから、せめて人にそういう話をするのなら引用文を3つぐらいは引用してほしいものである。














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一歩前に踏み出す

2010-10-08 | Weblog
ラッキーの佐藤はボクシングの恩人で、私の友人でもあるが、彼によると、昔から私はえらそうなことを言ったり、いたずらをよくしたようで、今思えば結構むちゃなことをやったものだと思う。
前にも書いたが私は有名な元世界チャンピオンをおこらせて、一時は乱闘になるんじゃないかというぐらい騒ぎをおこさせたことがある。
たぶん私の態度が気にくわなかったのだろう、どういうわけかよくわからないが、私のある一言で彼とうちのコーチのあいだにただならぬ緊張感が生まれ、気がつけば何人かがエキサイトしていて、もうほとんど乱闘寸前であった。
その時は温和な人の仲裁とまわりの人間がとめにはいってことなきを得たが、今はそうではないが、私は昔から思ったことは口にするタイプで、いろいろなところで自分の発言や言葉が火種となったのだが、それはここ外国でもかわらぬことで、しばしばそういう体験をしたことをおぼえている。

話は少しかわるが、私のモットーは「一歩前に踏み出す」ということである。
しかしこの「一歩前に踏み出す」と言うのは、勝負しろとか、男はひくなと言うような漫画のような話しではない、むしろ一歩踏み出すというのは、新しい世界に踏み出すと言うことで、それは今で言えばグローバルな視点を持てと言うことである。

ユダヤ人の神話にこういう話がある。
遊牧民族にアブラハムという男がいた。
遊牧民族と言うのは、羊などを飼って生計をたてている民族で、それは土地を持たない民族、国がない民族でもあったのだが、そのアブラハムでが、ある時その遊牧民の生活を捨てて土地を求めて旅立った。
その旅立ちが後にイスラエルを建国するきっかけになったのであるが、彼ら彼女らがそのアブラハムを自分たちの父祖と言っているのはそういう理由からである。

何事も一歩前に進むと言うことはたいへん勇気のいることである。
このアブラハムと言う人物も、当時は砂漠での旅路であったので、その昔から住み慣れたと言うか行動していた場所からそこを離れて出て行くと言うことはたいへん勇気のあったことであった。
がしかしアブラハムは出て言って、結果的にはその子孫がイスラエルと言う国を建国したのであるが、それはすべてこのアブラハムが自分の世界から勇気を出して一歩踏み出したことによる。

私の言う一歩前に出ると言うことは、単純に言えば世界を見ると言うことである。
今やグローバルされた時代の中で、世界的な視野で物事を考え行動することが今の若い人には必要ではないかと思っている。
しかしその一歩前に出て行くことは特に若い人たちにとって困難であり、勇気のいることである。

オリーヴには受験生がきているのだが、時々その進路についていろいろと相談されることがある。
この前もその進学についていろいろと話していたのだが、ある高校生は薬学部に行きたいと言う。
なぜそこに行きたいのかと言うと就職が安定しているからだそうで、我々の時代は薬学部なんてそう人気がなかったのだが、薬剤師が安定した職業だとなるととたんにそこを目指して受験する人間がふえるらしい。
これは堅実でいいことなのかわるいことなのかわからないが、この地点で自分の本当の可能性にたいして否定しているような気がするのだが、まだ十代なのだからもっとやりたいことというか自分の可能性にかけたらどうだろうか。
それに比べて外国の人間は、自分の進路をわるいがそういう矮小化した枠の中でとらえているわけではなく、もっと広くグローバルにとらえている。それはわれわれと受ける刺激が違うだろうか、うちの留学生もそうだが、彼女はアジアで働くと言う目的があってここに来たというのだが、こういう人間はひとりふたりではなく、数多くいて、実際ここ日本に自分の可能性を求めて留学してくる外国人も年々ふえているのではないかと思っている。
そしてそれは自分の国が単に不景気だからということだけではなく、自分の可能性を目指して異国の地に来ているのだと思うのだが、彼女は若干15歳である。

世界は広いそこがだめなら他に働く場所があるし、ここがだめでも自分の才能や可能性を開花できる場所が必ずある。
その場所に行くことは勇気のいることであるが、しかしもしじぶんがここに閉塞感を感じ、だめだと思ったら行くしかない、そのため語学を学ぶのである。
しかし私はここで海外に留学することを勧めているのではない、自分の今置かれている立場や環境から、一歩前に出て考えてみることが必要なことで、そこから実際に見えてくるものがあるということだ。
日本人は優秀な民族である。それは外国にいたら思うことである。
だからこそ特に若いうちは安定だけを求めて堅実に生きることだけではなく、もっと自分の可能性を信じて一歩踏み出して、グローバルな視点から自分の可能性を導き出してほしいと願っている。








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